二人の決意と受難
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ある日、ロンドン某所のカフェにて。
通りに面したティールームの窓際に置かれた丸いテーブル席で、セラフィーナとピスカは向かい合って座っていた。長期休暇で寄宿学校から戻ってきていた二人はこの日、シグルスの不在をいいことに近場の図書館まで出かけ、その帰りに、通りにふわりと漂ってきた甘い香り誘われてこの店へ入った。
ショーケースの前でしばらく迷った末に選んだのは、スポンジにラズベリージャムとクリームを挟んだ伝統的なヴィクトリア・スポンジだった。ピスカは自然な所作でナイフを取り、それを均等ではなく、片方がわずかに大きくなるよう切り分ける。
「セラ。どちらがいいですか」
「うーん。……わたしは、少し小さく見える方がいいです」
その答えに、ピスカは首を傾げる。今さら遠慮を遠回しに示すような仲ではない。
もし自分に多く食べてほしいのなら、セラはそう言うはずだ。
難しい表情でケーキを見つめる姿を不思議に思っていると、彼女は言い訳めいた調子で言葉を足した。
「……その、太っちゃうかも、しれないので」
「え?」
「い、いえ……! やっぱり、なんでもないです……! わたしはこちらをもらいますね!」
両頬に手を当て、慌てたように笑って誤魔化すと、セラはジャムが少なめに見える方の皿をそっと自分の前に引き寄せる。
ピスカは一瞬だけ瞬きをしたが、理由を問うことはしない。小さく頷き、彼女に選ばれるだろうと思っていた方の皿を自分の前に置いた。
ほどなくして紅茶がテーブルへと運ばれ、店内に流れる音楽に混じって、フォークと皿の触れ合う小さな音だけが続く。セラは「おいしいですね」と一口ごとに言葉を添えながらもどこか上の空で、ピスカは「そうですね」と応じつつ、その様子に気付かないふりをしていた。しばらくして、
「……あのね、ピスカ」
先に沈黙を破ったのはセラだった。ピスカはカップに伸ばしかけていた手を途中で止める。フォークの先でケーキの断面をなぞりながら、セラが小さな声で言った。
「……。愚痴を、聞いてくれますか」
ピスカは短く、「はい」と答えた。
最初から、察しはついていた。セラが何かを話したがっていることも、それがシグルスのいる家では切り出しにくい話題であることも。だからこうして、図書館へ行こうと誘い、その帰りに店へ立ち寄る流れも作ったのだ。
「……おにいさまがね、」
そう切り出したきり、言葉が途切れる。セラは迷うように視線を落としたが、やがて小さく息を吸いこんだ。
「わたしのことを……子ども扱いしてるのがわかるんです」
ピスカは相槌の代わりにフォークを取り、ケーキを一口運んだ。視線は皿へと落としたまま、急かすことも遮ることもせず、続きを待つ。その反応を横目で確かめてから、セラは続ける。
「婚約してるのに。わたしだって、もうすぐ十七歳なんですよ。そう遠くないうちに、きっとおにいさまのお嫁さんになるのに……。いつまでも子ども扱いなんて、変でしょう?」
ピスカが肯定も否定もしなかった。彼女が求めているのは答えではなく、誰かに聞いてもらうことなのだと分かっていた。
「でも、わかってるんです」
小さく、笑うような吐息――。
「……おにいさまが、わたしを妹としてしか見てないって」
フォークが皿に触れて、かすかな音を立てた。その音に、ピスカは顔を上げる。
シグルスとセラフィーナの婚約――それに関する事情の全てを知っているわけではないが、長くそばで様子を見ていれば察せることはいくらでもある。しかし、当事者でない自分が口を挟んでいい領域ではないと、線を引いていた。
ただ一つ、確かなことがあるとすれば――。
セラがシグルスに向けている想いは、大人への憧れや家族愛の延長ではないということだ。
ピスカが知る限り、彼女がシグルスから「婚約者」という立場を知らされるよりもずっと昔からのことだった。視線の置き方、話題の選び方、名前を呼ぶ声の温度。どれもが、説明すら必要としないほどわかりやすく好意を滲ませていて――幼くて、切実で、疑いようもなく真剣な恋心を示していた。
窓の外へと視線を流すセラは、唇をわずかに噛み締めている。その横顔に、日頃の無邪気な笑顔はなかった。
ピスカはフォークを下ろし、「セラ」と静かに呼びかける。
「シグルスさんは、セラを大切にしています」
「……はい。わかってます」
否定するつもりはない、と示すようにセラはすぐに頷いた。
「わかっていますよ。おにいさまがわたしを大事にしてくれているのは。いつも優しいし、何かあってもすぐに気付いてくれるし、お手紙だって、ずっとくれます。ただ……」
一拍、間が落ちる。
「それだけじゃ、嫌なんです」
言い切った直後、セラは自分の言葉に驚いたように唇を結んだ。おずおずと正面に向き直る。その目は伏せられ、口元にはうまく形になりきらない笑みが浮かんでいた。
「それは、家族としての大切と同じでしょう? ……わたしが、ピスカに思っているのと。同じ種類の、大切です」
ピスカは言葉を遮らないことを選び、ただカップに手を伸ばして紅茶を一口含んで、静かに戻す。
「それが嫌だって言ってるわけじゃないんです。でも、それだけで全部だと思われているのが、寂しいんです。……わたしが、まだ子どもだからなんですかね。いえ、子どもというより……もっと、大人っぽかったらとか。ちゃんと……女性として見てもらえる何かがあれば、違ったのかなって」
まるで、自分に言い聞かせるような調子だった。感情の置き場を探すように、セラはフォークでケーキの端を崩し、視線を落とす。
ピスカにとって、シグルスは恩人だった。両親を失った自分を引き取り、居場所を与えてくれた人だ。その事実は変わらないし、彼への敬意が揺らぐことはない。けれど同時に、目の前に座るセラフィーナもまた、彼にとって特別だった。
シグルスが婚約を持て余していることも、セラがその気配を感じ取っていることも、近くにいれば分かる。だから彼女は理由を探し、自分に原因を求めようとしている。努力すれば変えられる問題だと、思いたいのだろう。
それまで聞き役に徹していたピスカは、ゆっくりと口を開く。
「セラに、問題があるとは思えません」
「……慰めてくれてますか?」
「いいえ。事実を言っただけです」
即座に否定し、慎重に言葉を選びながら続ける。
「セラが悩んでいることは、あなたの価値とは別のところで起きている問題だと、僕は思います。未熟だからとか、魅力が足りないからとか……そういう話ではありません」
セラはわかりやすく肩を落とし、小さく息を吐いた。
「大切にされているだけで満足できないなんて、わがままなんでしょうか」
「……欲しいものが違う、というだけではないでしょうか」
「欲しいもの?」
「大切にされる形には、段階や種類がある。……セラが、それをもう知っているから。だから、今の形では足りないと感じるのだと、思います」
「……」
沈黙の後には、……うん、とゆるやかに相槌を打ち、セラはフォークで大きめに切り分けたケーキを口に運んだ。ラズベリージャムの甘酸っぱい香りに、わずかに表情を和らげる。
そして、何の脈絡もなしに言う。
「ケーキ、甘いですね」
不器用に話題を変えようとしているのが、はっきりと伝わる。だから、彼女の中でひとまずの答えがまとまったのだとピスカは判断し、「そうですね」とだけ頷いた。この関係では、それだけで十分に伝わるのだから。
「ねえ、ピスカ」
「はい」
「ピスカは、わたしが変だとか……子どもすぎるとか、思いませんか?」
「思いません」
慎重に言葉を選んでいた先ほどとは一転して、迷いのない即答だった。
セラは、ふっと息を吐く。
「……うん、ありがとうございます。ピスカに聞いてもらえてよかったです。すっきりしました。やっぱり、相談というより愚痴になってしまいましたね」
「どちらでも構いません」
