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原神

 そのころのモラクスは、以後の岩王帝君と呼ばれ正式に璃月の統治者となった時代と比べるといくばくかやんちゃで、好奇心が過ぎていた。その上、彼の行いはまさしく神の業に等しいのだから、好奇心の末路は人間のように中途半端なものではなかった。

 モラクスは自らの身体を複製したことがある。
 人間は岩に図を掘って歴史の記録とする。これがモラクスが人の神であると自負する所以のひとつである。しかしそれだけでなく、時に人間は岩の塊からかたちを彫り出し、偶像を造りさえもする。
 それを目の当たりにしたモラクスは、自分の身体を岩元素のみでどこまで精密に再現できるか試してみたくなったのだ。
 結果からして、モラクスの試みは上手くいった。創り上げた肉体は岩の塊とは思えぬほどすべての可動域が正しく動き、感覚器も問題なく作動する。モラクスと同等の権能までは与えられなかったから行使する力は本人に劣るが、仙術で一時的に意識を移せば術者の意思通りに動かせるはずだ。ほとんど完璧な複写だった。
 しかし自分の身体の劣化した複製があったところで何にもならないし、神の身体など悪用されるおそれのほうが高い。壊すのはたやすいがそうするには惜しいできだ。少し考えた後、モラクスは息もしない人形を自分の洞天の奥深くにしまった。

 若陀龍王の友人はさまざまな姿を持っている。ひとつは民に畏れを与える龍の姿。もうひとつは彼の眷属に似た人間の姿。半人半龍の姿。老人の姿。年端もゆかぬ子供の姿。中には人間の伝話の中にしかいない姿、それを聞いた彼が実際に変化してみせた姿まである。群衆に信仰される存在のさだめとして、彼は虚実入りまじった多くの姿を持っている。
 一方、若陀龍王は多くの姿は持たず、岩でできた龍の姿が唯一の身体だった。多くの生き物にとっては、ひとつの魂にひとつの身体が普通のことなのだが、友人であるモラクスはそうではなかったし、若陀龍王もまた、モラクスと方向性は違えど普通の生き物ではなかった。彼は岩元素生物であった。人には聴こえぬ大地の声を知っている。
 若陀龍王にとって夜はしじまではない。凡人が虫の鳴き声とともに眠るのと同じように、石や梢の奏でる音が常にあった。
 その夜、若陀龍王はさまざまな思索をめぐらせながら、月を見ていた。昨日風雨が去ったため空気のよく澄んだ夜で、草木が月明かりに照らされてきらめいていた。若陀龍王のかたわらにはモラクスがいた。長髪の男の姿をした彼は、すぐそばの木の根に腰を下ろし、脚を伸ばしていた。好んでいるのかは知らないが、少なくとも若陀龍王が目にするとき、モラクスは人の姿をしていることが多かった。
「貴様はほんとうに多くの姿を持っているな」
 若陀龍王がモラクスにそう言うと、金鉱石のような色の瞳が若陀龍王を見た。
「それがどうしたんだ、若陀」
 若陀龍王は少し黙った後、こう続けた。
「吾も貴様のように人間の姿になれるのだろうかと」
 その言葉に、モラクスの相好がすこし崩れた。
「お前も人の営みに興味があるのか」
 モラクスにそう問われ、若陀龍王は言葉に困った。たとえどんなつたない理由でもこの友人が笑ったりしないことを若陀龍王は知っている。しかし胸中にあるものを言葉にするのに何かがつかえ、沈黙に窮したあげく、
「……ゆび」
 と、うめくように一言発した。モラクスはやはり笑わず、かといって胡乱げな顔もせず、「指がどうしたんだ」とただ続きを促した。
「……あれらは指を忙しなく動かすではないか。ああして物を作るのは、そうだな、うむ、興味がある」
「ああ、確かにあの絵は実に精細なものだったな」
 つい先日モラクスは、ある民の描いた帰離の風景画を若陀龍王に見せた。彼には芸術の良し悪しはわからなかったが、たしかにあれが繊細で神経をこめた作品であることはわかった。
「木々の根が語るゆえ、地上でどのような営みが紡がれているか吾は知っていた。しかしこんなにも鮮やかではかないものとは知らなかったのだ」
「ああ」
 モラクスは唐突にほほえんだ。
「やはりお前と契約を結んでよかった」
 今に限らず、たまにモラクスはこう言った。若陀龍王はそれがよい意味であることはわかっていたが、そう言う真意が読み取れなかった。モラクスのふしぎな点のひとつだった。
「そういうことならばちょうどいいものがある。少し待て」
 モラクスがそう言い残し、盃をかかげるように手をかざすと、錠前のように複雑に噛み合った石の塊があらわれた。とたん塊を中心に周りの空気が歪んだかと思うとモラクスの姿が消え、しかし間もなくモラクスは人間のかたちをしたものを抱えて戻ってきた。
 抱えられたものはモラクスとおなじ姿をしていた。しかしそれは人間のように呼吸も身じろぎもしない。若陀龍王はそれの音をよく聞いてみた。姿形こそモラクスに似ていたが、睫毛から爪先に至るまでひとつ名のない岩の声だけが貫いている。そして若陀龍王はこの岩の音をよく知っていた。
「モラクス、まさかこれは」
「恐らくお前の推察通りだ」
 モラクスの石珀のように多くを知る瞳が肯定を示した。
「なぜこんなものを」
「……好奇心が行き過ぎた、といったところだ」
 その語り口からして、これはモラクスにとってはよくない行動の産物だったのだろう。しかしそんな理由から過ちを犯すモラクスの姿が、若陀龍王にはまだ想像がつかなかった。過ちと呼ぶにはできすぎたつくりだったからかもしれない。
「これをお前にやろう」
 モラクスは軽い調子で言った。
「いいのか」
「いいんだ。持っていてもどうせ使わないからな」
 モラクスは人形を月光の降り注ぐ叢の上に転がした。魂のない肉体は見れば見るほどよくできていた。もしモラクスがこれの隣に横たわってまぶたを閉じたとしたら、凡人なら見分けがつかないだろう。
「……このようなものをやすやすと手放すとは貴様らしくないな、モラクス。もし吾が貴様を騙ったり、吾が手放して誰かが悪しきことに使ったりしたらどうする」
「しかしお前はそうしないだろう」
 若陀龍王は己の耳を疑った。モラクスは疑いや権謀を超越したところにいるものの目をしていた。若陀龍王を信頼しての言葉ならこれにまさる喜びなどないと思ったが、なぜか若陀龍王の思考にはモラクスが他の仙人や人間にも同じことを言っているのが浮かび、もし想像通りならモラクスは人をたらしこむ天才かおそろしい不器用だと感じた。
「以前かんたんな仙術を教えただろう。それでお前の身体として使えるはずだ。気に入らないところがあるなら好きにいじるといい」
 そう言って、モラクスは人形を仰向けに寝かせなおした。若陀龍王はためらうようにしばらくそれをながめていたが、意を決し、友と同じ姿の身体に飛びこんだ。
 その瞬間、若陀龍王は孤独に放り出された。目前にあるはずの世界と幕で隔てられているように感じ、ここにあった感覚が失せたように思い、この身体は大地の響かせる音が聞こえないのだと気づいた。
 取り残されている。切り離されている。ひとりで頭を抱えることもできないまま立ち尽くしている。静寂のあまり弦をひっかいたような音が耳の中で響いている。
 こんなにも静かな夜があると、若陀龍王は思いもしなかった。
「どうだ、若陀。……気が優れないか」
 モラクスに呼びかけられ、若陀龍王はやっとモラクスの声と顔が間近にあることを見とめた。そしてそのそばにある自分の身体を見上げ、本当に人間はなんて小さいのだろうと思い至った。
 若陀龍王は深く息を吸ってから「しずかすぎる」と、声をだした。己の身体からモラクスの声が出て、それも音のない風に吸い込まれていって、地に足のつかない心地になった。モラクスはすべてを察したのか、「そうか」とのみ返した。
 若陀龍王は術を解き、意識を岩の体に、小さな身体を殻にもどした。以降、若陀龍王がその身体を使うことはなかった。

