Blessings
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ある戯曲に『運命は、舵を取らぬ船さえも岸へと運ぶ』という一節がある。
その日、オデットは二十余年の人生において初めて、運命の悪戯という言葉の意味を考えることになった。彼女の人生は、いついかなる時も規律と義務に左右されており、その身の振り方は常に誰かの手の中で決定され、管理されてきた。若くして婚姻を結び、その姓を変え、誰かの妻となった経験さえも彼女にとってはそんな人生の延長でしかない。
彼女にとって結婚とは、生家・ブリュンヒルデ家から今の夫への――オデットという女の【所有権の譲渡】でしかなかったから。
暖炉で炎が小さく爆ぜる音を聞きながら、オデットはふと窓の外へと目をやった。
外はとっくに暗くなっている。暗い空の下、街灯の明かりだけが滲む静かな夜に彼女は一人、家のリビングのソファーで何をするでもなく座っていた。
夫は、まだ帰らなかった。夕食の支度はとっくに整えていたが、一人で手を付けるわけにもいかず、時折窓の外を眺めては、ただ静かに時計の針が進むのを待つ。帰りが遅れるとは聞いていなかった。……だが、それ自体も、そう珍しいことではない。
時間が長らく過ぎて、そう考えていた矢先、玄関の扉を叩く音がした。
すでに来客が訪ねてくるには遅い時間で、夫であればノッカーを使う必要はないはずだ。誰がこんな時間に、と不審に思いながらもオデットが扉を開けに行くと、そこには外套を着た一人の男が立っていた。その風貌に上から下まで素早く視線を走らせて、僅かに眉を顰める。
見覚えは、ない。
しかし、彼が何者であるかは一目見ただけでおおよその察しが付いた。どこか沈鬱な面持ちで男は手に帽子を持ち、深く頭を下げる。彼が「夜分遅くに」という前口上を述べ、自分の身分を明かした時、すでに彼女は胸騒ぎを覚えていた。
「……何でしょう」
そう尋ねると男は一度、軽く息をついた。それから「申し上げにくいことですが」と前置きし、慎重な口調で「それ」を語る。
「――本日、ご主人が出先で事故に遭われました」
「事故……?」
「はい。現地での確認によれば、不慮の転落事故とのことです」
「……」
「詳しい状況につきましても、すでに組織の方で確認が取れております。ご遺体も確認され、事件性はないと判断されました。ご家族にすぐお知らせするようにとの指示を受け、こちらに伺った次第です」
男はオデットの様子を伺うように、丁寧に言葉を選んでいた。
あの人が、死んだ――?
事故で。突然に。
――あまりにも、呆気なく。
そして、彼女はすぐに理解した――もたらされた訃報が、この結婚生活の終わりを意味するということを。幼い子供の頃から、まさに今この時に至るまでそうしてきたように。あと何十年も粛々と耐え続けなければならないと思っていた生活が、まさに一瞬で霧散した。思いのほか、早く。オデットは、そのことばかりに気を取られていた。
「……奥様?」
戸口に立ったままの男が、不安げに自分を見ている事に気付いた。オデットはゆっくりと瞬きをして、対面する男を見上げる。相手は、当然のように沈痛な面持ちを浮かべていた。
「お気を確かに。……突然のことで、お気持ちが追いつかないのも無理はありませんが」
気遣うような言葉が掛けられた。意図が分からず、オデットは一瞬だけ戸惑う。
――何のことかしら。
……ああ、そうか。自分は今、夫の訃報を伝えられたのだった。
男が何を気にしていたのかを察して、オデットは意識的に少し視線を下げる。主人が死んだと突然聞かされて平静でいられる妻などいないはずだ。彼女が沈黙を保っていたことで言葉にできないほどの深い悲しみに暮れているのだと考えたのだろう。そう思うのは、当然の流れだ。……しかし、オデットはこれまで、夫に対して一片の愛情も抱いたことはなかった。
――だからだろうか。
彼の死に、何も感じなかった。本当に、何も。胸の奥にじわじわと広がり出すこの感情は恐らく、悲しみなどではない。オデットはそれを理解していた。だが、今はまだこれに名前を与えるべきではないと、理性が制した。
オデットは静かに瞼を閉じる。息を整え、背筋を伸ばす。
「……いいえ、大丈夫です」
落ち着いた声で答える。男が目を見開いた。
「……」
「夜遅くに、わざわざ知らせに来てくださってありがとうございます。どうか、くれぐれもお気を付けてお帰りください」
「……あの、奥様……」
戸惑うように男が口を開くが、オデットは表情一つ変えなかった。その気丈な振る舞いが男の目にどう映ったかは分からない。男は一瞬、何かを言いかける素振りを見せたが――結局、目を伏せ、再び深く頭を下げた。
「この度は、心より……お悔やみ申し上げます」
その言葉にオデットはただ静かに微笑み、もう一度頷きを返した。夜の街へと消えていくその背中を見送ってから扉を閉めたオデットは、現実を噛みしめるようにゆっくりと振り返る。
――静寂が、家の中には満ちていた。
この静けさに、もう誰かの足音が混じることはない。永遠に。
彼女は小さく息を吐き、ひとり、またリビングのソファーへと腰を下ろした。
*
空は灰色に曇り、雨が降っていた。
喪服に身を包み、傘を差して墓地に佇むシグルスはひとり、思案に暮れている。
友人――オデットの夫の訃報を聞いた時は、驚いた。不慮の事故により三十代半ばという若さにして急逝した優秀な魔術師の死を悼む者は多かったようだ、と葬儀に参列した顔ぶれを目に考える。シグルス自身は、故人と深い親交があったわけではない。しかし、理由くらいはいくらでも用意できる。そうして、今この場に立っていた。
葬儀はすでに終わり、弔問客の数もまばらになっている。少し離れた場所でオデットが他の参列者に別れの挨拶をしている姿が見えた。遠目に眺めていても、彼女は涙一つ見せず、寡婦としての品位を保ち続けている。若くして夫を亡くしたとは思えぬほど、毅然とした佇まいを崩さない――と称賛されていた噂は、一点の曇りもなく真実であるように見えた。その様子を眺めながら、シグルスは再び考える。
——彼女は、どう思っているのだろうか。
伴侶を失った人間が抱く感情は当然、悲しみであるべきだ。世間の常識では、そうと決まっている。だが、彼女に関しては、その単純な図式がまるで当てはまらないような気がしていた。
知っていたからだ。
オデットの結婚生活が、彼女にとって決して幸福なものではなかったことを。
オデットが、今は棺の中で眠る男から暴力を振るわれていたことを。
彼女の夫の振る舞いは、シグルスの価値観において「好ましい」とは到底言えないものだった。看過できない類いのものですらあった。しかし、
――今は、これでいいの。
そう言って、オデットは微笑んだ。それが正常ではないと理解していながら「よくあること」だと許容することを選んでいた。
――妙な噂が立てば、夫の立場に関わるわ。
オデットは確かに、夫に寄り添う良き妻だった。その若さに見合わないほどの聡明さと思慮深さで、いかなる時も夫の立場を気遣い、支え、義務を果たすことのできる女性だった。だが、
――本当はどうだっていいけれど、私はそれを気遣わないわけにはいかないの。彼の妻である以上、それくらいは配慮しなくてはならないでしょう?
