Blessings
夢小説設定
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
朝から降り続いていた霧雨が、午後にはようやく上がった。ロンドンの空は相変わらず鈍色の雲に覆われたままだったが、その隙間からはわずかに光が差してきている。そんな休日の午後、シグルスは手提げを片手にオデットの家の前に立っていた。
たまに、という言葉の定義がこれほどまでに曖昧だとは、自分でも思わなかった。
このところ、何かと理由をつけてはこの家に足を運んでいる。それは『たまに』という頻度をとうに超え、もはや頻繁に。新しい茶葉、珍しい菓子、話題の本――訪問の度に、必ず何かしらの土産を用意した。もちろんそれらは全て口実で、もっともらしい言い訳が必要だったというだけのことだ。
――別に、友人を気遣うのは、当然のことだろう。
そう思いたい一方で、その「当然」が今や自分の都合に沿った理屈になっていることも、認めざるを得ない。多忙な合間をぬってまで時間を捻出するのは、ただ彼女に会いたかったからだ。土産を選ぶのも、訪ねる理由を探すのも、すべて彼女のためのようでいて、実のところは自分のためだった。
……とはいえ、今日に至るまでオデットがシグルスの訪問を拒んだことは一度もない。少し前までは時折、「また来たのか?」というような視線を向けてくることはあったが、今では慣れてしまったのか、それすらもなくなった。
彼女は淡々と。しかし、確かに自分の存在を受け入れている。
それが、……シグルスにとっては、なによりも心地よかった。
静かに息を整え、ノッカーを鳴らす。少しの間を置いて扉が開き、オデットが姿を見せた。その表情に、訪問への驚きはない。すっかりと馴染んでしまった光景に、シグルスは少し苦笑する。
「あら、シグルス。今日はどうしたの?」
「散歩のついでに、友人の顔でも見ていこうかと思ってね」
すでに何度か使ってしまったありふれた言い訳を当然のように返した。オデットは呆れているように見えなくもない表情で小さく笑った。しかし、そのまま何も言わずに扉を押し開ける。
「――どうぞ、入って。お茶を淹れるわ」
彼女が踵を返して歩き出し、シグルスもその背を追って家の中へ足を踏み入れた。
品の良い額装画が控えめに飾られた廊下には、選び抜かれた家具や調度品が過度な装飾を排してなお、上品な格調を漂わせている。細部に至るまで目を凝らして見ても、埃ひとつ見つけることができない。以前、それを指摘した折に彼女は「習慣が抜けないから」と、どこか苦々しくも見える表情で言っていた。もはや勝手知ったるふうで、そこを抜け、通い慣れたリビングへと向かう。
室内には柔らかな陽光が差し込み、窓の外には、先ほどまでの霧雨の名残が光の粒となってきらめいていた。どこまでも穏やかで、静かな午後だった。
「今日は何をしていた?」
「手紙の整理を少し、あとは読書ね。いつも通り変わりないわ」
「相変わらずだな。……ああ、これを」
「……今日は何を持ってきたの?」
オデットの問いに、シグルスは手提げから包みを取り出す。
「チョコレートだ。茶請けにも、丁度いいかと思ってね。ビターとオレンジピールが入ったやつを選んだ。この前に君が気に入ったと言っていた店の前をたまたま通りがかって――いや、」
口をついて出た説明が何となく言い訳めいて聞こえた気がして、シグルスは曖昧に言葉の終わりを濁した。口実めいた振る舞いの裏にあるものを、必要以上に暴いてしまう気がしたからだ。オデットは特にそれを問いただすこともなく、ただ「そう」と穏やかに笑いながら包みを受け取る。
「ありがとう。一緒に頂きましょうか。でも……以前も言ったけど、そんなに気を遣わなくてもいいのよ」
「気にするな。僕が手ぶらで訪ねるのはどうにも落ち着かないというだけだ」
「相変わらず、変なところは几帳面ね」
オデットは肩を竦めながら、慣れた動作でティーセットの準備に取りかかる。その背中はあまりにも無防備で、その様子を眺めるシグルスは内心、複雑な思いを抱えていた。彼女がこの家に自分を招き入れることに、何のためらいも持っていないことは知っている。
――独り身の女性が、男をこうも気軽に家に招くのはどうかと思うが……。
初めて彼女に家の中へ招かれた時も、同じことを思った。それは彼女の身を案じてのことでもあり、また、世間体というものに対する最低限の配慮でもあった。
かつてのオデットは、そうしたことにも人一倍敏感だった。だが、今の彼女にはそういった外聞を気にする素振りすら見られない。あまりにも自然に、当然のようにシグルスを招き入れる。それがありがたくもあり、同時に不安でもあった。――例えば、もし他に『友人』がいたとして。彼女は自分と同じように、その男を家に迎え入れるのだろうか。
その可能性を考えた時、胸の奥に生じた鈍い感情を、シグルスは認めたくなかった。
ティーセットを手にリビングへと戻ってきたオデットに、彼は視線を向ける。そんなことを考えていたからだろう。半ば呆れたような声色で、思わず言葉がこぼれた。
「……もう少し慎重になったらどうだ」
オデットは、シグルスの方へは目を向けない。しかし、ポットを傾けるのに合わせるように、小さく首を傾げながら聞き返した。
「何の話?」
「君のことだよ。前々から思っていたが――独り身の女性が、こうも気軽に男を家へ上げるのは、あまり感心できることじゃないと言っているんだ」
その言葉に、オデットはくすりと笑うように息を吐いた。
「あなた、今さら私の身を案じているの?」
そう言いながら、ティーカップとソーサーをシグルスの前へ静かに置く。湯気の立つカップから広がるアールグレイの華やかな香りが鼻先をくすぐった。それから、オデットの視線が鋭く向けられる。どの口がそれを言うのか、というような好奇に満ちた色がそこにはあった。
シグルスはその視線をやや無視するようにカップを取り、紅茶へと視線を落とす。
「僕は常に、君の身を案じているとも。ただね、君は今、独り身だ。世間がそれをどう見るか、考えたことはあるか?」
オデットもカップを取り、無駄のない所作で紅茶をひと口含んだ。シグルスの指摘に対して、特別思うところはなかったらしい。動じることもなく、あくまで世間話でも耳にしたかのように穏やかで、まさしく他人事といった調子だった。
「考えたところで、どうにもならないでしょう? それに、私はもう誰がどう思おうと構わないの。ここは私の家なのだから誰を招こうと、私に自由があるのよ」
「だからといって、軽率な振る舞いをしていいわけじゃない」
シグルスの言葉に、オデットは片眉を上げて静かに言葉を繰り返す。
「……『軽率』ね」
ふっと笑って、ほんの少し首を傾けた。
「でも、あなたは来てるじゃない」
「……。僕は『例外』だ」
「どういう意味?」
