婚約者とは呼べない
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プレップスクールの修業年限には、厳重な規定があるわけではない。
一般には五、六年ほど在学し、十二、三歳の頃に実施される共通の学力検定試験を受ける。この試験に一定以上の成績を収めれば、上級学校であるパブリックスクールへ進学するための学力が概ね備わっているとみなされる。さらに各校ごとの入学試験や面接を経て、正式な入学が決まるのが通例だった。
そのため、多くの子どもは七、八歳でプレップスクールに入学し、十二、三歳で次の段階へ進む。もっとも、卒業の時期は一律ではない。順調に進学する者もいれば、学力や身体の事情、あるいは家庭の都合によって十五、六歳になっても望みが薄く、別の進路を選ばざるを得ないものもいる。進学の時期は、生徒一人ひとりの事情に大きく左右されるものだった。
では、セラフィーナは、というと――。
十三歳になった彼女は、このたび無事にパブリックスクールへの入学を決めた。課目ごとの成績にはばらつきがあり、飛び抜けた優等生というわけではない。だが、与えられた課題に対して本人なりに精一杯取り組んだ結果であることは疑いようがなく、教師たちもその点を正しく評価していた。
一方で、セラフィーナより一歳年下のピスカは、また少し違う道を歩んでいる。
ピスカはウェールズの一般家庭に生まれ、八歳までは地方の公立初等学校で義務教育を受けていた。セラフィーナとは育った環境も、教育の前提もまるで異なる。しかし、学びたいという彼自身の強い意欲を知ったシグルスは、家庭教師をつけ、プレップスクールと同等、あるいはそれ以上の水準の学習機会を与えていた。ピスカもまた、その期待に応えるように日々の学びに真剣に取り組んでいる。目的が明確であるためか、勉強を苦痛と感じる様子はなく、むしろ貪欲に知識を吸収していた。
通常の進学経路からすれば、プレップスクールを経ずにパブリックスクールへ直接入学するのは容易なことではない。例外的であり、難易度も高い。だが、ピスカが積み重ねてきた努力と、その伸びしろを思えば無謀だとシグルスは考えていなかった。
むしろ、翌年あたりを目安に推薦のうえ入学試験を受けさせてみる価値は十分にある。本人が望む限り、より良い環境を用意することこそ保護者としての務めだと、シグルスは考えていた。
このように、子どもたちは心身ともに健やかに育っている。その成長そのものは、喜ばしいことだった。
だが、シグルスの胸中には、彼らの進路とは別に、どうしても目を逸らせない問題が一つあった。
――婚約の件である。
かつて先祖同士が交わした約束によって成立した婚約関係が、形式上とはいえ、今なおシグルスとセラフィーナの間には残っていた。婚約が結ばれたのは、彼女がまだ首もすわらぬ赤子だった頃のことだ。
あれから、はや十数年が過ぎた。当時成人したばかりの青年だったシグルスも、今では三十二歳である。中年と呼ばれる年齢のほうが近い。一方、母親の腕に抱かれていた乳児は、物事を理解し、自分の意思を持つ少女へと成長していた。
セラフィーナは現在、パブリックスクールへの入学を控え、秋学期が始まるまでの間を家で過ごしている。
この話をするなら、今しかない。シグルスはそう判断していた。
今日の午後、彼女はシグルスの父に連れられてロンドンの劇場へ映画を観に行く予定らしい。ピスカも誘ったものの、やんわりと断られてしまったのだと、少し残念そうに笑っていた。代わりにお土産を買ってくるつもりだ、チョコレートがいいでしょうか、と――。
対面のカウチに腰を下ろし、楽しげにそう語るセラフィーナを見つめながら、シグルスはおもむろに口を開いた。
「セラフィーナ。進学も決まったことだし、君に話がある」
「お話、ですか?」
「大事な話だ。……驚かずに聞いてほしい」
「なにか、あったんですか?」
改まった調子に、セラフィーナはわずかに不安を滲ませるように小首を傾げた。
シグルスは言葉を選ぶように間を置く。もっとも、この話をどう切り出すべきかなど、何年も前から彼の中では繰り返し考え尽くされてきたことだった。今さら言い淀む理由はない。
「これはずっと昔、僕らの祖父母よりも前の代から決められていたことなんだが」
「はい」
「君と僕の間には、家同士の古い約束によって婚約が結ばれている。つまり形式上、君は僕の婚約者だった」
「え?」
「……君が、赤ん坊の頃からね」
「……はい?」
セラフィーナが、きょとんと瞬きをする。
一拍遅れて、言葉の意味を確かめようとするように、彼女はその単語を復唱した。
「……こんやく……?」
「そう。まあ、その……将来、その相手と結婚するという意味の――」
シグルスは小さく咳払いをしてから、彼女の反応を見逃さないよう注意を払いながら言葉を続けた。
十九歳も年上の男と、自分の預かり知らぬ過去によって婚約が成立していたなど、常識的に考えればどうかしている。かつて、父からその事実を知らされたときの衝撃と憤りを、シグルスは今でも覚えていた。結婚の意思を問われたこともないまま、顔も名前も知らない赤子と婚約していると突然告げられたのだ。
いま目の前にいる少女は、あの頃の自分よりさらに幼く、若く、そして子どもだった。
思えば昔、「なんの接点もない赤の他人から、いきなり我々は婚約者同士ですと言われるよりは、知り合い同士の方がまだましだろう」と言われたことがある。だが、本当にそうだったのだろうか。幼い頃から兄のように慕っていた相手に、ある日突然「僕は君の婚約者だ」と告げられるほうが、その、よほど気味が悪いのではないか――。至極まっとうで、しかも配慮するにはあまりにも遅すぎるその考えを、この頃のシグルスは考えていた。
