ブリキの男に花を添え
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「っあ〜よかった! 伊檻が言う住所にとりあえず来たものの、すげーシャレたでけーマンションだったし、反応もねえからマジで家間違えたのかと焦った……!」
そう言いながら、徹は玄関口で大きく安堵のため息を吐いた。呆気に取られたナマエはぱちぱちとその場でまばたきを繰り返す。
城田徹。伊檻と同世代の友人であり、同僚である。ナマエは以前に伊檻から紹介されていて、お互いに顔見知りではあるものの家を訪ねてくるような仲ではない。
しかし今、こうして二人は戸口で対面していた。
経緯はほんの数分前、風呂上がりに寝支度を整えていたナマエの耳に飛び込んだインターホンの音。まだ深夜ではないが、来客が来るにはすでに遅い時間で宅配というのも……と思いながら杖を手に、壁に備えられたモニターを確認したナマエが見たのは、映し出されたマンションのエントランス。玄関機の前に立つ茶髪で癖毛の男がそわそわとカメラ越しにも分かるほど落ち着かない様子で周囲を見回す姿だった。見るからに不審であった。……しかし何だか、違和感が。と首を傾げながら、目を凝らすようにモニターを覗き込んだところで再び鳴ったインターホン。慌てて応答ボタンを押したところ、二、三の言葉のやり取りでそれが『城田さん』だと早々に紐付き、手早く開錠ボタンを押してマンション内に招き入れて――、現在。
くたびれた様子で片膝に手を置いて休んでいた徹だったが、慌ててナマエの方を向くと「ごめんな」と目尻を下げて謝った。
「こんな時間にびっくりしたよな……! ほんとごめん!」
「いえ、そんな……! こちらこそ気付くのが遅れてしまってごめんなさい。ところで――……」
と言いかけながら、ナマエは戸惑いがちに徹を見た。より正確に言うと、徹が肩を貸して運んできたもう一人を見た。
ほとんど脱力しており肩を借りることで辛うじて立っている……という状態で項垂れていたので顔は見えないものの、それが伊檻であることに気付けないナマエではなかった。一瞬、何か怪我でも……と心配で胸中を曇らせたナマエだったが、そういえば、今日は伊檻が飲み会に行くので帰りが遅くなるかもしれませんと言っていた事を思い出す。
もしかしてこれは、酔っている? それも人の手を借りないと帰宅できないほど、ひどく。珍しいことだ、とナマエは内心とても驚いた。
支える伊檻に視線を落とし、「えーっと、これは」とどこから話せばという風に苦笑した徹に対し、ナマエも同じように小さく肩を竦めて笑いかける。
「ありがとうございます、城田さん。大体の事情は分かりました」
一瞬、自分が手にする杖へと視線を送り、ナマエは申し訳なさそうに続ける。
「よければ、このまま中まで運んでいただいても大丈夫ですか?」
「あぁ勿論。 ……ほら伊檻ー、家着いたぞー」
「んー……、もー……、もっとていねいに運んでくださいよー……。ほんと、徹は、ざつなんですからー……」
「だー! わーったから」
ナマエではとてもじゃないが、この状態の伊檻を支えて運ぶことはできないだろう。徹は肩を貸している伊檻を揺らして、しっかりと抱え直す。マジでこんなとこ住んでるのか、伊檻……。とここに辿り着くまでにすっかり気後れしていた徹は、緊張を吹き飛ばすために「おじゃまします!」と気合を入れ、室内に足を踏み入れた。
ナマエは壁際に寄ってすれ違い、半ば引きずられるようにしてリビングまで運ばれていく伊檻を目で追う。辛うじて意識はあるようだが、ぐでんぐでんの酩酊状態の呂律も危うい声で徹に抗議している伊檻を物珍しそうに見つめて、小さく笑って後を追った。
二人暮らしとは思えないほど広々としたリビングは徹が思わず「でっけ……」と呟いて立ち止まるほどである。姉と二人、慎ましやかな一般家庭で育った比較的貧乏性の徹は手汗が滲んでくるのを感じた。
「よければお茶でもいかがですか?」
「えっ。ん、いやー……。あー、水だけもらってもいい、ですか……?」
「? もちろんです。あっ、伊檻さんはそちらのソファーに寝かせてもらえますか」
徹はもう緊張でガッチガチであった。くー、と寝息なのか、吐息なのか判別のつかない音を立てて自分に支えられている友人をほんの少し恨めしく思う。
広いリビングを恐る恐ると通り抜け、中央付近に鎮座するソファーの一つへと伊檻を下ろした。されるがままで全く動かなかったため、ついに寝たか? と徹が訝しげに見下ろす。すると照明が眩しかったのか、伊檻は小さく呻き声を上げて光を遮ろうとするように背もたれの方へと寝返りを打った。体を少し丸めるようにして、また動かなくなる。
なにかかけるものを……、と思って周囲を見回すと丁度、ナマエと目があった。ナマエはにこやかに笑いながら「お水、用意できましたよー」と言うようにテーブルを示すので、徹も了解、と言うように頷いた後、苦笑しながら伊檻を指差して布団をかけるようなジェスチャーを送ってみせる。
どうやらそれでも伝わったらしい。ナマエも先ほどの徹のように頷きを返し、パタパタと軽い足音を立てながらリビングを出ていった。
