初夏の思い出たち
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年月は、呆気なく過ぎた。
学業に専念して大学を卒業したのち、順当な流れで中立機関C3イギリス本部へ入社した。日々の研鑽を積みながら忙しなく働き、たまの休暇には生家に顔を出す。そんな生活を繰り返すうちに、シグルスは気付けば二十五歳になっていた。
シグルスがそうして忙しくも穏やかな日々を過ごしていたある日、父から一本の電話があった。
『あの子が六歳になったそうだ』
シグルスは思わず首を捻り「誰?」と聞き返した。受話器越しに、ややわざとらしいため息がこぼされる。
『お前の“許嫁”のお嬢さんだ。セラフィーナ嬢、忘れたのか?』
「……ああ、あの子か」
ほんの一瞬、頭が追いつかなかったがシグルスは曖昧に頷いた。
あの子。
つまり、六年前断る余地もなく強制的に結ばされた、十九歳差の婚約の当事者。セラフィーナと名付けられた、あの赤子のことだった。もうあれから六年も経ったのか、と思いながらシグルスは受話器を持ち直す。
その存在を完全に忘れたわけではなかったが、かといって思い出すことも滅多になかった。婚約していることも、その相手が自分より十九も年下の幼子であることも、当然、誰かに口外したことはない。話したところで常識を疑われるか、出来の悪い冗談と捉えて失笑されるに違いないだろう。あくまで、書類上の婚約者がいるというだけ。その程度の、現実味の薄い距離感を保ったまま、六年が過ぎていた。あの時はなんて理不尽だと憤慨したが、実生活に何か具体的な支障が生じたことはない。少なくとも、今のところは。
今思い出そうとしてみても、記憶の片隅に残っていたのはあのゆりかごの中で自分の指を力強く握った、小さな手の感触くらいだった。
あの時、父が言った「気にするな」という一言は、結果的に正しかったと言えるだろう。もちろん、皮肉だが。
「それで、彼女がどうした。誕生日の祝いか、カードでも贈ったほうがいいという話ですか?」
『生誕祝いなら毎年母さんが選んで贈っている』
「いつの間に……」
『話を戻そう。セラフィーナの両親は貿易関連の仕事をしていてな、夏の間は国外に出る。それで、セラフィーナを今年の夏から、数週間ほどうちで預かることにした。両家の話し合いで決まったことだ。形式的な婚約とはいえ、全く交流がないのも不自然だろう? 幼い頃に顔を合わせて、親交くらい持っておいた方がいい』
父は実に平然と、事務的な調子でそう告げた。
要するに、思春期真っ只中に「あなたには十九歳も年上の婚約者がいます」と唐突に知らされては、少女にとっての衝撃は計り知れない。だから幼いうちから少しずつ慣らしておこうという判断らしい。何の接点もない赤の他人がいきなり婚約者ですと出てくるよりは、知り合いの方がマシだろう、と。……まったく、人道的な配慮である。表向きは“親戚の子を預かる”という扱いにするということだった。
『だから、あの子が滞在している間だけでも暫く家に戻ってきなさい。お前がいないと意味がない』
「……そういう話は、もっと早くに言ってくれませんか? 今少し立て込んでいて、まとまった時間が取れるかどうか」
『努力しなさい。用件は以上だ。おやすみ』
途切れた通話を訝しげに睨んで、シグルスは長く息を吐いた。
父の配慮は、理屈としては理解できる。だが、その「慣らす」という行為を六歳の女児と二十五歳の成人男性の間とでどう成立させるつもりなのか、まるで想像がつかなかった。形式上は婚約者とはいえ、相手はまだ幼児だ。自分の妹よりもはるかに幼い。この婚約は解消前提のもので、そんな子どもを“将来の妻”などと意識するなど、まともな神経ではできるはずもない。
せいぜい妹のような存在、といったところだろうか……。
もっとも、四歳下の妹ですら『セラフィーナ』とは十五歳も年が離れている。まともに会話が成り立つかどうかも怪しい。遊び相手にもなれず、話題を合わせるにも苦労するだろう。それでも、なるべく優しく、穏やかに、怖がらせないように接するしかない――そう思ってはいたが、どうしても気は重かった。
セラフィーナがシグルス家で夏を過ごし始めた最初の年。その滞在期間中に、シグルスが生家に戻れたのは仕事の合間を縫っての数日が限度だった。それも、ほんの顔を見せに行く程度の時間――、
しかし、初めて顔を合わせた日の光景を、シグルスはよく覚えている。
シグルスの母が作ったトライフルを前に、小さなスプーンをぎゅっと握りしめたまま、こちらを見上げる幼女の姿。六歳の子どもとはこんなものだっただろうか、と思うほど小柄で、食卓の椅子にクッションで嵩上げをして座るその子は精巧な西洋人形のようにも見えた。
透き通るように澄んだ大きな瞳。さらさらと細い髪。あどけなさの残る丸い頬。そして、ためらいがちに唇を開いて「……おにいさま?」と、たどたどしい発音で呼びかける声。
おにいさま。
その呼び名が自分に向けられたものだと理解するのに、シグルスは少し時間を要した。当初は、その響きに少なからず居心地の悪さも覚えた。
どうやら、そう呼ぶように教えられていたらしい。その時は、両親がどのように説明したのかは知らなかった。だが、少なくとも『婚約』という言葉の意味を理解している様子はないな、と思った。当然だ。六歳の子どもに、そんな概念が分かるはずもない。セラフィーナにとって自分は、“遠い親戚のお兄さん”のような存在だった――いや、むしろそう思ってもらえた方がよかったのだが。
セラフィーナは驚くほど人懐っこい子だった。
書類を読んでいると、いつの間にか背後から小さな影が覗き込んで「おにいさま、それなあに?」と首を傾げる。実に素直で、屈託がなく、よく笑った。叱られればしゅんと肩を落とし、けれどすぐにけろりと機嫌を直す。褒められれば頬を染めて、嬉しそうに笑う。
そんな子どもらしい無垢な姿を見ているうちに、シグルスはいつしか胸の奥に、愛着のようなものが芽生えていくのを感じていた。それは、恋慕などとは断じて違う。もっと単純で、静かで、ひどく柔らかな類いのものだ。