ピスカは一度だけ視線を外し、窓の向こうを見た。通りには、人の流れが途切れることなく続いている。
「辛い時や、寂しい時は、いつでも言ってください。セラがもう大丈夫だと思えるまで、僕がそばで話を聞きます。――そういう約束ですから」
セラは頷きを返し、カップに指をかけた。その表情が先ほどよりも安らいで見えるのは、きっと気のせいではない。どちらの皿にも、ケーキはもうほとんど残っていなかった。
セラがカップの底に残った細かな茶葉を見つめていると、向かいのピスカが、少しだけ姿勢を正す。
「……セラ」
「はい?」
呼ばれて、セラは顔を上げる。
「今度は、僕の話をしてもいいですか?」
「もちろんです。わたしはさっき、たくさん聞いてもらいましたから」
「……ありがとうございます。大した話ではないんですが」
「そういう前置きの時ほど、大した話ですよ」
からかうように言い返されて、ピスカも小さく笑った。
話し出す前にポットに残っていた二杯目の紅茶をカップに注ぎ、セラの前へと差し出す。彼女は一杯目よりも濃く抽出されて色味を増した紅茶に、そっとミルクを落とす。ティースプーンにかき混ぜられて、くるくると渦を巻くミルクティーが出来上がったタイミングに合わせてピスカは「話というのは」と切り出した。
「……卒業後の進路のことです」
「進路? もう、考えてるんですか?」
「はい。考えておかないといけない時期かと思いまして」
セラは背筋を伸ばし、自然と聞き手に回る。
パブリックスクール卒業後の道はいくつもある。大学へ進む人もいれば、官僚や外交官、法曹界を目指す人もいる。成績や適正次第では、士官学校を経て軍や国家機関へ進む道もあるだろう。学力に加え、並外れた身体能力を持つピスカなら、選択肢は決して少なくないはずだった。
テーブルの上で指を組み、ピスカは言った。
「僕は卒業後、中立機関に行きたいと思っています」
「……! おにいさまの……?」
「はい。シグルスさんがいるところです。魔術師の家系が中心で、魔術師ではない人間はほとんどいない組織だと聞いています。だから、どういう形になるかはまだわかりませんが」
少しだけ言葉を探し、
「事務でも、研究補佐でも構いません。現場でなくてもいい。ただ……」
間を置いて、続ける。
「どんな形でも、あの人の役に立ちたいんです」
それは自分には分不相応だと分かっていても、なお手放せない願いだった。
「シグルスさんに引き取ってもらわなければ、今の僕はありません。生きる場所も、学ぶ機会も、こうして将来を考える余地も、すべて与えてもらいました」
引き取られた当初から、それが当たり前のことではないと、薄々感じてはいた。だが、その重みを本当に理解したのは学びを得て、状況を振り返る余裕が生まれてからだ。
両親を失ったあの事件は、中立機関が対処してきた数多くの事例の一つに過ぎない。だからこそ、魔術師の血筋でもなく、才能の保証もなく、将来の見通しすら立たない子どもを、シグルスが後見人として迎える理由など本来どこにもなかった。責任と危険が増えるだけだ。それを、あの人が分からなかったはずがない。
それでも、彼はそうした。
子供は守られる存在であるべきだという、ただ一個人の信念に基づいて。眠れない夜にはそばにいて、「ここに化け物はいない」「君はもう安全だ」と、何度も言葉を重ねてくれた。
「今の僕があるのは、全部、あの人のおかげです」
「だから……恩返し、ですか?」
「そうですね。大層なものではありませんが……そう呼ぶのが、一番近いです」
ピスカが語るこれからの展望を聞いても、セラの表情に驚きはない。寄宿学校で過ごした日々の間、二人は何度も手紙をやりとりしてきた。シグルスには話せないことも、互いには共有し合っている。だからこそ、ピスカが何を目標に、何のために努力しているのかを、彼女はよく知っている。
セラは一度目を伏せ、曖昧な微笑みを浮かべた。
「おにいさまは……きっと、反対されるでしょうね」
「ええ。僕は魔術師の生まれではありませんし、その分、危険が伴う可能性も高い。なにより、僕が恩のために人生を決めてしまうことを、シグルスさんは望まれないと思います。――だから、悩んでいました」
反対されることは、覚悟している。
あの人は、命を救ったからといって恩を着せるような人ではない。拾い上げた人生の行く末を、自分の手で決めてやろうともしない。ましてや、恩に縛られて命を懸けろなどと、望むはずもなかった。
息を吐きながら、ピスカは眉を下げ、ほんのわずかに笑う。
「悩んでいますが……もう、心は決まっています」
「……!」
セラは目を丸くして、次の瞬間には悪戯っぽい笑みを返す。
「じゃあ、もう答えは出てるじゃないですか」
「…………そう、なりますね」
少し照れたように、ピスカは視線を逸らす。
「だからきっと、誰かに――セラに、聞いてほしかっただけです」
諦めずにがんばろうと思えた、そのきっかけをくれた女の子に。
この決意を、いちばん最初に打ち明けたかった。
「それは、本当にすごいことです。ピスカ」
「すごい、ですか?」
「だって、自分が何をしたいのか、ちゃんとわかってるじゃないですか!」
身を乗り出すようにして、セラは言った。
「それに、あなたならできる気がします」
「その根拠は?」
「――ありません!」
即答だった。
ピスカは思わず吹き出しそうになり、慌てて口元を押さえる。
セラフィーナは昔からこうだった。慰めや気休めではなく、最初から揺らぎなく、そう信じている。
「だってね、ピスカ。あなたは、努力ができるひとです。誰かのために、がんばることができるひとです。それに――おにいさまのことも、ちゃんと見て、理解しようとしてる。それって簡単じゃない、でしょう?」
その言葉を、ピスカは正面から受け止めた。
――きっと、自分は勇気づけてほしかったのだ。
シグルスの力になりたいと思っても、自分が適任ではないことは分かっている。魔術師の血を引かない自分が、どれほど願い、努力を重ねても、彼らが持つ特別な力を得ることはできない。あの人が身を置く世界では、この命ひとつを賭しても、化け物を排除することも、危険から誰かを守ることも難しい。
それでも――何の力も持たない自分にも、何かが為せるのだと、言ってほしかった。
そう信じることさえできれば、この先どんなことがあっても、折れずにあの人のそばを目指せる気がしたから――。
「だから、あなたならできます。わたしはあなたを応援します」
セラフィーナは、眩しいほどまっすぐに、ピスカの決意を信じていた。
彼女はいつも、こうして言葉をくれる。その性質を分かっていながら、頼ってしまったのではないか。……そんな想いが胸をよぎりつつも、ピスカは喜びに目を細めた。
「セラは、人をその気にさせるのが本当に得意ですね」
「そうですか?」
「はい。やっぱり、あなたに聞いてもらってよかった」
セラは「じゃあ、おあいこですね」とやわらかく笑った。
その笑顔を胸に刻みながら、ピスカは静かに思う。
あの人にこの話をする日は、きっと遠くない。叱られるかもしれない。淡々と却下されるかもしれない。
それでも、胸を張って言える。
この決意は、誰かに強いられたものではない。あなたに拾われた人生を、あなたの目に恥じない形で使いたいのだ、と。
*
その年、セラフィーナの冬の帰省は例年よりも少し早かった。寄宿学校の女子寮に改修工事が入ることになり、一部の生徒が学期の区切りを待たず、家へ戻されることになったのだ。本来なら同じ時期に帰省していてもおかしくないピスカは、試験日程の都合で数日遅れるという。
そのため、この日の食卓に着いているのは、セラフィーナとシグルスの二人だけだ。
夕食の片付けが済むと、食卓はそのままティータイムの場として整えられた。白いクロスの中央にティーポットと二客のカップが用意され、その脇には菓子皿が置かれている。皿には切り分けられたチョコレートケーキと、粉砂糖を軽くまぶした小さな焼き菓子が並んでいた。どちらもセラフィーナの好物だった。