「そのままの意味だ。僕は君の友人なのだから君の家に招かれて当然だし、僕が来る分には何の問題も起こらない」
「随分な自信ね」
「当然だ」
「……それはつまり、あなたならいいけれど他の男性ではだめだ、と言いたいのかしら」
「だめに決まっているだろう」
「どうして?」
「……僕以外の男が君の家に上がるのは、君のためにならない。もちろん、誰を家に招こうと君の自由だが、僕以外の男ではだめだ」
「…………矛盾してるわ」
当然の指摘に対して、シグルスは一拍置いて言葉を続けた。
「君は独り身になったばかりで、何かと不安定な時期だというのも分かっている。だからこそ、交友関係には慎重であるべきだ――変な男を近づけるべきじゃない。用心するに越したことはないだろう」
「――でも、あなたはいいのね?」
「僕は『例外』だ」
今度は迷いなく言い切ったシグルスに、オデットは肩を竦めて笑った。
「理屈には合わないけど……まあ、いいわ。誤解のないように言っておくと、私が今のところ軽率に家にあげている男性は、あなただけよ」
「……なら、何も問題はないな」
「ええ――。今のところ、軽率に家に上がってくる男性もあなただけだから。確かに、何も問題はないわね」
「…………」
「…………」
「……悪かった。軽率だと言ったのは、僕の誤りだった」
「謝罪は受け入れるわ」
オデットはくすくすと笑いながら、改めて紅茶を口に運ぶ。それから、胸中で再びシグルスの言葉を繰り返した。
――例外、ね。
独り身の女が気軽に男を家に招くべきではない、という指摘は正しい。けれど、その正論を真顔で語っているのが、よりにもよってこうして頻繁にこの家を訪ねてくる張本人であるという事実が、どうにも可笑しかった。
シグルス自身もこの矛盾には気付いているはずだ。それでもなお『例外』だと当然のように言い切ってしまうのだから、本当にこの男は妙なところで勝手である。時折、自分にだけ都合のいい理屈を押し通す癖がある。……けれど、不思議とそれを不愉快に思ったことはない。むしろ、こういった不遜で遠慮がない彼の振る舞いを、どこか気に入っているくらいだった。
もちろん、彼が本当は何を心配しているのかまでは分からない。しかし、自分以外の男性との関わりを牽制しているのだとしたら、それこそ少し変な話に思えた。だから、あれこれと言いながら、結局は心配してくれているのだ。――友人として、彼なりのやり方で。それは決して、嘘ではない。
少なくとも、オデットはそう受け取っていた。
――理屈としては、どう考えても破綻しているのに。
――でも、そういうところも、彼らしいと思う。
彼女にとって、友人と交わすこうした言葉のやり取りは新鮮で、気兼ねないやりとりができる時間はやはり、心地が良かった。だから、今はこれでいいだろう。
少なくとも、彼は『例外』なのだから。
*
シグルスは手慣れた様子で、オデットの家の郵便受けを開ける。いかにも広告らしいチラシに混じって、中には数通の手紙が届いていた。
名誉のために断っておくと、他人の家の郵便受けを勝手に漁るという行為が、どう考えても常識的ではないことは、シグルスにも分かっている。最初は、流石に抵抗があった。この習慣が始まったきっかけは、偶然のことだ。たまたま家を訪ねた時、居合わせた配達員が彼を家人と勘違いして、彼女宛の手紙を手渡してきたことがあった。少し迷った末、事情を説明してオデットに返したところ、特に咎められるということもなく「助かったわ」とあっさり感謝されてしまったのである。
……本当にそれでいいのか、と当時の彼女の対応には疑問を持った。
しかしそれ以来、彼はこの家を訪れる度に当然のように郵便受けを確認し、手紙を持って入るようになっていた。もちろん、了承は得ている。中身を覗くような真似はしない。ただ、どうせ中には入るのだから、そのついでに。
そういう理屈で、習慣的に手が伸びるようになっただけだ。
「――またか」
一枚の封筒に目を留め、眉を寄せる。見慣れた封蝋が押されていた。オデットの生家からのものだ。手紙の束を片手に、シグルスは玄関の扉を押し開ける。
「入るぞ」
一応の断りを口にしながら中へと足を踏み入れるが、もはやそれも形式的なものになって久しい。ノックすら省くようになったのは、いつからだったか。かつてはノッカーを鳴らし、オデットが自ら扉を開けて迎え入れてくれるまで待っていた。それが今では、律儀にノッカーを鳴らしても玄関まで出迎えが来ることはまずない。
彼女は家のどこか、大抵はリビングにいる。案の定、今日も彼女はソファーに身を預け、本のページを優雅に繰っていた。視線だけを上げてそこにシグルスの姿を認めると、気の抜けた調子で言う。
「いらっしゃい」
それだけだった。
その気楽な挨拶に、シグルスはなんとも言えない気持ちになる。もはや、この家のノックも要らない居候かなにかのような扱いだ。
……僕のことを玄関から勝手に上がり込んでくる飼い慣らされた野良猫とでも認識してないか――? いや、下手をすれば、野良猫相手の方がまだ扱いが丁寧かもしれない。そんな考えが頭を過り、思わず口を噤む。
ため息を吐きながら、シグルスは手紙の束を掲げて見せた。
「君に郵便だ」
オデットはちらと視線だけを向け、黙って手を差し出す。渡せ、という無言の合図にシグルスは手紙の束をその手に委ねる。彼女はそれらを一瞥しただけで、生家――ブリュンヒルデ家からの封書を見つけるや否や、ぞんざいに摘まみ上げると、それを彼の方へ差し戻してきた。
「これは暖炉に入れておいて」
何の感慨もなさそうに言いながら、選り分けられたそれ以外の手紙は近くのテーブルへと無造作に置かれる。どうやら、宣伝広告のチラシよりもなお、優先順位が低いらしい。暖炉に入れておいてというのは、つまり、捨ててこいということだ。
シグルスは思わず、眉を寄せた。
「……中身も見ずに?」
「見る必要もないわ」
再び本に視線を戻し、ページを捲る手すら止めず、オデットは素っ気なく応じた。
「再婚に関する話しか書いていないもの」
「……何だって?」
言葉の意味を反芻し、シグルスは思わず声をあげていた。
「君、再婚するのか」
語気が少し強まるのを自覚し、すぐに抑えようとしたがすでに遅かった。その変化を察知したのか、オデットは僅かに呆れたような目でシグルスを見上げる。
「するわけないでしょう。あの人たちが勝手に言っているだけよ」
その態度や表情からしても、本気で結婚を考えているわけがないのは明らかである。
それでも、彼女の口から「再婚」などという言葉が出てくるとは思っていなかったシグルスは、胸の奥が小さく波立つのを感じた。どうにかそれを押し込めるようにこめかみに指を当ててため息を吐く。
「……紛らわしい言い方をするな」
「何のこと?」
