名前を呼んで抱きしめて
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伊檻と別れたあと、セラフィーナは迎えの車に乗って家へ戻った。玄関でコートを脱ぎ、百貨店で買ってきたチョコレートの箱を手にしたまま、廊下を歩く。シグルスはまだ仕事から帰っていないと聞いていた。だから、せめて彼の目につくところへ置いておきたいと思って、向かった先は書斎だった。かつてはシグルスの父が使い、今では当主となった彼が半ば私室のように使っている部屋だ。
扉の前で足を止め、軽くノックをする。返事がないことを確かめてからそっと中を覗く。
当然、そこにシグルスの姿はない。わかっていたはずなのに、セラフィーナは息を吐いた。彼が見当たらなかったことに、ほっとしたのと同時に寂しくなる。
——でも、まだ今は。顔を合わせる自信がない。
中へ入り、いつもシグルスが座っている席からまっすぐに目に留まる机の上へとチョコレートの箱を置く。丁寧にリボンをかけられた小さな箱が妙に可愛らしく見えた。
これでいい。あとは部屋に戻ろう。そう思って振り返ったところで、ふとセラの足が止まる。
重厚な本棚に整然と並ぶ背表紙。机の上のペン立てと窓辺のランプ、その傍らに置かれたカウチ。部屋の主人が代替わりしても、この部屋の景色は昔からほとんど変わらない。子どもの頃、よくここでシグルスに本を読んでもらったことを思い出した。自分でおねがいしたのに朗読の途中で眠ってしまうことも珍しくなく、目を覚ませば、いつも決まってブランケットが掛けられていたことも。
「……」
セラはしばらくそのカウチを見つめてから、ゆっくりと歩み寄り、腰を下ろした。そのまま背を丸め、膝を両腕で抱える。その膝頭に顎を預けると、小さな身体はますます小さくなった。
静かな部屋の中で、静かに蘇るのは、伊檻の言葉だった。
——思い合うことと、その人の傍で生きることは、案外、別物なんですよ。
彼の話を聞いた時、セラはそれを不誠実だとは思わなかった。むしろ逆だ。伊檻は、自分のことをよく分かっているのだと思う。だから、守れない約束で相手を繋ぎ止めることができなかったし、自分のために耐え続けて欲しいとも言えなかった。
愛しているからこそ、相手の幸せを願い、自分から離れることさえ受け入れる覚悟を持つこと。
それはきっと、とても大人で、誠実なことなのだろう。
「……どうして」
それなのに、セラにはどうしてもわからないことがあった。
どうして大人は、そんなにも一緒にいられない理由を見つけるのが上手なのだろう。どうして。好きなのに、大切なのに。その人と一緒にいられる方法よりも先に、離れる理由を考えてしまうのだろう。答えの出ない問いを抱えたまま、セラは長く膝を抱えていた。
ふと気付けば、窓の外はいつの間にか暗く沈んでいる。書斎に入った時にはまだ窓の向こうに残っていた夕暮れの色も、いつしかすっかり失われ、今は夜へと移ろっている。カウチの縁へ身体を寄せ、指先で探るように窓辺のランプへ手を伸ばした。小さなスイッチの音。柔らかな明かりが灯り、光が室内を淡く照らし出す。眩しそうに少し目を細め、それから再び膝を抱え直した。
「ちゃんと帰ってきてほしい……」
伊檻の妻が願った気持ちは、痛いほど理解できる。誰だってそうだろう、大切な人が傷つく姿を見るのはとてもつらい。無事でいるかどうかもわからない時間を待ち続けるのは、もっと怖い。
玄関の扉が開いて、聞き慣れた足音がして。大切な人がいつもの顔で「ただいま」と帰ってくる。それを迎えて、抱きしめてもらって、この頬にキスを落としてもらう。そんな当たり前の明日が、ちゃんと明日も来るようにと願い、祈る気持ちを。
セラフィーナは、よく知っていた。
八歳の夏。
普段は、もう思い返すことも少なくなった。
それでも、あの日を。両親を失ったあの日のことを、忘れてしまったわけではない。
*
窓に厚いカーテンが引かれ、夏の陽射しを遮ったひんやりとした部屋。
