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文アル

 落花した金木犀が濡れたアスファルトを彩っていた。夜風は悪さを咎めるように冷たかった。
 踏切が直木の顔を赤く照らしている。電車が通り過ぎ、周囲が一瞬ほの明るくなり、また暗くなった。遮断器が上がった。
 直木は子供のようにレジ袋とバケツを振り回しながら踏切を渡る。菊池はポケットの中でライターを握り直し、その後を追った。


 それは不思議なことに家出のような背徳感と寝不足のような浮遊感が二人を支配していたが、実際はたった二人で花火をやりに行くだけだった。
 だから共犯者ではない、と菊池は考える。なぜなら今の二人に、何かに抗ったり背いたり破壊してやろうなんて気持ちは一切ないから。
 普通の人間ではない身体とはいえ、子供でもないのだから夜好き勝手に出歩くことくらい何でもない。それに、直木の袋の中に入っでいる花火だってそうだ。図書館の敷地内では禁止だと言われたから、二人はこうやってわざわざ公園へ向かっている。
 しかし、脳内でどれだけ理性的な答えが出ても感情は感情だった。夜は秘密と犯罪のための時間だから。

 図書館から徒歩十分ほどの小さな公園は、陽が落ちて静まり返っていた。まだ八時にもなってない。夏が終わってからずいぶん経つので、当然花火をやりに来る子供もいなかった。
 直木が花火の包装をクリスマスの朝のように開け始めたので、菊池はこのままだと忘れ置かれかねないバケツに水を入れた。バケツの中にできた黒々とした水たまりが菊池を覗き込んだ。
「アンタは……」
「あ?」
「他の奴も誘おうと考えなかったのか」
 直木は人がいるのが好きな奴だ、そう菊池は覚えていたし、図書館での直木もそうだった。今の直木の振る舞い方は一見あの時とはずいぶんと変わってしまったように思えるが、実際そうでないことを菊池は知っている。
「二人きりで使い切れるかよ、こんなに」
 菊池は手持ち花火を見た。妙に重くてしみったれた空気の間で、騒がしい花火のパッケージは祭りの後のように空虚だった。
「なんでもええやろ」
「なんで関西弁なんだよ」
 どちらともなくため息がこぼれた。直木の墨色羽織が暗がりからぼんやりと浮き上がっている。
「……だってよォ、久米らへんはどうせ酔っ払っててめんどくさいし、吉川はすぐ寝るからつまんねーし、新感覚は横光に今日怒られたから呼んでやらない。ていうかこんなこと喋っててもしょうがないしさっさとやろうぜ」
 直木は自分の身辺を探すまでもなく菊池に手を差し出す。「ヒロシ、ライター」
「はいはい」
菊池はポッケから取り出したライターを投げ渡し、対価のように花火を持たされた。直木はしゃがみこみ、それに直接火をつけようと。
 菊池は思わず小さく声を上げた。もし直木が顔を上げるより早く火が火薬に到達した時、何が起こるかは想像に難くない。
 しかしそれは菊池が声を荒げる隙もない一瞬のことで、花火はすすきのように噴き出した。そして、上げられた直木の顔には傷も痛みもない。菊池は怒鳴ろうとして、考え直し、代わりにため息をついた。それで直木は菊池が何を言いたかったかおおむね理解して「だってしょうがないぜ、ろうそく忘れたんだから」
 直木は袋からもう一本取り出して、菊池が返しそこねた花火から火を貰った。直木の持つ花火にはたちまち火がついて、火花はばちばちとはじけた。
「こっちは線香花火に似てんな」
 確かに、火花が散るさまはよく似ていた。しかし線香花火にたとえるにはそれは少々派手で、爆裂的で、うるさかった。
 これだけ花火が騒がしければ直木も多少は大人しくなるだろうかと菊池は思ったが、そうやって眺めているだけでは飽きたりないのが直木だった。花火を握るように持ち直して、傘のように振り回しだす。
「あっ、おい危ないだろう!」
「ヒロシは心配症だな、こんなの馬鹿じゃなけりゃかすり傷にだってならねえさ」
 喜々として怪我をしかねない行動をするのは馬鹿なことではなかろうか、喉元まで出かかったそれをまた菊池はぐっと飲み込んだ。直木のことだから、言っても意味がないと思って。だからいつの間にか終わった花火を引っ提げてぼんやりと見ていた。
 煙を吹き出してぎらぎらと輝く花火はともすれば悪趣味で、直木の姿を何色ともつかない光で照らしてチープな世界観を作り上げていた。それを映画のようだと菊池は思った。きっと直木は、撮られるよりも撮るほうが好きだろうが、とも。
 しかし、花火は呆気なく蝉のような音を出して燃え尽きた。
「あー、終わっちまった」
 直木はまるで何もなかったかのように燃え尽きた花火をバケツの中へ放り込む。花火は小気味いい音を立てて水に沈んだ。


 そうやっていくつもの花火が寒さの中で灰になっていった。
 直木は、最初は楽しそうにしてたものの段々つまらなさそうになってきて、十本を越したあたりでとうとう飽きてしまった。
「やっぱ使い切れねえわこれ」
 菊池の予想通りだった。だから使い切れるのか、と言ったのだ。
「まあ……使い切らなきゃならないわけでもないし、次の夏まで放っとけばいいじゃないか」
「あー、ま、そうすっかねえ……」
 そう言いながら惰性で花火を一本取り出してライターで火を着け、ふとそれが誰のものだったか思い出したらしく菊池に手渡した。
「返すぜ」
 菊池ももう退屈で上の空だったので、「ああ」とか生返事をして受け取った。花火に照らされたライターは冷ややかに感じられた。直木の手は人よりも冷たい。

