Ways to kill a vampire :1/2/3
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とある日の昼下がり、有栖院御国は空港に居た。正確には、空港に内接されて作られているカフェで人を待っていた。
空港の案内放送を耳に入れながら、殆ど空になりかけた紅茶のカップを下ろし、後で店内の壁に掛けられた時計に視線を向ける。空港に着いてからもう一時間と少し。頬杖をつきながら、御国は首元に巻き付いている黒蛇の頭を遠慮なく指先で突いた。
「なあ、ジェジェ。まだな訳? オレいい加減待ち飽きたんだけど、っていうかそもそもそんなに暇人じゃないんですけどー?」
黒蛇の名を呼びながら御国はちょっかいをかけるのを止めない。普段は別に暇ではないが、現状ばかりは暇を持て余し、その退屈を何処へ向けるべきかを考えた結果の手慰みだ。こうなるだろうとは思っていた、とどうしようもない主人の性質を理解した上で最初は無視していたジェジェだったが、頭を突かれたり指先で握られたり……自分自身にとっても我慢の限界は近かった。ささやかな抵抗として、ジェジェはやめろ、と示すように御国の首に巻き付けている体を軽く絞める。それは本当に軽く、本気でない事を御国は知っている。だから御国もジェジェを弄る手を止めない。
そんな戯れあいが続いて早々に御国が飽き、さらにしばらく経って、ようやくテーブルの上に置いたままの携帯が小刻みに震えた。
「……やっと来た」
――You got a mail.――と画面に表示されたメッセージの受信を知らせる一文。
内容を確認すれば、お待たせ、という短い言葉が一つ。待たせたと思ってるなら謝罪くらいしたらどうなんだ、と思わなくもない。今さっき届いたメッセージより一つ前に受信されたメッセージには、トラブルがあったみたい、伝えた時間には日本に到着できないと思うわ、と事前に遅れる事は伝えられていた。
運命の悪戯とでも言うべき突然のトラブルに御国の待ち人が巻き込まれて怪我をした、なんてことが無かったならせめて、よかったね、と言ってやるのが人として正しい言葉なんだろう。釈然としないし、言わないけど。
御国は首に巻き付く蛇はそのままに、テーブルの上に置いていた人形を手に取ってカフェを後にした。人の波が空港の出口に向かって流れて来る、それに逆らって目当ての人物を探そうとするがこの中では見つけるのは至難の業だ。もう少しあそこで待ってればよかったか、と思いながら御国が携帯を取り出した時――。
「人がごみのようだ、ってこういう事を言うのかなあ……? あー疲れる……」
「別の便で来る予定だったのを繰り上げたのは貴方なのに、その言い草は本当に勝手じゃないかしら」
「なにか飲み物持ってない?」
「炭酸ならあるけど。でも貴方の好みじゃないわ、きっと」
騒がしく雑音の混じる人ごみの中で嫌にはっきりと聞こえた声が二つ。
一人は、自分が楽しい事なら何でもいい、逆に自分の興味の無い事はどうでもいい、そんな破綻した性格の人間性が声色からもにじみ出る様な男の声。
一人は、淡々と俯瞰的に覗き込んだ世界の感想をただ読み上げるだけの、情熱と感情の一部を何処かへ置き忘れたみたいに無気力で気だるげな女の声。
御国にとって、どちらもよく聞き覚えのある声だ。そして片方は、不幸なことに今この場に在ってはいけない声だ。
……無視しよう、きっと気のせいだ、幻聴だ。そう思いながら携帯に視線を戻す。
「まー。いーや、とにかく喉が渇いた。甘味料ならこの通り持ってきたし」
「それのせいで検査の時止められたって事分かってる?」
「ただの甘味料だって言うのに聞かなかったのはあっちの方だ。俺に非は無いね」
「いかにも私は不審者です。なんて恰好をしてるヨハンも問題だと思うけど」
「やっぱりお前か……ッ!」
振り返り、思わず品の無い大声を上げてしまった。周囲の視線が一瞬こちらに向くが、立ち止まる事は無くまた人の波は流れていく。そして振り返った事によって容赦ない現実が御国の目前に叩きつけられた。
柱の傍に立っている男女はこの人混みにおいても中和されない存在感を放っている、もちろん悪い意味で。特に男が。こんな場所でくらい脱げと言いたい皺の多い上に裾が謎の液体で汚れている白衣を着た長身の男は見るからマッドサイエンティスト、もしくはちょっと頭の可哀そうな中二病眼鏡。お関わり合いになりたくないそんな恰好の男の名を御国は残念なことに知っている――ヨハネス・ミーミル・ファウストゥス、吸血鬼専門の研究者で変人だ。
先程の大声で彼もまた御国に気づいたのか、その姿を見るなり、げぇ、と顔を歪めている。その手には日本ではあまり見ない包装が施された炭酸飲料のペットボトル。ヨハネス、もといヨハンの隣に立っていた女は御国に微笑みを向けながら、ひらひらと手を振っている。
長いリボンと花飾りの付けられたカンカン帽に似たハット。緩く編まれた胸程の長さのクリーム色の柔らかそうな髪。覗くワインレッドの瞳は緩やかに細められていた。剥き出しの肩と惜しみなくさらけ出された白い足と腕は、ある意味目のやり場に困る。こっちもこっちで自由過ぎる。場にあってるといえばそうだが、此処は日本だ。色々と言いたい言葉を一先ず飲み込んで、彼らの方へと近づけば女は流れるような自然な動きで御国を抱きしめ、その頬にわずかに触れる挨拶代わりのキスを落とす。すぐに離れて揺れる髪から、ふわりと心地のいい香りがした。
「此処は日本だって……、カタリナ」
「あら、ごめんなさい。まあそれはそれとして、お元気そうで何よりね」
「……今のオレが元気そうだって言うなら、相変わらずいい性格してるよ」
女の名前は、カタリナ。彼女は嫉妬の下位吸血鬼、そして恐らく吸血鬼側で今一番吸血鬼の生態に詳しい人物で、今はヨハンの助手という立ち位置に収まっている。不老不死を殺すという矛盾に答えを欲しがる様な、頭のネジが二、三本飛んで紛失してる、一言で言うなら壊れた女だ。ヨハンと本質が似た者同士なのか、仲はまあ、この通りたぶん良好。どれだけ待たされたか、と御国が疲れ切った表情で呟けば、カタリナは笑い声を零すと「想定外のトラブルがあったんだから許して」と言う。
「……で、そのトラブルってのは何だった訳?」
「それはもちろん、この人」
後ろで炭酸を抜いた甘いシロップと大差ない飲み物を飲み干しているヨハンを見る事無く、御国に示す様に指先を向ける。
「空港にヨハンが居た事も、チケットを取り直していた事も驚きだったけど――……」
そう言いながらカタリナは柱の傍に置いてあったアタッシェケースを開けて見せる。中には透明な袋に白い粉の様な物が大量に詰められていた、見るからに怪しい。オレが入国審査員か何かだったとしたら、こんな見るからに怪しい男は搭乗させたくないし、むしろすぐさま警察に引き渡したいと思う。御国は頭の奥がズキズキと痛むのを感じた。