だから、もし泣き出されでもしたら、即座に解消前提の話であると告げるつもりだった。そうでなくても、なだめる用意はしていた。想定していた反応は、いくつかある。
だが、セラフィーナが見せた反応は、そのどれとも違った。
「…………つまり、それって!」
彼女の表情が、ぱっと明るくなる。
胸の前で両手をぎゅっと握り締め、椅子から半分浮き上がるほどの勢いで身を乗り出した。
「ん?」
「わたしが、おにいさまのお嫁さんになれるってことですよね!?」
「――――は、」
思考が止まる。
婚約とは、つまり結婚の約束である。そしてセラフィーナとシグルスが婚約関係にあるということは、彼女が将来シグルスの妻になる約束をしている、という意味でもある。理屈としては間違っていない。だが、彼がこの場で伝えたかったのは、もちろんそんな話ではなかった。
本来は、婚約解消の件を話し合うつもりだったのだから。
「え。いや、厳密にはそうでは――」
「本当ですか!?」
隠しきれない動揺をにじませながらも、どうにか否定しようとした、その矢先だった。セラフィーナは勢いよく立ち上がる。目を輝かせ、頬を紅潮させ、まるでクリスマスの朝を迎えた子どものような顔でシグルスを見下ろした。
「わたしが、おにいさまのお嫁さんになるんですね……!」
ワンピースの裾がひらりと舞い、帽子がテーブルの上に転がった。その姿は力強く、愛らしく、懸命で、まるで春風そのもののような生命力に満ちている。
「……………………」
シグルスは、今度こそ完全に言葉を失った。背中に宇宙でも背負わされたような心地で、目の前の現実を受け止めるまでにしばし時間を要する。この世に「想定外」というものがあるなら、彼にとっては今この瞬間がまさにそれだった。
「――セ、セラフィーナ。落ち着きなさい。確かに正式な婚約ではあるが、誤解のないように言っておくが、これは、」
「――ピスカ」
「えっ何?」
「ピスカにも、教えてきます!」
セラフィーナは興奮冷めやらぬ様子でそう言い切ると、踵を返して部屋を飛び出した。
「待ちなさい!」
遅れて声をかけたが、もう遅い。反応速度が大人のそれとはまるで違う。シグルスは慌てて立ち上がり、テーブルに置き去りにされた彼女の帽子を掴むと、早足でその後を追った。
ピスカは、セラフィーナにとってすでに「親友」と呼んで差し支えない存在だった。同時に、ともにシグルスに拾われた、姉弟にも似た間柄でもある。
彼女は元々、他者との間に明確な区切りを設けない性質だった。思ったこと、感じたことを胸の内に留めておく習慣がなく、そのため秘密と呼べるものをほとんど持たない。だが、そんな彼女にもひとつだけ例外があった。
――嬉しいことも、悲しいことも、決して隠さず真っ先にお互いへ打ち明けること。
それは、ピスカと交わした大切な約束だった。
だから今この瞬間、セラフィーナは迷わない。
この喜ばしい知らせを、誰より先に伝えるべき相手は彼しかいなかった。
「――ピスカ!」
「セラ――? どうしたんですか、そんなに慌てて」
ノックも忘れて部屋に飛び込んできたセラフィーナに、ピスカは目を見開いた。
部屋の中に彼の姿を見つけるや否や、彼女は弾むような足取りで駆け寄ってくる。ピスカは慌てて開いていた本を閉じた。午後から映画を観に行くと言っていた件だろうか、と一瞬考える。だが、それにしては様子が違う。今にも踊り出しそうなほど上機嫌な顔を見て、たぶん別件だな、と判断して問いかけた。
「何かいいことでもあったんですか?」
「あのね、わたし――おにいさまと婚約してるんだって!」
「……? ……えっ?」
ピスカの動きが止まった。
きょとんとした顔のまま瞬きを繰り返し、首を傾ける。経験上、セラフィーナが突拍子もないことを言い出すのは珍しくない。だが、今耳に入った言葉は意味がすぐには噛み合わず、どう返すべきか即座に決められなかった。
その時、やはりノックもなしに扉が開く。
明らかにセラフィーナを追いかけてきた様子のシグルスが、息を乱して立っていた。
「セラ! だから違っ……ては、いないが、違う。いや、違わないが……っ、まだ説明が……!」
支離滅裂だった。
ピスカは二人の様子を交互に見つめ、眉を下げて小さく頷く。その表情は妙に落ち着いていて、年齢に似つかわしくないほど冷静である。この場で最も状況を客観視できているのが最年少の少年だという事実は、なかなかに皮肉だった。
嵐の中心に巻き込まれた彼の第一声は、こうだった。
「……なるほど。何か事情があるんですね」
「いや、察しが良すぎるぞ君は!」
「わかってます、シグルスさん。ええ……色々、ありますよね」
思わず突っ込んだシグルスだが、当の子どもたちはまるで気にしていない。
セラフィーナは輝くような笑顔で上機嫌の極みにあり、ピスカは彼女に向かって「おめでとうございます……?」と、状況に配慮したのかしなかったのか判然としない曖昧な祝辞を返していた。
かくしてシグルスは、「セラフィーナに婚約の件を伝える」という目的だけは果たした。
だが同時に、本来もっとも肝心であるはずの「婚約解消について説明する機会」を完全に逃したのである。
後日、その事情を把握した両親――隠居後はさらに田舎の家へと移り、今は別居している――から、彼は容赦なく笑われた。あれほど喜ばれては、婚約解消など言い出せるものか――! とシグルスは本気で嘆いた。