オデットは平然とした顔で首を傾げる。シグルスは肩を軽く竦め、取り繕うように視線を逸らした。これで話は終わったな、とばかりに彼女がまたすぐに本へと意識を戻すのを横目に、改めて預けられた手紙に視線を落とし、ぼそりと尋ねる。
「……こういった手紙は、よく来るのか?」
「ええ。葬儀の後しばらくは週に何度も来ていたけれど、最近は月に一、二通くらいね」
「……君。まさか、今までのも全部……」
「燃やしたわ」
さらりと言い切った彼女に、シグルスは思わず言葉を失った。
彼がオデットの家を訪れた際、ついでのように郵便受けに届いた手紙を持って入るようになってから、もうしばらく経つ。その中には時折、ブリュンヒルデ家からの手紙が混ざっていたのを確かに覚えている。宛名を見て、差出人に気付かなかったはずもない。それでも彼女は何も言わずに受け取っていたし、シグルスもわざわざ踏み込んで尋ねることはしなかった。――だからこそ、彼女がそれら全てを読まずに処分していたなどとは、考えたこともなかった。節度ある範囲で、最低限のやり取りくらい続いているものだと思っていたのだ。だが、今。彼女は明言した。
これまでに届いた全ての手紙を燃やした、と。
この様子では返事どころか、中身の確認すらろくにしていない可能性が高い。
連絡を寄越してきた相手はオデットの血縁、実の家族だ。ましてや彼女は若くして配偶者を亡くした身なのだから、何らかの支援や気遣いの手紙が届くのは自然なことだと――彼はそう、当然のように考えていた。
少なくとも、シグルスの知る「家族」とはそういうものだった。
愛情深い両親と良好な関係を育んできた彼には、想像もできなかったのだ。
それはあくまで家族との関係が、常識的なものであるという前提に基づいた見解であるということに。どうやら、大きな思い違いをしていたようだとシグルスは気付いた。
「……一応、確認くらいしたらどうだ?」
半ば無意識に口をついた言葉と共に、シグルスは封を開けようと手紙に手をかけた。しかし、その瞬間、オデットの手が素早く伸びてきて、彼の手から封筒を奪い取る。
「だめよ。それは燃やすと言ったでしょう」
そう言うや否や、彼女は決まりきった作業のように迷いなく暖炉へと向かい、手紙を放り込んだ。封蝋が割れることもなく、炎が紙を包み込んで赤黒く揺らめく。
「……」
シグルスはしばらく無言でその炎を見つめていたが、やがて軽く息を吐いた。
「徹底しているな」
「あの人たちの書く内容なんて、最初から決まっているもの」
「……」
「私が返事を寄越さないと分かっていても、構わず送りつけてくる。そういう人たちだから」
その口調には、怒りも悲しみもなかった。……しかし、その瞳には諦念が宿り、その声の奥に滲む僅かな嘲りをシグルスは聞き逃さなかった。
彼女は、当然のように送られ続ける手紙を、当然のように捨て続けている。配偶者を喪った娘に間もなく再婚を促すという行為を当然と考える家族も、そういうものだと諦観して一切の意味を見出さないでいる彼女自身も、あまりに対照的だった。
それゆえに、痛ましいとさえ感じるほどに。
自分の常識とそれに対する信頼が、少なからず裏切られたように感じたシグルスは、なんともなしにリビングの窓の外を見やった。不似合いだと感じるほどの光が、柔らかく差し込んでいる。
「……今度、どこか出かけないか?」
シグルスの口からふと零れたそんな言葉。立ち上がったついでに、紅茶の準備に向かおうとしていたオデットが足を止め、振り返った。
「どこへ?」
「妹の誕生日が近くてな。贈り物を探してるんだが……最近は好みが複雑で。君にも意見を聞きたくて」
それは事実だ。嘘は言っていない。――しかし、それだけではない。ずっと前から、ただ一緒に出かける機会を探していた。オデットと並んで歩き、他愛のない話をして、街の風景を共有する。そんな時間を望んでいた。だが、彼女は必要があれば一人でも出かけるし、誰かの誘いがなくても平然としていられる強さを持っている。そういう人だと分かっている。だからこそ、自分から誘うことには常に、ためらいがあった。
彼女が望む形の友人関係、心地よくいられる距離を超えてしまうのではないか――そう考えて、口にできずにいた。それでも今、行動を起こすべき時だと思った。
オデットはほんの少し考え込むように視線を落としたが、すぐにあっさりと頷いた。
「ええ、いいわよ」
思いのほか軽やかに了承され、シグルスは目を瞬かせる。意外、というよりはどこか、拍子抜けするような感覚があった。けれどすぐに、その許しを逃すまいと言葉を重ねる。
「――ついでに、骨董市にも行こう。ポートベロー・ロード・マーケットはどうだ」
いくつかの候補が思い浮かんだが、その中で最も彼女の興味を引きそうな場所を提案した。ロンドン西部で開かれる、有名な骨董市。古書やアンティークの雑貨が並び、観光客にも人気があって賑わっているが、どこか懐かしく落ち着いた雰囲気のある通りだ。
「君はずっと家にこもっているし、たまの外出もいい気分転換にはなるだろう」
オデットは静かにシグルスを見つめた後、ふっと息を吐くように笑いながら、またあっさりと頷いた。
「それもいいわね」
「決まりだな」
*
週末のロンドンは、少し霞んだ空に柔らかな日が差していた。石畳が続く古い街並みに沿うように露天が軒を連ねている。そこには古い銀食器、懐中時計、額装された絵画に無数の陶磁器が並んでいた。
骨董市の中には小さな喧騒と笑い声が満ちている。そんな賑わいに紛れながら、シグルスはオデットと肩を並べて歩いていた。
――彼女にとっては、あくまでも友人との気軽な外出の延長だとしても。
彼にとってこの休日は、特別だった。何でもないように見える会話の合間に、何度も彼女の表情を盗み見てしまう。歩幅は自然と彼女に合わせられ、彼女の仕草一つ一つに気を取られている自分に、内心少し呆れすら感じていた。
まだ冷たさの残る春先の風が、石畳の隙間を縫うように吹き抜ける。その時、ふとオデットが足を止めた。視線の先には、露店の一角に並ぶティーセットがある。彼女はそのまま近づいていき、棚に並べられたその中の一つを手に取った。光に翳すように角度を変えて持ち上げる。
「――これ、あなたに似合いそうね」
質感を確かめるように指先で縁をなぞりながら、何気なく言う。
その言葉に少し驚きながら、横から覗き込むように、彼女の手元を見た。端正な白磁の地にガーターブルーの差し色と控えめな金彩の縁取り。品格を備えながらも、どこか柔らかさのある意匠を施されたティーカップは、確かにシグルスから見ても好ましいと思えるデザインだった。だが――、
「……僕に?」
「ええ」
思わず問い返せば、オデットは軽く頷き、視線をカップに落としたまま続ける。
「うちに置こうかと思うのだけれど、どうかしら?」
その一言に、眉がわずかに寄る。
――彼女の家に、置く?
