ブリキの男に花を添え
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駅のエレベーターに乗り込んだ弓景は途中で止まった階数を目に、扉へと目を向ける。エレベーターを待っていた女性とぱちりと目があって、その人は「あら」と声を溢しながら花が綻ぶように穏やかに微笑んだ。弓景は驚きながらも慌てて開ボタンを押して待つと、女性は「ありがとう」と伝えて杖をつきながらエレベーターの中へと歩み入る。所作からは隠しきれない気品が溢れていた。
隣に並んで立った女性に目を向けると、女性――――ナマエはやはり柔和な笑顔を浮かべたまま、弓景を見上げていた。
「こんにちは、弓景くん」
「こんちは、ナマエさん。……久しぶりすね」
「お会いするのは年始の集まり以来ですものね、少し背が伸びました?」
「や、流石に背はもう伸びねーって」
眉を下げて返す弓景に、くすりと口元を手で隠して目尻を下げる。このやり取りは顔を合わせて10年以上続く恒例のやり取りだった。彼女とこのやり取りをする度に弓景は気恥ずかしさを感じる。身長が伸びないことを悩んでいた自分の子供の頃を思い出すからだ。あの頃と弓景は既に背丈も風貌もだいぶ変わったのに、何年経っても彼女の中では子どものままなのだろうと思うし、弓景から見るナマエの雰囲気も風貌も出会った時から殆ど変わらない。何十年経とうと彼女はいつまでも柔らかく穏やかで、春の日に咲いた、風に揺れる花のような人である。
一瞬なんでこの人がここに、と考えた弓影はすぐに思い当たる。
「……伊檻に会いに来たのか?」
「ええ。今夜、一緒に食事に行く約束なの。伊檻さん、お仕事が終わったら迎えに来てくれるって言ってたんだけど、急に会議が入りました……って連絡があったから、私の方から来ちゃった」
茶目っ気のある表情で頬に手を添えて恥ずかしそうに笑うナマエ。
「あー……。それで」
それで、と呟いた弓景は視線を斜め上へと流した。心当たりがあったからだ。「弓景ー? 今お暇ですよね?」と兄から職権乱用極まりない流れでおつかいを頼まれた数時間前の出来事が脳裏を過ぎっていく。
ちなみに弓景はついさっきまで駅中にある花屋に行っていて、今はその戻りであり、手には袋を下げていた。何となくナマエには知られない方がいいか、と気を遣って手にした袋を見られないようにと体の後ろに隠す。ナマエが歯切れの悪い弓景の様子に不思議そうに首を傾げた。
「……?」
「いや、なんでもない。ナマエさん、こっちに顔出すのも久々だろ? 支部長室の場所わかるか?」
「ええと……」
「よければ案内、すっけど」
どことない照れ臭さを感じて、弓景がぶっきらぼうに言う。思春期真っ只中のような反応を見せてしまい、内心で恥を感じる弓景だったが、ナマエは無愛想にも見える弓景に全く気にしていないらしい。純粋な気遣いを喜ぶように微笑んでいる。
「お仕事の邪魔にならないかしら」
「これくらいなんでもねえよ。つーかむしろこのまま別れたら俺が伊檻にどやされるっつーの」
ナマエの控えめな笑い声を聞いて、弓景は思う。この人は兄貴が怒るなんて微塵も本気にしてないんだろうなーと。本気で軽口の冗談だと信じてるんだろうなー、と。……アイツはマジで怒るのに。それもにこやかな笑顔を浮かべたまま嫌味と皮肉でチクチク刺してくるのに。
「それじゃあ、お言葉に甘えてお願いしますね」
「……おう」
「ナマエ……?」
その声が聞こえてか、部屋のドアが開く音に気付いてか、椅子に腰を下ろして姿勢良く座っていたナマエが振り向く。ぱちりと目があって、すぐに相好を崩したナマエが自分の名前を呼ぶ声に伊檻もまた微笑みを返しながら部屋に入る。足早に近くへ歩み寄れば、嬉しそうに目尻を下げた彼女が悪戯っぽい表情で首を傾げた。