彼女は皿に視線を留め、嬉しそうに眉を上げる。シグルスはそれに気付きながら、何も言わなかった。帰省中の夕食後に、彼女の好きな菓子を用意することは、いつものことだったから。
「おいしいです」
紅茶をひと口含み、セラフィーナは屈託なく笑う。長旅の疲れも見せず、久しぶりの家での食事を心から楽しんでいる様子だった。向かいの席で、シグルスはカップを手にその姿を眺めていた。
「今日は随分と機嫌がいいな」
「そう見えますか? 久しぶりの帰省で、おにいさまといっしょの食事だったからでしょうか」
言葉の端々に含まれる喜びが、隠そうとも隠しきれていない。
セラフィーナが菓子皿からチョコレートケーキを一つ取り、フォークを入れた。小さく切り分けて口に運ぶと、満足そうに目を細める。その仕草を見ていると用意した甲斐があったと、シグルスは毎回同じことを思う。
――この子も、もう十七歳か。
何気なく浮かんだ考えに、内心で肩を竦めた。婚約の話を最初に伝えたのは、パブリックスクールへの進学が決まった頃だったはずだ。それからすでに数年が経ち、今では卒業も視野に入り始めている。その間、彼女の方から何か言ってくるものだと思っていた。
待っていたが、結局、何もなかった。
――ならば、こちらから切り出すしかない。
この話をするには今がちょうどいい。確認して、合意して、あっさり終わる。その程度の話だと、疑いもしなかった。
シグルスはカップに口をつけたまま、ほんの一瞬、視線を伏せた。言葉を探すための、ごく短い間。だが、その沈黙にセラフィーナの方が先に気付く。
「どうしたんですか?」
顔を上げ、覗き込むようにしてくる。心配がそのまま形になったような表情だった。
「さっきから、難しい顔をしてます。お仕事のことですか?」
「……いや、そういうわけではない」
即答したものの、続く言葉が出てこない。視線を逸らし、改めてカップを置く。こういう話を切り出す時ほど、何をどう言えばいいのか分からなくなるのはいつも同じだな、とどこか他人事のように思いながら、シグルスは姿勢を正した。
「セラフィーナ。君も、もう十七だ」
「はい」
「これから先、どう生きていくかを考える時期だろう。進学のことも、その先のことも含めて。……だから、そろそろ婚約の件をきちんと整理しておく必要があると思う」
「……整理、ですか?」
一拍置いて、セラフィーナはそう問い返した。首をわずかに傾げる仕草から、言葉の意味を測りかねている様子が表れている。
「ああ。改めて、話しておきたい」
セラフィーナは何も言わず、フォークを皿の端に置いたまま、シグルスを見ている。
「知っての通り、あの婚約は僕たち自身の意思で結ばれたものじゃない。家同士の、ずいぶん古い取り決めだ。男児と女児が同じ時期に生まれたら、婚姻によって縁を結ぶ、という――」
「……」
「だから、成人したばかりの僕と、まだ何もわからない赤ん坊の君が、形式上の婚約者になった。強制力のある約束だったから、当時は誰にも、どうしようもなかった」
妖精の立ち会いによって交わされた古い約定。
当事者同士の年齢が二十年近くも離れていようと、そこに異議を挟む余地はない。人外 の尺度では、四半世紀ですら誤差に過ぎず、人の感覚や常識など基準に含まれていない。そういう、ふざけたまじないだった。
「しかし、今は状況が違う。このまま当然のように続ける理由はない」
セラフィーナの指先が、わずかに強張った。
「……どういう意味ですか?」
「当事者同士が望まないなら、婚約は解消できるんだ」
シグルスは、淡々と告げた。
可能性としての話ではなく、確かな事実の提示として。
せめてもの救いは、合意の上での解消が認められていることだった。一方的な破棄や無効にはできない。だが、当事者が望むなら、逃げ道はある。かつて顔合わせの場で父が「この婚約は両家に縁が出来た程度の意味に過ぎない」と言ったように、だからこそ大人たちは、セラフィーナが成長するまで待てばいいと判断したのだ。
「本来なら、もっと早くに整理しておくべきだった。その点については、遅れたと思っている。十九も年上の男との婚約は、君の人生にとって適切だとは言えない」
この婚約がなければ、両親を亡くしたセラフィーナが血縁でもないシグルス家に引き取られることも、こうして同じ食卓につくこともなかっただろう。
かつては、不運な巡り合わせだと思ったこともある。十九も年下の子どもを婚約者として抱えたまま、身動きの取れない年月を過ごしてきたことも事実だ。それでも、彼女の成長を間近で見守った時間まで、不幸だったとは思わない。この巡り合わせがもたらしたものを、すべて否定する気はない。
――だが、それとこれから先の話は、別だ。
「ここから先に進む理由は、どこにもない」
「待ってください」
セラフィーナの声が、場を制した。
声には、わずかな震えが混じっている。
「……本気で、言ってるんですか?」
「もちろん本気だ。君がこれから自分の人生を選んでいく上で、精算しておくべき前提の話だ。今の君にとっても、その先の君にとっても、この婚約は必要なものじゃない」
「嫌です」
短く、はっきりとした言葉が重なる。
その一言で、思考が途切れた。聞き間違いかと思ったが、ぴしゃりと遮るような否定の意思はあまりにも明確で、シグルスは思わず息を詰める。
「……セラフィーナ?」
「嫌です。それは……そんなのは、困ります」
強張った声色で、再び拒絶の言葉が返ってくる。
セラフィーナは、幼い頃から感情を隠さない子供だった。喜びも不安も、そのまま表情に出てしまう。だが、こんなふうに言葉で強く拒絶された記憶は、シグルスにはなかった。
まっすぐに見つめ返してくる瞳からは、戸惑いと、張り詰めた糸のような緊張がはっきりと伝わってくる。
「……困る、とは?」
思わず問い返していた。思いもよらない反応だ。ここに至ってようやく、シグルスはセラフィーナの様子が普通ではないことに気付く。説明が足りなかったのか。それとも、話の前提を誤解させたのか――?
いずれにせよ、この反応は想定外だった。だが、理由は分からなくとも、彼女の反応がこれまでとは明らかに違うことだけは分かる。
「落ち着いて聞きなさい。これは君にとって悪い話じゃないし、難しい話でもない。中身の伴わない昔の約束に、いつまでも君の人生を縛られる必要は――」
「縛られてなんかいません!」
声が跳ね上がる。抗議というより、悲鳴に近い。
「わたしは、ちゃんと分かってます」
「……何を?」
「おにいさまが、わたしを子どもだって思ってることも。婚約者として見ていなかったことも……全部! それでも、わたしは」
一気に言葉を重ねたせいで、呼吸が乱れる。
途中で言葉が詰まり、セラフィーナは一度息を吸った。
「……それでも、わたしは、おにいさまが好きなんです!」
揺れた視線が彷徨い、ほんの一拍の逡巡のあと、顔を上げる。
「ずっと好きでした。ずっと、おにいさまのことだけを見てきました……」
――カチャン、と陶器の触れ合う音が響く。
シグルスの手元でカップがわずかにずれた音だったが、本人は気付かなかった。そこまで気を払う余裕が、今はなかった。
「……セラ……? ……セラフィーナ。それは違う」
何かを、言わなければ、と反射的に言葉が出る。
「君がそう感じるのは、長く一緒にいたからだ。僕が兄のように」
「違います! 勘違いだって言うつもりなんでしょう――!?」
鋭く、即座に遮られる。
言い当てられたことに、シグルスの口元がわずかに引き攣る。その変化を見逃さず、セラフィーナの表情が歪んだ。必死に何かを堪えるように唇を噛み、瞳の縁に滲んだ涙が、今にもこぼれ落ちそうになっている。
「……ほんとうに、違います。あなたがそうとしか思ってくれていなくても、それでも……わたしは、あなたが好きなんだから……」
一呼吸置くたびに、声が細く震えていた。
