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原神

「小説家にでもなればいいんじゃないの」
 それか講談師とか。タルタリヤは鍾離にそう言って、顔を上げた。昼どきの賑わうチ虎岩の、茶屋の屋外席で二人の視線が合った。
「うん?」
「俺も往生堂もとうとう居なくなって金に困ったらさ、そうやって食い扶持を稼げばって言ってるの」
 タルタリヤは少し芝居めいた強い語気で言った。彼は先ほど、二人分の昼食代を全額払ったところだった。
 息をするのと金があるのが同じだと思っているように生きている鍾離は、当然今日も財布を持っていなかった。近く稲妻へ飛ばされる予定のタルタリヤが「俺が居なくなったら先生はどうするつもり」と嘆息した。鍾離は「さあ、どうしたものか。少し困るな」といつも通りの調子で言った。北国銀行という便利な財布の持ち主がここを去った後、万が一にも往生堂が潰れるか解雇にでもなったら一体どうなるか。タルタリヤはまっとうな金銭感覚を鍾離に覚えてほしいと思ったが、凡人らしく金勘定する鍾離の姿はまったく想像できなかった。そんな話をしていた。
「悪くないだろ?」
「そもそもなぜ小説家なんだ」
「先生の知識は璃月……いや、テイワット随一なのは事実。それを基に小説を書いたらきっと売れる。天職だと思うけど」
「そうだろうか」
「少なくとも仙人の葬儀しか請け負わない稼業人よりは稼げると思うよ」
 タルタリヤは皮肉を込めて鍾離に視線を送った。鍾離は眉を少ししかめた。
「確かに俺は本当の目的と素性を隠して公子殿に関わり、ことが首尾よく運ぶよう立ち回ってもらった。しかし公子殿は執行官の立場と禁忌滅却の札を利用して仙祖の亡骸に手をつけ、璃月港を混乱におとしいれようと渦の魔神を呼び起こした。互いが利のあるように行動しただけだと思うが」
 鍾離は水が流れるように、あるいは条文を暗唱するように言った。タルタリヤは怪訝そうに瞑目し、顎に手を当て考え込んだが、少しして「いや、待った」と言い放った。
「それを抜きにしても俺はいっぱい先生に貸してると思うけど」
「ふむ、そうだな。すべて列挙してまとめてくれ。その貸しの数にふさわしい契約を話し合おう」
「老獪だなあ……」
「さて、なんのことだか」
 とぼけるふりをした鍾離の愉快そうな声が、タルタリヤにため息の白旗を挙げさせた。
「まあいいや。それで、話は戻るけど」
 タルタリヤがそう言うと、その面持ちはスネージナヤの使節から、ただの青年になった。
「やっぱりさ、講談師も悪くないと思うんだよね。いつも聞いてるし。……いや、役者も捨てがたい。先生が舞台に立ってるところを一度見てみたいな」
 絵師。料理人。骨董屋。歴史学者。タルタリヤは市井を駆け回る子のように無邪気な顔で、ひとつずつ架空を指折った。人形の髪飾りをあれこれ取り替えて遊んでいるようにも感じられた。
「……小説家が違うなら詩人もいいかもな。戦いも芸術も、つまるところは知見の集成だろ。先生にぴったりだ。まあ、才能とかでそこらへんを一段抜かしていく人間もたまにいるけどさ」
 空を泳ぐように空想にふけるタルタリヤに、鍾離は呼びかけた。
「公子殿」
「なんだい?」
「なぜそんな熱心にありもしないことを考えるんだ。俺は職を変える気はないし、あの堂主の血が経営をしくじるとも考えにくい」
「そんな分かりきったことを考えていたの? だってあり得ないことを妄想するのはおもしろいじゃないか」
 タルタリヤは、鍾離の言葉に小さく驚き瞼を見開いたあと、すぐいつもの顔に戻り、こう答えた。椅子の下で窮屈にしている脚を組みなおして、机上に片肘をついて手の甲の上に顎を乗せ、そして底しれない笑みで鍾離を上目づかいに見た。まるでタルタリヤだけが小さな舞台で演じているかのようなふるまいだった。もしここが新月軒や瑠璃亭の席なら「行儀が悪い」と鍾離に一蹴されるところだが、鍾離はタルタリヤの急なふるまいに一瞬怪訝な顔をしただけだった。
「あのときあそこに居れば。あのときこう言っていれば。それらは俺たちを過去に捕らえるものに見えるけど、触れられない枝葉があるからこそ残酷な現実で生きてゆけるんだ。そうだろ、先生」
 そう言いながら、タルタリヤの雨雲のような瞳は、風にばらばらと落ちていく紅葉を追った。しかし本当はただひとつしか見ていない。それ以外には魅入らない。