セラが帰る日。シグルスが玄関まで見送りに出ると、小さな手がそっとその袖をつまんだ。セラから「またらいねん、きてもいい?」とやはり舌足らずな発音で無邪気にそう尋ねられたとき、シグルスはほんの少しだけ言葉に詰まった。ただ一言、「もちろん」とだけ答えたと思う。それでも、少女はぱっと花が咲くように笑い、喜んだ。
あの笑顔は、今でもありありと目に浮かぶ。
六年前、指を握りしめたあの小さな感触が、再び温度を持つようだった。
***
昼下がりの陽光が、庭の芝を穏やかに照らす夏の午後のこと。
シグルスは木陰に置かれた白い鉄製のガーデンチェアに腰を下ろし、肘掛けに片肘を預けながら本を読んでいた。膝の上で開いた本のページに落ちた木漏れ日の影が、風が吹くたびに形を変えて踊る。ページをめくる指がふと止まるたび、視線は本を超えて陽に照らされた芝の方へ向かった。
その先には、小さな白帽子が見える。帽子の下では金色を帯びた細い髪が風に揺れ、地面に膝をついた少女が一心にシロツメクサを選り分けていた。ついこの前、七歳の誕生日を迎えたばかりの少女、セラフィーナの姿がそこにはある。
時折その姿を目に留めて、シグルスはまた小さく息を吐いて本へと視線を戻した。正直、内容はあまり頭に入ってきていない。ここに座っている以外に何もすることがないので気晴らしに本を開いているだけの状態だった。
「おにいさま!」
そこに高く弾んだ声がかけられて、シグルスはまた本から顔を上げた。
芝生を駆けてくるセラの両手が小さな宝物を包み込むように胸の前で握られている。
「みて! よつば!」
「ほう、見つけたのか」
シグルスは本に栞を挟んでテーブルに置くと、肘掛けに手を掛けて少し身を乗り出した。セラが満面の笑みで差し出したクローバーを受け取り、指先でそっと葉を広げる。少し形がいびつだった。葉の中心を押さえて、簡単に目を走らせるとシグルスは息を吐くように笑みを浮かべて、セラを見た。
「……残念だが、これは三つ葉だ」
「えっ?」
ぱちりと瞬きをしたセラが、信じられないといった顔でシグルスの手を覗き込む。小さな指先がシグルスの手に乗ったクローバーの葉を、一つずつ押さえて数え上げた。
「だって、ほら――いち、に、さん、よん!」
「同じ葉を二回数えてる」
「……え?」
「ここをよく見てごらん。この葉は一枚が分かれて見えるだけだ」
「…………もういっかい、かぞえていい?」
「ああ、好きなだけどうぞ」
「ん、いち、に……さん? あれ?」
最初は自信満々に言い切っていた元気な表情だったのが、もういっかいの時には困惑を表している。何度かクローバーとシグルスの顔を見比べて、首を傾げるセラの仕草に、シグルスの喉の奥で堪えきれずに笑いが洩れた。
「惜しかったな」
「うん、よつばじゃなかった……」
「三つ葉だとしても、君が見つけた幸運の葉には違いない」
シグルスは片手でセラの小さな手のひらを掬い上げて、そこに三つ葉を返す。見るからに残念そうな表情が気の毒で、シグルスは労いを込めてそう言い添えた。するとしょんぼりと肩を落としていたセラの表情が、ぱっと明るく変わる。
「ほんとう? じゃあこれ、おにいさまにあげる!」
「……僕に?」
「うん! しあわせのはっぱだから」
シグルスは再び手のひらに戻ってきた小さな三つ葉を眺めて「……ありがとう」と返した。
こんな贈り物を貰うのは初めてだ。ただの野草だが、それでも悪い気はしなかった。目の前の子どもが熱心にシロツメクサを選り分けていた理由に気付いたからだ。その思いやりを無下に扱いたくなかった。押し花にでもしておくか、とそんな考えが自然と浮かぶ。
満足そうに笑うセラフィーナが椅子の肘掛けに手を添えて、上目遣いに尋ねる。
「おにいさまはなにをしているの? きょうもおしごと?」
「まあ、仕事のようなものとも言えるかな。君の見張りがあるから」
「みはり?」
「そう。君が一人でに庭を転がって、どこかへ行ってしまわないようにね」
セラはきょとんと首を傾げた後、口元をおさえて笑い声を上げた。
「じゃあ、みはってくれてありがとう?」
「どういたしまして」
子どもというのはどうしてこうもまっすぐなのだろう、と思いながらシグルスはセラを見下ろした。
かつて揺り籠にすっぽりと収まっていた赤子が、いまや自分の足で歩き、拙いながらも言葉を覚えて話し、こうして笑っている。時間の流れというものの早さを、これほど強く感じたことは未だかつてなかった。
ふと、その頬に付いた土汚れが目に留まる。シグルスが「セラ」と呼びかけようとした時、不意にその背後から声がかかった。
「――本当に懐かれているわね、フレデリック」
振り向くと、レモネードが入ったピッチャーを銀のトレイに載せ、妹がこちらへ歩いてくるところだった。
シグルスが座る隣に置かれたテーブルへとトレイを下ろすと、からん、と浮いた氷がレモネードの液面を滑って壁面にぶつかる音が鳴った。彼女が冷やかすような視線をシグルスに向けて微笑む。
「あなた、すっかりいいお兄様よ」
「……からかわないでくれ」
「でも、嬉しいでしょう? この子、私より『お兄様』って呼ぶんだから」
妹は屈み、「セラ」と気軽に声をかけると、その頬に付いていた土汚れを指先で拭った。
「ついてるわ。手も汚れてるからこれで拭きましょう」
「ありがとう、おねえさま!」
お兄様と呼ばれることに最初は戸惑っていたくせに、今はそう慕われるのが嬉しいんだろうと揶揄ってきた妹を脇目に、シグルスは本の表紙の上にセラから貰った三つ葉を置いた。そんな彼女の方こそ「子どもの相手なんて疲れるでしょうね」と言っていたくせに、いつの間にか率先して世話を焼いている始末だ。内心姉扱いを喜んでいるのは、どちらの方だか……。シグルスは肩を竦めながら、口元に小さな笑みを浮かべた。
「僕はお前にとってはいい兄ではなかったという意味か?」
「あら、まさか!」
軽口を返すと、妹は笑って否定しながらグラスの準備を始める。セラはやり取りの意味を理解できなかったのか、きょとんと顔を上げた。そして、もう一度「おにいさま!」と嬉しそうに呼ぶ。その反応に妹がまたくすくすと笑い声をあげて、レモネードの中でからりと崩れた氷の音と重なった。