「……びっくりしました?」
「びっくりしましたー」
伊檻はおうむ返しのように言葉を返したが、すぐに肩をすくめるようにして言った。
「なんて……、実はさっき弓景と会ったので知ってました」
急遽ねじ込まれた会議に内心業を煮やしながら出席し、下手に余計なことを追加で頼まれない内に周りの意見を笑顔で封殺しきって切り抜けた伊檻は会議室を出てすぐの通路で弓景に呼び止められた。恐らく、待っていたのだろう。おつかいへの礼もそこそこに帰宅を急ごうとする伊檻に教えられたのはナマエが支部長室で待っているという話だった。万が一にも行き違いがあっては悪いという弟なりの配慮だったのだろう。兄のため、というよりはきっとナマエへの気遣いの結果だったとは思うが。
そんな事を考える伊檻の前で、神妙な顔でナマエは成程というように頷いた。
「それは思わぬ伏兵、でしたね。驚かせるつもりだったのに」
「あはは。次は口止めも抜かりなくお願いしますねー」
「そうします」
顔を合わせて二人は笑い合う。彼女が自分を驚かせたいと思っていたならやっぱり知らなかったフリをして、どうしてここに? と返してあげてもよかったかもしれない。そんなことはこうして会えた今に至ってはナマエにとっても伊檻にとっても、あまりに些細な問題だったが。
椅子に座ったままのナマエに手を伸ばし、その頬を指の背で撫でる伊檻が穏やかに聞いた。
「どのくらい待ってました?」
「そんなにです。伊檻さんから連絡があった時、家に戻るよりも近くにいたので用事が終わり次第こちらに来て、丁度エレベーターで弓景くんに会いまして。それはもう、ばったりとです。そこからここまで案内してもらって、暫く話し相手にもなってくれたので本当に、そんなにですね」
「そうでしたか。弓景にはあとでお礼も言わなくちゃいけないですねー」
ひとつひとつ、指折り数えながら順を追って童話を読み聞かせる母親のように答えていたナマエが「ですねー」と間延びした柔らかな声色で答える。そんなナマエを見つめていた伊檻がふとテーブルに目を止めた。会議に出る前は置かれていなかった袋が置いてある。
「あ、それ。弓景くんが伊檻さんにって置いて行ったんです」
「……ああ、全く気が回るんだか回らないんだか……」
通りで先ほど会ったついでに持ってこなかったわけだ、と伊檻は苦笑する。保護も兼ねて外から見えないように注文していたため、外観から中身が見えなかったが伊檻はテーブルに置かれたものが何であるか知っていた。ナマエは人の物を無断で開けてしまうような人ではないが、それにしてもこれがどういうものか分かっていたくせに目の前に置いておくとは。……弓景にとっては、ちょっとした意趣返しのつもりだったのかもしれない。
「ナマエ。少し目を瞑っててもらえますか?」
「目を? ……はい」
す、と言われるままに目を閉じて待ってくれる姿にも伊檻は眦を緩めた。
勿論、こちらとしても悪さをする気など微塵もないのだが、一切の迷いもなくそれが当たり前のことであるかのように全身の信頼を見せられると、嬉しいような、心配なような、どっちつかずな気持ちになって気後れしそうになる。
伊檻はテーブルの前に屈んで、ゆっくりと袋の包みを解く。中身は想定通り、数日前に予約したものだった。予定通りであれば帰りに自ら引き取って、ナマエに渡そうと思っていた。それが予定外の会議がねじ込まれたせいで引き取りに行く時間がなくなってしまい、最悪を想定して弓景に代わりに取りに行ってもらった花束を手に伊檻は「いいですよー」と声をかける。
頷きを返して、瞼をゆっくりと開いたナマエの目の前に膝をついて花束を捧げる伊檻が映り込んだ。その瞳に驚きはない。
「本当は貴女を迎えにいく時に……もう少し雰囲気を作って渡したかったんですが、残念ながら予定通りにはいきませんねー」
