Blessings
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その少女の姿を、今でも鮮明に覚えている。
まだ幼かった夏の日。生垣に囲まれた広い庭園――子供の背丈ではとても見渡せない迷路のようなその場所で、シグルスは一人きりになっていた。
大人たちの退屈な会話に飽き、最初は好奇心から足を踏み入れたものの、分かれ道を幾度も間違えた末に自分がどこに居るのかすら分からなくなっていた。何度か声を上げてみたが、誰も来ない。背の高い緑の壁に視界を塞がれ、もうここから出られないのではないかという想像に取りつかれて、気付けば足が止まった。泣きたくなんてなかった。けれど、胸の奥で膨れ上がっていく孤独は、幼い彼にとってはあまりにも重たいもので。……あと少し、誰の声も聞こえなければ本当に涙が溢れていたかもしれなかった。
だからこそ。あの声は、幼い彼にとっての救いだった。
「――ねえ、あなた」
不意に、背後から声がした。咄嗟に振り返った先に人影はなく、思わずぎくりと身を強張らせる。すると、今度はくすくすと笑い声がはっきりと聞こえてきた。
「上よ」
声に促されるまま空を仰ぎ見る。木の上には、少女がいた。木漏れ日を受けて風に揺れる長い髪や、深い湖を思わせる静かな瞳。一見して自分とそう変わらない年に見えたが、細やかな所作にも気品を漂わせ、まるで庭園を支配する小さな女王であるかのようなふるまいでそこにいた。
「こんなところで何をしてるの?」
「……君こそ、そんなところで何をしてるんだ」
「私は、名無しの白ウサギさんが走り回るのを見ていたの」
「……なんだい、それ」
「『不思議の国のアリス』に出てくるでしょう? あなた、迷ったのね」
確信めいた声色でそう告げる少女を見上げ、顎を突き出すようにしながら「迷ってなんかない」と意地を張って見せた。すると、彼女はしばらく黙って僕を見つめた後で、小さく笑った。途端に光が差し込んだような、その微笑みに目が眩む。
次の瞬間、一切の迷いもなく、彼女は手慣れた動きで木から飛び降りた。まるで背中に羽でもあるかのようなにふわりと柔らかく地面に降り立った姿は、子供ながらに妖精みたいだと思ったほどだ。
「……アリスの白ウサギは時間に追われて逃げてるんだ。だから、僕とは違う」
「同じことでしょう。どちらも出口を探してるんだから」
「僕は、逃げてない」
「でも、迷ってる」
「……」
乱れたスカートの裾を払って直す仕草の合間に、そう言い返される。彼女の言葉はどれも的を射ていた。ああ言えばこう言い返してくるような、大層口の上手い子供でこうして目の前に立たれると自分よりも背が高かったせいか、少し年上にも見えた。
「――ところで、君の名前は?」
「私はあなたを案内するチェシャ猫」
「……またアリスか。だから、木登りしてたのか? あんなこと、危ないだろ」
「あれくらい平気よ。それにもう降りたわ」
「ねえ、君。……君は、笑いながら消えたりはしないだろうね」
「さあ、どうかしらね」
そう言って、彼女はからかうように首を傾げた。その言葉に、途端にまた不安になる。本当に笑いながら消えてしまうんじゃないかと思ったから――。だが、その不安は次の瞬間、あっさりと消えてなくなった。
彼女が手を差し出して、僕の手を握ったから。その手を取った瞬間、それだけで不安も孤独も、嘘みたいに消えてなくなるのが分かった。手のひらから伝わる温もりが言葉では説明の出来ない安心を抱かせて、少し泣いてしまいそうになったのを覚えている。
「ほら、行きましょう。白ウサギさん」
「あっ……! っ、どこへ!」
「どこかへよ」
柔く掴まれた手を振り払うこともなく、ただ引かれるままに歩き出した。迷路のように入り組んだ生垣の間を進む間、彼女は何度か振り返り僕を見た。歩き始めてすぐに、幼かった僕の未熟な足が彼女の歩調に合わず、もつれるように転びそうになったからだ。それ以来、彼女は何も言わずとも自然と歩調を緩めて、常に僕を気遣って歩いていた。
