カムパネルラの肖像
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扉を叩く物音に視線を上げれば、彼女が戸口に立って微笑んでいた。
――芸術家にはパトロンが要る。
その言葉通り、彼女は俺を家に住まわせ、元々俺が住んでいた部屋よりも広いアトリエと画材を与え、作品を作るのに必要な物全てを揃えて与えた。食事に住処まで何一つ惜しまず――、それどころか自ら世話を焼いてくれる。彼女は「自分でやるのが好きなのよ、何でもね」と言って、大抵のことを一人でこなしていた。
「そろそろ昼食にしない?」
「ああ……、もうそんな時間か」
そう呟きながら陽の差し込む窓を見た。気付けば、太陽は既に高く昇っている。近頃では生活に気を割く必要もなくなって、好きなだけ描くことだけに夢中になっていられるから時間を忘れがちだった。
時計を持ち歩く習慣もなければ、アトリエにさえ時計を置かない俺に時間の流れを教えるのは、食事の時間だと呼びに来てくれる彼女の声くらいだ。すぐそこで待っている彼女と昼食、そして描きかけの絵を前に逡巡して笑う。
「悪いね、もう少しだけ――待っててもらえるかな」
自分の腹が小さく鳴るのに気付いても、まだ筆を置こうという気になれなかった。
だから、そう断ってまたキャンバスと向き合った。しかし、そこで思い出す。
この前ももう少し、もう少しと描き続けて、結局二度も彼女に呼びに来させた事を。
……いや、やっぱり……。先に食事を――?
アトリエの中まで入ってきて、俺のすぐ隣に立った彼女が絵を眺めた。その美しい横顔を漠然と見上げていると、彼女は俺へと視線を移す。彼女は眦を緩めて、穏やかな声で言った。
「もう少し描くんでしょう? なら、私もここで見ててもいい?」
「……うん?」
「お邪魔?」
「……。いいや、君が望むならいくらでも」
それから俺が筆を置くまでの間、彼女は俺の側に立って熱心に見ていた。横目で盗み見たその顔が随分と楽しげに見えて、俺はそれが不思議で仕方なかった。
「そんなに面白いものでもないと思うけどねえ」
絵筆を置いて、丸椅子に腰掛けたまま彼女の方へと身体ごと向き直る。
「そんなことないわ。私はアンタの作品が好きだけど、絵を描くアンタを見てる時間も好きなのよ」
意地の悪い事を言ったつもりが、すぐにそう返されてしまう。それがなんだか妙にむず痒くて俺は誤魔化すように頬を掻き、「物好きも居るもんだ」とだけ言って立ち上がった。先に簡単に片付けを済ませてしまおうと思い、道具を集めて机の側へと寄せていく。
――今描いている絵の完成は、もう少しかかるだろう。
でも、そう長くはかからないはずだ。完成したらきっと彼女はそれを眺め「いい絵ね」と笑って、どこが好きだとか印象だとかを言葉を尽くして楽しげに語る。それから丁寧に額に納め、また一つ、俺の絵がこの家の壁を飾るのだ。
そんな穏やかな未来を頭の片隅で考えながら、彼女の方を振り返る。
描きかけの絵を眺めて待っていた彼女が俺に言う。
「ねえ、もう火で絵は描かないの」
「……もうやらないさ。また刑務所行きだ」
「私の物なら好きに燃やしていいって言ってるのに」
「たはは……。また君はそんなことを言う」
「いつか見てみたいのよ。火で描かれた作品も、それを描くアンタも」
「……。……ああ、そのうちね」
そう言って肩を竦め、誤魔化した。真っ赤な嘘だった。
俺はもう、二度と火で焼く画法を使うつもりはなかったからだ。
この国の放火に対する刑罰は重い。刑務所に入っていたのだって、故意で人を燃やそうとしたわけじゃなかった。そんなつもりは、本当になかったんだ。……運悪く、作品制作の過程で火が延焼し、隣家に燃え移っただけだ。誰かの命まで奪ったことはない。
しかし、それが結果的に『放火』で他者の命まで危険に晒した重罪であるとされ、十五年近い年月を塀の中で過ごした。
俺にはすでに放火の前科がある。今度罪に問われたら、次はきっと死ぬまで出てくることはできないだろう。そんなのはごめんだった。……とはいえ、そういう事情を抜きにしても焼くのが彼女の持ち物であるというなら尚更のこと、そんな気など起きようはずもなかったのだが。
この話を打ち切る為に「食事にしよう」と声をかけて、踵を返す。
「――あ、待って」
彼女が俺を呼び止めた。だから釣られるように足を止め、首を傾げながら彼女の方へ顔を向ける。すると、鼻先に手が伸びた。
目を丸くしてそれを見ていると、細い指先が軽く皮膚を摘まみ上げて、離れていく。背伸びをしていた彼女がゆっくりと踵を床へと下ろした。
「付いてた」
……そう言って開かれた指先には、乾いた絵具が付いている。
触れられた鼻先を擦りながら「……ありがとう」と言えば、「どういたしまして」と彼女が笑う。
――この満ち足りた生活が手放しがたかった。
――絵を描いて、彼女と日々を過ごし、暮らす。ただそれだけの、普通の人間のような時間を愛していた。
――俺は少しでも長く、この日々が続いて欲しいと心から願っていたのだ。
――芸術家にはパトロンが要る。
その言葉通り、彼女は俺を家に住まわせ、元々俺が住んでいた部屋よりも広いアトリエと画材を与え、作品を作るのに必要な物全てを揃えて与えた。食事に住処まで何一つ惜しまず――、それどころか自ら世話を焼いてくれる。彼女は「自分でやるのが好きなのよ、何でもね」と言って、大抵のことを一人でこなしていた。
「そろそろ昼食にしない?」
「ああ……、もうそんな時間か」
そう呟きながら陽の差し込む窓を見た。気付けば、太陽は既に高く昇っている。近頃では生活に気を割く必要もなくなって、好きなだけ描くことだけに夢中になっていられるから時間を忘れがちだった。
時計を持ち歩く習慣もなければ、アトリエにさえ時計を置かない俺に時間の流れを教えるのは、食事の時間だと呼びに来てくれる彼女の声くらいだ。すぐそこで待っている彼女と昼食、そして描きかけの絵を前に逡巡して笑う。
「悪いね、もう少しだけ――待っててもらえるかな」
自分の腹が小さく鳴るのに気付いても、まだ筆を置こうという気になれなかった。
だから、そう断ってまたキャンバスと向き合った。しかし、そこで思い出す。
この前ももう少し、もう少しと描き続けて、結局二度も彼女に呼びに来させた事を。
……いや、やっぱり……。先に食事を――?