どう考えても言葉の意味を正確に理解しているとは思えないセラフィーナの反応を前にしては、まだ話すには早すぎたのだろう、と彼は結論づけた。彼の常識では、未成年の年若い娘が十九歳も年上の男との婚約を歓迎するなど、あってはならないことだったからだ。幼い頃からあまりに明白で、わかりやすかったはずのセラフィーナの思考が、このとき初めて理解できなかった。
机に突っ伏したシグルスは深く息を吐き、もう数年、機を待とうと考えた。思春期がくれば、おのずと変化は訪れるはずだ、と――。
この時点で、シグルスはすでに三十二歳だった。とうに結婚適齢期を迎えている。婚約関係を解消しない限り、新たな出会いを探すこともできない立場にありながら、それでも今すぐ何とかしなければという焦りはなかった。……というのも、彼はすでにこの件で十三年待ち続けていたので、忍耐力も感覚もだいぶ麻痺していたのである。
今更、さらに数年延びたところで、まあ何とかなるだろう。
そう思っていた。
この油断、あるいは楽観が、のちの彼の人生により大きな波乱を呼び込むことになるとも知らずに。
*
それから二年が過ぎた。
この二年の間に、ピスカ・ブロウニーは無事にパブリックスクールへの入学を果たしている。しかも、それは単なる合格ではなかった。彼の経歴は、この種の学校が想定する模範的な進学経路から大きく外れていたが、それでも標準的な合格ラインを大きく上回る成績を評価され、いわゆる特待生の枠で迎え入れられるという極めて異例の形での入学となったのである。
合格通知を受け取った際、シグルスは確かに誇らしさを覚えた。だが、特別驚きはしなかった。彼の知るピスカは、愚直と呼ぶほかないほど勤勉な努力家だったからだ。結果は、その積み重ねが正当に評価されたに過ぎない。
後見していた二人がそろって寄宿学校に入ったことで、シグルスの日常は以前にも増して静かなものになった。今や彼らの近況を知るすべは、毎週末に欠かさず届く手紙くらいのものだ。
――もっとも、仕事のほうが落ち着いているかといえば、まったくそんなことはなかった。
脱走した憂鬱の行動報告、有栖院家内部の一連の騒動など、このところ極東の島国で頻発している問題は少なくない。イギリス本部の直接管轄ではないとはいえ、支部で発生した事案の情報は当然本部へ共有される。管理体制はどうなっているんだ、と東京支部の支部長に苦言を呈しても、返ってくるのは相変わらず軽薄な笑みと要領を得ない返答ばかりだった。どうにも、あの支部には長を筆頭にいい加減な人材が揃っている――というのが、シグルスの所感である。
加えて近年、本部管轄でとりわけ頭を悩ませている案件のひとつが、『人狼による被害』だった。
数少ない狼男の生き残り、ノイギア・ハティヴェルト。ここ百年近く日本に滞在していたはずの彼は、何を思ったのか突然イギリスへ戻り、ロンドンで生活を始めた。狼男は外見こそ人間と大差ないが、その本性は極めて粗暴で野蛮だ。満月の夜には理性を失い、暴れ回るのが常である。しかも、場所はロンドンという世界有数の大都市だ。被害対応に追われる現場からは「せめて郊外で暴れてくれないか」という切実な要請が上がり、何度か説得も試みたが、不老長寿で千歳を優に超える老人はあまりにも不遜だった。「なんで私が気を遣わなきゃならねえんだ」。これである。
もはや被害の発生は前提条件であり、問題はいかにそれを最小限に抑え、情報統制によって事実を覆い隠すかに集約されていた。それ以外の選択肢は、事実上存在しない。
シグルスはため息を吐きながら、今月分の人狼被害対処に関する報告書を捲る。
深夜の突風、車両事故、老朽化による倒壊、建設会社の施工不良――ありとあらゆる言い訳が使いまわされてきたが、最近の対処班のお気に入りは「ガス爆発」らしい。
テロ未遂にしていいか、という要請には、流石に即座に却下を突きつけた。どうやら今回は、複合要因によるインフラ事故で押し切る方針に固まったらしい――。
その時、控えめなノックが書斎の扉を叩く音がした。
「……どうぞ」
返事をすると、扉が静かに開く。両手でトレイを支えたセラフィーナが、そっと書斎へ入ってきた。
「お仕事、一区切りつきましたか?」
「いや、まだだが……どうした」
「お昼のあと、ずっと書斎にいらしたので。少し休憩したほうがいいかな、と思って」
トレイの上には、湯気の立つティーカップが二つ並んでいる。
柔らかな声で向けられたその提案に、シグルスは一瞬だけ言葉を探すように間を置き、それから書類を脇へ追いやった。差し出されたカップを受け取り、軽く息を吐く。
「……ありがとう。気が利くな」
「どういたしまして」
セラフィーナは嬉しそうに微笑み、向かいの椅子に背筋を伸ばして腰を下ろした。
彼女は今、一時的に屋敷に戻ってきていた。
パブリックスクールの生活は、原則として寄宿舎を中心に成り立っており、学期中の外泊や帰省は厳しく制限されている。もっとも、一定の条件を満たせば週末の外泊が許可される制度もあった。事前に保護者の申請と承認を受けたうえで、金曜の授業終了後から月曜の始業前までに帰省する、という仕組みである。セラフィーナはその制度を利用して帰ってきていた。
理由は、後見に関わる手続きの更新のためだ。書類への署名と確認には、未成年者本人と保護者の同席が求められ、代理や郵送では済まされない。そのため、シグルスが外泊許可を申請するほかなかった。用事そのものは昼前には滞りなく片付いている。
それでも午後になると、シグルスは自然と書斎へ戻っていた。長年の習慣というのは厄介なもので、手持ち無沙汰な時間ができると、思考は当然のように仕事のほうへと滑っていく。
カップに口をつければ、ちょうどよい温度の紅茶が喉を通った。こうして休憩を促されることは、彼にとってむしろありがたい。
「手続き、ちゃんと終わってよかったですね」
