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犬にとって散歩とは運動と排泄を兼ねた大事な時間であり、日課。
悪天候だろうと止まらないし、外に出すのを渋ろうものなら家中のカーペットの角を齧られたり、クッションを掘られて台無しにされたり――無言の抗議が激しく、とにかく後が大変だ。そういった事情もあり、多少の雨くらいで散歩は欠かせない。
元々、イギリスの天気は一日の中に四季があると言われるほど、非常に変わりやすいのが特徴だと言われる。晴れの日よりも、曇りや雨の日が多い。だから、晴れ間を待っているようでは犬の散歩などいつまで経ってもできはしないというわけだ。
濡れた街路樹の枝からは時折しずくが滑り落ちていた。シグルスは僅かに明るみを覗かせる灰色の曇り空を目に、手にしたリードを持ち直す。その足元を小走りに行き来するのは、彼の飼い犬・グラム。犬種はウェルシュ・コーギー・ペンブローク。短い脚をぱたぱたと動かし、鼻先を低く地面につけては興味のある匂いを追いかけて歩いていた。短い尻尾よりも軽快に揺れる尻を一瞬睨むように眺め、彼は小さく息を吐いて濃紺のトレンチコートのポケットに片手を突っ込んだ。
少し前、昨日の夕方から今朝にかけ降り続いていた雨が昼前にはようやく上がったので、彼はこうしてグラムを外へと連れ出した――玄関に敷いてあったカーペットが無残にも犠牲になった後のことである。別に散歩を忘れていたというわけでもなし、朝方は風も強かったので時間を後ろにずらしただけのつもりだったというのに、食後の紅茶を飲みながら「……妙に静かだな」と気付いた時にはすでにやられていた。現行犯を前に、額に手を当て重く長いため息を吐いたシグルスの隣で、くすくすと笑いながら彼のコートと犬のリードを手渡してきたオデットの姿が脳裏に浮かぶ。
「……グラム、そちらには行かないぞ」
わずかに晴れ間が見えているとはいえ、雨はほんの少し前に上がったばかり。水はけの悪い石畳の鋪道のあちこちには大小の水たまりが残っている状態だった。嬉しそうに短い尻尾をぶんぶんと振り出したグラムの姿に嫌な予感がして、そう声をかけるも次の瞬間にはもう遅い。
リードを強く引いて止めるよりも早く、小さな獣は一切の迷いなく、好奇心のおもむくまま水溜まりの中へと勢いよく飛び込んだ。ぱしゃりと音を立てて水飛沫が四方に散り、膝下からコートの裾にまで泥まじりの飛沫がかかる。シグルスは立ち止まり、眉をひとつ寄せた。嬉しそうに水溜まりを踏み鳴らして遊び始めた犬の姿を尻目に、一歩後ろに後ずさって距離を取る。
「……まったく」
――まあ、仕方ない。雨上がりの日だ。当然、こんなこともあるだろう。レインコートを着てこなかった自分の落ち度だ……。と努めて寛容な心持ちを取り戻す。
ため息を吐きながらも内ポケットからハンカチを取り出して、裾についた汚れを拭おうと腰をかがめる。ところが、その姿勢が逆に仇となった。
「うわっ……!」
水溜まりの上で夢中になって跳ねていたグラムが、身を屈めた主人の姿に抱えてもらえるのかと勘違いして嬉々として駆け寄ってきたのだ。
全身泥水にまみれた犬が勢いそのままに飛びついてくる。これに抱き付かれるわけにはいかない――! と咄嗟の判断で脇に手を差し込んで止めたが、べちゃりと濡れる手に、冷たい感触。コーギーは、胴長短足の犬種である。手足だけでなく腹まで、すでに手遅れなほどしっかりと汚れていた。
「……っ、やめろ、グラム!」
声を荒げても犬の方は構わず口を開け、嬉しそうに足跡をコートの生地にぺたぺたと刻みつけていく。あっという間にコートの裾どころか、袖や腕まで道連れにされてしまった。泥だらけになったハンカチを手に、途方に暮れる。道ゆく人がその光景に思わず笑みをこぼすのを背に、シグルスはきゅっと唇を引き結び、冷静さを装おうとした。しかし、それで残された泥の痕跡が消えるわけではない。