「ねえ、あなた。どこから来たの?」
「……ロンドン」
「ずいぶん都会から来たのね」
「……君は?」
そう尋ねたが、曖昧な相槌だけを返されてはぐらかされた。彼女は聞いても名前すら教えてくれなかったし、僕の名前を尋ねてくれることもなかった。不公平だとその背に向かって小さく不満をこぼして、手を握る力を少しだけ強める。彼女は僅かに笑い声を上げた。その笑い声が耳に残って、それ以上は何も言い返せなくなった。ただ彼女の手の温もりを感じながら、迷いなく進む彼女の背を追いかけて歩いた。
その光景が、シグルスの記憶に刻まれた。
それは、ひどく幼い夏の日のひとときだった。しかし、彼の中で夢を見るように何度も思い起こされた情景でもあった。ただ、手を引かれるままに歩いたあの感覚だけが、今も鮮明に残っている。
――あの時、彼女は何を考えていたのだろう。
――なぜ、迷わず僕の手を取ってくれたのだろう。
その答えを、ずっと知りたいと願い続けている。
あれ以来、胸に残された淡い感情――それが、恋だったと気付いたのは、もう少し大きくなってからのことだ。彼女の名前を知って、夏を過ごし、そして会えなくなってから、ずっと先のこと……。
「出口よ」
庭園を抜けた先、生垣に遮られることのない見覚えのある場所に辿り着いた。安堵に小さく息を吐くと、不意にするりと繋がれていた手が解かれる。反射的に隣を見上げれば、彼女は目を細めてこう言った。
「ほら、やっぱり迷ってたんじゃない」
「ちがう……!」
「ふふ、嘘つき」
夏の光と共に、彼の記憶の中で永遠に輝き続ける少女はそう笑って、くるりと踵を返した。まるで、本当にチェシャ猫のように。あるいは、妖精のように。その背中はすぐに見えなくなってしまった。
――それが、彼の記憶に残る最初の『オデット』だった。
まだ幼かった夏の日。生垣に囲まれた広い庭園――子供の背丈ではとても見渡せない迷路のようなその場所で、シグルスは一人きりになっていた。
大人たちの退屈な会話に飽き、最初は好奇心から足を踏み入れたものの、分かれ道を幾度も間違えた末に自分がどこに居るのかすら分からなくなっていた。何度か声を上げてみたが、誰も来ない。背の高い緑の壁に視界を塞がれ、もうここから出られないのではないかという想像に取りつかれて、気付けば足が止まった。泣きたくなんてなかった。けれど、胸の奥で膨れ上がっていく孤独は、幼い彼にとってはあまりにも重たいもので。……あと少し、誰の声も聞こえなければ本当に涙が溢れていたかもしれなかった。
だからこそ。あの声は、幼い彼にとっての救いだった。
「――ねえ、あなた」
不意に、背後から声がした。咄嗟に振り返った先に人影はなく、思わずぎくりと身を強張らせる。すると、今度はくすくすと笑い声がはっきりと聞こえてきた。
「上よ」
声に促されるまま空を仰ぎ見る。木の上には、少女がいた。木漏れ日を受けて風に揺れる長い髪や、深い湖を思わせる静かな瞳。一見して自分とそう変わらない年に見えたが、細やかな所作にも気品を漂わせ、まるで庭園を支配する小さな女王であるかのようなふるまいでそこにいた。
「こんなところで何をしてるの?」
「……君こそ、そんなところで何をしてるんだ」
「私は、名無しの白ウサギさんが走り回るのを見ていたの」
「……なんだい、それ」
「『不思議の国のアリス』に出てくるでしょう? あなた、迷ったのね」
確信めいた声色でそう告げる少女を見上げ、顎を突き出すようにしながら「迷ってなんかない」と意地を張って見せた。すると、彼女はしばらく黙って僕を見つめた後で、小さく笑った。途端に光が差し込んだような、その微笑みに目が眩む。