 文字が書きたかった、と若陀龍王はこぼした。青い葉をつけた銀杏の枝が夜風に音をたてて揺れた。
「人間は言葉を使うのも記録をつけるのも自分たちだけだと思っているようだが、それは誤りだ。彼らにはわからぬだけで吾らは語り、伝え、意味を見出す。しかしモラクス、貴様が人の神というのなら、人間の言葉で残したかったのだ」
 若陀龍王はモラクスほど長く人間を見ていたわけではないが、さまざまな事実が時間の奔流に消えたり曲げられてゆくのを何度も見ていた。だからモラクスはかんたんに朽ちたりしない石碑による記録を好んでいたし、若陀龍王も同じく思っている。
「人の命も、その記憶も、貴様とは比べられぬほどはかない。残さなければ、貴様が吾にあたえたものを知る者はいないのだろう。吾らが共にそびえたつ谷の間を歩くことも、貴様が夜空を指さし星座を吾に教えることも、そして貴様が吾に地上の光をさずけたことも」
 若陀龍王の言葉をモラクスはしずかに聞いていた。腕を組み、しばらく考えるそぶりをみせた。そしておもむろに口を開いた。
「……案ずるな。俺が覚えている」
 それはいっときの憐れみからではなく、ほんとうに心配は無用だと伝えたかったのだと思う。そしてほんとうに覚えているのだと思う。たとえほかのあらゆる魂が擦り切れ消え去っても、記憶は永遠に魔神の心のなかでいきいきとしている。
 しかし若陀龍王の胸中には、むしろ憤りのような衝動が湧き上がってきて、なぜか悲しかった。
 時間の果ての平野に貴様ひとりがたたずんでいたってどうしようもないと言いたくなり、何に突き動かされているのか自分でもふしぎだったが、夜明けに星が薄れてもその理由はわからなかった。
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