アトリエの中まで入ってきて、俺のすぐ隣に立った彼女が絵を眺めた。その美しい横顔を漠然と見上げていると、彼女は俺へと視線を移す。彼女は眦を緩めて、穏やかな声で言った。
「もう少し描くんでしょう? なら、私もここで見ててもいい?」
「……うん?」
「お邪魔?」
「……。いいや、君が望むならいくらでも」
それから俺が筆を置くまでの間、彼女は俺の側に立って熱心に見ていた。横目で盗み見たその顔が随分と楽しげに見えて、俺はそれが不思議で仕方なかった。
「そんなに面白いものでもないと思うけどねえ」
絵筆を置いて、丸椅子に腰掛けたまま彼女の方へと身体ごと向き直る。
「そんなことないわ。私はアンタの作品が好きだけど、絵を描くアンタを見てる時間も好きなのよ」
意地の悪い事を言ったつもりが、すぐにそう返されてしまう。それがなんだか妙にむず痒くて俺は誤魔化すように頬を掻き、「物好きも居るもんだ」とだけ言って立ち上がった。先に簡単に片付けを済ませてしまおうと思い、道具を集めて机の側へと寄せていく。
――今描いている絵の完成は、もう少しかかるだろう。
でも、そう長くはかからないはずだ。完成したらきっと彼女はそれを眺め「いい絵ね」と笑って、どこが好きだとか印象だとかを言葉を尽くして楽しげに語る。それから丁寧に額に納め、また一つ、俺の絵がこの家の壁を飾るのだ。
そんな穏やかな未来を頭の片隅で考えながら、彼女の方を振り返る。
描きかけの絵を眺めて待っていた彼女が俺に言う。
「ねえ、もう火で絵は描かないの」
「……もうやらないさ。また刑務所行きだ」
「私の物なら好きに燃やしていいって言ってるのに」
「たはは……。また君はそんなことを言う」
「いつか見てみたいのよ。火で描かれた作品も、それを描くアンタも」
「……。……ああ、そのうちね」
そう言って肩を竦め、誤魔化した。真っ赤な嘘だった。
俺はもう、二度と火で焼く画法を使うつもりはなかったからだ。
この国の放火に対する刑罰は重い。刑務所に入っていたのだって、故意で人を燃やそうとしたわけじゃなかった。そんなつもりは、本当になかったんだ。……運悪く、作品制作の過程で火が延焼し、隣家に燃え移っただけだ。誰かの命まで奪ったことはない。
しかし、それが結果的に『放火』で他者の命まで危険に晒した重罪であるとされ、十五年近い年月を塀の中で過ごした。
俺にはすでに放火の前科がある。今度罪に問われたら、次はきっと死ぬまで出てくることはできないだろう。そんなのはごめんだった。……とはいえ、そういう事情を抜きにしても焼くのが彼女の持ち物であるというなら尚更のこと、そんな気など起きようはずもなかったのだが。
この話を打ち切る為に「食事にしよう」と声をかけて、踵を返す。
「――あ、待って」
彼女が俺を呼び止めた。だから釣られるように足を止め、首を傾げながら彼女の方へ顔を向ける。すると、鼻先に手が伸びた。
目を丸くしてそれを見ていると、細い指先が軽く皮膚を摘まみ上げて、離れていく。背伸びをしていた彼女がゆっくりと踵を床へと下ろした。
「付いてた」
……そう言って開かれた指先には、乾いた絵具が付いている。
触れられた鼻先を擦りながら「……ありがとう」と言えば、「どういたしまして」と彼女が笑う。
――この満ち足りた生活が手放しがたかった。
――絵を描いて、彼女と日々を過ごし、暮らす。ただそれだけの、普通の人間のような時間を愛していた。
――俺は少しでも長く、この日々が続いて欲しいと心から願っていたのだ。