「これでは散歩というより泥遊びではないか……」
そっとグラムの前足を舗道に戻してから立ち上がり、背筋を正しながら泥にまみれたコートを見下ろす。それでも飼い犬は(楽しい!)と言わんばかりに舌を出して満足そうに笑っている。散歩道もすでに折り返しを過ぎていたのでそのまま足早に帰路に着く。このあと家での洗犬作業が待っていることを思うと……彼の表情はますます渋くなるのだった。
雨で濡れるのは日常茶飯事。普段は玄関でタオル拭きだけで済ませて、そのまま部屋の中に入れているが、今日はそういうわけにもいかない。
子犬の頃から身に付けさせた習慣ゆえだろう。グラムは泥まみれの身体のまま家の中へ直行していくことはなく、玄関のところで体の拭き上げを待つように待機して主人を見上げる。シグルスはそれを横目に泥で汚れたコートを脱ぎ捨て、白いシャツ姿にまで身を軽くした。それから足元の獣を抱き上げると、そのまま浴室へと直行。
短い足をばたつかせながら腕の中で尻尾を振り続けていたグラムを浴槽に下ろし、シャツの袖を肘まで捲り上げる。主人がシャワーの温度を確認する間、グラムは最初こそなぜ浴室に連れられてきたのか? というように首を傾げていた。全身泥だらけであることをまるで意に介していない。しかし、水流を前に抵抗らしい抵抗を見せる気配もなく、やがて観念したように座り込んだ。
「……そうだ、それでいい。風呂で暴れないのは君の数少ない美点だな」
水が弾ける音がしばらく続く。そのまま足先から腹、そして背中へと丁寧に泥を洗い流していくと、泥で汚れていた毛並みが少しずつ本来の赤みがかった茶色を取り戻していった。グラムは目を細め、時折鼻を鳴らして大人しくされるがままになっている。短足ゆえの汚れやすさから定期的に風呂に入れている慣れもあってか、特別水を嫌がる様子もなく、散歩の過酷さに比べれば拍子抜けするほど穏やかな作業だった。
「――よし、これで綺麗になったな」
そう言ってシャワーを止めたところで、シグルスは厚手のタオルを手に取り、グラムの身体からざっと水気を拭き取る。とはいえ、厚い被毛の奥まで完全に乾かすのは無理だ。こういう時は犬自身に身震いをしてもらうのが一番早い。シグルスは少し距離をとって、暫し待った。
いつもならばグラムが自らぶるりと身震いをして水を飛ばすはず――そのはず、なのだが……。
「……」
待てど暮らせど、グラムは首を傾げてゆるやかに尻尾を振るだけである。
「なぜ今に限って――」
半ば呆れたように額に手を当て、諦めて再度グラムの身体をタオルで覆おうとした。その時、以前どこかで耳にした話を思い出す。“犬の耳に息を吹きかけると身震いする”――犬を乾かす時に便利な豆知識だとかなんとか、そんな話を知人が得意げに語っていたことを。当てになるかはわからないが、試すだけなら害はない。半信半疑ながらにシグルスはしゃがみ込み、濡れた犬の耳を軽く押さえて顔を近づけ、そっと息を吹きかけた。……反応は、ない。観察するように見入るが、グラムは小さく首を捻っているだけだ。
「やはりデタラメか」
苦笑まじりに肩を落とし、諦めようとしたその瞬間――不意に、グラムが全身を激しく振るわせる。待ちに待った身震い。しかし、タイミングは最悪だった。顔を間近に寄せていたために、飛沫は盛大にシグルスの頬から額、首筋にかけてを直撃する。咄嗟にタオルを広げて防ぐ間もなかった。冷たい水が滑り落ち、シャツの襟元までもが瞬く間に濡れる。
「――っ! ……はぁー……」
濡れた前髪を払い、シャツの襟を掴んで水滴を拭おうとしながら、シグルスは大きく息を吐く。
考えてみれば当然の帰結である。犬の耳に息を吹きかけると身震いする――その豆知識の真偽はともかく、半信半疑であろうとも一度は退避すべきところを誤った己の失策を今更ながらに悟った。