「ああ。これで当分は同じ書類を見る必要もない。君も退屈だったろう」
「いいえ。難しいお話ばかりで、正直よく分かりませんでしたけど」
「それでいい。分からなくて困るものでもない」
セラは両手でカップを包み込み、くすりと小さく笑う。その仕草があまりにも年相応に子どもらしくて、シグルスは無意識のうちに安堵を覚えた。
「学校はどうだ?」
「楽しいですよ。課題は多いですけど、先生もおともだちも親切で、いつも助けてくださいます」
「それは何よりだ。ピスカとも、まだ文通は続いているのか」
「もちろん! おにいさまのところにも毎週来ていますよね?」
「ああ……。手紙というよりは報告書だが、連絡は受けている。君とはまた別の意味で忠実だ」
そんな短いやり取りの間に、セラは何度かためらいがちにシグルスの方を窺うような視線を向けていた。
その様子に気付かないほど、シグルスは鈍くない。だが、あえて促そうとはしなかった。セラフィーナは昔から実直で、隠し事がひどく下手な子どもだ。言いたいことがあるなら、少し間を与えてやるだけで自分から話し出す。
会話の区切りを作るように、シグルスがカップを持ち上げて口元へ運ぶ。すると思ったとおり、セラが意を決したように声をかけてきた。
「おにいさま」
「ん?」
「明日なんですけど。お時間、ありますか?」
「……明日?」
「はい。明日です」
シグルスは即答せず、わずかに眉を寄せた。
予定そのものよりも、妙に改まったその切り出し方が引っかかる。
「……その、ですね。わたし」
一度、視線が揺れる。
そして次の瞬間、セラフィーナはぱっと顔を上げた。
「デートがしたいです。おにいさまと」
「――っ、」
シグルスは盛大にむせ、慌てて口元を押さえた。
頭の中で単語が、乾いた音を立てて弾ける。
デート。
それは世間一般において、男女が二人きりで出かける行為を指す。好意を前提とした、私的な外出を指す言葉だ。それを、なぜ――。
なぜ、セラフィーナが。
なぜ今、その言葉を。
僕と――?
思考が先へ先へと滑りかけて、シグルスは慌てて歯止めをかけた。余計な深読みはしたくない、邪推にしかならない。できれば聞き間違いであってほしいと願いながら、慎重に問い返そうと口を開く。
「……いま、何と言った?」
「ですから、デートに――」
「待ちたまえ」
遮るように制止する。聞き間違いでなかったことに、内心で静かに落胆しながら。
「君は、その言葉の意味を理解した上で使っているのか」
「好きな人と一緒に出かけること、ですよね?」
「……そういう意味は、確かにあるが」
「わたし、変なことを言いましたか? だって、わたしたち、婚約して――」
「――それは事実だが!」
またも即座に遮った。声が強くなったのを自覚し、シグルスはわずかに眉を寄せる。
「その話題は今ここでは必要ない。いいか、セラ。君は十五歳だ」
「はい」
「僕は三十四歳だ」
「……? はい」
年齢を並べてもなお、セラはきょとんとしている。むしろ、なぜ年齢が今ここで関係あるのだろう、とでも言いたげに首を傾げる。その仕草を見て、シグルスは自分の意図がまったく伝わっていないことを悟り、表情を引き攣らせた。
十五歳の少女と三十四歳の成人男性。二人で並んで外を歩くだけで、十分に目を引く。親子と見るには無理があるし、世間がどんな憶測を抱くかも想像に難くない。彼女の名誉に傷がつく可能性さえある。無用な誤解を生むなど、断じて避けねばならなかった。
「そもそも……我々の間に婚約が成立している、というのが事実だとしてもだ。なぜそれが、デートに直結するんだ」
「学校のおともだちが言ってました。婚約者の殿方とは、二人でデートに行くものだって。それが普通だって」
「……なるほど」
その言い分で、事情は理解はできた。周囲の影響を受けやすい年頃だ。つまりセラフィーナは、自分が婚約者という立場にあると認識したうえで、学友から聞いた一般的な婚約者像を真似ようとしたのだろう。その結果が、この発想なのだ。
婚約者だからといって無理に出かける必要はない。その説明を、この場で一からしなくてはならないのか――。
そう考え込んだシグルスの沈黙を、セラは拒絶と受け取ったらしい。視線を逸らし、少し拗ねた声で言う。
「……わたしは、おにいさまと一緒にお出かけに行きたいだけです。映画でも、お茶でも。……それじゃ、だめですか?」
その言い方に、力が抜けた。
かつて本を読んでくれと強請った子どもの頃と、今のセラフィーナは何ひとつ変わらない。少しばかり背が伸びたところで、シグルスにとってはいつまでだって可愛い妹分には違いなかった。
「それなら、なおのことデートという言い方は不適切だ。誤解を招く。軽々しく使っていい言葉ではない。君はまだ子どもで、僕は保護者だ」
「……つまり?」
「……ただ外出がしたいのなら、普通に出かけたいと言ってくれればいい」
「じゃあ――」
セラは顔を上げ、迷いなく言い直した。
「おにいさまと、お出かけがしたいです」
あまりにもあっさりとした修正に、シグルスは深く息を吐いた。
一時帰省中の未成年が外出するなら、保護者の同伴は当然だ。その理由であれば、まだ受け入れられる。
「……いいだろう。明日なら時間は取れる。博物館でも、公園の散歩でも。保護者として付き添うだけなら問題はない。だが、映画はだめだ」
「本当ですか?」
「ああ。ただし、それはデートではない」
「分かっています!」
「…………本当に、わかっているのか?」
「言い方の問題ですよね?」
「……。ただの外出だ」
「はい。お出かけです!」