そこでようやく徹は天井に向かって体を伸ばして、テーブルの方まで歩いて、用意された水を飲む。グラスの水はほどよく冷えていて、一仕事を終えたばかりの体によく染み渡った。手持ち無沙汰に、しっかし、広い家だなー……。と思いながらリビングを見回す。正直伊檻が今寝ているソファーの一角だけで、徹が住んでいる部屋は埋まりそうだった。こんな家で出された水だからか、ただの水のはずが何となく美味く感じる気さえする。
しばらくして、ナマエが腕にブランケットを抱えて戻ってきた。そのまま、まっすぐにソファーの方へと向かい、横たわる伊檻にかける。徹の立つ位置からは背もたれに遮られて伊檻の姿は見えないが、一方、ナマエの表情はよく見えた。
少し見ただけでわかる。ナマエが心から伊檻を慈しみ、愛していることが。元から夫婦仲がとても良いことは知っていたが、改めてそれを見せつけられた徹は漠然と、……なんかいいなあ、ああいうの……。と純粋に羨ましく思った。現在進行形で交際相手どころか、交際経験すら乏しい一人暮らしの徹には疲れて眠ってしまっても毛布をかけてくれる人はいないのだ。
徹の近くまで寄ってきたナマエは店から家まで夫を運んできた友人に対し、「城田さん」と労わるような優しい微笑みを向けた。
「ここまで大変だったでしょう。伊檻さんがあんなに酔ってる姿は初めて見ました」
「ウン、俺も初めて見た。まー、珍しくハイペースで飲むもんだから……。……塔間は先に帰っちまうし」
「あはは。きっと楽しくて飲み過ぎてしまったんですね。私にもよく話してくれるんですよ、城田さんのこと」
「……えっ。俺? な、なんて……?」
眠っている伊檻を気遣って、お互いに少し声量を落として話す。
伊檻が自分のことを話していると聞いて、つい気になって反射的に聞き返した徹はどこか落ち着かない気持ちになった。泳ぐ視線と居心地の悪さを誤魔化すように、曖昧に笑いながらグラスに口をつける。
そんな徹を見ながら、ナマエは嬉しそうに笑い指先を合わせるように胸の前で手を揃えながら、答えた。
「優しくて、困ってる人を放っておけなくて、とても頼りになる『ヒーロー』だって」
「ブッ――――!?」
徹は水を吹き出して、咽せた。
目を丸くするナマエを手で制して、ごほごほと咳をした後、徹は眉根を下げながらこれでもかというほど首を傾げる。
「そっ、そうかぁー……?」
それ伊檻が言ってた? マジで? 本当に? という動揺が広がる。日頃、伊檻の言動をよく知る徹にとっては至極当然の動揺であった。実際のところ、伊檻がナマエに自分のことを何と話しているかはわからないが、思わず、それは流石にないだろと思った。
しかし、徹は普段自由人に両サイドを挟まれて数々の無茶振りに振り回されてきた苦労人であったため、こうして真っ向から褒められることにとにかく弱かった。特にナマエは徹から見ても嫌味や皮肉からかけ離れた善性の人であった。徹は額面通りの賞賛を嬉しさ半分、気恥ずかしさ半分で受け取る。
……いや、本当にもしかすると近しいことは言ってるのかも。そんでもってナマエの中で伊檻の言葉を翻訳すると、そう、なるのかも……? と思うくらいには、ナマエは真っすぐな目で徹に向き合っていて、その上で力強く「そうです!」と肯定する。その圧に負けて、徹は照れくさそうに鼻の下を擦った。正直満更でもなかったし、普通に嬉しかった。
「夜ももう遅いですし、城田さんも泊まっていきますか?」
「ん、いやいや……! 流石にそれは悪いから気持ちだけ受け取っとくな」
「そうですか? ならせめてタクシーでも……」
「いやいやいや、こっからなら姉ちゃんの家が近いし! ……酔い覚ましにもう少し歩いて帰るわ。水もありがとう。ごちそうさんでした」
「いえいえ、こちらこそ。送っていただいて本当にありがとうございました」
そんなこんなで、徹はナマエに本当に驚くほど丁寧に気遣われた。男子校育ちの徹は姉以外の異性からこういう風に扱われるのは初めてで、内心ちょっとどきどきしていた。伊檻の弟・都湖と同い年だと聞いていたが、自分よりも年下と思えないほどナマエはしっかりしていた。
ナマエと伊檻の婚約は家同士で決まり、結び付いた縁だと以前何かの折に聞いた気がする。しかし、あの伊檻にこんなに美人で性格もいい奥さんがいるの、世の中ってちょっぴり不公平だなと徹は思った、というか普通に羨ましかった。この上、伊檻は妻帯者であってもモテるのだからやっぱり世の中は不公平である。
玄関に行けば、先ほど脱ぎ捨てて入った徹の靴が履きやすいよう、綺麗に並べ直されているのに気付く。その靴に足を無造作に突っ込んで、つま先で床を叩く徹の背に、玄関口まで見送りに立ったナマエが「城田さん」と声をかけた。
振り返ればやはり、ナマエは穏やかに微笑んでいた。
「気をつけてお帰りください。……これからも伊檻さんをよろしくお願いしますね」
「おう! んじゃ、おやすみ。ナマエちゃん」
「はい。おやすみなさい、城田さん」