シグルスの前で見せた言動は時に異様なほど冷たかった。まるで、夫と呼ぶ男に対して、一切の感情を持っていないようにも見えた。だからこそ、あの男の死を彼女がどう受け止めているのか――シグルスには分からなかったのだ。
悲しんでいるのかもしれない。あるいは、喜んでいるのかもしれない。心の中で後者であってほしいと願う自分には気付いている。……それを、卑劣だと恥じた。
もし、彼女が悲しんでいたなら、今この場に来るべきではなかったし、彼女が喜んでいたなら、それを知った自分は、安堵してしまうかもしれなかったから。
こんなことを考えている時点で、どちらであっても自分は彼女の夫が死んだことを一種の「好機」だと捉えているのではないか――? その考えに至ったとき、シグルスは唇を引き結んだ。
――なんて、狡い……。
深く息を吐いて、目を閉じる。
ずっと、惹かれていた。オデットが、まだ誰のものでもなかった頃から。
しかし、再会を前に彼女はすでに政略結婚によって別の男の妻となっていたことを知った。その結婚が決して幸福なものではなかったとしても。――他ならぬ彼女自身がそれを受け入れていたのだから、自分もまた、その現実を受け入れるしかなかった。
それが、今。彼女は、ひとりになった。
いや、正確には、元に戻ったと言うべきかもしれない。……だが、彼女の内心がどうであれ、今の自分が彼女の傍にいようとする理由は、本当に正しいと言えるのだろうか。オデットが寡婦となった今、自分が彼女の『友人』として振る舞おうとすることは、あまりに都合のいい話に思えた。まるで、そうやって彼女の心の隙間に入り込もうとしているだけのようではないか。
――いや、違う。彼女の支えになりたいと思うのは、確かに自分の本心だ。
……だが、それは本当に彼女のためなのか? それとも、
「――シグルス?」
不意に名前を呼ばれた気がして、我に返る。反射的に顔を上げたシグルスは、思わず息を呑んだ。そこには、傘を差して立つオデットの姿があった。
柔らかな微笑みを浮かべながら、彼女が言う。
「あなたも来てくれたのね」
驚いた。まさか、彼女の方から声をかけてくれるとは思わなかったから。オデットが自分に対して、常にどこかで線を引いていたことに、シグルスは気付いていた。
――誤解されてしまうかもしれないわ。
その理由は、かつて彼女に言われた言葉が全てだろう。
いくら旧知の仲とはいえ、今のシグルスとオデットはもう、あの時の少年と少女ではない。一人の男と伴侶を持つ女性。思い出の中だけにしか存在しない友情を懐かしむだけの他人同士で、特別な名前すら与えることができない関係だった。だからこそ、彼女の方からこうして声をかけてくれたことなど、これまで一度もなかったのに。
「……どうしたの? そんな顔をして」
傘を差しながら、オデットは首を傾げるようにしてシグルスを見つめた。その瞳には、涙の跡も、翳りも何もない。それが、かえって彼の心をかき乱した。
「いや……、君が、大丈夫なのかと思ってね」
ようやく絞り出した声は、自分でも思っていた以上に沈んでいた。オデットは一瞬だけ考え込むように視線を逸らしたが、すぐに眦を緩めて答える。
「私は平気よ。あなたの方こそ、大丈夫?」
「……僕のことはどうでもいいだろう。変な話だな。こんな状況で、君が僕の心配をするだなんて」
「そうかしら。あなた、どう見ても私より沈んだ顔をしているわよ」
「……そう見えるか?」
「ええ、まるで私より悲しんでいるみたい」
「……」
どこか揶揄うような声色でそう指摘されて、思わず言葉を失う。
オデットはしばし沈黙したシグルスを眺めていたが、やがて小さく息を吐いた。
「――もし時間があるなら、お茶でも一緒にどうかしら」
「……今からか?」
「ええ、今から。私も少し疲れたし、貴方もせっかく来てくれたんだもの。久しぶりに話しましょう。夫のことばかり考えていても、仕方ないでしょう?」
――夫のことばかり考えている人間が、そんなことを言うのか?
