カムパネルラの肖像
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ずいぶん帰りが遅くなってしまった。つい描くのに夢中になって、気付けば日が落ちていた。
街灯が照らす夜道を行き、真っ直ぐに帰路へ付く。珍しく、帰った家の窓に明かりはなかった。
――もう寝てしまったのか、随分と早い。
そう思いながら暗い玄関をくぐり、明かりを付けて……俺は違和感に気付いた。
複数人に踏み荒らされた形跡が残る玄関の有り様に、俺は抱えていた鞄をその場に捨て置いて、駆け出す。
「――!」
名を呼んでも、返答はない。
焦りが募る。嫌な予感がした。
そして、幸いにして不幸なことに、彼女はすぐに見つかった。……いつも俺を待っている部屋で、彼女は倒れている。
力なく手足を床に投げ出して、
その後頭部は潰れ、
カーペットは血に濡れている。
床に倒れた彼女は既に、息絶えていた。
もう死んでいる。もう助からないのだと、一目見ただけで分かった。
――それなら俺は、どうすればいい……?
――ああ……、
――ああ……! そうだ……!
俺は湧き上がるようなインスピレーションに導かれるまま踵を返し、震える足を引き摺りながら真っ先にアトリエへと向かう。そこまで長くもないはずの廊下が酷く引き延ばされているような感覚だった。何度も脚がもつれて転びそうになって、壁に手をつく。
壁には彼女が自ら一つ一つ額に収めて飾った俺の作品が並んでいた。
ここで立ち止まり、何度も俺の絵を眺めていた彼女が死んだ。
今日は外で描いてくると言って出かけようとした俺に、「行ってらっしゃい」と見送ってくれた彼女は殺された。
誰がやったかは見当がついていた。けれど、そんなことよりも。
……アトリエの端に置かれたポリタンクを手に、俺はすぐさま彼女の元へと引き返した。
家具を避けて、床に敷かれたカーペットの上へポリタンクの中身を撒いていく。燃料特有の臭いが部屋に広がった。衝動に任せたまま、動かす手に迷いはない。
「なあ……、まだそこにいてくれているか……?」
跪いて、呼びかけながら彼女の身体を抱き起こす。暫く一緒に暮らしていたが、俺が自ら彼女に触れたのはこれが初めての事だった。
彼女の身体からは既に熱が消えつつある。
薄らと開かれた瞼から覗く瞳は光を無くし、虚空を見ている。
――いつか、見てみたいのよ。
そう言って笑っていた彼女の声が、遠い。
抱き起こした体が、不思議と軽くなっていくように感じた。
刻一刻と、彼女が世界から失われつつあるのだと俺は疑わなかった。俺は彼女を抱き上げて、先ほど燃料で下絵を描いた場所へと運び、彼女の体をうつ伏せに横たえる。
まだ、もう少しかかるから――。待っている間、彼女が寒くないようにと、その背に毛布を掛けた。
「なあ、待ってくれ……」
彼女を中心に伸ばすように燃料を垂らしながら、俺は無意識に彼女に呼びかけていた。
「……まだ、行かないでくれ。頼む。もう少しだけ此処にいてくれ……」
――当然、返答はない。俺の名前を呼ぶ声も、どうしたのかと聞き返してくれる声もない。
――もう何処にも、いない。
ぼろぼろと止めどなく涙が溢れた。誰もそれを止めてはくれなかった。空になったポリタンクを部屋の端まで投げ捨てて、俺は彼女の側に立つ。
「――なあ、見ていてくれ」
親指でライターの蓋を弾く。澄んだ音がした。
「今、一番いい絵を描くから」
俺にとって炎とは、罪の象徴であり破壊の力で、同時に創造の手段だった。
その炎で、彼女の背中に六枚の翼を描いた。神に最も近い存在であり、燃え盛る炎を象徴するもの。天へと招かれる彼女に相応しいものを描いた。
火が、翼の輪郭をなぞるように、部屋の中に燃え広がる。
彼女と共に過ごしたこの家ごと、火が全て残らず、燃やして、燃やして、燃やし尽くして――。
君が好きだと言った俺の絵を天国まで連れて行ってくれますようにと、俺は祈った。
「……俺は、君が」
無意識に言いかけて強く煙を吸い込んだ俺は咳き込んでその場に膝をつく。それ以上は、言葉にならなかった。
頬を伝い続けた涙が熱で焼け、頬を引っ張る感覚さえもう気にならない。
