子どもだからの特権
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ガラスケースの中には、丸いチョコレートが宝石のように並んでいた。艶々とした濃い茶色のものに、粉雪を被せたような白いもの。赤地に金で縁取られたリボンがかかる小箱の横にはクリスマス限定の詰め合わせだと小さな札が添えられていた。甘く深い香りが、百貨店の暖房に混じって柔らかく漂っている。
セラフィーナは、ひとり。その前で足を止めた。
ナイツブリッジの大通りに面した老舗百貨店の中は、クリスマスを待つ人々で華やいでいる。店内の至る所に金や赤の装飾が凝らされたツリーが置かれ、どこか遠くで聞き覚えのあるキャロルが流れていた。家族連れの子どもがショーウィンドウを指差してはしゃぐ姿や、若い男性が店員に相談しながら小さな箱を手に取る姿。その空気はとてもあたたかくて、きらきらと輝いていて——だからこそセラは今、自分がこの場に一人で立っていることを意識せずにはいられなかった。
——クリスマスホリデーで帰省している間くらい、少し気分転換をなさってはいかがですか。百貨店なら暖かいですし、綺麗なものもたくさんございます。おいしいものを召し上がってくるだけでも、きっと楽しいと思いますよ。
そう言って外出を勧めてくれたのは、シグルス家に雇われている使用人だ。送迎まで手配され、セラはここへ来た。迎えの時間は決まっていて、それまでは自由に見ていいと言われている。
気を遣ってくれたのだろう、と思う。……けれど、そうして差し出されたこの時間を持て余してしまっていた。
一人で過ごす時間が、嫌いなわけではない。でも、誰かと同じものを見て、同じことで笑う時間の方がセラはずっと好きだった。素敵なツリーを見れば「見てください、きれいですね」と言いたくなるし、甘い香りがすれば「なんの匂いでしょう? とてもおいしそうです」と言って、探したくなる。誰かが隣にいてくれたなら、きっとそれだけで、今よりもっと楽しかっただろう。そう考えずにはいられない。
そんな中、チョコレート売り場の前で足が止まったのは幼い頃にシグルスの父が土産だと言って、何度も買ってきてくれた『とっておき』を思い出したからだ。シグルスが淹れてくれたおそろいの特別な一杯と共に、セラは何度もそれを食べた。
これは甘い。
これは少し苦い。
これは、君にはまだ早いかもしれないな。
……
どれから食べようか迷った時は、隣に座った彼がなんでもない顔でいつも一つを選んでくれる。
そんなふうに大好きな人と、何かを分け合って笑う時間が何よりも好きだった。
昨日、シグルスが婚約の話を整理しようと言い出した。セラはついにこの時が来たのだと思ったし、それでも最初はまだ落ち着いて話ができるとも思っていた。そうしなければいけない、とも。だがその結果は、どうだったか。震えた声でうまく整わないまま言葉を続けて、最後には感情のままに泣きながら部屋を飛び出した。
夜は、ほとんど眠れなかった。枕に顔を押し付けても涙は止まらず、鼻の奥と喉がひりひりと痛んだ。何度も寝返りを打って、その度にシグルスの顔が浮かんだ。驚いたような、困ったような、動揺を必死に抑えているような、顔。
——おにいさまの前で泣くのは、いちばん嫌だった。
——あの人の前でだけは泣きたくなかったのに、あんなふうに泣いてしまった。
シグルスを想うこの気持ちは本物だし、今も、これから先も変わらないとセラフィーナは信じている。
だからこそ、感情に訴える子どもみたいな真似をして、やっぱり子どもだと、そう思われるのが怖かった。好きな人から「なにもわかっていない子ども」だと扱われることだけは避けたかった。でも、失敗してしまった。
それを延々考えて、考えて、朝は来た。
朝食に行かないという選択肢は、セラにはなかった。食事の席に現れなければ、避けているように見えるだろう。だから、冷たい水で何度も顔を洗って、鏡の前で目元を押さえた。けれど、一晩中泣いていた目はどうしたって赤く腫れていて、普段のようには戻らなかった。
扉を開けた時、シグルスはもう席についていて新聞を開いていて。セラが姿を見せると、彼はすぐに顔を上げた。
「おはよう、セラ」
いつもと同じ声だった。少なくとも、そうしようと努めている声だと思った。
いつものセラなら「おはようございます」と朗らかに笑って、彼のすぐ近くの席に座る。それから、昨夜見た夢の話や今日の予定や、なんでもないことを話す。けれどその朝は掠れた声で挨拶を返して、彼から少し距離を開けた場所に着席して、そのまま俯くことを選んだ。シグルスが何か言いたげにこちらを見ていることはわかっていたが、結局、彼もそのまま沈黙を保っていた。
「今日は、これから少し出てくる。帰りは少し遅くなるかもしれないから夕食は先に済ませて、何か……必要なものがあれば、家の者に言いなさい」
「……はい」
朝食を済ませた後で、シグルスは必要な連絡だけを独り言のように伝えて、静かに席を立った。足音が遠ざかり、扉が閉まる。そこでようやく、セラは息を吸った。
当てつけのつもり、ではなかった。避けたかったわけでもない。ただ腫れてしまった目を見られたくなかったからだ。昨日あれほど泣いて、今朝ですらまだ泣きそうな顔をしていることを知られたくなかっただけ。言い訳のようにそう思った。
……だけど、彼の目にはどう見えただろう?
挨拶だけで、離れた席に座って、目も合わせずに頷きだけを返すところを、どう思っただろう。それは、避けているように見えなかっただろうか。昨日のことを怒って、もう話したくないと言っているように見えなかっただろうか。
……違うのに。嫌いになったわけでは、ないのに。むしろ、好きだから、どうしていいかわからなくなっているだけなのに。
自分のこういうところがやっぱり子どもなんだ、そう落ち込みながらセラはケースの中のチョコレートを見つめたまま、胸元で手を握り込んだ。
「あの」
ようやく、ガラスケースの向こうの店員へ声をかける。自分の声が思ったよりも心細く響いた気がして、少し恥ずかしくなった。だが、店員はすぐに穏やかな笑顔を向けてくれる。
「お決まりでしょうか」
「こちらの詰め合わせをひとつ、いただけますか」
「かしこまりました。贈り物でございますか?」
少しだけ返答に迷って、セラは頷いた。リボンは深い緑のものを選んで、きれいに結んでもらう。せっかく百貨店に来たのだから今朝のことをちゃんと謝るきっかけになればと考えて選んだその品は、この時期だからということもあってか、私的なクリスマスプレゼントのようにも見えた。
会計を済ませ、紙袋を受け取る。その時だった。
「——クリスマスプレゼントですか?」
不意に柔らかい声がして、セラは思わず肩を揺らす。
驚いて振り返ると見覚えのある人物が立っていた。白いスーツを見に纏い、胸の前に持ち上げた手を軽やかに振りながら柔和な笑みを浮かべた男の顔を見上げて、セラは一瞬きょとんとした表情を浮かべる。そして、目を見開いた。
「月満、さん……?」
「おや。覚えていていただけましたか。光栄ですねー」
「まあ! 本当に月満さんなんですね。お久しぶりです、こんな場所でお会いするなんて」
セラは思わず声を明るくした。知らない人ばかりの百貨店で知っている顔に出会えたことは、思った以上に大きな驚きと心強さを彼女にもたらしていた。
声をかけてきたのは月満伊檻という男で、月満都湖の兄であり、シグルスが所属する中立機関C3の東京支部支部長を務める人間だ。
セラフィーナにとってはほとんど顔と名前を知っているだけの、シグルスの同僚という距離の人で、特別親しいわけではなく、二人きりで話すのも初めてに近い。けれど、セラはあまり人見知りをしないたちであったし、いつも柔らかく話す彼のことを怖いと思ったことがなかった。
「こちらへはお仕事で?」
「ええ、まあ。そんなところです。本部で少し打ち合わせがありまして」
「そうだったんですね」
「まったく、本部は人使いが荒くて困りますねー。なんて……あ、今のはシグルスさんにはオフレコでお願いしますね」
人差し指を唇の前に立てるようにして言われ、セラはつい笑ってしまった。
「わかりました。内緒にします」
「助かります。あの人、冗談を冗談として聞き流す時と、妙に真面目に受け取る時がありますから」
冗談めいた調子に少しだけ肩の力が抜ける。
