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文アル

 黄ばんだ置き時計が秒針を鳴らしている。
 九十度を折り返す扇風機。がたがたと鳴りそうな窓枠。白む空。赤色の錆が目立つバルコニーの柵。唯一家具らしきものな卓子。珈琲染みのある座布団。安心感という懐かしさの混ざる畳。土壁に貼りつけられた、白紙のまま古びた紙きれ。転がる万年筆。一面に散らばる夥しい量の文字で埋められた原稿用紙。
 その狭苦しい部屋で、邪魔くさそうな癖毛の長髪を垂らして、ただ部屋の真ん中にぼう、と大の字に寝っ転がっている男。
 直感する。
 ああ、この男は、直木三十五だ。
「直木。お前は、直木三十五……植村宗一か。」
 その問いで彼は漸く入り口で突っ立っている俺の方を見て。
「ん? ええと、オマエ誰だっけ…………ああっ、そうだ、ヒロシ! 菊池寛だな!」
 彼はぱッと顔を明るくさせ、質問へ肯定の暇も無くこう言った。随分とイイ男になってたから気づかなかった、とか。オマエその体はロボットなのかい、とか。寝転びながらあれこれ吠える。これが直木なら、今生はまた随分とお喋りになったな、と思った。
「……まるで俺が不細工みたいによ……。」
 と、反撃のデコピン。生憎、毒舌に粋な返しが出来る程毒舌じゃないもので。
「ぁいたっ、ヒロシー、暴力反対だぞ。」
「はいはい。」
 彼は寝返りをした。皺だらけの着流しから脚が丸出しで、まるで品が無い。そして欠伸をして頭を掻いた。
「大したモンはねーけど、好きに見てけよ。」
 彼がそう言うので、散らばっていた原稿用紙、一枚を拾い上げる。字の群れと言うのが相応しい様な、細い鉛筆の跡。左上にはお世辞にも丁寧とは言えない字で389の番号が振ってあった。
 左上を見ると、中途半端に始まる単語。散らばる人の名前。台詞を示す鉤括弧。……やっと気付いた。これは、小説だ。
「ずっと書いてた。」
 それをただ眺めていると、彼は勝手に喋り出した。
「寝ずに、止めずに、ずっと書いてた。それがオレだから。」
 そういう話は耳に入ってこなかった。……彼の新しい物語が、今、ここにあるんだ。この文章の欠片を集めて接げば、どんな物語が出来上がるのか。それだけに興味があった。
「なあアンタ、これの続きはどこに……。」
「飽きた。」
「え、」
「飽きたからやめちまった。……そんで、ずっと寝てた。オマエが来た。」
 そこで話を止めて、彼はまた欠伸をした。「いけねえな。やっぱ寝転がってっと眠くなる。」とか。そして唐突に。
「ヒロシぃ、火あるか。」
「おう。」
 ふと問われて、条件反射的にポケットの中の燐寸を貸した。煙草でも吸うのかとぼやっと見ていたら、俺の手元から原稿を奪還して、小慣れた手つきで火を点けて____燃やした。思わずあっと声を漏らした。紙が隅からじりじり変色して消えていく。電球の消えている部屋が薄明るくなる。微かに焦げる臭い。灰が、畳の目に落ちた。
「アンタはなんてことを……。」
「いいだろ。どうせこんなもん、メシの種にもなりゃしねえ。」
 そう言ってようやっとのろのろ立ち上がって、よっこいせ、なんて綺麗な顔でおっさんみたいな掛け声して、残りの原稿も掻き集め出す。
「おいヒロシ、手伝えよ。」
 何をするのか何となく理解しつつも、彼の指示に大人しく従った。276、509、184。数字はばらばら。
「……これ、どれだけ書いたんだ?」
「あ? 忘れた。」
 そんなことだろうと思った。
「ええとまだあるか? ……数えんの面倒だからこんだけでいいや。あ、ちょっとこれ持っててくれや。」
「ああ。」
「ん。ありがとな。」