その中央に並べられた二つの箱を、セラはじっと見つめていた。それが死んだ人の身体を納める『棺』と呼ばれるものなのだと知ったのは、もう少し後になってからのことだった。大人の足の影に隠れるようにして近づき、そっと箱の中を覗き込む。
父と母が、そこに横たわっていた。まるで、眠っているだけのような、穏やかな顔をして。
その顔を見た瞬間、セラはつい先週、電話越しに聞いた声を思い出した。
——もう少しで帰るから、いい子にして待っていてね。
——たくさんお土産があるんだよ。
そう言って笑っていた。それが二人揃って、ようやく帰ってきたのだ。
でも、ねているみたい。
きっと、とても疲れているのだと思った。お仕事が大変だったから、ぐっすり眠っているだけなのだと。
「……おかえりなさい、って言うの?」
起こしてもいいのだろうか——、と。隣の大人を見上げて尋ねても、返事はなかった。その沈黙が、子どもながらになんだか変だと感じた。部屋はひどく静かだし、お祝いの席でもないのに花の匂いがする。
でもセラは、話したいことがいっぱいあったから、早く帰ってきた二人とお話がしたかった。今年はいつもより少し滞在が長引いたこともあって、おじさまの家で過ごす夏の思い出がたくさんできた。早く父の膝の上に乗って隣に座る母を見上げながら、読んでもらった本のことや、庭で見かけたきれいなお花のことや、おにいさまのことや……たくさん、たくさん話したいことがある。
セラは踏み台の上で背伸びをして、棺の縁に手をかけた。
「おかあさん、おかえりなさい。あのね、わたしね、いい子でまってたよ。おにいさまにご本をよんでもらって、べんきょうもして、おねえさまとあそんでもらって、おじさまやおばさまとも——?」
伸ばした指先が、母の頬へ触れる。それは冬の朝のように、冷たかった。びくりとして、手を引っ込める。けれど、何かの気のせいかもしれないと思って、もう一度確かめるように触れてみた。
やっぱり、冷たい。
いつものように「どうしたの?」と笑ってくれない。名前を呼んで、頭を撫でてもくれない。
「……おかあさん?」
声をかけても、動かない。
隣の父も、眠っているようにしか見えないのに、服を引っ張ってみても反応がなかった。こちらを手招いて、「怖い夢でも見たのかい」と言ってくれない。名前を呼んで、抱き上げてもくれない。
「ねえ、起きて……おはようを言ってくれないの……?」
頭の奥がからっぽになってしまったような感覚を、今でもはっきりと覚えている。
八歳のセラフィーナは、『それ』が何なのかをまだ正しく知らなかった。けれど。もう「おはよう」も、「ただいま」も言えなくなることなのだということだけは、わかってしまった。
もう、抱きしめてもらえない。
髪を撫でてもらえない。
名前を、呼んでもらえない。
怖くなった。それが本当に、どうしようもなく、怖かった。
突然、世界でひとりぼっちになってしまった気がした。
そのとき、肩にそっと手が置かれた。セラは、振り返る。そこに、シグルスがいた。しゃがみ込み、目線を合わせた彼の瞳が、ひどく澄んで見えたことを覚えている。シグルスは何も言わなかった。彼は何も言わずに、ただ、
「セラ」
——そう、名前を呼んでくれた。
その瞬間、堰を切ったように涙が溢れた。
なぜ泣いているのかさえ自分でもわからないまま、セラは両腕を伸ばして彼の首へしがみついた。息を詰まらせるたび、背中をゆっくりと撫でてくれる手のひらが、あたたかかった。
世界が崩れ落ちた日に、それでも自分へ差し出されていた手。もう何もないと思った時にさえ、まだここに残っていた温もり——だからなのだろうか。あの手を、どうしても離したくないと思うのは。
これは、そんなにも幼稚な願いなのだろうか。子どもじみた、ただのわがままなのだろうか。
セラには、まだ分からなかった。ただ、一つ。もう二度と帰ってこない人たちを知っているからこそ、まだここにいる大切な人の手を、自分から諦めてしまうことだけは——どうしても、嫌だった。
カウチに横たわったまま、セラフィーナは天井を見つめた。
自分がシグルスとの婚約を、こんなにも簡単に手放せない理由のひとつは、きっとそこにある。