「この通りヨハンが大量に持ち込んだ甘味料のおかげでストップかけられまくって大変だったんだから」
「ヨハン!!」
「怠惰が見つかったって呼んだのはみくみくじゃん」
御国の言及をさらりと躱すヨハンの言葉、特に“怠惰”という単語にカタリナが一瞬表情を曇らせた事に気づいたのは一人だけ。
ヨハンからは、アタッシェケースのチャックを閉める為に屈む彼女の表情は見えなかった。御国はヨハンを糾弾する事に意識が向き過ぎていた。その場にいたもう一匹、正確にはもう一人だけがその顔を見上げていた。いつの間にか御国の首から降りてタイルの上に居た黒蛇、まばらになって来たとはいえ、それでも騒がしい内に入る雑音の中では消え入りそうな小さな声でその名を呼んだ。
「……カタリナ……」
「あら、ボス」
挨拶代わりのキスの代わり、細く白い指先で黒い蛇の頭を撫でる。黒蛇――今の名をジェジェは嫉妬の真祖であり、主人である御国の従僕、そして嫉妬の下位吸血鬼であるカタリナにとっての主人にあたる。ちらと御国を見るが、彼は相変わらずヨハンと言い争いを続けているらしい。どうぞ、と手を差し伸べればカタリナの白い腕に黒い蛇は這い上った。ひやりと冷たい蛇の表皮が素肌に触れて少しくすぐったいとカタリナは笑う。
「ボスは冷たいから、夏はとっても涼しそうね」
「……、……定例会、来るつもりなのか……?」
「……」
「……」
悲しそうに目を伏せる表情にジェジェは僅かに言葉に詰まる。7人のサーヴァンプ達による“定例会議”の開催が先日、色欲の真祖からネットを通じて伝えられた。更に今から一週間と少し前、怠惰の真祖が主人を持ったという情報が中立機関より流れ込んできた。
海の向こうでその報を聞いた彼女が何を思ったか、正確には分からない。分からないが……。怠惰が行方をくらませて数百年、待ち続けたその思いを、尊重してやりたいともジェジェは思う。
たとえそれが、既に壊れかけて歪んだ思いだとしても、結果的に彼女が本当に壊れ切ってしまうとしても。
「貴方が止めるなら、私はいかない。――ねえ、ボス。わたしは、どうしたらいい?」
もし止めたなら、彼女は明日にでもその身を日の光にさらして、灰に変わる。そんな確信がある。下位吸血鬼は自分を作った真祖に逆らえない、だからジェジェが命令を下すならカタリナは逆らうことが出来ない。
「……勝手にしろ……」
「仰せのままに」
芝居がかった言葉でそう言いながらも浮かべられた笑顔は、そこに間違いなど一つもありはしないような純粋無垢で穏やかなもの。
少女の様に、女は笑っていた。
もう、致命的に手遅れな事もジェジェには分かっていた。一度は間違いなく、人間として壊れてしまった彼女。
彼女が一度は捨てたその生を、繋げてしまったのは“嫉妬”。生前の彼女の心を壊したのは“怠惰”。
カタリナという一人の少女の人生を狂わせたのは、紛れもなく吸血鬼という存在で、彼女は今それを×す為に此処に居る。
愛とは何か。
例えば、相手を慈しむ心。
例えば、異性に対して抱く思慕の情。
例えば、何事にもまして大切にしたいと思う気持ち。見返りを求めず限りなく深く慈しむ事を、「愛」と言った人もいた。人それぞれ、無数の愛の形は辞書や言葉の定義だけではとてもはかることが出来ない。愛し方も人それぞれ。答えなんてない。
でも一人ひとりになら、きっと答えはあるはずだ。
愛する事とはその人と共に長く在る事、そして願わくばその人と共に死を迎える事。それが私の知る愛し方だった。言葉のとおり、私を一人置いて共に幸せな死を迎えた両親が教えた、人の愛し方だった。一人になった私が生きていけたのは、両親が思うとおりに私が強くて賢い子だったからじゃない。“彼”という拠り所があったから。
「――××××!」
クリーム色の長い髪を揺らして、この辺りの街では至って珍しくもない流行りの服を着た小柄な少女が朝焼け色の髪の男の元へ駆け寄って行く。その姿はまるで兄妹の様にも見えたし、仲の良い恋人の様にも見えた。彼と過ごす毎日は、夢を見ているように楽しかった。パンを焼いて、昨日作ったばかりのベリーのジャムを塗って、両親が遺した花を育てて、取り止めの無いお喋りして、様々な物事の境界を越えて本を読み漁って、……ただ、それだけ。
(それだけだったのよね。でも楽しかった、ずっと、永遠が欲しくなるくらいに)
膝の上に乗せた黒猫の頭を撫で、揺れ動く椅子に座って読書を続ける少女の頭に手を伸ばす。撫でた感触なんてない。ただの気休めだ。だってこれは夢だから。彼と共に在りたかった。……でも彼を愛する事は私にとってどうしたって有限だった。だってそういうものだったから。人間は――“私”はいつか死んでしまうから。それが自然の摂理。だからこそ、人は美しいのだから。
「――ねえ、××××。一緒に居てね、私と」
「――ああ、オレもお前と居たい……。ずっと一緒に」
それが、自然の摂理に背く事でも。私は、それでも、彼の傍に居たかった。少女はこれ以上ないというくらいに幸せな笑顔を浮かべて、眠った。両親が家に残していた深い睡眠を誘発する薬を飲んで、眠った。一緒に居られないなら、人間としての生なんて捨ててしまおう。彼と同じになって、彼と一緒に生きよう。彼の手で一度目を終わらせて、今度は時間に縛られる事の無い二度目を始めよう。そう思って、少女は眠った。
(……ばかね。あなたは置いていかれるの)
自分の視界をも暗闇が覆っていく。薄ぼんやりと霞んでいく意識の中で、彼女は、ばか、ともう一度小さく呟いた。この先の結末を彼女は知っている。
少女は彼とは生きられなかった。数日後、見慣れた木造の天井を見つめて、ベッドの上で目覚めた少女を迎えるのは誰の体温も無くなった閑散とした部屋だけ。呼びかけても、返って来ない言葉と足音。
同い年の子たちと比べても中途半端に頭の出来が良かったのも問題だった、例えば親に捨てられたとある子供が其れを自覚すら出来ない様な子供だったとする。自分もそんな子供だったならば、少女は訳もわからず、ただ彼を待ち続けるだけだっただろう。だが――……少女は気付く、そして知ってしまう。
自分が、愛する人に捨てられてしまったのだという事を。
一緒に居ようと言った彼の嘘を、知ってしまう。
……元々朝が弱いからだろうか、まるで今の今まで心臓が止まっていたかのようにドクドクと急速に血を全身に送り、心拍数を上げる心臓の音が聞こえる気がする。
横になったまま寝返りをうち、壁際の窓を何気なく見つめる。締め切られたカーテンからも日の光が差し込んでいる様子はないが、恐らくはもう朝と呼べる時間帯ではないだろう。それに此処は、人も目的なしには訪れないような薄暗いしみったれた路地裏の奥にあるのだ、日の光など差し込むはずはない。下位吸血鬼であるカタリナにとって、この立地が好都合な事に変わりはないが。……数日前、日本に渡ったカタリナの住処として御国が提供したのが此処、“The land of Nod”。直訳でノドの地、人類最初の殺人の加害者・カインが実の弟・アベルを殺し、追放されて移り住んだとされた場所、それがノドの地。