やっぱり、城田さんはとてもいい人だ。底抜けに明るい彼と話していると、何だかこちらまで元気を貰えるような気分である。徹を見送ってから、そそくさと家の中へ出戻りしたナマエはそんなことを考えながら再び伊檻の様子を見に向かう。
ソファーの背もたれ側から覗き込んでみると伊檻は先ほどと同じ体勢で、目を閉じ、横になっていた。伊檻は、眠っているように見えた。
こんなことはナマエが知る限り、初めてのことだ。元々深酒をするタイプではないし、普段は節度ある飲み方しかしていないように思う。どちらかというと付き合いとして飲む場があるので嗜んでいる、というような印象の方が強かった。なにせ、頂き物のお酒をたまに二人で楽しむ時でさえ、分量を見てすぐにナマエからボトルを取り上げてしまうくらいだ。ここまで酒に酔った伊檻を見るのは初めてだった。……城田さんも言っていたように、これは珍しいことなのだろう。よっぽど、友人との久しぶりの飲み会が楽しかったのかもしれない。そう思うと、なんだか自分まで嬉しかった。
寝息を立てる伊檻の横顔は穏やかで、なんだか子供のように見えて可愛らしい。ナマエはソファーの背もたれに手を置いて、伊檻の寝顔を見下ろすように眺めた。
今のうちにしっかり見ておこう。思うまま、寝顔をじっくり見つめられる機会なんて、そうはないから。こうして、いつまででも眠る彼を見ていられる気がした。
「ん……」
伊檻が小さな声を上げて、身動きをした。思わず、どきりと心臓が鳴る。
起こしてしまっただろうか。……ああ、明かりを暗くするのを忘れていた。光が眩しかったのかもしれない。そう思って、照明を暗くするために踵を返そうとしたナマエを、少し掠れた声が呼び止めた。
「……ナマエ……?」
仰向けに体勢を変えた伊檻が薄らと目を開けて、うわ言のように呼んだ。
それをまた覗き込むように見たナマエの影が伊檻の顔に落ちる。伊檻は未だはっきり見えているのか分からないような寝ぼけ眼で、周囲を見回していた。
「ナマエ……」
「はい、ナマエはここに居ますよ」
そう返してナマエは手を伸ばし、伊檻の頭を優しく撫でた。目を細めた伊檻は、髪を梳く指先の存在を確かめるように、手を掴む。
するり、と滑るように指と指の隙間へと伊檻の指先が滑り込んで、やんわりと手を握り込んだ。
「ん、ナマエ……。……、ここは……?」
「お家ですよ。城田さんが酔った伊檻さんを連れて帰ってきてくれたんです。覚えてませんか?」
「うーん。……覚えてる、ようなー……ないような……?」
「ふ、……もう、今日の伊檻さんったらだめだめですね」
「あはは、ですねー……」
伊檻は目を細め、曖昧に笑う。ああ、そうか。まだ明瞭とは呼び難い頭の中でナマエを見上げながら、伊檻は漠然と思い出す。
普段よりも朧げな声色を耳に、ナマエが少し困ったような、あるいは仕方ないなというような苦笑を溢したのが見える。もう一度このまま眠ってしまいたいという気もしたが、「起きられますか? お水は?」とナマエが折よく尋ねたので、伊檻は「貰います」と答えながら、やっぱり起きようと思った。
ナマエの「今持ってきますね」という返答を聞きつつ、背もたれに手をかけて緩慢な動きで上体を起こした伊檻。不意に背もたれを掴む方とは逆の手が弱く引っ張られるような感覚を覚えて、視線を向ける。
「……ええと。伊檻さん、手を」ナマエが戸惑うような声色で続けた。
「離してもらっても……?」
「ああ、……そうですよね」
伊檻は曖昧に頷いて、手を解いた。ナマエが水を取りに、キッチンの方へと歩いていく後ろ姿を目で追う。
酔っているせいだろうか、ただ手を離しただけなのに……嫌に感傷的な気分になったことを自覚する。背もたれに腕を置き、そこに頭を預けて伊檻は早く戻ってきてほしい、と思いながらナマエを待った。
キッチンから水を持って戻ってきたナマエからグラスを受け取った伊檻が、隣を示すように手で小さく座面を叩いて見せる。そして、ナマエは意図を察し、そのまま回り込むように歩いてきて、伊檻の隣に腰を下ろした。
「……徹はどうしました?」
「先ほどお帰りになりましたよ。もう遅いのでうちに泊まってはと聞いたんですが、断られてしまいました」
「あはは、そうでしたか」
そういえば、微睡んでいる間に二人がそんな話をしている声が微かに聞こえた気がする。
徹は当然遠慮しただろうな、と苦笑しながら伊檻はグラスを傾けて、半分ほどを喉の奥へと流し込む。そして、まだ水の残るグラスを前のテーブルに置いて、伊檻は隣に座るナマエの肩にもたれ掛かるように頭を傾げた。ナマエは寄り掛かってきた伊檻を横目で見て、笑うように小さく肩を揺らす。
「もう、伊檻さんたら」そう言いながら、ナマエは伊檻の頭の方へ僅かに首を傾げる。
「どれくらい飲んだんですか」
「ん、そんなにー……。ですけど、……ナマエは、お酒に酔ってだめだめな俺は嫌いですかー……?」
「ふふ、もちろん好きですよー。お酒に酔ったかわいい伊檻さんも、いつもの優しくてかっこいい伊檻さんも」
伊檻の口調に釣られるようにナマエも間延びした調子で言葉を返す。今夜は伊檻の事が幼い子供のように見えて仕方のないナマエは笑顔を浮かべ、もう一度最愛の夫の頭を徐ろに撫でた。彼がほんの少しだけ、落ち込んでいるようにも見えた気がしたから。