そう言って照れくさそうに笑って見せれば、「十分です」とナマエは答えた。
遮られてはいたけれど、薄々中身が自分宛の贈り物であると分かってはいたのだろう。なので驚きはない。だが分かってはいても、なお溢れる喜びがナマエの表情を綻ばせる。屈んでいたことで、椅子に座ったナマエよりも低い位置からその顔を見上げていた伊檻にはその顔がよく見えた。
「……ありがとうございます。凄く、嬉しいです」
彼女はそう言いながら、受け取った花束に顔を寄せた。まるで貴重な宝物を大切に扱うかのような恭しい手つきで触れていることは見れば分かる。
「伊檻さんは記念日にはいつもお花をくれますね」
「……。ナマエは花が好きなので。それに家に飾ってあると視界に入るたびに俺を想ってくれるでしょう? そういう下心があるんですよ」
「下心だなんて、そういうものは真心というのではありませんか」
愛おしそうに贈られた花束を見つめながらナマエは微笑んだ。……伊檻にとって、花はただの花だ。花を綺麗だと思う気持ちも人並みに愛でる気持ちも理解できなくはなかったが、きっと彼女ほど花を慈しむ心を持つことはできないだろう。それでも伊檻が不足を感じることは一度もなかったし、ナマエの言う通り、伊檻は今まで何度も何度も彼女に花を贈ってきた。自分が贈った花を抱いて嬉しそうに笑う彼女を見ることが好きだったし、自分が贈った花束を解いて分けられた花で彩られた家を見ることも好きだったからだ。それを下心だと表現した伊檻の心を、ナマエは穏やかな声色で真心だと直す。
ナマエは大事そうに花束を抱えたまま僅かに上半身を傾けて、伊檻を愛しげに見つめていた。
「贈り物でも行動でも、私はこうして伊檻さんが気持ちを込めてくれるのが、嬉しいです」
「……ナマエ。俺は」
「ああ……どうしましょう。もう、いつまで経っても嬉しくてほっぺが緩んでしまいます」
そう言って恥ずかしそうに笑う姿がとても愛しくて、気付けば立ち上がってその横顔を掬うように伊檻はほのかに色付いた頬に唇を寄せていた。生花の香りと甘やかな彼女の香りが混ざって、不意に鼻先を過ぎる。
「えっと……これは、何のキスですか?」
ナマエが瞳を縁取る睫毛からぱちぱちと音が聞こえそうなほどゆったりとした動きで瞬きをした。嫌がってはいない。喜びと戸惑いが混ざったような表情で見上げてくる妻が小動物のようにかわいらしくて今度は唇を重ねたくなった。それを伊檻は笑って、誤魔化した。
昔は顔が近付くだけで赤くなっていた妻が、今ではキスくらいでは動じなくなるまでに成長したことをほんの少し残念に思った。自分ばかりが年甲斐もなく鼓動を早めてがっついているようで、照れ臭い。だからそんな照れ臭さも含めて取り繕うことに決めた伊檻が、何のキスかと問われて答える。
「うーんそうですねー、じゃあ俺のかわいい奥さんにおしごとおつかれさまのキスって事にしましょうか」
「それなら私も」そう言ってはにかんだナマエが手を伸ばす。
「私の素敵な旦那さまにおつかれさまのキスがしたいです」
――――ああ本当に、俺の妻はいつまで経ってもかわいい人だ。そう後押しされて、伊檻は負けた。嬉しさで堪えきれずに笑みながら再び腰を屈めた。取り落とさないように花束を変わって支える伊檻の頬にナマエの手が触れた。頬を包むように添えられた手の、反対側にゆっくりと触れる柔らかな唇の感触。伊檻を愛しげに見つめるナマエの眼差しが何よりも、愛していると純粋に語る。種を蒔いて、水をやって、心を分けて慈しむ事ができる。そんな自分とはまるで正反対の人を伊檻もまた愛していた。
「伊檻さん?」
「……ありがとうございます。本当に疲れがふっとんじゃいましたー」
「ふふ、ですねー」
「ねえ、ナマエ。家に着いたらおかえりなさいのキスもしてくれませんか?」