それはあくまで旧約聖書の話であって、現在カタリナが居る“The land of Nod”はただの店名だ。御国が経営する雑貨屋に近い自称骨董品屋。店の名前なんて店主が好きに決める物だから口出しなんて野暮だとは思うが、それにしたって皮肉が効いた悪趣味な名前を選んだものだと逆に感心する。
取り止めの無い考え事で眠気を消し、動悸も収まって来た頃を見計らってベッドから出る。服を着替え、部屋のテーブルに昨晩置いて眠った読み終わった本を手に階段を下りる。簡単に店の掃除をして、と本日の予定を脳内で埋めていけば、一階の書庫兼研究室から嗅ぎ慣れた紅茶の香り。次第に聞こえるギコギコとボートを漕ぐオールの様な音。
明らかな人の気配に臆する事は無く、カタリナは部屋に足を踏み入れた。だらんと長い手足を垂らしながら椅子に座るヨハンを横目に、手にしていた本を書架に差し込み、分厚い背表紙を指先で押す。脈絡もなくヨハンが意地の悪い笑みを浮かべながら「寝言」と脈絡のない言葉を投げた。
「言ってたよ」
「そうなの。気づかなかった」
「吸血鬼も夢を見るンだなあー。それは既に知られた事だけど」
棚にはフラスコ、ビーカー、試験管等々、雑に並べられている実験器具。そうね、と気のない返答をしながら、落ちて割れる事が無いように適当に奥へ押しやる。部屋に誰かが入ったという事は、テーブルの上の本の配置が昨晩とズレていたのを見て知っていたから、特別驚く事は無い。それに相手はあのヨハンだ、気にするだけ無駄というものだとカタリナは知っている。
人間も夢を見る、同じくして吸血鬼だって夢を見る。そこに明確な違いは無いとされているけれど、先程まで見ていた明晰夢は夢と呼ぶよりは過去の記録と言った方が言葉としてはふさわしい気がする。
「それで私はなんて寝言を?」
「さあ。なンだったかなあ……意味がない事は覚えらンない性質だからさあ。興味ある?」
「いいえ、全くこれっぽっちも」
「ひゃはは。だろうね」
言葉を交わしながら準備した、角砂糖が入った瓶と赤茶色の液体が揺れるビーカーをカタリナがテーブルに置けば、ぼちゃぼちゃと容赦ない量の砂糖をビーカー内の紅茶に投入し始めるヨハン。片方は下位吸血鬼の女、片方は人間の男。種族も性別も異なる二人の共通点は唯一、吸血鬼を専門とする研究を行っているという事。
しかしカタリナがヨハンの為にしている事といえば、生活力が致命的に欠けている彼の世話が大半だ。後は各々独自に研究を進めていて、協力などは殆どない。マグカップに淹れた自分用の紅茶を一口飲みながら、カタリナは咥えているストローで液体をかき混ぜているヨハンに視線を向けた。
「ん」
カタリナが言わんとする事を察したのか、ヨハンも紅茶の入ったビーカーに口づけながら壁際の棚を指さす。乱雑に並べられた書類は、すべて“怠惰”に関する報告書だ。現怠惰の主人・城田真昼に関する報告書もある。流石は中立機関様、プライバシー侵害はお手の物ね、なんて思いながら目を通す。貼り付けられた写真に写る朝焼け色の髪は記憶の中と何一つ変わらず、その横顔を見つめてカタリナは目を伏せた。
ヨハンは自身の机の上に置いた論文へとちらと視線を向ける。吸血鬼を、より正確に言い表すならば真祖を殺す方法についての推考が書かれていて、書いたのは今この場に居る嫉妬の下位吸血鬼、カタリナ。彼女は真祖を殺す方法を何百年という時をかけて考え続け、研究を重ねている。ヨハンはそれに関して特別何か言うつもりはない。無い、が……。頭の片隅で数時間前の光景を思い返す。
「――いかないで、……」
ベッドの上で眠る彼女は警戒心なんて欠片も無くて、死んだように眠るってのはこういうのを言うンだろうなあ、と思いながらまじまじとヨハンがその寝顔を何気なく眺めていた時、彼女は苦し気に綺麗な顔を歪めてそう言った。平時とは違い、深い感情の滲む声で。
夢と現実の境も分からず宙に手を伸ばして、そんな声を上げるくらいなら忘れてしまえばいいのに。そう思わないでもない。けれど、忘れる事が出来ていたなら今この瞬間、カタリナという女は此処には存在しなかっただろう。
限られた時間を生きているからこそ、人間は過去を忘れて生きていける。
そう言ったのは彼女だったか、それとも別の誰かだったか、宙に伸ばされたその手を無意識に取って、意味もなく考えた。それは男の手で包み隠されてしまう程細く小柄な手で、じわりと滲んでくる熱はまるで毒のようだと思った。力の抜けてだらんと垂れる手をそっと戻せば、彼女はまた最初と同じく静かに眠り続けた。ほんの少し、彼女の過去を知り、感じ、理解する事を赦さないかのように、自らには与えられなかった才能が欲しいと、時々たまにくらいは思う。
ガサッ、という紙袋を握り歪める様な音に逸れていた意識を戻したヨハンは目前で揺れる薄茶の紙袋とそれを突き付けてきているカタリナを座りながら見上げた。
「ヨハンもたいがい独り言が多いわね」
「中身は?」
「フルーツサンド。しょっぱいのが好みなら交換してあげるけど」
「文句なし」
笑う表情はどこか幼ささえ感じるのに、まるでただ貼り付けられたみたいに感情が覗かないのはやはり彼女の心が何処か歪で壊れているからなのか。遅めの朝食、もしくは早めの昼食を口にする傍らで、視線は真っすぐと何かを想う様に手にした小瓶に注いでいるカタリナ。
失敗しても、成功しても、未来はそう変わらない。終着が遅いか、早いか、それだけの違いだ。彼の主人ではなくなり、彼の吸血鬼にもなれず、人間でもいられなかった自分の唯一の望みはたった一つだけなのだから。
昨晩からずっと降り続く雨は止むどころか勢いも強まるばかり。下位吸血鬼にとっては日光を気にせず外を歩けるというメリットもあるが、普通の人間と同じく服が濡れる、靴が濡れるという点を考えればデメリットの方が大きい。特に大半の女の子にとっては雨なんてそうそういい物ではないだろうな、というのがカタリナの経験に基づく雨に対する見解だ。その上で彼女は何処か薄っぺらな印象を感じさせる、それでいて完成しているような微笑みを浮かべて、こう言った。
「いい天気ね、ボス」
「……いい……天気か……?」
「ええ、とっても。いい天気」
新調したばかりの晴雨兼用の傘を肩に寄りかける様に差し、一度空を見上げたカタリナの首元でするりと黒蛇が動く。この雨では人型になれば服の裾はともかくとしても頭に乗せる紙袋までぐちゃぐちゃになって汚れる、との事でカタリナの提案に乗っかる形で現在の位置に落ち着いているジェジェ。細く白い首元は力を込めればへし折れそうだと思うほど危うさを感じさせていた。
いい天気だと言いながらも喜びの感情が一切覗かない、淡泊な声色。それでも浮かべられる安らかな笑みに遠い記憶を重ねるジェジェも同じように黒雲に厚く覆われる空を見上げる。
「何時から?」
「……7時だ……」