次の瞬間、一切の迷いもなく、彼女は手慣れた動きで木から飛び降りた。まるで背中に羽でもあるかのようなにふわりと柔らかく地面に降り立った姿は、子供ながらに妖精みたいだと思ったほどだ。
「……アリスの白ウサギは時間に追われて逃げてるんだ。だから、僕とは違う」
「同じことでしょう。どちらも出口を探してるんだから」
「僕は、逃げてない」
「でも、迷ってる」
「……」
乱れたスカートの裾を払って直す仕草の合間に、そう言い返される。彼女の言葉はどれも的を射ていた。ああ言えばこう言い返してくるような、大層口の上手い子供でこうして目の前に立たれると自分よりも背が高かったせいか、少し年上にも見えた。
「――ところで、君の名前は?」
「私はあなたを案内するチェシャ猫」
「……またアリスか。だから、木登りしてたのか? あんなこと、危ないだろ」
「あれくらい平気よ。それにもう降りたわ」
「ねえ、君。……君は、笑いながら消えたりはしないだろうね」
「さあ、どうかしらね」
そう言って、彼女はからかうように首を傾げた。その言葉に、途端にまた不安になる。本当に笑いながら消えてしまうんじゃないかと思ったから――。だが、その不安は次の瞬間、あっさりと消えてなくなった。
彼女が手を差し出して、僕の手を握ったから。その手を取った瞬間、それだけで不安も孤独も、嘘みたいに消えてなくなるのが分かった。手のひらから伝わる温もりが言葉では説明の出来ない安心を抱かせて、少し泣いてしまいそうになったのを覚えている。
「ほら、行きましょう。白ウサギさん」
「あっ……! っ、どこへ!」
「どこかへよ」
柔く掴まれた手を振り払うこともなく、ただ引かれるままに歩き出した。迷路のように入り組んだ生垣の間を進む間、彼女は何度か振り返り僕を見た。歩き始めてすぐに、幼かった僕の未熟な足が彼女の歩調に合わず、もつれるように転びそうになったからだ。それ以来、彼女は何も言わずとも自然と歩調を緩めて、常に僕を気遣って歩いていた。
「ねえ、あなた。どこから来たの?」
「……ロンドン」
「ずいぶん都会から来たのね」
「……君は?」
そう尋ねたが、曖昧な相槌だけを返されてはぐらかされた。彼女は聞いても名前すら教えてくれなかったし、僕の名前を尋ねてくれることもなかった。不公平だとその背に向かって小さく不満をこぼして、手を握る力を少しだけ強める。彼女は僅かに笑い声を上げた。その笑い声が耳に残って、それ以上は何も言い返せなくなった。ただ彼女の手の温もりを感じながら、迷いなく進む彼女の背を追いかけて歩いた。
その光景が、シグルスの記憶に刻まれた。
それは、ひどく幼い夏の日のひとときだった。しかし、彼の中で夢を見るように何度も思い起こされた情景でもあった。ただ、手を引かれるままに歩いたあの感覚だけが、今も鮮明に残っている。
――あの時、彼女は何を考えていたのだろう。
――なぜ、迷わず僕の手を取ってくれたのだろう。
その答えを、ずっと知りたいと願い続けている。
あれ以来、胸に残された淡い感情――それが、恋だったと気付いたのは、もう少し大きくなってからのことだ。彼女の名前を知って、夏を過ごし、そして会えなくなってから、ずっと先のこと……。
「出口よ」
庭園を抜けた先、生垣に遮られることのない見覚えのある場所に辿り着いた。安堵に小さく息を吐くと、不意にするりと繋がれていた手が解かれる。反射的に隣を見上げれば、彼女は目を細めてこう言った。
「ほら、やっぱり迷ってたんじゃない」
「ちがう……!」
「ふふ、嘘つき」
夏の光と共に、彼の記憶の中で永遠に輝き続ける少女はそう笑って、くるりと踵を返した。まるで、本当にチェシャ猫のように。あるいは、妖精のように。その背中はすぐに見えなくなってしまった。
――それが、彼の記憶に残る最初の『オデット』だった。
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