夏の陽光に照らされる、絵葉書のように美しい穏やかな午後の日だった。
***
シグルス家がセラフィーナを夏の時期に迎えるようになって、早くも三度目の夏が来た。もはや恒例行事になりかけている。シグルスは昨年から彼女の滞在に合わせて予定を調整し、生家で過ごすようにしていた。
セラは年々少しずつ背が伸び、髪も長くなった。子どもの成長の速さを感じる一方で、三年経っても変わらないものはある。彼女は毎年来るたび、シグルスを見るなり「おにいさま!」と声を弾ませて駆け寄り、子犬のように無邪気にじゃれついた。
子どもの記憶は長く続かないという世間の一般論に反して、セラはシグルス家の面々のことをよく覚えていた。
比較的涼しく過ごしやすい夏の時期といえど、雨の日もある。
元々、イングランドの天気は変わりやすい。
その日は朝からしとしとと細かな雨が降っていたが、午後に入る頃には稲光を伴う雷雨へと変わりつつあった。空は低く暗く、雲は鉛のように重く垂れ込めている。時折、稲妻の閃光が走り、続く雷鳴が窓を震わせていた。
窓辺の椅子に腰掛けたシグルスは、そんな嵐の気配を背に受けながら分厚い専門書を片手に静かにページを繰る。難解な数式と理論が行間を埋めているが、活字を追う彼の目には微塵の揺らぎもない。書斎の空気はしんと張り詰め、紙を捲る音すら際立って聞こえるほど静かだった。
そんな静寂の中に、小さな足音が忍び寄る。絨毯を踏むかすかな音が二、三歩と慎重に続いて、止まり、呼吸を潜めるような間があった。
……子どもというのは気付かれまいと企図する時ほど、かえって妙な音を立てるものだ。シグルスはページから目を離さず、気配だけを追う。背後で小さな影が立ち止まった。
「おにいさま」
その声で初めて気付いたというような緩慢な仕草で、シグルスはようやく顔を上げた。
そこには、ぬいぐるみを小脇に抱えたセラフィーナが立っていた。そろそろと上目遣いでこちらを見上げる。
「ご本をよんでほしいの」
短く訴えるような声だったが、恐らくこの子の中ではすでに結論が出ているのだろうとシグルスは思う。断られはしないだろう、という確信めいた真っ直ぐさが瞳から覗いていたからだ。
シグルスは少し思案するように、唇の端を僅かに動かして視線を本に戻した。
「……いいだろう」
それだけを言って本を閉じ、椅子から立ち上がる。セラはぬいぐるみ以外には何も持っていない。この書斎には子ども向けの本などは置いていなかった。つまり、子ども部屋まで取りに行く必要がある――そう思った矢先、袖口を小さな手が掴んだ。セラがふるふると首を横に振る。その様子はシグルスにとって、まるで小さな犬の抗議のように見えた。
「おにいさまがよんでるのがいいの」
「これか?」
シグルスは思わず片眉を上げる。手にしていた専門書を見下ろし、次に自分を見上げる少女の瞳を見返す。それから小さく息を吐き、苦笑を洩らした。
「これは、流石に君には難しすぎる。半分も理解できなければ退屈してしまうだろう?」
「いいの。同じのがいい」
幼い声には、譲らない強情さが滲んでいた。背伸びをしたがっているのが分かった。
「それがいいの」
大人の真似をしたい年頃なのだと、シグルスは察する。静かに息を吐き、少し考え込む。しかし、以前力強い瞳でシグルスを見つめ続けるセラフィーナの頑なな様子に折れて再び椅子に座り直した。
もう一度、本を開く。
セラは満足げに肘置きの横に立って寄り添い、彼の手元を覗き込んだ。読み聞かせをするなら座って聞かせた方がいいとは思ったが、シグルスはそのまま本文の読み上げを始めた。
きっとすぐに音を上げるだろうと思ったからだ。真剣に本を見ているが、セラフィーナくらいの歳の子どもは、難しい言葉の羅列にまだついていけないはずで、すぐに飽きて当然だった。
しかし、シグルスの予想に反して背伸びをしたがる子どもには意外と根性があった。
彼がいつ諦めるのだろうと心配になり始めて、次のページをゆっくりと捲ったあたりで、セラの顔がくしゃりと渋くなる。もしかすると、次のページには挿絵のひとつくらいあるかもしれないと期待していたのかもしれない。その反応に気付いて、シグルスはようやくかと安堵した。
「おにいさま、これ……ぜんぜん絵がない……」
「当たり前だ。これは学者向けの専門書だ。だから言ったろう、これは君には――」
しゅんと萎れかける顔を見て、シグルスは言葉を切った。
むしろ、この年頃の子どもにしてここまで耐えたことの方を褒めるべきかもしれない。そう考えて、閉じた本を机の脇に置く。
「……仕方ないな。少し待ちなさい」
シグルスは立ち上がって書棚の奥を探り、記憶を頼りに一冊の本を取り出した。軽く開いて、中身を改める。
各地で口伝されている寓話や伝承をまとめ直した民俗学の本だ。難しい部分もあるが、伝承に基づいた挿絵も添えられていて、解説を添えながらであればおそらく理解はできるだろう。背伸びをしたい年頃の子どもの矜恃を尊重するには、ちょうどいい。重厚な革張りの装丁を見せて、シグルスは確認する。
「これならどうだ? 絵本ではないが、退屈はしないはずだ」
「……うん! それがいい!」
お眼鏡にかなったらしい。満面の笑みに、シグルスの口元も思わず緩む。
本を手にカウチに座ると、すぐにふわりとした重みが腿に寄り掛かってきた。そのままセラが当然のように膝の上へよじ登ってくる。シグルスは当然、諌めようとした。
「……こら、セラフィーナ。そこは君の席ではないと思うが」
しかし、まるで聞いていない。落とすわけにもいかないので身動きが取れずにいると、そのまま腰を落ち着けてしまう。胸の下あたりにおさまった小さな頭が、シグルスを見上げて「えへへ」と笑うその顔は誇らしげだった。
「だってここがいちばん好きなんだもん」
「これでは本が読みにくいだろう。それに君もそろそろ八歳、いつまでも大人の膝に乗ってはいけない年齢だ。分かっているか?」
「じゃあ、もっと大きくなったらやめる! でもいまはまだ子どもだからいいでしょう?」
「……」
「おにいさまも、わたしにまだ子どもだっていうもの!」