首を少し捻りながら、もう一度問い返した。
「……僕の家ではなく?」
「あなたのじゃなくて、私の家よ」
まるで当たり前のことのように言うその声に、言葉を失った。オデットはカップの状態を確認するように持ち直す。そしてほんの僅かに首を傾げて、こちらを見上げた。目が合った瞬間、どきりと胸が鳴る。シグルスは心の動揺を悟られまいと、軽く肩を竦めた。
「……どういう意味だ?」
「あなた、もうすっかり私の家に入り浸ってるじゃない」
オデットが笑う。
「だったら、専用のカップがあってもいいかと思って」
そのひと言に、時が止まったように感じられる。
あなたに似合いそう、と言われた時はてっきりプレゼントの話だと思っていた。贈り物ならば、まだ想定の範囲だ。誕生日や記念日、あるいはほんの気まぐれに。そういうこともあり得るだろう。
しかし、これは違う。そう単純な話ではなかった。
だから、シグルスは咄嗟に言葉を返せなかった。酷く胸が騒いで、落ち着かない。
「それは……いや、君の気持ちは嬉しいが……。どう、受け取ればいいのか……」
精一杯、努めて冷静に答えたつもりだった。
一方で、オデットは眉一つ動かさず、不思議そうに首を傾げる。
「何か、変なことを言ったかしら。単なるお礼のつもりよ。あなた、いつも手土産ばかり持ってくるでしょう?」
「つまり、……君なりのお返しってことか?」
「そういうこと」
オデットは肩を竦めてあっさりと答えると、手にしたカップを店主に差し出し、値段の交渉に移った。真剣な表情で価格について話し始める彼女の横顔は、いつもと変わらない静けさを湛えている。シグルスはその隣に立ち、彼女と店主の会話にそっと耳を傾けながら、内心ではただ一つのことを反芻していた。
――彼女が、僕に似合うと思って選んだカップを「僕専用」として、あの家に置く。
繰り返すように、その言葉の意味を噛み締めた。オデットにとっては、ただの合理的な配慮なのかもしれない。だがそう言われてしまうとまるで、自分の存在が彼女の中ではすでに当然のものと受け入れられているようで――。
呆れるような、安堵するような、胸を締め付けられるような複雑な感情が渦巻いていた。軽い調子で告げられる彼女の言葉一つ一つに、深く揺れてしまう。滑稽にすら感じながら、それでもその視線は彼女の背中から離れなかった。
シグルスはそっと額を手で抑え、自嘲気味に笑う。
――まさか、彼女が僕のために何かを選んでくれる日が来るとは。
――嬉しい。どうしようもないくらいに。
*
「――君に訊いておきたかったことがあるんだ。君の、前の結婚について」
その問いが口をついたのは、オデットが何気なく「夫の遺した資産のおかげで不自由はないわ」と言ったときだった。紅茶のカップを手にしたまま、シグルスは彼女の表情を注意深く見つめる。先日、外出先で彼女が見繕い、この家に彼専用として設えられたティーカップ――その中にはまだ半分ほど紅茶が残っていたが、今は口にする気にはなれなかった。
シグルスがまだ言葉を探している気配を察して、オデットは何も言わずに静かに紅茶を啜り、待っていた。
「政略結婚だったことは知っている。……だが、君が彼をどう思っていたのか、それだけはちゃんと聞いたことがなかったと思ってね」
「それを今さら聞くの?」
「今さらだからこそ、改めて訊いておきたい。……もちろん、君が話したくなければ、それで構わない」
「……」
オデットは「なぜ?」とは聞き返さなかった。彼女は少しだけ眉を上げて、シグルスを見たが、やがて静かにカップを置き、膝の上で指を組み合わせる。そのまま、窓の方へと視線を流した。――沈黙。それは、迷いや逡巡によるものというよりは、すでに片付けてしまった記憶の在処を思い出そうとしているような間だった。
やがて、彼女は静かに口を開いた。
「――あの人は、私を愛していたわ。今になって思えば、それは確かに本心だったのだと思う。でも、私は……」
そこまで言うと、ふと口を噤み、目を伏せる。
続きを口にするのをためらうように、静かに首を左右に振った。
「……ともかく、彼との結婚で、私はブリュンヒルデの名を捨てることができた。あの家を出て、そして今は彼が早くに亡くなったことで、この家で私自身の自由意志によって生活を築けている。――それは確かに、彼のおかげよ。皮肉だけど」
飾らずに淡々と語られたそれらは、紛れもない事実である。
結婚当初、彼女にとっての慰めは、ブリュンヒルデの一員ではなくなるという、僅かな解放だけだった。たとえそれで自分の生き方が何一つ変わらなくとも、それで十分だと諦めていた。――しかし、彼女の亡夫は、魔術師としての血筋と能力に加えて、他にも高い利用価値を見込んで、ブリュンヒルデ家が選び抜いた人間だ。
だから、その彼が不慮の事故により早世したことで、オデットは彼の妻として、十分すぎる資産を相続し、未亡人という身分を得て、今の自由を手に入れることになった。そのどちらかが欠けていても――彼女は今もなお、生家の意向に縛られながら他者が選んだ人生を生きることになっていたはずだ。
シグルスは低く控えめな声で重ねて訊ねる。あの葬儀の日からずっと胸に抱えたまま、言葉に出来なかった問いを、ようやく口にした。
「――君は、彼の死を惜しんでいないように見えた」
オデットはため息にも似た呼吸を一つ置いて、シグルスの方へと向き直る。
「……やっぱり、気付いていたのね」
その口元には、わずかな微笑みが添えられていた。
「惜しんだことはないわ。感謝しているのは、その結果に対して。彼の愛情に対してではないから。私は――……彼を愛せなかった。それでも、彼の妻としての役割と義務は果たしたつもりよ。食事の好みも、予定の管理も、交友関係も、すべて彼に合わせていた。――でも、それだけ。本当に、それだけ。そういう人間だもの、私は」
それは、正直な告白だった。オデットにとって、結婚とは『義務』であり、彼は『その義務を果たすべき相手』に過ぎなかった。愛情はもちろん、尊敬すらなかった。
結婚する前も、家のために自我を抑えるように育てられ、縁談も当然のように当人の意志など関係なしに決められた。そうして始まった結婚生活の果てに、思いもよらない形で訪れた自由――これを歓迎する以外の気持ちなど、あるはずもない。
その言葉を聞き、シグルスは無意識に拳を握る。
「――つまり、君にとって結果的には悪くない結婚だった、ということか」
「ええ。言い方は悪いけど、私にしては運が良かったほうだと言えるでしょうね」
彼女は静かにそう言って、冷めかけた紅茶に口を付けた。
その言葉に、シグルスは複雑な気持ちになる。彼女が夫の死を悼んでいないことは、薄々感じていた。……だが、ここまで率直に「運が良かった」と言われると、どこか釈然としない。その声には、恨みも悲しみもなかった。ただ淡々と、すでに終わった過去を語る口調。その言葉も、おおよそは想像していた通りのものだった。
そのはずなのに、実際に耳にしてみると、妙に胸に引っかかる。それは彼女の人生において愛し、愛されるということがいかに希薄だったかを、まざまざと突きつけられるようだったから――。
「そんな顔をしなくてもいいのに」
オデットはくすりと笑いながら、シグルスの表情を見やった。
「でも、そうね……。あなたも知ってのとおり、夫が生きていた間はそれなりに取り繕っていたわ。だから、もし彼がもっと長生きしていたら――」
「……?」
「私は今も彼の妻として、そのままの人生を受け入れていたでしょうね」
淡々としていた。まるで、そういう人生もあり得たのだと、ただの可能性として語ることができる。シグルスにとって、それは紛れもなく、オデットらしい在り方のように思えた。彼女は現実を、そして自分自身を正確に見つめて生きている。感情を持たないわけでも、思考を放棄しているわけでもないのに、それらに決して左右されない。常に、厳格に。望む望まずに関わらず、与えられたものを受け入れて生きる。
彼女は、ずっとそうして生きてきたのだ。
「でも、もうその必要はないわね」
オデットはやはり、一切の遺恨もないというように穏やかに微笑んでいた。
「……未練は?」
「ひとつも」
「――そうか。よく分かったよ」
しばらく彼女を見つめ、それから僅かに皮肉めいた笑みを浮かべた。
――もし、彼女の夫が生きていたら。今こうしてシグルスと気兼ねなく茶を飲み交わすことも『友人』として過ごすことも。……彼女は許容しなかっただろう。
窓の外で、風に揺れた木の葉がさらりと音を立てる。シグルスはその音に耳を傾けながら、ソファに深く背を預けた。彼女が語る言葉はどれも冷静で、過去に対する悼みの色すらなかった。それどころか、その幕引きを肯定していた。
――だからこそ、今。
彼女の隣にいる自分の存在が、彼女にとってどう映っているのかを、少しだけ知りたくなる。過去に未練がないのなら、
――未来の話をしても、構わないだろうか?