——中身の伴わない昔の約束に、いつまでも人生を縛られる必要はない。
婚約の解消を提示された瞬間。頭の中に浮かんだのは、とても単純な光景だった。
この婚約がなくなれば、シグルスは自由になる。自由になって、遠からず、自分ではない誰かと結婚する。それは妄想というより、決まっている未来のように思えた。彼ほどの人が、いつまでも独りでいるはずがないだろう。それくらいのことは、少し世間知らずなセラフィーナにだってわかる。
だから。
嫌だ、と思った。
彼の隣が、自分の帰る場所ではなくなってしまう。それが、どうしようもなく嫌だった。
これは独占欲で、子どものわがまま。……きっと、そうなのだ。
そもそもセラフィーナは『結婚』という形を、ずっと肯定的なものとして見てきた。幼い頃の記憶に残る両親の姿や、シグルスの父母、そして白いドレスを纏い、祝福の中で家を出た彼の妹——互いを尊重し、同じ食卓を囲み、同じ屋根の下で生きるふたり。
あれが幸福のかたちだと、疑うことなく育ってきた。
ヴェールに包まれたまま、自らの意志で、愛する人とともに人生を生きる誓いを立てる花嫁の姿に憧れた。誓いを立てて、指輪を互いの薬指にぴたりと収め、顔を見合わせ照れくさそうな微笑みを交わす。あの場所に立ちたいと思った。あの結婚式のように、素敵なお嫁さんになる日を夢見てきた。祝福を受けるその隣に、他の誰でもなく、彼に居て欲しい。
セラフィーナが誓いたい相手は、シグルスだけなのだから。
婚約解消など、できるはずがなかった。それは単に形式が白紙に戻るというだけの話ではない。自分がシグルスに選ばれる可能性そのものが、消えてしまうということだ。
伊檻の話を聞いた今なら、結婚という形が絶対ではないことも分かっている。結婚していても、愛していても、別れる人たちはいる。どんなに大切でも、手放す選択をする大人はいるのだと知ってしまった。
けれど。
少なくとも、セラフィーナにとって結婚は終着点ではない。
だって、シグルスは分かっていない。
——長く一緒にいたからだ。僕が兄のように。
好きだと伝えた時、真っ先に返ってきたのはあの言葉だった。最初から「婚約者」として見られたことすら、一度もない。シグルスにとって、セラフィーナはずっと妹のような存在。守るべき子どものままなのだから——。
「……わかってましたけど……」
小さく呟く。わかっていた。わかっていたけれど、だからといって、簡単に諦められるほど軽い気持ちではないのだ。
いつの間にか、瞼が重くなってきていた。カウチに身体を丸めたまま、ランプの柔らかな明かりを薄目で眺めていると、意識がうとうとと沈んでいく。
そのとき、書斎の扉が開く音がした。
「——セラフィーナ?」
思わず、胸が跳ねる。目は開けない。はっと息を呑みながら、そのまま呼吸を整える。寝たふりだ。書斎に忍び込んでいたことが知られたのは仕方がないとしても、今はまだ言葉を交わす準備ができていない。
足音が近づく。気配が、すぐ傍にある気がする。瞼の裏に透けていたランプの明かりが、わずかに暗く遮られた。
「寝てるのか」
低い声が、静かに降ってくる。セラフィーナが目を開けるべきかを迷っている間に、ブランケットがそっと身体に掛けられた。明かりも、少し落とされたらしい。
ため息にも似た小さな息を吐いて、「……本当に、困った子だ」と呟く声が聞こえた。呆れを含みながらも、それを上回る情が滲んだ声。その声色に、胸の奥がきゅっと締めつけられる。泣きそうになった。
——やっぱり。
——やっぱり、この人が好きだ。
瞼の裏で、少しずつ決意が形になっていく。
それでも、たとえ、いつか別れが来るのだとしても。今、わたしはこの人のそばで生きたい。
わたしにとってこの人が帰る場所であるように。この人にとっても、わたしが帰る場所になりたい。
今ここで婚約を手放してしまうわけにはいかない。このまま諦めてしまえば、シグルスの中で自分はきっと、いつまでも守るべき子どものままだ。もう少し大人になれば、年齢を重ねさえすれば、それだけで見方を変えてくれるかもしれないと、どこかで思っていた。けれど、きっとそんなに簡単なことではないのだ。