 彼が集めた分の原稿容姿が渡された。抱えるものが体感少し重くなる。
 彼はぎしぎしと音を鳴らしながらアルミサッシの窓を開け、俺の手元から預けたものごと根こそぎ持って行って。そこから集めた紙きれ全て落とした。
 あーあ、勿体ない……。そんなちっぽけな喪失感ごと落ちていく。
 白む空は上から下まで何処までも空で、そこに落としたものばらばら落ちていく様子は御伽噺の様だった。ずっと下を眺めている彼はつまらなさそうな目をしている癖に、表情は何処か夢見心地だった。
「よし決めた。」
 と彼は早口で言う。ずっと言おうと思っていた告白の様に。何を、と聞く間も無く。
「オレは直木三十五になるよ。」
「は?」
「大衆小説賞最高峰、不遜で傲慢、大胆不敵の直木ショー様に、生まれ変わるんだよ。」
 そして彼はふひ、と唇を歪ませた。しかし、その言葉が唐突かつあまりに突飛だったもので、
「……その直木ショー様とやらは、俺に借金しないのかね。」
 なんて、つい揶揄ってしまった。
「馬鹿野郎。作家という側面に過ぎない直木三十五が、『俺』から逃れられる道理があるもんか。」
「つまり金は借りるんだな……。」
 俺がそう言うと、彼は楽しそうに何の屈託も無さそうな、欲に満ち満ちた目を細めた。____なんて、生きる快楽を知った瞳だろう。
「知ってるぜ。なんか大変なんだろ、オマエら。」
 彼が悠々と歩き、襖に手をかける。その先は、現実だ。文学を守る為の戦場だ。
「本当に、行くのか。」
「ああ。」
 今になって臆病と保身が口を出す。
「アンタ、……死ぬかも、しれないんだぜ。」
「そんなん知ってら。それに生きてりゃどうせ死ぬよ。」
「もう一度、戦うんだ。アンタは戦う為に生まれるんだ。本当にそれでもか?」
「でも、世界はオレを熱望してて、オマエは俺に生きてほしいんだろ。」
 何も否定出来なかった。そうだよ。アンタが世界中から想いという概念を託される様な奴でなければ、直木三十五は存在しない。俺がアンタにまた生きてほしくなければ、ここに辿り着く道理は無い。
「なあ、そうだろ?」
「……そうだよ、そうだった。」
 俺に肯定を問うた彼の横顔が、初めて彼と重なった。
 ああ、そうだった。……俺もアンタも、こんなにも変わってしまったけれど、アンタは本当は何にも変わっちゃいなかった。彼はこんなにも不遜に、もし彼でなかったなら過剰と呼べる程に、まるで飄々として向けられたあらゆる感情を享受できるのだから。
 だからなんだと言われちゃあ、それまでかもしれないけれど。
「それにな、一人だと退屈でしゃあねーんだよ。」
 彼は気楽そうに、また笑った。
「……。」
「ヒロシ。」
「ああ、」
「オレは小説を書くよ。南国太平記も目じゃないくらいの大作だ。書き上がったらオマエに一番に見せてやる、そしたらさあ。」
「そしたら?」
「やっぱまだ内緒だ。」
 俺に伝えたかったであろう内緒を、彼は軽薄さに包んで破顔した。そして襖を豪快に開け放した。
「行こうぜ。もう一度、戦いに。」
「……アンタはそれでいいんだな。」
「当たり前だ。」
 一歩、黒足袋が敷居を跨ぐ。
「直木、」
「あ?」
 はじめまして、さようなら、久しぶり、これからよろしく、直木三十五。
 そういう言葉をどうにか言語化したかったけど、今はなんだか照れ臭いだけの台詞になってしまいそうなので。
「やっぱり内緒だ。」
 と、笑ってやった。
 敷居と擦れる小さな音がして、襖が閉じた。
 散らばっていた原稿用紙が消えて随分寂しくなった部屋には、カランとした卓子ひとつだけ残っている。
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