そんな言葉が喉元まで上がっては、結局、胸の内へと戻っていく。
ふと、オデットの視線がシグルスの手元に向けられた。注がれた紅茶は、会話に気を取られているうちにすっかり冷めていた。
「紅茶、まだ残ってるわね。……冷めてしまったみたい」
「……別に構わないさ」
シグルスはカップを見つめながら、少し掠れた声でそう答える。
それから、冷えきった紅茶をひと口だけ含んだ。香り高かった紅茶は温かくも、甘くもない、ただの味気ない液体に成り果てていた。
「――シグルス」
名を呼ばれて、彼は顔を少しだけ上げる。
「あなたはどう思っていたの? 私の結婚を」
問いかける声は、ただ事実を確認するような乾いた調子だった。
「……。……ずっと、気掛かりだった。でも結局、僕は。……何も言える立場じゃなかったからな。僕がどう思っていたかなんて、もう重要じゃないだろう」
「そう。……だったら、」
オデットは静かに立ち上がると、シグルスのカップを手で示しながら言った。
「冷めた紅茶は、ここまでにしましょう。――新しいのを淹れさせて」
たまに、という言葉の定義がこれほどまでに曖昧だとは、自分でも思わなかった。
このところ、何かと理由をつけてはこの家に足を運んでいる。それは『たまに』という頻度をとうに超え、もはや頻繁に。新しい茶葉、珍しい菓子、話題の本――訪問の度に、必ず何かしらの土産を用意した。もちろんそれらは全て口実で、もっともらしい言い訳が必要だったというだけのことだ。
――別に、友人を気遣うのは、当然のことだろう。
そう思いたい一方で、その「当然」が今や自分の都合に沿った理屈になっていることも、認めざるを得ない。多忙な合間をぬってまで時間を捻出するのは、ただ彼女に会いたかったからだ。土産を選ぶのも、訪ねる理由を探すのも、すべて彼女のためのようでいて、実のところは自分のためだった。
……とはいえ、今日に至るまでオデットがシグルスの訪問を拒んだことは一度もない。少し前までは時折、「また来たのか?」というような視線を向けてくることはあったが、今では慣れてしまったのか、それすらもなくなった。
彼女は淡々と。しかし、確かに自分の存在を受け入れている。
それが、……シグルスにとっては、なによりも心地よかった。
静かに息を整え、ノッカーを鳴らす。少しの間を置いて扉が開き、オデットが姿を見せた。その表情に、訪問への驚きはない。すっかりと馴染んでしまった光景に、シグルスは少し苦笑する。
「あら、シグルス。今日はどうしたの?」
「散歩のついでに、友人の顔でも見ていこうかと思ってね」
すでに何度か使ってしまったありふれた言い訳を当然のように返した。オデットは呆れているように見えなくもない表情で小さく笑った。しかし、そのまま何も言わずに扉を押し開ける。
「――どうぞ、入って。お茶を淹れるわ」
彼女が踵を返して歩き出し、シグルスもその背を追って家の中へ足を踏み入れた。
品の良い額装画が控えめに飾られた廊下には、選び抜かれた家具や調度品が過度な装飾を排してなお、上品な格調を漂わせている。細部に至るまで目を凝らして見ても、埃ひとつ見つけることができない。以前、それを指摘した折に彼女は「習慣が抜けないから」と、どこか苦々しくも見える表情で言っていた。もはや勝手知ったるふうで、そこを抜け、通い慣れたリビングへと向かう。
室内には柔らかな陽光が差し込み、窓の外には、先ほどまでの霧雨の名残が光の粒となってきらめいていた。どこまでも穏やかで、静かな午後だった。
「今日は何をしていた?」
「手紙の整理を少し、あとは読書ね。いつも通り変わりないわ」
「相変わらずだな。……ああ、これを」
「……今日は何を持ってきたの?」
オデットの問いに、シグルスは手提げから包みを取り出す。
「チョコレートだ。茶請けにも、丁度いいかと思ってね。ビターとオレンジピールが入ったやつを選んだ。この前に君が気に入ったと言っていた店の前をたまたま通りがかって――いや、」
口をついて出た説明が何となく言い訳めいて聞こえた気がして、シグルスは曖昧に言葉の終わりを濁した。口実めいた振る舞いの裏にあるものを、必要以上に暴いてしまう気がしたからだ。オデットは特にそれを問いただすこともなく、ただ「そう」と穏やかに笑いながら包みを受け取る。
「ありがとう。一緒に頂きましょうか。でも……以前も言ったけど、そんなに気を遣わなくてもいいのよ」
「気にするな。僕が手ぶらで訪ねるのはどうにも落ち着かないというだけだ」
「相変わらず、変なところは几帳面ね」
オデットは肩を竦めながら、慣れた動作でティーセットの準備に取りかかる。その背中はあまりにも無防備で、その様子を眺めるシグルスは内心、複雑な思いを抱えていた。彼女がこの家に自分を招き入れることに、何のためらいも持っていないことは知っている。
――独り身の女性が、男をこうも気軽に家に招くのはどうかと思うが……。
初めて彼女に家の中へ招かれた時も、同じことを思った。それは彼女の身を案じてのことでもあり、また、世間体というものに対する最低限の配慮でもあった。
かつてのオデットは、そうしたことにも人一倍敏感だった。だが、今の彼女にはそういった外聞を気にする素振りすら見られない。あまりにも自然に、当然のようにシグルスを招き入れる。それがありがたくもあり、同時に不安でもあった。――例えば、もし他に『友人』がいたとして。彼女は自分と同じように、その男を家に迎え入れるのだろうか。
その可能性を考えた時、胸の奥に生じた鈍い感情を、シグルスは認めたくなかった。
ティーセットを手にリビングへと戻ってきたオデットに、彼は視線を向ける。そんなことを考えていたからだろう。半ば呆れたような声色で、思わず言葉がこぼれた。
「……もう少し慎重になったらどうだ」
オデットは、シグルスの方へは目を向けない。しかし、ポットを傾けるのに合わせるように、小さく首を傾げながら聞き返した。
「何の話?」
「君のことだよ。前々から思っていたが――独り身の女性が、こうも気軽に男を家へ上げるのは、あまり感心できることじゃないと言っているんだ」
その言葉に、オデットはくすりと笑うように息を吐いた。
「あなた、今さら私の身を案じているの?」
そう言いながら、ティーカップとソーサーをシグルスの前へ静かに置く。湯気の立つカップから広がるアールグレイの華やかな香りが鼻先をくすぐった。それから、オデットの視線が鋭く向けられる。どの口がそれを言うのか、というような好奇に満ちた色がそこにはあった。
シグルスはその視線をやや無視するようにカップを取り、紅茶へと視線を落とす。
「僕は常に、君の身を案じているとも。ただね、君は今、独り身だ。世間がそれをどう見るか、考えたことはあるか?」
オデットもカップを取り、無駄のない所作で紅茶をひと口含んだ。シグルスの指摘に対して、特別思うところはなかったらしい。動じることもなく、あくまで世間話でも耳にしたかのように穏やかで、まさしく他人事といった調子だった。
「考えたところで、どうにもならないでしょう? それに、私はもう誰がどう思おうと構わないの。ここは私の家なのだから誰を招こうと、私に自由があるのよ」
「だからといって、軽率な振る舞いをしていいわけじゃない」
シグルスの言葉に、オデットは片眉を上げて静かに言葉を繰り返す。
「……『軽率』ね」
ふっと笑って、ほんの少し首を傾けた。
「でも、あなたは来てるじゃない」
「……。僕は『例外』だ」
「どういう意味?」
「そのままの意味だ。僕は君の友人なのだから君の家に招かれて当然だし、僕が来る分には何の問題も起こらない」
「随分な自信ね」
「当然だ」
「……それはつまり、あなたならいいけれど他の男性ではだめだ、と言いたいのかしら」
「だめに決まっているだろう」