どれだけ早く大人になろうと背伸びをしても、この人の前ではどうしても先に安心が来てしまうように。きっと、シグルスも同じなのだ。守ってもらうことに慣れすぎて、守ることに慣れすぎて。成人したからといって、昨日まで庇護していた女の子を今日から突然ひとりの女性として見ることなど、できない。
……だからこそ、まずは約束通り、この人のお嫁さんになりたい。
お嫁さんになって、今までとは違う場所から、もう一度この人に自分を見てもらいたい。今すぐ好きになってもらえなくてもいい。最初からひとりの女性として愛してもらえなくても、これから好きになってもらえればいい。妻として、隣に立って。それから、改めて振り向かせてみせる。
そのくらいの覚悟なら、もうできている。
彼に好きになってもらえるように、いくらでも努力する。いつまでも妹のような子どもではなく、ひとりの女性として見てもらえるように、何度でも。
その可能性を手にするためなら。
——子どもだからこそ許される特権というものも、あると思いますよ。
伊檻の言葉が、また頭をよぎる。
……言われなくても、本当はずっと知っていた。この人が、自分に甘いことを。
——真正面から気持ちをぶつけられると大人は案外、弱いものなんです。
わたしが泣けば困ることも。真正面から「好き」と言えば、ほんの少し視線が揺らぐことも。
——それでシグルスさんが困るなら、困らせればいいんですよ。
嫌われたくなかった。困らせたくなかった。聞き分けのよい子でいた方が、この人のそばにいられるような気がしていた。だから、今までは、それをしたくなかった。
でも、もう逃げない。
諦めない。
この人を諦めるくらいなら。この人の前でだけ、少しくらいずるい子になったって構わない。シグルスを困らせないことよりも、自分の気持ちをちゃんと聞いてもらうことを選ぶ。聞き分けのいい子でいることよりも、この人の隣へ行くための道を選ぶ。
シグルスが掛けてくれたブランケットの温もりに包まれながら、セラフィーナはその決意を胸の奥に大切に抱え込む。そのまま、今度こそ穏やかに、ゆっくりと眠りへ落ちていった。
扉の前で足を止め、軽くノックをする。返事がないことを確かめてからそっと中を覗く。
当然、そこにシグルスの姿はない。わかっていたはずなのに、セラフィーナは息を吐いた。彼が見当たらなかったことに、ほっとしたのと同時に寂しくなる。
——でも、まだ今は。顔を合わせる自信がない。
中へ入り、いつもシグルスが座っている席からまっすぐに目に留まる机の上へとチョコレートの箱を置く。丁寧にリボンをかけられた小さな箱が妙に可愛らしく見えた。
これでいい。あとは部屋に戻ろう。そう思って振り返ったところで、ふとセラの足が止まる。
重厚な本棚に整然と並ぶ背表紙。机の上のペン立てと窓辺のランプ、その傍らに置かれたカウチ。部屋の主人が代替わりしても、この部屋の景色は昔からほとんど変わらない。子どもの頃、よくここでシグルスに本を読んでもらったことを思い出した。自分でおねがいしたのに朗読の途中で眠ってしまうことも珍しくなく、目を覚ませば、いつも決まってブランケットが掛けられていたことも。
「……」
セラはしばらくそのカウチを見つめてから、ゆっくりと歩み寄り、腰を下ろした。そのまま背を丸め、膝を両腕で抱える。その膝頭に顎を預けると、小さな身体はますます小さくなった。
静かな部屋の中で、静かに蘇るのは、伊檻の言葉だった。
——思い合うことと、その人の傍で生きることは、案外、別物なんですよ。
彼の話を聞いた時、セラはそれを不誠実だとは思わなかった。むしろ逆だ。伊檻は、自分のことをよく分かっているのだと思う。だから、守れない約束で相手を繋ぎ止めることができなかったし、自分のために耐え続けて欲しいとも言えなかった。
愛しているからこそ、相手の幸せを願い、自分から離れることさえ受け入れる覚悟を持つこと。
それはきっと、とても大人で、誠実なことなのだろう。
