Blessings
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「来たぞ」
いつものようにノックもせず、声だけかけてシグルスは家に上がった。彼が訪ねる時、彼女は大抵リビングにいる。そう考えて真っ先にリビングを覗き込んだが、今日はその姿が見当たらない――とはいえ、玄関が施錠されていなかった以上、留守ということは考えにくかった。いくら彼女が、これほど自由に家に上がり込むのを許しているとはいえ、鍵もかけずに出かけるほど不用心な性格ではない。
首を捻りながら廊下を振り返り、彼女の名を呼びかける。すると、奥の部屋から返事が返ってきた。その声を頼りに奥へ向かい、軽くノックをしてから扉を開ける。
すると、そこには鋏を手にしたオデットがいた。ダイニングテーブルの上にはほどかれた花束といくつかの花瓶が並べられていて、彼女は花の茎を丁寧に整えながら、順に花瓶へと生けていた。
「いらっしゃい」
オデットは手元の花を見下ろしたまま、ふわりと笑みを浮かべる。なんとなく、いつもより機嫌が良さそうに見えた。シグルスはそれに軽く返事を返して、彼女の傍らに立ち、テーブルに並ぶ花々へと視線を落とす。どれも見栄えが良く華やかで、瑞々しく咲いていた。部屋の空気に混じる微かな草花の香りを嗅ぎ取って、彼は目を細める。
「……綺麗だな」
「上等な花ばかりでしょう。切り花にしてしまったのが惜しいくらい」
「買ったのか?」
「いいえ、貰い物。少し前に、お茶をしに伺った訪問先のご婦人から頂いたの。庭で咲いたばかりだから、お土産代わりにって」
「なるほど。相当な腕前と見える」
「ええ、とても素敵なお庭だったわ。小さな温室もあって、手入れが隅々まで行き届いてた。薔薇も見事だったけれど、……今の時期は芍薬が主役で丁度いいから、って。私にはもったいないくらいの贈り物よ」
そう話しながら、ぱちん、と最後の一本を切り落とした。その花を花瓶に挿し終えると、オデットは鋏をそっとテーブルに置く。この間、彼女はずっと貰い物の上等な花々を見つめていて、シグルスには見向きもしなかった。
よほど、花を贈られたことが嬉しかったらしい。花が嫌いな英国人などいない――とまでは言わないが、彼女もまたこの国で生きる大抵の人々と同様に花を愛でることを好む人なのだ、と彼はその横顔を眺めながら考えていた。
「そういえば――」
オデットがふと思い出したように呟き、ようやくシグルスの方を見上げる。
「――映画は好き?」
「まあ、人並みには……。なぜ急にそんなことを?」
「知人からチケットを貰ったのよ。予定が合わなくなったらしくて。××日なんだけど、もし暇なら」
「××日か……」
シグルスはその日付を繰り返し呟きながら、視線を少し上に向けて考える。
平日だ。当然、仕事がある。そもそも彼は週に二、三度――時にそれ以上の頻度でこの家に顔を出しているが、それは決して暇だからではない。むしろ、その逆だ。
どちらかと言えばシグルスは多忙の部類であり、全ての予定を調整して、時には無理をしてでも時間を捻出していた。そのせいか、彼女からうっすらと暇人扱いされている気がするのは多少不本意で……と、ほんの数秒の間に様々な考えが巡る。
その上で「要件による……」と口にしかけたが、すぐに考え直して、訂正した。
「――いや、暇だ。」
この流れは普通に考えて「一緒に映画を観に行きませんか?」という遠回しなお誘いに違いない。とっさにそう判断した。それを無下にする理由は、シグルスにはない。むしろ、願ってもない話だ。こんな機会をみすみす逃すつもりは、絶対にない。内心やや浮き足立ちながらも、表情には出さず、努めて自然に応じたつもりだった。
「よかった。じゃあこれを、あなたに」
「……。ありがとう」
そう言ってオデットが差し出したのは、小洒落た上質な紙で作られた封筒だ。受け取って中を確認すると、思ったとおり映画の鑑賞チケットが二枚入っていた。チケットに記された上映日と時間、劇場名とタイトルへと目を走らせて、シグルスは小さく息を吐く。
「ああ、この劇場でレイトショーの回か。……それなら仕事終わりでも十分間に合いそうだな。近くで待ち合わせれば問題ない」
「ペアチケットだったから、相手がいなくて行くか迷ってたんだけど、無駄にならなくてよかったわ。好きに使って」
「……ああ。…………え?」
一瞬、思考が滑ったような感覚があった。その口振りに違和感を覚えて、シグルスはチケットから視線を上げる。そして、先程の一言を脳内で何度か巻き戻す。
「……オデット」
静かに名前を呼ぶと、彼女はテーブルを片付けていた手を止め、不思議そうにこちらを見上げた。話は終わったとばかりの様子に、嫌な予感がして、眉間に皺を寄せる。
「念の為に確認しておくが……僕が、君と映画に行くんだよな?」
「……え?」
オデットは、目を丸くした。その顔に珍しく虚を突かれたような表情が浮かぶ。滅多に見ない表情にシグルスはふと自分も今、似たような顔をしていたかもしれないな、と思った。そのまま問い詰めるように見つめれば、彼女は「ああ……ええと……」と歯切れの悪い声を出しながら視線を逸らす。
その反応を見て、嫌な予感は確信へと変わる。
――やはりな。
シグルスは深く、長いため息をついた。……まさか、この流れで誘われていなかったとは。思わず眉間を指で押さえて俯き、呆れ混じりの苦笑を漏らす。
「君ね……」
言いかけたが、言葉を飲み込み、代わりに探るように訊いた。
「……いや、もし君の都合も合わなかったという話なら、僕がこのチケットの譲り先を探しても構わないが。ちなみに、××日は忙しいのか?」
「……いいえ。特に予定はないわ」
「なら、僕と一緒に行くという発想がなかったのか?」
直球に、核心を突いた。
彼女は、沈黙した――雄弁は銀、沈黙は金とはよく言ったものだと彼は思う。
「……なかったんだな……」
妙な納得と軽い目眩を覚え、僅かに項垂れた。
――まあ、こういった感覚がズレているのは、今に始まったことじゃない……。
彼女の中ではペアチケットを持て余している→知人に声をかけてみる→都合が合えば使ってもらえばいい、と考えただけの話であり、その『知人』が目の前のシグルスであることにはなんら特別な意味はなかったのだろう。
チケットを差し出すまでの一連の自然な流れが、誘いとして成立していると勘違いしていたのは自分の方だ。そう落とし所を付けて、穏やかに取り繕おうとしたものの、シグルスは実際のところ、表情を無くしていた。
――そうだとしても、この流れで、誘われてないって、あるか……?
