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『オデット』とは、イングランド出身の魔術師には名の知られた北部の歴史ある名家ブリュンヒルデ家に生まれた娘の名前だ。
魔術師というのは、遥か昔『伯爵』と呼ばれる始祖の魔術師から血を分け与えられ肉体的にも、精神的にも生き残った人間の血を引く子孫たちのことを言う。魔術師は伯爵の血を継いでいるが故に『魔術』と呼ばれる力を行使することができたが、その代わりに、もう一つの伯爵の発明品である吸血鬼から襲われやすいという体質を持った生き物だった。数百年ほど前にはそれが原因で、増えた下位吸血鬼に次々と襲われ魔術師も一時は数を大きく減らしたと伝えられており、その時代においては近親者で子供を増やしたり、――他にもあまり公にはできないことをして血を維持してきたとも言われている。
ブリュンヒルデ家は魔術師の血筋を純粋に保つことを至上とする純血主義を掲げており、そんな家柄に生まれた娘の未来は首も座らぬ幼児の頃から当然のように決まっていた。幼少期から厳格な規則と制約の中で厳しい教育を受けて育ち、品行方正で見目麗しい淑女としてのふるまいを身につけることを強いられる。
それが、ブリュンヒルデに生まれた女の宿命である。
例に漏れず、オデットもまた同様にそうして育ち、やがて適齢期になると同時に今どき珍しい――とはいえ、魔術師の世界ではよくある――政略結婚で、親類筋に当たる十歳年上の男と結ばれた。
それが彼女の、今の夫である。
よく晴れた爽やかな初夏のある日。オデットは某所で開催された、とあるガーデンパーティーに夫と共に列席していた。定期的に開催されている類いの集まりで、これらは端的に言えば、魔術師と呼ばれる者達がつながりを保っていくために必要とされる交流会の一種である。
庭園の奥で響く、グラスが軽く触れ合う澄んだ音――。
柔らかな陽光が降り注ぐパーティーの会場では、招待客が思い思いに談笑していた。オデットもまた、夫に追従する形で絶えず挨拶や言葉を交わす。適当なタイミングで相槌を打ち、状況に合わせて適切な言葉を返す流れ作業のようなものだった。長年の教育により身に付けさせられた礼儀作法と完璧な社交的微笑み。それらがあれば、この場で求められている役割を果たすことは、彼女にとって造作もないことだ。
「お二人とも、本日も素晴らしくお似合いですな」
「お褒めにあずかり光栄です」
隣に立つ夫が穏やかに応じたのに倣うように、オデットも微笑む。
「本当に、お美しいご夫婦ですわ。お二人の姿を見ていると、結婚とはかくあるべきだと思わされますわね」
「まあ、そんな。お恥ずかしい」
美しいクイーンズ・イングリッシュでつらつらと謙虚な言葉を返しながら、オデットは淑やかに笑う。
それが彼女の、『妻』の役割だから。
老夫妻に対し、夫が当たり障りのない言葉を返していた。しかし、その声は次第に耳の奥で遠ざかっていく。
――退屈。
そんな言葉が脳裏をよぎった。冷ややかな内心を完璧に切り離した微笑みを浮かべたまま、オデットは会場を一瞥する。
こんな集まりに、一体何の意味があるというのだろう。どれほど丁寧で洗練された会話を交わしていようと、この場には誰一人として本当の意味で心を通わせている人はいない。誰もがそれを理解しながらも、形式的に互いを賞賛し、微笑みを交わす。
魔術師とは、普通の人間には持ち得ない力を持っているというのに、生まれながらに個で生存していくことが困難な生き物だ。故に、魔術師たちのコミュニティーは狭い。だからこそ消えないしきたり、というものもある。この集まりもまた、連綿と続く風習、その一環に過ぎない。彼らにとって社交とは義務であり、競争である。その内情はともかくとして、適当な会話で、適切な人間関係を築いていくこと。あるいはそのフリをして、それらを積み重ねていくことこそ、意義のあることだと信じているのだ。
だから、これに意義を見い出せずあまりにも空虚だと、軽蔑の目を向けるオデットの考えこそ異端なのだろう。――とはいえ、やはり皮肉にも、彼女のこんな内心と現実とは関係がないのだ。夫の立場をより良くするために、妻として最良の振る舞いをすること。
それが、自分に求められている役割の一つであり、課せられた義務だと割り切って平然と心を切り離すことが出来てしまう。そういうふうに育てられたのだから。
「……オデット、どうした?」
ふと、夫の視線を感じその方を見れば、訝しむような目が自分に向けられていることにオデットは気付く。
「ごめんなさい、あなた。……少し疲れてしまったみたいで、休んできてもいいかしら?」
「ああ、もちろん。……素敵な邸宅と庭園だ。せっかくだから、少し散策してくるといい」
夫は二つ返事に、妻の求めを特に疑うこともなく受け入れた。彼女は静かに頷くと手にしていたグラスを控えめにテーブルに置く。そして、優雅な足取りでその場を離れる。社交場の喧騒から少しでも遠く逃れるために、主賓の邸宅へと足を踏み入れた。
オデットは昔から、こういった社交場を好かない。生来の気質によるものだろうか、物心つく前からすでにそうだ。……とはいえ「好きではないから」を許される環境に生きてはいなかった彼女は、これまでも必要に際して上手く立ち回り、こうして時々抜け出した。だから、昔から一人になれる場所を探し出すのが上手かった。
陽の光が差し込む誰もいないテラスへ出ると、やっとわずかな解放感が胸に広がる。喧騒から距離を置き、心が落ち着くこの静寂――それこそが、彼女が求めていたものだ。パーティー会場とは対角に位置した場所にいる間は束の間とはいえ、庭の芝を踏み荒らす人々の騒めきを遠くへと締め出すことができる気がした。
手すりに手を置いて青空を仰ぎ、ただ風の流れるままに思考を手放す。
「……疲れた」
小さくそう呟いた。思わずこぼれた言葉に気付いて、オデットは意識的に唇を引き結ぶ。――そんなことは、考えても、どうにもならないことだ。
この人生は、今までもこれからも、自分のものではないのだから。
不意に、風が吹いた。
髪が靡くだけには留まらない、背を押し出すような強い風。思わず目を瞑り耐えようとしたオデットの肩から、身につけていたストールが巻き上げられた。微かな香りとともに、風に遊ばれるように軽やかに腕を離れたそれは、宙を舞い、ゆっくりと羽根のように落ちていく。
あっ、と声を上げるよりも先に、オデットの身体は動いていた。無意識に風に攫われたものを追いかけるように手を伸ばし、手すりの向こうへと身を乗り出す――次の瞬間、ふっと足元の感覚が消えた。
――ああ、
落ちる、と思いながら僅かに目を見開いたオデットは、丁度指先に引っ掛かったストールを手繰り寄せるように握り込んだ。つま先は床を離れ、そのまま視界は緩やかに傾く。重力が身体を引っ張った。そのまま、宙へと身体が投げ出されそうになった寸前――。