「でも俺には要らないよ。だって木の根を知っているからね」
 タルタリヤはくすくす笑った。青年の飛躍した思考をそのまま暗喩にした言葉は、人波のすきまに霧散した。
 二人がしばらく沈黙にたゆたっていると、鍾離がいきなり、
「しかし、詩ならば俺よりもっと上手い奴がいる」
 と言った。
「風神のこと? モンドでは神も吟遊詩人だって聞いたけど」
「……あれとは関係ない。そもそも、モンドと璃月では詩の形式が異なるから比較のしようがない。言っておいてなんだが、ただの老人の独り言と思え」
「老人って」
 タルタリヤは芯のある声色に不釣り合いな自称に笑った。
「間違ってはいないだろう」
「そうだけどさ」
 そして鍾離はしばらくにぎやかな港を眺めてから、なにかへ思い至ったようすを見せた。
「ところで公子殿。岩王帝君と石龍の伝説は知っているだろう」
 ところで、の間が飛びすぎている。とタルタリヤは思った。タルタリヤには詩と石龍が繋がるまでの回路が理解しがたかったが、六千年かけてやたら複雑になった思考ではそういうこともあるのだろうと納得した。
「知ってるけど、どうしていきなり? その龍が先生の言う詩人なのかい」
「その話とは違う。訊きたいことは別だ、公子殿。その石龍の名前を知っているか」
「……あ、そういえば知らないな」
「だろうな。判明していないんだ、彼の名前は。それどころかいつ現れいつ消えたのか、岩王帝君の友として具体的にどう在ったのか、その正体の記録はほとんど残されていない。あの話が残された全てと言っても過言ではないだろう」
「へえ」
 一説には変異したヴィシャップの一種であるとか、遺跡守衛と同様の先史時代の遺物であるとか、あるいは南天門に鎮められた悪龍と対になる後世の創作であるとか。鍾離は他人事のように語った。その口ぶりは水流にさらされた石のように平坦だった。
 タルタリヤは、鍾離はその龍の名前も姿も最期も知っていて、その上で何も言わないのだろうと思った。たしかにあったのに今や鍾離の心のなかにしかないだろうそれを少し勿体ないと感じたが、誰だってひとつやふたつくらい傍から見ればおかしな矜持を持っているものだ。北国から来た人間のタルタリヤからすれば、鍾離はそれを十か二十は持っている。今更ひとつ見つけたところで、なにが変わるものか。
「先生、俺は何も訊かないであげるよ」
「そういうことをわざわざ口に出すのは要求のある証だろう」
「うん、だからひとつだけ教えてくれよ。なんで誰にも分かりっこないことを訊いたんだい。意地が悪いじゃないか」
 その問いに、鍾離はしばらく沈黙した。タルタリヤは少し身構えた。あの鍾離が言葉に窮して考え込む姿などめったに見られるものではない。口を開いたとき、一体何が降ってくるか。
「わからない」
「うん」
「わからないんだ」
 鍾離は笑った。タルタリヤは一段と大きなため息をついた。気が抜けて、衆目の中にも関わらず肩を落としてしまうところだった。
「何も面白くないよ」
「答えが分かっているというのに訊きたくなったんだ。どういうことだろうか」
「俺に訊かれても困るって。先生の感情だろ」
 タルタリヤが大げさに呆れてみせても、鍾離の口角はしばらく上がっていた。しかし自分の感情を面白がっているにしては、さみしさをたたえた笑いだった。
 それから鍾離は、ふと空の色を見るなり席を立った。
「すまない、そろそろ約束の時間だ」
「そう、また暇が合ったら食事にでも誘ってよ。今度こそ先生が払ってね」
 鍾離は「ああ。ではまた」と上着の裾を翻し、往生堂に続く通りのほうへ歩き出した。黒髪とともに宝石細工のような神の目が揺れていた。
 この日の鍾離はいつにも増してふしぎな言が多かったが、空想が鍾離の中で、今はただの空想にしか過ぎないことだけはタルタリヤの目にも分かった。


 稲妻では作り話のことを『ものがたり』という。
 そう旅人は言った。船に乗って璃月へ戻ってきた彼女の土産話がまたひとつ終わった。
「鍾離先生、どうだった?」
 そう言いながら、旅人はミントの獣肉巻きを一つ食べた。思いの外辛味が強かったらしく、顔を赤くしながら口の中で転がすように咀嚼して、きゅうと目を瞑って飲み込んだ。彼女は嚥下するなりもう一口箸で取り、幸せそうに同じことをくり返した。隣ではパイモンがバターを皿にしたたらせながら松茸のステーキにかぶりついていた。