胸の中を、戸惑いが過ぎる。オデットから、お茶に誘われた。まるで散歩の途中で、偶然会ったような気軽さで。彼女自身の息抜きのためというよりは、シグルスの気を紛らわせるために、気を遣われたようにすら感じられた。
そんなオデットの誘いになんと返すべきか、シグルスはほんの一瞬だけ迷う。
「……いいのか」
「もちろん、あなたさえ良ければね」
「……君が、そう言うなら」
シグルスは、曖昧に笑った。オデットもその返答に満足するように、笑みを深めた。喪に服しているはずのオデットに気遣われるなど、何かが根本的におかしいと思いながら、それでもシグルスは断れなかった。断る気も、きっとなかった。
オデットが「――ああ」と何かに気付くような声を上げて、空を見上げる。
「ちょうど止んだみたいね」
空はいまだ雲に覆われたままだったが、このところ絶え間なく降り続いていた雨は、いつの間にか止んでいた。オデットは手にしていた傘をそっと閉じ、静かに一歩を踏み出す。
「行きましょうか」
二人が足を向けたのは、教会の通りを少し外れた先にある古いティールームだった。店員に案内されたのは廊下の奥にある小さな個室。扉を開けた先の室内は、ランプの柔らかい光に満ちている。二人掛けテーブルの片側に腰を下ろしたオデットは、膝の上で手袋を丁寧に外した。それに倣って、シグルスも彼女の向かいの席へと座る。
ほどなくして、控えめなノックの音と共に銀のトレイを手にした店員が現れた。
テーブルに置かれたティーセットには、白磁に繊細な青の小花があしらわれている。オデットは慣れた手つきで二人分のティーカップに紅茶を注ぐ。ふわりとアールグレイの香りが部屋に広がった。「どうぞ」と差し出されたカップを「どうも」と言って受け取る。
それから二人は、どちらからともなく言葉を交わし始めた。取り立てて弾むような話題があったわけではない。時折、沈黙が訪れて、互いにカップへと視線を落とす時間もあった。しかし、その沈黙すら必要以上に埋める必要を感じさせなかった。静寂の合間にカップを傾ける彼女もそう感じてくれていたらいいとシグルスは何度も思った。
まるで、ずっと以前からこんな時間を過ごしてきたかのように。――あまりに自然すぎてふと忘れてしまいそうになる。実際には、シグルスがオデットとティールームを訪れたのは、これが初めてのことだったのに。紅茶を前に、こうして他愛のない話を交わせる日が来るなど、かつては思いもしなかったはずなのに。
ふと、オデットの視線が遠くを見るように窓の外へと向けられる。曇り空の切れ間から、ごく僅かに陽が差していた。葬儀の間も、その後のやり取りでも、彼女は微笑みはするがほとんど感情らしい感情を表に出さない。その横顔を見つめて、シグルスが尋ねた。
「……僕に、何かして欲しいことはないか?」
その問いかけに、オデットがゆっくりと視線を戻す。首をわずかに傾げて、眉を下げた。
「……そういえば、以前も似たようなことを聞いたわね。どうしてそこまで気を回すの?」
そう問い返されて、シグルスは言葉に詰まった。理由など、彼の中ではとうに明白だった――彼女に惹かれているからだ。ずっと、ずっと前から。だが、それを今、口にするのは間違っている。夫を喪ったばかりの彼女に、そんな想いをぶつけて何になる。困らせるだけだ。
あるいは、もう二度とこうして彼女の隣に座ることすらできなくなるかもしれない。
それは、どうしても避けたかった。
幸いにして、オデットの声色に責めるような響きはない。それどころかむしろ、戸惑っているようにすら見える。きっと、本当に思い至らないのだろう。どうして、シグルスが彼女を気にかけるのかを。それならば――。
「……友人だから、だろう」
僅かに目を伏せて、そう答える。幾ばくかの罪悪感が喉の奥に重く残った。それらを奥へ押し流すように、当然といった表情を取り繕いながらカップを傾ける。
オデットはすぐには言葉を返さず、考え込むようにカップの縁へと指先を滑らせた。やがて、彼女は再びシグルスに問いかける。
「――ところで、普通の友人とは……どういうものなの?」
「何……?」
シグルスは思わず手にしていたカップを揺らし、聞き返した。オデットは少しだけ気まずそうに唇を引き結びながらも、至って真剣な眼差しで彼を見ている。
友人とは、何か。
オデットにとってそれは、率直な疑問だった。友人とはどういう関係なのか。何をもって、そう呼ぶのか。彼女は、他者との距離を常に管理されるのが当たり前の環境で育ってきた。名家に生まれた娘として、親しくする相手は選ばれ、慎重に制限されていた。結婚後はなおのこと。夫以外との交流など、ある程度決まった範囲でのものに留まっていたのは言うまでもない。
加えて、彼女は元々イングランド北部の出身で、結婚と同時に姓を変え、夫の意向でロンドンへ移り住んでいる。形式的な交際相手や知人はそれなりにいたものの、それらはすべて「夫人」としての立場を前提とした関係ばかりだった。
だから――友人とは何か、と考えても、実のところ彼女には答えがなかった。
分からないのだ。彼女の生きてきた環境では「個」として誰かと親しくなるという経験があまりにも乏しかった。
しかし、シグルスが自分を「友人だから」と言って気にかけてくれるのならば、その関係の定義くらい、きちんと理解しておくべきだろうとオデットは思ったのだ。だが、それを彼に問うこと自体が、恥ずかしくもあった。二十年以上生きてきて、そんな基本的なことも知らないのかと、思われはしないかと。
――まあ、この人も魔術師だけど……。
カップを口元に運びながら、オデットは目を逸らす。
……結局、今こうして自分の前に座っているシグルスもまた同じ、魔術師の世界に属する側の人間だ。世間一般の「普通」とは違う環境で育ち、生きている。皮肉なことに、たとえ彼が本当に『友人』だとしても、その関係は普通とは程遠いのかもしれない――そんな考えが、わずかに胸を掠めていた。
一方で、シグルスは少し訝しむようにオデットを見つめていたが、やがて静かに視線を落とし、慎重に言葉を探すように間を置いた。
「――例えば、」
思案を挟みながら、シグルスは続きを口にする。
「困った時に手を貸したり、食事に誘ったり、世間話をしたり、なんでもないことで笑い合ったり……時間があれば話し相手になるし、必要なら助言もする――そういうものを友人と呼ぶのだと、僕は思う」
「……そう。なら、あなたはずいぶんと面倒見のいい『友人』だわ」
「それは、相手が君だからだ」
「……。私は貴方の友人なのね」
「僕はそう思っていた。……君は違うのか」
オデットは、ふっと唇の端を引いた。それが微笑みだったのかどうか、シグルスには判別がつかない。ただそれは、彼女にしてはとても珍しい表情だった。