シグルスは手元のチケットを睨む。オデットの知人からオデットへ、そして自分へと当てもなく流されてきた哀れな紙切れを捉えていると、脳裏に小さな宇宙が展開されていくような不思議な気分に襲われる。
「……ああ、確かに……」
やがて、沈黙を保っていたオデットが、ぽつりと声を漏らす。
ようやく今になって、ペアチケットが手元にあるという事実と、誰かを誘って使えばいいという前提とが結びついたらしい。悪意があったわけではない。ただ、そもそも彼女の中には「誰かと行く」という発想自体が存在していなかったのだろう。
……実に、彼女らしい。
「まったく」
ため息混じりに呟くシグルスに、オデットが何気ない口調で問いかけた。
「じゃあ、一緒に行く?」
「行く」
食い気味に即答した。わずかな反省も見せず、分かったとでも言うようにあっさりと頷く彼女の姿が、どこか腹立たしい。いや、腹立たしいというよりは――。虚しい、が近いかもしれない。最初にチケットを渡された時は、誘われたのだと思い込んで浮き足立っていたくせに、このざまだ。
――まあ、結果的にはこうして誘ってもらえたわけだが。
オデットはシグルスの手からチケットを二枚まとめて抜き取り、そのうちの一枚を改めて差し出した。チケットを目を細めて一瞥し、彼はオデットを真っ向から見つめる。ぴんと指を一本立て、教え込むように言った。
「――いいか、オデット。今後もこういうことがあれば、まず僕を誘え」
「どうして?」
「僕らは『友人』だろう?」
我ながら無理がある理屈だとは思った。――だが、オデットはそれを特に不審がるでもなく、ただ小さく瞬きをしてから、あっさりと頷く。
「……ええ、別に構わないけれど」
――やっぱり、分かっていない。
拍子抜けするほどの無頓着さに、シグルスは内心肩を落とす。
もう長い付き合いだ。最近は、こういうところも彼女らしさなのだと割り切れるようになってきた。だからこそ、ちゃんと言い含めておかなければならない。
オデットがこういった状況で「誰かを誘ってもいい」と気付いた以上、次にまた同じような機会が訪れた時、本当に別の誰かを誘ってしまいかねない。それが誰であれ。その時、自分が先に声をかけられなかったという事実に、どれだけ歯噛みすることになるか。……考えるだけで気が滅入る。
「……忘れるなよ。君が誰かを誘う前に、まず僕を誘え」
シグルスは差し出されたチケットを受け取り、文節を一つ一つ区切るように念を押して強調する。オデットはやや面倒くさいなと言いたげに肩を竦め「分かったわ」とだけ返した。
*
シグルスとオデットが連れ立って出かける機会は以前に比べて格段に増え、今やそう珍しいことではなくなっていた。
二人の関係にそんな変化が訪れたのは、かつて映画のペアチケットを巡って一悶着が起こったあの日からだ。それには、このような経緯がある。
あの時、シグルスは「君が誰かを誘う前に、まず僕を誘え」――と、友人の立場からしてはやや強引に主張したが、オデットはそれを実にあっさりと聞き入れた。それ以来、彼女は同伴者が必要な用事が出来た際は、まず先に彼に声をかけるようになった。
その変化を、シグルスは内心かなり喜んだ。そして彼もまた、積極的に――時には「身内から譲られた」などともっともらしい理由を添えて、実際には自らで用意した招待チケットを手に彼女を誘うようになった。
映画に、展覧会、コンサート、あるいは格式あるレストラン――。
オデットはどうしても予定が合わない場合を除いて、大抵は二つ返事でその誘いに応じた。……というのも、彼女はたいがい多くの時間を持て余していたし、友人であるシグルスが「困っている」と言うのであれば、手を貸すことにもさほど抵抗を感じなかったからだ。
この日もまた、そんな日々の延長線上にある一日だった。今回はシグルスからの誘いで、観劇のチケットが一枚余っているから付き合って欲しいだとかなんとか、そんな話だった。
二人は休日の午後に待ち合わせて、まずはティールームで軽くお茶を楽しんだ。そして、時間を見つつ開演に合わせて少し早めに劇場へ向かおうと店を後にし――、その道すがらちょっとしたアクシデントに見舞われた。
これはその、不運な休日の話である。
セント・マーティンズ・レーンの石畳を並んで歩いていた途中で、オデットが突然足を止めた。次の一歩を踏み出そうとしていた体勢が、わずかに崩れる。ぱきん、と乾いた軽い音に、足元に広がる軽い違和感。すぐに何が起きたかを察した。片足を引きずるようにして不自然に立ち止まった彼女を、シグルスが訝しげに振り返る。
「……どうした? 足でも捻ったのか」
オデットは僅かに表情を曇らせて足元を見やり、予想通りの現実を確かめた。
やがて、小さくため息を一つ吐く。
「……ヒールが折れただけよ」
シグルスは歩み寄り、足元を一瞥する。言葉どおり、右足のヒールが軸の根元から斜めに折れていた。彼は心配そうに手を差し出しながら、オデットの顔を覗き込むように訊ねる。
「怪我は?」
「大丈夫。少し躓いただけ。……それにしても、ついてないわね。今日は」
オデットはそう返しながら、無意識のうちに支えは不要だと言うように、シグルスに対して軽く手を振った。
ヒールが折れたのは、舗装の甘い石畳の隙間に先端が入り込んだせいだ。それ自体は珍しいことではないし、気を付けて歩いていたつもりだったが、刺さった時にうまく抜けなかったのだろう。偶にはこういうこともある。……ただ、間は悪い。
踵を少し持ち上げてバランスを取りつつ、オデットは考えた。
――靴は、もうまともに歩ける状態ではない。観劇の開演時間まではまだ余裕があるが、このままでは劇場に辿り着くのも一苦労だろう。気になって集中できないかもしれない。どの道、この状態で予定を強行するのは無理がある。……それならいっそ同行は諦めて、シグルスだけでも観に行ってもらった方がいい。それから、自分はタクシーを拾って帰宅した方が――そう思い付くと、彼女の心は自然な流れで帰る方向へと傾いていく。
その隣で様子を伺っていたシグルスが懐から携帯を取り出し、素早く何かを調べ出した。オデットが何かを言い出す前に、彼は即座に口を開く。
「……いや、君はついてる」
意外な言葉にオデットが顔を上げた。
シグルスは画面を見ながら、言葉を続ける。
「ちょうど靴屋がすぐ近くにある。数分も歩かずに着くはずだ――新調すればいい」
「……でも、遅れてしまうかもしれないわ」
「大丈夫、まだ間に合うさ。靴をゆっくり選んで履き替える時間くらいある」
そう言って携帯をしまうと、オデットの方へ肘を軽く曲げ、歩行の支えとなれるように腕を差し出す。