伊檻の視線はセラが持つ紙袋に向き、また彼女の顔へと戻った。腫れの残る目元か、少しだけぎこちない笑みに強張った頬か。ほんの一瞬、何かを確かめるような間があって――それから、何でもないことのように軽い調子で話は続く。
「今日はおひとりですか?」
「はい。家の者が送ってくれて……お迎えの時間までは好きに見ていいと」
「なるほど。気分転換にお買い物、といったところですか」
「! ……はい。そう勧めてもらいました」
「こういう場所は見るだけでもなかなか賑やかですからねー。今の時期は、少々賑やかすぎるくらいですが」
「伊檻さんもお買い物ですか?」
「ええ、出張の土産を少し見に来ました。東京支部へのものと、あとは……まあ、家にも少し」
その口ぶりに妙な歯切れの悪さを感じて、セラが「ご家族に?」と聞き返すと伊檻はやはり曖昧に頷いた。会話が一旦途切れたので、セラは改めて伊檻の姿を見る。冬物のコートは着ているが、その手には鞄一つも荷物は持たれておらず、身一つで百貨店に立ち寄ったような出立ちに見える。仕事帰りにも見えず、かといって買い物をちょうど終えたところにも見えなかった。
「お迎えまでは、まだ時間がありますか?」
「えっ。あ、はい。少しなら」
「では、よければ上のティールームで休憩しませんか。俺も、そろそろ座る場所を探していたところなんです」
「えっと、お仕事のほうは……? あと、お土産探しも……」
「打ち合わせは終わっていますし、土産選びにも行き詰まっていたところなんですよ。ひとりで悩んでいると、手土産ひとつ決めるのにも時間がかかりますからねー。それに、こんなところでお会いできたのも何かの縁です。百貨店の中とはいえ冬のロンドンですから、温かいものでも一緒にどうでしょう」
そう言われると、断る理由が見つからなかった。
「それなら少しだけ、ご一緒してもいいですか」
正直なところ、セラは少しだけ疲れていたのだ。クリスマスシーズンに飾られた百貨店の中は美しく、見て回るだけでも楽しい。けれど、その華やかさの中をひとりで歩くのは、まだ胸の中に大きなわだかまりを抱えたままだ。このあとの時間をどう過ごそうかも決まっていない中、伊檻から示された提案はとても魅力的で、セラにとっては願ってもない話だった。
百貨店の上階にあるティールームへと場を移し、窓際から少し奥まった二人掛けのテーブルにつく。店員が運んできたメニューを眺め、セラは勧められるまま小さなチョコレートケーキと紅茶を選び、伊檻は人に勧めておきながらケーキを「ではあとで必要になったら」と断って、紅茶だけを頼んだ。
注文を済ませると、一段落ついたように沈黙が落ちる。気まずい沈黙ではなかったが、セラは今更ながら何から話せばいいのか迷って、膝の上で手を重ねた。
伊檻がふと、店内の奥へ一度視線を向ける。高い天井から下がるシャンデリアの光が照らす、少し離れた席で年配の夫婦が三段のティースタンドを挟んで静かに話す姿があった。それから彼は「そういえば」とたった今思い出したような調子で言う。
「ついこの間、結婚したんですよ。見合いですけどね」
「えっ」
「結婚です。と言っても、こちらの方に報告して回るほどのことでもないので、まだご存じなくて当然なんですけど」
「まあ……!」
胸に広がる驚きと共に、セラは色めき立つ声を上げて両手を合わせた。
実際のところこの報告は、『結婚』という言葉の重さに反してあまりにも軽い調子で告げられ、まるで「今日は冷えますね」とでもいうような定番の世間話めいた延長かのように差し出されていたが、セラはまるで自身の祝い事であるかのように「おめでとうございます」と祝福した。伊檻は穏やかに笑いながら、「ありがとうございます」と言う。
その笑みには、新婚の人が見せるような浮き立った明るさはあまりない。セラはそれに気付いてほんの少しは不思議に思ったが、照れているのかもしれない、とそれ以上気にすることもなかった。
「奥様はどんな方なんですか?」
「そうですねー」
伊檻は紅茶が来る前の空のカップを見下ろして、少し考える素振りを見せる。
「しっかりした人——というか。俺が曖昧に笑って済ませようとすると、ちゃんと怒ってくれる人、ですかね」
「月満さんが叱られるところは、あまり想像できませんね」
「そうですか? わりと叱られますよ。大抵は俺が悪いのでいつも反論の余地がないんですけどねー」
そう言って困ったように肩を竦める伊檻の姿に、セラは小さく笑う。……頭の片隅で、彼女はいつか幼き日に見たシグルスの妹の結婚式を思い出した。
一家の全員が一堂に会するクリスマスの時期に夫と子どもを連れて生家に戻ってくる『おねえさま』のことを考えながら、伊檻さんもきっと穏やかで素敵な家庭を築くのだろうな、と思った。セラフィーナから見た『月満伊檻』という男はそんな当たり前の想像が、ごく自然に浮かぶような、気遣いのできる物腰柔らかな紳士だったからだ。
結婚という言葉を聞くと、シグルスのことを思い出さないほうが難しかった。昨日の話と、今朝の食卓と、それから今までのすべて、胸に抱えるわだかまりも、それらは全部そこへ繋がっている。
けれど今は、伊檻の話が先だと、セラは自分のことを押し込めてもう一度笑顔を浮かべた。
「ご縁があって一緒になられたんですね。とても、素敵だと思います」
「素敵、ですか」
「はい。だってこれから、人生を共に過ごしていけるのでしょう?」
同じ屋根の、暖炉の火が揺らめくあたたかな部屋で、クリスマスも、誕生日も、何でもない日も。朝起きて挨拶をして、同じ食卓につき、同じ家に帰って、おやすみを言って眠る。そんな生活を想像してしまうのは、少し子どもっぽかったかもしれない。それでも、セラフィーナにはそれがとても、幸せなことに思えた。それこそが、幼い頃からの彼女の憧れだったから。
伊檻はセラの言葉に否定も肯定もせず、ふっと小さく息を吐いて、「それで、ですねー」と続けた。
「少し困っていまして。妻へのクリスマスプレゼントというものを、どうしたものかと」
「……! では、もしかして先ほどお土産に悩んでいるとおっしゃっていたのは——」
またも手を合わせて、セラは思わず身を乗り出す。ちょうどその時、注文していた紅茶が運ばれてきたので、セラは目を瞬かせる店員の顔を見上げ、静々と再び椅子に腰を落ち着けた。少しだけ熱くなった頬を両手で挟んで、か細く「……失礼しました」と俯く。
テーブルには白いポットと、ちょうどセラが視線を下げていた余白を埋めるようにしてクリスマスらしい砂糖菓子を添えたケーキの皿が置かれた。セラは気恥ずかしさにますます身を小さくし、店員が去ってからもそうしていたが、伊檻が堪えきれずといったように上げた小さな笑い声を聞いて、そっと顔を上げた。伊檻は慌てたふうな素振りで手のひらを見せて言う。
「——ああ、すみません。そこまで真剣に受け取っていただけるとは思わなかったので」
「……だって、とても大切なことですもの。奥様への贈り物に悩んでいらっしゃるなんて、素敵じゃありませんか。私にできることなら協力したいくらいです!」
小さな握りこぶしと共にまっすぐに言い切ったセラを、伊檻は静かに見つめた。そのまま僅かな沈黙が生まれ、その間にセラはまた自分が勝手に張り切り過ぎてしまったのではないかと気づき、一抹の不安を胸に抱く。「えっと」と申し訳なさそうにセラが眉を下げて間を繋ごうとするのと、伊檻がどこか困ったように笑ったのはほとんど同時だった。
「ぜひとも相談に乗っていただきたいと言いたいところなんですが……。とはいえ、さすがに具体的にこれを買うべきだと決めていただくわけにもいきませんからねー。事前に欲しいものを聞けていればよかったんですが、あいにくそれができなくて」
「でも、奥様の好きなものはご存知なんですよね?」
「ある程度は。ただ、俺がそう思っているだけで、本人から聞いたわけではないんです。俺が勝手に選んだものを贈って、好みに合わなかったら困らせてしまう。使いもしないものに、礼を言わせるのもあまり趣味がいいとは言えませんから」
「うーん……。でもわたしは自分のことを考えて選んでくださったものなら、それだけでも嬉しいと思います」
「それが、欲しいと思っていたものではなくても?」