「理屈は合っているようで、合っていないんだが……」
屁理屈というより、もはや詭弁の域である。だが、筋は通っているのだろう。……この子の中では。ため息交じりに小言を洩らしつつもシグルスはセラフィーナを乱暴に下ろすことはしなかった。セラが膝に座ろうとしてくるのは、何もこれが初めてのことではない。
そしてこの原因は、彼女だけにあるのではない。
セラは、日頃からよく寝て、よく食べ、よく笑い、何不自由なく健やかに育っているはずが、生まれつき発育が緩やかなのか、同年代の子どもに比べても小柄な方だった。幼く見えると言い換えても差し支えない。そのため、シグルス家の面々だけでなく、実の父母にもやや甘やかされて育てられており、大人に抱き上げられることも多かった。そして、彼女も当然のようにその扱いに慣れてしまっていたのである。
「まぁ、今は見逃してあげよう」
小さな身体を膝に抱えたまま本を開くと、セラは安堵したように小さく息を吐いた。ページを開けば、挿絵がぱっと目に映る。シグルスの声は低く穏やかに響き、柔らかい抑揚を付けながら朗読を始めた。
難しい単語にも彼の説明や解釈が添えられる丁寧な声に、セラはすぐに夢中になった。本の端を押さえ、じっとシグルスの横顔を見上げる。
言葉の意味がすべて分からなくたって、その声の響きと落ち着きがなによりも心地よかった。挿絵の含まれる場面になると、シグルスが指先で絵を示してくれるのが、嬉しくてたまらなかった。子どもだからという言葉を彼が許してくれる限り、自分はその時間をめいっぱい享受できるのだと彼女は知っていた。大好きな人がこうして自分のためだけに本を読んでくれる時間が、セラはなによりも好きだった。
けれど、次第に瞼が重くなってきて、セラは目元を片手で擦った。
「……おにいさま……」
シグルスの胸に寄り掛かった小さな頭がこてんと傾く。
小さな寝息にも似た呼吸を感じ取って、シグルスも読み上げを止めた。顔を覗き込むように視線を下げれば、さきほどまでは挿絵をなぞりながら「これが、妖精?」などと質問を投げかけていた唇が今はわずかに開いている。
「眠いのか?」
「ん……」
「なら、少し昼寝をした方がいいな。続きを読むのは、今度にしよう」
「……また、よんでくれる?」
「君が望むならね」
そう返して口元を緩めれば、セラは安心したように小さく「うん」と答えて、瞼を閉じる。それから、すぐに寝息を立て始めた。呼びかけても返事がないことを確め、シグルスはそっと本を閉じる。起こさぬように、腕の中の身体をそっと抱き上げた。
――軽い。
力の抜けた身体はあまりに小さく、軽かった。慎重にカウチへと横たえて、薄いブランケットを胸まで掛ける。眠ったまま、かすかに身動ぎをしたセラの柔らかい寝息が再び落ち着きを取り戻したのを確かめて、彼はやっと腰を上げた。
ランプの明かりを絞り、シグルスは一人掛けの椅子に戻る。
再び読みかけの本を開こうとしたその時――稲光が、窓辺を白く照らした。
反射的に窓の方を振り返る。外の雨脚は衰える気配を見せず、むしろ屋敷の窓を叩く音が強くなっているようだ。
低い雷鳴が、遅れて轟く。
シグルスは、カウチの方へと目を配らせた。かすかに聞こえる寝息は変わらず穏やかで、乱れがない。気を取り直して読書に戻ろうとしたところで――コン、と控えめなノックの音が響く。
また邪魔が入ったと、シグルスは息を吐き、読みかけの本に指を挟んで顔を上げる。
戸口に立っていたのは、父だった。
いつもよりわずかに重い足取りで書斎に足を踏み入れ、そのまま何かを探すように室内を見回した視線がカウチで止まる。そこに眠るセラの小さな寝息を確かめると、ほんの短く息を吐いてからシグルスを見た。
「……少しいいか」
普段よりも険しい表情で、どこか言葉を選んでいるような様子にシグルスは妙な胸騒ぎを覚えた。父は顎で扉の方を示す。外へ、という意図を察し、共に廊下に出た。扉を閉じると、父は短く息を整え、言う。
「……セラフィーナの両親が乗っていた船が、沈んだそうだ」
空気が一瞬、重く凍る。雨の音が、遠のいていくように感じた。
「……沈んだ?」
「ああ。天候の不順が原因らしい。まだ詳細は分からん」
「……。」
その知らせが現実のものだと理解するまで、数秒の時間を要した。口の中が渇いて張り付く。
「行方は」
「今のところ、不明だ。救助隊が捜索中とのことだが、状況は厳しいだろう」
父の視線は一点を見つめて動かない。それ以上の言葉はなかった。その沈黙が物語る意図を察し、シグルスは一度だけ目を伏せ、深く息を吸う。
「……あの子には?」
「まだ知らせるな。今は眠っているのだろう」
「はい」
「落ち着いてから、我々の方で話す。――ひとまずは、お前が傍にいてやりなさい。目を覚ました時も、今のまま、いつも通りに」
父の声はいつになく柔らかだった。シグルスは息を吸い、ゆっくりと頷きを返す。その肩を軽く叩いた父は「すぐ戻る」と言って踵を返した。父の背中が廊下の角を曲がるのを見送ってから、彼は再び扉を開け、書斎へと戻る。
部屋の様子は、先ほどと殆ど何も変わらない。
読みかけの本。
柔らかく壁を照らすランプの光。
カウチの上で静かに眠り続ける幼い子どもの姿。……ただ、嵐の音だけがよりいっそう激しさを増しているような気がした。なるべく足音を立てないように絨毯の上を歩き、シグルスはセラの側に歩み寄る。
身に降りかかった突然の不幸をまだ知らないその寝姿は、とても穏やかだった。ブランケットの中で小さな手が夢の中の誰かを探すように動く。眠る顔を見下ろすと、シグルスの胸の奥で何かがひどく締め付けられた。まだ何も知らない彼女は今、嵐の前の、静けさの中にいる。
シグルスがブランケットの裾を掛け直した時、外の稲光が部屋を照らした。
「……」
なおも荒れ続ける窓の向こうを睨むように窓際に立つと、シグルスは一思いにカーテンを引いた。また稲光が差し込んで、幼い子どもの眠りを妨げることのないように閉め切る。その際に机の上の本に目をやったが、もはや読む気にはなれなかった。椅子に腰を下ろし、指を組んで額に当てる。目を閉じ、静かに息を吐く。それから――。