「そのままでは歩きにくいだろう。……ほら、掴まれ」
唐突な申し出に、オデットは一瞬明らかな戸惑いを見せた。葛藤に苛まれるように眉を僅かに寄せたが、結果的に彼女は「この状況においては素直に腕を借りておくほうが懸命だ」と判断したのだろう。
「……ありがとう」
オデットは目を伏せるように一度だけ瞬きをして、小さく息を吐いた。そして差し出された腕に、そっと手を添える。
「――じゃあ、お言葉に甘えて」
どこか申し訳なさそうに囁かれた言葉を聞いたシグルスの表情に、僅かな安堵の色が滲む。
――実のところ、彼にとって観劇などもはやどうでもよかった。こういう状況において、オデットがあっさりと「今日はやめておきましょう」と言い出すことも、彼は知っている。
シグルスとしても、それで異論はなかった。このまま彼女を家まで送り届けて、ついでにもう少し、茶の一杯でも居座り、軽口を交わしてからそのまま帰路に着く。それだけでも、今日もいい一日だったと締めくくるに十分だと思えただろう。彼女と過ごす時間に変わりはないのだから、彼にとってはそれでもよかった……。
――だが、彼女にとっては別だ。
シグルスが彼女の都合に合わせて予定を変え、共に残ろうとすることをオデットは良しとはしない――。それが分かっていたから、自分から「帰ろう」と言い出すことが出来なかった。その代わりに、観劇という予定を諦めずに済む方法を提案した。彼女のプライドを保ったまま、一緒に居られる道を選んだ。
その方が、二人にとってより有益だと思ったのだ。
一声かけて、シグルスは歩き出す。歩幅を調整し、常に足元を気遣うように慎重に、ペースを保って歩みを進める。シグルスに寄りかかりながら歩くオデットが、ふっと笑い声をこぼした。
「……そこまで気を遣わなくていいわ」
シグルスには苦笑交じりのその声色が、ひどく柔らかなものに聞こえた。
……まるで、心から気を許してくれているのだと勘違いしそうなほどに。
ドアベルの小さな音と共に二人が足を踏み入れた店内には、柔らかな革と微かな木材の香りが漂っていた。閑静な街角にひっそりと佇んでいたブティックにしては、質の良い品揃えであることが一目でわかる。
シグルスは店内を軽く見渡して、ショーウィンドウの近くに置かれていた一脚の椅子の方へとオデットを連れて行った。
「――ここに座って、少し待っていてくれ」
オデットは何も言わずに頷きを返して、椅子へと腰を下ろす。それからそっと上体を曲げ、足を軽く傾けてヒールが折れた方の靴を丁寧に抜き取っていた。靴の状態を確認するように眺めている彼女の姿を横目に、シグルスはゆっくりと店内を見て歩く。……ちょうどその時、カウンターの奥から年季の入った仕立て屋然とした風貌の老店主が顔を覗かせた。シグルスは軽く顎を引いて挨拶を返す。店主は皺の刻まれた顔に人の良さそうな笑みを浮かべた。
「いらっしゃいませ。何をお探しで?」
「婦人靴をひとつ。連れの靴が壊れてしまってね。代わりになるものを探している」
「それはそれは、お気の毒に。お怪我はなかったですか?」
「ああ、大丈夫だ。ありがとう」
「それなら良かった。……よろしければ、こちらでいくつかお好みに合わせてご提案いたしましょうか」
店主の気遣いには感謝しながらも、シグルスは小さく首を横に振って返す。
「いや――彼女に似合いそうなものを、僕が選びたい。少し店内を見させてもらうよ」
「かしこまりました。婦人靴はあちらの棚に揃えております。どうぞ、ごゆっくりご覧くださいませ」
店主は物腰柔らかにそう言って、店内の棚を手で示した。
促されるまま、シグルスは婦人靴の棚へと歩み寄る。控えめな店構えとは裏腹に棚には鮮やかな装飾が施されたパンプスから、歩きやすさを重視したローヒール、洗練された革製のものまで、一定の質を保った靴が整然と並べられていた。婦人靴専門の店というわけではなさそうだが、代わりを探すには十分すぎる品揃えで、店主のこだわりが随所に感じられる。
……オデットの足には、どんな靴が似合うだろう。歩きやすくて、見た目にも品があり、この場限りの代替品としてではなく――彼女自身が気に入って、この先も長く使ってもらえそうなものがいい。そして、何より自分が「彼女に贈りたい」と思えるような靴を――……。
シグルスは気になったいくつかの靴を棚から手に取ると、角度をつけて外観を眺め、革の質感や縫い目に指先を滑らせながら、じっくりと選び始めた。
ふと気になって、オデットの方を見る。彼女は椅子に腰掛けたまま、少し退屈そうにショーウィンドウの外をぼんやりと眺めていた。
その横顔を見て、シグルスは静かに息を吐く。
もし今日のようなアクシデントに、彼女がひとりで見舞われていたのなら――。おそらく誰に頼らずとも自分で靴屋を見つけ、迷うことなく靴を選び履き替えて、また何事もなかったように歩き出していたことだろう。だからこそ、今こうして全てをシグルスに任せて、素直に椅子に座って待っているオデットの姿は、どこか新鮮で……。より、愛おしいものに見える。
もちろん、それは喜ばしいことだ。シグルスにとって「オデットのことを思い浮かべながら何かを選ぶ」という時間は、常に心地よいものだった。……長らく、彼と彼女の関係はあくまでも『友人』という枠の中にあったため、彼がこれまで選んで贈ってきたものといえば、紅茶の茶葉やジャム、焼き菓子といった消耗品ばかりだ。
だから、こうして彼女のために靴を選ぶことができる機会が訪れたことは、災難に見舞われた彼女には、少しばかり後ろめたさを覚えつつも――本当に、幸運なことだと感じていた。
オデットが視線を店内へと戻すのが見えた。シグルスもまた棚へと向き直る。その時、靴棚の端に飾られていた一足へと目が奪われた。
滑らかで深みのあるダヴグレーの革。華奢な作りのストラップに小さな銀のバックルが静かに輝いた、程よいミドルヒールのアンクルストラップパンプス。手に取って、革の柔らかさやヒールの高さを確かめながらしばらく見つめていると、まるで見計らうように背後から声がかかる。
「――お決まりですか?」
振り返ると、店主がにこにことした表情で後ろ手を組んで立っていた。シグルスが手にしている靴へと目を向けつつ、店主が童話を語り聞かせるような穏やかな口調で続ける。
「そのモデルは今季の限定品でしてね。裏地には柔らかい素材を使っておりますから、長時間履いても足への負担が少ないかと。お嬢様のような細身のお足にもきっとよくお似合いになりますよ」
「なら――……これにしよう。僕も、彼女によく似合うと思う」
