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Fate

「ドーナツの穴の部分だ」

 テスカトリポカはそう言って、バスケットいっぱいのクリームドーナツをデイビットに薦めた。穴のない、大きく分厚い円盤型の生地にはち切れそうなほどホイップクリームを詰め込んで真っ白になるまで粉砂糖をまぶした、見ているだけで胸焼けしそうな熱量の塊たちがぼんやりとデイビットを見つめ返す。

「というのはまあ物の例えで、ほとんどただのドーナツだが」
「そうか。そうだろうな」
「隠喩で置き換えられるなら似通った事象なワケで、あながち嘘でもないがね。さあ、全部オマエのものだ」

 ドーナツ表面の砂糖が、昼下がりの太陽にきらきらと笑っている。冥界に本物の陽光が射すはずがないから、これはそう感じるように調整された書き割りのライトだ。生前との連続性だって太陽を模した熱だってカントリー調の家具でまとめられた二人暮らし向けの部屋だって目の前に差し出されたクリームドーナツだって、目の前の神によってデイビットのために用意されているのだ。

「どうした? ……甘いものは別に嫌いじゃなかったよな?」
「そんなことない、好きな方だ。ドーナツも、昔はよく食べていた」

 いつも些細なことから思考の海に沈むのはデイビットの悪癖で、テスカトリポカはそれを知っているが何でも悲観的な捉え方と要らない心配をする神だった。これ以上心配させるのは本意ではないので、デイビットはそれを掴み取って食べる。さくさくに揚がった表面とさらさらの粉砂糖、重たいホイップクリーム。眉をひそめるほどくどくて甘ったるい慣れ親しんだ味がする。そうして一個目をあっという間に食べ切ったデイビットが口渇感に唾を飲む前に、テスカトリポカはレモネードをどこからともなく差し出した。気遣いのできる神だ、完璧と言ってもいい、神である点にさえ目を瞑れば。
 その奇蹟のような演出をしたサービスにただ簡潔な礼を口にしてレモネードを飲み干したデイビットは、またバスケットに手を伸ばして二個目を頬張る。過剰な炭水化物と糖質でできた歪にして底なしの欲望が青年の腹の中に消えていく。

「もしこれが本当にドーナツの穴だとしたら大きすぎないか」
「ちょっとしたレトリックに過ぎん。ドーナツの穴に実体はないだろ、少なくともオマエにとってはそう」
「うん、そうだけど、そういう話ではなく……ああ、これだってちょっとした冗談なんだ……穴がこの大きさなら、ドーナツ本体はもっと大きいはずだ。そうだろう?」
「なんだそりゃ、オレに作れってか?」

 デイビットはそれはいい考えだと微笑した。年若い男の身体、何だって欲のままに貪ることができる体力を持ったまま止まった仮想の器で。

「それは……しかし、うん、やめておこう。食べ過ぎはよくない」

 だとしても、だからこそこの休息は生前の感覚を快と不快の隔てなく与えられるもので、例えば腹回りについた贅肉だってないことにはできないから。

「その甘ったるいデカブツを二つも一気食いする時点で今更だと思うワケ」

 テスカトリポカは呆れたようにそう言うと、自分用に取り分けていた、シュガーグレーズがたっぷりかかったドーナツを齧った。デイビットはそのテスカトリポカが好みそうにない分厚い真っ白なアイシングに、不自然な明滅を感じた。黒い星。異物。エラー。
 0.2秒の閃光に呑まれた瞬間からずっと目の奥に付いてきていたような。

「そうだ、遺物とやらの名残、もう視えなくなっただろう?」

 そう言われた瞬間、デイビットはテスカトリポカのドーナツが本当の『ドーナツの穴』であること、手元のこれはあれの余剰部分であること……ドーナツの穴の穴……に気づく。
 最初に言ってほしかった。そんなものをはじめから持っている相手に、なんであんな『冗談』を口走ってしまったのだろう。長らく覚えにない無知の恥が胃の中で膨らんだ。

 冥界の全てはテスカトリポカによる演算だ。デイビットの網膜に焼き付いて休息を妨げるなにかをドーナツの形で摘出するのも、右手から左手にコインを移し替えるような、喉が渇いた者にレモネードを注いで差し出すような、ごく自然な事象で楽園の管理者として当然の行いに過ぎないのだ。

「……ありがとう」

 勝手に目の中を弄られたのはともかくとして。

「でも」
「言わんとすることはわかるが、現行人類《こども》にはまだ早い。当然オマエにもな」

 その言い分に納得できなかったデイビットが神の腹の中に格納されるドーナツ状のなにかを往生際悪く睨みつけていると、テスカトリポカは笑った。笑う。青年の意地を闘争の火種と捉えて是とした。

「だからもっと大きくなれよ」

 手始めにテスカトリポカは、バスケットに残っていたドーナツをデイビットの口に押し付ける。冥界で花は芽吹かず、命は育たず、なのになぜ主人は「大きくなれ」なんて戯言にも等しいことを宣うのだろう。次の生を指しているのか。
 あるいは。
 デイビットは今は何も知らないことにして、大口を開けて神の厚意を享受することにした。
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