「……――ッ!」
誰かが、名前を呼んだ。強く、鋭く。響く声が耳を打つ。
同時に腹部へと伸びた力強い腕が、抱え込むようにオデットの身体を柵の内側へと引き戻した。
「……、?」
何が起こったのかを理解するより早く、すぐ近くで聞こえる短い息遣い。オデットが恐ると視線を上げると、青灰色の瞳が間近でこちらを見つめていた。
その眉間には深い皺が刻まれ、明らかな苛立ち――否、不安を滲ませている。
「っは……君は、相変わらず危なっかしいな」
低く響く、静かな声だった。顔馴染みのない男の、聞き覚えがあるはずのない声だというのに、掛けられた言葉にオデットの目が僅かに見開かれる。一瞬、思考が追い付かなかった。しかし、自分はこの男の名前を知っている。
――シグルス。
記憶の奥底に沈んでいた名前が、確信を持ってよみがえった。幼い頃にたった一度、短い夏を共に過ごしただけの少年の姿が脳裏をよぎる。
オデットは一拍遅れて、自分がテラスから落ちかけたことと、寸前のところで彼に助けられたのだということに、ようやく理解が追いついた。それから背後から抱き抱えるように、腹部に回された腕が自らの身体を支えている状況に気付く。
シグルスの腕の中で静かに息を整えたオデットは、努めて冷静を装った。驚きも恐怖も表には出さず、ただ礼儀正しく感謝の言葉を紡ぐ。
「……助けてくださって、ありがとうございます」
そのまま胸を軽く押すように示せば、シグルスの腕はその意志に添うように容易く解かれた。吊り上げられるように半ば浮きかけていた踵を下ろした際に、僅かに身体がふらつく。それを支える杖となるように、さり気なく手が差し伸べられた。
「……」
その手の温もりさえ早々に手放して、オデットは一歩、距離を取るように姿勢を正す。そして、改めて目の前に立つ男性を見上げた。
青灰色の髪と瞳、精悍な顔立ち、気品のある佇まい――その中に、久しく思い出すこともなかった記憶の中から引っ張り出された少年の面影を探す。
しかし、彼の姿はあの頃とは何もかも違って見えた。当然と言えば、当然だ。あの頃からすでに十年以上の時が流れているのだから。だからこそ……不思議だ。顔を見ても目の前の男と『シグルス』という少年は結び付かないのに今の自分が、彼を『シグルス』だと確信していることが。
――こんな形で再会するなんて、思ってもみなかった。
僅かな面影だけを残して、いつの間にか少年ではなくなっていたその姿を、オデットは静かに見つめた。
「……、ごめんなさい。お顔を存じ上げないようで……」
オデットはわざと、気付いていないフリをした。今の自分が彼と対話を始めるには、この距離感からが適切だと判断したからだ。シグルスは一瞬、何か言いたげに視線を彷徨わせた。しかし、幸いにもすぐに意図を理解したように目を伏せる。
「……そうか、無理もない」
そう呟くと、彼は微かに肩を竦める。
「フレデリック。フレデリック・ルカ・シグルスだ。君とは――子供の頃、何度か顔を合わせたことがある」
「まあ……。シグルス、貴方なの?」
その名を聞いた瞬間、オデットはあえて大袈裟にならない程度に小さく目を見開き、声の調子は変えないまま、あくまでも、社交の一環としての微笑みを添えた。
「久しぶりね」
何事もなかったように、旧知との偶然の再会を歓迎する素振りを見せる。
「貴方も招待されていたの?」
まるでパーティの最中に顔を合わせ、偶然の再会を喜ぶ貴婦人さながら、といった様子でそう問いかけた。いつも通りどこまでも品よく所作や声色、表情一つさえ、徹底的に管理する。……そうして壁を築き上げたことに、彼ならきっとすぐ気付くだろうと思った。
シグルスが僅かに目を細める。彼の瞳がこちらを射抜くように見つめてきたが、それもほんの一瞬のことだった。息を吐き、ついと所在なさげに視線が逸らされる。
「――ああ、付き合いでね」
短く返した彼の声は、昔よりも低く落ち着いていた。
「元気にしていた?」
「それなりに。君は……ずいぶん変わったな」
「そうかしら」
オデットは肩を竦めて見せる。変わったと言われても彼女にとっては実感がなかった。しかし、長い間顔を合わせることもなかったのだから、シグルスがそういった感想を抱くのも不思議ではない。
二人はテラスに並び立って庭園を眺め、言葉をいくつか交わした。その間にはどうしようもなく長い年月が横たわっていたが、昔馴染みだからだろうか。案外、穏やかな心持ちで話ができるものだとオデットは思っていた。
「君がこうした社交場にいるのは、少し意外だ」
「ええ、私もそう思うわ」
オデットは同意を示しながら、薄く笑う。
「でも、妻としての役目もあるもの」
「妻、」
「私、結婚したの。――知らなかった?」
オデットは手すりに置いていた左手を少し持ち上げ、視線を向ける。淡い色の手袋に隠された薬指に嵌まる結婚指輪を確かめるような所作だった。その姿を横目に、シグルスが目を伏せる。
「……噂では聞いた」
「――そう。なら話が早いわね。私の夫にも会ったことがあるかしら」
「いや、残念ながら。……相手はどんな男だ?」
「……。いい人よ。少なくとも私の家が望んだ通りの」
「……そうか」
シグルスは何も言わなかった。短く返された声には何かを探るような色が滲んでいたが、それ以上の言葉は続かない。オデットもわざわざこの話題に関する話を続けたいと思っていなかったので沈黙した。会話の切れ目に合わせるように、テラスに穏やかな風が吹き込む。
昔馴染みとはいえど、シグルスは未婚の男性で、オデットはすでに人妻の身である。礼節を守り、引くべき一線は引いておかなくてはならない。お互いのために。懐かしい友人との久方ぶりの再会だというのに、昔話に花を咲かせるでもなく、あくまでも形式を保った世間話の延長で言葉を交わした。
しかし、オデットはこれで満足だった。
彼女はこの退屈な一日において、最も穏やかな心持ちで実りある会話を楽しんでいるという認識でさえあった。シグルスがオデットの立場を尊重し、配慮を持って接しようと努めていることに、気付いていたからだ。今日という一日が、ほんの少しだけマシになったような気分だった。
だから、もう少しだけここにいたい。――そんなことを思った時、
「――オデット」
不意に、背後から声がかけられた。低く、落ち着いた声色で響く呼び声。
シグルスがその方へと視線を向けるよりも早く、オデットの肩は僅かに強張る。穏やかな時間の終わりを早々に悟った彼女は静かに息を吐き、気持ちを切り替えるように堅く目を閉じた。
「探したよ」
そこには一人の男が立っていた。彼はシグルスの存在を一瞥し、すぐに柔和な笑みを浮かべる。男は軽い足音を立てながらオデットの方へと歩み寄った。洗練された身なりと落ち着いた物腰、それでいて隙のない立ち振る舞いの立派な紳士に見えることだろう。オデットは男の方を振り向くと、静かな声で「……あなた」と呼んだ。