「――それならまた、貴方の時間がある時にお茶に付き合って。たまに、私の話し相手になってくれる?」
その言葉を耳にした瞬間、シグルスの胸は確かに音を立てて高鳴った。
――オデットが、自分に対して何かを望んだ。それは初めてのことだった。
彼女は常に自立していて、誰かの手を借りることを良しとせず、誰かに頼ることにも慣れていない。そんな彼女が、自分と「また話したい」と言ったのだ。それだけで、シグルスには十分だった。
彼女は、自分を拒んではいないと、感じられたことが。
少なくとも、もう二度とこうした時間が訪れないのでは、という不安は、今はない。喜びが、胸の中に静かに満ちていくのを感じた。しかし、それを表に出すわけにもいかなかった。
――彼女の友人でいると決めた以上、ここで舞い上がるなど愚かにも程がある。
シグルスは紅茶をひと口含み、慎重に気持ちを整えた。
「――ああ、もちろんだ」
あくまで自然に、落ち着いた口調で答えた。
オデットは満足そうに頷くと、カップをソーサーの上に静かに戻す。
「決まりね」
その一言に、シグルスはそっと視線を伏せた。
――彼女の望みが、僕と過ごす時間であるなら、それでいい。それが『友人』という形でも、今はまだ十分だ。……それ以上を望むには、あまりに早すぎるだろう。
だから今は、この関係を守ろうとシグルスは心に決めた。
*
暖炉の薪がパチ、と静かに弾けた。その音だけが、広々としたリビングに響く。オデットはソファーに身を預け、淡々と届いた封書を選別していた。必要なものとそうでないものを選り分けて、手元に残した数通の手紙。封蝋印と宛名を見て、わずかに眉を上げた。
送り主は、彼女の生家であるブリュンヒルデ家から。宛名の筆跡から、父ではなく母が書いたものだと判る。……どれも封を切る価値すらないものばかりだ。夫の葬儀が終わって間もない頃、生家から最初の一通が届いた。内容は、読む前から予想がついていた――だが、念のため、その一通だけは封を切った。
そうして綴られていた文面を一読したオデットは、思わず笑ってしまった。案の定、冒頭には形式的な哀悼の言葉がほんの数行――その後には当然のように「再婚」を促す話が続いていた。要約すると、
――お前の年齢を考えれば、速やかに次の伴侶を決めるべきだ。
――血筋を絶やすことは許されない。
――お前にはまだ役目がある。
……と、いうような趣旨だった。以降、定期的に届く手紙の内容は、全て再婚に関する話である。夫を喪ったと聞けば、彼らが再婚話を持ちかけてくるのは当然だと予想していたが、正しくその通りだった。
「……くだらない」
呆れとも諦めともつかぬ声がこぼれる。オデットは小さく息をつくと、椅子を離れて暖炉の前へと歩いた。手紙の束を薪の上に置き、火かき棒を手に炎を煽る。すぐに手紙の端が焦げ、やがて赤く燃え上がった。
夫を悲劇的な形で喪ってなお、ブリュンヒルデ家の姿勢は何ひとつ変わらない。その事実に、安堵さえした。彼らにとって、オデットの人生など、今も昔もただ「魔術師の血」を繋ぐための駒に過ぎないのだ。
しかし。ただ、一つだけ違うことがある。
――もう、私は彼らのものではない。
彼らは、すでにオデットという娘の所有権を失っている。生家の意向に従う義理など、もうどこにもない。夫を亡くしたことを、世間に対して悲しんでいると見せる必要はあった。だが、彼の死を悼む理由は、なかった。
なぜなら、オデットは手に入れたのだ。「寡婦」という、理想的な身分を。
既婚の女性には、夫に尽くす義務がある。
独身の女性には、適切な相手と結婚し、子を為す義務がある。
けれど――未亡人には、何の義務もない。オデットはすでに、結婚という形だけの務めを果たした。夫の姓を名乗り、生家の名を捨てた。
そして、夫の早すぎる死によって、再婚を拒むための正当な口実まで手に入れた。
暖炉の火が、最後の灰までも静かに飲み込んでいく。オデットは視線を伏せ、再びゆっくりと椅子に腰を下ろした。カップに残っていた紅茶をひと口含む。
――あの生活に戻るくらいなら、この静寂の中で生きる方がずっといい。
誰にも命じられず、誰の期待にも応えず、ただ自分の意思だけで過ごせる日々。
――夫が死んで、私の人生は、かつてないほど穏やかになった。
まず、社交の場に出る必要がなくなった。喪に服しているという建前が、すべての招待を断る理由になった。誰も彼女を誘わず、彼女もまた、出席する義務がない。少なくとも喪が明けるまでは、どんな誘いも穏やかに辞退できる。……慎ましくあることが、美徳とされる今なら。堂々と家にこもり、好きな時間に起き、誰に気を遣うこともなく食事をとる。好きなだけ本を読み、紅茶を淹れ、静かな午後を過ごすことができる。こんなにも心地よく、自分の時間を生きられる日々があるとは、かつて夢にも思わなかった。
そんな穏やかな日常の中で、ただひとつ、予想外だったことがある。
――それは、シグルスとの交流が始まったことだ。
あの日の約束通り。彼は『友人』として時間があれば家を訪れ、オデットと共にお茶を飲み、他愛ない会話に付き合ってくれた。
――ただ、思っていたよりも、頻繁に。
私は確か「たまにでいい」と言ったはずである。週に一度か、あるいはそれ以下の頻度を想定していた。最初の頃は確かにそのくらいの間隔だったはずだ。けれど、気がつけばその間隔は次第に短くなっていき、最近では週に二度、三度と顔を見せるようになっていた。仕事で忙しいだろうと思っていたのだが、それはどうやら思い違いだったらしい。……もっとも、それで特に困ることがあるわけではない。
他に用事がなければ、紅茶を淹れ、適当に話をし、穏やかな時間を過ごす。
ただ、それだけのことだ。そして、オデットはシグルスと過ごす時間を思いのほか気に入っていた。
それはきっと、彼が彼女に対して、常に程よい距離感を保って接してくれていたからだ。踏み込みすぎず、かといって冷たくもない。過剰な気遣いを見せる素振りもなく、それでいて確かに、気にかけてくれているのがよく分かっていた。
だからオデットは、彼を受け入れた。――再び、友人として。
不意に耳に届いたノッカーの音に、オデットは顔を上げる。一瞬、時計の方へと視線を向けてから、開いていた本を閉じて立ち上がる。考え事をしながら読んでいた本の内容は、ほとんど思い出すことができなかった。軽く体を伸ばしながら、玄関に赴く彼女は思う。
今の私の生活に、彼の存在はすっかり馴染んでしまったようだ、と――。
その日、オデットは二十余年の人生において初めて、運命の悪戯という言葉の意味を考えることになった。彼女の人生は、いついかなる時も規律と義務に左右されており、その身の振り方は常に誰かの手の中で決定され、管理されてきた。若くして婚姻を結び、その姓を変え、誰かの妻となった経験さえも彼女にとってはそんな人生の延長でしかない。