「はい。全然好きではないものだったら、少し困ってしまうかもしれませんけれど……。でも、その人がどうしてそれを選んでくださったのかがわかれば、嬉しいと思います。似合うと思ったとか、好きそうだと思ったとか。自分のことを考えてくださった時間があったのなら、それはきっと相手にも伝わるはずです」
セラがそう言い切ると、伊檻はすぐには答えなかった。
白いカップの縁へと落としていた視線を、ゆっくりとセラへ戻す。いつもと変わらない柔らかな表情だったが、そこに浮かぶ笑みは先ほどまでのものとは少しだけ違って見えた。
「参考になりました。とても」
「本当ですか?」
「ええ、少なくとも。贈り物を選ぶのに必要なのが、正解だけではないらしいということはわかりました」
「……はい。きっと、そうだと思います」
少しでも役に立てたことが嬉しくて、セラは微笑む。
「だから月満さんが奥様のことを考えて選んだものなら、喜んでもらえると思います。奥様のことを大切に思っていらっしゃることが、わたしにだってわかるんですから」
「大切——そうですね。そこはたぶん、間違っていないと俺も思います」
「たぶん、……なんですか?」
「間違っていないと思いたい、という方が正確かもですねー」
また、妙に歯切れの悪い言い方だった。
セラは首を傾げたが、伊檻はすぐには続きを口にしなかった。カップを持ち上げ、ひと口だけ紅茶を飲む。その姿は考えるための間を作っているようにも見えた。彼がそうして、どうぞと勧めるようにテーブルの上のケーキへと手を向けたので、セラも頷きを返して、フォークを手に取る。
「……」
伊檻は、言うべきか言わざるべきかを少し迷っていた。
何を。というと自分の結婚に関して、目の前の少女に明かしていないことについて、だ。
妻への贈り物に悩んでいるというのは嘘ではなかったが——、元々自分の結婚話については軽い世間話で終わらせるつもりの話題だった。セラフィーナという少女の強張りを解き、自然な会話の中で彼女が何を悩んでいるのかを聞き出せれば、それでよかったから。
しかし、目の前の少女はただの顔見知りの他人の結婚をまるで自分のことのように喜び、会ったこともない妻への贈り物を真剣に考えて、自分の言葉が役に立ったのかと期待に満ちた嬉しそうな顔でこちらを見る。単純というには、純粋だった。
このまま話を終えるのは、騙しているとまでは言わないが、どうにも居心地が悪い。
「セラフィーナさん。せっかくここまで真剣に相談に乗っていただいたあとで言うのも、少々申し訳ないんですが……」
ケーキを口に運びかけた手を止めて、続きの言葉を待つように視線を向けたセラに向け、伊檻はふっと小さく息を吐いた。
「たぶん俺、来年の今頃には独り身に戻っていると思うんですよねー」
「……えっ。え……? それは、その……奥様と……?」
狼狽するセラが「離婚なさるんですか?」と小さな声で尋ねるのと、伊檻が「別れることになると思います」と返したのはほとんど同時だった。
セラは呆然と彼を見つめ、それから目を泳がせて、さらに自分がケーキを食べようとしていたことを思い出し、宙に浮いたままだったそれを一度口に運んだ。一口目のケーキはとてもおいしかったのに、二口目のケーキはほとんど味がわからなかった。
一瞬、冗談かと疑う。だが、目の前の伊檻の表情を見上げると、すぐに違うとわかってしまった。
「でも、月満さんは今、奥様への贈り物に悩んでいらっしゃると」
「ええ。その通りです」
「お別れするつもりなのに、ですか?」
見合いで結婚したばかりだと言っていた。それが、来年には別れているだろうという……。セラにとって、どうしてもその二つの話が結びつかない。だからこそ、そう聞いてしまった。
口にした直後、失礼な尋ね方だったと気づいたが、伊檻は動揺はもっともだろうというように頷いて、咎めることはなかった。
「別れる予定だからといって、今、大切でないことにはならないでしょう?」
伊檻が彼の妻を大切に思っていることは、嘘とは思えない。だってそうだろう。仕事でロンドンに来た合間に、贈り物一つを選ぶために悩み、好みでないものを渡して困らせることまで気にしている。できれば相手を喜ばせたいと思っているはずだ。少なくとも、どうでもいい相手に向ける態度とは思えない。
セラは彼の妻を知らないので、相手側はそうではないのかもしれないと、一瞬は考えた。だが、伊檻にどんな方かと尋ねた時、彼はこう言った——俺が曖昧に笑って済ませようとすると、ちゃんと怒ってくれる人、ですかね。と。
「それなら、どうして別れなくてはいけないんですか」
セラはほとんど間を置かずに尋ねた。
伊檻は少し驚いたように目を瞬き、それから声を立てて笑った。
「あ。それを聞いちゃいますかー」
「だって伊檻さんなら、とても優しそうな旦那さまになれそうなのに」
「あはは、そう見えてましたー?」
「はい。わたしにはそう見えます」
迷いなく言い切るセラを前に、伊檻はまた笑みを深めた。
彼をよく知る同僚が聞けば、ずいぶんと見る目がない評価だと言うだろう。柔和な物腰の裏で何を考えているのかわからない、と言われることも多い。月満伊檻は家庭に向かないと言われれば、「まあ、そうだろう」と納得を示す同僚もきっと多いはずだった。
けれど目の前の少女は、そんな事情など何ひとつ知らないから、だろうか。彼の言葉や、まだ会ったこともない彼の妻への気遣いだけを見て、伊檻は優しい夫になれるはずだと信じているらしい。
それが皮肉でないと分かるからこそ、伊檻にとっては、ことさらにおかしかった。
「あはは、そんなふうに言っていただけると少し照れますねー」
冗談めいた声にも、セラは笑わない。
「……じゃあ、こう言い換えましょうか。思い合うことと、その人の傍で生きることは、案外、別物なんですよ。だから、俺は優しい夫ではなかったと思います。少なくとも彼女から見れば……きっと、とてもひどい夫だったでしょうね」
反射的に否定しかけるセラに、伊檻は穏やかに首を横へ振った。彼はカップを持ち上げて、ミルクを注いで濁った紅茶の水面に視線を落とす。
「聞かれたついでに、正直に話しますね。あの人は、強い俺が見たいわけでも、俺に世界を救うヒーローになってほしいわけでもなかった。ただ、ちゃんと帰ってきてほしい。……それだけだったんです。それだけを、俺には約束できなかったんですよ」
「……どうして、ですか?」
伊檻は、答えを探すように少しだけ視線を上に向けた。
「俺はね。自分の大切な人たちが生きるこの世界を守れるなら、命を懸けることも選んでしまう人間なんです」
その声は終始穏やかで、誇るようでも、悲しむようでもなかった。ただ、変えることのできない事実をそのまま受け入れて、述べているような響きだった。
「もちろん、死にたいわけではありませんし、進んで命を捨てるつもりもないんですが。自分が必ず帰ることを一番に選べるかと聞かれたら……たぶん、無理でしょうねー。あの人には、それがわかっているんです。だから俺には、彼女を安心させてあげることができない」
「それで、別れようと……?」
「俺が変われない以上、耐え続けてくれとは言えないでしょう」
その言葉の後、ふっと場の空気が緩んだ。伊檻は、いつもの調子に戻ったように笑う。
「いやあ……結婚するまで気付きませんでしたねー。家庭人の才能だけが、どうやらなかったみたいで」
セラは膝の上で重ねていた指先に力を込めた。一瞬だけ、目を伏せて。それから確かめようとするように「月満さんは、」と問いかける。伊檻はカップに落としかけた視線を上げ、続きを促す。
「それでも、奥さまのことを愛していらっしゃいますか」
「——はい」
短い肯定。そこを曖昧にする余地など初めからないと言うような、迷いのない声。セラもまた、はっきりとわかっていた。その言葉には偽りなどなく、心からそう思っている人の言葉だと。
セラはしばらく伊檻の顔を見つめて、わずかに眉を下げて笑う。唇には笑みらしきものが浮かんだが、それはいつもの明るい笑顔にはならなかった。泣きそうになるのを隠すために、どうにか形だけ整えたような微笑みだった。
伊檻はそれを見て、ほんの少し目を細める。少しだけ身を引いて、重くなった話を再び終わらせようとするようにいつもの柔らかな笑みを浮かべた。
「いやあ。俺ばかり、ずいぶん話してしまいましたねー」
「いえ、そんな」
「真剣に聞いてくださってありがとうございます。あまり人に話すようなことでもないので、聞いていただけて助かりました」
セラは小さく首を横に振る。
