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原神

 雨林特有の、湿っぽい熱をはらんだ夜だった。俗世が裂けて、空っぽの星の海が覗く。その裂け目からするりと怪物が賢者を名乗る老人の前へあらわれた。
「こんばんは、大賢者さま」
 淵上と名乗る怪物は、笑みを含んだ声色と共に賢者を見下ろす。この国で最も尊敬されるはずの字を呼ぶ声は、むしろゆらめく炎のように軽薄であり、嘲笑を含むようにすら聞こえた。
「淵下宮へ行ったと聞いていたが」
「するべきことはしたぞ」
「貴様がすることだけをした試しがあるか」
「お前こそ役目がどうだこうだとつまらん塔の中にずっと籠もって、もしやはりぼての身体に引き摺られて歩けなくなったのか? 御老体」
「話を逸らすな」
 こんな風に淵上は話をずらしにずらしてひとを疲弊させ、それを眺める悪い趣味があった。今だって、龍のフリルのように歪な仮面の向こうで喜悦の笑みを浮かべているに違いない。
「ところで人間の皮を被ってくれないか。その姿はここでは見ているだけで嫌になる」
「ふむ、よりによってお前が俺の姿が見るに堪えないというのか? ならお前だって同じように醜い化物だな」
「だからいつも話を逸らすなと言っている。貴様は己が何度その姿で文献を燃やしたのか覚えていないのか?」
「……」
 淵上は壁一面の蔵書を見て、不服そうにため息をついた後、大仰に指を鳴らした。そうすると装身具は燃え尽きて灰色の着流しに変わっていく。仮面の下からは眼鏡をかけた黒髪の男があらわれ、彼のマスタード色をした異形のうつくしい指は、なめらかで無力な人間のものに変わった。雨林と砂漠の国で海の向こうの異郷の服を着ていること以外は、まったく変わったところのない凡庸な男の姿だった。
「しかしな、凡人ごときが集めた紙切れなんぞ、燃えてしまったところで大した損失にならんだろう」
「貴様の価値観は相変わらず狂っている」
「よく言われるんだ」
 風は、神の寝息のようにおだやかで、みずみずしい青のにおいがした。淵上は揺れる髪の向こうで薄ら笑いを浮かべ、誰の意思も介在しない夜風すら淵上の演劇ぶったふざけた態度に迎合するようだった。
「神の創りたもうた楽園」
「ああ」
「皮肉だな」
「どれが」
「なにもかも」
 深意があるように見えてその実言葉のサラダ、無価値なやりとり。淵上はなにかを期待しているように見えた。間違いなく、賢者に期待していた。人を騙くらかして虚仮にするのを好むくせに、台詞も演技もわざとらしい三流役者だった。端役だった。賢者は見え透いた薄っぺらい展開が苛立たしかった。しかし手のひらの上に乗って、聞かなければならなかった。
「貴様がここへ来た理由をまだ聞いていない」
 淵上は得意げに鼻を鳴らして、くるり踵を返して書架を通り過ぎる。賢者の眼前から消えて、そしてまた視界の端からぐるり回り込んできた。不遜だった。つねにこんな調子であるから、淵上が名誉への野心を持たなかったのは、彼の人生のひとつのさいわいであるように賢者には思えた。
「知りたいか?」
「貴様のそのくどい言い回しにはもう飽いた」
「つれないやつだな」
「日月より前がどうとか言っていたが、それはもういいのか」
「どうでもよくない。が、淵下宮にはもう用はない。光も届かなくなるほどの深淵まで落ちて見てきたが、終わりしかない常夜と、無価値な紙切れと、かびくさい廃墟しかなかった」
「落ちて……自殺まがいのことまでしてきたのか」
「どこが自殺だ。ぶつかる地面がない。転移の網に繋がれば簡単に帰ってこられるじゃないか」
 だとしても、まともさを残した人間なら底なしの闇へ自ら落ちたりはしない。淵上は好奇心に憑かれた狂人だった。
 過去という名のついた壁の模様をじっと眺めていた狂人がふと振り向いてここまでやってきたのだ。
「ここに来た理由」
「そうだ」
 淵上は机上に腰掛け賢者を見下ろす。下敷きになった紙切れがぐしゃと音を立てて破れつぶれる。かつんと下駄が机の脚とぶつかって音楽にもならない。とびきりの見せ場が始まる。イミテーションの肉体、舞台は幻覚。理性ある賢者にはなにも見えない。