「非常に興味深い記録だった。それに、稲妻の旅はお前にとっていい経験になったようだな。何よりだ」
 旅人は「まあね」とほほえんだ。
「あの後、映画の撮影にもつきあったよね」
「鍾離は映画って知ってるか? 動く写真を上演する舞台のことだぜ。役者は舞台の上じゃなくて写真の中で物語を進めるんだ!」
「絵巻物に少し似てるかも」
「動きを撮れる写真機……オイラ技術の進歩を感じたぜ」
 旅人とパイモンは代わる代わる喋る。逸れたり戻したり補足したりしながら進む話は、まるで旅の道程そのもののようだった。
「特別な設備がいるから今はまだ限られたところでしかできないって言ってたけど、いつかきっと璃月でもやるぞ!」
「ああ、楽しみだ」
 鍾離が相槌を打って会話に一段落をつけると、旅人は機をうかがっていたように、唐突に「物語といえば」と言った。
「先生に見てほしいものがあるんだ」
 そう言って、旅人は紫色の羽毛を丁寧に取り出した。羽毛からはわずかな雷元素の残滓のほかには何も感じられなかったが、なぜか揺れるたびに幻想のような音が鳴った。
「これは……ああ、セイライ島の雷鳥の羽毛だな」
「そうだけど、今はどこへでも行ける切手みたいなものだよ」
「でもオイラたちのじゃないぜ」
「ふむ。では一体誰のものだろう。聞かせてはくれないか」
 促されるままに、旅人は語りだした。始まらない小説、未知の楽器、霧の海の向こう側、紫の木、白い影、雷の降る場所、地底の遺跡、雷のような怒り、終わり続けた二千年、唯一の末裔、約束を果たした少年。旅人の言葉で、旅路はまるで彫像のように形作られていった。
「作り話みたいな旅だったよな」
「でも、物語じゃなかった」
「そうだぜ! ルーが雷鳥と心を通わせたのも、カマが鶴観の末裔だったことも、オイラたちが旅をするのも、『物語のためじゃない』ってな」
「現実は都合のいいところで終わらないし、私たちの旅はこれからも続くんだよ」
 旅人は本を閉じるように目を伏せた。パイモンの視線はふたたび食事に移った。小籠包を小さな口いっぱいに頬張り「うまい!」と喜色満面にあふれる姿は無垢な子猫のようだった。
「鍾離ってやっぱりいい奴だよな、オイラたちの土産話を聞くために瑠璃亭の個室を予約してくれるなんて……あっ、いいこと思いついたぞ、旅人! 旅の話をして旅費を稼ぐってのはどうだ。吟遊野郎みたいにさ!」
「なるほど、パイモンの考えにしては悪くないかも」
「オイラは優しいからな、前半の言葉には目を瞑ってやるぜ。あ、それとも小説にして『この小説はすごい!』に応募するか? 大ヒットすれば夢の印税生活だぞ、へへっ」
「それはどうかな。小説がそんなに簡単な世界なら、私たちあんな経験はしなかったよ」
「むぅ、確かにそれもそうだな……」
 旅人の言葉にパイモンはむくれたが、なにかひらめいたのかいきなりぱっと顔を上げた。
「なあ、鍾離は六千年生きてるんだろ?」
「そうだな」
「じゃあ創作みたいな経験をいっぱいしてきたし、本も山ほど読んできたわけだ。それをもとに小説を書けば……」
 パイモンは目算を立てるように鍾離を見た。旅人もはっとして視線を同じくする。無邪気に見つめる二対の瞳に、鍾離は笑いをもらした。
「鍾離、何が面白いんだ?」
「いや、すまないな、似たようなことを公子殿が言っていたからつい」
「公子が?」
「よりによって公子とか……」
「ああ。公子殿が璃月を去った後、万が一往生堂が潰れでもしたら支払いはどうする、と。あと講談師と役者、料理人……詩人もすすめられたな」
「鍾離先生なら全部できそうな気もするけど、あの往生堂が潰れるのは想像できないな」
「オイラは鍾離が毎日毎日舞台の稽古をしたり厨房であくせく働く姿が想像できないぜ」
「そうだろうか」
「そうだぞ」
 顔色一つ変えず疑問を呈した鍾離に、パイモンもまた間髪入れず答えた。少し前まで最古の七神の一柱だったはずの相手に考えられない言だが、傍で聞いていた旅人は否定も肯定もしなかった。これ以上話をかき混ぜるのが面倒だったからかもしれない。
「まあ、所詮は空想ということだ」
 鍾離は箸で一口大に裂いた天枢肉を緊張のない力で挟み、品よく結ばれた唇を開いて口内へと運んだ。旅人はそれをじっと見つめていて、鍾離の喉仏が上下したとき、機を掴んだ様に口を開いた。
「先生、ほんとうに書かないの」
 鍾離は旅人のしずかでつよい声色に思わず手を止めた。彼女は言葉を続けた。