「……どうして」
それなのに、セラにはどうしてもわからないことがあった。
どうして大人は、そんなにも一緒にいられない理由を見つけるのが上手なのだろう。どうして。好きなのに、大切なのに。その人と一緒にいられる方法よりも先に、離れる理由を考えてしまうのだろう。答えの出ない問いを抱えたまま、セラは長く膝を抱えていた。
ふと気付けば、窓の外はいつの間にか暗く沈んでいる。書斎に入った時にはまだ窓の向こうに残っていた夕暮れの色も、いつしかすっかり失われ、今は夜へと移ろっている。カウチの縁へ身体を寄せ、指先で探るように窓辺のランプへ手を伸ばした。小さなスイッチの音。柔らかな明かりが灯り、光が室内を淡く照らし出す。眩しそうに少し目を細め、それから再び膝を抱え直した。
「ちゃんと帰ってきてほしい……」
伊檻の妻が願った気持ちは、痛いほど理解できる。誰だってそうだろう、大切な人が傷つく姿を見るのはとてもつらい。無事でいるかどうかもわからない時間を待ち続けるのは、もっと怖い。
玄関の扉が開いて、聞き慣れた足音がして。大切な人がいつもの顔で「ただいま」と帰ってくる。それを迎えて、抱きしめてもらって、この頬にキスを落としてもらう。そんな当たり前の明日が、ちゃんと明日も来るようにと願い、祈る気持ちを。
セラフィーナは、よく知っていた。
八歳の夏。
普段は、もう思い返すことも少なくなった。
それでも、あの日を。両親を失ったあの日のことを、忘れてしまったわけではない。
*
窓に厚いカーテンが引かれ、夏の陽射しを遮ったひんやりとした部屋。
その中央に並べられた二つの箱を、セラはじっと見つめていた。それが死んだ人の身体を納める『棺』と呼ばれるものなのだと知ったのは、もう少し後になってからのことだった。大人の足の影に隠れるようにして近づき、そっと箱の中を覗き込む。
父と母が、そこに横たわっていた。まるで、眠っているだけのような、穏やかな顔をして。
その顔を見た瞬間、セラはつい先週、電話越しに聞いた声を思い出した。
——もう少しで帰るから、いい子にして待っていてね。
——たくさんお土産があるんだよ。
そう言って笑っていた。それが二人揃って、ようやく帰ってきたのだ。
でも、ねているみたい。
きっと、とても疲れているのだと思った。お仕事が大変だったから、ぐっすり眠っているだけなのだと。
「……おかえりなさい、って言うの?」
起こしてもいいのだろうか——、と。隣の大人を見上げて尋ねても、返事はなかった。その沈黙が、子どもながらになんだか変だと感じた。部屋はひどく静かだし、お祝いの席でもないのに花の匂いがする。
でもセラは、話したいことがいっぱいあったから、早く帰ってきた二人とお話がしたかった。今年はいつもより少し滞在が長引いたこともあって、おじさまの家で過ごす夏の思い出がたくさんできた。早く父の膝の上に乗って隣に座る母を見上げながら、読んでもらった本のことや、庭で見かけたきれいなお花のことや、おにいさまのことや……たくさん、たくさん話したいことがある。
セラは踏み台の上で背伸びをして、棺の縁に手をかけた。
「おかあさん、おかえりなさい。あのね、わたしね、いい子でまってたよ。おにいさまにご本をよんでもらって、べんきょうもして、おねえさまとあそんでもらって、おじさまやおばさまとも——?」
伸ばした指先が、母の頬へ触れる。それは冬の朝のように、冷たかった。びくりとして、手を引っ込める。けれど、何かの気のせいかもしれないと思って、もう一度確かめるように触れてみた。
やっぱり、冷たい。
いつものように「どうしたの?」と笑ってくれない。名前を呼んで、頭を撫でてもくれない。
「……おかあさん?」
声をかけても、動かない。
隣の父も、眠っているようにしか見えないのに、服を引っ張ってみても反応がなかった。こちらを手招いて、「怖い夢でも見たのかい」と言ってくれない。名前を呼んで、抱き上げてもくれない。
「ねえ、起きて……おはようを言ってくれないの……?」