「どうして?」
「……僕以外の男が君の家に上がるのは、君のためにならない。もちろん、誰を家に招こうと君の自由だが、僕以外の男ではだめだ」
「…………矛盾してるわ」
当然の指摘に対して、シグルスは一拍置いて言葉を続けた。
「君は独り身になったばかりで、何かと不安定な時期だというのも分かっている。だからこそ、交友関係には慎重であるべきだ――変な男を近づけるべきじゃない。用心するに越したことはないだろう」
「――でも、あなたはいいのね?」
「僕は『例外』だ」
今度は迷いなく言い切ったシグルスに、オデットは肩を竦めて笑った。
「理屈には合わないけど……まあ、いいわ。誤解のないように言っておくと、私が今のところ軽率に家にあげている男性は、あなただけよ」
「……なら、何も問題はないな」
「ええ――。今のところ、軽率に家に上がってくる男性もあなただけだから。確かに、何も問題はないわね」
「…………」
「…………」
「……悪かった。軽率だと言ったのは、僕の誤りだった」
「謝罪は受け入れるわ」
オデットはくすくすと笑いながら、改めて紅茶を口に運ぶ。それから、胸中で再びシグルスの言葉を繰り返した。
――例外、ね。
独り身の女が気軽に男を家に招くべきではない、という指摘は正しい。けれど、その正論を真顔で語っているのが、よりにもよってこうして頻繁にこの家を訪ねてくる張本人であるという事実が、どうにも可笑しかった。
シグルス自身もこの矛盾には気付いているはずだ。それでもなお『例外』だと当然のように言い切ってしまうのだから、本当にこの男は妙なところで勝手である。時折、自分にだけ都合のいい理屈を押し通す癖がある。……けれど、不思議とそれを不愉快に思ったことはない。むしろ、こういった不遜で遠慮がない彼の振る舞いを、どこか気に入っているくらいだった。
もちろん、彼が本当は何を心配しているのかまでは分からない。しかし、自分以外の男性との関わりを牽制しているのだとしたら、それこそ少し変な話に思えた。だから、あれこれと言いながら、結局は心配してくれているのだ。――友人として、彼なりのやり方で。それは決して、嘘ではない。
少なくとも、オデットはそう受け取っていた。
――理屈としては、どう考えても破綻しているのに。
――でも、そういうところも、彼らしいと思う。
彼女にとって、友人と交わすこうした言葉のやり取りは新鮮で、気兼ねないやりとりができる時間はやはり、心地が良かった。だから、今はこれでいいだろう。
少なくとも、彼は『例外』なのだから。
*
シグルスは手慣れた様子で、オデットの家の郵便受けを開ける。いかにも広告らしいチラシに混じって、中には数通の手紙が届いていた。
名誉のために断っておくと、他人の家の郵便受けを勝手に漁るという行為が、どう考えても常識的ではないことは、シグルスにも分かっている。最初は、流石に抵抗があった。この習慣が始まったきっかけは、偶然のことだ。たまたま家を訪ねた時、居合わせた配達員が彼を家人と勘違いして、彼女宛の手紙を手渡してきたことがあった。少し迷った末、事情を説明してオデットに返したところ、特に咎められるということもなく「助かったわ」とあっさり感謝されてしまったのである。
……本当にそれでいいのか、と当時の彼女の対応には疑問を持った。
しかしそれ以来、彼はこの家を訪れる度に当然のように郵便受けを確認し、手紙を持って入るようになっていた。もちろん、了承は得ている。中身を覗くような真似はしない。ただ、どうせ中には入るのだから、そのついでに。
そういう理屈で、習慣的に手が伸びるようになっただけだ。
「――またか」
一枚の封筒に目を留め、眉を寄せる。見慣れた封蝋が押されていた。オデットの生家からのものだ。手紙の束を片手に、シグルスは玄関の扉を押し開ける。
「入るぞ」
一応の断りを口にしながら中へと足を踏み入れるが、もはやそれも形式的なものになって久しい。ノックすら省くようになったのは、いつからだったか。かつてはノッカーを鳴らし、オデットが自ら扉を開けて迎え入れてくれるまで待っていた。それが今では、律儀にノッカーを鳴らしても玄関まで出迎えが来ることはまずない。
彼女は家のどこか、大抵はリビングにいる。案の定、今日も彼女はソファーに身を預け、本のページを優雅に繰っていた。視線だけを上げてそこにシグルスの姿を認めると、気の抜けた調子で言う。
「いらっしゃい」
それだけだった。
その気楽な挨拶に、シグルスはなんとも言えない気持ちになる。もはや、この家のノックも要らない居候かなにかのような扱いだ。
……僕のことを玄関から勝手に上がり込んでくる飼い慣らされた野良猫とでも認識してないか――? いや、下手をすれば、野良猫相手の方がまだ扱いが丁寧かもしれない。そんな考えが頭を過り、思わず口を噤む。
ため息を吐きながら、シグルスは手紙の束を掲げて見せた。
「君に郵便だ」
オデットはちらと視線だけを向け、黙って手を差し出す。渡せ、という無言の合図にシグルスは手紙の束をその手に委ねる。彼女はそれらを一瞥しただけで、生家――ブリュンヒルデ家からの封書を見つけるや否や、ぞんざいに摘まみ上げると、それを彼の方へ差し戻してきた。
「これは暖炉に入れておいて」
何の感慨もなさそうに言いながら、選り分けられたそれ以外の手紙は近くのテーブルへと無造作に置かれる。どうやら、宣伝広告のチラシよりもなお、優先順位が低いらしい。暖炉に入れておいてというのは、つまり、捨ててこいということだ。
シグルスは思わず、眉を寄せた。
「……中身も見ずに?」
「見る必要もないわ」
再び本に視線を戻し、ページを捲る手すら止めず、オデットは素っ気なく応じた。
「再婚に関する話しか書いていないもの」
「……何だって?」
言葉の意味を反芻し、シグルスは思わず声をあげていた。
「君、再婚するのか」
語気が少し強まるのを自覚し、すぐに抑えようとしたがすでに遅かった。その変化を察知したのか、オデットは僅かに呆れたような目でシグルスを見上げる。
「するわけないでしょう。あの人たちが勝手に言っているだけよ」
その態度や表情からしても、本気で結婚を考えているわけがないのは明らかである。
それでも、彼女の口から「再婚」などという言葉が出てくるとは思っていなかったシグルスは、胸の奥が小さく波立つのを感じた。どうにかそれを押し込めるようにこめかみに指を当ててため息を吐く。
「……紛らわしい言い方をするな」
「何のこと?」
オデットは平然とした顔で首を傾げる。シグルスは肩を軽く竦め、取り繕うように視線を逸らした。これで話は終わったな、とばかりに彼女がまたすぐに本へと意識を戻すのを横目に、改めて預けられた手紙に視線を落とし、ぼそりと尋ねる。
「……こういった手紙は、よく来るのか?」
「ええ。葬儀の後しばらくは週に何度も来ていたけれど、最近は月に一、二通くらいね」
「……君。まさか、今までのも全部……」
「燃やしたわ」
さらりと言い切った彼女に、シグルスは思わず言葉を失った。
彼がオデットの家を訪れた際、ついでのように郵便受けに届いた手紙を持って入るようになってから、もうしばらく経つ。その中には時折、ブリュンヒルデ家からの手紙が混ざっていたのを確かに覚えている。宛名を見て、差出人に気付かなかったはずもない。それでも彼女は何も言わずに受け取っていたし、シグルスもわざわざ踏み込んで尋ねることはしなかった。――だからこそ、彼女がそれら全てを読まずに処分していたなどとは、考えたこともなかった。節度ある範囲で、最低限のやり取りくらい続いているものだと思っていたのだ。だが、今。彼女は明言した。
これまでに届いた全ての手紙を燃やした、と。
この様子では返事どころか、中身の確認すらろくにしていない可能性が高い。