その言葉にカタリナは、はたと目を瞬かせ首を傾げる。その動作は首に巻き付いて、体温が移りかけていたジェジェの身体を柔く押した。
「思ってたより遅いのね。もっと早く言ってくれたら寄り道して来たのに」
「……別に、いい……。……あそこは、うるさい……」
「ああ、なるほど」
足りていない言葉の行間を長い付き合いという名の経験で補って、カタリナは納得の声をこぼす。以前から、御国とヨハンは憎しみあう程強い仲の悪さ、とまではいかなくても顔を合わせればすぐに悪態をつきあう仲だ。事前に御国には今日の事を伝えてあったため、彼はカタリナに合流しようと彼女の寝泊まりに使わせている自らの店を訪れた。その折、招き入れた覚えのないヨハンが我が物顔で茶をすすっていた上、大事な大事な人形のひとつを毒々しい色合いの液体に変貌させられていたのだから……それはまあ、悪口を言いたくなる気持ちも分からなくはない、とは思う。
騒がしい店内で、ジェジェが「行くぞ」とカタリナに声をかけた理由は時間が差し迫っているからでもなく、単にうるさかったから早く外に出て行きたかったというだけか。
「ふふ、悪い人ね、ボス」
こんなに酷い雨の日に喧騒を避ける為だけの理由で利用するなんて、とカタリナは笑う。遅れたら困るなんて嘘まで吐いて、そう言って一度肩を竦めれば目前に今回の会議の集合場所が見えた。
「それじゃあ、私はここで。いってらっしゃい、ボス」
「……?」
「流石に真祖の方々の会議に一介のサブクラスが混ざる訳にいかないもの。盗聴なんて趣味はないし、私はここで待ってるわ」
今回の集合場所は、何処にでもあるような至って珍しくもないファミリーレストラン。立ち止まり、路地に視線を向けるカタリナにジェジェは抗議するように頭をその首に押し付けた。あと何時間あると思ってる、この雨の中ずっとあの路地に立って待たせておくわけにもいかないだろう、と気遣う優しさが伺える。無言の圧力と抗議にカタリナは一巡して考えた後、ちら、とファミレスを見た。
「……」
この雨で出歩く人も少ないからか、それともまだ夕食の時間には早いからか、外から見ても店内は閑散としている。
好意には甘えるべきか、と判断したカタリナはそのまま店の軒下で傘をたたんだ。開いた自動ドアを越え、一歩店内に足を踏み入れる寸前にするりと首元から降りた蛇が人へと姿を変える。
接客のために歩み寄って来た店員が顔色を分かりやすく変えた。それもそうだ、明らか外国人な風貌の麗人と、その隣に紙袋を重ねて被る長身の奇人。
「席は何処でも大丈夫?」
「! あっはい、お好きな席にどうぞ」
「ありがとう」
さっと店内を見回して、間取りを把握する。店内奥の窓際の席に近づき、ジェジェを見ればこくりと頷いた後、まるでそこが定位置だとでもいうように机の下に潜り込む。丁度植え込みで死角になる席に一人、腰を落ち着けたカタリナ適当に飲み物を注文して、退屈そうに頬杖をついた。鞄から取り出した淡い色合いの小瓶をテーブルに置き、思考に耽る。
客が少なく静かな店内、僅かに響く外の雨音――……あの日も、雨が降っていた。
温暖な気候で雨が滅多に降る事がないと言われるその国では珍しく、窓を叩きつける様な勢いの雨が強く、強く降っていた。
カタリナが初めて死んだ、あの日。
愛しい彼が知らない、あの日。
共に生きたかった彼ではない男に侵食された、あの日。
……コト、と小さく音を立ててテーブルに並べられたホットケーキ。ありがとう、と店員に告げてからデザートを口にする。追想に引きずられる様に蘇る、あの日初めて口にした血の味を蜂蜜と共に誤魔化す。……これにはそう、皮肉なものね、と苦笑する他なかった。
「――××××」
何百年かぶりに目にした彼は、恰好こそは違えど朝焼けの様な髪色も、猫背な姿勢も、前のめりがちな歩き方も、何一つ変わっていなかった。不老不死だから当然だと言われてしまえばそれまでで、頭では理解できていた事でも、少しばかり苦しくなる。
彼は私を覚えているだろうか、そんな思いが無かった訳では無い。だからこそ、口に出したその音は我ながら酷く震えていたように思う……名前を呼んだ。いつか遠い日の名前を。
だけど彼は振り向かない。気付かない。気付く、はずもない。彼にとってこれは既に名前ではないのだから、呼ばれているのが自分だと思うはずもない。サーヴァンプとは、そういうものだ。だから、彼は気づかなかった。ただ、彼の主人が耳が拾った音を気にしてこちらに視線を向け、それにつられるように彼もこちらを向いただけ。
……ああ、そう。理解した。
僅かに震えていた指先を握りしめて抑え込めば、もう声が震える事もなかった。見開かれる瞳を見つめて、カタリナは緩やかに片手を持ち上げ微笑んだ。もう何年も会っていなかった友人に久しぶりと出会えた偶然に何気ない挨拶を交わす様に。
「お前、なんで……此処に……っ?」
「あら、少し意外だわ。もう、忘れられたのかと思ってた」
「いや、それよりも、なんで、生きて……」
途切れ途切れの戸惑い交じり、見るからに動揺している彼は……、今の名を『クロ』は示す様に軽く持ち上げられていたカタリナの手を取った。
ワインレッドの瞳がクロを見上げる。それだけでクロは何かを悟ったように顔を歪めた。……クロの知る以前の彼女は、クリーム色の髪とライトブルーの瞳だったはずだ。この数百年、たったの一度も忘れる事の出来なかった少女が今、目の前に居る――――自分と同じ、吸血鬼(ばけもの)に姿を変えて。
誰の下位吸血鬼になった、と尋ねるより前に答えは出た。先に帰った憤怒と暴食、そして色欲の他、残っているのはただ一人。がさりと音を立てて動いた紙袋から覗く赤い瞳がクロを見て、伏せられる。
「……っ、」
「……クロ? どうしたんだよ、この人知り合いか?」
主人である城田真昼も戸惑う様に、ちらとカタリナを見た後でクロに尋ねた。しかし、クロは何も言わない。離さないように力強く握られたままの手に一瞬視線を落としたカタリナの憂いが滲んだ表情に、真昼は何かよくわからないけど凄い訳ありっぽい、と流れ始めた無言の空気に耐えかねる。
どうするか、と視線を彷徨わせる真昼を救ったのは意外にもぬぼっと棒立ちに突っ立っていた嫉妬の真祖だった。がしりと腕を掴まれ引きずられる様にファミレスの店内にまた戻される。一日に二度もファミレスに入る事になるとは、なんて思いながらも結果として、真昼はそのままその場を離れることになった。
残されたカタリナは心の中で最後まで気遣いをしてくれた優しい男に感謝を呟きながら、片手の手首を握り固まるクロの手にもう片方の手を添えてこう言うのだった。
「ひとつ、……ひとつだけあなたにまた会えたら聞こうと思っていた事があるの」
胸を満たすのは底無しの後悔と、悲しみと、僅かばかりの怒りと疑問。
「どうして、」
何百年、数える事さえ忘れた時間に煮詰められた感情を抑えつけて、カタリナは静かに言葉を続ける。
「――――どうして、逃げたの。私を、ひとり置いて」