頭の奥がからっぽになってしまったような感覚を、今でもはっきりと覚えている。
八歳のセラフィーナは、『それ』が何なのかをまだ正しく知らなかった。けれど。もう「おはよう」も、「ただいま」も言えなくなることなのだということだけは、わかってしまった。
もう、抱きしめてもらえない。
髪を撫でてもらえない。
名前を、呼んでもらえない。
怖くなった。それが本当に、どうしようもなく、怖かった。
突然、世界でひとりぼっちになってしまった気がした。
そのとき、肩にそっと手が置かれた。セラは、振り返る。そこに、シグルスがいた。しゃがみ込み、目線を合わせた彼の瞳が、ひどく澄んで見えたことを覚えている。シグルスは何も言わなかった。彼は何も言わずに、ただ、
「セラ」
——そう、名前を呼んでくれた。
その瞬間、堰を切ったように涙が溢れた。
なぜ泣いているのかさえ自分でもわからないまま、セラは両腕を伸ばして彼の首へしがみついた。息を詰まらせるたび、背中をゆっくりと撫でてくれる手のひらが、あたたかかった。
世界が崩れ落ちた日に、それでも自分へ差し出されていた手。もう何もないと思った時にさえ、まだここに残っていた温もり——だからなのだろうか。あの手を、どうしても離したくないと思うのは。
これは、そんなにも幼稚な願いなのだろうか。子どもじみた、ただのわがままなのだろうか。
セラには、まだ分からなかった。ただ、一つ。もう二度と帰ってこない人たちを知っているからこそ、まだここにいる大切な人の手を、自分から諦めてしまうことだけは——どうしても、嫌だった。
カウチに横たわったまま、セラフィーナは天井を見つめた。
自分がシグルスとの婚約を、こんなにも簡単に手放せない理由のひとつは、きっとそこにある。
——中身の伴わない昔の約束に、いつまでも人生を縛られる必要はない。
婚約の解消を提示された瞬間。頭の中に浮かんだのは、とても単純な光景だった。
この婚約がなくなれば、シグルスは自由になる。自由になって、遠からず、自分ではない誰かと結婚する。それは妄想というより、決まっている未来のように思えた。彼ほどの人が、いつまでも独りでいるはずがないだろう。それくらいのことは、少し世間知らずなセラフィーナにだってわかる。
だから。
嫌だ、と思った。
彼の隣が、自分の帰る場所ではなくなってしまう。それが、どうしようもなく嫌だった。
これは独占欲で、子どものわがまま。……きっと、そうなのだ。
そもそもセラフィーナは『結婚』という形を、ずっと肯定的なものとして見てきた。幼い頃の記憶に残る両親の姿や、シグルスの父母、そして白いドレスを纏い、祝福の中で家を出た彼の妹——互いを尊重し、同じ食卓を囲み、同じ屋根の下で生きるふたり。
あれが幸福のかたちだと、疑うことなく育ってきた。
ヴェールに包まれたまま、自らの意志で、愛する人とともに人生を生きる誓いを立てる花嫁の姿に憧れた。誓いを立てて、指輪を互いの薬指にぴたりと収め、顔を見合わせ照れくさそうな微笑みを交わす。あの場所に立ちたいと思った。あの結婚式のように、素敵なお嫁さんになる日を夢見てきた。祝福を受けるその隣に、他の誰でもなく、彼に居て欲しい。
セラフィーナが誓いたい相手は、シグルスだけなのだから。
婚約解消など、できるはずがなかった。それは単に形式が白紙に戻るというだけの話ではない。自分がシグルスに選ばれる可能性そのものが、消えてしまうということだ。
伊檻の話を聞いた今なら、結婚という形が絶対ではないことも分かっている。結婚していても、愛していても、別れる人たちはいる。どんなに大切でも、手放す選択をする大人はいるのだと知ってしまった。
けれど。
少なくとも、セラフィーナにとって結婚は終着点ではない。
だって、シグルスは分かっていない。
——長く一緒にいたからだ。僕が兄のように。
好きだと伝えた時、真っ先に返ってきたのはあの言葉だった。最初から「婚約者」として見られたことすら、一度もない。シグルスにとって、セラフィーナはずっと妹のような存在。守るべき子どものままなのだから——。
「……わかってましたけど……」