二、三度髪を撫で付けてナマエが手を止めると、今度は伊檻の方から手のひらに擦り寄ったので、ナマエは目を瞬かせる。それはまるで、犬が飼い主の手に頬を擦り付けるような仕草だった。ナマエは思わず、生家で飼っていた大型犬の事を考えて、すぐにその連想を振り払った。
「なんだか今日は本当に……。いつもより甘えたさんですね」
「……じゃあ、もっと俺の事甘やかしてくれます?」
「そうですねー、それじゃあ」
そう言って、ナマエが伊檻に向けて腕を広げて見せた。花が綻ぶみたいな柔らかい笑顔に誘われるように、伊檻がナマエに抱きつく。存在を確かめるように首元に擦り寄る伊檻の背をあやすように撫でる。
不意に鼻先を過ぎったアルコールの香りに思わず、ふ、とナマエが息を吐いた。
「……?」
「ああ、伊檻さんからお酒の匂いがするなーって」
「……ふ、ですよねー。俺としたことがいつもより少しだけー、飲み過ぎちゃいましたから。そういうナマエからは、石鹸の匂いがしますね」
「帰ってくる前に、丁度お風呂に入ってましたから。伊檻さん、お風呂は?」
「んー……もう少ししたら、入ります」
「気をつけてくださいね、溺れちゃだめですよ」
「あはは、はい。気をつけますー……」
しばらくそうして抱き合っていたが、徐々に伊檻の身体がナマエの方へと傾いてきた。――支えきれない。と、ナマエが思う間もなくずるずると緩やかに押し倒されて、とさりと背中が座面についた。
ナマエが天井の照明をぼんやりと眺め、視線だけを彷徨わせる間も、伊檻は何も言わなかった。だからナマエもまた、何も言わずにそのままでいた――というよりも、うとうとと瞼が重くなってきていてこのまま眠りそうになっていた。伊檻が帰ってきたのも元々寝支度をしていたタイミングの事で、普段ならとうにベッドに入って就寝している時間である。
分け合う温もりにナマエが微睡みかけていると、不意に伊檻が腕を伸ばして体を離した。背から滑り落ちたナマエの手がぽとりと座面に落ちる。
「……? 伊檻さん……?」
逆光で表情が翳り、見え辛い。いつものように優しく微笑んでいる。ものの、……なんというのだろう。これは。寝落ちかけて頭が回っていないナマエは伊檻の意図を計りかねていた。
「そんなに見つめられたら穴が空いちゃいますよ」
伊檻が困ったように眉を下げるのが分かった。両頬を包まれている手が熱く、腕と触れている首までじわじわとした熱が鮮明な感覚として伝わる。細められた瞳の奥にはどろどろとした欲のようなものが見え隠れしている気さえした。そのまま降りてくる彼と、おもむろに唇を合わせる。
「ん……」
「え、っと……」
「続き、してもいいですか?」
「伊檻さ……んっ」
返答を待つ間もなく、再び唇が合わさる。重なった唇の内側で押しつけられる柔らかい感触に委ねるようにゆっくりと口を開ければ、初めは浅かったキスが段々と深くなっていった。上手に応える余裕もないナマエには、せめて伊檻が満足しやすいようにとその首元に片腕を引っ掛けて彼を受け入れることしかできなかった。
ナマエは鼻先をくすぐるお酒の匂いと侵食してくる熱にクラクラしていた。何度もしたが、キスはいまだに恥ずかしくて、慣れそうもない。頭がふわふわして気持ちよくて自分じゃなくなってしまうような気がするから。そして彼はそんなわたしをじっと見つめる癖があるから。このまま身体の外側が溶けて混ざってしまいそう、それはきっととても幸せなことなのだろう、……何て馬鹿な事を白む頭の片隅で考える。
状態を見計らうように一度身体を離した伊檻を濡れた瞳で見上げたナマエ。引き寄せた手の甲で唇を隠す。酸欠で回らない頭の中にも辛うじて、もう止めなくては、という考えが残っていた。切なげに自分を見下ろす伊檻に対し、罪悪感が湧いたがそれでもナマエは首を横に振った。
「……っは、ナマエ」
「今日は、だめです」
は、と浅く息を吐き、弱々しい声で静止する声に伊檻はぎくりと固まる。ナマエの拒否に一気に冷や水を浴びせられたような気になって、思わず冷静になった。ソファーの上で自分に組み敷かれた彼女の瞳は涙で潤み、唇は唾液で艶かしく濡れている。
限界だというように彼女の瞼が静かに降りた。ごめんなさい、と力無い謝罪がこぼれ落ちるのを伊檻は聞く。
「…………私、もう、本当に眠たくて……」
「えっ」
寝言のような響きで告げられた言葉に伊檻が目を丸くした頃には、すでにナマエから穏やかな寝息が聞こえ出している始末だった。この状況で寝ちゃうんですか……、と思わず苦笑いをしながら体を起こす。
中途半端に放置されたことによる僅かな落胆はあったが、そんなものは彼女の寝顔を見ているだけで霧散してしまう。流石に眠ってしまった人間に無体を強いるほど人でなしではないので、滑らかなその額にもう一度唇を押し当てるだけに留める。
そうして立ち上がり、テーブルに残っていた水を飲み干して今回は自分も少し羽目を外しすぎていたなと反省する。ある意味で、酔いが醒めてきても酔った風に装い続けて甘えた罰だろう。