彼女にとって結婚とは、生家・ブリュンヒルデ家から今の夫への――オデットという女の【所有権の譲渡】でしかなかったから。
暖炉で炎が小さく爆ぜる音を聞きながら、オデットはふと窓の外へと目をやった。
外はとっくに暗くなっている。暗い空の下、街灯の明かりだけが滲む静かな夜に彼女は一人、家のリビングのソファーで何をするでもなく座っていた。
夫は、まだ帰らなかった。夕食の支度はとっくに整えていたが、一人で手を付けるわけにもいかず、時折窓の外を眺めては、ただ静かに時計の針が進むのを待つ。帰りが遅れるとは聞いていなかった。……だが、それ自体も、そう珍しいことではない。
時間が長らく過ぎて、そう考えていた矢先、玄関の扉を叩く音がした。
すでに来客が訪ねてくるには遅い時間で、夫であればノッカーを使う必要はないはずだ。誰がこんな時間に、と不審に思いながらもオデットが扉を開けに行くと、そこには外套を着た一人の男が立っていた。その風貌に上から下まで素早く視線を走らせて、僅かに眉を顰める。
見覚えは、ない。
しかし、彼が何者であるかは一目見ただけでおおよその察しが付いた。どこか沈鬱な面持ちで男は手に帽子を持ち、深く頭を下げる。彼が「夜分遅くに」という前口上を述べ、自分の身分を明かした時、すでに彼女は胸騒ぎを覚えていた。
「……何でしょう」
そう尋ねると男は一度、軽く息をついた。それから「申し上げにくいことですが」と前置きし、慎重な口調で「それ」を語る。
「――本日、ご主人が出先で事故に遭われました」
「事故……?」
「はい。現地での確認によれば、不慮の転落事故とのことです」
「……」
「詳しい状況につきましても、すでに組織の方で確認が取れております。ご遺体も確認され、事件性はないと判断されました。ご家族にすぐお知らせするようにとの指示を受け、こちらに伺った次第です」
男はオデットの様子を伺うように、丁寧に言葉を選んでいた。
あの人が、死んだ――?
事故で。突然に。
――あまりにも、呆気なく。
そして、彼女はすぐに理解した――もたらされた訃報が、この結婚生活の終わりを意味するということを。幼い子供の頃から、まさに今この時に至るまでそうしてきたように。あと何十年も粛々と耐え続けなければならないと思っていた生活が、まさに一瞬で霧散した。思いのほか、早く。オデットは、そのことばかりに気を取られていた。
「……奥様?」
戸口に立ったままの男が、不安げに自分を見ている事に気付いた。オデットはゆっくりと瞬きをして、対面する男を見上げる。相手は、当然のように沈痛な面持ちを浮かべていた。
「お気を確かに。……突然のことで、お気持ちが追いつかないのも無理はありませんが」
気遣うような言葉が掛けられた。意図が分からず、オデットは一瞬だけ戸惑う。
――何のことかしら。
……ああ、そうか。自分は今、夫の訃報を伝えられたのだった。
男が何を気にしていたのかを察して、オデットは意識的に少し視線を下げる。主人が死んだと突然聞かされて平静でいられる妻などいないはずだ。彼女が沈黙を保っていたことで言葉にできないほどの深い悲しみに暮れているのだと考えたのだろう。そう思うのは、当然の流れだ。……しかし、オデットはこれまで、夫に対して一片の愛情も抱いたことはなかった。
――だからだろうか。
彼の死に、何も感じなかった。本当に、何も。胸の奥にじわじわと広がり出すこの感情は恐らく、悲しみなどではない。オデットはそれを理解していた。だが、今はまだこれに名前を与えるべきではないと、理性が制した。
オデットは静かに瞼を閉じる。息を整え、背筋を伸ばす。
「……いいえ、大丈夫です」
落ち着いた声で答える。男が目を見開いた。
「……」
「夜遅くに、わざわざ知らせに来てくださってありがとうございます。どうか、くれぐれもお気を付けてお帰りください」
「……あの、奥様……」
戸惑うように男が口を開くが、オデットは表情一つ変えなかった。その気丈な振る舞いが男の目にどう映ったかは分からない。男は一瞬、何かを言いかける素振りを見せたが――結局、目を伏せ、再び深く頭を下げた。
「この度は、心より……お悔やみ申し上げます」
その言葉にオデットはただ静かに微笑み、もう一度頷きを返した。夜の街へと消えていくその背中を見送ってから扉を閉めたオデットは、現実を噛みしめるようにゆっくりと振り返る。
――静寂が、家の中には満ちていた。
この静けさに、もう誰かの足音が混じることはない。永遠に。
彼女は小さく息を吐き、ひとり、またリビングのソファーへと腰を下ろした。
*
空は灰色に曇り、雨が降っていた。
喪服に身を包み、傘を差して墓地に佇むシグルスはひとり、思案に暮れている。
友人――オデットの夫の訃報を聞いた時は、驚いた。不慮の事故により三十代半ばという若さにして急逝した優秀な魔術師の死を悼む者は多かったようだ、と葬儀に参列した顔ぶれを目に考える。シグルス自身は、故人と深い親交があったわけではない。しかし、理由くらいはいくらでも用意できる。そうして、今この場に立っていた。
葬儀はすでに終わり、弔問客の数もまばらになっている。少し離れた場所でオデットが他の参列者に別れの挨拶をしている姿が見えた。遠目に眺めていても、彼女は涙一つ見せず、寡婦としての品位を保ち続けている。若くして夫を亡くしたとは思えぬほど、毅然とした佇まいを崩さない――と称賛されていた噂は、一点の曇りもなく真実であるように見えた。その様子を眺めながら、シグルスは再び考える。
——彼女は、どう思っているのだろうか。
伴侶を失った人間が抱く感情は当然、悲しみであるべきだ。世間の常識では、そうと決まっている。だが、彼女に関しては、その単純な図式がまるで当てはまらないような気がしていた。
知っていたからだ。
オデットの結婚生活が、彼女にとって決して幸福なものではなかったことを。
オデットが、今は棺の中で眠る男から暴力を振るわれていたことを。
彼女の夫の振る舞いは、シグルスの価値観において「好ましい」とは到底言えないものだった。看過できない類いのものですらあった。しかし、
――今は、これでいいの。
そう言って、オデットは微笑んだ。それが正常ではないと理解していながら「よくあること」だと許容することを選んでいた。
――妙な噂が立てば、夫の立場に関わるわ。
オデットは確かに、夫に寄り添う良き妻だった。その若さに見合わないほどの聡明さと思慮深さで、いかなる時も夫の立場を気遣い、支え、義務を果たすことのできる女性だった。だが、
――本当はどうだっていいけれど、私はそれを気遣わないわけにはいかないの。彼の妻である以上、それくらいは配慮しなくてはならないでしょう?