「鍾離先生は、私に歴史の記録をさせたことがあるよね」
「……世界の外から来たお前の経験ならば、時空をも越えるだろう。俺の知るうちでもっとも確かな記録だ」
「でも、テイワットに、璃月には記録を残さないの? きっと消えてしまうよ」
「旅人の言うとおりだぜ、鍾離。忘れられるのはすごく悲しいことだぞ……」
「消えていくことも記録すべき事実だ」
 鍾離は息を継ぐように茶を飲んだ。渋みが香味に慣れた味覚を元の場所へ引き戻した。
「神の時代は終わった。これから璃月を導くのは、璃月に生きる者自身であるべきだ」
 そう言う鍾離を、また旅人が見すえていた。旅人はなにか考えるように少し黙っていたが、やがてその鏡のような瞳で鍾離に問いかけた。
「岩王帝君は死んだ。だからここにいるのはただの鍾離、そうだよね」
 旅人の確認に、鍾離は首肯した。
「記憶も経験も全部含めて、鍾離先生じゃないかな。だから岩王帝君の……モラクスの記録を残さないなら、代わりに先生の物語を残してみたら。それに、先生の思う意味があるかはわからないけど」
 鍾離はしばらく黙ってから、答えた。
「そうだな。考えておこう」
 それから、他愛ない言葉のやりとりが続いているうち、とうとう机の上は空の皿だけになった。パイモンが満足げに息をついた。
「なあ鍾離、これ全部支払ってくれるんだよな! な!」
「もちろんだ」
「先生、もう財布は忘れない?」
「おっ、そうだ。そいつが一番の問題だった……」
「はは、そう心配するな」
 店員から差し出された高級旅亭一泊に匹敵する金額の領収書に、鍾離は躊躇なく署名の印を押した。
「往生堂宛に頼む」
 旅人とパイモンは揃って頭を抱えた。


 彼の墓穴を掘っている。
 時間の穴に過去をぞんざいに投げ込んで、わかりやすい警句を墓標の代わりにしている。事実を桃のように握り潰して、垂れた汁で辻褄が合う嘘を書いている。そして彼の身体の一欠片も埋まってない偽の墓ができあがる。
 モラクスはそんな空想をしている自分に気がついて、いやに感傷的になっていると思った。若陀龍王は死んでいない。死よりも暗いところに引きずり込まれてしまい、ほかならぬモラクスが俗世に通じる扉を封じた。今も身を削る痛みに苦しみながら眠っているのだろう。
 夜の空気は刺々しい寒さをもってあちこちを吹いていた。土のにおいが風にまとわりついてモラクスから離れなかった。裸足で踏みしめた地面は冷たく、足を進めるたび枯れ葉や小枝の潰れる音がした。月は煌々と輝いていて、葉を落とした木々がそこら中に青い影を落としていた。
 そうした荒涼とした風景のさなかに、モラクスは若陀龍王の声や、満開のごとく染まった紅葉や、月光に照らされる岩肌のことを思い出してみた。モラクスの思い出すこととは、きれいに畳んでしまった記憶を取り出して広げることだ。そうすれば、今は地底で怨嗟に呻く彼の姿を、かつての姿で心によみがえらせることができた。
 記憶の中で、モラクスは空を見ながら、若陀龍王に語りかけた。
「……しかし、ただの世界では秩序がない。だからこの世界に、人間は歴史という筋書きを与えた」
 こうして若陀龍王と杯を片手に、身にならない話をすることが、モラクスのの小さなさいわいのひとつだった。
「歴史の上では、為政者ひとりの死や、実際の大地には引かれていない領地の線引きを、重大な事実とする。ほんとうのこと以外も、起こったこととして記録する。もしも『外側』からこの世界の事象を記録する者が現れたとして、彼らが単純な事実のみを数えるならば」
 モラクスはふと天に浮かぶ『島』を見た。
「これまで、この世界で大したことは起こっていないのかもしれない」
 茫洋たる空を見つめるモラクスに、若陀龍王は客気を含んだ声で問いかけた。
「吾らのすべては矮小なまぼろしに過ぎないと言うつもりか」
「違う。……そうだな。たとえば帰離原で飢饉が起こったとする。当然、帰離の空を飛ぶ蝶や、帰離の川を泳ぐ魚にはなんの影響もないだろう。しかし民の生活は立ち行かなくなる。俺たちにとっても大変なことだ。こういう風に、異なる立場、異なる意識の間には時に埋められぬ相違があることを話したかったんだ」
 モラクスは盃の中身をなめてから「たとえ俺とお前の間でも」と言った。
「だが、自覚するのは難しいだろうな。なぜなら見えているものは違っても、見ているものは同じだからだ」