どうか、この小さな寝息が、絶え間なく窓を叩く嵐の音に紛れて消えてしまわぬようにと祈った。
学業に専念して大学を卒業したのち、順当な流れで中立機関C3イギリス本部へ入社した。日々の研鑽を積みながら忙しなく働き、たまの休暇には生家に顔を出す。そんな生活を繰り返すうちに、シグルスは気付けば二十五歳になっていた。
シグルスがそうして忙しくも穏やかな日々を過ごしていたある日、父から一本の電話があった。
『あの子が六歳になったそうだ』
シグルスは思わず首を捻り「誰?」と聞き返した。受話器越しに、ややわざとらしいため息がこぼされる。
『お前の“許嫁”のお嬢さんだ。セラフィーナ嬢、忘れたのか?』
「……ああ、あの子か」
ほんの一瞬、頭が追いつかなかったがシグルスは曖昧に頷いた。
あの子。
つまり、六年前断る余地もなく強制的に結ばされた、十九歳差の婚約の当事者。セラフィーナと名付けられた、あの赤子のことだった。もうあれから六年も経ったのか、と思いながらシグルスは受話器を持ち直す。
その存在を完全に忘れたわけではなかったが、かといって思い出すことも滅多になかった。婚約していることも、その相手が自分より十九も年下の幼子であることも、当然、誰かに口外したことはない。話したところで常識を疑われるか、出来の悪い冗談と捉えて失笑されるに違いないだろう。あくまで、書類上の婚約者がいるというだけ。その程度の、現実味の薄い距離感を保ったまま、六年が過ぎていた。あの時はなんて理不尽だと憤慨したが、実生活に何か具体的な支障が生じたことはない。少なくとも、今のところは。
今思い出そうとしてみても、記憶の片隅に残っていたのはあのゆりかごの中で自分の指を力強く握った、小さな手の感触くらいだった。
あの時、父が言った「気にするな」という一言は、結果的に正しかったと言えるだろう。もちろん、皮肉だが。
「それで、彼女がどうした。誕生日の祝いか、カードでも贈ったほうがいいという話ですか?」
『生誕祝いなら毎年母さんが選んで贈っている』
「いつの間に……」
『話を戻そう。セラフィーナの両親は貿易関連の仕事をしていてな、夏の間は国外に出る。それで、セラフィーナを今年の夏から、数週間ほどうちで預かることにした。両家の話し合いで決まったことだ。形式的な婚約とはいえ、全く交流がないのも不自然だろう? 幼い頃に顔を合わせて、親交くらい持っておいた方がいい』
父は実に平然と、事務的な調子でそう告げた。
要するに、思春期真っ只中に「あなたには十九歳も年上の婚約者がいます」と唐突に知らされては、少女にとっての衝撃は計り知れない。だから幼いうちから少しずつ慣らしておこうという判断らしい。何の接点もない赤の他人がいきなり婚約者ですと出てくるよりは、知り合いの方がマシだろう、と。……まったく、人道的な配慮である。表向きは“親戚の子を預かる”という扱いにするということだった。
『だから、あの子が滞在している間だけでも暫く家に戻ってきなさい。お前がいないと意味がない』
「……そういう話は、もっと早くに言ってくれませんか? 今少し立て込んでいて、まとまった時間が取れるかどうか」
『努力しなさい。用件は以上だ。おやすみ』
途切れた通話を訝しげに睨んで、シグルスは長く息を吐いた。
父の配慮は、理屈としては理解できる。だが、その「慣らす」という行為を六歳の女児と二十五歳の成人男性の間とでどう成立させるつもりなのか、まるで想像がつかなかった。形式上は婚約者とはいえ、相手はまだ幼児だ。自分の妹よりもはるかに幼い。この婚約は解消前提のもので、そんな子どもを“将来の妻”などと意識するなど、まともな神経ではできるはずもない。
せいぜい妹のような存在、といったところだろうか……。
もっとも、四歳下の妹ですら『セラフィーナ』とは十五歳も年が離れている。まともに会話が成り立つかどうかも怪しい。遊び相手にもなれず、話題を合わせるにも苦労するだろう。それでも、なるべく優しく、穏やかに、怖がらせないように接するしかない――そう思ってはいたが、どうしても気は重かった。
セラフィーナがシグルス家で夏を過ごし始めた最初の年。その滞在期間中に、シグルスが生家に戻れたのは仕事の合間を縫っての数日が限度だった。それも、ほんの顔を見せに行く程度の時間――、
しかし、初めて顔を合わせた日の光景を、シグルスはよく覚えている。
シグルスの母が作ったトライフルを前に、小さなスプーンをぎゅっと握りしめたまま、こちらを見上げる幼女の姿。六歳の子どもとはこんなものだっただろうか、と思うほど小柄で、食卓の椅子にクッションで嵩上げをして座るその子は精巧な西洋人形のようにも見えた。
透き通るように澄んだ大きな瞳。さらさらと細い髪。あどけなさの残る丸い頬。そして、ためらいがちに唇を開いて「……おにいさま?」と、たどたどしい発音で呼びかける声。
おにいさま。
その呼び名が自分に向けられたものだと理解するのに、シグルスは少し時間を要した。当初は、その響きに少なからず居心地の悪さも覚えた。
どうやら、そう呼ぶように教えられていたらしい。その時は、両親がどのように説明したのかは知らなかった。だが、少なくとも『婚約』という言葉の意味を理解している様子はないな、と思った。当然だ。六歳の子どもに、そんな概念が分かるはずもない。セラフィーナにとって自分は、“遠い親戚のお兄さん”のような存在だった――いや、むしろそう思ってもらえた方がよかったのだが。
セラフィーナは驚くほど人懐っこい子だった。
書類を読んでいると、いつの間にか背後から小さな影が覗き込んで「おにいさま、それなあに?」と首を傾げる。実に素直で、屈託がなく、よく笑った。叱られればしゅんと肩を落とし、けれどすぐにけろりと機嫌を直す。褒められれば頬を染めて、嬉しそうに笑う。
そんな子どもらしい無垢な姿を見ているうちに、シグルスはいつしか胸の奥に、愛着のようなものが芽生えていくのを感じていた。それは、恋慕などとは断じて違う。もっと単純で、静かで、ひどく柔らかな類いのものだ。