男――オデットの夫は、穏やかな口調でシグルスに向き直り、礼儀正しく言う。
「――失礼。妻が長く戻らないので、少し心配になりまして」
表面上は急に声をかけて会話に割って入ったことを謝罪する姿勢を見せつつも、同時に、牽制を言葉の端々に滲ませている。その口調には、どこか探りを入れるような響きがあった。シグルスはほんの一瞬、オデットの方へと視線を向けたが、すぐに戻す。表情を変えないまま、軽い会釈を返した。
「――お構いなく」
返答は、簡素だった。見知らぬ相手にもドアを押さえて譲る時のように。シグルスはオデットの伴侶に対し、「会ったことがない」と言っていたが、自ら交流を望もうと考えているような姿勢は一切見せない。ただ、それだけのやり取りだった。
夫の視線が、続いてオデットへと向けられる。視線が交わる、直後――伸ばされた腕がオデットの腰に回された。まるでその存在を確かめるように、あるいは、見せつけるように、力強く引き寄せられる。事実、その手に込められた力は配慮に欠けていて、まるで「これは自分の所有物である」と示すかのように強かった。
「私の妻が、……長々とお邪魔してしまったようで。我々はこれにて失礼させていただきます」
言葉の裏には、静かな牽制と所有の意思が滲んでいる。
いくら二人が夫婦といえど、女性に対し礼節に欠けているとしか思えぬ扱いに関しても、オデットは何も言わずにいる。夫の意志と行動に従順に従い、されるがままといった様子だった。微笑みを浮かべていたが――シグルスの目には、彼女のほんの僅かな緊張が映る。
「――そろそろ戻ろうか、オデット」
その目が鋭く細められていることに、オデットは気付く。
元来、妻とは夫の所有物なのだから、それに伺いを立てる必要などない。この認識は、彼女が送る結婚生活の前提だった。気遣うような問いかけが、念の為と意思を確認する類の伺いではないことを彼女はよく知っていた。細腰に食い込む手が、その所有欲の強さを雄弁に語る。どこから話を聞いていたのかは定かではないが、夫に立ち聞きされてもなんらやましい話など一切していない。しかし、
――シグルスと話している姿を見て、いい気はしなかったのでしょうね。
夫にとっては、それだけで『十分』なのだ。
オデットは一度、シグルスの方を見た。彼は変わらず沈黙を保っていたが、自分をじっと見つめている。見られたくない姿を見られてしまったような気分になり、目を伏せて控えめな微笑みを浮かべ直す。
「……私はそろそろ失礼するわ」
「そうか。また、機会があれば」
「ええ。……また、機会があれば」
そう曖昧に言葉を残し、オデットは夫の意に従うように歩き出す。背中に残されたシグルスの視線を感じながら、彼女は静かに前を向いた。
*
あのガーデンパーティーでの再会以降。シグルスという男は、オデットにとっての悩みの種になりつつあった。まあ、悩みといっても、深刻な類いのものではない。いつものように夫の隣に控え、妻として社交的な義務を果たす最中――ふと、目を逸らした場所に、シグルスの姿を見つけてしまうことが増えた……と、いうだけのことである。シグルスはいつも離れた壁際に立ってこちらを見ていて、偶然その方を向いたオデットと目が合った事に気付くと、すぐに何事もなかったかのように視線を逸らす。この繰り返しだった。
このロンドンに活動拠点を置く魔術師たちのコミュニティーは広くない。それゆえ集まりに積極的に参加すると顔馴染みと遭遇する機会は増え、顔を合わせる可能性も必然的に高くなる――という事情を考慮したとしても、このところ彼の顔を見る機会が確実に増えていた。すでに、偶然とは言えない頻度で。
まるで意図的に、オデットが出席する場に居合わせているかのように――。とはいえ、それで声をかけてくる訳でもないというのも、やはり奇妙だと感じる。
それが、妙に気に掛かっていた。
――今日も、いた。
控えめな照明の落ちる小さなサロンの一角。ソファーに腰掛けるオデットは、初老の婦人と談笑を楽しみながら、横目に捉えた男の姿に小さく息を吐いた。見たところ、彼は珍しく同世代くらいの年齢と思わしき男性と共に、真面目な表情で何かしらのやり取りを交わしているようだ。
今日の集まりには、オデット一人で出て来ていた。元々は夫婦での出席予定だったが、今朝がた、夫が急を要する別件に招集されたためだ。……気楽ではあったが、もちろん面白いことは何もないので、適当に過ごしタイミングを見て、早々に帰ってしまおうと考えていた。
――探りをいれるなら、ちょうどいい機会だけど……。
少し考えた末、結局は気にしないフリをしておくのが最善だろう、とオデットは判断した。面倒なことになる予感がしたからだ。彼女が感じるこの手の直感は大抵の場合、外れた試しがない。避けられる災難であるならば、わざわざそれに寄りつく必要はないだろう。
しかし、こうして心を決めた直後、シグルスの方からオデットに声をかけてきた時、彼女は思わず瞠目した。シグルスから「少し話せるか」と言われたオデットは、僅かにためらいながらも頷きを返し、もう少し静かに話せる場所へと二人で移動する。シグルスと話すこと自体は、特別問題視されるようなことではないだった。長々と二人きりで密室に隠れて話し込む――という訳でもないのなら尚更、オデットにとっては何の問題もない。むしろ、適当な理由もなく断ってしまう方が、デメリットが大きい。オデットは外聞などを考慮した上でそう考えたが、この時の判断を後悔する事になることを、彼女はまだ知らなかった。
オデットの予感は大抵、当たる。予測できる面倒事に自ら寄りつく必要はない――ただしそれは、それが本当に避けられる問題であったのなら、という話だ。更に厄介なことに彼女はこの人生において、大概の場合、予測し得た面倒事を事前に回避できた試しなど、ほとんどなかったのである。それを、完全に失念していた。
シグルスの背を追いかける形でサロンを離れ、オデットは同じ建物内にある一部屋へと足を踏み入れた。彼女はまず、軽く周囲を見回した。
応接室と似た間取りの部屋になっているが、壁面には書棚が並び、色褪せた背表紙の本が隙間なく収められている。資料室――というよりは書斎。あるいは小さな図書室と形容するのが適切な雰囲気の一室だった。一線を画す静けさに満ちた部屋の中で、オデットは興味を引かれ、書棚に立ち並ぶ本の背表紙を眺める。
一方、シグルスはそのまま部屋の中央付近を横切って、そこが定位置だとでもいうように窓際に向かう。そんな彼に対し、オデットは書棚へと顔を向けたまま、ふと思い出したような声色で尋ねた。
「ねえ、シグルス――私たち、最近よく顔を合わせると思わない?」