嬉しそうに微笑むその表情をまともに見られず、シグルスは再び紅茶に口をつけた。小さな期待を裏切らずに済んだことへの、微かな安堵。それと引き換えのように、胃の奥がじくりと痛んだ。
一般には五、六年ほど在学し、十二、三歳の頃に実施される共通の学力検定試験を受ける。この試験に一定以上の成績を収めれば、上級学校であるパブリックスクールへ進学するための学力が概ね備わっているとみなされる。さらに各校ごとの入学試験や面接を経て、正式な入学が決まるのが通例だった。
そのため、多くの子どもは七、八歳でプレップスクールに入学し、十二、三歳で次の段階へ進む。もっとも、卒業の時期は一律ではない。順調に進学する者もいれば、学力や身体の事情、あるいは家庭の都合によって十五、六歳になっても望みが薄く、別の進路を選ばざるを得ないものもいる。進学の時期は、生徒一人ひとりの事情に大きく左右されるものだった。
では、セラフィーナは、というと――。
十三歳になった彼女は、このたび無事にパブリックスクールへの入学を決めた。課目ごとの成績にはばらつきがあり、飛び抜けた優等生というわけではない。だが、与えられた課題に対して本人なりに精一杯取り組んだ結果であることは疑いようがなく、教師たちもその点を正しく評価していた。
一方で、セラフィーナより一歳年下のピスカは、また少し違う道を歩んでいる。
ピスカはウェールズの一般家庭に生まれ、八歳までは地方の公立初等学校で義務教育を受けていた。セラフィーナとは育った環境も、教育の前提もまるで異なる。しかし、学びたいという彼自身の強い意欲を知ったシグルスは、家庭教師をつけ、プレップスクールと同等、あるいはそれ以上の水準の学習機会を与えていた。ピスカもまた、その期待に応えるように日々の学びに真剣に取り組んでいる。目的が明確であるためか、勉強を苦痛と感じる様子はなく、むしろ貪欲に知識を吸収していた。
通常の進学経路からすれば、プレップスクールを経ずにパブリックスクールへ直接入学するのは容易なことではない。例外的であり、難易度も高い。だが、ピスカが積み重ねてきた努力と、その伸びしろを思えば無謀だとシグルスは考えていなかった。
むしろ、翌年あたりを目安に推薦のうえ入学試験を受けさせてみる価値は十分にある。本人が望む限り、より良い環境を用意することこそ保護者としての務めだと、シグルスは考えていた。
このように、子どもたちは心身ともに健やかに育っている。その成長そのものは、喜ばしいことだった。
だが、シグルスの胸中には、彼らの進路とは別に、どうしても目を逸らせない問題が一つあった。
――婚約の件である。
かつて先祖同士が交わした約束によって成立した婚約関係が、形式上とはいえ、今なおシグルスとセラフィーナの間には残っていた。婚約が結ばれたのは、彼女がまだ首もすわらぬ赤子だった頃のことだ。
あれから、はや十数年が過ぎた。当時成人したばかりの青年だったシグルスも、今では三十二歳である。中年と呼ばれる年齢のほうが近い。一方、母親の腕に抱かれていた乳児は、物事を理解し、自分の意思を持つ少女へと成長していた。
セラフィーナは現在、パブリックスクールへの入学を控え、秋学期が始まるまでの間を家で過ごしている。
この話をするなら、今しかない。シグルスはそう判断していた。
今日の午後、彼女はシグルスの父に連れられてロンドンの劇場へ映画を観に行く予定らしい。ピスカも誘ったものの、やんわりと断られてしまったのだと、少し残念そうに笑っていた。代わりにお土産を買ってくるつもりだ、チョコレートがいいでしょうか、と――。
対面のカウチに腰を下ろし、楽しげにそう語るセラフィーナを見つめながら、シグルスはおもむろに口を開いた。
「セラフィーナ。進学も決まったことだし、君に話がある」
「お話、ですか?」
「大事な話だ。……驚かずに聞いてほしい」
「なにか、あったんですか?」
改まった調子に、セラフィーナはわずかに不安を滲ませるように小首を傾げた。
シグルスは言葉を選ぶように間を置く。もっとも、この話をどう切り出すべきかなど、何年も前から彼の中では繰り返し考え尽くされてきたことだった。今さら言い淀む理由はない。
「これはずっと昔、僕らの祖父母よりも前の代から決められていたことなんだが」
「はい」
「君と僕の間には、家同士の古い約束によって婚約が結ばれている。つまり形式上、君は僕の婚約者だった」
「え?」
「……君が、赤ん坊の頃からね」
「……はい?」
セラフィーナが、きょとんと瞬きをする。
一拍遅れて、言葉の意味を確かめようとするように、彼女はその単語を復唱した。
「……こんやく……?」
「そう。まあ、その……将来、その相手と結婚するという意味の――」
シグルスは小さく咳払いをしてから、彼女の反応を見逃さないよう注意を払いながら言葉を続けた。
十九歳も年上の男と、自分の預かり知らぬ過去によって婚約が成立していたなど、常識的に考えればどうかしている。かつて、父からその事実を知らされたときの衝撃と憤りを、シグルスは今でも覚えていた。結婚の意思を問われたこともないまま、顔も名前も知らない赤子と婚約していると突然告げられたのだ。
いま目の前にいる少女は、あの頃の自分よりさらに幼く、若く、そして子どもだった。
思えば昔、「なんの接点もない赤の他人から、いきなり我々は婚約者同士ですと言われるよりは、知り合い同士の方がまだましだろう」と言われたことがある。だが、本当にそうだったのだろうか。幼い頃から兄のように慕っていた相手に、ある日突然「僕は君の婚約者だ」と告げられるほうが、その、よほど気味が悪いのではないか――。至極まっとうで、しかも配慮するにはあまりにも遅すぎるその考えを、この頃のシグルスは考えていた。