「わたしは、なにも……」
「十分ですよ。こういうものは、本当はひとりで抱えすぎてはいけないものですから」
伊檻は一度カップへ手を伸ばした。取手へ指先を添えながら、持ち上げることはせず、「それで、セラフィーナさんは」と前置いてからセラを見る。
「シグルスさんと喧嘩でもしちゃいましたか?」
その名前が出された瞬間、セラは目を見開いた。どうして、という困惑がそのまま唇からこぼれ落ちる。
悩みがあるとも、その理由が誰にあるとも、セラは一度も伊檻に話していない。シグルスの名前すら、今日彼に会ってからは口に出したこともなかったはず——。
驚いたまま伊檻を見つめたあと、セラは膝の上に視線を落とした。自分が隠しごとに向かないことはわかっていたが、伊檻にまで見抜かれてしまうとは思わなかった。重ねていた両手の指を組み直し、ためらいを滲ませながら頷く。
「……はい。先日、喧嘩みたいになってしまって」
あれを喧嘩と呼んでよいものか、自分でもわからない。セラは迷いが滲んだ自身の言葉を曖昧に否定するように、そのまま首を横に小さく振る。
「わたしが、ちゃんとお話しできなくて。子どもみたいに、泣いてしまったんです。それに、今朝も……とても、よくない態度をとってしまいました」
口にしたことで再びはっきりと思い出された光景に、情けなさが一気に蘇る。セラは無意識に震えそうになる口角を引き結んだ。
気落ちして項垂れるセラがそのまま沈黙すると、その耳には「あー」という短い声が届いた。すぐに「それで、ですかー」と続いた呟きは、驚いたというより、何かがひどく腑に落ちた時の相槌のように聞こえた。
セラはおずおずと、目線だけをあげて伊檻を見る。
「なにが、ですか?」
「いえいえこっちの話です。色々と気になっていたことに合点がいったというか」
伊檻は、軽く片手を振って笑い、なんでもないことのように誤魔化した。
セラフィーナには知る由もないことだが、伊檻はつい数時間前、職場の会議室で明らかに機嫌を損ねていた男の姿を見ている。シグルスが露骨な苛立ちを表に出すことは、そう多くない。今日の会議の場においても声を荒げたり、部下へ理不尽に当たるということはなかったが、返答が普段より短く、判断が妙に早い。単に苛立っているというより、別の気が仮に意識を取られているようにも見えた。
伊檻にとって、シグルスはとてもわかりやすい人間の部類に含まれる。
原因として思い当たるものはいくつかあったが、偶然出会った彼の庇護下にいる少女には、泣き腫らした跡が残っており。その本人から、シグルスと喧嘩のようなものをして泣いたと聞かされれば、おおよその事情を察せられるだけの材料が伊檻には揃っている。
もっとも、それを知っている顔をするのは無遠慮だろう、と。伊檻はあくまで何も知らないていのまま、目の前で子どものように泣いてしまったと表情を曇らせる少女へ向き直った。
「うーん、なるほど。でも、泣きたい時くらい、泣いたっていいと思いませんか?」
「だめなんです」
セラはすぐに首を横へ振った。
予想していたよりも強い否定に、伊檻はわずかに眉を上げたが、口を挟まず続く言葉を待つ。
「大人は、簡単に泣いたりしませんから」
「……そうですかねー。大人でも泣く人は泣くと思いますけど」
「でも、きっとあんなふうには泣かないはずです。何も言えなくなって、逃げるみたいに部屋を出たりなんて——」
セラは再び俯いた。
「わたしは、ちゃんとお話ししたかったんです。もっとちゃんと、聞いてほしいことも、話したいこともたくさんあったのに。なのに、泣いてしまったから、なにも伝えられなくなって」
「泣いたことそのものよりも、話を聞いてもらえないことが嫌だった?」
「……それは、」
伊檻の問いかけに、セラの視線が揺れた。違うと否定しかけて、止まるような間があった。泣いてしまったことは恥ずかしいし、何も言わずに逃げ出したことにも後悔している。
——でも、本当は。
自分の中でうまく言葉にできない感情をさらおうとするような時間の後でセラが「そうかも、しれません」と呟いて頷く。伊檻は続く言葉を急がせなかった。否定も肯定もせず、ただ待った。目の前の小さな子どもの中で、言葉の整理がつく瞬間を。
セラはしばらく黙り込んでいたが、やがてゆっくりと息を吐いた後で言った。
「わたしは、早く大人になりたかったんです。本当はまだ子どもでも、背伸びをしてでも、大人として扱ってほしかった。わたしの言うことを、子どもの言うことだからって決めつけないで、ちゃんと聞いて欲しかったんです。それなのに子どもみたいに泣いたら、やっぱりまだ子どもなんだって思われてしまうでしょう……? そうしたら、いつまでだっても、わたしのことを……」
それ以上は続かなかった。庇護されるだけの子どもではなく、一人の人間としてみてほしい。対等な立場に立って、自分の言葉を聞いてほしい。そこまで口にすれば、自分が何を求めているのかまで明かしてしまいそうで、セラはまた唇を引き結んだ。
伊檻はその言葉にならなかった部分までを無理に尋ねようとはしなかった。ただ背伸びをしてでも大人の側へ立とうとし、自分の感情さえ未熟さの証拠として押し殺そうとしている少女を見つめる。
伊檻にも、少しだけ見覚えのあるものだった。
大人が何を望んでいるのかを先に考えること。
困らせても何も変わらないと悟り、口にする前に諦めること。
聞き分けのよい子どもでいる方が、誰にとっても都合が良いと覚えてしまうこと。
「……そうですねー」
それを誤りだったとは、今も思っていない。けれど、こうして自分が子どもと向き合う側になってみれば、もう少し困らせてもよかったのではないかと、今さらながらに思うことはあった。
「でもね、セラフィーナさん。これは俺の持論ですけど」
伊檻は少し間を作って、その間に顔を上げたセラの目を見返した。
「子どもだからこそ許される特権というものも、あると思いますよ」
「特権、ですか」
「ええ。大人になると、どうしても正しさとか相手の事情とか、そういうものを先に考えるようになるんです」
伊檻は軽く肩を竦める。
「大人同士で生きていくにはその方が都合がいいですからねー。ただ、そのうち、自分が本当はどう思っているのかを後回しにすることばかり上手くなってしまう」
「……」
「でも、あなたはまだ、そこまで上手に我慢しなくていいんですよ。悲しい時には泣いて、嫌なら嫌だと言う。納得できないなら怒ったっていい」
「……わがままではありませんか」
「ですねー。俺も昔はそう思っていました」
伊檻はあっさりと同意する。
「正しいかどうかで言えば、間違っていることだってあるでしょうね。泣いたからといって何でも許されるわけではないし、嫌だと言ったからといって相手が必ず言うことを聞いてくれるわけでもない。でも、自分の気持ちを伝えることまで、悪いことにはなりません」
相変わらず穏やかな声音で、淡々と言葉は続く。
「それに真正面から気持ちをぶつけられると大人は案外、弱いものなんですよ。だからシグルスさんにはもう少しそのままぶつかってみてもいいと俺は思います」
「でも、それも少し、ずるい気がします」
「ずるいですよ?」
伊檻は目を細めて笑う。
「でも、今しか使えないずるさです。大人になれば、気持ちだけではどうにもならないことが増えますからねー」
そこで一度言葉を切って、伊檻は少し肩を竦めた。
「泣いて、怒って、嫌だと言って。それでシグルスさんが困るなら、困らせればいいんですよ。そのあとどうするかを考えるのは、あの人の仕事です。あなたが先回りをして、大人を困らせないように全部を飲み込む必要はありません」
セラは、わずかに目を見開いた。
早く大人になりたいと願ってきた彼女にとって、子どもであることを理由に感情を隠さなくてもよいという発想は、どこか居心地が悪い。それを、大人であるはずの伊檻から当然のことのように示されたこと自体に、戸惑いを覚えていた。
ただ耳を傾けるセラから答えがなくとも、急かすことなく一拍置いて、伊檻の言葉は続く。
「子どもが先回りをして大人を困らせないように、なんて自分の気持ちを飲み込む必要はありません。大人のために我慢することまで、急いで覚えなくていいんですよ」
「……」
「背伸びをして、大人らしくしようとするのも悪いことじゃありませんが、使わないまま大人になってしまうと、後から取り戻すのは難しいですからねー」