だが、事態はこれで終わらない。身震いを一度済ませたグラムはすっかり気分が高揚したのか、床の上を駆け回り始めたからだ。
「おい、やめろグラム……!」
慌ててタオルを広げて追いかけるが、それを嘲笑うかのようにグラムは浴室の中を小さな弾丸のように走る。短い足は止まる気配を見せず、結局シグルスが全身で包むように抱え込んでタオルで強引に覆うまで、その騒動は収まらなかった。
「……洗うより後始末の方が、骨が折れる」
呟いたその声が浴室の壁に虚しく反響する。短い右足をひょいと持ち上げ、肉球の間に入り込んだ水滴を拭き取りながら本日何度目かの重いため息を落とせば、グラムはやはり楽しげに目を細めていた。湿り気をたっぷり含んで重くなったバスタオルを取り替えて、最後に背中をぐいと拭きあげる。これで大方乾いただろうとシグルスは腰を上げた。同じような姿勢を保っていたせいか、僅かに軋む背の鈍い違和感に顔をしかめる。
浴室の扉を押してリビングへと向かえば、そこにはすでにバスタオルを抱えたオデットが待っていた。優雅な正午の読書タイムを中断したらしく、テーブルには本や飲みかけの紅茶が置かれている。浴室での騒動が聞こえていたのだろう、椅子から立ち上がった姿は少しばかり呆れ顔だった。
「ご苦労さま。さあ、こちらへどうぞ」
シグルスは抱えていたグラムを差し出すためにとおもむろに腕を伸ばそうとした。
しかし、オデットの手はそのまま犬を素通りし、彼の頭上へと伸びる。
「……おい」
ふわりと乾いたバスタオルが頭に落ちてきた。視界が一瞬で遮られたことに立ち竦めば、彼女の細い指先が端をぴたりと押さえ、短い抗議ごときゅっと頭を覆われる。そのままタオル越しにぐいぐいと遠慮もなしに撫で回す。
「あなたが先でしょう?」
「……。順番が違うと思うが」
「濡れたままでは風邪をひくわ。大人しくしていなさい」
タオルの中ではやけに間抜けに声が響いた。オデットの手は一向に止まる気配もなく、額に張り付いていた水滴が容赦なく拭き取られ、濡れていた前髪が更に乱される。グラムを抱えたままの両手が塞がっており、避けることもできない。ただされるがまま。……これではまるで子供にするような扱いだと不服に思う。
しかし、至極もっともな理由と気遣いを甘受して、早く済ませることができるようにと頭を下げれば、腕に抱えたタオルの隙間から覗くグラムと目が合う。語りはしないが、口を半開きに(おつかれさまだね)とでも言いたげな表情をしていた。お前のせいだろう、と僅かに睨むも小さく鼻を鳴らされた。解せん。そんな理不尽さを噛み締めながら、シグルスは耐えた。それから数秒後、首筋まで一気に吹き下ろされて、ようやく頭上からタオルが外される。
唇を僅かに引いて笑うような皮肉めいた表情を浮かべて、視界に現れた女の姿を見下ろす。
「まるで犬にするような扱いだ。……僕は犬じゃないぞ」
「ええ、知っているわ。だからこそ放っておけないのよ」
「……。あとは自分でやるから、もう少しグラムを拭いてやってくれ」
そうして、ようやく腕の中のグラムを引き取ってもらい、解放感に一息つくと同時にふと自分の頭に手をやった。
――ぐしゃぐしゃだ。
今朝方起きて鏡の前で整えたはずの髪型は跡形もなく崩れ、すっかり無造作に乱れた前髪が情けなく額に垂れていた。濡れたシャツと合わせて、妙に冴えない姿になっているのが自分でもわかる。どのみち犬を洗った時点でシャツも髪も濡れたんだ。いずれ着替える必要があったとはいえ――とぶつぶつ言いながら片手で髪を整えようとするが、思うようにいかない。
そんなシグルスの様子を横目に、オデットは暖炉の前の椅子へと戻ってグラムの毛並みを丁寧に仕上げている。
「……やれやれ。今日の散歩は散々だった」