「最近、貴様は小難しいことばかり言うようになった」
「そうだろうか。もしかすると帰終の影響かもしれないな」
 帰終、と言葉にすると、花の散るように笑う魔神の姿がモラクスの頭に浮かんだ。
「彼女の知識はただ生きていく上では不要なものも多いが、興味深く思う。そう思えることを、彼女から教わった」
 モラクスは彼女の与えたものを思い起こした。材料と手間が少ない狩猟罠の作り方と獲物がかかりすい隠し場所、台所仕事に不慣れでも作れる食事、絵具にすると鮮やかな鉱石、四季折々の鳥のさえずり、ひとひらの雪がうつくしい結晶であること、浮世のすべて。岩の魔神が帰離原の平穏を武力で守り、塵の魔神が民の生活を知恵で満たした。
「一見無駄に思えるものを得たときこそ、人は余裕を感じ満たされるのだろう。ここを共に治めるのが彼女でよかったとつくづく思う」
 モラクスは酒を杯につぎ呷った。ややあって、若陀龍王が口を開いた。
「……貴様も吾の知らない多くを知っている」
 モラクスはふと手を止めたあと、笑った。若陀龍王が不服そうな視線でにらみつけた。
「なにが面白い」
「はは、すまない。悪かった」
 モラクスは若陀龍王の隣から、向かい合うほうへふらりと移った。すこし酔いが回って景色の見え方がくらりとずれ、目の前のすべてが雨粒に映った景色のように愉快でうつくしいものに思えた。ほほを撫でる風が心地よかった。
「なあ、若陀。俺たちは出会えてほんとうによかった。そう思わないか」
 モラクスのてのひらがぴたりと若陀龍王の冷たい顎に触れた。若陀龍王はモラクスの問に答えず、ただ深く息をついた。
「……貴様でも、酒精が回ると身体が熱くなるのだな」
 モラクスは目を閉じた。
 そして醒めると、夜の空気にさらされた身体は、つま先から耳まで石のように冷えきっていた。
 ヒトのかたちをして生まれたからだはそれなりに、人間と似ている。まるで人間のような一面を見せたモラクスにああ言った若陀龍王の真意が呆れだったのか、愛だったのか、もしくは失望だったのか。記憶に閉じ込められたふるまいだけでは、推察はできても答え合わせはできない。
 ふたたび空を見ると、北斗星がぎらりと北に並んで輝いていた。木の隙間を吹き抜けるだけの風が金切り声のように聞こえた。


 ある暖かな日のことだった。空はやわらかな薄花色で、人があたりを行き交い、花は盛りを迎え、菜の花や琉璃百合が草原の一面に咲いていた。それらの草花に埋もれるようにして物思いにふけっていた若陀龍王を、モラクスが覗きこんだ。
「若陀、なにを考えている」
「……詩を」
 モラクスは感慨深そうに「詩」とくりかえした。
「それは邪魔をしたな。悪かった」
「いや、構わぬ。貴様の詩を考えていたところだ」
「お前が?」
 モラクスの普段は知性をたたえた双眸が、ふしぎそうに若陀龍王を見た。
「貴様と吾のことをどのように記録にすればいいのかと思ってな」
 若陀龍王がそう言うと、モラクスは「記録?」とまた首をかしげた。ときおりモラクスが見せるこういった威厳も何もないようなふるまいに、若陀龍王は少し呆れていて、水晶のように端正な友人にも間抜けな瞬間があるのが愉快で、できればこんな姿は他人に見られるなと思っていた。
「詩ならば、ただの口伝よりも変形しにくいだろう」
「そういうことか。だから俺が覚えているというのに」
「備えはあるに越したことはない」
 若陀龍王の視線が空を向いた。モラクスが盤石の魂を持った魔神といえど、大地そのものと呼んで差し支えない若陀龍王の方がより永く生きるのは明らかだった。モラクスは息を吐くように笑った。それから「お前の詩を聞かせてくれないか」と、若陀龍王の隣に座り込んだ。
 友の所望に、若陀龍王は少しためらってからうたった。その韻律は炉に入れる前の鉄塊のようで、くり返す波打ち際のようで、織機が動く音のようで、祈りのようだった。モラクスはしずかに聞き入っていた。
「なるほど、俺のことがお前にはそう見えているのか」
「気に入らなかったか」
「いや、そう見えていたのが少し意外だっただけだ」
 モラクスの言葉に、若陀龍王は、
「または見えていないのかもしれない」
 とかぶせた。
「どういうことだ?」
「詩というのは難しい。貴様をあらわす言葉を並べるほど、貴様の姿から離れていくように感じる」
 まるで想像を言葉にする間に、一度かき混ぜてから再び均しているかのようだ。と若陀龍王は言った。