「嫌いだから結婚したくないって、そう言われた方が……その方が、まだ、わかりますよ! それを、君のためだなんて……」
声が上擦る。
言葉が途切れ、肩が大きく上下する。
堰を切って、怒りと悲しみが同時に溢れ出していた。
「そんな正しい言葉で、わたしの気持ちまで、全部決めつけないでください!」
張り詰めていたものが、ついに切れた。
ぎゅ、と強く閉じられた瞼の隙間から、堪えていた涙がこぼれ落ちる。
「わたしだけが、間違ってるみたいじゃないですか……!」
それ以上は、言葉にならなかった――。
椅子を引く音が荒く響き、その拍子にまた陶器が触れ合う音が重なる。次の瞬間、セラフィーナは背を向け、そのまま部屋を飛び出していた。
咄嗟に伸ばしかけたシグルスの手は、何も掴めないまま空を切る。……遅れて、ドアが閉まる音が響いた。追いかけようとしたが、足は動かない。
食後の穏やかなひと時を過ごすはずだった食卓には、二人分の紅茶と菓子皿が残されていた。先ほどまで向かいの席で、セラフィーナが「おいしいです」と幸せそうに口に運んでいたケーキは、ほとんど手をつけられないままだった。
シグルスはその場に立ち尽くしたまま、やがてゆっくりと椅子に腰を下ろした。片手で額を押さえ、視線を伏せる。指先がわずかに震えていた。
「……ど、どうすればいいんだ、これは……」
*
シグルスの人生設計は、大学卒業を目前にして根底から狂った。
誰もが半ば忘れかけていたような先祖の約束とやらを理由に、本人の意思など一切問われないまま、二十歳近く年下の赤子と婚約を結ばされることになったのだから。
もっとも、それは不幸中の幸いにして、形式上の婚約に過ぎなかった。一方的な破棄はできないが、当事者同士の合意があれば解消できる。逃げ道は残されていた。だからその時は頭を抱えつつも、まだ楽観していられたのだ。
赤子が物心つく頃――十年もすれば、相手の方から「こんな歳の離れた相手との婚約なんておかしい」と言い出すだろう、と。
そうなったら、こちらも同意して、穏便に解消すれば済む話だ、と。
十年程度の辛抱だ。
そう、たかが十年の我慢だと。
――それが、どういうわけか十七年も経っている。
十年のつもりで、十七年。七年分、余計に経っている。どう考えても誤差ではない。
人生というものは、どうしてこうも計画通りにいかないのか。セラフィーナが八歳で両親を亡くし、シグルス家がその後見を引き受けることになったこと。その一年後、ピスカという似た境遇の少年を引き取ることになったこと。想定外なら、いくらでもあった。
とはいえ――それにしたって、である。
まさか三十六歳になってまで、あの赤子との婚約関係がまだ続いているとは、さすがに思っていなかった。この話を学生時代の自分に聞かせたら、確実に鼻で笑われるだろう。いや、下手をすれば笑う前に膝をつき、立ち直れなくなっているかもしれない。
そもそも、自分はすでに三十六歳だ。
どれだけ急いだところで、晩婚になることは確定している。一生独身、という選択肢は現実的ではない。立場的にも、家柄的にも、年齢的にも。婚約を解消した後、いずれ自分も誰かとの結婚を考えなければならない。つまり――婚活、という言葉が脳裏をよぎった瞬間、思考がぴたりと止まった。
この歳で。
……いや、待て。落ち着け。今考えることではない。考えなくてはいけない話ではある。だが、今ではない。断じて、今ではない。順番というものがある。目下の問題は、そこではない。
シグルスは椅子に深く腰を沈めたまま、しばらく天井を見上げていた。思考が追いつかない。いや正確には思考自体は動いているのだが、向かう先がすべて行き止まりになっている。一度、整理すべきだ。順を追って考えよう。話を戻す。
セラフィーナは、もう十七になる。時の流れは早い。ついこの間まで、背伸びをしてもテーブルに顎が届かなかった少女だったはずなのに、その感覚が抜けきらないまま、来年には法的に結婚できる年齢になってしまう。
普通なら、このくらいの年齢になれば、同世代の男の子に淡い感情を抱いていてもおかしくない。寄宿学校という環境を考えれば、なおさらだ。そうなれば、形式だけ残っている婚約関係など障害にしかならない。
だからその時がくれば、セラの方から「婚約を解消したい」と言い出すだろう。そう考えていた。それは、至って自然な想定だったはずだ。
だが現実には、少なくともシグルスの知る限り、そうした気配はなかった。日頃交わしていた手紙の文面にも、それらしい兆しは見当たらない。
ならば婚約解消を急ぐ必要もない。そう判断して、ここまで後回しにしてきた。
――ただ。
それが、別の形で影を落としている可能性を、否定しきれなくなっていた。
一応は「婚約者がいる」という認識が、無意識のうちに線を引かせているのではないか。シグルスにも覚えがあった。誰かに惹かれそうになっても、自分には婚約者がいる、と最初から感情を向けないようにする。そういう自制が、知らず知らずのうちに働く。
もし、セラにも同じことが起きているのだとしたら。
……それは、健全とは言えない。
解消される前提の婚約が、十七歳の少女の感情のあり方にまで影響を及ぼしているとしたら、それは放置すべきではない。もっと自由に世界を見て、自分の意思で人を好きになる権利がある。
――だからこそ、いい加減、区切りをつけておくべきだと思った。婚約解消の提案を受けたセラフィーナは、十九歳も年上の男と結婚するなど現実的ではないと理解し、納得の上でこう言うはずだった。
――やっぱりおにいさまはおにいさまですよね。
どこか照れたように笑い、ほっとした顔で頷く。そこで話は終わりだ。十七年間維持された婚約は、穏便に、誰も傷付けず終わる。
――終わる、はずだった。ところが、現実は違った。
「――婚約解消なんて、嫌です」
返ってきたのは、明確な拒絶だった。
この婚約において、相手に泣かれる可能性を考えたことがなかったわけではない。だが、それはあくまで「こんなに歳の離れた相手と結婚なんて嫌」という方向だったはずだ。「あなたが好きだから婚約解消なんて嫌」は、想定外もいいところである。
違う。
あまりにも違いすぎるだろう。
頭の中で何度も先ほどの光景を反芻するが、どう考えても現実だ。セラは泣きながら部屋を飛び出して行った。原因ははっきりしている。自分が「婚約を解消しよう」と言ったからだ――?
机に両肘をつき、額を押さえる。心臓が忙しなく鼓動し、冷や汗が背を伝う感触を、嫌というほど鮮明に感じた。
「……待て。これは、どうすればいいんだ……?」
自分はただ、彼女の未来を思って言っただけだ。傷つけたいわけではない。むしろ、自由にしてやるつもりだった。それがどうして、こうなる。
泣いた。
泣かせてしまった。
それも、本気で。
思い返せば、十三歳の頃に初めて婚約の件を伝えた時も、泣かれるかもしれないと覚悟はしていた。それをなだめ、解消前提であることを説明するつもりだった。実際はどうだったか。泣かれるどころか――。
「わたしが、おにいさまのお嫁さんになれるってことですよね!?」
目を輝かせ、屈託なく、あまりにもまっすぐに喜んでいた。あの反応を前にして、解消前提だと説明する機会を、完全に逃した。
あの時、なぜ誤解を解いておかなかったのか――!
判断を保留にしたことを、シグルスは今、猛烈に後悔していた。
どこで歯車が狂ったのか。……いや、やはり最初から狂っていたのだろう。
十年もすれば、物心がついておかしさに気づく。年頃になれば、好きな相手ができたと言い出す。どちらも、そう信じて疑っていなかった。今日という日まで。
その結果が、この有様だ。
「……なんで、こうなるんだ……」
呟いた声が、やけに間抜けに響く。だが、もう気付いてしまった。
――それでも、わたしは、おにいさまが好きなんです!
――違います! 勘違いだって言うつもりなんでしょう!?
――そんな正しい言葉で、わたしの気持ちまで、全部決めつけないでください!