小さく呟く。わかっていた。わかっていたけれど、だからといって、簡単に諦められるほど軽い気持ちではないのだ。
いつの間にか、瞼が重くなってきていた。カウチに身体を丸めたまま、ランプの柔らかな明かりを薄目で眺めていると、意識がうとうとと沈んでいく。
そのとき、書斎の扉が開く音がした。
「——セラフィーナ?」
思わず、胸が跳ねる。目は開けない。はっと息を呑みながら、そのまま呼吸を整える。寝たふりだ。書斎に忍び込んでいたことが知られたのは仕方がないとしても、今はまだ言葉を交わす準備ができていない。
足音が近づく。気配が、すぐ傍にある気がする。瞼の裏に透けていたランプの明かりが、わずかに暗く遮られた。
「寝てるのか」
低い声が、静かに降ってくる。セラフィーナが目を開けるべきかを迷っている間に、ブランケットがそっと身体に掛けられた。明かりも、少し落とされたらしい。
ため息にも似た小さな息を吐いて、「……本当に、困った子だ」と呟く声が聞こえた。呆れを含みながらも、それを上回る情が滲んだ声。その声色に、胸の奥がきゅっと締めつけられる。泣きそうになった。
——やっぱり。
——やっぱり、この人が好きだ。
瞼の裏で、少しずつ決意が形になっていく。
それでも、たとえ、いつか別れが来るのだとしても。今、わたしはこの人のそばで生きたい。
わたしにとってこの人が帰る場所であるように。この人にとっても、わたしが帰る場所になりたい。
今ここで婚約を手放してしまうわけにはいかない。このまま諦めてしまえば、シグルスの中で自分はきっと、いつまでも守るべき子どものままだ。もう少し大人になれば、年齢を重ねさえすれば、それだけで見方を変えてくれるかもしれないと、どこかで思っていた。けれど、きっとそんなに簡単なことではないのだ。
どれだけ早く大人になろうと背伸びをしても、この人の前ではどうしても先に安心が来てしまうように。きっと、シグルスも同じなのだ。守ってもらうことに慣れすぎて、守ることに慣れすぎて。成人したからといって、昨日まで庇護していた女の子を今日から突然ひとりの女性として見ることなど、できない。
……だからこそ、まずは約束通り、この人のお嫁さんになりたい。
お嫁さんになって、今までとは違う場所から、もう一度この人に自分を見てもらいたい。今すぐ好きになってもらえなくてもいい。最初からひとりの女性として愛してもらえなくても、これから好きになってもらえればいい。妻として、隣に立って。それから、改めて振り向かせてみせる。
そのくらいの覚悟なら、もうできている。
彼に好きになってもらえるように、いくらでも努力する。いつまでも妹のような子どもではなく、ひとりの女性として見てもらえるように、何度でも。
その可能性を手にするためなら。
——子どもだからこそ許される特権というものも、あると思いますよ。
伊檻の言葉が、また頭をよぎる。
……言われなくても、本当はずっと知っていた。この人が、自分に甘いことを。
——真正面から気持ちをぶつけられると大人は案外、弱いものなんです。
わたしが泣けば困ることも。真正面から「好き」と言えば、ほんの少し視線が揺らぐことも。
——それでシグルスさんが困るなら、困らせればいいんですよ。
嫌われたくなかった。困らせたくなかった。聞き分けのよい子でいた方が、この人のそばにいられるような気がしていた。だから、今までは、それをしたくなかった。
でも、もう逃げない。
諦めない。
この人を諦めるくらいなら。この人の前でだけ、少しくらいずるい子になったって構わない。シグルスを困らせないことよりも、自分の気持ちをちゃんと聞いてもらうことを選ぶ。聞き分けのいい子でいることよりも、この人の隣へ行くための道を選ぶ。
シグルスが掛けてくれたブランケットの温もりに包まれながら、セラフィーナはその決意を胸の奥に大切に抱え込む。そのまま、今度こそ穏やかに、ゆっくりと眠りへ落ちていった。
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