だから、もし泣き出されでもしたら、即座に解消前提の話であると告げるつもりだった。そうでなくても、なだめる用意はしていた。想定していた反応は、いくつかある。
だが、セラフィーナが見せた反応は、そのどれとも違った。
「…………つまり、それって!」
彼女の表情が、ぱっと明るくなる。
胸の前で両手をぎゅっと握り締め、椅子から半分浮き上がるほどの勢いで身を乗り出した。
「ん?」
「わたしが、おにいさまのお嫁さんになれるってことですよね!?」
「――――は、」
思考が止まる。
婚約とは、つまり結婚の約束である。そしてセラフィーナとシグルスが婚約関係にあるということは、彼女が将来シグルスの妻になる約束をしている、という意味でもある。理屈としては間違っていない。だが、彼がこの場で伝えたかったのは、もちろんそんな話ではなかった。
本来は、婚約解消の件を話し合うつもりだったのだから。
「え。いや、厳密にはそうでは――」
「本当ですか!?」
隠しきれない動揺をにじませながらも、どうにか否定しようとした、その矢先だった。セラフィーナは勢いよく立ち上がる。目を輝かせ、頬を紅潮させ、まるでクリスマスの朝を迎えた子どものような顔でシグルスを見下ろした。
「わたしが、おにいさまのお嫁さんになるんですね……!」
ワンピースの裾がひらりと舞い、帽子がテーブルの上に転がった。その姿は力強く、愛らしく、懸命で、まるで春風そのもののような生命力に満ちている。
「……………………」
シグルスは、今度こそ完全に言葉を失った。背中に宇宙でも背負わされたような心地で、目の前の現実を受け止めるまでにしばし時間を要する。この世に「想定外」というものがあるなら、彼にとっては今この瞬間がまさにそれだった。
「――セ、セラフィーナ。落ち着きなさい。確かに正式な婚約ではあるが、誤解のないように言っておくが、これは、」
「――ピスカ」
「えっ何?」
「ピスカにも、教えてきます!」
セラフィーナは興奮冷めやらぬ様子でそう言い切ると、踵を返して部屋を飛び出した。
「待ちなさい!」
遅れて声をかけたが、もう遅い。反応速度が大人のそれとはまるで違う。シグルスは慌てて立ち上がり、テーブルに置き去りにされた彼女の帽子を掴むと、早足でその後を追った。
ピスカは、セラフィーナにとってすでに「親友」と呼んで差し支えない存在だった。同時に、ともにシグルスに拾われた、姉弟にも似た間柄でもある。
彼女は元々、他者との間に明確な区切りを設けない性質だった。思ったこと、感じたことを胸の内に留めておく習慣がなく、そのため秘密と呼べるものをほとんど持たない。だが、そんな彼女にもひとつだけ例外があった。
――嬉しいことも、悲しいことも、決して隠さず真っ先にお互いへ打ち明けること。
それは、ピスカと交わした大切な約束だった。
だから今この瞬間、セラフィーナは迷わない。
この喜ばしい知らせを、誰より先に伝えるべき相手は彼しかいなかった。
「――ピスカ!」
「セラ――? どうしたんですか、そんなに慌てて」
ノックも忘れて部屋に飛び込んできたセラフィーナに、ピスカは目を見開いた。
部屋の中に彼の姿を見つけるや否や、彼女は弾むような足取りで駆け寄ってくる。ピスカは慌てて開いていた本を閉じた。午後から映画を観に行くと言っていた件だろうか、と一瞬考える。だが、それにしては様子が違う。今にも踊り出しそうなほど上機嫌な顔を見て、たぶん別件だな、と判断して問いかけた。
「何かいいことでもあったんですか?」
「あのね、わたし――おにいさまと婚約してるんだって!」
「……? ……えっ?」
ピスカの動きが止まった。
きょとんとした顔のまま瞬きを繰り返し、首を傾ける。経験上、セラフィーナが突拍子もないことを言い出すのは珍しくない。だが、今耳に入った言葉は意味がすぐには噛み合わず、どう返すべきか即座に決められなかった。
その時、やはりノックもなしに扉が開く。
明らかにセラフィーナを追いかけてきた様子のシグルスが、息を乱して立っていた。
「セラ! だから違っ……ては、いないが、違う。いや、違わないが……っ、まだ説明が……!」
支離滅裂だった。
ピスカは二人の様子を交互に見つめ、眉を下げて小さく頷く。その表情は妙に落ち着いていて、年齢に似つかわしくないほど冷静である。この場で最も状況を客観視できているのが最年少の少年だという事実は、なかなかに皮肉だった。
嵐の中心に巻き込まれた彼の第一声は、こうだった。
「……なるほど。何か事情があるんですね」
「いや、察しが良すぎるぞ君は!」
「わかってます、シグルスさん。ええ……色々、ありますよね」
思わず突っ込んだシグルスだが、当の子どもたちはまるで気にしていない。
セラフィーナは輝くような笑顔で上機嫌の極みにあり、ピスカは彼女に向かって「おめでとうございます……?」と、状況に配慮したのかしなかったのか判然としない曖昧な祝辞を返していた。
かくしてシグルスは、「セラフィーナに婚約の件を伝える」という目的だけは果たした。
だが同時に、本来もっとも肝心であるはずの「婚約解消について説明する機会」を完全に逃したのである。
後日、その事情を把握した両親――隠居後はさらに田舎の家へと移り、今は別居している――から、彼は容赦なく笑われた。あれほど喜ばれては、婚約解消など言い出せるものか――! とシグルスは本気で嘆いた。
どう考えても言葉の意味を正確に理解しているとは思えないセラフィーナの反応を前にしては、まだ話すには早すぎたのだろう、と彼は結論づけた。彼の常識では、未成年の年若い娘が十九歳も年上の男との婚約を歓迎するなど、あってはならないことだったからだ。幼い頃からあまりに明白で、わかりやすかったはずのセラフィーナの思考が、このとき初めて理解できなかった。