髪を撫で付け続けながらぽつりと洩らした言葉に、グラムの鼻息とオデットの乾いた笑い声が重なった。
悪天候だろうと止まらないし、外に出すのを渋ろうものなら家中のカーペットの角を齧られたり、クッションを掘られて台無しにされたり――無言の抗議が激しく、とにかく後が大変だ。そういった事情もあり、多少の雨くらいで散歩は欠かせない。
元々、イギリスの天気は一日の中に四季があると言われるほど、非常に変わりやすいのが特徴だと言われる。晴れの日よりも、曇りや雨の日が多い。だから、晴れ間を待っているようでは犬の散歩などいつまで経ってもできはしないというわけだ。
濡れた街路樹の枝からは時折しずくが滑り落ちていた。シグルスは僅かに明るみを覗かせる灰色の曇り空を目に、手にしたリードを持ち直す。その足元を小走りに行き来するのは、彼の飼い犬・グラム。犬種はウェルシュ・コーギー・ペンブローク。短い脚をぱたぱたと動かし、鼻先を低く地面につけては興味のある匂いを追いかけて歩いていた。短い尻尾よりも軽快に揺れる尻を一瞬睨むように眺め、彼は小さく息を吐いて濃紺のトレンチコートのポケットに片手を突っ込んだ。
少し前、昨日の夕方から今朝にかけ降り続いていた雨が昼前にはようやく上がったので、彼はこうしてグラムを外へと連れ出した――玄関に敷いてあったカーペットが無残にも犠牲になった後のことである。別に散歩を忘れていたというわけでもなし、朝方は風も強かったので時間を後ろにずらしただけのつもりだったというのに、食後の紅茶を飲みながら「……妙に静かだな」と気付いた時にはすでにやられていた。現行犯を前に、額に手を当て重く長いため息を吐いたシグルスの隣で、くすくすと笑いながら彼のコートと犬のリードを手渡してきたオデットの姿が脳裏に浮かぶ。
「……グラム、そちらには行かないぞ」
わずかに晴れ間が見えているとはいえ、雨はほんの少し前に上がったばかり。水はけの悪い石畳の鋪道のあちこちには大小の水たまりが残っている状態だった。嬉しそうに短い尻尾をぶんぶんと振り出したグラムの姿に嫌な予感がして、そう声をかけるも次の瞬間にはもう遅い。
リードを強く引いて止めるよりも早く、小さな獣は一切の迷いなく、好奇心のおもむくまま水溜まりの中へと勢いよく飛び込んだ。ぱしゃりと音を立てて水飛沫が四方に散り、膝下からコートの裾にまで泥まじりの飛沫がかかる。シグルスは立ち止まり、眉をひとつ寄せた。嬉しそうに水溜まりを踏み鳴らして遊び始めた犬の姿を尻目に、一歩後ろに後ずさって距離を取る。
「……まったく」
――まあ、仕方ない。雨上がりの日だ。当然、こんなこともあるだろう。レインコートを着てこなかった自分の落ち度だ……。と努めて寛容な心持ちを取り戻す。
ため息を吐きながらも内ポケットからハンカチを取り出して、裾についた汚れを拭おうと腰をかがめる。ところが、その姿勢が逆に仇となった。
「うわっ……!」
水溜まりの上で夢中になって跳ねていたグラムが、身を屈めた主人の姿に抱えてもらえるのかと勘違いして嬉々として駆け寄ってきたのだ。
全身泥水にまみれた犬が勢いそのままに飛びついてくる。これに抱き付かれるわけにはいかない――! と咄嗟の判断で脇に手を差し込んで止めたが、べちゃりと濡れる手に、冷たい感触。コーギーは、胴長短足の犬種である。手足だけでなく腹まで、すでに手遅れなほどしっかりと汚れていた。
「……っ、やめろ、グラム!」
声を荒げても犬の方は構わず口を開け、嬉しそうに足跡をコートの生地にぺたぺたと刻みつけていく。あっという間にコートの裾どころか、袖や腕まで道連れにされてしまった。泥だらけになったハンカチを手に、途方に暮れる。道ゆく人がその光景に思わず笑みをこぼすのを背に、シグルスはきゅっと唇を引き結び、冷静さを装おうとした。しかし、それで残された泥の痕跡が消えるわけではない。