シグルスの前で見せた言動は時に異様なほど冷たかった。まるで、夫と呼ぶ男に対して、一切の感情を持っていないようにも見えた。だからこそ、あの男の死を彼女がどう受け止めているのか――シグルスには分からなかったのだ。
悲しんでいるのかもしれない。あるいは、喜んでいるのかもしれない。心の中で後者であってほしいと願う自分には気付いている。……それを、卑劣だと恥じた。
もし、彼女が悲しんでいたなら、今この場に来るべきではなかったし、彼女が喜んでいたなら、それを知った自分は、安堵してしまうかもしれなかったから。
こんなことを考えている時点で、どちらであっても自分は彼女の夫が死んだことを一種の「好機」だと捉えているのではないか――? その考えに至ったとき、シグルスは唇を引き結んだ。
――なんて、狡い……。
深く息を吐いて、目を閉じる。
ずっと、惹かれていた。オデットが、まだ誰のものでもなかった頃から。
しかし、再会を前に彼女はすでに政略結婚によって別の男の妻となっていたことを知った。その結婚が決して幸福なものではなかったとしても。――他ならぬ彼女自身がそれを受け入れていたのだから、自分もまた、その現実を受け入れるしかなかった。
それが、今。彼女は、ひとりになった。
いや、正確には、元に戻ったと言うべきかもしれない。……だが、彼女の内心がどうであれ、今の自分が彼女の傍にいようとする理由は、本当に正しいと言えるのだろうか。オデットが寡婦となった今、自分が彼女の『友人』として振る舞おうとすることは、あまりに都合のいい話に思えた。まるで、そうやって彼女の心の隙間に入り込もうとしているだけのようではないか。
――いや、違う。彼女の支えになりたいと思うのは、確かに自分の本心だ。
……だが、それは本当に彼女のためなのか? それとも、
「――シグルス?」
不意に名前を呼ばれた気がして、我に返る。反射的に顔を上げたシグルスは、思わず息を呑んだ。そこには、傘を差して立つオデットの姿があった。
柔らかな微笑みを浮かべながら、彼女が言う。
「あなたも来てくれたのね」
驚いた。まさか、彼女の方から声をかけてくれるとは思わなかったから。オデットが自分に対して、常にどこかで線を引いていたことに、シグルスは気付いていた。
――誤解されてしまうかもしれないわ。
その理由は、かつて彼女に言われた言葉が全てだろう。
いくら旧知の仲とはいえ、今のシグルスとオデットはもう、あの時の少年と少女ではない。一人の男と伴侶を持つ女性。思い出の中だけにしか存在しない友情を懐かしむだけの他人同士で、特別な名前すら与えることができない関係だった。だからこそ、彼女の方からこうして声をかけてくれたことなど、これまで一度もなかったのに。
「……どうしたの? そんな顔をして」
傘を差しながら、オデットは首を傾げるようにしてシグルスを見つめた。その瞳には、涙の跡も、翳りも何もない。それが、かえって彼の心をかき乱した。
「いや……、君が、大丈夫なのかと思ってね」
ようやく絞り出した声は、自分でも思っていた以上に沈んでいた。オデットは一瞬だけ考え込むように視線を逸らしたが、すぐに眦を緩めて答える。
「私は平気よ。あなたの方こそ、大丈夫?」
「……僕のことはどうでもいいだろう。変な話だな。こんな状況で、君が僕の心配をするだなんて」
「そうかしら。あなた、どう見ても私より沈んだ顔をしているわよ」
「……そう見えるか?」
「ええ、まるで私より悲しんでいるみたい」
「……」
どこか揶揄うような声色でそう指摘されて、思わず言葉を失う。
オデットはしばし沈黙したシグルスを眺めていたが、やがて小さく息を吐いた。
「――もし時間があるなら、お茶でも一緒にどうかしら」
「……今からか?」
「ええ、今から。私も少し疲れたし、貴方もせっかく来てくれたんだもの。久しぶりに話しましょう。夫のことばかり考えていても、仕方ないでしょう?」
――夫のことばかり考えている人間が、そんなことを言うのか?