 くすんだ金色の昏い目を細めて、淵上はささめいた。
「勇者の旅路を見届けにきたんだ」
 初恋のようなはにかみとともに妄言が吐き出される。勇者。賢者からして、世界は正義の裏も正義であり、絶対的な英雄とは非論理的であり、勇者は幼稚な空想の中にしか存在しない。なのに! この男はまったくのしらふで、吐き気がする非現実をのたまうのだ。
「……勇者」
「ああ。深淵から血死珊瑚を持ち帰り、海祇の滅びを阻止した勇者だ。そして海祇の民を自称する虚界の化物を退治した勇者だ。もうじきこの国へやってくる」
 金の髪の勇者が成した愚行を(淵上は大げさなくらい英雄的に語るが、勇者のしていることは虚界の計画の阻止なのだから、賢者からすればまちがいなく愚行だ)淵上は滔々と語りだす。主役はここにはいない。活動弁士は悪役。なんて独りよがりな上演。
「ばかげている」
「光のようにおっかなくて、綿のように残酷なやつだ。斯様な者を勇者と呼ばずしてどうする?」
 それをただの殺戮者と、呼ぶのだ。賢者はそうは言えなかった。剣を持ち、ちいさな妖精を連れた、金髪の少年。淵上が勇者と祀り上げる凡人が、故国にとって最も尊き方の片割れである可能性に行き着いてしまったからだ。
「そうだろう、大賢者さま」
 淵上はなにも知らない。
 おそらくどうでもいいとすら思っている。王族も、真実も、未来も。淵上の好奇心に触れられない限り、あらゆるものは彼の世界を透明になって通り抜けていくのだ。たとえ『勇者』が殿下のはらからだと知っていても、淵上はなにもためらわずここに来ただろう。
 触れたら最後、淵上が過去へ向けていた妄執を一身に受けるはめになるのだ。
「貴様に魅入られた奴が哀れだな」
「可哀想なのは俺だ」
 非力な学者相手に力で圧倒して、ついでに利き腕を躊躇なくやったんだぞ、と傷ひとつない腕をさすって淵上は訴える。こういう彼の人間的な仕草が、賢者は気に入らなかった。
「しかし、それはここを訪ねてきた理由にはならないぞ」
「いや、そうでもないんだ。さしあたっては大賢者さまに俺の教令院永久追放を撤廃していただきたく」
 淵上の申し出に、賢者は、自分のはりぼての顔の筋肉がこわばるのを感じた。舌打ちをしたかもしれない。
「勇者は……空は、あいつは、必ず図書館へ来る。俺と同じ目をしていた。隠された真相を求める目だ」
「会ってどうする。復讐でもするのか」
「そんな物騒なことはしないし考えてもいない。それにもう会うことはない」
「ではなぜ」
「史料という餌をやって、糸を引いて、俺の望む結末へ連れて行って、…………いちばんの見せ場で全部ふいにしてやりたい」
 そして俺は特等席で、お人好しで間抜けな勇者を笑ってやるのだ。
 それが面白い、と信じて疑わない顔だった。そんなことのために知恵をぜんぶ無駄に使ったとてひとつの後悔もしないのだろう。たとえ失敗しても。そういうところだけ学者らしかった。
「……数百年前、誰が西風騎士団の蔵書の大半を焼いたか覚えているか」
「ふむ」
「貴様だ。そんな狼藉者を図書館に入れるわけがないだろう。むしろ、生きてこの国にいられることを感謝したほうがいい」
「そうか。残念だ」
 淵上は意外にもあっさり手を引いた。
「駄々をこねたって無意味だろう。最も知恵ある唱導師に、ただの学者が敵うはずがないからな」
淵上は大げさにため息をついて、机から飛び降りた。
「うん。そうならもうお前に用はない」
「……こちらも、二度と貴様の顔を見たくない」
「ふふ、俺は案外そうでもないな」
 ただの夜の屋内にかげろうが揺らめいて、淵上と呼ばれたひとがたが真実の姿を取り戻した。そして「じゃあな」と、ここへやってきたときと逆の手順を辿り、世界に満ちる虚に希釈する。かと思えばふと賢者を見て、ばけものが笑った。
「俺はやりたいことをやるだけだ」
 淵上とともに深淵の星々がほんの一瞬きらめいて、あとにはぬるい夜風だけが残された。空には偽物の星が揺れて、まるい月が賢者へもまなざしを送っていた。花神誕日があと数週間に迫っていたが、相変わらず静かな夜だった。
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