「もちろん喜んで。……というかそれは、いつもしてるじゃありませんか?」
「あはは。それもそうでしたねー」
気を取り直して朗らかに笑った伊檻は「よっこいしょー」と声をあげて、花束を代わりに抱えてナマエに手を伸べる。ナマエは傍らに立て掛けていた杖を持ち、伊檻の手を取ると立ち上がった。長く座っていたからだろう。不意に足の力が抜けて姿勢を崩しかけるのを伊檻は予想していたようにすぐに支える。体を寄り掛からせるように腕に掴まらせれば、ナマエは伊檻を見上げて気恥ずかしそうに笑った。
「そろそろ行きましょうか」
「はい。よろしくお願いしますね」
隣に並んで立った女性に目を向けると、女性――――ナマエはやはり柔和な笑顔を浮かべたまま、弓景を見上げていた。
「こんにちは、弓景くん」
「こんちは、ナマエさん。……久しぶりすね」
「お会いするのは年始の集まり以来ですものね、少し背が伸びました?」
「や、流石に背はもう伸びねーって」
眉を下げて返す弓景に、くすりと口元を手で隠して目尻を下げる。このやり取りは顔を合わせて10年以上続く恒例のやり取りだった。彼女とこのやり取りをする度に弓景は気恥ずかしさを感じる。身長が伸びないことを悩んでいた自分の子供の頃を思い出すからだ。あの頃と弓景は既に背丈も風貌もだいぶ変わったのに、何年経っても彼女の中では子どものままなのだろうと思うし、弓景から見るナマエの雰囲気も風貌も出会った時から殆ど変わらない。何十年経とうと彼女はいつまでも柔らかく穏やかで、春の日に咲いた、風に揺れる花のような人である。
一瞬なんでこの人がここに、と考えた弓影はすぐに思い当たる。
「……伊檻に会いに来たのか?」
「ええ。今夜、一緒に食事に行く約束なの。伊檻さん、お仕事が終わったら迎えに来てくれるって言ってたんだけど、急に会議が入りました……って連絡があったから、私の方から来ちゃった」
茶目っ気のある表情で頬に手を添えて恥ずかしそうに笑うナマエ。
「あー……。それで」
それで、と呟いた弓景は視線を斜め上へと流した。心当たりがあったからだ。「弓景ー? 今お暇ですよね?」と兄から職権乱用極まりない流れでおつかいを頼まれた数時間前の出来事が脳裏を過ぎっていく。
ちなみに弓景はついさっきまで駅中にある花屋に行っていて、今はその戻りであり、手には袋を下げていた。何となくナマエには知られない方がいいか、と気を遣って手にした袋を見られないようにと体の後ろに隠す。ナマエが歯切れの悪い弓景の様子に不思議そうに首を傾げた。
「……?」
「いや、なんでもない。ナマエさん、こっちに顔出すのも久々だろ? 支部長室の場所わかるか?」
「ええと……」
「よければ案内、すっけど」
どことない照れ臭さを感じて、弓景がぶっきらぼうに言う。思春期真っ只中のような反応を見せてしまい、内心で恥を感じる弓景だったが、ナマエは無愛想にも見える弓景に全く気にしていないらしい。純粋な気遣いを喜ぶように微笑んでいる。
「お仕事の邪魔にならないかしら」
「これくらいなんでもねえよ。つーかむしろこのまま別れたら俺が伊檻にどやされるっつーの」
ナマエの控えめな笑い声を聞いて、弓景は思う。この人は兄貴が怒るなんて微塵も本気にしてないんだろうなーと。本気で軽口の冗談だと信じてるんだろうなー、と。……アイツはマジで怒るのに。それもにこやかな笑顔を浮かべたまま嫌味と皮肉でチクチク刺してくるのに。
「それじゃあ、お言葉に甘えてお願いしますね」
「……おう」
「ナマエ……?」
その声が聞こえてか、部屋のドアが開く音に気付いてか、椅子に腰を下ろして姿勢良く座っていたナマエが振り向く。ぱちりと目があって、すぐに相好を崩したナマエが自分の名前を呼ぶ声に伊檻もまた微笑みを返しながら部屋に入る。足早に近くへ歩み寄れば、嬉しそうに目尻を下げた彼女が悪戯っぽい表情で首を傾げた。