あの反応。あの言葉。セラフィーナは、本気で自分に恋心を抱いている。
婚約解消の話を切り出した結果として、赤子の頃から知る少女が長年自分へと向けていた恋慕を知る――そんな展開は、想定していなかった。十七年。十七年も、あの子を見てきたはずなのに。――見ていた、と思っていたのに。
「……これは、完全に想定外だ」
もっと根本的なところで、何かを完全に読み間違えていた。そして、その事実を今さら気付かされる羽目になるとは。
慰めに行けば、誤解を招く。
距離を置けば、傷を深める。
正解が見えない。どちらを選んでも、何かを踏み抜く予感しかしない。
これが「運命」だというのなら、まったく、ずいぶんと悪趣味な話ではないか。
通りに面したティールームの窓際に置かれた丸いテーブル席で、セラフィーナとピスカは向かい合って座っていた。長期休暇で寄宿学校から戻ってきていた二人はこの日、シグルスの不在をいいことに近場の図書館まで出かけ、その帰りに、通りにふわりと漂ってきた甘い香り誘われてこの店へ入った。
ショーケースの前でしばらく迷った末に選んだのは、スポンジにラズベリージャムとクリームを挟んだ伝統的なヴィクトリア・スポンジだった。ピスカは自然な所作でナイフを取り、それを均等ではなく、片方がわずかに大きくなるよう切り分ける。
「セラ。どちらがいいですか」
「うーん。……わたしは、少し小さく見える方がいいです」
その答えに、ピスカは首を傾げる。今さら遠慮を遠回しに示すような仲ではない。
もし自分に多く食べてほしいのなら、セラはそう言うはずだ。
難しい表情でケーキを見つめる姿を不思議に思っていると、彼女は言い訳めいた調子で言葉を足した。
「……その、太っちゃうかも、しれないので」
「え?」
「い、いえ……! やっぱり、なんでもないです……! わたしはこちらをもらいますね!」
両頬に手を当て、慌てたように笑って誤魔化すと、セラはジャムが少なめに見える方の皿をそっと自分の前に引き寄せる。
ピスカは一瞬だけ瞬きをしたが、理由を問うことはしない。小さく頷き、彼女に選ばれるだろうと思っていた方の皿を自分の前に置いた。
ほどなくして紅茶がテーブルへと運ばれ、店内に流れる音楽に混じって、フォークと皿の触れ合う小さな音だけが続く。セラは「おいしいですね」と一口ごとに言葉を添えながらもどこか上の空で、ピスカは「そうですね」と応じつつ、その様子に気付かないふりをしていた。しばらくして、
「……あのね、ピスカ」
先に沈黙を破ったのはセラだった。ピスカはカップに伸ばしかけていた手を途中で止める。フォークの先でケーキの断面をなぞりながら、セラが小さな声で言った。
「……。愚痴を、聞いてくれますか」
ピスカは短く、「はい」と答えた。
最初から、察しはついていた。セラが何かを話したがっていることも、それがシグルスのいる家では切り出しにくい話題であることも。だからこうして、図書館へ行こうと誘い、その帰りに店へ立ち寄る流れも作ったのだ。
「……おにいさまがね、」
そう切り出したきり、言葉が途切れる。セラは迷うように視線を落としたが、やがて小さく息を吸いこんだ。
「わたしのことを……子ども扱いしてるのがわかるんです」
ピスカは相槌の代わりにフォークを取り、ケーキを一口運んだ。視線は皿へと落としたまま、急かすことも遮ることもせず、続きを待つ。その反応を横目で確かめてから、セラは続ける。
「婚約してるのに。わたしだって、もうすぐ十七歳なんですよ。そう遠くないうちに、きっとおにいさまのお嫁さんになるのに……。いつまでも子ども扱いなんて、変でしょう?」
ピスカが肯定も否定もしなかった。彼女が求めているのは答えではなく、誰かに聞いてもらうことなのだと分かっていた。
「でも、わかってるんです」
小さく、笑うような吐息――。
「……おにいさまが、わたしを妹としてしか見てないって」
フォークが皿に触れて、かすかな音を立てた。その音に、ピスカは顔を上げる。
シグルスとセラフィーナの婚約――それに関する事情の全てを知っているわけではないが、長くそばで様子を見ていれば察せることはいくらでもある。しかし、当事者でない自分が口を挟んでいい領域ではないと、線を引いていた。
ただ一つ、確かなことがあるとすれば――。
セラがシグルスに向けている想いは、大人への憧れや家族愛の延長ではないということだ。
ピスカが知る限り、彼女がシグルスから「婚約者」という立場を知らされるよりもずっと昔からのことだった。視線の置き方、話題の選び方、名前を呼ぶ声の温度。どれもが、説明すら必要としないほどわかりやすく好意を滲ませていて――幼くて、切実で、疑いようもなく真剣な恋心を示していた。
窓の外へと視線を流すセラは、唇をわずかに噛み締めている。その横顔に、日頃の無邪気な笑顔はなかった。
ピスカはフォークを下ろし、「セラ」と静かに呼びかける。
「シグルスさんは、セラを大切にしています」
「……はい。わかってます」
否定するつもりはない、と示すようにセラはすぐに頷いた。
「わかっていますよ。おにいさまがわたしを大事にしてくれているのは。いつも優しいし、何かあってもすぐに気付いてくれるし、お手紙だって、ずっとくれます。ただ……」
一拍、間が落ちる。
「それだけじゃ、嫌なんです」
言い切った直後、セラは自分の言葉に驚いたように唇を結んだ。おずおずと正面に向き直る。その目は伏せられ、口元にはうまく形になりきらない笑みが浮かんでいた。
「それは、家族としての大切と同じでしょう? ……わたしが、ピスカに思っているのと。同じ種類の、大切です」
ピスカは言葉を遮らないことを選び、ただカップに手を伸ばして紅茶を一口含んで、静かに戻す。
「それが嫌だって言ってるわけじゃないんです。でも、それだけで全部だと思われているのが、寂しいんです。……わたしが、まだ子どもだからなんですかね。いえ、子どもというより……もっと、大人っぽかったらとか。ちゃんと……女性として見てもらえる何かがあれば、違ったのかなって」
まるで、自分に言い聞かせるような調子だった。感情の置き場を探すように、セラはフォークでケーキの端を崩し、視線を落とす。
ピスカにとって、シグルスは恩人だった。両親を失った自分を引き取り、居場所を与えてくれた人だ。その事実は変わらないし、彼への敬意が揺らぐことはない。けれど同時に、目の前に座るセラフィーナもまた、彼にとって特別だった。
シグルスが婚約を持て余していることも、セラがその気配を感じ取っていることも、近くにいれば分かる。だから彼女は理由を探し、自分に原因を求めようとしている。努力すれば変えられる問題だと、思いたいのだろう。
それまで聞き役に徹していたピスカは、ゆっくりと口を開く。
「セラに、問題があるとは思えません」
「……慰めてくれてますか?」
「いいえ。事実を言っただけです」
即座に否定し、慎重に言葉を選びながら続ける。
「セラが悩んでいることは、あなたの価値とは別のところで起きている問題だと、僕は思います。未熟だからとか、魅力が足りないからとか……そういう話ではありません」
セラはわかりやすく肩を落とし、小さく息を吐いた。
「大切にされているだけで満足できないなんて、わがままなんでしょうか」
「……欲しいものが違う、というだけではないでしょうか」
「欲しいもの?」
「大切にされる形には、段階や種類がある。……セラが、それをもう知っているから。だから、今の形では足りないと感じるのだと、思います」
「……」
沈黙の後には、……うん、とゆるやかに相槌を打ち、セラはフォークで大きめに切り分けたケーキを口に運んだ。ラズベリージャムの甘酸っぱい香りに、わずかに表情を和らげる。
そして、何の脈絡もなしに言う。
「ケーキ、甘いですね」
不器用に話題を変えようとしているのが、はっきりと伝わる。だから、彼女の中でひとまずの答えがまとまったのだとピスカは判断し、「そうですね」とだけ頷いた。この関係では、それだけで十分に伝わるのだから。
「ねえ、ピスカ」
「はい」
「ピスカは、わたしが変だとか……子どもすぎるとか、思いませんか?」
「思いません」
慎重に言葉を選んでいた先ほどとは一転して、迷いのない即答だった。
セラは、ふっと息を吐く。