その言葉だけは、どこか自分自身へ向けているようにも聞こえた。けれどセラがその意味を尋ねるより先に、伊檻は笑みを深めて言った。
「子どもでいられる時間にしか使えないものも、ちゃんとあるって覚えておいてくださいね」
セラフィーナは、ひとり。その前で足を止めた。
ナイツブリッジの大通りに面した老舗百貨店の中は、クリスマスを待つ人々で華やいでいる。店内の至る所に金や赤の装飾が凝らされたツリーが置かれ、どこか遠くで聞き覚えのあるキャロルが流れていた。家族連れの子どもがショーウィンドウを指差してはしゃぐ姿や、若い男性が店員に相談しながら小さな箱を手に取る姿。その空気はとてもあたたかくて、きらきらと輝いていて——だからこそセラは今、自分がこの場に一人で立っていることを意識せずにはいられなかった。
——クリスマスホリデーで帰省している間くらい、少し気分転換をなさってはいかがですか。百貨店なら暖かいですし、綺麗なものもたくさんございます。おいしいものを召し上がってくるだけでも、きっと楽しいと思いますよ。
そう言って外出を勧めてくれたのは、シグルス家に雇われている使用人だ。送迎まで手配され、セラはここへ来た。迎えの時間は決まっていて、それまでは自由に見ていいと言われている。
気を遣ってくれたのだろう、と思う。……けれど、そうして差し出されたこの時間を持て余してしまっていた。
一人で過ごす時間が、嫌いなわけではない。でも、誰かと同じものを見て、同じことで笑う時間の方がセラはずっと好きだった。素敵なツリーを見れば「見てください、きれいですね」と言いたくなるし、甘い香りがすれば「なんの匂いでしょう? とてもおいしそうです」と言って、探したくなる。誰かが隣にいてくれたなら、きっとそれだけで、今よりもっと楽しかっただろう。そう考えずにはいられない。
そんな中、チョコレート売り場の前で足が止まったのは幼い頃にシグルスの父が土産だと言って、何度も買ってきてくれた『とっておき』を思い出したからだ。シグルスが淹れてくれたおそろいの特別な一杯と共に、セラは何度もそれを食べた。
これは甘い。
これは少し苦い。
これは、君にはまだ早いかもしれないな。
……
どれから食べようか迷った時は、隣に座った彼がなんでもない顔でいつも一つを選んでくれる。
そんなふうに大好きな人と、何かを分け合って笑う時間が何よりも好きだった。
昨日、シグルスが婚約の話を整理しようと言い出した。セラはついにこの時が来たのだと思ったし、それでも最初はまだ落ち着いて話ができるとも思っていた。そうしなければいけない、とも。だがその結果は、どうだったか。震えた声でうまく整わないまま言葉を続けて、最後には感情のままに泣きながら部屋を飛び出した。
夜は、ほとんど眠れなかった。枕に顔を押し付けても涙は止まらず、鼻の奥と喉がひりひりと痛んだ。何度も寝返りを打って、その度にシグルスの顔が浮かんだ。驚いたような、困ったような、動揺を必死に抑えているような、顔。
——おにいさまの前で泣くのは、いちばん嫌だった。
——あの人の前でだけは泣きたくなかったのに、あんなふうに泣いてしまった。
シグルスを想うこの気持ちは本物だし、今も、これから先も変わらないとセラフィーナは信じている。
だからこそ、感情に訴える子どもみたいな真似をして、やっぱり子どもだと、そう思われるのが怖かった。好きな人から「なにもわかっていない子ども」だと扱われることだけは避けたかった。でも、失敗してしまった。
それを延々考えて、考えて、朝は来た。
朝食に行かないという選択肢は、セラにはなかった。食事の席に現れなければ、避けているように見えるだろう。だから、冷たい水で何度も顔を洗って、鏡の前で目元を押さえた。けれど、一晩中泣いていた目はどうしたって赤く腫れていて、普段のようには戻らなかった。
扉を開けた時、シグルスはもう席についていて新聞を開いていて。セラが姿を見せると、彼はすぐに顔を上げた。
「おはよう、セラ」
いつもと同じ声だった。少なくとも、そうしようと努めている声だと思った。
いつものセラなら「おはようございます」と朗らかに笑って、彼のすぐ近くの席に座る。それから、昨夜見た夢の話や今日の予定や、なんでもないことを話す。けれどその朝は掠れた声で挨拶を返して、彼から少し距離を開けた場所に着席して、そのまま俯くことを選んだ。シグルスが何か言いたげにこちらを見ていることはわかっていたが、結局、彼もそのまま沈黙を保っていた。
「今日は、これから少し出てくる。帰りは少し遅くなるかもしれないから夕食は先に済ませて、何か……必要なものがあれば、家の者に言いなさい」
「……はい」
朝食を済ませた後で、シグルスは必要な連絡だけを独り言のように伝えて、静かに席を立った。足音が遠ざかり、扉が閉まる。そこでようやく、セラは息を吸った。
当てつけのつもり、ではなかった。避けたかったわけでもない。ただ腫れてしまった目を見られたくなかったからだ。昨日あれほど泣いて、今朝ですらまだ泣きそうな顔をしていることを知られたくなかっただけ。言い訳のようにそう思った。
……だけど、彼の目にはどう見えただろう?
挨拶だけで、離れた席に座って、目も合わせずに頷きだけを返すところを、どう思っただろう。それは、避けているように見えなかっただろうか。昨日のことを怒って、もう話したくないと言っているように見えなかっただろうか。
……違うのに。嫌いになったわけでは、ないのに。むしろ、好きだから、どうしていいかわからなくなっているだけなのに。
自分のこういうところがやっぱり子どもなんだ、そう落ち込みながらセラはケースの中のチョコレートを見つめたまま、胸元で手を握り込んだ。
「あの」
ようやく、ガラスケースの向こうの店員へ声をかける。自分の声が思ったよりも心細く響いた気がして、少し恥ずかしくなった。だが、店員はすぐに穏やかな笑顔を向けてくれる。
「お決まりでしょうか」
「こちらの詰め合わせをひとつ、いただけますか」
「かしこまりました。贈り物でございますか?」
少しだけ返答に迷って、セラは頷いた。リボンは深い緑のものを選んで、きれいに結んでもらう。せっかく百貨店に来たのだから今朝のことをちゃんと謝るきっかけになればと考えて選んだその品は、この時期だからということもあってか、私的なクリスマスプレゼントのようにも見えた。
会計を済ませ、紙袋を受け取る。その時だった。
「——クリスマスプレゼントですか?」
不意に柔らかい声がして、セラは思わず肩を揺らす。
驚いて振り返ると見覚えのある人物が立っていた。白いスーツを見に纏い、胸の前に持ち上げた手を軽やかに振りながら柔和な笑みを浮かべた男の顔を見上げて、セラは一瞬きょとんとした表情を浮かべる。そして、目を見開いた。
「月満、さん……?」
「おや。覚えていていただけましたか。光栄ですねー」
「まあ! 本当に月満さんなんですね。お久しぶりです、こんな場所でお会いするなんて」
セラは思わず声を明るくした。知らない人ばかりの百貨店で知っている顔に出会えたことは、思った以上に大きな驚きと心強さを彼女にもたらしていた。
声をかけてきたのは月満伊檻という男で、月満都湖の兄であり、シグルスが所属する中立機関C3の東京支部支部長を務める人間だ。
セラフィーナにとってはほとんど顔と名前を知っているだけの、シグルスの同僚という距離の人で、特別親しいわけではなく、二人きりで話すのも初めてに近い。けれど、セラはあまり人見知りをしないたちであったし、いつも柔らかく話す彼のことを怖いと思ったことがなかった。
「こちらへはお仕事で?」
「ええ、まあ。そんなところです。本部で少し打ち合わせがありまして」
「そうだったんですね」
「まったく、本部は人使いが荒くて困りますねー。なんて……あ、今のはシグルスさんにはオフレコでお願いしますね」
人差し指を唇の前に立てるようにして言われ、セラはつい笑ってしまった。
「わかりました。内緒にします」
「助かります。あの人、冗談を冗談として聞き流す時と、妙に真面目に受け取る時がありますから」
冗談めいた調子に少しだけ肩の力が抜ける。
伊檻の視線はセラが持つ紙袋に向き、また彼女の顔へと戻った。腫れの残る目元か、少しだけぎこちない笑みに強張った頬か。ほんの一瞬、何かを確かめるような間があって――それから、何でもないことのように軽い調子で話は続く。