酒は飲むとも飲まれるな――、というわけだ。
そう言いながら、徹は玄関口で大きく安堵のため息を吐いた。呆気に取られたナマエはぱちぱちとその場でまばたきを繰り返す。
城田徹。伊檻と同世代の友人であり、同僚である。ナマエは以前に伊檻から紹介されていて、お互いに顔見知りではあるものの家を訪ねてくるような仲ではない。
しかし今、こうして二人は戸口で対面していた。
経緯はほんの数分前、風呂上がりに寝支度を整えていたナマエの耳に飛び込んだインターホンの音。まだ深夜ではないが、来客が来るにはすでに遅い時間で宅配というのも……と思いながら杖を手に、壁に備えられたモニターを確認したナマエが見たのは、映し出されたマンションのエントランス。玄関機の前に立つ茶髪で癖毛の男がそわそわとカメラ越しにも分かるほど落ち着かない様子で周囲を見回す姿だった。見るからに不審であった。……しかし何だか、違和感が。と首を傾げながら、目を凝らすようにモニターを覗き込んだところで再び鳴ったインターホン。慌てて応答ボタンを押したところ、二、三の言葉のやり取りでそれが『城田さん』だと早々に紐付き、手早く開錠ボタンを押してマンション内に招き入れて――、現在。
くたびれた様子で片膝に手を置いて休んでいた徹だったが、慌ててナマエの方を向くと「ごめんな」と目尻を下げて謝った。
「こんな時間にびっくりしたよな……! ほんとごめん!」
「いえ、そんな……! こちらこそ気付くのが遅れてしまってごめんなさい。ところで――……」
と言いかけながら、ナマエは戸惑いがちに徹を見た。より正確に言うと、徹が肩を貸して運んできたもう一人を見た。
ほとんど脱力しており肩を借りることで辛うじて立っている……という状態で項垂れていたので顔は見えないものの、それが伊檻であることに気付けないナマエではなかった。一瞬、何か怪我でも……と心配で胸中を曇らせたナマエだったが、そういえば、今日は伊檻が飲み会に行くので帰りが遅くなるかもしれませんと言っていた事を思い出す。
もしかしてこれは、酔っている? それも人の手を借りないと帰宅できないほど、ひどく。珍しいことだ、とナマエは内心とても驚いた。
支える伊檻に視線を落とし、「えーっと、これは」とどこから話せばという風に苦笑した徹に対し、ナマエも同じように小さく肩を竦めて笑いかける。
「ありがとうございます、城田さん。大体の事情は分かりました」
一瞬、自分が手にする杖へと視線を送り、ナマエは申し訳なさそうに続ける。
「よければ、このまま中まで運んでいただいても大丈夫ですか?」
「あぁ勿論。 ……ほら伊檻ー、家着いたぞー」
「んー……、もー……、もっとていねいに運んでくださいよー……。ほんと、徹は、ざつなんですからー……」
「だー! わーったから」
ナマエではとてもじゃないが、この状態の伊檻を支えて運ぶことはできないだろう。徹は肩を貸している伊檻を揺らして、しっかりと抱え直す。マジでこんなとこ住んでるのか、伊檻……。とここに辿り着くまでにすっかり気後れしていた徹は、緊張を吹き飛ばすために「おじゃまします!」と気合を入れ、室内に足を踏み入れた。
ナマエは壁際に寄ってすれ違い、半ば引きずられるようにしてリビングまで運ばれていく伊檻を目で追う。辛うじて意識はあるようだが、ぐでんぐでんの酩酊状態の呂律も危うい声で徹に抗議している伊檻を物珍しそうに見つめて、小さく笑って後を追った。
二人暮らしとは思えないほど広々としたリビングは徹が思わず「でっけ……」と呟いて立ち止まるほどである。姉と二人、慎ましやかな一般家庭で育った比較的貧乏性の徹は手汗が滲んでくるのを感じた。
「よければお茶でもいかがですか?」
「えっ。ん、いやー……。あー、水だけもらってもいい、ですか……?」
「? もちろんです。あっ、伊檻さんはそちらのソファーに寝かせてもらえますか」
徹はもう緊張でガッチガチであった。くー、と寝息なのか、吐息なのか判別のつかない音を立てて自分に支えられている友人をほんの少し恨めしく思う。
広いリビングを恐る恐ると通り抜け、中央付近に鎮座するソファーの一つへと伊檻を下ろした。されるがままで全く動かなかったため、ついに寝たか? と徹が訝しげに見下ろす。すると照明が眩しかったのか、伊檻は小さく呻き声を上げて光を遮ろうとするように背もたれの方へと寝返りを打った。体を少し丸めるようにして、また動かなくなる。
なにかかけるものを……、と思って周囲を見回すと丁度、ナマエと目があった。ナマエはにこやかに笑いながら「お水、用意できましたよー」と言うようにテーブルを示すので、徹も了解、と言うように頷いた後、苦笑しながら伊檻を指差して布団をかけるようなジェスチャーを送ってみせる。
どうやらそれでも伝わったらしい。ナマエも先ほどの徹のように頷きを返し、パタパタと軽い足音を立てながらリビングを出ていった。