連絡を寄越してきた相手はオデットの血縁、実の家族だ。ましてや彼女は若くして配偶者を亡くした身なのだから、何らかの支援や気遣いの手紙が届くのは自然なことだと――彼はそう、当然のように考えていた。
少なくとも、シグルスの知る「家族」とはそういうものだった。
愛情深い両親と良好な関係を育んできた彼には、想像もできなかったのだ。
それはあくまで家族との関係が、常識的なものであるという前提に基づいた見解であるということに。どうやら、大きな思い違いをしていたようだとシグルスは気付いた。
「……一応、確認くらいしたらどうだ?」
半ば無意識に口をついた言葉と共に、シグルスは封を開けようと手紙に手をかけた。しかし、その瞬間、オデットの手が素早く伸びてきて、彼の手から封筒を奪い取る。
「だめよ。それは燃やすと言ったでしょう」
そう言うや否や、彼女は決まりきった作業のように迷いなく暖炉へと向かい、手紙を放り込んだ。封蝋が割れることもなく、炎が紙を包み込んで赤黒く揺らめく。
「……」
シグルスはしばらく無言でその炎を見つめていたが、やがて軽く息を吐いた。
「徹底しているな」
「あの人たちの書く内容なんて、最初から決まっているもの」
「……」
「私が返事を寄越さないと分かっていても、構わず送りつけてくる。そういう人たちだから」
その口調には、怒りも悲しみもなかった。……しかし、その瞳には諦念が宿り、その声の奥に滲む僅かな嘲りをシグルスは聞き逃さなかった。
彼女は、当然のように送られ続ける手紙を、当然のように捨て続けている。配偶者を喪った娘に間もなく再婚を促すという行為を当然と考える家族も、そういうものだと諦観して一切の意味を見出さないでいる彼女自身も、あまりに対照的だった。
それゆえに、痛ましいとさえ感じるほどに。
自分の常識とそれに対する信頼が、少なからず裏切られたように感じたシグルスは、なんともなしにリビングの窓の外を見やった。不似合いだと感じるほどの光が、柔らかく差し込んでいる。
「……今度、どこか出かけないか?」
シグルスの口からふと零れたそんな言葉。立ち上がったついでに、紅茶の準備に向かおうとしていたオデットが足を止め、振り返った。
「どこへ?」
「妹の誕生日が近くてな。贈り物を探してるんだが……最近は好みが複雑で。君にも意見を聞きたくて」
それは事実だ。嘘は言っていない。――しかし、それだけではない。ずっと前から、ただ一緒に出かける機会を探していた。オデットと並んで歩き、他愛のない話をして、街の風景を共有する。そんな時間を望んでいた。だが、彼女は必要があれば一人でも出かけるし、誰かの誘いがなくても平然としていられる強さを持っている。そういう人だと分かっている。だからこそ、自分から誘うことには常に、ためらいがあった。
彼女が望む形の友人関係、心地よくいられる距離を超えてしまうのではないか――そう考えて、口にできずにいた。それでも今、行動を起こすべき時だと思った。
オデットはほんの少し考え込むように視線を落としたが、すぐにあっさりと頷いた。
「ええ、いいわよ」
思いのほか軽やかに了承され、シグルスは目を瞬かせる。意外、というよりはどこか、拍子抜けするような感覚があった。けれどすぐに、その許しを逃すまいと言葉を重ねる。
「――ついでに、骨董市にも行こう。ポートベロー・ロード・マーケットはどうだ」
いくつかの候補が思い浮かんだが、その中で最も彼女の興味を引きそうな場所を提案した。ロンドン西部で開かれる、有名な骨董市。古書やアンティークの雑貨が並び、観光客にも人気があって賑わっているが、どこか懐かしく落ち着いた雰囲気のある通りだ。
「君はずっと家にこもっているし、たまの外出もいい気分転換にはなるだろう」
オデットは静かにシグルスを見つめた後、ふっと息を吐くように笑いながら、またあっさりと頷いた。
「それもいいわね」
「決まりだな」
*
週末のロンドンは、少し霞んだ空に柔らかな日が差していた。石畳が続く古い街並みに沿うように露天が軒を連ねている。そこには古い銀食器、懐中時計、額装された絵画に無数の陶磁器が並んでいた。
骨董市の中には小さな喧騒と笑い声が満ちている。そんな賑わいに紛れながら、シグルスはオデットと肩を並べて歩いていた。
――彼女にとっては、あくまでも友人との気軽な外出の延長だとしても。
彼にとってこの休日は、特別だった。何でもないように見える会話の合間に、何度も彼女の表情を盗み見てしまう。歩幅は自然と彼女に合わせられ、彼女の仕草一つ一つに気を取られている自分に、内心少し呆れすら感じていた。
まだ冷たさの残る春先の風が、石畳の隙間を縫うように吹き抜ける。その時、ふとオデットが足を止めた。視線の先には、露店の一角に並ぶティーセットがある。彼女はそのまま近づいていき、棚に並べられたその中の一つを手に取った。光に翳すように角度を変えて持ち上げる。
「――これ、あなたに似合いそうね」
質感を確かめるように指先で縁をなぞりながら、何気なく言う。
その言葉に少し驚きながら、横から覗き込むように、彼女の手元を見た。端正な白磁の地にガーターブルーの差し色と控えめな金彩の縁取り。品格を備えながらも、どこか柔らかさのある意匠を施されたティーカップは、確かにシグルスから見ても好ましいと思えるデザインだった。だが――、
「……僕に?」
「ええ」
思わず問い返せば、オデットは軽く頷き、視線をカップに落としたまま続ける。
「うちに置こうかと思うのだけれど、どうかしら?」
その一言に、眉がわずかに寄る。
――彼女の家に、置く?
首を少し捻りながら、もう一度問い返した。
「……僕の家ではなく?」
「あなたのじゃなくて、私の家よ」
まるで当たり前のことのように言うその声に、言葉を失った。オデットはカップの状態を確認するように持ち直す。そしてほんの僅かに首を傾げて、こちらを見上げた。目が合った瞬間、どきりと胸が鳴る。シグルスは心の動揺を悟られまいと、軽く肩を竦めた。
「……どういう意味だ?」
「あなた、もうすっかり私の家に入り浸ってるじゃない」
オデットが笑う。
「だったら、専用のカップがあってもいいかと思って」
そのひと言に、時が止まったように感じられる。
あなたに似合いそう、と言われた時はてっきりプレゼントの話だと思っていた。贈り物ならば、まだ想定の範囲だ。誕生日や記念日、あるいはほんの気まぐれに。そういうこともあり得るだろう。
しかし、これは違う。そう単純な話ではなかった。
だから、シグルスは咄嗟に言葉を返せなかった。酷く胸が騒いで、落ち着かない。
「それは……いや、君の気持ちは嬉しいが……。どう、受け取ればいいのか……」
精一杯、努めて冷静に答えたつもりだった。
一方で、オデットは眉一つ動かさず、不思議そうに首を傾げる。
「何か、変なことを言ったかしら。単なるお礼のつもりよ。あなた、いつも手土産ばかり持ってくるでしょう?」
「つまり、……君なりのお返しってことか?」
「そういうこと」
オデットは肩を竦めてあっさりと答えると、手にしたカップを店主に差し出し、値段の交渉に移った。真剣な表情で価格について話し始める彼女の横顔は、いつもと変わらない静けさを湛えている。シグルスはその隣に立ち、彼女と店主の会話にそっと耳を傾けながら、内心ではただ一つのことを反芻していた。
――彼女が、僕に似合うと思って選んだカップを「僕専用」として、あの家に置く。
繰り返すように、その言葉の意味を噛み締めた。オデットにとっては、ただの合理的な配慮なのかもしれない。だがそう言われてしまうとまるで、自分の存在が彼女の中ではすでに当然のものと受け入れられているようで――。
呆れるような、安堵するような、胸を締め付けられるような複雑な感情が渦巻いていた。軽い調子で告げられる彼女の言葉一つ一つに、深く揺れてしまう。滑稽にすら感じながら、それでもその視線は彼女の背中から離れなかった。