「かしこまりました。サイズを確認いたしますので、お連れ様のお足元を少し拝見してもよろしいですかな?」
シグルスは店主と並んでオデットの元へと歩み寄った。彼が「靴のサイズは分かるか?」と問いかけたところ、椅子に座ったまま彼女は軽く顔を上げて端的にサイズを告げる。店主は彼女の足元に視線を落とし、深く頷いてみせた。それから「承知しました。すぐにご用意いたしますね」と言い残して、店の奥へと姿を消す。
その背中を視線だけで見送ったオデットが、静かに口を開いた。
「――代わりは見つかったの?」
「ああ。……聞きそびれていたが、僕が選んだもので構わないか?」
「あなたが選んだの――?」
思わず問い返したオデットが、やや意外そうな目を向ける。店主に任せて適当に見繕ってもらうのだろうと考えていたのだ。シグルスが静かに頷きを返すのを見て、彼女は「……まあ、お任せするわ」とだけ答え、視線を正面へ戻した。特別な期待も不安も抱いていない。靴選びを誰に任せても同じか――とでもいうような無関心に近い、いつもの表情だった。
「とりあえず、試してみてくれ。もし履き心地が悪ければ他のを選ぶ」
「別に、どんなものでも構わないわ。所詮、間に合わせだもの」
「いや」
シグルスはその言葉を簡潔に否定し、はっきりと言葉を続ける。
「――きっと、君は気に入る」
再び顔を上げたオデットが訝しむように彼を見つめる。
彼はその視線を正面から受け止め、口角を緩く引き上げた。
シグルスはカウンターの方へ向かい、店主から靴を受け取って戻ってきた。
試着のために靴を受け取ろうと手を伸ばしかけたオデットの前で、彼は何も言わずに膝を折り、その場に跪いた。驚きに目を見開いたオデットは、椅子に座る自分よりも更に低い位置へ下りたその顔に、眉を寄せて鋭い視線を向ける。
しかし、視線は交わらず、片膝をつく彼の長いコートの裾だけが床に広がっていた。
「……何をしてるの、あなた。コートが汚れるわよ」
「気にしなくていい」
「……それは本来、お店の人の仕事でしょう?」
「構わない。僕が自分の意思でやっているんだ」
呆れを含ませた声を向けても、シグルスはまるで気にする様子を見せなかった。オデットは一瞬、息を止める。彼の顔には冗談の気配ひとつなく、ただ静かな意志だけがある。そのまま差し出された手のひらに、彼女は一拍おいてから視線を落とした。
「――足を」
その一声で、譲る気が一切ないのがはっきりと分かる。これはシグルスがたまに見せる面倒なところだ。この場で口論するだけ時間の無駄である――。そう考えて、オデットは小さくため息を吐き、大人しく片足を差し出した。
足をシグルスの手のひらに預けた時、彼女は気付く。
その手が、驚くほど丁寧に、自分の足に触れていることに。
まるで繊細なガラス細工を取り扱っているような手つきで、細い足首をそっと支えながら、シグルスは自身が選んだ靴をゆっくりと履かせていく。指先の動きは慎重で、丁寧で、祈るようですらあった。高級ブティックの店員であっても、試着の際にここまで仰々しい手つきで触れる人間はいないだろう。けれど、その滑稽さすら愛おしく感じるほど、彼の所作は呆れるほどに誠実だった。
――まったく、何を考えているんだか……。
オデットは目を細め、膝元に跪く男を黙って見下ろしていた。足首でストラップの金具がカチリと小さな音を立てると、シグルスの指が名残惜しげに彼女の足首から離れる。着せ替えがやっと終わった――右足は。
「……そんなに丁重にされると、かえって落ち着かないわ」
まだ続ける気なの、と言外に含ませて呆れ混じりに伝えると、シグルスがふっと短く笑った。
「雑には扱えない相手だと思ってるんだ」
そう言いながら再び差し出された手のひらに、オデットはもう一度ため息を吐いて、素直に左足を差し出した。今さら水を差すのも、なんだか悪い気がしたからだ。
同じように靴を履かされ、床へと下ろされた両足を見て、オデットは確かめるように足首を動かしてみる。ぴたりと収まった踵まで滑らかに馴染み、歩く前から分かるほど、履き心地が良い。
「――どうだ?」
「履きやすいわ。足にもよく馴染むし、思っていたよりも軽い……」
「当然だ。気に入ったかね?」
オデットは座ったまま身を屈め、そっと指先で靴の表面を撫でた。滑らかな革の感触、形と色合いを確かめるように眺め、やがて微笑んだ。
「――ええ、とても」
「君が気に入ったのなら、それを履いて行こう。代金はもう支払ってある」
「それは駄目よ。私はただ、壊れた靴の代わりを――」
「だからこそ、僕が選んだ。それで問題ないだろう?」
「…………それなら、借りにしておくわ」
そう言って立ち上がったオデットは、目の前の男がまだ跪いたままでいることに気付く。彼女は僅かに眉を顰めた。
「もう立っていいわよ」
そう促してみても、シグルスは動こうとしない。彼はただ、オデットの足を飾る靴をじっと見つめ、そしてゆっくりと視線を上げる。彼女の顔を捉えると、表情を緩めた。
「君に似合うと思って選んだんだ。……よく似合っている」
その声には穏やかで、けれど喜びを隠せないというような響きが滲んでいた。まだ跪いたまま、オデットを見上げるシグルスの顔には少年のような笑顔が浮かんでいる。笑みは柔らかく、青灰色の目は、まるで宝物でも見つけたかのように細められていた。
オデットは返す言葉をすぐには見つけられなかった。黙って、その視線を受け止める。シグルスの瞳の奥には、まだ言葉にされていない何かが仕舞われている。
その感情は、博愛でも友愛でもない。この瞬間、オデットははっきりと気付いた。
彼が自分を『友人』としてではなく、『女性』として見ていることに。
「……」
オデットは目の前の男を見下ろした。長いまつ毛が影を落とし、静かな視線が彼を射抜く。やがて、一瞬だけ目を伏せかけ――それでも逸らすことはなく、ふっと短く息を吐いた。ほんの少し、口元を緩めて笑う。
「……ええ、確かに。あなたの選んだ靴は悪くないわ。ありがとう、シグルス」
丁寧に整えた言葉の奥には、僅かな揺れがあった。動揺を取り繕うように、今度は彼女の方から『親愛なる友人』へと手を差し出す。
「だから、いい加減に立ちなさい」
シグルスはただ、嬉しそうに微笑みを深めた。まるで、そんな言葉だけで十分だと言わんばかりに。そして、差し出されたオデットの手を頼るように取ると、ほとんど力を借りずに軽やかに立ち上がる。彼は視線を落とし、また彼女の足元を見た。
――この靴を贈ったことを。今日の小さな災難の代わりに、オデットが覚えていてくれますように。