「これでは散歩というより泥遊びではないか……」
そっとグラムの前足を舗道に戻してから立ち上がり、背筋を正しながら泥にまみれたコートを見下ろす。それでも飼い犬は(楽しい!)と言わんばかりに舌を出して満足そうに笑っている。散歩道もすでに折り返しを過ぎていたのでそのまま足早に帰路に着く。このあと家での洗犬作業が待っていることを思うと……彼の表情はますます渋くなるのだった。
雨で濡れるのは日常茶飯事。普段は玄関でタオル拭きだけで済ませて、そのまま部屋の中に入れているが、今日はそういうわけにもいかない。
子犬の頃から身に付けさせた習慣ゆえだろう。グラムは泥まみれの身体のまま家の中へ直行していくことはなく、玄関のところで体の拭き上げを待つように待機して主人を見上げる。シグルスはそれを横目に泥で汚れたコートを脱ぎ捨て、白いシャツ姿にまで身を軽くした。それから足元の獣を抱き上げると、そのまま浴室へと直行。
短い足をばたつかせながら腕の中で尻尾を振り続けていたグラムを浴槽に下ろし、シャツの袖を肘まで捲り上げる。主人がシャワーの温度を確認する間、グラムは最初こそなぜ浴室に連れられてきたのか? というように首を傾げていた。全身泥だらけであることをまるで意に介していない。しかし、水流を前に抵抗らしい抵抗を見せる気配もなく、やがて観念したように座り込んだ。
「……そうだ、それでいい。風呂で暴れないのは君の数少ない美点だな」
水が弾ける音がしばらく続く。そのまま足先から腹、そして背中へと丁寧に泥を洗い流していくと、泥で汚れていた毛並みが少しずつ本来の赤みがかった茶色を取り戻していった。グラムは目を細め、時折鼻を鳴らして大人しくされるがままになっている。短足ゆえの汚れやすさから定期的に風呂に入れている慣れもあってか、特別水を嫌がる様子もなく、散歩の過酷さに比べれば拍子抜けするほど穏やかな作業だった。
「――よし、これで綺麗になったな」
そう言ってシャワーを止めたところで、シグルスは厚手のタオルを手に取り、グラムの身体からざっと水気を拭き取る。とはいえ、厚い被毛の奥まで完全に乾かすのは無理だ。こういう時は犬自身に身震いをしてもらうのが一番早い。シグルスは少し距離をとって、暫し待った。
いつもならばグラムが自らぶるりと身震いをして水を飛ばすはず――そのはず、なのだが……。
「……」
待てど暮らせど、グラムは首を傾げてゆるやかに尻尾を振るだけである。
「なぜ今に限って――」
半ば呆れたように額に手を当て、諦めて再度グラムの身体をタオルで覆おうとした。その時、以前どこかで耳にした話を思い出す。“犬の耳に息を吹きかけると身震いする”――犬を乾かす時に便利な豆知識だとかなんとか、そんな話を知人が得意げに語っていたことを。当てになるかはわからないが、試すだけなら害はない。半信半疑ながらにシグルスはしゃがみ込み、濡れた犬の耳を軽く押さえて顔を近づけ、そっと息を吹きかけた。……反応は、ない。観察するように見入るが、グラムは小さく首を捻っているだけだ。
「やはりデタラメか」
苦笑まじりに肩を落とし、諦めようとしたその瞬間――不意に、グラムが全身を激しく振るわせる。待ちに待った身震い。しかし、タイミングは最悪だった。顔を間近に寄せていたために、飛沫は盛大にシグルスの頬から額、首筋にかけてを直撃する。咄嗟にタオルを広げて防ぐ間もなかった。冷たい水が滑り落ち、シャツの襟元までもが瞬く間に濡れる。
「――っ! ……はぁー……」
濡れた前髪を払い、シャツの襟を掴んで水滴を拭おうとしながら、シグルスは大きく息を吐く。
考えてみれば当然の帰結である。犬の耳に息を吹きかけると身震いする――その豆知識の真偽はともかく、半信半疑であろうとも一度は退避すべきところを誤った己の失策を今更ながらに悟った。