シグルスはそっと額を手で抑え、自嘲気味に笑う。
――まさか、彼女が僕のために何かを選んでくれる日が来るとは。
――嬉しい。どうしようもないくらいに。
*
「――君に訊いておきたかったことがあるんだ。君の、前の結婚について」
その問いが口をついたのは、オデットが何気なく「夫の遺した資産のおかげで不自由はないわ」と言ったときだった。紅茶のカップを手にしたまま、シグルスは彼女の表情を注意深く見つめる。先日、外出先で彼女が見繕い、この家に彼専用として設えられたティーカップ――その中にはまだ半分ほど紅茶が残っていたが、今は口にする気にはなれなかった。
シグルスがまだ言葉を探している気配を察して、オデットは何も言わずに静かに紅茶を啜り、待っていた。
「政略結婚だったことは知っている。……だが、君が彼をどう思っていたのか、それだけはちゃんと聞いたことがなかったと思ってね」
「それを今さら聞くの?」
「今さらだからこそ、改めて訊いておきたい。……もちろん、君が話したくなければ、それで構わない」
「……」
オデットは「なぜ?」とは聞き返さなかった。彼女は少しだけ眉を上げて、シグルスを見たが、やがて静かにカップを置き、膝の上で指を組み合わせる。そのまま、窓の方へと視線を流した。――沈黙。それは、迷いや逡巡によるものというよりは、すでに片付けてしまった記憶の在処を思い出そうとしているような間だった。
やがて、彼女は静かに口を開いた。
「――あの人は、私を愛していたわ。今になって思えば、それは確かに本心だったのだと思う。でも、私は……」
そこまで言うと、ふと口を噤み、目を伏せる。
続きを口にするのをためらうように、静かに首を左右に振った。
「……ともかく、彼との結婚で、私はブリュンヒルデの名を捨てることができた。あの家を出て、そして今は彼が早くに亡くなったことで、この家で私自身の自由意志によって生活を築けている。――それは確かに、彼のおかげよ。皮肉だけど」
飾らずに淡々と語られたそれらは、紛れもない事実である。
結婚当初、彼女にとっての慰めは、ブリュンヒルデの一員ではなくなるという、僅かな解放だけだった。たとえそれで自分の生き方が何一つ変わらなくとも、それで十分だと諦めていた。――しかし、彼女の亡夫は、魔術師としての血筋と能力に加えて、他にも高い利用価値を見込んで、ブリュンヒルデ家が選び抜いた人間だ。
だから、その彼が不慮の事故により早世したことで、オデットは彼の妻として、十分すぎる資産を相続し、未亡人という身分を得て、今の自由を手に入れることになった。そのどちらかが欠けていても――彼女は今もなお、生家の意向に縛られながら他者が選んだ人生を生きることになっていたはずだ。
シグルスは低く控えめな声で重ねて訊ねる。あの葬儀の日からずっと胸に抱えたまま、言葉に出来なかった問いを、ようやく口にした。
「――君は、彼の死を惜しんでいないように見えた」
オデットはため息にも似た呼吸を一つ置いて、シグルスの方へと向き直る。
「……やっぱり、気付いていたのね」
その口元には、わずかな微笑みが添えられていた。
「惜しんだことはないわ。感謝しているのは、その結果に対して。彼の愛情に対してではないから。私は――……彼を愛せなかった。それでも、彼の妻としての役割と義務は果たしたつもりよ。食事の好みも、予定の管理も、交友関係も、すべて彼に合わせていた。――でも、それだけ。本当に、それだけ。そういう人間だもの、私は」
それは、正直な告白だった。オデットにとって、結婚とは『義務』であり、彼は『その義務を果たすべき相手』に過ぎなかった。愛情はもちろん、尊敬すらなかった。
結婚する前も、家のために自我を抑えるように育てられ、縁談も当然のように当人の意志など関係なしに決められた。そうして始まった結婚生活の果てに、思いもよらない形で訪れた自由――これを歓迎する以外の気持ちなど、あるはずもない。
その言葉を聞き、シグルスは無意識に拳を握る。
「――つまり、君にとって結果的には悪くない結婚だった、ということか」
「ええ。言い方は悪いけど、私にしては運が良かったほうだと言えるでしょうね」
彼女は静かにそう言って、冷めかけた紅茶に口を付けた。
その言葉に、シグルスは複雑な気持ちになる。彼女が夫の死を悼んでいないことは、薄々感じていた。……だが、ここまで率直に「運が良かった」と言われると、どこか釈然としない。その声には、恨みも悲しみもなかった。ただ淡々と、すでに終わった過去を語る口調。その言葉も、おおよそは想像していた通りのものだった。
そのはずなのに、実際に耳にしてみると、妙に胸に引っかかる。それは彼女の人生において愛し、愛されるということがいかに希薄だったかを、まざまざと突きつけられるようだったから――。
「そんな顔をしなくてもいいのに」
オデットはくすりと笑いながら、シグルスの表情を見やった。
「でも、そうね……。あなたも知ってのとおり、夫が生きていた間はそれなりに取り繕っていたわ。だから、もし彼がもっと長生きしていたら――」
「……?」
「私は今も彼の妻として、そのままの人生を受け入れていたでしょうね」
淡々としていた。まるで、そういう人生もあり得たのだと、ただの可能性として語ることができる。シグルスにとって、それは紛れもなく、オデットらしい在り方のように思えた。彼女は現実を、そして自分自身を正確に見つめて生きている。感情を持たないわけでも、思考を放棄しているわけでもないのに、それらに決して左右されない。常に、厳格に。望む望まずに関わらず、与えられたものを受け入れて生きる。
彼女は、ずっとそうして生きてきたのだ。
「でも、もうその必要はないわね」
オデットはやはり、一切の遺恨もないというように穏やかに微笑んでいた。
「……未練は?」
「ひとつも」
「――そうか。よく分かったよ」
しばらく彼女を見つめ、それから僅かに皮肉めいた笑みを浮かべた。
――もし、彼女の夫が生きていたら。今こうしてシグルスと気兼ねなく茶を飲み交わすことも『友人』として過ごすことも。……彼女は許容しなかっただろう。
窓の外で、風に揺れた木の葉がさらりと音を立てる。シグルスはその音に耳を傾けながら、ソファに深く背を預けた。彼女が語る言葉はどれも冷静で、過去に対する悼みの色すらなかった。それどころか、その幕引きを肯定していた。
――だからこそ、今。
彼女の隣にいる自分の存在が、彼女にとってどう映っているのかを、少しだけ知りたくなる。過去に未練がないのなら、
――未来の話をしても、構わないだろうか?
そんな言葉が喉元まで上がっては、結局、胸の内へと戻っていく。
ふと、オデットの視線がシグルスの手元に向けられた。注がれた紅茶は、会話に気を取られているうちにすっかり冷めていた。
「紅茶、まだ残ってるわね。……冷めてしまったみたい」
「……別に構わないさ」
シグルスはカップを見つめながら、少し掠れた声でそう答える。
それから、冷えきった紅茶をひと口だけ含んだ。香り高かった紅茶は温かくも、甘くもない、ただの味気ない液体に成り果てていた。
「――シグルス」
名を呼ばれて、彼は顔を少しだけ上げる。
「あなたはどう思っていたの? 私の結婚を」
問いかける声は、ただ事実を確認するような乾いた調子だった。
「……。……ずっと、気掛かりだった。でも結局、僕は。……何も言える立場じゃなかったからな。僕がどう思っていたかなんて、もう重要じゃないだろう」
「そう。……だったら、」
オデットは静かに立ち上がると、シグルスのカップを手で示しながら言った。
「冷めた紅茶は、ここまでにしましょう。――新しいのを淹れさせて」