そんな祈るような願いを、オデットは知らない。……そして、彼女がどこか浮かない表情をしていることにも、この時のシグルスは気付かなかった。
いつものようにノックもせず、声だけかけてシグルスは家に上がった。彼が訪ねる時、彼女は大抵リビングにいる。そう考えて真っ先にリビングを覗き込んだが、今日はその姿が見当たらない――とはいえ、玄関が施錠されていなかった以上、留守ということは考えにくかった。いくら彼女が、これほど自由に家に上がり込むのを許しているとはいえ、鍵もかけずに出かけるほど不用心な性格ではない。
首を捻りながら廊下を振り返り、彼女の名を呼びかける。すると、奥の部屋から返事が返ってきた。その声を頼りに奥へ向かい、軽くノックをしてから扉を開ける。
すると、そこには鋏を手にしたオデットがいた。ダイニングテーブルの上にはほどかれた花束といくつかの花瓶が並べられていて、彼女は花の茎を丁寧に整えながら、順に花瓶へと生けていた。
「いらっしゃい」
オデットは手元の花を見下ろしたまま、ふわりと笑みを浮かべる。なんとなく、いつもより機嫌が良さそうに見えた。シグルスはそれに軽く返事を返して、彼女の傍らに立ち、テーブルに並ぶ花々へと視線を落とす。どれも見栄えが良く華やかで、瑞々しく咲いていた。部屋の空気に混じる微かな草花の香りを嗅ぎ取って、彼は目を細める。
「……綺麗だな」
「上等な花ばかりでしょう。切り花にしてしまったのが惜しいくらい」
「買ったのか?」
「いいえ、貰い物。少し前に、お茶をしに伺った訪問先のご婦人から頂いたの。庭で咲いたばかりだから、お土産代わりにって」
「なるほど。相当な腕前と見える」
「ええ、とても素敵なお庭だったわ。小さな温室もあって、手入れが隅々まで行き届いてた。薔薇も見事だったけれど、……今の時期は芍薬が主役で丁度いいから、って。私にはもったいないくらいの贈り物よ」
そう話しながら、ぱちん、と最後の一本を切り落とした。その花を花瓶に挿し終えると、オデットは鋏をそっとテーブルに置く。この間、彼女はずっと貰い物の上等な花々を見つめていて、シグルスには見向きもしなかった。
よほど、花を贈られたことが嬉しかったらしい。花が嫌いな英国人などいない――とまでは言わないが、彼女もまたこの国で生きる大抵の人々と同様に花を愛でることを好む人なのだ、と彼はその横顔を眺めながら考えていた。
「そういえば――」
オデットがふと思い出したように呟き、ようやくシグルスの方を見上げる。
「――映画は好き?」
「まあ、人並みには……。なぜ急にそんなことを?」
「知人からチケットを貰ったのよ。予定が合わなくなったらしくて。××日なんだけど、もし暇なら」
「××日か……」
シグルスはその日付を繰り返し呟きながら、視線を少し上に向けて考える。
平日だ。当然、仕事がある。そもそも彼は週に二、三度――時にそれ以上の頻度でこの家に顔を出しているが、それは決して暇だからではない。むしろ、その逆だ。
どちらかと言えばシグルスは多忙の部類であり、全ての予定を調整して、時には無理をしてでも時間を捻出していた。そのせいか、彼女からうっすらと暇人扱いされている気がするのは多少不本意で……と、ほんの数秒の間に様々な考えが巡る。
その上で「要件による……」と口にしかけたが、すぐに考え直して、訂正した。
「――いや、暇だ。」
この流れは普通に考えて「一緒に映画を観に行きませんか?」という遠回しなお誘いに違いない。とっさにそう判断した。それを無下にする理由は、シグルスにはない。むしろ、願ってもない話だ。こんな機会をみすみす逃すつもりは、絶対にない。内心やや浮き足立ちながらも、表情には出さず、努めて自然に応じたつもりだった。
「よかった。じゃあこれを、あなたに」
「……。ありがとう」
そう言ってオデットが差し出したのは、小洒落た上質な紙で作られた封筒だ。受け取って中を確認すると、思ったとおり映画の鑑賞チケットが二枚入っていた。チケットに記された上映日と時間、劇場名とタイトルへと目を走らせて、シグルスは小さく息を吐く。
「ああ、この劇場でレイトショーの回か。……それなら仕事終わりでも十分間に合いそうだな。近くで待ち合わせれば問題ない」
「ペアチケットだったから、相手がいなくて行くか迷ってたんだけど、無駄にならなくてよかったわ。好きに使って」
「……ああ。…………え?」
一瞬、思考が滑ったような感覚があった。その口振りに違和感を覚えて、シグルスはチケットから視線を上げる。そして、先程の一言を脳内で何度か巻き戻す。
「……オデット」
静かに名前を呼ぶと、彼女はテーブルを片付けていた手を止め、不思議そうにこちらを見上げた。話は終わったとばかりの様子に、嫌な予感がして、眉間に皺を寄せる。
「念の為に確認しておくが……僕が、君と映画に行くんだよな?」
「……え?」
オデットは、目を丸くした。その顔に珍しく虚を突かれたような表情が浮かぶ。滅多に見ない表情にシグルスはふと自分も今、似たような顔をしていたかもしれないな、と思った。そのまま問い詰めるように見つめれば、彼女は「ああ……ええと……」と歯切れの悪い声を出しながら視線を逸らす。
その反応を見て、嫌な予感は確信へと変わる。
――やはりな。
シグルスは深く、長いため息をついた。……まさか、この流れで誘われていなかったとは。思わず眉間を指で押さえて俯き、呆れ混じりの苦笑を漏らす。
「君ね……」
言いかけたが、言葉を飲み込み、代わりに探るように訊いた。
「……いや、もし君の都合も合わなかったという話なら、僕がこのチケットの譲り先を探しても構わないが。ちなみに、××日は忙しいのか?」
「……いいえ。特に予定はないわ」
「なら、僕と一緒に行くという発想がなかったのか?」
直球に、核心を突いた。
彼女は、沈黙した――雄弁は銀、沈黙は金とはよく言ったものだと彼は思う。
「……なかったんだな……」
妙な納得と軽い目眩を覚え、僅かに項垂れた。
――まあ、こういった感覚がズレているのは、今に始まったことじゃない……。
彼女の中ではペアチケットを持て余している→知人に声をかけてみる→都合が合えば使ってもらえばいい、と考えただけの話であり、その『知人』が目の前のシグルスであることにはなんら特別な意味はなかったのだろう。
チケットを差し出すまでの一連の自然な流れが、誘いとして成立していると勘違いしていたのは自分の方だ。そう落とし所を付けて、穏やかに取り繕おうとしたものの、シグルスは実際のところ、表情を無くしていた。
――そうだとしても、この流れで、誘われてないって、あるか……?