机に突っ伏したシグルスは深く息を吐き、もう数年、機を待とうと考えた。思春期がくれば、おのずと変化は訪れるはずだ、と――。
この時点で、シグルスはすでに三十二歳だった。とうに結婚適齢期を迎えている。婚約関係を解消しない限り、新たな出会いを探すこともできない立場にありながら、それでも今すぐ何とかしなければという焦りはなかった。……というのも、彼はすでにこの件で十三年待ち続けていたので、忍耐力も感覚もだいぶ麻痺していたのである。
今更、さらに数年延びたところで、まあ何とかなるだろう。
そう思っていた。
この油断、あるいは楽観が、のちの彼の人生により大きな波乱を呼び込むことになるとも知らずに。
*
それから二年が過ぎた。
この二年の間に、ピスカ・ブロウニーは無事にパブリックスクールへの入学を果たしている。しかも、それは単なる合格ではなかった。彼の経歴は、この種の学校が想定する模範的な進学経路から大きく外れていたが、それでも標準的な合格ラインを大きく上回る成績を評価され、いわゆる特待生の枠で迎え入れられるという極めて異例の形での入学となったのである。
合格通知を受け取った際、シグルスは確かに誇らしさを覚えた。だが、特別驚きはしなかった。彼の知るピスカは、愚直と呼ぶほかないほど勤勉な努力家だったからだ。結果は、その積み重ねが正当に評価されたに過ぎない。
後見していた二人がそろって寄宿学校に入ったことで、シグルスの日常は以前にも増して静かなものになった。今や彼らの近況を知るすべは、毎週末に欠かさず届く手紙くらいのものだ。
――もっとも、仕事のほうが落ち着いているかといえば、まったくそんなことはなかった。
脱走した憂鬱の行動報告、有栖院家内部の一連の騒動など、このところ極東の島国で頻発している問題は少なくない。イギリス本部の直接管轄ではないとはいえ、支部で発生した事案の情報は当然本部へ共有される。管理体制はどうなっているんだ、と東京支部の支部長に苦言を呈しても、返ってくるのは相変わらず軽薄な笑みと要領を得ない返答ばかりだった。どうにも、あの支部には長を筆頭にいい加減な人材が揃っている――というのが、シグルスの所感である。
加えて近年、本部管轄でとりわけ頭を悩ませている案件のひとつが、『人狼による被害』だった。
数少ない狼男の生き残り、ノイギア・ハティヴェルト。ここ百年近く日本に滞在していたはずの彼は、何を思ったのか突然イギリスへ戻り、ロンドンで生活を始めた。狼男は外見こそ人間と大差ないが、その本性は極めて粗暴で野蛮だ。満月の夜には理性を失い、暴れ回るのが常である。しかも、場所はロンドンという世界有数の大都市だ。被害対応に追われる現場からは「せめて郊外で暴れてくれないか」という切実な要請が上がり、何度か説得も試みたが、不老長寿で千歳を優に超える老人はあまりにも不遜だった。「なんで私が気を遣わなきゃならねえんだ」。これである。
もはや被害の発生は前提条件であり、問題はいかにそれを最小限に抑え、情報統制によって事実を覆い隠すかに集約されていた。それ以外の選択肢は、事実上存在しない。
シグルスはため息を吐きながら、今月分の人狼被害対処に関する報告書を捲る。
深夜の突風、車両事故、老朽化による倒壊、建設会社の施工不良――ありとあらゆる言い訳が使いまわされてきたが、最近の対処班のお気に入りは「ガス爆発」らしい。
テロ未遂にしていいか、という要請には、流石に即座に却下を突きつけた。どうやら今回は、複合要因によるインフラ事故で押し切る方針に固まったらしい――。
その時、控えめなノックが書斎の扉を叩く音がした。
「……どうぞ」
返事をすると、扉が静かに開く。両手でトレイを支えたセラフィーナが、そっと書斎へ入ってきた。
「お仕事、一区切りつきましたか?」
「いや、まだだが……どうした」
「お昼のあと、ずっと書斎にいらしたので。少し休憩したほうがいいかな、と思って」
トレイの上には、湯気の立つティーカップが二つ並んでいる。
柔らかな声で向けられたその提案に、シグルスは一瞬だけ言葉を探すように間を置き、それから書類を脇へ追いやった。差し出されたカップを受け取り、軽く息を吐く。
「……ありがとう。気が利くな」
「どういたしまして」
セラフィーナは嬉しそうに微笑み、向かいの椅子に背筋を伸ばして腰を下ろした。
彼女は今、一時的に屋敷に戻ってきていた。
パブリックスクールの生活は、原則として寄宿舎を中心に成り立っており、学期中の外泊や帰省は厳しく制限されている。もっとも、一定の条件を満たせば週末の外泊が許可される制度もあった。事前に保護者の申請と承認を受けたうえで、金曜の授業終了後から月曜の始業前までに帰省する、という仕組みである。セラフィーナはその制度を利用して帰ってきていた。
理由は、後見に関わる手続きの更新のためだ。書類への署名と確認には、未成年者本人と保護者の同席が求められ、代理や郵送では済まされない。そのため、シグルスが外泊許可を申請するほかなかった。用事そのものは昼前には滞りなく片付いている。
それでも午後になると、シグルスは自然と書斎へ戻っていた。長年の習慣というのは厄介なもので、手持ち無沙汰な時間ができると、思考は当然のように仕事のほうへと滑っていく。
カップに口をつければ、ちょうどよい温度の紅茶が喉を通った。こうして休憩を促されることは、彼にとってむしろありがたい。
「手続き、ちゃんと終わってよかったですね」
「ああ。これで当分は同じ書類を見る必要もない。君も退屈だったろう」