「…………きれいだ」
そう、呟いていた。
炎は美しかった。
翼は、美しかった。
彼女は、美しかった。
煤けた空気が喉を焼き、皮膚の上を熱が舐める。けれど動かなかった。立ち上がるつもりもなかった。
今度こそ、彼女に描いた炎が燃え尽きる最期まで、傍に居たかった。
不意に懐かしい声で、懐かしい名で呼ばれた気がした。唇に挟んでいた煙草から灰が落ちる。
目を見開き、ゆっくりと振り向くとそこには――……。
「……なんだ、お前か。驚いたじゃないか」
「――なんだとはなんだ!」
思わず零れた言葉のせいで気を損ねたらしいシャムロックから凄い剣幕で怒られたヒガンは眉を顰めた。
キーンと痛む耳を押さえるように指を突っ込んで顔を背けたヒガンは、目の前のイーゼルに立て掛けていたキャンバスを見る。
絵を完成させた後、それを眺めながらいつの間にかうたた寝をしていたらしい。なんだか懐かしい夢を見ていたような気もするが、よく思い出せない。
「――おい、ヒガン。聞いているのか!」
「あ〜……、わかったわかった」
適当に相槌を返して、改めてシャムロックを見る。
「――で、どうしたんだい。シャム」
これ以上ないほどに眉間に皺を寄せたシャムロックが一瞬何か言いたげに口を大きく開いたが、グッと押し黙るように仏頂面で口を閉じる。小言を飲み込んだ姿を確認して、ヒガンは耳の穴に突っ込んでいた指を離した。改めて、側に立つ男へと目を向ける。
C3の職員として復職し、制服を着て、前髪を下ろしたシャムロックの姿はヒガンにとってまだ、そこまで馴染みがない。
『生前』もこんな感じだったのかねえ、とヒガンが明後日の方向に意識を飛ばしていると、数秒沈黙していたシャムロックが息を吐いて、言った。
「…………仕事の時間だから探しに来たんだ」
「もうそんな時間か。わざわざ呼びに来てもらって悪いねえ」
「悪いと思っているなら時計くらい持ち歩け。全く……」
あの決戦以降、ヒガンは人間と吸血鬼との表立った共存を目指すC3の手伝い――というよりは、主にシャムロックの手伝いをしていた。
大抵は下位吸血鬼の小さな揉め事の仲裁に駆り出されている。例に漏れず、今回も似たような仕事(内容を前に聞いた気もするが覚えていない)だろうと見当をつけて立ち上がったヒガンは思い出したように動きを止め、手袋を嵌める。
「ああシャム。悪いんだが、少しだけ待ってくれるかい?」
「――燃やすのか?」
「そうだね。この絵はなかなかよく描けたから」
「……。よく描けたのか」
「うん?」
聞き返すヒガンの声に、「いや……」とシャムロックが言葉を選ぶように言う。
「お前は描いた絵の殆どを燃やしてしまうだろう。だからどれも気に入らなくて焼いているのかと思っていたんだが、よく描けていても燃やすんだなと思っただけだ」
「……そうだねえ」
「俺には芸術はよく分からないが、そういうものか?」
「……まあ、そういうことにしておこうか」
キャンバスに添えた手で、上から絵でも描くように指を滑らせて炎を纏わせた。答えになっていない曖昧な返答を返したせいか、シャムロックは閉口する。
ヒガンは何となく悪いことをした気分になったが――、仕方ないだろう。
――なぜ、描いた絵をわざわざ燃やすのか。
――俺だってお前さんに指摘されるまで、考えたことがなかったんだから。
街灯が照らす夜道を行き、真っ直ぐに帰路へ付く。珍しく、帰った家の窓に明かりはなかった。
――もう寝てしまったのか、随分と早い。
そう思いながら暗い玄関をくぐり、明かりを付けて……俺は違和感に気付いた。
複数人に踏み荒らされた形跡が残る玄関の有り様に、俺は抱えていた鞄をその場に捨て置いて、駆け出す。
「――!」
名を呼んでも、返答はない。
焦りが募る。嫌な予感がした。
そして、幸いにして不幸なことに、彼女はすぐに見つかった。……いつも俺を待っている部屋で、彼女は倒れている。
力なく手足を床に投げ出して、
その後頭部は潰れ、
カーペットは血に濡れている。
床に倒れた彼女は既に、息絶えていた。
もう死んでいる。もう助からないのだと、一目見ただけで分かった。
――それなら俺は、どうすればいい……?