シグルスは手元のチケットを睨む。オデットの知人からオデットへ、そして自分へと当てもなく流されてきた哀れな紙切れを捉えていると、脳裏に小さな宇宙が展開されていくような不思議な気分に襲われる。
「……ああ、確かに……」
やがて、沈黙を保っていたオデットが、ぽつりと声を漏らす。
ようやく今になって、ペアチケットが手元にあるという事実と、誰かを誘って使えばいいという前提とが結びついたらしい。悪意があったわけではない。ただ、そもそも彼女の中には「誰かと行く」という発想自体が存在していなかったのだろう。
……実に、彼女らしい。
「まったく」
ため息混じりに呟くシグルスに、オデットが何気ない口調で問いかけた。
「じゃあ、一緒に行く?」
「行く」
食い気味に即答した。わずかな反省も見せず、分かったとでも言うようにあっさりと頷く彼女の姿が、どこか腹立たしい。いや、腹立たしいというよりは――。虚しい、が近いかもしれない。最初にチケットを渡された時は、誘われたのだと思い込んで浮き足立っていたくせに、このざまだ。
――まあ、結果的にはこうして誘ってもらえたわけだが。
オデットはシグルスの手からチケットを二枚まとめて抜き取り、そのうちの一枚を改めて差し出した。チケットを目を細めて一瞥し、彼はオデットを真っ向から見つめる。ぴんと指を一本立て、教え込むように言った。
「――いいか、オデット。今後もこういうことがあれば、まず僕を誘え」
「どうして?」
「僕らは『友人』だろう?」
我ながら無理がある理屈だとは思った。――だが、オデットはそれを特に不審がるでもなく、ただ小さく瞬きをしてから、あっさりと頷く。
「……ええ、別に構わないけれど」
――やっぱり、分かっていない。
拍子抜けするほどの無頓着さに、シグルスは内心肩を落とす。
もう長い付き合いだ。最近は、こういうところも彼女らしさなのだと割り切れるようになってきた。だからこそ、ちゃんと言い含めておかなければならない。
オデットがこういった状況で「誰かを誘ってもいい」と気付いた以上、次にまた同じような機会が訪れた時、本当に別の誰かを誘ってしまいかねない。それが誰であれ。その時、自分が先に声をかけられなかったという事実に、どれだけ歯噛みすることになるか。……考えるだけで気が滅入る。
「……忘れるなよ。君が誰かを誘う前に、まず僕を誘え」
シグルスは差し出されたチケットを受け取り、文節を一つ一つ区切るように念を押して強調する。オデットはやや面倒くさいなと言いたげに肩を竦め「分かったわ」とだけ返した。
*
シグルスとオデットが連れ立って出かける機会は以前に比べて格段に増え、今やそう珍しいことではなくなっていた。
二人の関係にそんな変化が訪れたのは、かつて映画のペアチケットを巡って一悶着が起こったあの日からだ。それには、このような経緯がある。
あの時、シグルスは「君が誰かを誘う前に、まず僕を誘え」――と、友人の立場からしてはやや強引に主張したが、オデットはそれを実にあっさりと聞き入れた。それ以来、彼女は同伴者が必要な用事が出来た際は、まず先に彼に声をかけるようになった。
その変化を、シグルスは内心かなり喜んだ。そして彼もまた、積極的に――時には「身内から譲られた」などともっともらしい理由を添えて、実際には自らで用意した招待チケットを手に彼女を誘うようになった。
映画に、展覧会、コンサート、あるいは格式あるレストラン――。
オデットはどうしても予定が合わない場合を除いて、大抵は二つ返事でその誘いに応じた。……というのも、彼女はたいがい多くの時間を持て余していたし、友人であるシグルスが「困っている」と言うのであれば、手を貸すことにもさほど抵抗を感じなかったからだ。
この日もまた、そんな日々の延長線上にある一日だった。今回はシグルスからの誘いで、観劇のチケットが一枚余っているから付き合って欲しいだとかなんとか、そんな話だった。
二人は休日の午後に待ち合わせて、まずはティールームで軽くお茶を楽しんだ。そして、時間を見つつ開演に合わせて少し早めに劇場へ向かおうと店を後にし――、その道すがらちょっとしたアクシデントに見舞われた。
これはその、不運な休日の話である。
セント・マーティンズ・レーンの石畳を並んで歩いていた途中で、オデットが突然足を止めた。次の一歩を踏み出そうとしていた体勢が、わずかに崩れる。ぱきん、と乾いた軽い音に、足元に広がる軽い違和感。すぐに何が起きたかを察した。片足を引きずるようにして不自然に立ち止まった彼女を、シグルスが訝しげに振り返る。
「……どうした? 足でも捻ったのか」
オデットは僅かに表情を曇らせて足元を見やり、予想通りの現実を確かめた。
やがて、小さくため息を一つ吐く。
「……ヒールが折れただけよ」
シグルスは歩み寄り、足元を一瞥する。言葉どおり、右足のヒールが軸の根元から斜めに折れていた。彼は心配そうに手を差し出しながら、オデットの顔を覗き込むように訊ねる。
「怪我は?」
「大丈夫。少し躓いただけ。……それにしても、ついてないわね。今日は」
オデットはそう返しながら、無意識のうちに支えは不要だと言うように、シグルスに対して軽く手を振った。
ヒールが折れたのは、舗装の甘い石畳の隙間に先端が入り込んだせいだ。それ自体は珍しいことではないし、気を付けて歩いていたつもりだったが、刺さった時にうまく抜けなかったのだろう。偶にはこういうこともある。……ただ、間は悪い。
踵を少し持ち上げてバランスを取りつつ、オデットは考えた。
――靴は、もうまともに歩ける状態ではない。観劇の開演時間まではまだ余裕があるが、このままでは劇場に辿り着くのも一苦労だろう。気になって集中できないかもしれない。どの道、この状態で予定を強行するのは無理がある。……それならいっそ同行は諦めて、シグルスだけでも観に行ってもらった方がいい。それから、自分はタクシーを拾って帰宅した方が――そう思い付くと、彼女の心は自然な流れで帰る方向へと傾いていく。
その隣で様子を伺っていたシグルスが懐から携帯を取り出し、素早く何かを調べ出した。オデットが何かを言い出す前に、彼は即座に口を開く。
「……いや、君はついてる」
意外な言葉にオデットが顔を上げた。
シグルスは画面を見ながら、言葉を続ける。
「ちょうど靴屋がすぐ近くにある。数分も歩かずに着くはずだ――新調すればいい」
「……でも、遅れてしまうかもしれないわ」
「大丈夫、まだ間に合うさ。靴をゆっくり選んで履き替える時間くらいある」
そう言って携帯をしまうと、オデットの方へ肘を軽く曲げ、歩行の支えとなれるように腕を差し出す。