そう言いながら、本を確かめようとするように腕を上げる。……しかし、革製の背表紙を指でなぞった彼女は、それらがよく出来たフェイクブックだと、すぐに気付いた。書棚から早々に興味を無くし、窓辺に立つシグルスに視線を向ける。
「……そうかもしれないな」
問いかけに対して、そんなふうに曖昧な回答を返したシグルスは、やはりオデットを見ていた。
「……」
既視感のある視線と立ち位置に、彼女は僅かに辟易する。誰であろうと、一方的に観察するような目を向けられるのは、気分が良いものではない。いい加減、文句のひとつでも言ってやろうか――そう思い始めたオデットだったが、彼女は文句の代わりに再び問いを投げた。
「それで、私に何の用かしら」
シグルスはすぐには答えず、少しの間、言葉を選ぶように視線を落とした。何かを迷っている、そんな印象だ。やがて、……ゆっくりと視線を上げた彼が、射貫くように自分を見つめるその瞳には、何かの確信が宿っていた。
「――君の腕にある痣について聞いても?」
その問いかけに思わず、呼吸が止まった。シグルスに対し、鋭い視線を向けながらも、表情を隠すように微笑みを浮かべてオデットは聞き返す。
「……何の話?」
「誤魔化さなくていい。偶然見えたんだ」
強く問い詰めるでもなく、ただ事実を告げるだけの響きを持った声。その静けさがかえって、オデットの胸を小さな棘のように刺す。そこでようやく、彼女は気付いた。シグルスの視線が、彼女が先ほど本を見るために持ち上げた腕へと向けられていることに。
「……なんでもないわ」
「本当にそうか?」
「ええ」
オデットは一瞬表情を強張らせたが、さらりと言い返すと手を下ろして袖を整える。小さく息を吐きながら腕を組み、書棚へと背を預けるようにして立った。
――偶然、見えた。……気付かれた。
薄手の袖口から、僅かに覗いた――指の形を残すかのような痣に。オデットが元々痣になりやすい体質だというのもあったが、これが彼女の身体に付いた経緯は明白にして単純だ。
オデットの夫には、――悪癖があった。あの男は日頃、人前では品行方正な紳士として振る舞うが、家庭では時折、妻を美術品のように扱いながらも、その価値を貶める事に喜びを見出す倒錯的な欲求を発露させることがあった。自分の所有物に対して、偏執的な愛の言葉を口にしながら、人の尊厳を踏み躙ることに悦びを覚える。そんな悪癖が。それ自体は、大したことではない。今までも度々あったことだ――。しかし、そうした行為の後に体に残った痕跡を、他人に気付かれてしまったのはこれが初めてだった。
――今日はいつもより、気を抜きすぎていたのかもしれない。
華やかなパーティーとは違い、平服で参加する場だから衣服で隠せばいいだろうと肌に化粧を施さなかったことは自分の落ち度だったとオデットは目を伏せる。それもこれも、元はといえば全て夫の不道徳な行為が原因ではあるが。
オデットはシグルスの表情を観察しながら、自嘲気味に笑う。気付かれた相手がシグルスであったことが――幸か不幸かはわからなかった。
「――オデット、」
シグルスは何かを言いかけるように口を開き、そのまま唇を引き結ぶ。その一瞬の沈黙が、何よりも雄弁だった。詳細な経緯を語らずとも、彼の中ですでにピースは嵌まってしまったことをオデットは察する。
「……何かできることはないか?」
それは慎重で、真摯な問いかけだった。
だからこそ、オデットは緩やかに首を横に振った。
「ないわ。貴方の気遣いはありがたいけど――」
言いかけた言葉を一度切り、シグルスの目をじっと見つめる。
「……早く戻りましょう。誤解されてしまうかもしれないわ。噂好きな方々は、余計な詮索をするでしょう? それは、貴方にとっても本意ではない――違う?」
その言葉に対してもう一度、「オデット」と呼びかけたシグルスの声には、微かな苛立ちが滲んでいた。そんなことはどうでもいいと言いたげな表情をしているのにそれ以上の言葉を続けられずに手指を握り込める。その様子を眺めていたオデットは目を逸らしながら、微笑みを浮かべた。
「……。ありがとう、シグルス。でも貴方が気にすることじゃないわ、本当に。よくあることよ、貴方は存じ上げないでしょうけど――」
「よくある、だと――?」
「……」
話を遮るようにシグルスが聞き返したことで、言葉選びを間違えた事に気付いたオデットは珍しく閉口する。――思っていたより、動揺していたらしい。オデットが伝えたかったのは、魔術師同士の政略結婚で結ばれた夫婦には形は違えど何らかの機能不全が起こることは『よくあること』だからと言いたかったのだが、――今の言い方ではまるで、オデットが常日頃から夫の暴力に晒されているようではないか。
実際、今の会話でシグルスはオデットが身を置く状況を「誤解」してしまったようだった。
――これが原因で妙な噂が立とうものなら、夫の沽券に関わる。
オデットはただ自らが果たすべき、義務を案じていた。
「……言ったでしょう。貴方が気にすることじゃないわ」
オデットは口元に微笑みを浮かべる。それはあまりに凪いだ空虚な表情だった。他人事のように紡がれた言葉に、シグルスは思わず顔を歪める。
「君がそう言っても……!」
シグルスは寸前まで感情を抑え込もうとした葛藤と努力を滲ませるような悲鳴にも似た声を上げる。
――彼女の前で声を荒げていい理由など何一つない。
シグルスはそれを理解していたが、このまま黙っていることも同じくらいに耐え難かった。彼の胸に渦巻く感情は、怒りだ。彼女の夫にも、そんな形で彼女が暮らしているという事実に対しても――激しい憤りを覚えていた。
すると不意に、オデットが「シグルス」と呼んだ。少し声を低く落とした、咎めるような声色で。彼女は視線を下げて、淡々と続ける。
「――今は、これでいいの」
その言葉が自らの本心ではないと分かっていても、オデットにはそう言わなければならない現実がある。シグルスは奥歯を噛み締めた。
これでいいはずがないだろう、と喉まで出かかった言葉を飲み込む。何を言っても、彼女の意志は変わらないと分かっていたから。……だから、冷静にならなくてはならない。腹の底で熱を持って疼く怒りを理性で抑えつけて、やっと一言、呟くように言った。
「……何か、僕に力になれることはないか」
それを耳にしたオデットは、わずかに驚くように目を瞬かせる。考えるように「そうね……」と呟くと、やがて子供を諭すような声色でこう言った。
「……もし、これで妙な噂が立てば、夫の立場に関わるわ。本当はどうだっていいけれど、私はそれを気遣わないわけにはいかないの。彼の妻である以上、それくらいは配慮しなくてはならないでしょう?」
オデットは腕を擦りながら、静かにシグルスを見つめる。
その声はあくまで穏やかだった。
しかし、遠回しな言葉の奥に「だから黙っていて」という意図が込められていることを、汲み取れないはずがない。彼は苦虫を噛み潰したかのような顔で、目を逸らす。だが、結局は同意を示すように静かに頷きを返した――眉間に深い皺を寄せたまま。それに対して、オデットは安堵するように「ありがとう」と微笑むのだった。