――ああ……、
――ああ……! そうだ……!
俺は湧き上がるようなインスピレーションに導かれるまま踵を返し、震える足を引き摺りながら真っ先にアトリエへと向かう。そこまで長くもないはずの廊下が酷く引き延ばされているような感覚だった。何度も脚がもつれて転びそうになって、壁に手をつく。
壁には彼女が自ら一つ一つ額に収めて飾った俺の作品が並んでいた。
ここで立ち止まり、何度も俺の絵を眺めていた彼女が死んだ。
今日は外で描いてくると言って出かけようとした俺に、「行ってらっしゃい」と見送ってくれた彼女は殺された。
誰がやったかは見当がついていた。けれど、そんなことよりも。
……アトリエの端に置かれたポリタンクを手に、俺はすぐさま彼女の元へと引き返した。
家具を避けて、床に敷かれたカーペットの上へポリタンクの中身を撒いていく。燃料特有の臭いが部屋に広がった。衝動に任せたまま、動かす手に迷いはない。
「なあ……、まだそこにいてくれているか……?」
跪いて、呼びかけながら彼女の身体を抱き起こす。暫く一緒に暮らしていたが、俺が自ら彼女に触れたのはこれが初めての事だった。
彼女の身体からは既に熱が消えつつある。
薄らと開かれた瞼から覗く瞳は光を無くし、虚空を見ている。
――いつか、見てみたいのよ。
そう言って笑っていた彼女の声が、遠い。
抱き起こした体が、不思議と軽くなっていくように感じた。
刻一刻と、彼女が世界から失われつつあるのだと俺は疑わなかった。俺は彼女を抱き上げて、先ほど燃料で下絵を描いた場所へと運び、彼女の体をうつ伏せに横たえる。
まだ、もう少しかかるから――。待っている間、彼女が寒くないようにと、その背に毛布を掛けた。
「なあ、待ってくれ……」
彼女を中心に伸ばすように燃料を垂らしながら、俺は無意識に彼女に呼びかけていた。
「……まだ、行かないでくれ。頼む。もう少しだけ此処にいてくれ……」
――当然、返答はない。俺の名前を呼ぶ声も、どうしたのかと聞き返してくれる声もない。
――もう何処にも、いない。
ぼろぼろと止めどなく涙が溢れた。誰もそれを止めてはくれなかった。空になったポリタンクを部屋の端まで投げ捨てて、俺は彼女の側に立つ。
「――なあ、見ていてくれ」
親指でライターの蓋を弾く。澄んだ音がした。
「今、一番いい絵を描くから」
俺にとって炎とは、罪の象徴であり破壊の力で、同時に創造の手段だった。
その炎で、彼女の背中に六枚の翼を描いた。神に最も近い存在であり、燃え盛る炎を象徴するもの。天へと招かれる彼女に相応しいものを描いた。
火が、翼の輪郭をなぞるように、部屋の中に燃え広がる。
彼女と共に過ごしたこの家ごと、火が全て残らず、燃やして、燃やして、燃やし尽くして――。
君が好きだと言った俺の絵を天国まで連れて行ってくれますようにと、俺は祈った。
「……俺は、君が」
無意識に言いかけて強く煙を吸い込んだ俺は咳き込んでその場に膝をつく。それ以上は、言葉にならなかった。
頬を伝い続けた涙が熱で焼け、頬を引っ張る感覚さえもう気にならない。
「…………きれいだ」
そう、呟いていた。
炎は美しかった。
翼は、美しかった。
彼女は、美しかった。
煤けた空気が喉を焼き、皮膚の上を熱が舐める。けれど動かなかった。立ち上がるつもりもなかった。