「そのままでは歩きにくいだろう。……ほら、掴まれ」
唐突な申し出に、オデットは一瞬明らかな戸惑いを見せた。葛藤に苛まれるように眉を僅かに寄せたが、結果的に彼女は「この状況においては素直に腕を借りておくほうが懸命だ」と判断したのだろう。
「……ありがとう」
オデットは目を伏せるように一度だけ瞬きをして、小さく息を吐いた。そして差し出された腕に、そっと手を添える。
「――じゃあ、お言葉に甘えて」
どこか申し訳なさそうに囁かれた言葉を聞いたシグルスの表情に、僅かな安堵の色が滲む。
――実のところ、彼にとって観劇などもはやどうでもよかった。こういう状況において、オデットがあっさりと「今日はやめておきましょう」と言い出すことも、彼は知っている。
シグルスとしても、それで異論はなかった。このまま彼女を家まで送り届けて、ついでにもう少し、茶の一杯でも居座り、軽口を交わしてからそのまま帰路に着く。それだけでも、今日もいい一日だったと締めくくるに十分だと思えただろう。彼女と過ごす時間に変わりはないのだから、彼にとってはそれでもよかった……。
――だが、彼女にとっては別だ。
シグルスが彼女の都合に合わせて予定を変え、共に残ろうとすることをオデットは良しとはしない――。それが分かっていたから、自分から「帰ろう」と言い出すことが出来なかった。その代わりに、観劇という予定を諦めずに済む方法を提案した。彼女のプライドを保ったまま、一緒に居られる道を選んだ。
その方が、二人にとってより有益だと思ったのだ。
一声かけて、シグルスは歩き出す。歩幅を調整し、常に足元を気遣うように慎重に、ペースを保って歩みを進める。シグルスに寄りかかりながら歩くオデットが、ふっと笑い声をこぼした。
「……そこまで気を遣わなくていいわ」
シグルスには苦笑交じりのその声色が、ひどく柔らかなものに聞こえた。
……まるで、心から気を許してくれているのだと勘違いしそうなほどに。
ドアベルの小さな音と共に二人が足を踏み入れた店内には、柔らかな革と微かな木材の香りが漂っていた。閑静な街角にひっそりと佇んでいたブティックにしては、質の良い品揃えであることが一目でわかる。
シグルスは店内を軽く見渡して、ショーウィンドウの近くに置かれていた一脚の椅子の方へとオデットを連れて行った。
「――ここに座って、少し待っていてくれ」
オデットは何も言わずに頷きを返して、椅子へと腰を下ろす。それからそっと上体を曲げ、足を軽く傾けてヒールが折れた方の靴を丁寧に抜き取っていた。靴の状態を確認するように眺めている彼女の姿を横目に、シグルスはゆっくりと店内を見て歩く。……ちょうどその時、カウンターの奥から年季の入った仕立て屋然とした風貌の老店主が顔を覗かせた。シグルスは軽く顎を引いて挨拶を返す。店主は皺の刻まれた顔に人の良さそうな笑みを浮かべた。
「いらっしゃいませ。何をお探しで?」
「婦人靴をひとつ。連れの靴が壊れてしまってね。代わりになるものを探している」
「それはそれは、お気の毒に。お怪我はなかったですか?」
「ああ、大丈夫だ。ありがとう」
「それなら良かった。……よろしければ、こちらでいくつかお好みに合わせてご提案いたしましょうか」
店主の気遣いには感謝しながらも、シグルスは小さく首を横に振って返す。
「いや――彼女に似合いそうなものを、僕が選びたい。少し店内を見させてもらうよ」
「かしこまりました。婦人靴はあちらの棚に揃えております。どうぞ、ごゆっくりご覧くださいませ」
店主は物腰柔らかにそう言って、店内の棚を手で示した。
促されるまま、シグルスは婦人靴の棚へと歩み寄る。控えめな店構えとは裏腹に棚には鮮やかな装飾が施されたパンプスから、歩きやすさを重視したローヒール、洗練された革製のものまで、一定の質を保った靴が整然と並べられていた。婦人靴専門の店というわけではなさそうだが、代わりを探すには十分すぎる品揃えで、店主のこだわりが随所に感じられる。
……オデットの足には、どんな靴が似合うだろう。歩きやすくて、見た目にも品があり、この場限りの代替品としてではなく――彼女自身が気に入って、この先も長く使ってもらえそうなものがいい。そして、何より自分が「彼女に贈りたい」と思えるような靴を――……。
シグルスは気になったいくつかの靴を棚から手に取ると、角度をつけて外観を眺め、革の質感や縫い目に指先を滑らせながら、じっくりと選び始めた。
ふと気になって、オデットの方を見る。彼女は椅子に腰掛けたまま、少し退屈そうにショーウィンドウの外をぼんやりと眺めていた。
その横顔を見て、シグルスは静かに息を吐く。
もし今日のようなアクシデントに、彼女がひとりで見舞われていたのなら――。おそらく誰に頼らずとも自分で靴屋を見つけ、迷うことなく靴を選び履き替えて、また何事もなかったように歩き出していたことだろう。だからこそ、今こうして全てをシグルスに任せて、素直に椅子に座って待っているオデットの姿は、どこか新鮮で……。より、愛おしいものに見える。
もちろん、それは喜ばしいことだ。シグルスにとって「オデットのことを思い浮かべながら何かを選ぶ」という時間は、常に心地よいものだった。……長らく、彼と彼女の関係はあくまでも『友人』という枠の中にあったため、彼がこれまで選んで贈ってきたものといえば、紅茶の茶葉やジャム、焼き菓子といった消耗品ばかりだ。
だから、こうして彼女のために靴を選ぶことができる機会が訪れたことは、災難に見舞われた彼女には、少しばかり後ろめたさを覚えつつも――本当に、幸運なことだと感じていた。
オデットが視線を店内へと戻すのが見えた。シグルスもまた棚へと向き直る。その時、靴棚の端に飾られていた一足へと目が奪われた。
滑らかで深みのあるダヴグレーの革。華奢な作りのストラップに小さな銀のバックルが静かに輝いた、程よいミドルヒールのアンクルストラップパンプス。手に取って、革の柔らかさやヒールの高さを確かめながらしばらく見つめていると、まるで見計らうように背後から声がかかる。
「――お決まりですか?」
振り返ると、店主がにこにことした表情で後ろ手を組んで立っていた。シグルスが手にしている靴へと目を向けつつ、店主が童話を語り聞かせるような穏やかな口調で続ける。
「そのモデルは今季の限定品でしてね。裏地には柔らかい素材を使っておりますから、長時間履いても足への負担が少ないかと。お嬢様のような細身のお足にもきっとよくお似合いになりますよ」
「なら――……これにしよう。僕も、彼女によく似合うと思う」
「かしこまりました。サイズを確認いたしますので、お連れ様のお足元を少し拝見してもよろしいですかな?」