そこでようやく徹は天井に向かって体を伸ばして、テーブルの方まで歩いて、用意された水を飲む。グラスの水はほどよく冷えていて、一仕事を終えたばかりの体によく染み渡った。手持ち無沙汰に、しっかし、広い家だなー……。と思いながらリビングを見回す。正直伊檻が今寝ているソファーの一角だけで、徹が住んでいる部屋は埋まりそうだった。こんな家で出された水だからか、ただの水のはずが何となく美味く感じる気さえする。
しばらくして、ナマエが腕にブランケットを抱えて戻ってきた。そのまま、まっすぐにソファーの方へと向かい、横たわる伊檻にかける。徹の立つ位置からは背もたれに遮られて伊檻の姿は見えないが、一方、ナマエの表情はよく見えた。
少し見ただけでわかる。ナマエが心から伊檻を慈しみ、愛していることが。元から夫婦仲がとても良いことは知っていたが、改めてそれを見せつけられた徹は漠然と、……なんかいいなあ、ああいうの……。と純粋に羨ましく思った。現在進行形で交際相手どころか、交際経験すら乏しい一人暮らしの徹には疲れて眠ってしまっても毛布をかけてくれる人はいないのだ。
徹の近くまで寄ってきたナマエは店から家まで夫を運んできた友人に対し、「城田さん」と労わるような優しい微笑みを向けた。
「ここまで大変だったでしょう。伊檻さんがあんなに酔ってる姿は初めて見ました」
「ウン、俺も初めて見た。まー、珍しくハイペースで飲むもんだから……。……塔間は先に帰っちまうし」
「あはは。きっと楽しくて飲み過ぎてしまったんですね。私にもよく話してくれるんですよ、城田さんのこと」
「……えっ。俺? な、なんて……?」
眠っている伊檻を気遣って、お互いに少し声量を落として話す。
伊檻が自分のことを話していると聞いて、つい気になって反射的に聞き返した徹はどこか落ち着かない気持ちになった。泳ぐ視線と居心地の悪さを誤魔化すように、曖昧に笑いながらグラスに口をつける。
そんな徹を見ながら、ナマエは嬉しそうに笑い指先を合わせるように胸の前で手を揃えながら、答えた。
「優しくて、困ってる人を放っておけなくて、とても頼りになる『ヒーロー』だって」
「ブッ――――!?」
徹は水を吹き出して、咽せた。
目を丸くするナマエを手で制して、ごほごほと咳をした後、徹は眉根を下げながらこれでもかというほど首を傾げる。
「そっ、そうかぁー……?」
それ伊檻が言ってた? マジで? 本当に? という動揺が広がる。日頃、伊檻の言動をよく知る徹にとっては至極当然の動揺であった。実際のところ、伊檻がナマエに自分のことを何と話しているかはわからないが、思わず、それは流石にないだろと思った。
しかし、徹は普段自由人に両サイドを挟まれて数々の無茶振りに振り回されてきた苦労人であったため、こうして真っ向から褒められることにとにかく弱かった。特にナマエは徹から見ても嫌味や皮肉からかけ離れた善性の人であった。徹は額面通りの賞賛を嬉しさ半分、気恥ずかしさ半分で受け取る。
……いや、本当にもしかすると近しいことは言ってるのかも。そんでもってナマエの中で伊檻の言葉を翻訳すると、そう、なるのかも……? と思うくらいには、ナマエは真っすぐな目で徹に向き合っていて、その上で力強く「そうです!」と肯定する。その圧に負けて、徹は照れくさそうに鼻の下を擦った。正直満更でもなかったし、普通に嬉しかった。
「夜ももう遅いですし、城田さんも泊まっていきますか?」
「ん、いやいや……! 流石にそれは悪いから気持ちだけ受け取っとくな」
「そうですか? ならせめてタクシーでも……」
「いやいやいや、こっからなら姉ちゃんの家が近いし! ……酔い覚ましにもう少し歩いて帰るわ。水もありがとう。ごちそうさんでした」
「いえいえ、こちらこそ。送っていただいて本当にありがとうございました」
そんなこんなで、徹はナマエに本当に驚くほど丁寧に気遣われた。男子校育ちの徹は姉以外の異性からこういう風に扱われるのは初めてで、内心ちょっとどきどきしていた。伊檻の弟・都湖と同い年だと聞いていたが、自分よりも年下と思えないほどナマエはしっかりしていた。
ナマエと伊檻の婚約は家同士で決まり、結び付いた縁だと以前何かの折に聞いた気がする。しかし、あの伊檻にこんなに美人で性格もいい奥さんがいるの、世の中ってちょっぴり不公平だなと徹は思った、というか普通に羨ましかった。この上、伊檻は妻帯者であってもモテるのだからやっぱり世の中は不公平である。
玄関に行けば、先ほど脱ぎ捨てて入った徹の靴が履きやすいよう、綺麗に並べ直されているのに気付く。その靴に足を無造作に突っ込んで、つま先で床を叩く徹の背に、玄関口まで見送りに立ったナマエが「城田さん」と声をかけた。
振り返ればやはり、ナマエは穏やかに微笑んでいた。
「気をつけてお帰りください。……これからも伊檻さんをよろしくお願いしますね」
「おう! んじゃ、おやすみ。ナマエちゃん」
「はい。おやすみなさい、城田さん」
やっぱり、城田さんはとてもいい人だ。底抜けに明るい彼と話していると、何だかこちらまで元気を貰えるような気分である。徹を見送ってから、そそくさと家の中へ出戻りしたナマエはそんなことを考えながら再び伊檻の様子を見に向かう。