浮かべられた嘲笑的な笑みと反比例する様に空虚で他人事のように落ちた声の言葉。
亡者を前に、どうして、吸血鬼なんかになったんだ、と怠惰な男は苦しそうにまた顔を歪めた。
空港の案内放送を耳に入れながら、殆ど空になりかけた紅茶のカップを下ろし、後で店内の壁に掛けられた時計に視線を向ける。空港に着いてからもう一時間と少し。頬杖をつきながら、御国は首元に巻き付いている黒蛇の頭を遠慮なく指先で突いた。
「なあ、ジェジェ。まだな訳? オレいい加減待ち飽きたんだけど、っていうかそもそもそんなに暇人じゃないんですけどー?」
黒蛇の名を呼びながら御国はちょっかいをかけるのを止めない。普段は別に暇ではないが、現状ばかりは暇を持て余し、その退屈を何処へ向けるべきかを考えた結果の手慰みだ。こうなるだろうとは思っていた、とどうしようもない主人の性質を理解した上で最初は無視していたジェジェだったが、頭を突かれたり指先で握られたり……自分自身にとっても我慢の限界は近かった。ささやかな抵抗として、ジェジェはやめろ、と示すように御国の首に巻き付けている体を軽く絞める。それは本当に軽く、本気でない事を御国は知っている。だから御国もジェジェを弄る手を止めない。
そんな戯れあいが続いて早々に御国が飽き、さらにしばらく経って、ようやくテーブルの上に置いたままの携帯が小刻みに震えた。
「……やっと来た」
――You got a mail.――と画面に表示されたメッセージの受信を知らせる一文。
内容を確認すれば、お待たせ、という短い言葉が一つ。待たせたと思ってるなら謝罪くらいしたらどうなんだ、と思わなくもない。今さっき届いたメッセージより一つ前に受信されたメッセージには、トラブルがあったみたい、伝えた時間には日本に到着できないと思うわ、と事前に遅れる事は伝えられていた。
運命の悪戯とでも言うべき突然のトラブルに御国の待ち人が巻き込まれて怪我をした、なんてことが無かったならせめて、よかったね、と言ってやるのが人として正しい言葉なんだろう。釈然としないし、言わないけど。
御国は首に巻き付く蛇はそのままに、テーブルの上に置いていた人形を手に取ってカフェを後にした。人の波が空港の出口に向かって流れて来る、それに逆らって目当ての人物を探そうとするがこの中では見つけるのは至難の業だ。もう少しあそこで待ってればよかったか、と思いながら御国が携帯を取り出した時――。
「人がごみのようだ、ってこういう事を言うのかなあ……? あー疲れる……」
「別の便で来る予定だったのを繰り上げたのは貴方なのに、その言い草は本当に勝手じゃないかしら」
「なにか飲み物持ってない?」
「炭酸ならあるけど。でも貴方の好みじゃないわ、きっと」
騒がしく雑音の混じる人ごみの中で嫌にはっきりと聞こえた声が二つ。
一人は、自分が楽しい事なら何でもいい、逆に自分の興味の無い事はどうでもいい、そんな破綻した性格の人間性が声色からもにじみ出る様な男の声。
一人は、淡々と俯瞰的に覗き込んだ世界の感想をただ読み上げるだけの、情熱と感情の一部を何処かへ置き忘れたみたいに無気力で気だるげな女の声。
御国にとって、どちらもよく聞き覚えのある声だ。そして片方は、不幸なことに今この場に在ってはいけない声だ。
……無視しよう、きっと気のせいだ、幻聴だ。そう思いながら携帯に視線を戻す。
「まー。いーや、とにかく喉が渇いた。甘味料ならこの通り持ってきたし」
「それのせいで検査の時止められたって事分かってる?」
「ただの甘味料だって言うのに聞かなかったのはあっちの方だ。俺に非は無いね」
「いかにも私は不審者です。なんて恰好をしてるヨハンも問題だと思うけど」
「やっぱりお前か……ッ!」
振り返り、思わず品の無い大声を上げてしまった。周囲の視線が一瞬こちらに向くが、立ち止まる事は無くまた人の波は流れていく。そして振り返った事によって容赦ない現実が御国の目前に叩きつけられた。
柱の傍に立っている男女はこの人混みにおいても中和されない存在感を放っている、もちろん悪い意味で。特に男が。こんな場所でくらい脱げと言いたい皺の多い上に裾が謎の液体で汚れている白衣を着た長身の男は見るからマッドサイエンティスト、もしくはちょっと頭の可哀そうな中二病眼鏡。お関わり合いになりたくないそんな恰好の男の名を御国は残念なことに知っている――ヨハネス・ミーミル・ファウストゥス、吸血鬼専門の研究者で変人だ。
先程の大声で彼もまた御国に気づいたのか、その姿を見るなり、げぇ、と顔を歪めている。その手には日本ではあまり見ない包装が施された炭酸飲料のペットボトル。ヨハネス、もといヨハンの隣に立っていた女は御国に微笑みを向けながら、ひらひらと手を振っている。
長いリボンと花飾りの付けられたカンカン帽に似たハット。緩く編まれた胸程の長さのクリーム色の柔らかそうな髪。覗くワインレッドの瞳は緩やかに細められていた。剥き出しの肩と惜しみなくさらけ出された白い足と腕は、ある意味目のやり場に困る。こっちもこっちで自由過ぎる。場にあってるといえばそうだが、此処は日本だ。色々と言いたい言葉を一先ず飲み込んで、彼らの方へと近づけば女は流れるような自然な動きで御国を抱きしめ、その頬にわずかに触れる挨拶代わりのキスを落とす。すぐに離れて揺れる髪から、ふわりと心地のいい香りがした。
「此処は日本だって……、カタリナ」
「あら、ごめんなさい。まあそれはそれとして、お元気そうで何よりね」
「……今のオレが元気そうだって言うなら、相変わらずいい性格してるよ」
女の名前は、カタリナ。彼女は嫉妬の下位吸血鬼、そして恐らく吸血鬼側で今一番吸血鬼の生態に詳しい人物で、今はヨハンの助手という立ち位置に収まっている。不老不死を殺すという矛盾に答えを欲しがる様な、頭のネジが二、三本飛んで紛失してる、一言で言うなら壊れた女だ。ヨハンと本質が似た者同士なのか、仲はまあ、この通りたぶん良好。どれだけ待たされたか、と御国が疲れ切った表情で呟けば、カタリナは笑い声を零すと「想定外のトラブルがあったんだから許して」と言う。
「……で、そのトラブルってのは何だった訳?」
「それはもちろん、この人」
後ろで炭酸を抜いた甘いシロップと大差ない飲み物を飲み干しているヨハンを見る事無く、御国に示す様に指先を向ける。
「空港にヨハンが居た事も、チケットを取り直していた事も驚きだったけど――……」
そう言いながらカタリナは柱の傍に置いてあったアタッシェケースを開けて見せる。中には透明な袋に白い粉の様な物が大量に詰められていた、見るからに怪しい。オレが入国審査員か何かだったとしたら、こんな見るからに怪しい男は搭乗させたくないし、むしろすぐさま警察に引き渡したいと思う。御国は頭の奥がズキズキと痛むのを感じた。
「この通りヨハンが大量に持ち込んだ甘味料のおかげでストップかけられまくって大変だったんだから」
「ヨハン!!」
「怠惰が見つかったって呼んだのはみくみくじゃん」