シグルスは店主と並んでオデットの元へと歩み寄った。彼が「靴のサイズは分かるか?」と問いかけたところ、椅子に座ったまま彼女は軽く顔を上げて端的にサイズを告げる。店主は彼女の足元に視線を落とし、深く頷いてみせた。それから「承知しました。すぐにご用意いたしますね」と言い残して、店の奥へと姿を消す。
その背中を視線だけで見送ったオデットが、静かに口を開いた。
「――代わりは見つかったの?」
「ああ。……聞きそびれていたが、僕が選んだもので構わないか?」
「あなたが選んだの――?」
思わず問い返したオデットが、やや意外そうな目を向ける。店主に任せて適当に見繕ってもらうのだろうと考えていたのだ。シグルスが静かに頷きを返すのを見て、彼女は「……まあ、お任せするわ」とだけ答え、視線を正面へ戻した。特別な期待も不安も抱いていない。靴選びを誰に任せても同じか――とでもいうような無関心に近い、いつもの表情だった。
「とりあえず、試してみてくれ。もし履き心地が悪ければ他のを選ぶ」
「別に、どんなものでも構わないわ。所詮、間に合わせだもの」
「いや」
シグルスはその言葉を簡潔に否定し、はっきりと言葉を続ける。
「――きっと、君は気に入る」
再び顔を上げたオデットが訝しむように彼を見つめる。
彼はその視線を正面から受け止め、口角を緩く引き上げた。
シグルスはカウンターの方へ向かい、店主から靴を受け取って戻ってきた。
試着のために靴を受け取ろうと手を伸ばしかけたオデットの前で、彼は何も言わずに膝を折り、その場に跪いた。驚きに目を見開いたオデットは、椅子に座る自分よりも更に低い位置へ下りたその顔に、眉を寄せて鋭い視線を向ける。
しかし、視線は交わらず、片膝をつく彼の長いコートの裾だけが床に広がっていた。
「……何をしてるの、あなた。コートが汚れるわよ」
「気にしなくていい」
「……それは本来、お店の人の仕事でしょう?」
「構わない。僕が自分の意思でやっているんだ」
呆れを含ませた声を向けても、シグルスはまるで気にする様子を見せなかった。オデットは一瞬、息を止める。彼の顔には冗談の気配ひとつなく、ただ静かな意志だけがある。そのまま差し出された手のひらに、彼女は一拍おいてから視線を落とした。
「――足を」
その一声で、譲る気が一切ないのがはっきりと分かる。これはシグルスがたまに見せる面倒なところだ。この場で口論するだけ時間の無駄である――。そう考えて、オデットは小さくため息を吐き、大人しく片足を差し出した。
足をシグルスの手のひらに預けた時、彼女は気付く。
その手が、驚くほど丁寧に、自分の足に触れていることに。
まるで繊細なガラス細工を取り扱っているような手つきで、細い足首をそっと支えながら、シグルスは自身が選んだ靴をゆっくりと履かせていく。指先の動きは慎重で、丁寧で、祈るようですらあった。高級ブティックの店員であっても、試着の際にここまで仰々しい手つきで触れる人間はいないだろう。けれど、その滑稽さすら愛おしく感じるほど、彼の所作は呆れるほどに誠実だった。
――まったく、何を考えているんだか……。
オデットは目を細め、膝元に跪く男を黙って見下ろしていた。足首でストラップの金具がカチリと小さな音を立てると、シグルスの指が名残惜しげに彼女の足首から離れる。着せ替えがやっと終わった――右足は。
「……そんなに丁重にされると、かえって落ち着かないわ」
まだ続ける気なの、と言外に含ませて呆れ混じりに伝えると、シグルスがふっと短く笑った。
「雑には扱えない相手だと思ってるんだ」
そう言いながら再び差し出された手のひらに、オデットはもう一度ため息を吐いて、素直に左足を差し出した。今さら水を差すのも、なんだか悪い気がしたからだ。
同じように靴を履かされ、床へと下ろされた両足を見て、オデットは確かめるように足首を動かしてみる。ぴたりと収まった踵まで滑らかに馴染み、歩く前から分かるほど、履き心地が良い。
「――どうだ?」
「履きやすいわ。足にもよく馴染むし、思っていたよりも軽い……」
「当然だ。気に入ったかね?」
オデットは座ったまま身を屈め、そっと指先で靴の表面を撫でた。滑らかな革の感触、形と色合いを確かめるように眺め、やがて微笑んだ。
「――ええ、とても」
「君が気に入ったのなら、それを履いて行こう。代金はもう支払ってある」
「それは駄目よ。私はただ、壊れた靴の代わりを――」
「だからこそ、僕が選んだ。それで問題ないだろう?」
「…………それなら、借りにしておくわ」
そう言って立ち上がったオデットは、目の前の男がまだ跪いたままでいることに気付く。彼女は僅かに眉を顰めた。
「もう立っていいわよ」
そう促してみても、シグルスは動こうとしない。彼はただ、オデットの足を飾る靴をじっと見つめ、そしてゆっくりと視線を上げる。彼女の顔を捉えると、表情を緩めた。
「君に似合うと思って選んだんだ。……よく似合っている」
その声には穏やかで、けれど喜びを隠せないというような響きが滲んでいた。まだ跪いたまま、オデットを見上げるシグルスの顔には少年のような笑顔が浮かんでいる。笑みは柔らかく、青灰色の目は、まるで宝物でも見つけたかのように細められていた。
オデットは返す言葉をすぐには見つけられなかった。黙って、その視線を受け止める。シグルスの瞳の奥には、まだ言葉にされていない何かが仕舞われている。
その感情は、博愛でも友愛でもない。この瞬間、オデットははっきりと気付いた。
彼が自分を『友人』としてではなく、『女性』として見ていることに。
「……」
オデットは目の前の男を見下ろした。長いまつ毛が影を落とし、静かな視線が彼を射抜く。やがて、一瞬だけ目を伏せかけ――それでも逸らすことはなく、ふっと短く息を吐いた。ほんの少し、口元を緩めて笑う。
「……ええ、確かに。あなたの選んだ靴は悪くないわ。ありがとう、シグルス」
丁寧に整えた言葉の奥には、僅かな揺れがあった。動揺を取り繕うように、今度は彼女の方から『親愛なる友人』へと手を差し出す。
「だから、いい加減に立ちなさい」
シグルスはただ、嬉しそうに微笑みを深めた。まるで、そんな言葉だけで十分だと言わんばかりに。そして、差し出されたオデットの手を頼るように取ると、ほとんど力を借りずに軽やかに立ち上がる。彼は視線を落とし、また彼女の足元を見た。
――この靴を贈ったことを。今日の小さな災難の代わりに、オデットが覚えていてくれますように。
そんな祈るような願いを、オデットは知らない。……そして、彼女がどこか浮かない表情をしていることにも、この時のシグルスは気付かなかった。