魔術師というのは、遥か昔『伯爵』と呼ばれる始祖の魔術師から血を分け与えられ肉体的にも、精神的にも生き残った人間の血を引く子孫たちのことを言う。魔術師は伯爵の血を継いでいるが故に『魔術』と呼ばれる力を行使することができたが、その代わりに、もう一つの伯爵の発明品である吸血鬼から襲われやすいという体質を持った生き物だった。数百年ほど前にはそれが原因で、増えた下位吸血鬼に次々と襲われ魔術師も一時は数を大きく減らしたと伝えられており、その時代においては近親者で子供を増やしたり、――他にもあまり公にはできないことをして血を維持してきたとも言われている。
ブリュンヒルデ家は魔術師の血筋を純粋に保つことを至上とする純血主義を掲げており、そんな家柄に生まれた娘の未来は首も座らぬ幼児の頃から当然のように決まっていた。幼少期から厳格な規則と制約の中で厳しい教育を受けて育ち、品行方正で見目麗しい淑女としてのふるまいを身につけることを強いられる。
それが、ブリュンヒルデに生まれた女の宿命である。
例に漏れず、オデットもまた同様にそうして育ち、やがて適齢期になると同時に今どき珍しい――とはいえ、魔術師の世界ではよくある――政略結婚で、親類筋に当たる十歳年上の男と結ばれた。
それが彼女の、今の夫である。
よく晴れた爽やかな初夏のある日。オデットは某所で開催された、とあるガーデンパーティーに夫と共に列席していた。定期的に開催されている類いの集まりで、これらは端的に言えば、魔術師と呼ばれる者達がつながりを保っていくために必要とされる交流会の一種である。
庭園の奥で響く、グラスが軽く触れ合う澄んだ音――。
柔らかな陽光が降り注ぐパーティーの会場では、招待客が思い思いに談笑していた。オデットもまた、夫に追従する形で絶えず挨拶や言葉を交わす。適当なタイミングで相槌を打ち、状況に合わせて適切な言葉を返す流れ作業のようなものだった。長年の教育により身に付けさせられた礼儀作法と完璧な社交的微笑み。それらがあれば、この場で求められている役割を果たすことは、彼女にとって造作もないことだ。
「お二人とも、本日も素晴らしくお似合いですな」
「お褒めにあずかり光栄です」
隣に立つ夫が穏やかに応じたのに倣うように、オデットも微笑む。
「本当に、お美しいご夫婦ですわ。お二人の姿を見ていると、結婚とはかくあるべきだと思わされますわね」
「まあ、そんな。お恥ずかしい」
美しいクイーンズ・イングリッシュでつらつらと謙虚な言葉を返しながら、オデットは淑やかに笑う。
それが彼女の、『妻』の役割だから。
老夫妻に対し、夫が当たり障りのない言葉を返していた。しかし、その声は次第に耳の奥で遠ざかっていく。
――退屈。
そんな言葉が脳裏をよぎった。冷ややかな内心を完璧に切り離した微笑みを浮かべたまま、オデットは会場を一瞥する。
こんな集まりに、一体何の意味があるというのだろう。どれほど丁寧で洗練された会話を交わしていようと、この場には誰一人として本当の意味で心を通わせている人はいない。誰もがそれを理解しながらも、形式的に互いを賞賛し、微笑みを交わす。
魔術師とは、普通の人間には持ち得ない力を持っているというのに、生まれながらに個で生存していくことが困難な生き物だ。故に、魔術師たちのコミュニティーは狭い。だからこそ消えないしきたり、というものもある。この集まりもまた、連綿と続く風習、その一環に過ぎない。彼らにとって社交とは義務であり、競争である。その内情はともかくとして、適当な会話で、適切な人間関係を築いていくこと。あるいはそのフリをして、それらを積み重ねていくことこそ、意義のあることだと信じているのだ。
だから、これに意義を見い出せずあまりにも空虚だと、軽蔑の目を向けるオデットの考えこそ異端なのだろう。――とはいえ、やはり皮肉にも、彼女のこんな内心と現実とは関係がないのだ。夫の立場をより良くするために、妻として最良の振る舞いをすること。
それが、自分に求められている役割の一つであり、課せられた義務だと割り切って平然と心を切り離すことが出来てしまう。そういうふうに育てられたのだから。
「……オデット、どうした?」
ふと、夫の視線を感じその方を見れば、訝しむような目が自分に向けられていることにオデットは気付く。
「ごめんなさい、あなた。……少し疲れてしまったみたいで、休んできてもいいかしら?」
「ああ、もちろん。……素敵な邸宅と庭園だ。せっかくだから、少し散策してくるといい」
夫は二つ返事に、妻の求めを特に疑うこともなく受け入れた。彼女は静かに頷くと手にしていたグラスを控えめにテーブルに置く。そして、優雅な足取りでその場を離れる。社交場の喧騒から少しでも遠く逃れるために、主賓の邸宅へと足を踏み入れた。
オデットは昔から、こういった社交場を好かない。生来の気質によるものだろうか、物心つく前からすでにそうだ。……とはいえ「好きではないから」を許される環境に生きてはいなかった彼女は、これまでも必要に際して上手く立ち回り、こうして時々抜け出した。だから、昔から一人になれる場所を探し出すのが上手かった。
陽の光が差し込む誰もいないテラスへ出ると、やっとわずかな解放感が胸に広がる。喧騒から距離を置き、心が落ち着くこの静寂――それこそが、彼女が求めていたものだ。パーティー会場とは対角に位置した場所にいる間は束の間とはいえ、庭の芝を踏み荒らす人々の騒めきを遠くへと締め出すことができる気がした。
手すりに手を置いて青空を仰ぎ、ただ風の流れるままに思考を手放す。
「……疲れた」
小さくそう呟いた。思わずこぼれた言葉に気付いて、オデットは意識的に唇を引き結ぶ。――そんなことは、考えても、どうにもならないことだ。
この人生は、今までもこれからも、自分のものではないのだから。
不意に、風が吹いた。
髪が靡くだけには留まらない、背を押し出すような強い風。思わず目を瞑り耐えようとしたオデットの肩から、身につけていたストールが巻き上げられた。微かな香りとともに、風に遊ばれるように軽やかに腕を離れたそれは、宙を舞い、ゆっくりと羽根のように落ちていく。
あっ、と声を上げるよりも先に、オデットの身体は動いていた。無意識に風に攫われたものを追いかけるように手を伸ばし、手すりの向こうへと身を乗り出す――次の瞬間、ふっと足元の感覚が消えた。
――ああ、
落ちる、と思いながら僅かに目を見開いたオデットは、丁度指先に引っ掛かったストールを手繰り寄せるように握り込んだ。つま先は床を離れ、そのまま視界は緩やかに傾く。重力が身体を引っ張った。そのまま、宙へと身体が投げ出されそうになった寸前――。
「……――ッ!」
誰かが、名前を呼んだ。強く、鋭く。響く声が耳を打つ。