胸の中を、戸惑いが過ぎる。オデットから、お茶に誘われた。まるで散歩の途中で、偶然会ったような気軽さで。彼女自身の息抜きのためというよりは、シグルスの気を紛らわせるために、気を遣われたようにすら感じられた。
そんなオデットの誘いになんと返すべきか、シグルスはほんの一瞬だけ迷う。
「……いいのか」
「もちろん、あなたさえ良ければね」
「……君が、そう言うなら」
シグルスは、曖昧に笑った。オデットもその返答に満足するように、笑みを深めた。喪に服しているはずのオデットに気遣われるなど、何かが根本的におかしいと思いながら、それでもシグルスは断れなかった。断る気も、きっとなかった。
オデットが「――ああ」と何かに気付くような声を上げて、空を見上げる。
「ちょうど止んだみたいね」
空はいまだ雲に覆われたままだったが、このところ絶え間なく降り続いていた雨は、いつの間にか止んでいた。オデットは手にしていた傘をそっと閉じ、静かに一歩を踏み出す。
「行きましょうか」
二人が足を向けたのは、教会の通りを少し外れた先にある古いティールームだった。店員に案内されたのは廊下の奥にある小さな個室。扉を開けた先の室内は、ランプの柔らかい光に満ちている。二人掛けテーブルの片側に腰を下ろしたオデットは、膝の上で手袋を丁寧に外した。それに倣って、シグルスも彼女の向かいの席へと座る。
ほどなくして、控えめなノックの音と共に銀のトレイを手にした店員が現れた。
テーブルに置かれたティーセットには、白磁に繊細な青の小花があしらわれている。オデットは慣れた手つきで二人分のティーカップに紅茶を注ぐ。ふわりとアールグレイの香りが部屋に広がった。「どうぞ」と差し出されたカップを「どうも」と言って受け取る。
それから二人は、どちらからともなく言葉を交わし始めた。取り立てて弾むような話題があったわけではない。時折、沈黙が訪れて、互いにカップへと視線を落とす時間もあった。しかし、その沈黙すら必要以上に埋める必要を感じさせなかった。静寂の合間にカップを傾ける彼女もそう感じてくれていたらいいとシグルスは何度も思った。
まるで、ずっと以前からこんな時間を過ごしてきたかのように。――あまりに自然すぎてふと忘れてしまいそうになる。実際には、シグルスがオデットとティールームを訪れたのは、これが初めてのことだったのに。紅茶を前に、こうして他愛のない話を交わせる日が来るなど、かつては思いもしなかったはずなのに。
ふと、オデットの視線が遠くを見るように窓の外へと向けられる。曇り空の切れ間から、ごく僅かに陽が差していた。葬儀の間も、その後のやり取りでも、彼女は微笑みはするがほとんど感情らしい感情を表に出さない。その横顔を見つめて、シグルスが尋ねた。
「……僕に、何かして欲しいことはないか?」
その問いかけに、オデットがゆっくりと視線を戻す。首をわずかに傾げて、眉を下げた。
「……そういえば、以前も似たようなことを聞いたわね。どうしてそこまで気を回すの?」
そう問い返されて、シグルスは言葉に詰まった。理由など、彼の中ではとうに明白だった――彼女に惹かれているからだ。ずっと、ずっと前から。だが、それを今、口にするのは間違っている。夫を喪ったばかりの彼女に、そんな想いをぶつけて何になる。困らせるだけだ。
あるいは、もう二度とこうして彼女の隣に座ることすらできなくなるかもしれない。
それは、どうしても避けたかった。
幸いにして、オデットの声色に責めるような響きはない。それどころかむしろ、戸惑っているようにすら見える。きっと、本当に思い至らないのだろう。どうして、シグルスが彼女を気にかけるのかを。それならば――。
「……友人だから、だろう」
僅かに目を伏せて、そう答える。幾ばくかの罪悪感が喉の奥に重く残った。それらを奥へ押し流すように、当然といった表情を取り繕いながらカップを傾ける。
オデットはすぐには言葉を返さず、考え込むようにカップの縁へと指先を滑らせた。やがて、彼女は再びシグルスに問いかける。
「――ところで、普通の友人とは……どういうものなの?」
「何……?」
シグルスは思わず手にしていたカップを揺らし、聞き返した。オデットは少しだけ気まずそうに唇を引き結びながらも、至って真剣な眼差しで彼を見ている。
友人とは、何か。
オデットにとってそれは、率直な疑問だった。友人とはどういう関係なのか。何をもって、そう呼ぶのか。彼女は、他者との距離を常に管理されるのが当たり前の環境で育ってきた。名家に生まれた娘として、親しくする相手は選ばれ、慎重に制限されていた。結婚後はなおのこと。夫以外との交流など、ある程度決まった範囲でのものに留まっていたのは言うまでもない。
加えて、彼女は元々イングランド北部の出身で、結婚と同時に姓を変え、夫の意向でロンドンへ移り住んでいる。形式的な交際相手や知人はそれなりにいたものの、それらはすべて「夫人」としての立場を前提とした関係ばかりだった。
だから――友人とは何か、と考えても、実のところ彼女には答えがなかった。
分からないのだ。彼女の生きてきた環境では「個」として誰かと親しくなるという経験があまりにも乏しかった。
しかし、シグルスが自分を「友人だから」と言って気にかけてくれるのならば、その関係の定義くらい、きちんと理解しておくべきだろうとオデットは思ったのだ。だが、それを彼に問うこと自体が、恥ずかしくもあった。二十年以上生きてきて、そんな基本的なことも知らないのかと、思われはしないかと。
――まあ、この人も魔術師だけど……。
カップを口元に運びながら、オデットは目を逸らす。
……結局、今こうして自分の前に座っているシグルスもまた同じ、魔術師の世界に属する側の人間だ。世間一般の「普通」とは違う環境で育ち、生きている。皮肉なことに、たとえ彼が本当に『友人』だとしても、その関係は普通とは程遠いのかもしれない――そんな考えが、わずかに胸を掠めていた。
一方で、シグルスは少し訝しむようにオデットを見つめていたが、やがて静かに視線を落とし、慎重に言葉を探すように間を置いた。
「――例えば、」
思案を挟みながら、シグルスは続きを口にする。
「困った時に手を貸したり、食事に誘ったり、世間話をしたり、なんでもないことで笑い合ったり……時間があれば話し相手になるし、必要なら助言もする――そういうものを友人と呼ぶのだと、僕は思う」
「……そう。なら、あなたはずいぶんと面倒見のいい『友人』だわ」
「それは、相手が君だからだ」
「……。私は貴方の友人なのね」
「僕はそう思っていた。……君は違うのか」