ソファーの背もたれ側から覗き込んでみると伊檻は先ほどと同じ体勢で、目を閉じ、横になっていた。伊檻は、眠っているように見えた。
こんなことはナマエが知る限り、初めてのことだ。元々深酒をするタイプではないし、普段は節度ある飲み方しかしていないように思う。どちらかというと付き合いとして飲む場があるので嗜んでいる、というような印象の方が強かった。なにせ、頂き物のお酒をたまに二人で楽しむ時でさえ、分量を見てすぐにナマエからボトルを取り上げてしまうくらいだ。ここまで酒に酔った伊檻を見るのは初めてだった。……城田さんも言っていたように、これは珍しいことなのだろう。よっぽど、友人との久しぶりの飲み会が楽しかったのかもしれない。そう思うと、なんだか自分まで嬉しかった。
寝息を立てる伊檻の横顔は穏やかで、なんだか子供のように見えて可愛らしい。ナマエはソファーの背もたれに手を置いて、伊檻の寝顔を見下ろすように眺めた。
今のうちにしっかり見ておこう。思うまま、寝顔をじっくり見つめられる機会なんて、そうはないから。こうして、いつまででも眠る彼を見ていられる気がした。
「ん……」
伊檻が小さな声を上げて、身動きをした。思わず、どきりと心臓が鳴る。
起こしてしまっただろうか。……ああ、明かりを暗くするのを忘れていた。光が眩しかったのかもしれない。そう思って、照明を暗くするために踵を返そうとしたナマエを、少し掠れた声が呼び止めた。
「……ナマエ……?」
仰向けに体勢を変えた伊檻が薄らと目を開けて、うわ言のように呼んだ。
それをまた覗き込むように見たナマエの影が伊檻の顔に落ちる。伊檻は未だはっきり見えているのか分からないような寝ぼけ眼で、周囲を見回していた。
「ナマエ……」
「はい、ナマエはここに居ますよ」
そう返してナマエは手を伸ばし、伊檻の頭を優しく撫でた。目を細めた伊檻は、髪を梳く指先の存在を確かめるように、手を掴む。
するり、と滑るように指と指の隙間へと伊檻の指先が滑り込んで、やんわりと手を握り込んだ。
「ん、ナマエ……。……、ここは……?」
「お家ですよ。城田さんが酔った伊檻さんを連れて帰ってきてくれたんです。覚えてませんか?」
「うーん。……覚えてる、ようなー……ないような……?」
「ふ、……もう、今日の伊檻さんったらだめだめですね」
「あはは、ですねー……」
伊檻は目を細め、曖昧に笑う。ああ、そうか。まだ明瞭とは呼び難い頭の中でナマエを見上げながら、伊檻は漠然と思い出す。
普段よりも朧げな声色を耳に、ナマエが少し困ったような、あるいは仕方ないなというような苦笑を溢したのが見える。もう一度このまま眠ってしまいたいという気もしたが、「起きられますか? お水は?」とナマエが折よく尋ねたので、伊檻は「貰います」と答えながら、やっぱり起きようと思った。
ナマエの「今持ってきますね」という返答を聞きつつ、背もたれに手をかけて緩慢な動きで上体を起こした伊檻。不意に背もたれを掴む方とは逆の手が弱く引っ張られるような感覚を覚えて、視線を向ける。
「……ええと。伊檻さん、手を」ナマエが戸惑うような声色で続けた。
「離してもらっても……?」
「ああ、……そうですよね」
伊檻は曖昧に頷いて、手を解いた。ナマエが水を取りに、キッチンの方へと歩いていく後ろ姿を目で追う。
酔っているせいだろうか、ただ手を離しただけなのに……嫌に感傷的な気分になったことを自覚する。背もたれに腕を置き、そこに頭を預けて伊檻は早く戻ってきてほしい、と思いながらナマエを待った。
キッチンから水を持って戻ってきたナマエからグラスを受け取った伊檻が、隣を示すように手で小さく座面を叩いて見せる。そして、ナマエは意図を察し、そのまま回り込むように歩いてきて、伊檻の隣に腰を下ろした。
「……徹はどうしました?」
「先ほどお帰りになりましたよ。もう遅いのでうちに泊まってはと聞いたんですが、断られてしまいました」
「あはは、そうでしたか」
そういえば、微睡んでいる間に二人がそんな話をしている声が微かに聞こえた気がする。
徹は当然遠慮しただろうな、と苦笑しながら伊檻はグラスを傾けて、半分ほどを喉の奥へと流し込む。そして、まだ水の残るグラスを前のテーブルに置いて、伊檻は隣に座るナマエの肩にもたれ掛かるように頭を傾げた。ナマエは寄り掛かってきた伊檻を横目で見て、笑うように小さく肩を揺らす。
「もう、伊檻さんたら」そう言いながら、ナマエは伊檻の頭の方へ僅かに首を傾げる。
「どれくらい飲んだんですか」
「ん、そんなにー……。ですけど、……ナマエは、お酒に酔ってだめだめな俺は嫌いですかー……?」
「ふふ、もちろん好きですよー。お酒に酔ったかわいい伊檻さんも、いつもの優しくてかっこいい伊檻さんも」
伊檻の口調に釣られるようにナマエも間延びした調子で言葉を返す。今夜は伊檻の事が幼い子供のように見えて仕方のないナマエは笑顔を浮かべ、もう一度最愛の夫の頭を徐ろに撫でた。彼がほんの少しだけ、落ち込んでいるようにも見えた気がしたから。