「おもしろい喩えだな」
「吾は真剣に悩んでいる」
「そう思うのは、きっとお前が言葉の本質を知っているからだ。長いあいだ目で世界を捉えなかったから、かわりに言葉の扱いが上手くなったのかもしれない」
 モラクスは若陀龍王のほうを向いてほほえんだ。
「少なくとも、お前の言葉で作られた詩を、俺は好ましく思っている」
 それから、モラクスは詩の一節を繰り返した。詩はモラクスの声によって新たな輪郭を与えられ、しかしそれも若陀龍王の最初に想像した形とはまた違った。当然のことわりが、若陀龍王にはこの瞬間世界を揺るがすふしぎのように思えたが、悪くはなかった。
「民と、それから帰終やマルコシアスにも聞かせてみないか」
「待て、まだ完成していない」
「そうか。では完成したらまた聞かせてくれ」
 そう言って、若陀龍王に寄り添うようにモラクスは草原に寝転んだ。
「お前は以前、民の仕事に興味を示していたな。鍛冶師も悪くないが、詩人になったらどうだ」
「それは買い被りというものだ、モラクス。貴様らしくもない」
「自らの才をうたがうな、俺が保証する。たとえば、一昨年の春先に聞かせてくれた詩も好きだ。お前がやまがらの鳴き声を聞いて……」
「待て、吾も覚えているからわざわざ口にせずよい」
 若陀龍王があわてるように身じろぎしたのに合わせて尾が揺れた。すると、若陀龍王の尾の低いところに引っ掛けられたなにかがモラクスの視界の端に入ったようだった。モラクスは身体を起こし近寄る。菜の花の冠、人間の頭蓋の直径よりもよほど大き黄色い花の輪は、しかし若陀龍王の体躯と比べると大樹に咲いた初花のようにも見えた。モラクスは花冠が崩れてしまわぬようそっと触れ「これはどうしたんだ」と訊いた。
「貴様が来る前、童たちが寄ってきて、吾にこれをやると」
「なるほど、気に入られているな」
「そうだといいのだが」
 若陀龍王は目を伏せた。ゆるやかな風に大樹がさざめいた。
「お前を帰離原に連れてきたとき、実はすこし心配だった。人は自分より大きな生物を滅多に見ないからな」
 だからこのように、お前が人と共に歩んでいる証が見られてよかった、とモラクスは言った。
「……しかし、冠ならば貴様のほうがふさわしくはないだろうか」
「いいや。これはお前ためのものだ」
 モラクスは、不格好な冠を掛けなおすこともせず、ただ慈しむように撫でた。ほんとうに穏やかな春の日で、若陀龍王の岩の身体も、陽気にあてられてほのかに温かかった。花畑にこどもの笑い声がこだました。


 淹れたての茶が入った器がしびれるような温もりを冷え切った指先に与える。ひとくち啜っては腹を蒸す温度に息を吐き、また息を吸うと果実のような香りが鼻腔に回る。却砂材の椅子に腰掛け、寝室に充満する冷たい空気の中をたゆたう。
 しかし、もうひとくちを嚥下するその瞬間、満ち足りた孤独がひび割れた。冷たい風がほほを撫でている、と思ったときにはすべて終わっていた。寝室に夜風が一気に流れ込んだ。鍾離は窓のほうをにらみつけた。二階のはずの窓の向こうでは、重力など存ぜぬと翼を生やした吟遊詩人が鍾離を見ていた。
 薄いマントで寒風をものともせず、とん、と窓縁につま先をつけて、そのまま覗き込むようにしゃがむ。
「やあ爺さん、元気してた?」
 世界でいちばん自由な少年が、ウェンティがにこりと笑った。鍾離は、自分の眉間にしわが寄っているのを自覚しながら、
「……靴の土は落としてから入れ。先に言っておくが酒は出さないぞ。近隣の迷惑になる」
 と、冷めきった茶器を盆に乗せて、客人に出す茶の準備をしに台所へ降りた。
「ほんとうに、ずいぶんと丸くなったものだね」
 嫌味とも祝福とも判別がつかない言葉には、背中を向けて無言で返した。
 数十分程かけて茶を淹れてから、ふたつの器が乗った盆を持って鍾離が寝室に戻ると、ウェンティは勝手に先程まで鍾離が使っていた椅子に座っていた。
「思ったより早かったね」
 あと二時間は待たされると思ったよ。と、ウェンティは眉を寄せて笑ったが、差し出された器の中身を飲んで「にが」と舌を出した。
「酔い醒ましの茶だ。それを飲んだら帰ってさっさと寝ろ」
「今夜は一滴たりとも呑んでないよ。顔を見ればわかるっていうのに、そこまで耄碌しちゃった? それともキミ流の嫌味かな」
「お前の好ましいほうに解釈すればいい」