御国の言及をさらりと躱すヨハンの言葉、特に“怠惰”という単語にカタリナが一瞬表情を曇らせた事に気づいたのは一人だけ。
ヨハンからは、アタッシェケースのチャックを閉める為に屈む彼女の表情は見えなかった。御国はヨハンを糾弾する事に意識が向き過ぎていた。その場にいたもう一匹、正確にはもう一人だけがその顔を見上げていた。いつの間にか御国の首から降りてタイルの上に居た黒蛇、まばらになって来たとはいえ、それでも騒がしい内に入る雑音の中では消え入りそうな小さな声でその名を呼んだ。
「……カタリナ……」
「あら、ボス」
挨拶代わりのキスの代わり、細く白い指先で黒い蛇の頭を撫でる。黒蛇――今の名をジェジェは嫉妬の真祖であり、主人である御国の従僕、そして嫉妬の下位吸血鬼であるカタリナにとっての主人にあたる。ちらと御国を見るが、彼は相変わらずヨハンと言い争いを続けているらしい。どうぞ、と手を差し伸べればカタリナの白い腕に黒い蛇は這い上った。ひやりと冷たい蛇の表皮が素肌に触れて少しくすぐったいとカタリナは笑う。
「ボスは冷たいから、夏はとっても涼しそうね」
「……、……定例会、来るつもりなのか……?」
「……」
「……」
悲しそうに目を伏せる表情にジェジェは僅かに言葉に詰まる。7人のサーヴァンプ達による“定例会議”の開催が先日、色欲の真祖からネットを通じて伝えられた。更に今から一週間と少し前、怠惰の真祖が主人を持ったという情報が中立機関より流れ込んできた。
海の向こうでその報を聞いた彼女が何を思ったか、正確には分からない。分からないが……。怠惰が行方をくらませて数百年、待ち続けたその思いを、尊重してやりたいともジェジェは思う。
たとえそれが、既に壊れかけて歪んだ思いだとしても、結果的に彼女が本当に壊れ切ってしまうとしても。
「貴方が止めるなら、私はいかない。――ねえ、ボス。わたしは、どうしたらいい?」
もし止めたなら、彼女は明日にでもその身を日の光にさらして、灰に変わる。そんな確信がある。下位吸血鬼は自分を作った真祖に逆らえない、だからジェジェが命令を下すならカタリナは逆らうことが出来ない。
「……勝手にしろ……」
「仰せのままに」
芝居がかった言葉でそう言いながらも浮かべられた笑顔は、そこに間違いなど一つもありはしないような純粋無垢で穏やかなもの。
少女の様に、女は笑っていた。
もう、致命的に手遅れな事もジェジェには分かっていた。一度は間違いなく、人間として壊れてしまった彼女。
彼女が一度は捨てたその生を、繋げてしまったのは“嫉妬”。生前の彼女の心を壊したのは“怠惰”。
カタリナという一人の少女の人生を狂わせたのは、紛れもなく吸血鬼という存在で、彼女は今それを×す為に此処に居る。
愛とは何か。
例えば、相手を慈しむ心。
例えば、異性に対して抱く思慕の情。
例えば、何事にもまして大切にしたいと思う気持ち。見返りを求めず限りなく深く慈しむ事を、「愛」と言った人もいた。人それぞれ、無数の愛の形は辞書や言葉の定義だけではとてもはかることが出来ない。愛し方も人それぞれ。答えなんてない。
でも一人ひとりになら、きっと答えはあるはずだ。
愛する事とはその人と共に長く在る事、そして願わくばその人と共に死を迎える事。それが私の知る愛し方だった。言葉のとおり、私を一人置いて共に幸せな死を迎えた両親が教えた、人の愛し方だった。一人になった私が生きていけたのは、両親が思うとおりに私が強くて賢い子だったからじゃない。“彼”という拠り所があったから。
「――××××!」
クリーム色の長い髪を揺らして、この辺りの街では至って珍しくもない流行りの服を着た小柄な少女が朝焼け色の髪の男の元へ駆け寄って行く。その姿はまるで兄妹の様にも見えたし、仲の良い恋人の様にも見えた。彼と過ごす毎日は、夢を見ているように楽しかった。パンを焼いて、昨日作ったばかりのベリーのジャムを塗って、両親が遺した花を育てて、取り止めの無いお喋りして、様々な物事の境界を越えて本を読み漁って、……ただ、それだけ。
(それだけだったのよね。でも楽しかった、ずっと、永遠が欲しくなるくらいに)
膝の上に乗せた黒猫の頭を撫で、揺れ動く椅子に座って読書を続ける少女の頭に手を伸ばす。撫でた感触なんてない。ただの気休めだ。だってこれは夢だから。彼と共に在りたかった。……でも彼を愛する事は私にとってどうしたって有限だった。だってそういうものだったから。人間は――“私”はいつか死んでしまうから。それが自然の摂理。だからこそ、人は美しいのだから。
「――ねえ、××××。一緒に居てね、私と」
「――ああ、オレもお前と居たい……。ずっと一緒に」
それが、自然の摂理に背く事でも。私は、それでも、彼の傍に居たかった。少女はこれ以上ないというくらいに幸せな笑顔を浮かべて、眠った。両親が家に残していた深い睡眠を誘発する薬を飲んで、眠った。一緒に居られないなら、人間としての生なんて捨ててしまおう。彼と同じになって、彼と一緒に生きよう。彼の手で一度目を終わらせて、今度は時間に縛られる事の無い二度目を始めよう。そう思って、少女は眠った。
(……ばかね。あなたは置いていかれるの)
自分の視界をも暗闇が覆っていく。薄ぼんやりと霞んでいく意識の中で、彼女は、ばか、ともう一度小さく呟いた。この先の結末を彼女は知っている。
少女は彼とは生きられなかった。数日後、見慣れた木造の天井を見つめて、ベッドの上で目覚めた少女を迎えるのは誰の体温も無くなった閑散とした部屋だけ。呼びかけても、返って来ない言葉と足音。
同い年の子たちと比べても中途半端に頭の出来が良かったのも問題だった、例えば親に捨てられたとある子供が其れを自覚すら出来ない様な子供だったとする。自分もそんな子供だったならば、少女は訳もわからず、ただ彼を待ち続けるだけだっただろう。だが――……少女は気付く、そして知ってしまう。
自分が、愛する人に捨てられてしまったのだという事を。
一緒に居ようと言った彼の嘘を、知ってしまう。
……元々朝が弱いからだろうか、まるで今の今まで心臓が止まっていたかのようにドクドクと急速に血を全身に送り、心拍数を上げる心臓の音が聞こえる気がする。
横になったまま寝返りをうち、壁際の窓を何気なく見つめる。締め切られたカーテンからも日の光が差し込んでいる様子はないが、恐らくはもう朝と呼べる時間帯ではないだろう。それに此処は、人も目的なしには訪れないような薄暗いしみったれた路地裏の奥にあるのだ、日の光など差し込むはずはない。下位吸血鬼であるカタリナにとって、この立地が好都合な事に変わりはないが。……数日前、日本に渡ったカタリナの住処として御国が提供したのが此処、“The land of Nod”。直訳でノドの地、人類最初の殺人の加害者・カインが実の弟・アベルを殺し、追放されて移り住んだとされた場所、それがノドの地。