セラが帰る日。シグルスが玄関まで見送りに出ると、小さな手がそっとその袖をつまんだ。セラから「またらいねん、きてもいい?」とやはり舌足らずな発音で無邪気にそう尋ねられたとき、シグルスはほんの少しだけ言葉に詰まった。ただ一言、「もちろん」とだけ答えたと思う。それでも、少女はぱっと花が咲くように笑い、喜んだ。
あの笑顔は、今でもありありと目に浮かぶ。
六年前、指を握りしめたあの小さな感触が、再び温度を持つようだった。
***
昼下がりの陽光が、庭の芝を穏やかに照らす夏の午後のこと。
シグルスは木陰に置かれた白い鉄製のガーデンチェアに腰を下ろし、肘掛けに片肘を預けながら本を読んでいた。膝の上で開いた本のページに落ちた木漏れ日の影が、風が吹くたびに形を変えて踊る。ページをめくる指がふと止まるたび、視線は本を超えて陽に照らされた芝の方へ向かった。
その先には、小さな白帽子が見える。帽子の下では金色を帯びた細い髪が風に揺れ、地面に膝をついた少女が一心にシロツメクサを選り分けていた。ついこの前、七歳の誕生日を迎えたばかりの少女、セラフィーナの姿がそこにはある。
時折その姿を目に留めて、シグルスはまた小さく息を吐いて本へと視線を戻した。正直、内容はあまり頭に入ってきていない。ここに座っている以外に何もすることがないので気晴らしに本を開いているだけの状態だった。
「おにいさま!」
そこに高く弾んだ声がかけられて、シグルスはまた本から顔を上げた。
芝生を駆けてくるセラの両手が小さな宝物を包み込むように胸の前で握られている。
「みて! よつば!」
「ほう、見つけたのか」
シグルスは本に栞を挟んでテーブルに置くと、肘掛けに手を掛けて少し身を乗り出した。セラが満面の笑みで差し出したクローバーを受け取り、指先でそっと葉を広げる。少し形がいびつだった。葉の中心を押さえて、簡単に目を走らせるとシグルスは息を吐くように笑みを浮かべて、セラを見た。
「……残念だが、これは三つ葉だ」
「えっ?」
ぱちりと瞬きをしたセラが、信じられないといった顔でシグルスの手を覗き込む。小さな指先がシグルスの手に乗ったクローバーの葉を、一つずつ押さえて数え上げた。
「だって、ほら――いち、に、さん、よん!」
「同じ葉を二回数えてる」
「……え?」
「ここをよく見てごらん。この葉は一枚が分かれて見えるだけだ」
「…………もういっかい、かぞえていい?」
「ああ、好きなだけどうぞ」
「ん、いち、に……さん? あれ?」
最初は自信満々に言い切っていた元気な表情だったのが、もういっかいの時には困惑を表している。何度かクローバーとシグルスの顔を見比べて、首を傾げるセラの仕草に、シグルスの喉の奥で堪えきれずに笑いが洩れた。
「惜しかったな」
「うん、よつばじゃなかった……」
「三つ葉だとしても、君が見つけた幸運の葉には違いない」
シグルスは片手でセラの小さな手のひらを掬い上げて、そこに三つ葉を返す。見るからに残念そうな表情が気の毒で、シグルスは労いを込めてそう言い添えた。するとしょんぼりと肩を落としていたセラの表情が、ぱっと明るく変わる。
「ほんとう? じゃあこれ、おにいさまにあげる!」
「……僕に?」
「うん! しあわせのはっぱだから」
シグルスは再び手のひらに戻ってきた小さな三つ葉を眺めて「……ありがとう」と返した。
こんな贈り物を貰うのは初めてだ。ただの野草だが、それでも悪い気はしなかった。目の前の子どもが熱心にシロツメクサを選り分けていた理由に気付いたからだ。その思いやりを無下に扱いたくなかった。押し花にでもしておくか、とそんな考えが自然と浮かぶ。
満足そうに笑うセラフィーナが椅子の肘掛けに手を添えて、上目遣いに尋ねる。
「おにいさまはなにをしているの? きょうもおしごと?」
「まあ、仕事のようなものとも言えるかな。君の見張りがあるから」
「みはり?」
「そう。君が一人でに庭を転がって、どこかへ行ってしまわないようにね」
セラはきょとんと首を傾げた後、口元をおさえて笑い声を上げた。
「じゃあ、みはってくれてありがとう?」
「どういたしまして」
子どもというのはどうしてこうもまっすぐなのだろう、と思いながらシグルスはセラを見下ろした。
かつて揺り籠にすっぽりと収まっていた赤子が、いまや自分の足で歩き、拙いながらも言葉を覚えて話し、こうして笑っている。時間の流れというものの早さを、これほど強く感じたことは未だかつてなかった。
ふと、その頬に付いた土汚れが目に留まる。シグルスが「セラ」と呼びかけようとした時、不意にその背後から声がかかった。
「――本当に懐かれているわね、フレデリック」
振り向くと、レモネードが入ったピッチャーを銀のトレイに載せ、妹がこちらへ歩いてくるところだった。
シグルスが座る隣に置かれたテーブルへとトレイを下ろすと、からん、と浮いた氷がレモネードの液面を滑って壁面にぶつかる音が鳴った。彼女が冷やかすような視線をシグルスに向けて微笑む。
「あなた、すっかりいいお兄様よ」
「……からかわないでくれ」
「でも、嬉しいでしょう? この子、私より『お兄様』って呼ぶんだから」
妹は屈み、「セラ」と気軽に声をかけると、その頬に付いていた土汚れを指先で拭った。
「ついてるわ。手も汚れてるからこれで拭きましょう」
「ありがとう、おねえさま!」
お兄様と呼ばれることに最初は戸惑っていたくせに、今はそう慕われるのが嬉しいんだろうと揶揄ってきた妹を脇目に、シグルスは本の表紙の上にセラから貰った三つ葉を置いた。そんな彼女の方こそ「子どもの相手なんて疲れるでしょうね」と言っていたくせに、いつの間にか率先して世話を焼いている始末だ。内心姉扱いを喜んでいるのは、どちらの方だか……。シグルスは肩を竦めながら、口元に小さな笑みを浮かべた。
「僕はお前にとってはいい兄ではなかったという意味か?」
「あら、まさか!」
軽口を返すと、妹は笑って否定しながらグラスの準備を始める。セラはやり取りの意味を理解できなかったのか、きょとんと顔を上げた。そして、もう一度「おにいさま!」と嬉しそうに呼ぶ。その反応に妹がまたくすくすと笑い声をあげて、レモネードの中でからりと崩れた氷の音と重なった。
夏の陽光に照らされる、絵葉書のように美しい穏やかな午後の日だった。