同時に腹部へと伸びた力強い腕が、抱え込むようにオデットの身体を柵の内側へと引き戻した。
「……、?」
何が起こったのかを理解するより早く、すぐ近くで聞こえる短い息遣い。オデットが恐ると視線を上げると、青灰色の瞳が間近でこちらを見つめていた。
その眉間には深い皺が刻まれ、明らかな苛立ち――否、不安を滲ませている。
「っは……君は、相変わらず危なっかしいな」
低く響く、静かな声だった。顔馴染みのない男の、聞き覚えがあるはずのない声だというのに、掛けられた言葉にオデットの目が僅かに見開かれる。一瞬、思考が追い付かなかった。しかし、自分はこの男の名前を知っている。
――シグルス。
記憶の奥底に沈んでいた名前が、確信を持ってよみがえった。幼い頃にたった一度、短い夏を共に過ごしただけの少年の姿が脳裏をよぎる。
オデットは一拍遅れて、自分がテラスから落ちかけたことと、寸前のところで彼に助けられたのだということに、ようやく理解が追いついた。それから背後から抱き抱えるように、腹部に回された腕が自らの身体を支えている状況に気付く。
シグルスの腕の中で静かに息を整えたオデットは、努めて冷静を装った。驚きも恐怖も表には出さず、ただ礼儀正しく感謝の言葉を紡ぐ。
「……助けてくださって、ありがとうございます」
そのまま胸を軽く押すように示せば、シグルスの腕はその意志に添うように容易く解かれた。吊り上げられるように半ば浮きかけていた踵を下ろした際に、僅かに身体がふらつく。それを支える杖となるように、さり気なく手が差し伸べられた。
「……」
その手の温もりさえ早々に手放して、オデットは一歩、距離を取るように姿勢を正す。そして、改めて目の前に立つ男性を見上げた。
青灰色の髪と瞳、精悍な顔立ち、気品のある佇まい――その中に、久しく思い出すこともなかった記憶の中から引っ張り出された少年の面影を探す。
しかし、彼の姿はあの頃とは何もかも違って見えた。当然と言えば、当然だ。あの頃からすでに十年以上の時が流れているのだから。だからこそ……不思議だ。顔を見ても目の前の男と『シグルス』という少年は結び付かないのに今の自分が、彼を『シグルス』だと確信していることが。
――こんな形で再会するなんて、思ってもみなかった。
僅かな面影だけを残して、いつの間にか少年ではなくなっていたその姿を、オデットは静かに見つめた。
「……、ごめんなさい。お顔を存じ上げないようで……」
オデットはわざと、気付いていないフリをした。今の自分が彼と対話を始めるには、この距離感からが適切だと判断したからだ。シグルスは一瞬、何か言いたげに視線を彷徨わせた。しかし、幸いにもすぐに意図を理解したように目を伏せる。
「……そうか、無理もない」
そう呟くと、彼は微かに肩を竦める。
「フレデリック。フレデリック・ルカ・シグルスだ。君とは――子供の頃、何度か顔を合わせたことがある」
「まあ……。シグルス、貴方なの?」
その名を聞いた瞬間、オデットはあえて大袈裟にならない程度に小さく目を見開き、声の調子は変えないまま、あくまでも、社交の一環としての微笑みを添えた。
「久しぶりね」
何事もなかったように、旧知との偶然の再会を歓迎する素振りを見せる。
「貴方も招待されていたの?」
まるでパーティの最中に顔を合わせ、偶然の再会を喜ぶ貴婦人さながら、といった様子でそう問いかけた。いつも通りどこまでも品よく所作や声色、表情一つさえ、徹底的に管理する。……そうして壁を築き上げたことに、彼ならきっとすぐ気付くだろうと思った。
シグルスが僅かに目を細める。彼の瞳がこちらを射抜くように見つめてきたが、それもほんの一瞬のことだった。息を吐き、ついと所在なさげに視線が逸らされる。
「――ああ、付き合いでね」
短く返した彼の声は、昔よりも低く落ち着いていた。
「元気にしていた?」
「それなりに。君は……ずいぶん変わったな」
「そうかしら」
オデットは肩を竦めて見せる。変わったと言われても彼女にとっては実感がなかった。しかし、長い間顔を合わせることもなかったのだから、シグルスがそういった感想を抱くのも不思議ではない。
二人はテラスに並び立って庭園を眺め、言葉をいくつか交わした。その間にはどうしようもなく長い年月が横たわっていたが、昔馴染みだからだろうか。案外、穏やかな心持ちで話ができるものだとオデットは思っていた。
「君がこうした社交場にいるのは、少し意外だ」
「ええ、私もそう思うわ」
オデットは同意を示しながら、薄く笑う。
「でも、妻としての役目もあるもの」
「妻、」
「私、結婚したの。――知らなかった?」
オデットは手すりに置いていた左手を少し持ち上げ、視線を向ける。淡い色の手袋に隠された薬指に嵌まる結婚指輪を確かめるような所作だった。その姿を横目に、シグルスが目を伏せる。
「……噂では聞いた」
「――そう。なら話が早いわね。私の夫にも会ったことがあるかしら」
「いや、残念ながら。……相手はどんな男だ?」
「……。いい人よ。少なくとも私の家が望んだ通りの」
「……そうか」
シグルスは何も言わなかった。短く返された声には何かを探るような色が滲んでいたが、それ以上の言葉は続かない。オデットもわざわざこの話題に関する話を続けたいと思っていなかったので沈黙した。会話の切れ目に合わせるように、テラスに穏やかな風が吹き込む。
昔馴染みとはいえど、シグルスは未婚の男性で、オデットはすでに人妻の身である。礼節を守り、引くべき一線は引いておかなくてはならない。お互いのために。懐かしい友人との久方ぶりの再会だというのに、昔話に花を咲かせるでもなく、あくまでも形式を保った世間話の延長で言葉を交わした。
しかし、オデットはこれで満足だった。
彼女はこの退屈な一日において、最も穏やかな心持ちで実りある会話を楽しんでいるという認識でさえあった。シグルスがオデットの立場を尊重し、配慮を持って接しようと努めていることに、気付いていたからだ。今日という一日が、ほんの少しだけマシになったような気分だった。
だから、もう少しだけここにいたい。――そんなことを思った時、
「――オデット」
不意に、背後から声がかけられた。低く、落ち着いた声色で響く呼び声。
シグルスがその方へと視線を向けるよりも早く、オデットの肩は僅かに強張る。穏やかな時間の終わりを早々に悟った彼女は静かに息を吐き、気持ちを切り替えるように堅く目を閉じた。
「探したよ」
そこには一人の男が立っていた。彼はシグルスの存在を一瞥し、すぐに柔和な笑みを浮かべる。男は軽い足音を立てながらオデットの方へと歩み寄った。洗練された身なりと落ち着いた物腰、それでいて隙のない立ち振る舞いの立派な紳士に見えることだろう。オデットは男の方を振り向くと、静かな声で「……あなた」と呼んだ。
男――オデットの夫は、穏やかな口調でシグルスに向き直り、礼儀正しく言う。