それはあくまで旧約聖書の話であって、現在カタリナが居る“The land of Nod”はただの店名だ。御国が経営する雑貨屋に近い自称骨董品屋。店の名前なんて店主が好きに決める物だから口出しなんて野暮だとは思うが、それにしたって皮肉が効いた悪趣味な名前を選んだものだと逆に感心する。
取り止めの無い考え事で眠気を消し、動悸も収まって来た頃を見計らってベッドから出る。服を着替え、部屋のテーブルに昨晩置いて眠った読み終わった本を手に階段を下りる。簡単に店の掃除をして、と本日の予定を脳内で埋めていけば、一階の書庫兼研究室から嗅ぎ慣れた紅茶の香り。次第に聞こえるギコギコとボートを漕ぐオールの様な音。
明らかな人の気配に臆する事は無く、カタリナは部屋に足を踏み入れた。だらんと長い手足を垂らしながら椅子に座るヨハンを横目に、手にしていた本を書架に差し込み、分厚い背表紙を指先で押す。脈絡もなくヨハンが意地の悪い笑みを浮かべながら「寝言」と脈絡のない言葉を投げた。
「言ってたよ」
「そうなの。気づかなかった」
「吸血鬼も夢を見るンだなあー。それは既に知られた事だけど」
棚にはフラスコ、ビーカー、試験管等々、雑に並べられている実験器具。そうね、と気のない返答をしながら、落ちて割れる事が無いように適当に奥へ押しやる。部屋に誰かが入ったという事は、テーブルの上の本の配置が昨晩とズレていたのを見て知っていたから、特別驚く事は無い。それに相手はあのヨハンだ、気にするだけ無駄というものだとカタリナは知っている。
人間も夢を見る、同じくして吸血鬼だって夢を見る。そこに明確な違いは無いとされているけれど、先程まで見ていた明晰夢は夢と呼ぶよりは過去の記録と言った方が言葉としてはふさわしい気がする。
「それで私はなんて寝言を?」
「さあ。なンだったかなあ……意味がない事は覚えらンない性質だからさあ。興味ある?」
「いいえ、全くこれっぽっちも」
「ひゃはは。だろうね」
言葉を交わしながら準備した、角砂糖が入った瓶と赤茶色の液体が揺れるビーカーをカタリナがテーブルに置けば、ぼちゃぼちゃと容赦ない量の砂糖をビーカー内の紅茶に投入し始めるヨハン。片方は下位吸血鬼の女、片方は人間の男。種族も性別も異なる二人の共通点は唯一、吸血鬼を専門とする研究を行っているという事。
しかしカタリナがヨハンの為にしている事といえば、生活力が致命的に欠けている彼の世話が大半だ。後は各々独自に研究を進めていて、協力などは殆どない。マグカップに淹れた自分用の紅茶を一口飲みながら、カタリナは咥えているストローで液体をかき混ぜているヨハンに視線を向けた。
「ん」
カタリナが言わんとする事を察したのか、ヨハンも紅茶の入ったビーカーに口づけながら壁際の棚を指さす。乱雑に並べられた書類は、すべて“怠惰”に関する報告書だ。現怠惰の主人・城田真昼に関する報告書もある。流石は中立機関様、プライバシー侵害はお手の物ね、なんて思いながら目を通す。貼り付けられた写真に写る朝焼け色の髪は記憶の中と何一つ変わらず、その横顔を見つめてカタリナは目を伏せた。
ヨハンは自身の机の上に置いた論文へとちらと視線を向ける。吸血鬼を、より正確に言い表すならば真祖を殺す方法についての推考が書かれていて、書いたのは今この場に居る嫉妬の下位吸血鬼、カタリナ。彼女は真祖を殺す方法を何百年という時をかけて考え続け、研究を重ねている。ヨハンはそれに関して特別何か言うつもりはない。無い、が……。頭の片隅で数時間前の光景を思い返す。
「――いかないで、……」
ベッドの上で眠る彼女は警戒心なんて欠片も無くて、死んだように眠るってのはこういうのを言うンだろうなあ、と思いながらまじまじとヨハンがその寝顔を何気なく眺めていた時、彼女は苦し気に綺麗な顔を歪めてそう言った。平時とは違い、深い感情の滲む声で。
夢と現実の境も分からず宙に手を伸ばして、そんな声を上げるくらいなら忘れてしまえばいいのに。そう思わないでもない。けれど、忘れる事が出来ていたなら今この瞬間、カタリナという女は此処には存在しなかっただろう。
限られた時間を生きているからこそ、人間は過去を忘れて生きていける。
そう言ったのは彼女だったか、それとも別の誰かだったか、宙に伸ばされたその手を無意識に取って、意味もなく考えた。それは男の手で包み隠されてしまう程細く小柄な手で、じわりと滲んでくる熱はまるで毒のようだと思った。力の抜けてだらんと垂れる手をそっと戻せば、彼女はまた最初と同じく静かに眠り続けた。ほんの少し、彼女の過去を知り、感じ、理解する事を赦さないかのように、自らには与えられなかった才能が欲しいと、時々たまにくらいは思う。
ガサッ、という紙袋を握り歪める様な音に逸れていた意識を戻したヨハンは目前で揺れる薄茶の紙袋とそれを突き付けてきているカタリナを座りながら見上げた。
「ヨハンもたいがい独り言が多いわね」
「中身は?」
「フルーツサンド。しょっぱいのが好みなら交換してあげるけど」
「文句なし」
笑う表情はどこか幼ささえ感じるのに、まるでただ貼り付けられたみたいに感情が覗かないのはやはり彼女の心が何処か歪で壊れているからなのか。遅めの朝食、もしくは早めの昼食を口にする傍らで、視線は真っすぐと何かを想う様に手にした小瓶に注いでいるカタリナ。
失敗しても、成功しても、未来はそう変わらない。終着が遅いか、早いか、それだけの違いだ。彼の主人ではなくなり、彼の吸血鬼にもなれず、人間でもいられなかった自分の唯一の望みはたった一つだけなのだから。
昨晩からずっと降り続く雨は止むどころか勢いも強まるばかり。下位吸血鬼にとっては日光を気にせず外を歩けるというメリットもあるが、普通の人間と同じく服が濡れる、靴が濡れるという点を考えればデメリットの方が大きい。特に大半の女の子にとっては雨なんてそうそういい物ではないだろうな、というのがカタリナの経験に基づく雨に対する見解だ。その上で彼女は何処か薄っぺらな印象を感じさせる、それでいて完成しているような微笑みを浮かべて、こう言った。
「いい天気ね、ボス」
「……いい……天気か……?」
「ええ、とっても。いい天気」
新調したばかりの晴雨兼用の傘を肩に寄りかける様に差し、一度空を見上げたカタリナの首元でするりと黒蛇が動く。この雨では人型になれば服の裾はともかくとしても頭に乗せる紙袋までぐちゃぐちゃになって汚れる、との事でカタリナの提案に乗っかる形で現在の位置に落ち着いているジェジェ。細く白い首元は力を込めればへし折れそうだと思うほど危うさを感じさせていた。
いい天気だと言いながらも喜びの感情が一切覗かない、淡泊な声色。それでも浮かべられる安らかな笑みに遠い記憶を重ねるジェジェも同じように黒雲に厚く覆われる空を見上げる。
「何時から?」
「……7時だ……」
その言葉にカタリナは、はたと目を瞬かせ首を傾げる。その動作は首に巻き付いて、体温が移りかけていたジェジェの身体を柔く押した。
「思ってたより遅いのね。もっと早く言ってくれたら寄り道して来たのに」