二、三度髪を撫で付けてナマエが手を止めると、今度は伊檻の方から手のひらに擦り寄ったので、ナマエは目を瞬かせる。それはまるで、犬が飼い主の手に頬を擦り付けるような仕草だった。ナマエは思わず、生家で飼っていた大型犬の事を考えて、すぐにその連想を振り払った。
「なんだか今日は本当に……。いつもより甘えたさんですね」
「……じゃあ、もっと俺の事甘やかしてくれます?」
「そうですねー、それじゃあ」
そう言って、ナマエが伊檻に向けて腕を広げて見せた。花が綻ぶみたいな柔らかい笑顔に誘われるように、伊檻がナマエに抱きつく。存在を確かめるように首元に擦り寄る伊檻の背をあやすように撫でる。
不意に鼻先を過ぎったアルコールの香りに思わず、ふ、とナマエが息を吐いた。
「……?」
「ああ、伊檻さんからお酒の匂いがするなーって」
「……ふ、ですよねー。俺としたことがいつもより少しだけー、飲み過ぎちゃいましたから。そういうナマエからは、石鹸の匂いがしますね」
「帰ってくる前に、丁度お風呂に入ってましたから。伊檻さん、お風呂は?」
「んー……もう少ししたら、入ります」
「気をつけてくださいね、溺れちゃだめですよ」
「あはは、はい。気をつけますー……」
しばらくそうして抱き合っていたが、徐々に伊檻の身体がナマエの方へと傾いてきた。――支えきれない。と、ナマエが思う間もなくずるずると緩やかに押し倒されて、とさりと背中が座面についた。
ナマエが天井の照明をぼんやりと眺め、視線だけを彷徨わせる間も、伊檻は何も言わなかった。だからナマエもまた、何も言わずにそのままでいた――というよりも、うとうとと瞼が重くなってきていてこのまま眠りそうになっていた。伊檻が帰ってきたのも元々寝支度をしていたタイミングの事で、普段ならとうにベッドに入って就寝している時間である。
分け合う温もりにナマエが微睡みかけていると、不意に伊檻が腕を伸ばして体を離した。背から滑り落ちたナマエの手がぽとりと座面に落ちる。
「……? 伊檻さん……?」
逆光で表情が翳り、見え辛い。いつものように優しく微笑んでいる。ものの、……なんというのだろう。これは。寝落ちかけて頭が回っていないナマエは伊檻の意図を計りかねていた。
「そんなに見つめられたら穴が空いちゃいますよ」
伊檻が困ったように眉を下げるのが分かった。両頬を包まれている手が熱く、腕と触れている首までじわじわとした熱が鮮明な感覚として伝わる。細められた瞳の奥にはどろどろとした欲のようなものが見え隠れしている気さえした。そのまま降りてくる彼と、おもむろに唇を合わせる。
「ん……」
「え、っと……」
「続き、してもいいですか?」
「伊檻さ……んっ」
返答を待つ間もなく、再び唇が合わさる。重なった唇の内側で押しつけられる柔らかい感触に委ねるようにゆっくりと口を開ければ、初めは浅かったキスが段々と深くなっていった。上手に応える余裕もないナマエには、せめて伊檻が満足しやすいようにとその首元に片腕を引っ掛けて彼を受け入れることしかできなかった。
ナマエは鼻先をくすぐるお酒の匂いと侵食してくる熱にクラクラしていた。何度もしたが、キスはいまだに恥ずかしくて、慣れそうもない。頭がふわふわして気持ちよくて自分じゃなくなってしまうような気がするから。そして彼はそんなわたしをじっと見つめる癖があるから。このまま身体の外側が溶けて混ざってしまいそう、それはきっととても幸せなことなのだろう、……何て馬鹿な事を白む頭の片隅で考える。
状態を見計らうように一度身体を離した伊檻を濡れた瞳で見上げたナマエ。引き寄せた手の甲で唇を隠す。酸欠で回らない頭の中にも辛うじて、もう止めなくては、という考えが残っていた。切なげに自分を見下ろす伊檻に対し、罪悪感が湧いたがそれでもナマエは首を横に振った。
「……っは、ナマエ」
「今日は、だめです」
は、と浅く息を吐き、弱々しい声で静止する声に伊檻はぎくりと固まる。ナマエの拒否に一気に冷や水を浴びせられたような気になって、思わず冷静になった。ソファーの上で自分に組み敷かれた彼女の瞳は涙で潤み、唇は唾液で艶かしく濡れている。
限界だというように彼女の瞼が静かに降りた。ごめんなさい、と力無い謝罪がこぼれ落ちるのを伊檻は聞く。
「…………私、もう、本当に眠たくて……」
「えっ」
寝言のような響きで告げられた言葉に伊檻が目を丸くした頃には、すでにナマエから穏やかな寝息が聞こえ出している始末だった。この状況で寝ちゃうんですか……、と思わず苦笑いをしながら体を起こす。
中途半端に放置されたことによる僅かな落胆はあったが、そんなものは彼女の寝顔を見ているだけで霧散してしまう。流石に眠ってしまった人間に無体を強いるほど人でなしではないので、滑らかなその額にもう一度唇を押し当てるだけに留める。
そうして立ち上がり、テーブルに残っていた水を飲み干して今回は自分も少し羽目を外しすぎていたなと反省する。ある意味で、酔いが醒めてきても酔った風に装い続けて甘えた罰だろう。
酒は飲むとも飲まれるな――、というわけだ。
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