「――失礼。妻が長く戻らないので、少し心配になりまして」
表面上は急に声をかけて会話に割って入ったことを謝罪する姿勢を見せつつも、同時に、牽制を言葉の端々に滲ませている。その口調には、どこか探りを入れるような響きがあった。シグルスはほんの一瞬、オデットの方へと視線を向けたが、すぐに戻す。表情を変えないまま、軽い会釈を返した。
「――お構いなく」
返答は、簡素だった。見知らぬ相手にもドアを押さえて譲る時のように。シグルスはオデットの伴侶に対し、「会ったことがない」と言っていたが、自ら交流を望もうと考えているような姿勢は一切見せない。ただ、それだけのやり取りだった。
夫の視線が、続いてオデットへと向けられる。視線が交わる、直後――伸ばされた腕がオデットの腰に回された。まるでその存在を確かめるように、あるいは、見せつけるように、力強く引き寄せられる。事実、その手に込められた力は配慮に欠けていて、まるで「これは自分の所有物である」と示すかのように強かった。
「私の妻が、……長々とお邪魔してしまったようで。我々はこれにて失礼させていただきます」
言葉の裏には、静かな牽制と所有の意思が滲んでいる。
いくら二人が夫婦といえど、女性に対し礼節に欠けているとしか思えぬ扱いに関しても、オデットは何も言わずにいる。夫の意志と行動に従順に従い、されるがままといった様子だった。微笑みを浮かべていたが――シグルスの目には、彼女のほんの僅かな緊張が映る。
「――そろそろ戻ろうか、オデット」
その目が鋭く細められていることに、オデットは気付く。
元来、妻とは夫の所有物なのだから、それに伺いを立てる必要などない。この認識は、彼女が送る結婚生活の前提だった。気遣うような問いかけが、念の為と意思を確認する類の伺いではないことを彼女はよく知っていた。細腰に食い込む手が、その所有欲の強さを雄弁に語る。どこから話を聞いていたのかは定かではないが、夫に立ち聞きされてもなんらやましい話など一切していない。しかし、
――シグルスと話している姿を見て、いい気はしなかったのでしょうね。
夫にとっては、それだけで『十分』なのだ。
オデットは一度、シグルスの方を見た。彼は変わらず沈黙を保っていたが、自分をじっと見つめている。見られたくない姿を見られてしまったような気分になり、目を伏せて控えめな微笑みを浮かべ直す。
「……私はそろそろ失礼するわ」
「そうか。また、機会があれば」
「ええ。……また、機会があれば」
そう曖昧に言葉を残し、オデットは夫の意に従うように歩き出す。背中に残されたシグルスの視線を感じながら、彼女は静かに前を向いた。
*
あのガーデンパーティーでの再会以降。シグルスという男は、オデットにとっての悩みの種になりつつあった。まあ、悩みといっても、深刻な類いのものではない。いつものように夫の隣に控え、妻として社交的な義務を果たす最中――ふと、目を逸らした場所に、シグルスの姿を見つけてしまうことが増えた……と、いうだけのことである。シグルスはいつも離れた壁際に立ってこちらを見ていて、偶然その方を向いたオデットと目が合った事に気付くと、すぐに何事もなかったかのように視線を逸らす。この繰り返しだった。
このロンドンに活動拠点を置く魔術師たちのコミュニティーは広くない。それゆえ集まりに積極的に参加すると顔馴染みと遭遇する機会は増え、顔を合わせる可能性も必然的に高くなる――という事情を考慮したとしても、このところ彼の顔を見る機会が確実に増えていた。すでに、偶然とは言えない頻度で。
まるで意図的に、オデットが出席する場に居合わせているかのように――。とはいえ、それで声をかけてくる訳でもないというのも、やはり奇妙だと感じる。
それが、妙に気に掛かっていた。
――今日も、いた。
控えめな照明の落ちる小さなサロンの一角。ソファーに腰掛けるオデットは、初老の婦人と談笑を楽しみながら、横目に捉えた男の姿に小さく息を吐いた。見たところ、彼は珍しく同世代くらいの年齢と思わしき男性と共に、真面目な表情で何かしらのやり取りを交わしているようだ。
今日の集まりには、オデット一人で出て来ていた。元々は夫婦での出席予定だったが、今朝がた、夫が急を要する別件に招集されたためだ。……気楽ではあったが、もちろん面白いことは何もないので、適当に過ごしタイミングを見て、早々に帰ってしまおうと考えていた。
――探りをいれるなら、ちょうどいい機会だけど……。
少し考えた末、結局は気にしないフリをしておくのが最善だろう、とオデットは判断した。面倒なことになる予感がしたからだ。彼女が感じるこの手の直感は大抵の場合、外れた試しがない。避けられる災難であるならば、わざわざそれに寄りつく必要はないだろう。
しかし、こうして心を決めた直後、シグルスの方からオデットに声をかけてきた時、彼女は思わず瞠目した。シグルスから「少し話せるか」と言われたオデットは、僅かにためらいながらも頷きを返し、もう少し静かに話せる場所へと二人で移動する。シグルスと話すこと自体は、特別問題視されるようなことではないだった。長々と二人きりで密室に隠れて話し込む――という訳でもないのなら尚更、オデットにとっては何の問題もない。むしろ、適当な理由もなく断ってしまう方が、デメリットが大きい。オデットは外聞などを考慮した上でそう考えたが、この時の判断を後悔する事になることを、彼女はまだ知らなかった。
オデットの予感は大抵、当たる。予測できる面倒事に自ら寄りつく必要はない――ただしそれは、それが本当に避けられる問題であったのなら、という話だ。更に厄介なことに彼女はこの人生において、大概の場合、予測し得た面倒事を事前に回避できた試しなど、ほとんどなかったのである。それを、完全に失念していた。
シグルスの背を追いかける形でサロンを離れ、オデットは同じ建物内にある一部屋へと足を踏み入れた。彼女はまず、軽く周囲を見回した。
応接室と似た間取りの部屋になっているが、壁面には書棚が並び、色褪せた背表紙の本が隙間なく収められている。資料室――というよりは書斎。あるいは小さな図書室と形容するのが適切な雰囲気の一室だった。一線を画す静けさに満ちた部屋の中で、オデットは興味を引かれ、書棚に立ち並ぶ本の背表紙を眺める。
一方、シグルスはそのまま部屋の中央付近を横切って、そこが定位置だとでもいうように窓際に向かう。そんな彼に対し、オデットは書棚へと顔を向けたまま、ふと思い出したような声色で尋ねた。
「ねえ、シグルス――私たち、最近よく顔を合わせると思わない?」
そう言いながら、本を確かめようとするように腕を上げる。……しかし、革製の背表紙を指でなぞった彼女は、それらがよく出来たフェイクブックだと、すぐに気付いた。書棚から早々に興味を無くし、窓辺に立つシグルスに視線を向ける。