「……うん、ありがとうございます。ピスカに聞いてもらえてよかったです。すっきりしました。やっぱり、相談というより愚痴になってしまいましたね」
「どちらでも構いません」
ピスカは一度だけ視線を外し、窓の向こうを見た。通りには、人の流れが途切れることなく続いている。
「辛い時や、寂しい時は、いつでも言ってください。セラがもう大丈夫だと思えるまで、僕がそばで話を聞きます。――そういう約束ですから」
セラは頷きを返し、カップに指をかけた。その表情が先ほどよりも安らいで見えるのは、きっと気のせいではない。どちらの皿にも、ケーキはもうほとんど残っていなかった。
セラがカップの底に残った細かな茶葉を見つめていると、向かいのピスカが、少しだけ姿勢を正す。
「……セラ」
「はい?」
呼ばれて、セラは顔を上げる。
「今度は、僕の話をしてもいいですか?」
「もちろんです。わたしはさっき、たくさん聞いてもらいましたから」
「……ありがとうございます。大した話ではないんですが」
「そういう前置きの時ほど、大した話ですよ」
からかうように言い返されて、ピスカも小さく笑った。
話し出す前にポットに残っていた二杯目の紅茶をカップに注ぎ、セラの前へと差し出す。彼女は一杯目よりも濃く抽出されて色味を増した紅茶に、そっとミルクを落とす。ティースプーンにかき混ぜられて、くるくると渦を巻くミルクティーが出来上がったタイミングに合わせてピスカは「話というのは」と切り出した。
「……卒業後の進路のことです」
「進路? もう、考えてるんですか?」
「はい。考えておかないといけない時期かと思いまして」
セラは背筋を伸ばし、自然と聞き手に回る。
パブリックスクール卒業後の道はいくつもある。大学へ進む人もいれば、官僚や外交官、法曹界を目指す人もいる。成績や適正次第では、士官学校を経て軍や国家機関へ進む道もあるだろう。学力に加え、並外れた身体能力を持つピスカなら、選択肢は決して少なくないはずだった。
テーブルの上で指を組み、ピスカは言った。
「僕は卒業後、中立機関に行きたいと思っています」
「……! おにいさまの……?」
「はい。シグルスさんがいるところです。魔術師の家系が中心で、魔術師ではない人間はほとんどいない組織だと聞いています。だから、どういう形になるかはまだわかりませんが」
少しだけ言葉を探し、
「事務でも、研究補佐でも構いません。現場でなくてもいい。ただ……」
間を置いて、続ける。
「どんな形でも、あの人の役に立ちたいんです」
それは自分には分不相応だと分かっていても、なお手放せない願いだった。
「シグルスさんに引き取ってもらわなければ、今の僕はありません。生きる場所も、学ぶ機会も、こうして将来を考える余地も、すべて与えてもらいました」
引き取られた当初から、それが当たり前のことではないと、薄々感じてはいた。だが、その重みを本当に理解したのは学びを得て、状況を振り返る余裕が生まれてからだ。
両親を失ったあの事件は、中立機関が対処してきた数多くの事例の一つに過ぎない。だからこそ、魔術師の血筋でもなく、才能の保証もなく、将来の見通しすら立たない子どもを、シグルスが後見人として迎える理由など本来どこにもなかった。責任と危険が増えるだけだ。それを、あの人が分からなかったはずがない。
それでも、彼はそうした。
子供は守られる存在であるべきだという、ただ一個人の信念に基づいて。眠れない夜にはそばにいて、「ここに化け物はいない」「君はもう安全だ」と、何度も言葉を重ねてくれた。
「今の僕があるのは、全部、あの人のおかげです」
「だから……恩返し、ですか?」
「そうですね。大層なものではありませんが……そう呼ぶのが、一番近いです」
ピスカが語るこれからの展望を聞いても、セラの表情に驚きはない。寄宿学校で過ごした日々の間、二人は何度も手紙をやりとりしてきた。シグルスには話せないことも、互いには共有し合っている。だからこそ、ピスカが何を目標に、何のために努力しているのかを、彼女はよく知っている。
セラは一度目を伏せ、曖昧な微笑みを浮かべた。
「おにいさまは……きっと、反対されるでしょうね」
「ええ。僕は魔術師の生まれではありませんし、その分、危険が伴う可能性も高い。なにより、僕が恩のために人生を決めてしまうことを、シグルスさんは望まれないと思います。――だから、悩んでいました」
反対されることは、覚悟している。
あの人は、命を救ったからといって恩を着せるような人ではない。拾い上げた人生の行く末を、自分の手で決めてやろうともしない。ましてや、恩に縛られて命を懸けろなどと、望むはずもなかった。
息を吐きながら、ピスカは眉を下げ、ほんのわずかに笑う。
「悩んでいますが……もう、心は決まっています」
「……!」
セラは目を丸くして、次の瞬間には悪戯っぽい笑みを返す。
「じゃあ、もう答えは出てるじゃないですか」
「…………そう、なりますね」
少し照れたように、ピスカは視線を逸らす。
「だからきっと、誰かに――セラに、聞いてほしかっただけです」
諦めずにがんばろうと思えた、そのきっかけをくれた女の子に。
この決意を、いちばん最初に打ち明けたかった。
「それは、本当にすごいことです。ピスカ」
「すごい、ですか?」
「だって、自分が何をしたいのか、ちゃんとわかってるじゃないですか!」
身を乗り出すようにして、セラは言った。
「それに、あなたならできる気がします」
「その根拠は?」
「――ありません!」
即答だった。
ピスカは思わず吹き出しそうになり、慌てて口元を押さえる。
セラフィーナは昔からこうだった。慰めや気休めではなく、最初から揺らぎなく、そう信じている。
「だってね、ピスカ。あなたは、努力ができるひとです。誰かのために、がんばることができるひとです。それに――おにいさまのことも、ちゃんと見て、理解しようとしてる。それって簡単じゃない、でしょう?」
その言葉を、ピスカは正面から受け止めた。
――きっと、自分は勇気づけてほしかったのだ。
シグルスの力になりたいと思っても、自分が適任ではないことは分かっている。魔術師の血を引かない自分が、どれほど願い、努力を重ねても、彼らが持つ特別な力を得ることはできない。あの人が身を置く世界では、この命ひとつを賭しても、化け物を排除することも、危険から誰かを守ることも難しい。
それでも――何の力も持たない自分にも、何かが為せるのだと、言ってほしかった。
そう信じることさえできれば、この先どんなことがあっても、折れずにあの人のそばを目指せる気がしたから――。
「だから、あなたならできます。わたしはあなたを応援します」
セラフィーナは、眩しいほどまっすぐに、ピスカの決意を信じていた。
彼女はいつも、こうして言葉をくれる。その性質を分かっていながら、頼ってしまったのではないか。……そんな想いが胸をよぎりつつも、ピスカは喜びに目を細めた。
「セラは、人をその気にさせるのが本当に得意ですね」
「そうですか?」
「はい。やっぱり、あなたに聞いてもらってよかった」
セラは「じゃあ、おあいこですね」とやわらかく笑った。
その笑顔を胸に刻みながら、ピスカは静かに思う。
あの人にこの話をする日は、きっと遠くない。叱られるかもしれない。淡々と却下されるかもしれない。
それでも、胸を張って言える。
この決意は、誰かに強いられたものではない。あなたに拾われた人生を、あなたの目に恥じない形で使いたいのだ、と。
*
その年、セラフィーナの冬の帰省は例年よりも少し早かった。寄宿学校の女子寮に改修工事が入ることになり、一部の生徒が学期の区切りを待たず、家へ戻されることになったのだ。本来なら同じ時期に帰省していてもおかしくないピスカは、試験日程の都合で数日遅れるという。
そのため、この日の食卓に着いているのは、セラフィーナとシグルスの二人だけだ。
夕食の片付けが済むと、食卓はそのままティータイムの場として整えられた。白いクロスの中央にティーポットと二客のカップが用意され、その脇には菓子皿が置かれている。皿には切り分けられたチョコレートケーキと、粉砂糖を軽くまぶした小さな焼き菓子が並んでいた。どちらもセラフィーナの好物だった。