今度こそ、彼女に描いた炎が燃え尽きる最期まで、傍に居たかった。
不意に懐かしい声で、懐かしい名で呼ばれた気がした。唇に挟んでいた煙草から灰が落ちる。
目を見開き、ゆっくりと振り向くとそこには――……。
「……なんだ、お前か。驚いたじゃないか」
「――なんだとはなんだ!」
思わず零れた言葉のせいで気を損ねたらしいシャムロックから凄い剣幕で怒られたヒガンは眉を顰めた。
キーンと痛む耳を押さえるように指を突っ込んで顔を背けたヒガンは、目の前のイーゼルに立て掛けていたキャンバスを見る。
絵を完成させた後、それを眺めながらいつの間にかうたた寝をしていたらしい。なんだか懐かしい夢を見ていたような気もするが、よく思い出せない。
「――おい、ヒガン。聞いているのか!」
「あ〜……、わかったわかった」
適当に相槌を返して、改めてシャムロックを見る。
「――で、どうしたんだい。シャム」
これ以上ないほどに眉間に皺を寄せたシャムロックが一瞬何か言いたげに口を大きく開いたが、グッと押し黙るように仏頂面で口を閉じる。小言を飲み込んだ姿を確認して、ヒガンは耳の穴に突っ込んでいた指を離した。改めて、側に立つ男へと目を向ける。
C3の職員として復職し、制服を着て、前髪を下ろしたシャムロックの姿はヒガンにとってまだ、そこまで馴染みがない。
『生前』もこんな感じだったのかねえ、とヒガンが明後日の方向に意識を飛ばしていると、数秒沈黙していたシャムロックが息を吐いて、言った。
「…………仕事の時間だから探しに来たんだ」
「もうそんな時間か。わざわざ呼びに来てもらって悪いねえ」
「悪いと思っているなら時計くらい持ち歩け。全く……」
あの決戦以降、ヒガンは人間と吸血鬼との表立った共存を目指すC3の手伝い――というよりは、主にシャムロックの手伝いをしていた。
大抵は下位吸血鬼の小さな揉め事の仲裁に駆り出されている。例に漏れず、今回も似たような仕事(内容を前に聞いた気もするが覚えていない)だろうと見当をつけて立ち上がったヒガンは思い出したように動きを止め、手袋を嵌める。
「ああシャム。悪いんだが、少しだけ待ってくれるかい?」
「――燃やすのか?」
「そうだね。この絵はなかなかよく描けたから」
「……。よく描けたのか」
「うん?」
聞き返すヒガンの声に、「いや……」とシャムロックが言葉を選ぶように言う。
「お前は描いた絵の殆どを燃やしてしまうだろう。だからどれも気に入らなくて焼いているのかと思っていたんだが、よく描けていても燃やすんだなと思っただけだ」
「……そうだねえ」
「俺には芸術はよく分からないが、そういうものか?」
「……まあ、そういうことにしておこうか」
キャンバスに添えた手で、上から絵でも描くように指を滑らせて炎を纏わせた。答えになっていない曖昧な返答を返したせいか、シャムロックは閉口する。
ヒガンは何となく悪いことをした気分になったが――、仕方ないだろう。
――なぜ、描いた絵をわざわざ燃やすのか。
――俺だってお前さんに指摘されるまで、考えたことがなかったんだから。
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