「……そうかもしれないな」
問いかけに対して、そんなふうに曖昧な回答を返したシグルスは、やはりオデットを見ていた。
「……」
既視感のある視線と立ち位置に、彼女は僅かに辟易する。誰であろうと、一方的に観察するような目を向けられるのは、気分が良いものではない。いい加減、文句のひとつでも言ってやろうか――そう思い始めたオデットだったが、彼女は文句の代わりに再び問いを投げた。
「それで、私に何の用かしら」
シグルスはすぐには答えず、少しの間、言葉を選ぶように視線を落とした。何かを迷っている、そんな印象だ。やがて、……ゆっくりと視線を上げた彼が、射貫くように自分を見つめるその瞳には、何かの確信が宿っていた。
「――君の腕にある痣について聞いても?」
その問いかけに思わず、呼吸が止まった。シグルスに対し、鋭い視線を向けながらも、表情を隠すように微笑みを浮かべてオデットは聞き返す。
「……何の話?」
「誤魔化さなくていい。偶然見えたんだ」
強く問い詰めるでもなく、ただ事実を告げるだけの響きを持った声。その静けさがかえって、オデットの胸を小さな棘のように刺す。そこでようやく、彼女は気付いた。シグルスの視線が、彼女が先ほど本を見るために持ち上げた腕へと向けられていることに。
「……なんでもないわ」
「本当にそうか?」
「ええ」
オデットは一瞬表情を強張らせたが、さらりと言い返すと手を下ろして袖を整える。小さく息を吐きながら腕を組み、書棚へと背を預けるようにして立った。
――偶然、見えた。……気付かれた。
薄手の袖口から、僅かに覗いた――指の形を残すかのような痣に。オデットが元々痣になりやすい体質だというのもあったが、これが彼女の身体に付いた経緯は明白にして単純だ。
オデットの夫には、――悪癖があった。あの男は日頃、人前では品行方正な紳士として振る舞うが、家庭では時折、妻を美術品のように扱いながらも、その価値を貶める事に喜びを見出す倒錯的な欲求を発露させることがあった。自分の所有物に対して、偏執的な愛の言葉を口にしながら、人の尊厳を踏み躙ることに悦びを覚える。そんな悪癖が。それ自体は、大したことではない。今までも度々あったことだ――。しかし、そうした行為の後に体に残った痕跡を、他人に気付かれてしまったのはこれが初めてだった。
――今日はいつもより、気を抜きすぎていたのかもしれない。
華やかなパーティーとは違い、平服で参加する場だから衣服で隠せばいいだろうと肌に化粧を施さなかったことは自分の落ち度だったとオデットは目を伏せる。それもこれも、元はといえば全て夫の不道徳な行為が原因ではあるが。
オデットはシグルスの表情を観察しながら、自嘲気味に笑う。気付かれた相手がシグルスであったことが――幸か不幸かはわからなかった。
「――オデット、」
シグルスは何かを言いかけるように口を開き、そのまま唇を引き結ぶ。その一瞬の沈黙が、何よりも雄弁だった。詳細な経緯を語らずとも、彼の中ですでにピースは嵌まってしまったことをオデットは察する。
「……何かできることはないか?」
それは慎重で、真摯な問いかけだった。
だからこそ、オデットは緩やかに首を横に振った。
「ないわ。貴方の気遣いはありがたいけど――」
言いかけた言葉を一度切り、シグルスの目をじっと見つめる。
「……早く戻りましょう。誤解されてしまうかもしれないわ。噂好きな方々は、余計な詮索をするでしょう? それは、貴方にとっても本意ではない――違う?」
その言葉に対してもう一度、「オデット」と呼びかけたシグルスの声には、微かな苛立ちが滲んでいた。そんなことはどうでもいいと言いたげな表情をしているのにそれ以上の言葉を続けられずに手指を握り込める。その様子を眺めていたオデットは目を逸らしながら、微笑みを浮かべた。
「……。ありがとう、シグルス。でも貴方が気にすることじゃないわ、本当に。よくあることよ、貴方は存じ上げないでしょうけど――」
「よくある、だと――?」
「……」
話を遮るようにシグルスが聞き返したことで、言葉選びを間違えた事に気付いたオデットは珍しく閉口する。――思っていたより、動揺していたらしい。オデットが伝えたかったのは、魔術師同士の政略結婚で結ばれた夫婦には形は違えど何らかの機能不全が起こることは『よくあること』だからと言いたかったのだが、――今の言い方ではまるで、オデットが常日頃から夫の暴力に晒されているようではないか。
実際、今の会話でシグルスはオデットが身を置く状況を「誤解」してしまったようだった。
――これが原因で妙な噂が立とうものなら、夫の沽券に関わる。
オデットはただ自らが果たすべき、義務を案じていた。
「……言ったでしょう。貴方が気にすることじゃないわ」
オデットは口元に微笑みを浮かべる。それはあまりに凪いだ空虚な表情だった。他人事のように紡がれた言葉に、シグルスは思わず顔を歪める。
「君がそう言っても……!」
シグルスは寸前まで感情を抑え込もうとした葛藤と努力を滲ませるような悲鳴にも似た声を上げる。
――彼女の前で声を荒げていい理由など何一つない。
シグルスはそれを理解していたが、このまま黙っていることも同じくらいに耐え難かった。彼の胸に渦巻く感情は、怒りだ。彼女の夫にも、そんな形で彼女が暮らしているという事実に対しても――激しい憤りを覚えていた。
すると不意に、オデットが「シグルス」と呼んだ。少し声を低く落とした、咎めるような声色で。彼女は視線を下げて、淡々と続ける。
「――今は、これでいいの」
その言葉が自らの本心ではないと分かっていても、オデットにはそう言わなければならない現実がある。シグルスは奥歯を噛み締めた。
これでいいはずがないだろう、と喉まで出かかった言葉を飲み込む。何を言っても、彼女の意志は変わらないと分かっていたから。……だから、冷静にならなくてはならない。腹の底で熱を持って疼く怒りを理性で抑えつけて、やっと一言、呟くように言った。
「……何か、僕に力になれることはないか」
それを耳にしたオデットは、わずかに驚くように目を瞬かせる。考えるように「そうね……」と呟くと、やがて子供を諭すような声色でこう言った。
「……もし、これで妙な噂が立てば、夫の立場に関わるわ。本当はどうだっていいけれど、私はそれを気遣わないわけにはいかないの。彼の妻である以上、それくらいは配慮しなくてはならないでしょう?」
オデットは腕を擦りながら、静かにシグルスを見つめる。
その声はあくまで穏やかだった。
しかし、遠回しな言葉の奥に「だから黙っていて」という意図が込められていることを、汲み取れないはずがない。彼は苦虫を噛み潰したかのような顔で、目を逸らす。だが、結局は同意を示すように静かに頷きを返した――眉間に深い皺を寄せたまま。それに対して、オデットは安堵するように「ありがとう」と微笑むのだった。