オデットは、ふっと唇の端を引いた。それが微笑みだったのかどうか、シグルスには判別がつかない。ただそれは、彼女にしてはとても珍しい表情だった。
「――それならまた、貴方の時間がある時にお茶に付き合って。たまに、私の話し相手になってくれる?」
その言葉を耳にした瞬間、シグルスの胸は確かに音を立てて高鳴った。
――オデットが、自分に対して何かを望んだ。それは初めてのことだった。
彼女は常に自立していて、誰かの手を借りることを良しとせず、誰かに頼ることにも慣れていない。そんな彼女が、自分と「また話したい」と言ったのだ。それだけで、シグルスには十分だった。
彼女は、自分を拒んではいないと、感じられたことが。
少なくとも、もう二度とこうした時間が訪れないのでは、という不安は、今はない。喜びが、胸の中に静かに満ちていくのを感じた。しかし、それを表に出すわけにもいかなかった。
――彼女の友人でいると決めた以上、ここで舞い上がるなど愚かにも程がある。
シグルスは紅茶をひと口含み、慎重に気持ちを整えた。
「――ああ、もちろんだ」
あくまで自然に、落ち着いた口調で答えた。
オデットは満足そうに頷くと、カップをソーサーの上に静かに戻す。
「決まりね」
その一言に、シグルスはそっと視線を伏せた。
――彼女の望みが、僕と過ごす時間であるなら、それでいい。それが『友人』という形でも、今はまだ十分だ。……それ以上を望むには、あまりに早すぎるだろう。
だから今は、この関係を守ろうとシグルスは心に決めた。
*
暖炉の薪がパチ、と静かに弾けた。その音だけが、広々としたリビングに響く。オデットはソファーに身を預け、淡々と届いた封書を選別していた。必要なものとそうでないものを選り分けて、手元に残した数通の手紙。封蝋印と宛名を見て、わずかに眉を上げた。
送り主は、彼女の生家であるブリュンヒルデ家から。宛名の筆跡から、父ではなく母が書いたものだと判る。……どれも封を切る価値すらないものばかりだ。夫の葬儀が終わって間もない頃、生家から最初の一通が届いた。内容は、読む前から予想がついていた――だが、念のため、その一通だけは封を切った。
そうして綴られていた文面を一読したオデットは、思わず笑ってしまった。案の定、冒頭には形式的な哀悼の言葉がほんの数行――その後には当然のように「再婚」を促す話が続いていた。要約すると、
――お前の年齢を考えれば、速やかに次の伴侶を決めるべきだ。
――血筋を絶やすことは許されない。
――お前にはまだ役目がある。
……と、いうような趣旨だった。以降、定期的に届く手紙の内容は、全て再婚に関する話である。夫を喪ったと聞けば、彼らが再婚話を持ちかけてくるのは当然だと予想していたが、正しくその通りだった。
「……くだらない」
呆れとも諦めともつかぬ声がこぼれる。オデットは小さく息をつくと、椅子を離れて暖炉の前へと歩いた。手紙の束を薪の上に置き、火かき棒を手に炎を煽る。すぐに手紙の端が焦げ、やがて赤く燃え上がった。
夫を悲劇的な形で喪ってなお、ブリュンヒルデ家の姿勢は何ひとつ変わらない。その事実に、安堵さえした。彼らにとって、オデットの人生など、今も昔もただ「魔術師の血」を繋ぐための駒に過ぎないのだ。
しかし。ただ、一つだけ違うことがある。
――もう、私は彼らのものではない。
彼らは、すでにオデットという娘の所有権を失っている。生家の意向に従う義理など、もうどこにもない。夫を亡くしたことを、世間に対して悲しんでいると見せる必要はあった。だが、彼の死を悼む理由は、なかった。
なぜなら、オデットは手に入れたのだ。「寡婦」という、理想的な身分を。
既婚の女性には、夫に尽くす義務がある。
独身の女性には、適切な相手と結婚し、子を為す義務がある。
けれど――未亡人には、何の義務もない。オデットはすでに、結婚という形だけの務めを果たした。夫の姓を名乗り、生家の名を捨てた。
そして、夫の早すぎる死によって、再婚を拒むための正当な口実まで手に入れた。
暖炉の火が、最後の灰までも静かに飲み込んでいく。オデットは視線を伏せ、再びゆっくりと椅子に腰を下ろした。カップに残っていた紅茶をひと口含む。
――あの生活に戻るくらいなら、この静寂の中で生きる方がずっといい。
誰にも命じられず、誰の期待にも応えず、ただ自分の意思だけで過ごせる日々。
――夫が死んで、私の人生は、かつてないほど穏やかになった。
まず、社交の場に出る必要がなくなった。喪に服しているという建前が、すべての招待を断る理由になった。誰も彼女を誘わず、彼女もまた、出席する義務がない。少なくとも喪が明けるまでは、どんな誘いも穏やかに辞退できる。……慎ましくあることが、美徳とされる今なら。堂々と家にこもり、好きな時間に起き、誰に気を遣うこともなく食事をとる。好きなだけ本を読み、紅茶を淹れ、静かな午後を過ごすことができる。こんなにも心地よく、自分の時間を生きられる日々があるとは、かつて夢にも思わなかった。
そんな穏やかな日常の中で、ただひとつ、予想外だったことがある。
――それは、シグルスとの交流が始まったことだ。
あの日の約束通り。彼は『友人』として時間があれば家を訪れ、オデットと共にお茶を飲み、他愛ない会話に付き合ってくれた。
――ただ、思っていたよりも、頻繁に。
私は確か「たまにでいい」と言ったはずである。週に一度か、あるいはそれ以下の頻度を想定していた。最初の頃は確かにそのくらいの間隔だったはずだ。けれど、気がつけばその間隔は次第に短くなっていき、最近では週に二度、三度と顔を見せるようになっていた。仕事で忙しいだろうと思っていたのだが、それはどうやら思い違いだったらしい。……もっとも、それで特に困ることがあるわけではない。
他に用事がなければ、紅茶を淹れ、適当に話をし、穏やかな時間を過ごす。
ただ、それだけのことだ。そして、オデットはシグルスと過ごす時間を思いのほか気に入っていた。
それはきっと、彼が彼女に対して、常に程よい距離感を保って接してくれていたからだ。踏み込みすぎず、かといって冷たくもない。過剰な気遣いを見せる素振りもなく、それでいて確かに、気にかけてくれているのがよく分かっていた。
だからオデットは、彼を受け入れた。――再び、友人として。
不意に耳に届いたノッカーの音に、オデットは顔を上げる。一瞬、時計の方へと視線を向けてから、開いていた本を閉じて立ち上がる。考え事をしながら読んでいた本の内容は、ほとんど思い出すことができなかった。軽く体を伸ばしながら、玄関に赴く彼女は思う。
今の私の生活に、彼の存在はすっかり馴染んでしまったようだ、と――。