 退屈まぎれかふと、明日の天気でも聞くような口調で直木が聞いた。
「なあヒロシ、またシャチョーやんないのか?」
「やらんよ、今は」
「ふーん、今はね」突然直木の悪だくみと好奇心を抱いた目が爛々と輝く。
「雑誌をやるんだろ。今やってる同人誌よりもっとでかいのを。そしたらまたオレが書いてやるよ、ゴシップ記事も小説も広告もなんでも。そんでさ、世間様をオマエとオレの好きなように引っ掻き回してやろうぜ」
 花火はいっそう燃えさかり、色の変わる煙が目に痛い。退屈さに間延びした声色で世界征服まがいを謳うさまは、誰に見せても冗談にしか見えない。実際、半分くらいは冗談だろう。菊池だってわかっていた。……そうだとわかっていても、悪い誘いではなかった。
 見てみたかった。直木の文章があらゆるすべてを火薬にしてぎらぎら輝くのを。それは美しくはないが、炎のように誰もを惹き付けるだろう。
「……なんて、できっかな。できたらいいよな」
 しかし直木は上を仰ぎ見て、芝居がかったふうに目を閉じた。そうすれば直木の表情は菊池から見えなかった。
 直木の感傷は彼らの生きている意味を考えてみればごく自然なことだった。その肉体は戦うために用意されて、魂はそれを承知した上で転成したから。
「つまんねえな」
 直木の低く冷えた声が、誰に向けられたものなのかは不明瞭だった。そして気が抜けたようなため息をついた。
「あー……寒ぃな。汁粉食いてえ」
 直木の矛盾に満ちたように見えた言葉のすべてがきっと本音だったし、心の底からの振る舞いだった。くだらない独り言で『らしくない』感傷と冗談の境界をあやふやにしようとしたことすらも。
 菊池はそれをわかっていたが、安易な慰めは言いたくなかった。しかし普段のふざけた様子からはかけ離れて、あからさまに痛みを顕にした直木に、何か言葉をかけたかった。
 同情や哀れみではない、ましてや嘘でもないものを一つ。この友にかけたい言葉を一つだけ、菊池は持っていた。

「直木、雑誌をやろう」
 花火の燃え尽きようとする音だけが激しく、赤だか緑だかの光に彩られた空間は暗闇からぽっかりと浮かんでいるようだった。
「……会社を興して、今やってる雑誌よりもずっと大規模なものを」
 花火が直木の見開かれた瞳の中できらめいていた。半開きになった口が何かを言おうとしていた。花火がとうとう消えたが、空気はまだ焼けるように熱かった。
「オマエさあ、そんなことをでまかせみたいに言うべきじゃないってわかってるだろ」
「でまかせなんかじゃなないさ」
「そんくらいオレもわかってるけど」
 そうならないからタチが悪いんだよ。と続いた。
 もちろん『でまかせなんか』ではなかった。菊池も直木の言うような計画を密かに立てていた。むしろそうしていないはずがなかった。小説とは、不道徳や不真面目の類義語だったのだから。
 だとしても、この瞬間菊池は、直木のために空論を本当にすると口にした。約束した。
「たった一人の感傷に流されてあんなこと言っちまうなんて、ほんと馬鹿だよオマエは」
「ああ、この際馬鹿でもいい」
 そう言いながら、(これは共犯者だろうか。)そんな戯言が菊池の頭をよぎった。プライドも道徳も規則もすべてこの計画では無意味に壊されるから。しかし、何かを壊したかったから一緒にいたわけではない。目的のために共犯になるんじゃない。
「それにな。別に、アンタのためだけじゃない。むしろ俺のためでもある」
「は?」
「見たいんだ、アンタの小説や記事が世界を引っかき回すのを」
 それはまるで、目的と手段が逆さになったような答えだった。
 直木は虚を突かれたような顔をして、現実を疑うようにまばたきを数度繰り返す。そして落ち着いたかと思えば、悪童のようににやついて。
「そんな殺し文句で口説かれちゃしょうがねえな」
 なんて宣った。本心と嘘をないまぜにしてわざとらしい脚色を加えて喋る、いつものひねくれ者がいた。
 しかし直木は一瞬目を伏せて、菊池がそれをはっきりと認める前にくるりと背を向けた。
 そして、暗い夜の寒々しい空気だけが取り残された。直木の姿勢の悪い背中がいやに小さく寂しげだった、菊池にはそう見えた。
 直木が暗がりの向こうで曖昧に喋った。菊池は聞き返そうと思ったが、その前に何かをかき消すように直木がやけのように声を張り上げる。
「それにさ、なによりシャチョーがやるって言うんなら、オレはなんだって書いてやるぜ」
 だってオマエは、オレの、そう言いかけて直木はどもった。意味もなく砂を蹴って、電柱の並ぶ空を睨んだ。柄にもなく照れたようにうつむいてはにかむので、菊池まで気恥ずかしくなってしまい目をそらしそうになった。
 そして、花火が上がったように直木は菊池の方を向き、ぱっと笑った。
「だってヒロシといるのがいちばん面白いからな!」
 二人で花火をしたかったのは共犯者だからではない。そんなつまらない理由じゃない。
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