***
シグルス家がセラフィーナを夏の時期に迎えるようになって、早くも三度目の夏が来た。もはや恒例行事になりかけている。シグルスは昨年から彼女の滞在に合わせて予定を調整し、生家で過ごすようにしていた。
セラは年々少しずつ背が伸び、髪も長くなった。子どもの成長の速さを感じる一方で、三年経っても変わらないものはある。彼女は毎年来るたび、シグルスを見るなり「おにいさま!」と声を弾ませて駆け寄り、子犬のように無邪気にじゃれついた。
子どもの記憶は長く続かないという世間の一般論に反して、セラはシグルス家の面々のことをよく覚えていた。
比較的涼しく過ごしやすい夏の時期といえど、雨の日もある。
元々、イングランドの天気は変わりやすい。
その日は朝からしとしとと細かな雨が降っていたが、午後に入る頃には稲光を伴う雷雨へと変わりつつあった。空は低く暗く、雲は鉛のように重く垂れ込めている。時折、稲妻の閃光が走り、続く雷鳴が窓を震わせていた。
窓辺の椅子に腰掛けたシグルスは、そんな嵐の気配を背に受けながら分厚い専門書を片手に静かにページを繰る。難解な数式と理論が行間を埋めているが、活字を追う彼の目には微塵の揺らぎもない。書斎の空気はしんと張り詰め、紙を捲る音すら際立って聞こえるほど静かだった。
そんな静寂の中に、小さな足音が忍び寄る。絨毯を踏むかすかな音が二、三歩と慎重に続いて、止まり、呼吸を潜めるような間があった。
……子どもというのは気付かれまいと企図する時ほど、かえって妙な音を立てるものだ。シグルスはページから目を離さず、気配だけを追う。背後で小さな影が立ち止まった。
「おにいさま」
その声で初めて気付いたというような緩慢な仕草で、シグルスはようやく顔を上げた。
そこには、ぬいぐるみを小脇に抱えたセラフィーナが立っていた。そろそろと上目遣いでこちらを見上げる。
「ご本をよんでほしいの」
短く訴えるような声だったが、恐らくこの子の中ではすでに結論が出ているのだろうとシグルスは思う。断られはしないだろう、という確信めいた真っ直ぐさが瞳から覗いていたからだ。
シグルスは少し思案するように、唇の端を僅かに動かして視線を本に戻した。
「……いいだろう」
それだけを言って本を閉じ、椅子から立ち上がる。セラはぬいぐるみ以外には何も持っていない。この書斎には子ども向けの本などは置いていなかった。つまり、子ども部屋まで取りに行く必要がある――そう思った矢先、袖口を小さな手が掴んだ。セラがふるふると首を横に振る。その様子はシグルスにとって、まるで小さな犬の抗議のように見えた。
「おにいさまがよんでるのがいいの」
「これか?」
シグルスは思わず片眉を上げる。手にしていた専門書を見下ろし、次に自分を見上げる少女の瞳を見返す。それから小さく息を吐き、苦笑を洩らした。
「これは、流石に君には難しすぎる。半分も理解できなければ退屈してしまうだろう?」
「いいの。同じのがいい」
幼い声には、譲らない強情さが滲んでいた。背伸びをしたがっているのが分かった。
「それがいいの」
大人の真似をしたい年頃なのだと、シグルスは察する。静かに息を吐き、少し考え込む。しかし、以前力強い瞳でシグルスを見つめ続けるセラフィーナの頑なな様子に折れて再び椅子に座り直した。
もう一度、本を開く。
セラは満足げに肘置きの横に立って寄り添い、彼の手元を覗き込んだ。読み聞かせをするなら座って聞かせた方がいいとは思ったが、シグルスはそのまま本文の読み上げを始めた。
きっとすぐに音を上げるだろうと思ったからだ。真剣に本を見ているが、セラフィーナくらいの歳の子どもは、難しい言葉の羅列にまだついていけないはずで、すぐに飽きて当然だった。
しかし、シグルスの予想に反して背伸びをしたがる子どもには意外と根性があった。
彼がいつ諦めるのだろうと心配になり始めて、次のページをゆっくりと捲ったあたりで、セラの顔がくしゃりと渋くなる。もしかすると、次のページには挿絵のひとつくらいあるかもしれないと期待していたのかもしれない。その反応に気付いて、シグルスはようやくかと安堵した。
「おにいさま、これ……ぜんぜん絵がない……」
「当たり前だ。これは学者向けの専門書だ。だから言ったろう、これは君には――」
しゅんと萎れかける顔を見て、シグルスは言葉を切った。
むしろ、この年頃の子どもにしてここまで耐えたことの方を褒めるべきかもしれない。そう考えて、閉じた本を机の脇に置く。
「……仕方ないな。少し待ちなさい」
シグルスは立ち上がって書棚の奥を探り、記憶を頼りに一冊の本を取り出した。軽く開いて、中身を改める。
各地で口伝されている寓話や伝承をまとめ直した民俗学の本だ。難しい部分もあるが、伝承に基づいた挿絵も添えられていて、解説を添えながらであればおそらく理解はできるだろう。背伸びをしたい年頃の子どもの矜恃を尊重するには、ちょうどいい。重厚な革張りの装丁を見せて、シグルスは確認する。
「これならどうだ? 絵本ではないが、退屈はしないはずだ」
「……うん! それがいい!」
お眼鏡にかなったらしい。満面の笑みに、シグルスの口元も思わず緩む。
本を手にカウチに座ると、すぐにふわりとした重みが腿に寄り掛かってきた。そのままセラが当然のように膝の上へよじ登ってくる。シグルスは当然、諌めようとした。
「……こら、セラフィーナ。そこは君の席ではないと思うが」
しかし、まるで聞いていない。落とすわけにもいかないので身動きが取れずにいると、そのまま腰を落ち着けてしまう。胸の下あたりにおさまった小さな頭が、シグルスを見上げて「えへへ」と笑うその顔は誇らしげだった。
「だってここがいちばん好きなんだもん」
「これでは本が読みにくいだろう。それに君もそろそろ八歳、いつまでも大人の膝に乗ってはいけない年齢だ。分かっているか?」
「じゃあ、もっと大きくなったらやめる! でもいまはまだ子どもだからいいでしょう?」
「……」
「おにいさまも、わたしにまだ子どもだっていうもの!」
「理屈は合っているようで、合っていないんだが……」