だが、事態はこれで終わらない。身震いを一度済ませたグラムはすっかり気分が高揚したのか、床の上を駆け回り始めたからだ。
「おい、やめろグラム……!」
慌ててタオルを広げて追いかけるが、それを嘲笑うかのようにグラムは浴室の中を小さな弾丸のように走る。短い足は止まる気配を見せず、結局シグルスが全身で包むように抱え込んでタオルで強引に覆うまで、その騒動は収まらなかった。
「……洗うより後始末の方が、骨が折れる」
呟いたその声が浴室の壁に虚しく反響する。短い右足をひょいと持ち上げ、肉球の間に入り込んだ水滴を拭き取りながら本日何度目かの重いため息を落とせば、グラムはやはり楽しげに目を細めていた。湿り気をたっぷり含んで重くなったバスタオルを取り替えて、最後に背中をぐいと拭きあげる。これで大方乾いただろうとシグルスは腰を上げた。同じような姿勢を保っていたせいか、僅かに軋む背の鈍い違和感に顔をしかめる。
浴室の扉を押してリビングへと向かえば、そこにはすでにバスタオルを抱えたオデットが待っていた。優雅な正午の読書タイムを中断したらしく、テーブルには本や飲みかけの紅茶が置かれている。浴室での騒動が聞こえていたのだろう、椅子から立ち上がった姿は少しばかり呆れ顔だった。
「ご苦労さま。さあ、こちらへどうぞ」
シグルスは抱えていたグラムを差し出すためにとおもむろに腕を伸ばそうとした。
しかし、オデットの手はそのまま犬を素通りし、彼の頭上へと伸びる。
「……おい」
ふわりと乾いたバスタオルが頭に落ちてきた。視界が一瞬で遮られたことに立ち竦めば、彼女の細い指先が端をぴたりと押さえ、短い抗議ごときゅっと頭を覆われる。そのままタオル越しにぐいぐいと遠慮もなしに撫で回す。
「あなたが先でしょう?」
「……。順番が違うと思うが」
「濡れたままでは風邪をひくわ。大人しくしていなさい」
タオルの中ではやけに間抜けに声が響いた。オデットの手は一向に止まる気配もなく、額に張り付いていた水滴が容赦なく拭き取られ、濡れていた前髪が更に乱される。グラムを抱えたままの両手が塞がっており、避けることもできない。ただされるがまま。……これではまるで子供にするような扱いだと不服に思う。
しかし、至極もっともな理由と気遣いを甘受して、早く済ませることができるようにと頭を下げれば、腕に抱えたタオルの隙間から覗くグラムと目が合う。語りはしないが、口を半開きに(おつかれさまだね)とでも言いたげな表情をしていた。お前のせいだろう、と僅かに睨むも小さく鼻を鳴らされた。解せん。そんな理不尽さを噛み締めながら、シグルスは耐えた。それから数秒後、首筋まで一気に吹き下ろされて、ようやく頭上からタオルが外される。
唇を僅かに引いて笑うような皮肉めいた表情を浮かべて、視界に現れた女の姿を見下ろす。
「まるで犬にするような扱いだ。……僕は犬じゃないぞ」
「ええ、知っているわ。だからこそ放っておけないのよ」
「……。あとは自分でやるから、もう少しグラムを拭いてやってくれ」
そうして、ようやく腕の中のグラムを引き取ってもらい、解放感に一息つくと同時にふと自分の頭に手をやった。
――ぐしゃぐしゃだ。
今朝方起きて鏡の前で整えたはずの髪型は跡形もなく崩れ、すっかり無造作に乱れた前髪が情けなく額に垂れていた。濡れたシャツと合わせて、妙に冴えない姿になっているのが自分でもわかる。どのみち犬を洗った時点でシャツも髪も濡れたんだ。いずれ着替える必要があったとはいえ――とぶつぶつ言いながら片手で髪を整えようとするが、思うようにいかない。
そんなシグルスの様子を横目に、オデットは暖炉の前の椅子へと戻ってグラムの毛並みを丁寧に仕上げている。
「……やれやれ。今日の散歩は散々だった」
髪を撫で付け続けながらぽつりと洩らした言葉に、グラムの鼻息とオデットの乾いた笑い声が重なった。