「いいえ。難しいお話ばかりで、正直よく分かりませんでしたけど」
「それでいい。分からなくて困るものでもない」
セラは両手でカップを包み込み、くすりと小さく笑う。その仕草があまりにも年相応に子どもらしくて、シグルスは無意識のうちに安堵を覚えた。
「学校はどうだ?」
「楽しいですよ。課題は多いですけど、先生もおともだちも親切で、いつも助けてくださいます」
「それは何よりだ。ピスカとも、まだ文通は続いているのか」
「もちろん! おにいさまのところにも毎週来ていますよね?」
「ああ……。手紙というよりは報告書だが、連絡は受けている。君とはまた別の意味で忠実だ」
そんな短いやり取りの間に、セラは何度かためらいがちにシグルスの方を窺うような視線を向けていた。
その様子に気付かないほど、シグルスは鈍くない。だが、あえて促そうとはしなかった。セラフィーナは昔から実直で、隠し事がひどく下手な子どもだ。言いたいことがあるなら、少し間を与えてやるだけで自分から話し出す。
会話の区切りを作るように、シグルスがカップを持ち上げて口元へ運ぶ。すると思ったとおり、セラが意を決したように声をかけてきた。
「おにいさま」
「ん?」
「明日なんですけど。お時間、ありますか?」
「……明日?」
「はい。明日です」
シグルスは即答せず、わずかに眉を寄せた。
予定そのものよりも、妙に改まったその切り出し方が引っかかる。
「……その、ですね。わたし」
一度、視線が揺れる。
そして次の瞬間、セラフィーナはぱっと顔を上げた。
「デートがしたいです。おにいさまと」
「――っ、」
シグルスは盛大にむせ、慌てて口元を押さえた。
頭の中で単語が、乾いた音を立てて弾ける。
デート。
それは世間一般において、男女が二人きりで出かける行為を指す。好意を前提とした、私的な外出を指す言葉だ。それを、なぜ――。
なぜ、セラフィーナが。
なぜ今、その言葉を。
僕と――?
思考が先へ先へと滑りかけて、シグルスは慌てて歯止めをかけた。余計な深読みはしたくない、邪推にしかならない。できれば聞き間違いであってほしいと願いながら、慎重に問い返そうと口を開く。
「……いま、何と言った?」
「ですから、デートに――」
「待ちたまえ」
遮るように制止する。聞き間違いでなかったことに、内心で静かに落胆しながら。
「君は、その言葉の意味を理解した上で使っているのか」
「好きな人と一緒に出かけること、ですよね?」
「……そういう意味は、確かにあるが」
「わたし、変なことを言いましたか? だって、わたしたち、婚約して――」
「――それは事実だが!」
またも即座に遮った。声が強くなったのを自覚し、シグルスはわずかに眉を寄せる。
「その話題は今ここでは必要ない。いいか、セラ。君は十五歳だ」
「はい」
「僕は三十四歳だ」
「……? はい」
年齢を並べてもなお、セラはきょとんとしている。むしろ、なぜ年齢が今ここで関係あるのだろう、とでも言いたげに首を傾げる。その仕草を見て、シグルスは自分の意図がまったく伝わっていないことを悟り、表情を引き攣らせた。
十五歳の少女と三十四歳の成人男性。二人で並んで外を歩くだけで、十分に目を引く。親子と見るには無理があるし、世間がどんな憶測を抱くかも想像に難くない。彼女の名誉に傷がつく可能性さえある。無用な誤解を生むなど、断じて避けねばならなかった。
「そもそも……我々の間に婚約が成立している、というのが事実だとしてもだ。なぜそれが、デートに直結するんだ」
「学校のおともだちが言ってました。婚約者の殿方とは、二人でデートに行くものだって。それが普通だって」
「……なるほど」
その言い分で、事情は理解はできた。周囲の影響を受けやすい年頃だ。つまりセラフィーナは、自分が婚約者という立場にあると認識したうえで、学友から聞いた一般的な婚約者像を真似ようとしたのだろう。その結果が、この発想なのだ。
婚約者だからといって無理に出かける必要はない。その説明を、この場で一からしなくてはならないのか――。
そう考え込んだシグルスの沈黙を、セラは拒絶と受け取ったらしい。視線を逸らし、少し拗ねた声で言う。
「……わたしは、おにいさまと一緒にお出かけに行きたいだけです。映画でも、お茶でも。……それじゃ、だめですか?」
その言い方に、力が抜けた。
かつて本を読んでくれと強請った子どもの頃と、今のセラフィーナは何ひとつ変わらない。少しばかり背が伸びたところで、シグルスにとってはいつまでだって可愛い妹分には違いなかった。
「それなら、なおのことデートという言い方は不適切だ。誤解を招く。軽々しく使っていい言葉ではない。君はまだ子どもで、僕は保護者だ」
「……つまり?」
「……ただ外出がしたいのなら、普通に出かけたいと言ってくれればいい」
「じゃあ――」
セラは顔を上げ、迷いなく言い直した。
「おにいさまと、お出かけがしたいです」
あまりにもあっさりとした修正に、シグルスは深く息を吐いた。
一時帰省中の未成年が外出するなら、保護者の同伴は当然だ。その理由であれば、まだ受け入れられる。
「……いいだろう。明日なら時間は取れる。博物館でも、公園の散歩でも。保護者として付き添うだけなら問題はない。だが、映画はだめだ」
「本当ですか?」
「ああ。ただし、それはデートではない」
「分かっています!」
「…………本当に、わかっているのか?」
「言い方の問題ですよね?」
「……。ただの外出だ」
「はい。お出かけです!」
嬉しそうに微笑むその表情をまともに見られず、シグルスは再び紅茶に口をつけた。小さな期待を裏切らずに済んだことへの、微かな安堵。それと引き換えのように、胃の奥がじくりと痛んだ。