屁理屈というより、もはや詭弁の域である。だが、筋は通っているのだろう。……この子の中では。ため息交じりに小言を洩らしつつもシグルスはセラフィーナを乱暴に下ろすことはしなかった。セラが膝に座ろうとしてくるのは、何もこれが初めてのことではない。
そしてこの原因は、彼女だけにあるのではない。
セラは、日頃からよく寝て、よく食べ、よく笑い、何不自由なく健やかに育っているはずが、生まれつき発育が緩やかなのか、同年代の子どもに比べても小柄な方だった。幼く見えると言い換えても差し支えない。そのため、シグルス家の面々だけでなく、実の父母にもやや甘やかされて育てられており、大人に抱き上げられることも多かった。そして、彼女も当然のようにその扱いに慣れてしまっていたのである。
「まぁ、今は見逃してあげよう」
小さな身体を膝に抱えたまま本を開くと、セラは安堵したように小さく息を吐いた。ページを開けば、挿絵がぱっと目に映る。シグルスの声は低く穏やかに響き、柔らかい抑揚を付けながら朗読を始めた。
難しい単語にも彼の説明や解釈が添えられる丁寧な声に、セラはすぐに夢中になった。本の端を押さえ、じっとシグルスの横顔を見上げる。
言葉の意味がすべて分からなくたって、その声の響きと落ち着きがなによりも心地よかった。挿絵の含まれる場面になると、シグルスが指先で絵を示してくれるのが、嬉しくてたまらなかった。子どもだからという言葉を彼が許してくれる限り、自分はその時間をめいっぱい享受できるのだと彼女は知っていた。大好きな人がこうして自分のためだけに本を読んでくれる時間が、セラはなによりも好きだった。
けれど、次第に瞼が重くなってきて、セラは目元を片手で擦った。
「……おにいさま……」
シグルスの胸に寄り掛かった小さな頭がこてんと傾く。
小さな寝息にも似た呼吸を感じ取って、シグルスも読み上げを止めた。顔を覗き込むように視線を下げれば、さきほどまでは挿絵をなぞりながら「これが、妖精?」などと質問を投げかけていた唇が今はわずかに開いている。
「眠いのか?」
「ん……」
「なら、少し昼寝をした方がいいな。続きを読むのは、今度にしよう」
「……また、よんでくれる?」
「君が望むならね」
そう返して口元を緩めれば、セラは安心したように小さく「うん」と答えて、瞼を閉じる。それから、すぐに寝息を立て始めた。呼びかけても返事がないことを確め、シグルスはそっと本を閉じる。起こさぬように、腕の中の身体をそっと抱き上げた。
――軽い。
力の抜けた身体はあまりに小さく、軽かった。慎重にカウチへと横たえて、薄いブランケットを胸まで掛ける。眠ったまま、かすかに身動ぎをしたセラの柔らかい寝息が再び落ち着きを取り戻したのを確かめて、彼はやっと腰を上げた。
ランプの明かりを絞り、シグルスは一人掛けの椅子に戻る。
再び読みかけの本を開こうとしたその時――稲光が、窓辺を白く照らした。
反射的に窓の方を振り返る。外の雨脚は衰える気配を見せず、むしろ屋敷の窓を叩く音が強くなっているようだ。
低い雷鳴が、遅れて轟く。
シグルスは、カウチの方へと目を配らせた。かすかに聞こえる寝息は変わらず穏やかで、乱れがない。気を取り直して読書に戻ろうとしたところで――コン、と控えめなノックの音が響く。
また邪魔が入ったと、シグルスは息を吐き、読みかけの本に指を挟んで顔を上げる。
戸口に立っていたのは、父だった。
いつもよりわずかに重い足取りで書斎に足を踏み入れ、そのまま何かを探すように室内を見回した視線がカウチで止まる。そこに眠るセラの小さな寝息を確かめると、ほんの短く息を吐いてからシグルスを見た。
「……少しいいか」
普段よりも険しい表情で、どこか言葉を選んでいるような様子にシグルスは妙な胸騒ぎを覚えた。父は顎で扉の方を示す。外へ、という意図を察し、共に廊下に出た。扉を閉じると、父は短く息を整え、言う。
「……セラフィーナの両親が乗っていた船が、沈んだそうだ」
空気が一瞬、重く凍る。雨の音が、遠のいていくように感じた。
「……沈んだ?」
「ああ。天候の不順が原因らしい。まだ詳細は分からん」
「……。」
その知らせが現実のものだと理解するまで、数秒の時間を要した。口の中が渇いて張り付く。
「行方は」
「今のところ、不明だ。救助隊が捜索中とのことだが、状況は厳しいだろう」
父の視線は一点を見つめて動かない。それ以上の言葉はなかった。その沈黙が物語る意図を察し、シグルスは一度だけ目を伏せ、深く息を吸う。
「……あの子には?」
「まだ知らせるな。今は眠っているのだろう」
「はい」
「落ち着いてから、我々の方で話す。――ひとまずは、お前が傍にいてやりなさい。目を覚ました時も、今のまま、いつも通りに」
父の声はいつになく柔らかだった。シグルスは息を吸い、ゆっくりと頷きを返す。その肩を軽く叩いた父は「すぐ戻る」と言って踵を返した。父の背中が廊下の角を曲がるのを見送ってから、彼は再び扉を開け、書斎へと戻る。
部屋の様子は、先ほどと殆ど何も変わらない。
読みかけの本。
柔らかく壁を照らすランプの光。
カウチの上で静かに眠り続ける幼い子どもの姿。……ただ、嵐の音だけがよりいっそう激しさを増しているような気がした。なるべく足音を立てないように絨毯の上を歩き、シグルスはセラの側に歩み寄る。
身に降りかかった突然の不幸をまだ知らないその寝姿は、とても穏やかだった。ブランケットの中で小さな手が夢の中の誰かを探すように動く。眠る顔を見下ろすと、シグルスの胸の奥で何かがひどく締め付けられた。まだ何も知らない彼女は今、嵐の前の、静けさの中にいる。
シグルスがブランケットの裾を掛け直した時、外の稲光が部屋を照らした。
「……」
なおも荒れ続ける窓の向こうを睨むように窓際に立つと、シグルスは一思いにカーテンを引いた。また稲光が差し込んで、幼い子どもの眠りを妨げることのないように閉め切る。その際に机の上の本に目をやったが、もはや読む気にはなれなかった。椅子に腰を下ろし、指を組んで額に当てる。目を閉じ、静かに息を吐く。それから――。
どうか、この小さな寝息が、絶え間なく窓を叩く嵐の音に紛れて消えてしまわぬようにと祈った。