「やなやつ。昔は石頭なところがイヤだったけど、今は靄みたいにとらえどころがなくてキライだな」
 盆をナイトテーブルの上に置いてから寝台の端に腰かける鍾離を横目に、ウェンティはさらに浅く腰かけ頭を背もたれにつけ、行き場のない足を揺らした。
「それにしてもお前はまたモンドを離れてふらふらと……。酔ってもないのに俺のところに来るなんて、用事があるのだろう。聞いてやるから言え」
「ん、いや、特にないけど。友だちへ会いに行くのに理由はいるかい?」
「ともだち」
「そんな顔しないでおくれよ。キミがそう思わなくても、腐れ縁でははあるでしょ、ボクたち。お互いが一生でいちばん付き合いの長い相手になるだろうことはわかるよね」
 ね。と鍾離が相手でなければ最古の七神であることを忘れさせそうな、あどけなさそうな表情をした。ウェンティのソプラノはかざりけのない寝室のなかで、机上のランプに照らされた吟遊詩人の少年の姿とともに浮き上がっていた。
「まあ強いて言うなら風のしらせ。今、キミに会いに行けばおもしろいことをしているだろうと思って」
 鍾離は「お前の思うおもしろいことではないと思うが」と言いながら、手慰みに器をこねるように両手で包んだ。
「記録について考えていた」
「うん」
「岩に彫った記録も、風雨にはあらがえないが、それでも数千年は残る。この世界の外側の人間である旅人に歴史を経験してもらうのも、耐朽性の面から見れば完璧だった」
「え、旅人にそんなことさせてたの? キミはときどき、なにもかも世界の部品としか思っていないようなときがあるよね」
「……そうかもしれんな」
 鍾離は窓の外の夜空をあおぎ見た。窓は満天の星と、月と、神へと至る島を映し出していた。天に浮かぶ島は、月の軌道と交差しそうなところだった。
「俺の記憶はどうしようかと思った」
 そう鍾離は言った。
「俺は長く世を見てきた。歴史の証拠が消えるのも、あるいは偽証もすべて覚えている。しかしこの記憶に証明は存在しない。学術的には全く価値がない。俺の中にしかないものだ」
「……それで?」
「だから残そうと思った」
「へ?」
 ウェンティの喉から素っ頓狂な声が出た。
「どうして今になってそんな気を? たとえ世界が忘れても、キミが覚えている。だからなにも問題はない。少なくとも、前のモラクスならそれで終わっていた」
 なんでだろう。ウェンティは椅子の上をずるずると落ちていく。頭と背もたれの間に髪が挟まって、絡まる思考を示す。鍾離はなにも言わない。
 ふと、ウェンティの翠玉のような瞳がきらりとまたたいた。
「あ、わかった。旅人だ! キミがそこまで踏み込ませるのはあの子くらいだろう」
 そう喜色ばんだ声とともに、椅子に沈んでいたウェンティの体が飛び上がるように座りなおして、鍾離のほうを向くため肘掛けから乗り出すように身をよじった。ランプの灯りで伸びた濃い影が部屋のなかを四方八方に暴れた。鍾離はめちゃくちゃに散らばる光と影に目を細めただけで、無言だった。
「……違うかい?」
 しばしの空白をはさんだ後、鍾離はようやく頷いた。「だんまりなんていじわるだよ」ウェンティはため息交じりに言った。
「お前に図星をつかれるのが少し腹立たしかっただけだ」
「こういう時に限って素直にならないでおくれよ、傷ついちゃう」
「風に傷がつくものか」
「でも岩にだって心はあるでしょ」
 鍾離は返す刃をなくしておし黙った。皮肉の被せ合い、無意味な応酬。勝者はウェンティ。
「それにしても」
 ウェンティの視線がふたたび鍾離を見た。
「信仰、芸術、天文、戦争。歴史は多面的なものだ、どれから残すつもり?」
 宝石の欠片を数えるように、ウェンティはひとつふたつと指を折った。鍾離の足もとまで伸びている影も、おとなしく指を折る。鍾離は迷わず答えた。
「詩」
「ボクの話聞いてた? ……ていうか爺さんが詩を作るわけ? 石版しか信じられないあのモラクスが?」
「これ以上軽口をたたくなら窓からつまみ出すぞ」
「おお、怖い怖い」
 ウェンティはわざとらしく身を震わせた。
「うん、でも、たしかに詩は物語しか伝えられないけど、ただの言葉よりは丈夫だ。記録には悪くないよ。手伝ってあげようか?」
「いや、そうではなく。旧友の詩からまとめようと思ってな」
 そう言いながら鍾離は、脳裏で旧友の詩を追った。菫、やまがら、小川、陽光、土。春の記憶。窓の向こうでは冬芽をつけた木が大げさに揺れている。