「今日はおひとりですか?」
「はい。家の者が送ってくれて……お迎えの時間までは好きに見ていいと」
「なるほど。気分転換にお買い物、といったところですか」
「! ……はい。そう勧めてもらいました」
「こういう場所は見るだけでもなかなか賑やかですからねー。今の時期は、少々賑やかすぎるくらいですが」
「伊檻さんもお買い物ですか?」
「ええ、出張の土産を少し見に来ました。東京支部へのものと、あとは……まあ、家にも少し」
その口ぶりに妙な歯切れの悪さを感じて、セラが「ご家族に?」と聞き返すと伊檻はやはり曖昧に頷いた。会話が一旦途切れたので、セラは改めて伊檻の姿を見る。冬物のコートは着ているが、その手には鞄一つも荷物は持たれておらず、身一つで百貨店に立ち寄ったような出立ちに見える。仕事帰りにも見えず、かといって買い物をちょうど終えたところにも見えなかった。
「お迎えまでは、まだ時間がありますか?」
「えっ。あ、はい。少しなら」
「では、よければ上のティールームで休憩しませんか。俺も、そろそろ座る場所を探していたところなんです」
「えっと、お仕事のほうは……? あと、お土産探しも……」
「打ち合わせは終わっていますし、土産選びにも行き詰まっていたところなんですよ。ひとりで悩んでいると、手土産ひとつ決めるのにも時間がかかりますからねー。それに、こんなところでお会いできたのも何かの縁です。百貨店の中とはいえ冬のロンドンですから、温かいものでも一緒にどうでしょう」
そう言われると、断る理由が見つからなかった。
「それなら少しだけ、ご一緒してもいいですか」
正直なところ、セラは少しだけ疲れていたのだ。クリスマスシーズンに飾られた百貨店の中は美しく、見て回るだけでも楽しい。けれど、その華やかさの中をひとりで歩くのは、まだ胸の中に大きなわだかまりを抱えたままだ。このあとの時間をどう過ごそうかも決まっていない中、伊檻から示された提案はとても魅力的で、セラにとっては願ってもない話だった。
百貨店の上階にあるティールームへと場を移し、窓際から少し奥まった二人掛けのテーブルにつく。店員が運んできたメニューを眺め、セラは勧められるまま小さなチョコレートケーキと紅茶を選び、伊檻は人に勧めておきながらケーキを「ではあとで必要になったら」と断って、紅茶だけを頼んだ。
注文を済ませると、一段落ついたように沈黙が落ちる。気まずい沈黙ではなかったが、セラは今更ながら何から話せばいいのか迷って、膝の上で手を重ねた。
伊檻がふと、店内の奥へ一度視線を向ける。高い天井から下がるシャンデリアの光が照らす、少し離れた席で年配の夫婦が三段のティースタンドを挟んで静かに話す姿があった。それから彼は「そういえば」とたった今思い出したような調子で言う。
「ついこの間、結婚したんですよ。見合いですけどね」
「えっ」
「結婚です。と言っても、こちらの方に報告して回るほどのことでもないので、まだご存じなくて当然なんですけど」
「まあ……!」
胸に広がる驚きと共に、セラは色めき立つ声を上げて両手を合わせた。
実際のところこの報告は、『結婚』という言葉の重さに反してあまりにも軽い調子で告げられ、まるで「今日は冷えますね」とでもいうような定番の世間話めいた延長かのように差し出されていたが、セラはまるで自身の祝い事であるかのように「おめでとうございます」と祝福した。伊檻は穏やかに笑いながら、「ありがとうございます」と言う。
その笑みには、新婚の人が見せるような浮き立った明るさはあまりない。セラはそれに気付いてほんの少しは不思議に思ったが、照れているのかもしれない、とそれ以上気にすることもなかった。
「奥様はどんな方なんですか?」
「そうですねー」
伊檻は紅茶が来る前の空のカップを見下ろして、少し考える素振りを見せる。
「しっかりした人——というか。俺が曖昧に笑って済ませようとすると、ちゃんと怒ってくれる人、ですかね」
「月満さんが叱られるところは、あまり想像できませんね」
「そうですか? わりと叱られますよ。大抵は俺が悪いのでいつも反論の余地がないんですけどねー」
そう言って困ったように肩を竦める伊檻の姿に、セラは小さく笑う。……頭の片隅で、彼女はいつか幼き日に見たシグルスの妹の結婚式を思い出した。
一家の全員が一堂に会するクリスマスの時期に夫と子どもを連れて生家に戻ってくる『おねえさま』のことを考えながら、伊檻さんもきっと穏やかで素敵な家庭を築くのだろうな、と思った。セラフィーナから見た『月満伊檻』という男はそんな当たり前の想像が、ごく自然に浮かぶような、気遣いのできる物腰柔らかな紳士だったからだ。
結婚という言葉を聞くと、シグルスのことを思い出さないほうが難しかった。昨日の話と、今朝の食卓と、それから今までのすべて、胸に抱えるわだかまりも、それらは全部そこへ繋がっている。
けれど今は、伊檻の話が先だと、セラは自分のことを押し込めてもう一度笑顔を浮かべた。
「ご縁があって一緒になられたんですね。とても、素敵だと思います」
「素敵、ですか」
「はい。だってこれから、人生を共に過ごしていけるのでしょう?」
同じ屋根の、暖炉の火が揺らめくあたたかな部屋で、クリスマスも、誕生日も、何でもない日も。朝起きて挨拶をして、同じ食卓につき、同じ家に帰って、おやすみを言って眠る。そんな生活を想像してしまうのは、少し子どもっぽかったかもしれない。それでも、セラフィーナにはそれがとても、幸せなことに思えた。それこそが、幼い頃からの彼女の憧れだったから。
伊檻はセラの言葉に否定も肯定もせず、ふっと小さく息を吐いて、「それで、ですねー」と続けた。
「少し困っていまして。妻へのクリスマスプレゼントというものを、どうしたものかと」
「……! では、もしかして先ほどお土産に悩んでいるとおっしゃっていたのは——」
またも手を合わせて、セラは思わず身を乗り出す。ちょうどその時、注文していた紅茶が運ばれてきたので、セラは目を瞬かせる店員の顔を見上げ、静々と再び椅子に腰を落ち着けた。少しだけ熱くなった頬を両手で挟んで、か細く「……失礼しました」と俯く。
テーブルには白いポットと、ちょうどセラが視線を下げていた余白を埋めるようにしてクリスマスらしい砂糖菓子を添えたケーキの皿が置かれた。セラは気恥ずかしさにますます身を小さくし、店員が去ってからもそうしていたが、伊檻が堪えきれずといったように上げた小さな笑い声を聞いて、そっと顔を上げた。伊檻は慌てたふうな素振りで手のひらを見せて言う。
「——ああ、すみません。そこまで真剣に受け取っていただけるとは思わなかったので」
「……だって、とても大切なことですもの。奥様への贈り物に悩んでいらっしゃるなんて、素敵じゃありませんか。私にできることなら協力したいくらいです!」
小さな握りこぶしと共にまっすぐに言い切ったセラを、伊檻は静かに見つめた。そのまま僅かな沈黙が生まれ、その間にセラはまた自分が勝手に張り切り過ぎてしまったのではないかと気づき、一抹の不安を胸に抱く。「えっと」と申し訳なさそうにセラが眉を下げて間を繋ごうとするのと、伊檻がどこか困ったように笑ったのはほとんど同時だった。
「ぜひとも相談に乗っていただきたいと言いたいところなんですが……。とはいえ、さすがに具体的にこれを買うべきだと決めていただくわけにもいきませんからねー。事前に欲しいものを聞けていればよかったんですが、あいにくそれができなくて」
「でも、奥様の好きなものはご存知なんですよね?」
「ある程度は。ただ、俺がそう思っているだけで、本人から聞いたわけではないんです。俺が勝手に選んだものを贈って、好みに合わなかったら困らせてしまう。使いもしないものに、礼を言わせるのもあまり趣味がいいとは言えませんから」
「うーん……。でもわたしは自分のことを考えて選んでくださったものなら、それだけでも嬉しいと思います」
「それが、欲しいと思っていたものではなくても?」
「はい。全然好きではないものだったら、少し困ってしまうかもしれませんけれど……。でも、その人がどうしてそれを選んでくださったのかがわかれば、嬉しいと思います。似合うと思ったとか、好きそうだと思ったとか。自分のことを考えてくださった時間があったのなら、それはきっと相手にも伝わるはずです」
セラがそう言い切ると、伊檻はすぐには答えなかった。