彼女は皿に視線を留め、嬉しそうに眉を上げる。シグルスはそれに気付きながら、何も言わなかった。帰省中の夕食後に、彼女の好きな菓子を用意することは、いつものことだったから。
「おいしいです」
紅茶をひと口含み、セラフィーナは屈託なく笑う。長旅の疲れも見せず、久しぶりの家での食事を心から楽しんでいる様子だった。向かいの席で、シグルスはカップを手にその姿を眺めていた。
「今日は随分と機嫌がいいな」
「そう見えますか? 久しぶりの帰省で、おにいさまといっしょの食事だったからでしょうか」
言葉の端々に含まれる喜びが、隠そうとも隠しきれていない。
セラフィーナが菓子皿からチョコレートケーキを一つ取り、フォークを入れた。小さく切り分けて口に運ぶと、満足そうに目を細める。その仕草を見ていると用意した甲斐があったと、シグルスは毎回同じことを思う。
――この子も、もう十七歳か。
何気なく浮かんだ考えに、内心で肩を竦めた。婚約の話を最初に伝えたのは、パブリックスクールへの進学が決まった頃だったはずだ。それからすでに数年が経ち、今では卒業も視野に入り始めている。その間、彼女の方から何か言ってくるものだと思っていた。
待っていたが、結局、何もなかった。
――ならば、こちらから切り出すしかない。
この話をするには今がちょうどいい。確認して、合意して、あっさり終わる。その程度の話だと、疑いもしなかった。
シグルスはカップに口をつけたまま、ほんの一瞬、視線を伏せた。言葉を探すための、ごく短い間。だが、その沈黙にセラフィーナの方が先に気付く。
「どうしたんですか?」
顔を上げ、覗き込むようにしてくる。心配がそのまま形になったような表情だった。
「さっきから、難しい顔をしてます。お仕事のことですか?」
「……いや、そういうわけではない」
即答したものの、続く言葉が出てこない。視線を逸らし、改めてカップを置く。こういう話を切り出す時ほど、何をどう言えばいいのか分からなくなるのはいつも同じだな、とどこか他人事のように思いながら、シグルスは姿勢を正した。
「セラフィーナ。君も、もう十七だ」
「はい」
「これから先、どう生きていくかを考える時期だろう。進学のことも、その先のことも含めて。……だから、そろそろ婚約の件をきちんと整理しておく必要があると思う」
「……整理、ですか?」
一拍置いて、セラフィーナはそう問い返した。首をわずかに傾げる仕草から、言葉の意味を測りかねている様子が表れている。
「ああ。改めて、話しておきたい」
セラフィーナは何も言わず、フォークを皿の端に置いたまま、シグルスを見ている。
「知っての通り、あの婚約は僕たち自身の意思で結ばれたものじゃない。家同士の、ずいぶん古い取り決めだ。男児と女児が同じ時期に生まれたら、婚姻によって縁を結ぶ、という――」
「……」
「だから、成人したばかりの僕と、まだ何もわからない赤ん坊の君が、形式上の婚約者になった。強制力のある約束だったから、当時は誰にも、どうしようもなかった」
妖精の立ち会いによって交わされた古い約定。
当事者同士の年齢が二十年近くも離れていようと、そこに異議を挟む余地はない。
「しかし、今は状況が違う。このまま当然のように続ける理由はない」
セラフィーナの指先が、わずかに強張った。
「……どういう意味ですか?」
「当事者同士が望まないなら、婚約は解消できるんだ」
シグルスは、淡々と告げた。
可能性としての話ではなく、確かな事実の提示として。
せめてもの救いは、合意の上での解消が認められていることだった。一方的な破棄や無効にはできない。だが、当事者が望むなら、逃げ道はある。かつて顔合わせの場で父が「この婚約は両家に縁が出来た程度の意味に過ぎない」と言ったように、だからこそ大人たちは、セラフィーナが成長するまで待てばいいと判断したのだ。
「本来なら、もっと早くに整理しておくべきだった。その点については、遅れたと思っている。十九も年上の男との婚約は、君の人生にとって適切だとは言えない」
この婚約がなければ、両親を亡くしたセラフィーナが血縁でもないシグルス家に引き取られることも、こうして同じ食卓につくこともなかっただろう。
かつては、不運な巡り合わせだと思ったこともある。十九も年下の子どもを婚約者として抱えたまま、身動きの取れない年月を過ごしてきたことも事実だ。それでも、彼女の成長を間近で見守った時間まで、不幸だったとは思わない。この巡り合わせがもたらしたものを、すべて否定する気はない。
――だが、それとこれから先の話は、別だ。
「ここから先に進む理由は、どこにもない」
「待ってください」
セラフィーナの声が、場を制した。
声には、わずかな震えが混じっている。
「……本気で、言ってるんですか?」
「もちろん本気だ。君がこれから自分の人生を選んでいく上で、精算しておくべき前提の話だ。今の君にとっても、その先の君にとっても、この婚約は必要なものじゃない」
「嫌です」
短く、はっきりとした言葉が重なる。
その一言で、思考が途切れた。聞き間違いかと思ったが、ぴしゃりと遮るような否定の意思はあまりにも明確で、シグルスは思わず息を詰める。
「……セラフィーナ?」
「嫌です。それは……そんなのは、困ります」
強張った声色で、再び拒絶の言葉が返ってくる。
セラフィーナは、幼い頃から感情を隠さない子供だった。喜びも不安も、そのまま表情に出てしまう。だが、こんなふうに言葉で強く拒絶された記憶は、シグルスにはなかった。
まっすぐに見つめ返してくる瞳からは、戸惑いと、張り詰めた糸のような緊張がはっきりと伝わってくる。
「……困る、とは?」
思わず問い返していた。思いもよらない反応だ。ここに至ってようやく、シグルスはセラフィーナの様子が普通ではないことに気付く。説明が足りなかったのか。それとも、話の前提を誤解させたのか――?
いずれにせよ、この反応は想定外だった。だが、理由は分からなくとも、彼女の反応がこれまでとは明らかに違うことだけは分かる。
「落ち着いて聞きなさい。これは君にとって悪い話じゃないし、難しい話でもない。中身の伴わない昔の約束に、いつまでも君の人生を縛られる必要は――」
「縛られてなんかいません!」
声が跳ね上がる。抗議というより、悲鳴に近い。
「わたしは、ちゃんと分かってます」
「……何を?」
「おにいさまが、わたしを子どもだって思ってることも。婚約者として見ていなかったことも……全部! それでも、わたしは」
一気に言葉を重ねたせいで、呼吸が乱れる。
途中で言葉が詰まり、セラフィーナは一度息を吸った。
「……それでも、わたしは、おにいさまが好きなんです!」
揺れた視線が彷徨い、ほんの一拍の逡巡のあと、顔を上げる。
「ずっと好きでした。ずっと、おにいさまのことだけを見てきました……」
――カチャン、と陶器の触れ合う音が響く。
シグルスの手元でカップがわずかにずれた音だったが、本人は気付かなかった。そこまで気を払う余裕が、今はなかった。
「……セラ……? ……セラフィーナ。それは違う」
何かを、言わなければ、と反射的に言葉が出る。
「君がそう感じるのは、長く一緒にいたからだ。僕が兄のように」
「違います! 勘違いだって言うつもりなんでしょう――!?」
鋭く、即座に遮られる。
言い当てられたことに、シグルスの口元がわずかに引き攣る。その変化を見逃さず、セラフィーナの表情が歪んだ。必死に何かを堪えるように唇を噛み、瞳の縁に滲んだ涙が、今にもこぼれ落ちそうになっている。
「……ほんとうに、違います。あなたがそうとしか思ってくれていなくても、それでも……わたしは、あなたが好きなんだから……」
一呼吸置くたびに、声が細く震えていた。
「嫌いだから結婚したくないって、そう言われた方が……その方が、まだ、わかりますよ! それを、君のためだなんて……」
声が上擦る。
言葉が途切れ、肩が大きく上下する。
堰を切って、怒りと悲しみが同時に溢れ出していた。
「そんな正しい言葉で、わたしの気持ちまで、全部決めつけないでください!」
張り詰めていたものが、ついに切れた。
ぎゅ、と強く閉じられた瞼の隙間から、堪えていた涙がこぼれ落ちる。
「わたしだけが、間違ってるみたいじゃないですか……!」
それ以上は、言葉にならなかった――。