「……別に、いい……。……あそこは、うるさい……」
「ああ、なるほど」
足りていない言葉の行間を長い付き合いという名の経験で補って、カタリナは納得の声をこぼす。以前から、御国とヨハンは憎しみあう程強い仲の悪さ、とまではいかなくても顔を合わせればすぐに悪態をつきあう仲だ。事前に御国には今日の事を伝えてあったため、彼はカタリナに合流しようと彼女の寝泊まりに使わせている自らの店を訪れた。その折、招き入れた覚えのないヨハンが我が物顔で茶をすすっていた上、大事な大事な人形のひとつを毒々しい色合いの液体に変貌させられていたのだから……それはまあ、悪口を言いたくなる気持ちも分からなくはない、とは思う。
騒がしい店内で、ジェジェが「行くぞ」とカタリナに声をかけた理由は時間が差し迫っているからでもなく、単にうるさかったから早く外に出て行きたかったというだけか。
「ふふ、悪い人ね、ボス」
こんなに酷い雨の日に喧騒を避ける為だけの理由で利用するなんて、とカタリナは笑う。遅れたら困るなんて嘘まで吐いて、そう言って一度肩を竦めれば目前に今回の会議の集合場所が見えた。
「それじゃあ、私はここで。いってらっしゃい、ボス」
「……?」
「流石に真祖の方々の会議に一介のサブクラスが混ざる訳にいかないもの。盗聴なんて趣味はないし、私はここで待ってるわ」
今回の集合場所は、何処にでもあるような至って珍しくもないファミリーレストラン。立ち止まり、路地に視線を向けるカタリナにジェジェは抗議するように頭をその首に押し付けた。あと何時間あると思ってる、この雨の中ずっとあの路地に立って待たせておくわけにもいかないだろう、と気遣う優しさが伺える。無言の圧力と抗議にカタリナは一巡して考えた後、ちら、とファミレスを見た。
「……」
この雨で出歩く人も少ないからか、それともまだ夕食の時間には早いからか、外から見ても店内は閑散としている。
好意には甘えるべきか、と判断したカタリナはそのまま店の軒下で傘をたたんだ。開いた自動ドアを越え、一歩店内に足を踏み入れる寸前にするりと首元から降りた蛇が人へと姿を変える。
接客のために歩み寄って来た店員が顔色を分かりやすく変えた。それもそうだ、明らか外国人な風貌の麗人と、その隣に紙袋を重ねて被る長身の奇人。
「席は何処でも大丈夫?」
「! あっはい、お好きな席にどうぞ」
「ありがとう」
さっと店内を見回して、間取りを把握する。店内奥の窓際の席に近づき、ジェジェを見ればこくりと頷いた後、まるでそこが定位置だとでもいうように机の下に潜り込む。丁度植え込みで死角になる席に一人、腰を落ち着けたカタリナ適当に飲み物を注文して、退屈そうに頬杖をついた。鞄から取り出した淡い色合いの小瓶をテーブルに置き、思考に耽る。
客が少なく静かな店内、僅かに響く外の雨音――……あの日も、雨が降っていた。
温暖な気候で雨が滅多に降る事がないと言われるその国では珍しく、窓を叩きつける様な勢いの雨が強く、強く降っていた。
カタリナが初めて死んだ、あの日。
愛しい彼が知らない、あの日。
共に生きたかった彼ではない男に侵食された、あの日。
……コト、と小さく音を立ててテーブルに並べられたホットケーキ。ありがとう、と店員に告げてからデザートを口にする。追想に引きずられる様に蘇る、あの日初めて口にした血の味を蜂蜜と共に誤魔化す。……これにはそう、皮肉なものね、と苦笑する他なかった。
「――××××」
何百年かぶりに目にした彼は、恰好こそは違えど朝焼けの様な髪色も、猫背な姿勢も、前のめりがちな歩き方も、何一つ変わっていなかった。不老不死だから当然だと言われてしまえばそれまでで、頭では理解できていた事でも、少しばかり苦しくなる。
彼は私を覚えているだろうか、そんな思いが無かった訳では無い。だからこそ、口に出したその音は我ながら酷く震えていたように思う……名前を呼んだ。いつか遠い日の名前を。
だけど彼は振り向かない。気付かない。気付く、はずもない。彼にとってこれは既に名前ではないのだから、呼ばれているのが自分だと思うはずもない。サーヴァンプとは、そういうものだ。だから、彼は気づかなかった。ただ、彼の主人が耳が拾った音を気にしてこちらに視線を向け、それにつられるように彼もこちらを向いただけ。
……ああ、そう。理解した。
僅かに震えていた指先を握りしめて抑え込めば、もう声が震える事もなかった。見開かれる瞳を見つめて、カタリナは緩やかに片手を持ち上げ微笑んだ。もう何年も会っていなかった友人に久しぶりと出会えた偶然に何気ない挨拶を交わす様に。
「お前、なんで……此処に……っ?」
「あら、少し意外だわ。もう、忘れられたのかと思ってた」
「いや、それよりも、なんで、生きて……」
途切れ途切れの戸惑い交じり、見るからに動揺している彼は……、今の名を『クロ』は示す様に軽く持ち上げられていたカタリナの手を取った。
ワインレッドの瞳がクロを見上げる。それだけでクロは何かを悟ったように顔を歪めた。……クロの知る以前の彼女は、クリーム色の髪とライトブルーの瞳だったはずだ。この数百年、たったの一度も忘れる事の出来なかった少女が今、目の前に居る――――自分と同じ、吸血鬼(ばけもの)に姿を変えて。
誰の下位吸血鬼になった、と尋ねるより前に答えは出た。先に帰った憤怒と暴食、そして色欲の他、残っているのはただ一人。がさりと音を立てて動いた紙袋から覗く赤い瞳がクロを見て、伏せられる。
「……っ、」
「……クロ? どうしたんだよ、この人知り合いか?」
主人である城田真昼も戸惑う様に、ちらとカタリナを見た後でクロに尋ねた。しかし、クロは何も言わない。離さないように力強く握られたままの手に一瞬視線を落としたカタリナの憂いが滲んだ表情に、真昼は何かよくわからないけど凄い訳ありっぽい、と流れ始めた無言の空気に耐えかねる。
どうするか、と視線を彷徨わせる真昼を救ったのは意外にもぬぼっと棒立ちに突っ立っていた嫉妬の真祖だった。がしりと腕を掴まれ引きずられる様にファミレスの店内にまた戻される。一日に二度もファミレスに入る事になるとは、なんて思いながらも結果として、真昼はそのままその場を離れることになった。
残されたカタリナは心の中で最後まで気遣いをしてくれた優しい男に感謝を呟きながら、片手の手首を握り固まるクロの手にもう片方の手を添えてこう言うのだった。
「ひとつ、……ひとつだけあなたにまた会えたら聞こうと思っていた事があるの」
胸を満たすのは底無しの後悔と、悲しみと、僅かばかりの怒りと疑問。
「どうして、」
何百年、数える事さえ忘れた時間に煮詰められた感情を抑えつけて、カタリナは静かに言葉を続ける。
「――――どうして、逃げたの。私を、ひとり置いて」
浮かべられた嘲笑的な笑みと反比例する様に空虚で他人事のように落ちた声の言葉。
亡者を前に、どうして、吸血鬼なんかになったんだ、と怠惰な男は苦しそうにまた顔を歪めた。