白いカップの縁へと落としていた視線を、ゆっくりとセラへ戻す。いつもと変わらない柔らかな表情だったが、そこに浮かぶ笑みは先ほどまでのものとは少しだけ違って見えた。
「参考になりました。とても」
「本当ですか?」
「ええ、少なくとも。贈り物を選ぶのに必要なのが、正解だけではないらしいということはわかりました」
「……はい。きっと、そうだと思います」
少しでも役に立てたことが嬉しくて、セラは微笑む。
「だから月満さんが奥様のことを考えて選んだものなら、喜んでもらえると思います。奥様のことを大切に思っていらっしゃることが、わたしにだってわかるんですから」
「大切——そうですね。そこはたぶん、間違っていないと俺も思います」
「たぶん、……なんですか?」
「間違っていないと思いたい、という方が正確かもですねー」
また、妙に歯切れの悪い言い方だった。
セラは首を傾げたが、伊檻はすぐには続きを口にしなかった。カップを持ち上げ、ひと口だけ紅茶を飲む。その姿は考えるための間を作っているようにも見えた。彼がそうして、どうぞと勧めるようにテーブルの上のケーキへと手を向けたので、セラも頷きを返して、フォークを手に取る。
「……」
伊檻は、言うべきか言わざるべきかを少し迷っていた。
何を。というと自分の結婚に関して、目の前の少女に明かしていないことについて、だ。
妻への贈り物に悩んでいるというのは嘘ではなかったが——、元々自分の結婚話については軽い世間話で終わらせるつもりの話題だった。セラフィーナという少女の強張りを解き、自然な会話の中で彼女が何を悩んでいるのかを聞き出せれば、それでよかったから。
しかし、目の前の少女はただの顔見知りの他人の結婚をまるで自分のことのように喜び、会ったこともない妻への贈り物を真剣に考えて、自分の言葉が役に立ったのかと期待に満ちた嬉しそうな顔でこちらを見る。単純というには、純粋だった。
このまま話を終えるのは、騙しているとまでは言わないが、どうにも居心地が悪い。
「セラフィーナさん。せっかくここまで真剣に相談に乗っていただいたあとで言うのも、少々申し訳ないんですが……」
ケーキを口に運びかけた手を止めて、続きの言葉を待つように視線を向けたセラに向け、伊檻はふっと小さく息を吐いた。
「たぶん俺、来年の今頃には独り身に戻っていると思うんですよねー」
「……えっ。え……? それは、その……奥様と……?」
狼狽するセラが「離婚なさるんですか?」と小さな声で尋ねるのと、伊檻が「別れることになると思います」と返したのはほとんど同時だった。
セラは呆然と彼を見つめ、それから目を泳がせて、さらに自分がケーキを食べようとしていたことを思い出し、宙に浮いたままだったそれを一度口に運んだ。一口目のケーキはとてもおいしかったのに、二口目のケーキはほとんど味がわからなかった。
一瞬、冗談かと疑う。だが、目の前の伊檻の表情を見上げると、すぐに違うとわかってしまった。
「でも、月満さんは今、奥様への贈り物に悩んでいらっしゃると」
「ええ。その通りです」
「お別れするつもりなのに、ですか?」
見合いで結婚したばかりだと言っていた。それが、来年には別れているだろうという……。セラにとって、どうしてもその二つの話が結びつかない。だからこそ、そう聞いてしまった。
口にした直後、失礼な尋ね方だったと気づいたが、伊檻は動揺はもっともだろうというように頷いて、咎めることはなかった。
「別れる予定だからといって、今、大切でないことにはならないでしょう?」
伊檻が彼の妻を大切に思っていることは、嘘とは思えない。だってそうだろう。仕事でロンドンに来た合間に、贈り物一つを選ぶために悩み、好みでないものを渡して困らせることまで気にしている。できれば相手を喜ばせたいと思っているはずだ。少なくとも、どうでもいい相手に向ける態度とは思えない。
セラは彼の妻を知らないので、相手側はそうではないのかもしれないと、一瞬は考えた。だが、伊檻にどんな方かと尋ねた時、彼はこう言った——俺が曖昧に笑って済ませようとすると、ちゃんと怒ってくれる人、ですかね。と。
「それなら、どうして別れなくてはいけないんですか」
セラはほとんど間を置かずに尋ねた。
伊檻は少し驚いたように目を瞬き、それから声を立てて笑った。
「あ。それを聞いちゃいますかー」
「だって伊檻さんなら、とても優しそうな旦那さまになれそうなのに」
「あはは、そう見えてましたー?」
「はい。わたしにはそう見えます」
迷いなく言い切るセラを前に、伊檻はまた笑みを深めた。
彼をよく知る同僚が聞けば、ずいぶんと見る目がない評価だと言うだろう。柔和な物腰の裏で何を考えているのかわからない、と言われることも多い。月満伊檻は家庭に向かないと言われれば、「まあ、そうだろう」と納得を示す同僚もきっと多いはずだった。
けれど目の前の少女は、そんな事情など何ひとつ知らないから、だろうか。彼の言葉や、まだ会ったこともない彼の妻への気遣いだけを見て、伊檻は優しい夫になれるはずだと信じているらしい。
それが皮肉でないと分かるからこそ、伊檻にとっては、ことさらにおかしかった。
「あはは、そんなふうに言っていただけると少し照れますねー」
冗談めいた声にも、セラは笑わない。
「……じゃあ、こう言い換えましょうか。思い合うことと、その人の傍で生きることは、案外、別物なんですよ。だから、俺は優しい夫ではなかったと思います。少なくとも彼女から見れば……きっと、とてもひどい夫だったでしょうね」
反射的に否定しかけるセラに、伊檻は穏やかに首を横へ振った。彼はカップを持ち上げて、ミルクを注いで濁った紅茶の水面に視線を落とす。
「聞かれたついでに、正直に話しますね。あの人は、強い俺が見たいわけでも、俺に世界を救うヒーローになってほしいわけでもなかった。ただ、ちゃんと帰ってきてほしい。……それだけだったんです。それだけを、俺には約束できなかったんですよ」
「……どうして、ですか?」
伊檻は、答えを探すように少しだけ視線を上に向けた。
「俺はね。自分の大切な人たちが生きるこの世界を守れるなら、命を懸けることも選んでしまう人間なんです」
その声は終始穏やかで、誇るようでも、悲しむようでもなかった。ただ、変えることのできない事実をそのまま受け入れて、述べているような響きだった。
「もちろん、死にたいわけではありませんし、進んで命を捨てるつもりもないんですが。自分が必ず帰ることを一番に選べるかと聞かれたら……たぶん、無理でしょうねー。あの人には、それがわかっているんです。だから俺には、彼女を安心させてあげることができない」
「それで、別れようと……?」
「俺が変われない以上、耐え続けてくれとは言えないでしょう」
その言葉の後、ふっと場の空気が緩んだ。伊檻は、いつもの調子に戻ったように笑う。
「いやあ……結婚するまで気付きませんでしたねー。家庭人の才能だけが、どうやらなかったみたいで」
セラは膝の上で重ねていた指先に力を込めた。一瞬だけ、目を伏せて。それから確かめようとするように「月満さんは、」と問いかける。伊檻はカップに落としかけた視線を上げ、続きを促す。
「それでも、奥さまのことを愛していらっしゃいますか」
「——はい」
短い肯定。そこを曖昧にする余地など初めからないと言うような、迷いのない声。セラもまた、はっきりとわかっていた。その言葉には偽りなどなく、心からそう思っている人の言葉だと。
セラはしばらく伊檻の顔を見つめて、わずかに眉を下げて笑う。唇には笑みらしきものが浮かんだが、それはいつもの明るい笑顔にはならなかった。泣きそうになるのを隠すために、どうにか形だけ整えたような微笑みだった。
伊檻はそれを見て、ほんの少し目を細める。少しだけ身を引いて、重くなった話を再び終わらせようとするようにいつもの柔らかな笑みを浮かべた。
「いやあ。俺ばかり、ずいぶん話してしまいましたねー」
「いえ、そんな」
「真剣に聞いてくださってありがとうございます。あまり人に話すようなことでもないので、聞いていただけて助かりました」
セラは小さく首を横に振る。
「わたしは、なにも……」
「十分ですよ。こういうものは、本当はひとりで抱えすぎてはいけないものですから」
伊檻は一度カップへ手を伸ばした。取手へ指先を添えながら、持ち上げることはせず、「それで、セラフィーナさんは」と前置いてからセラを見る。