「順序として正しくないことは承知している。詩の記録が、璃月はおろかこの世界のどこにも残っていないことも」
 しかし春は終わる。西から熱風が吹く。枯れ落ちた花弁は残らない。
「おそらくこれは、このまま俺と共に朽ちるのが正しいことだ。なぜなら璃月にとって、南天門の樹の下に眠っているのは」
 鍾離は言葉を止めた。その先を自分が口にする資格はないと感じたからだ。正しい言葉を探して黙っている間、ウェンティの革靴が空気を蹴るのばかりやけに気になった。
「……しかしうつくしかった。璃月史に記す意味がなくとも、文学史に並べる価値がなくとも、俺は残したいと思った」
「うん、爺さんにしてはずいぶん人間らしいことを言うじゃないか」
 ウェンティは肩をすくめた。それから、しばしの無言の後瞼を閉じると、無垢で勇敢な少年のなりは息をひそめた。
「ねえモラクス。歴史をつむぐのはとても残酷なことだよ。どれを立てて誰を切り捨てるか。誰を支配者にして何を打ち負かすか。ひとびとが何百年かけて、責任と罪を分け合ってやってきたことを、キミひとりが、キミのためだけに行う。どうせわかっているだろうし、これまで何度もやってきただろうけどね」
「ああ。かつてそう歴史をとらえた男がいたという、ひとつの史料になれば上々だ。それにあくまで、俺のための」
 そこで鍾離は言葉を止めた。続けたい言葉を探すために、潜るようにひと呼吸おいて、
「俺の記憶が、誰かに拾い上げられる可能性に、賭けてみたくなった」
 ウェンティはすこしの間目を見開いて固まり、驚愕するようすを見せた後、無邪気なこどものように声を上げて笑った。まさか爺さんがそんなことを言う日が来るなんてね! と、目を細めた。
「キミの物語の行く末は次の千年の楽しみだね」
「冗談を」
 鍾離は空のこぶしを握りしめてみた。
「これまで起こったすべて、経験したすべてに今へと繋がる意味がある。だから、きっと、これにも意味があると信じたい」
「意味、か」
 ボクが思うに、ほんとうに大事なのは最後の最後に笑って世界とさよならできるかだけどね。黄みを帯びた明りにふちどられたウェンティの指が空をなぞった。
「でもそれがキミだ。キミの答えだ、たどり着いた起源だ。……まあ、お互い、満足できるように死ねたらいいね」
「全くだ」
 鍾離は茶をひとくち啜った。波打つ鏡面に透明な鍾離の姿が映っていた。
「うん。思ったよりおもしろかったよ、来てよかった」
 ウェンティは残っていた茶を一息に飲み干して、椅子から飛びおりた。
「もう帰るのか」
「誰かさんによると、自分の国を離れてふらふらしているのはよくないらしいからね」
 鍾離の言葉を待たず、ウェンティは窓から飛び出して、「またね!」と街の上を風に乗って去っていった。あとには行き止まりの北風が残った。
 ランプは消した。
 外から差し込むわずかな月光に部屋全体がぼんやりと静かに輝いている。鍾離は寝台に座ったままただ窓の外を眺めていた。
 菫のつぼみはほころんだ。次の春には咲かなくとも。枯れた花弁はどこにも遺らなくとも。咲いたことすら誰も知らないとしても、鍾離はその芽吹きから散りざままでうつくしかったと伝えたかった。
 信仰、芸術、天文、戦争。それを経験した鍾離の感情がどんな形でも、たったひとりにでも伝わればいい。あるいは、遠い未来にふたたび世界の外側から誰かが流れついたとき、この文明を裁定する手がかりになれば重畳。
 今から語るのは、なにひとつ証明できなくても、鍾離の心に誠実な物語。しかし鍾離は誰も知りようのない、隠し持ったたったひとつの身勝手を心の中で詫びた。
 これから、俺が知る世界のすべてをおまえたちに遺そう。だがひとつだけ、俺の心の中にしまうことを許してくれないか。なにせこれは、まだできあがっていないんだ。
 鍾離はひたりと床を踏んだ。部屋の底に溜まった冷気が浅瀬のように足の間をすりぬけていく。
 誰も知らない未完の詩。黄金の神と盲目だった龍の、あたたかな過去と友情を伝えるものがたり。結局続きは聞けなかったうた。
 白い月に向かって、鍾離はひとりうたった。部屋の中に古代のふしぎな韻律が響いた。
 たとえすべての記録から欠けていても、鍾離はこの詩を覚えている。
 この詩だけは、若陀龍王とモラクスのものだ。
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