椅子を引く音が荒く響き、その拍子にまた陶器が触れ合う音が重なる。次の瞬間、セラフィーナは背を向け、そのまま部屋を飛び出していた。
咄嗟に伸ばしかけたシグルスの手は、何も掴めないまま空を切る。……遅れて、ドアが閉まる音が響いた。追いかけようとしたが、足は動かない。
食後の穏やかなひと時を過ごすはずだった食卓には、二人分の紅茶と菓子皿が残されていた。先ほどまで向かいの席で、セラフィーナが「おいしいです」と幸せそうに口に運んでいたケーキは、ほとんど手をつけられないままだった。
シグルスはその場に立ち尽くしたまま、やがてゆっくりと椅子に腰を下ろした。片手で額を押さえ、視線を伏せる。指先がわずかに震えていた。
「……ど、どうすればいいんだ、これは……」
*
シグルスの人生設計は、大学卒業を目前にして根底から狂った。
誰もが半ば忘れかけていたような先祖の約束とやらを理由に、本人の意思など一切問われないまま、二十歳近く年下の赤子と婚約を結ばされることになったのだから。
もっとも、それは不幸中の幸いにして、形式上の婚約に過ぎなかった。一方的な破棄はできないが、当事者同士の合意があれば解消できる。逃げ道は残されていた。だからその時は頭を抱えつつも、まだ楽観していられたのだ。
赤子が物心つく頃――十年もすれば、相手の方から「こんな歳の離れた相手との婚約なんておかしい」と言い出すだろう、と。
そうなったら、こちらも同意して、穏便に解消すれば済む話だ、と。
十年程度の辛抱だ。
そう、たかが十年の我慢だと。
――それが、どういうわけか十七年も経っている。
十年のつもりで、十七年。七年分、余計に経っている。どう考えても誤差ではない。
人生というものは、どうしてこうも計画通りにいかないのか。セラフィーナが八歳で両親を亡くし、シグルス家がその後見を引き受けることになったこと。その一年後、ピスカという似た境遇の少年を引き取ることになったこと。想定外なら、いくらでもあった。
とはいえ――それにしたって、である。
まさか三十六歳になってまで、あの赤子との婚約関係がまだ続いているとは、さすがに思っていなかった。この話を学生時代の自分に聞かせたら、確実に鼻で笑われるだろう。いや、下手をすれば笑う前に膝をつき、立ち直れなくなっているかもしれない。
そもそも、自分はすでに三十六歳だ。
どれだけ急いだところで、晩婚になることは確定している。一生独身、という選択肢は現実的ではない。立場的にも、家柄的にも、年齢的にも。婚約を解消した後、いずれ自分も誰かとの結婚を考えなければならない。つまり――婚活、という言葉が脳裏をよぎった瞬間、思考がぴたりと止まった。
この歳で。
……いや、待て。落ち着け。今考えることではない。考えなくてはいけない話ではある。だが、今ではない。断じて、今ではない。順番というものがある。目下の問題は、そこではない。
シグルスは椅子に深く腰を沈めたまま、しばらく天井を見上げていた。思考が追いつかない。いや正確には思考自体は動いているのだが、向かう先がすべて行き止まりになっている。一度、整理すべきだ。順を追って考えよう。話を戻す。
セラフィーナは、もう十七になる。時の流れは早い。ついこの間まで、背伸びをしてもテーブルに顎が届かなかった少女だったはずなのに、その感覚が抜けきらないまま、来年には法的に結婚できる年齢になってしまう。
普通なら、このくらいの年齢になれば、同世代の男の子に淡い感情を抱いていてもおかしくない。寄宿学校という環境を考えれば、なおさらだ。そうなれば、形式だけ残っている婚約関係など障害にしかならない。
だからその時がくれば、セラの方から「婚約を解消したい」と言い出すだろう。そう考えていた。それは、至って自然な想定だったはずだ。
だが現実には、少なくともシグルスの知る限り、そうした気配はなかった。日頃交わしていた手紙の文面にも、それらしい兆しは見当たらない。
ならば婚約解消を急ぐ必要もない。そう判断して、ここまで後回しにしてきた。
――ただ。
それが、別の形で影を落としている可能性を、否定しきれなくなっていた。
一応は「婚約者がいる」という認識が、無意識のうちに線を引かせているのではないか。シグルスにも覚えがあった。誰かに惹かれそうになっても、自分には婚約者がいる、と最初から感情を向けないようにする。そういう自制が、知らず知らずのうちに働く。
もし、セラにも同じことが起きているのだとしたら。
……それは、健全とは言えない。
解消される前提の婚約が、十七歳の少女の感情のあり方にまで影響を及ぼしているとしたら、それは放置すべきではない。もっと自由に世界を見て、自分の意思で人を好きになる権利がある。
――だからこそ、いい加減、区切りをつけておくべきだと思った。婚約解消の提案を受けたセラフィーナは、十九歳も年上の男と結婚するなど現実的ではないと理解し、納得の上でこう言うはずだった。
――やっぱりおにいさまはおにいさまですよね。
どこか照れたように笑い、ほっとした顔で頷く。そこで話は終わりだ。十七年間維持された婚約は、穏便に、誰も傷付けず終わる。
――終わる、はずだった。ところが、現実は違った。
「――婚約解消なんて、嫌です」
返ってきたのは、明確な拒絶だった。
この婚約において、相手に泣かれる可能性を考えたことがなかったわけではない。だが、それはあくまで「こんなに歳の離れた相手と結婚なんて嫌」という方向だったはずだ。「あなたが好きだから婚約解消なんて嫌」は、想定外もいいところである。
違う。
あまりにも違いすぎるだろう。
頭の中で何度も先ほどの光景を反芻するが、どう考えても現実だ。セラは泣きながら部屋を飛び出して行った。原因ははっきりしている。自分が「婚約を解消しよう」と言ったからだ――?
机に両肘をつき、額を押さえる。心臓が忙しなく鼓動し、冷や汗が背を伝う感触を、嫌というほど鮮明に感じた。
「……待て。これは、どうすればいいんだ……?」
自分はただ、彼女の未来を思って言っただけだ。傷つけたいわけではない。むしろ、自由にしてやるつもりだった。それがどうして、こうなる。
泣いた。
泣かせてしまった。
それも、本気で。
思い返せば、十三歳の頃に初めて婚約の件を伝えた時も、泣かれるかもしれないと覚悟はしていた。それをなだめ、解消前提であることを説明するつもりだった。実際はどうだったか。泣かれるどころか――。
「わたしが、おにいさまのお嫁さんになれるってことですよね!?」
目を輝かせ、屈託なく、あまりにもまっすぐに喜んでいた。あの反応を前にして、解消前提だと説明する機会を、完全に逃した。
あの時、なぜ誤解を解いておかなかったのか――!
判断を保留にしたことを、シグルスは今、猛烈に後悔していた。
どこで歯車が狂ったのか。……いや、やはり最初から狂っていたのだろう。
十年もすれば、物心がついておかしさに気づく。年頃になれば、好きな相手ができたと言い出す。どちらも、そう信じて疑っていなかった。今日という日まで。
その結果が、この有様だ。
「……なんで、こうなるんだ……」
呟いた声が、やけに間抜けに響く。だが、もう気付いてしまった。
――それでも、わたしは、おにいさまが好きなんです!
――違います! 勘違いだって言うつもりなんでしょう!?
――そんな正しい言葉で、わたしの気持ちまで、全部決めつけないでください!
あの反応。あの言葉。セラフィーナは、本気で自分に恋心を抱いている。
婚約解消の話を切り出した結果として、赤子の頃から知る少女が長年自分へと向けていた恋慕を知る――そんな展開は、想定していなかった。十七年。十七年も、あの子を見てきたはずなのに。――見ていた、と思っていたのに。
「……これは、完全に想定外だ」
もっと根本的なところで、何かを完全に読み間違えていた。そして、その事実を今さら気付かされる羽目になるとは。
慰めに行けば、誤解を招く。
距離を置けば、傷を深める。
正解が見えない。どちらを選んでも、何かを踏み抜く予感しかしない。
これが「運命」だというのなら、まったく、ずいぶんと悪趣味な話ではないか。
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