「シグルスさんと喧嘩でもしちゃいましたか?」
その名前が出された瞬間、セラは目を見開いた。どうして、という困惑がそのまま唇からこぼれ落ちる。
悩みがあるとも、その理由が誰にあるとも、セラは一度も伊檻に話していない。シグルスの名前すら、今日彼に会ってからは口に出したこともなかったはず——。
驚いたまま伊檻を見つめたあと、セラは膝の上に視線を落とした。自分が隠しごとに向かないことはわかっていたが、伊檻にまで見抜かれてしまうとは思わなかった。重ねていた両手の指を組み直し、ためらいを滲ませながら頷く。
「……はい。先日、喧嘩みたいになってしまって」
あれを喧嘩と呼んでよいものか、自分でもわからない。セラは迷いが滲んだ自身の言葉を曖昧に否定するように、そのまま首を横に小さく振る。
「わたしが、ちゃんとお話しできなくて。子どもみたいに、泣いてしまったんです。それに、今朝も……とても、よくない態度をとってしまいました」
口にしたことで再びはっきりと思い出された光景に、情けなさが一気に蘇る。セラは無意識に震えそうになる口角を引き結んだ。
気落ちして項垂れるセラがそのまま沈黙すると、その耳には「あー」という短い声が届いた。すぐに「それで、ですかー」と続いた呟きは、驚いたというより、何かがひどく腑に落ちた時の相槌のように聞こえた。
セラはおずおずと、目線だけをあげて伊檻を見る。
「なにが、ですか?」
「いえいえこっちの話です。色々と気になっていたことに合点がいったというか」
伊檻は、軽く片手を振って笑い、なんでもないことのように誤魔化した。
セラフィーナには知る由もないことだが、伊檻はつい数時間前、職場の会議室で明らかに機嫌を損ねていた男の姿を見ている。シグルスが露骨な苛立ちを表に出すことは、そう多くない。今日の会議の場においても声を荒げたり、部下へ理不尽に当たるということはなかったが、返答が普段より短く、判断が妙に早い。単に苛立っているというより、別の気が仮に意識を取られているようにも見えた。
伊檻にとって、シグルスはとてもわかりやすい人間の部類に含まれる。
原因として思い当たるものはいくつかあったが、偶然出会った彼の庇護下にいる少女には、泣き腫らした跡が残っており。その本人から、シグルスと喧嘩のようなものをして泣いたと聞かされれば、おおよその事情を察せられるだけの材料が伊檻には揃っている。
もっとも、それを知っている顔をするのは無遠慮だろう、と。伊檻はあくまで何も知らないていのまま、目の前で子どものように泣いてしまったと表情を曇らせる少女へ向き直った。
「うーん、なるほど。でも、泣きたい時くらい、泣いたっていいと思いませんか?」
「だめなんです」
セラはすぐに首を横へ振った。
予想していたよりも強い否定に、伊檻はわずかに眉を上げたが、口を挟まず続く言葉を待つ。
「大人は、簡単に泣いたりしませんから」
「……そうですかねー。大人でも泣く人は泣くと思いますけど」
「でも、きっとあんなふうには泣かないはずです。何も言えなくなって、逃げるみたいに部屋を出たりなんて——」
セラは再び俯いた。
「わたしは、ちゃんとお話ししたかったんです。もっとちゃんと、聞いてほしいことも、話したいこともたくさんあったのに。なのに、泣いてしまったから、なにも伝えられなくなって」
「泣いたことそのものよりも、話を聞いてもらえないことが嫌だった?」
「……それは、」
伊檻の問いかけに、セラの視線が揺れた。違うと否定しかけて、止まるような間があった。泣いてしまったことは恥ずかしいし、何も言わずに逃げ出したことにも後悔している。
——でも、本当は。
自分の中でうまく言葉にできない感情をさらおうとするような時間の後でセラが「そうかも、しれません」と呟いて頷く。伊檻は続く言葉を急がせなかった。否定も肯定もせず、ただ待った。目の前の小さな子どもの中で、言葉の整理がつく瞬間を。
セラはしばらく黙り込んでいたが、やがてゆっくりと息を吐いた後で言った。
「わたしは、早く大人になりたかったんです。本当はまだ子どもでも、背伸びをしてでも、大人として扱ってほしかった。わたしの言うことを、子どもの言うことだからって決めつけないで、ちゃんと聞いて欲しかったんです。それなのに子どもみたいに泣いたら、やっぱりまだ子どもなんだって思われてしまうでしょう……? そうしたら、いつまでだっても、わたしのことを……」
それ以上は続かなかった。庇護されるだけの子どもではなく、一人の人間としてみてほしい。対等な立場に立って、自分の言葉を聞いてほしい。そこまで口にすれば、自分が何を求めているのかまで明かしてしまいそうで、セラはまた唇を引き結んだ。
伊檻はその言葉にならなかった部分までを無理に尋ねようとはしなかった。ただ背伸びをしてでも大人の側へ立とうとし、自分の感情さえ未熟さの証拠として押し殺そうとしている少女を見つめる。
伊檻にも、少しだけ見覚えのあるものだった。
大人が何を望んでいるのかを先に考えること。
困らせても何も変わらないと悟り、口にする前に諦めること。
聞き分けのよい子どもでいる方が、誰にとっても都合が良いと覚えてしまうこと。
「……そうですねー」
それを誤りだったとは、今も思っていない。けれど、こうして自分が子どもと向き合う側になってみれば、もう少し困らせてもよかったのではないかと、今さらながらに思うことはあった。
「でもね、セラフィーナさん。これは俺の持論ですけど」
伊檻は少し間を作って、その間に顔を上げたセラの目を見返した。
「子どもだからこそ許される特権というものも、あると思いますよ」
「特権、ですか」
「ええ。大人になると、どうしても正しさとか相手の事情とか、そういうものを先に考えるようになるんです」
伊檻は軽く肩を竦める。
「大人同士で生きていくにはその方が都合がいいですからねー。ただ、そのうち、自分が本当はどう思っているのかを後回しにすることばかり上手くなってしまう」
「……」
「でも、あなたはまだ、そこまで上手に我慢しなくていいんですよ。悲しい時には泣いて、嫌なら嫌だと言う。納得できないなら怒ったっていい」
「……わがままではありませんか」
「ですねー。俺も昔はそう思っていました」
伊檻はあっさりと同意する。
「正しいかどうかで言えば、間違っていることだってあるでしょうね。泣いたからといって何でも許されるわけではないし、嫌だと言ったからといって相手が必ず言うことを聞いてくれるわけでもない。でも、自分の気持ちを伝えることまで、悪いことにはなりません」
相変わらず穏やかな声音で、淡々と言葉は続く。
「それに真正面から気持ちをぶつけられると大人は案外、弱いものなんですよ。だからシグルスさんにはもう少しそのままぶつかってみてもいいと俺は思います」
「でも、それも少し、ずるい気がします」
「ずるいですよ?」
伊檻は目を細めて笑う。
「でも、今しか使えないずるさです。大人になれば、気持ちだけではどうにもならないことが増えますからねー」
そこで一度言葉を切って、伊檻は少し肩を竦めた。
「泣いて、怒って、嫌だと言って。それでシグルスさんが困るなら、困らせればいいんですよ。そのあとどうするかを考えるのは、あの人の仕事です。あなたが先回りをして、大人を困らせないように全部を飲み込む必要はありません」
セラは、わずかに目を見開いた。
早く大人になりたいと願ってきた彼女にとって、子どもであることを理由に感情を隠さなくてもよいという発想は、どこか居心地が悪い。それを、大人であるはずの伊檻から当然のことのように示されたこと自体に、戸惑いを覚えていた。
ただ耳を傾けるセラから答えがなくとも、急かすことなく一拍置いて、伊檻の言葉は続く。
「子どもが先回りをして大人を困らせないように、なんて自分の気持ちを飲み込む必要はありません。大人のために我慢することまで、急いで覚えなくていいんですよ」
「……」
「背伸びをして、大人らしくしようとするのも悪いことじゃありませんが、使わないまま大人になってしまうと、後から取り戻すのは難しいですからねー」
その言葉だけは、どこか自分自身へ向けているようにも聞こえた。けれどセラがその意味を尋ねるより先に、伊檻は笑みを深めて言った。
「子どもでいられる時間にしか使えないものも、ちゃんとあるって覚えておいてくださいね」