「……びっくりしました?」
「びっくりしましたー」
伊檻はおうむ返しのように言葉を返したが、すぐに肩をすくめるようにして言った。
「なんて……、実はさっき弓景と会ったので知ってました」
急遽ねじ込まれた会議に内心業を煮やしながら出席し、下手に余計なことを追加で頼まれない内に周りの意見を笑顔で封殺しきって切り抜けた伊檻は会議室を出てすぐの通路で弓景に呼び止められた。恐らく、待っていたのだろう。おつかいへの礼もそこそこに帰宅を急ごうとする伊檻に教えられたのはナマエが支部長室で待っているという話だった。万が一にも行き違いがあっては悪いという弟なりの配慮だったのだろう。兄のため、というよりはきっとナマエへの気遣いの結果だったとは思うが。
そんな事を考える伊檻の前で、神妙な顔でナマエは成程というように頷いた。
「それは思わぬ伏兵、でしたね。驚かせるつもりだったのに」
「あはは。次は口止めも抜かりなくお願いしますねー」
「そうします」
顔を合わせて二人は笑い合う。彼女が自分を驚かせたいと思っていたならやっぱり知らなかったフリをして、どうしてここに? と返してあげてもよかったかもしれない。そんなことはこうして会えた今に至ってはナマエにとっても伊檻にとっても、あまりに些細な問題だったが。
椅子に座ったままのナマエに手を伸ばし、その頬を指の背で撫でる伊檻が穏やかに聞いた。
「どのくらい待ってました?」
「そんなにです。伊檻さんから連絡があった時、家に戻るよりも近くにいたので用事が終わり次第こちらに来て、丁度エレベーターで弓景くんに会いまして。それはもう、ばったりとです。そこからここまで案内してもらって、暫く話し相手にもなってくれたので本当に、そんなにですね」
「そうでしたか。弓景にはあとでお礼も言わなくちゃいけないですねー」
ひとつひとつ、指折り数えながら順を追って童話を読み聞かせる母親のように答えていたナマエが「ですねー」と間延びした柔らかな声色で答える。そんなナマエを見つめていた伊檻がふとテーブルに目を止めた。会議に出る前は置かれていなかった袋が置いてある。
「あ、それ。弓景くんが伊檻さんにって置いて行ったんです」
「……ああ、全く気が回るんだか回らないんだか……」
通りで先ほど会ったついでに持ってこなかったわけだ、と伊檻は苦笑する。保護も兼ねて外から見えないように注文していたため、外観から中身が見えなかったが伊檻はテーブルに置かれたものが何であるか知っていた。ナマエは人の物を無断で開けてしまうような人ではないが、それにしてもこれがどういうものか分かっていたくせに目の前に置いておくとは。……弓景にとっては、ちょっとした意趣返しのつもりだったのかもしれない。
「ナマエ。少し目を瞑っててもらえますか?」
「目を? ……はい」
す、と言われるままに目を閉じて待ってくれる姿にも伊檻は眦を緩めた。
勿論、こちらとしても悪さをする気など微塵もないのだが、一切の迷いもなくそれが当たり前のことであるかのように全身の信頼を見せられると、嬉しいような、心配なような、どっちつかずな気持ちになって気後れしそうになる。
伊檻はテーブルの前に屈んで、ゆっくりと袋の包みを解く。中身は想定通り、数日前に予約したものだった。予定通りであれば帰りに自ら引き取って、ナマエに渡そうと思っていた。それが予定外の会議がねじ込まれたせいで引き取りに行く時間がなくなってしまい、最悪を想定して弓景に代わりに取りに行ってもらった花束を手に伊檻は「いいですよー」と声をかける。
頷きを返して、瞼をゆっくりと開いたナマエの目の前に膝をついて花束を捧げる伊檻が映り込んだ。その瞳に驚きはない。
「本当は貴女を迎えにいく時に……もう少し雰囲気を作って渡したかったんですが、残念ながら予定通りにはいきませんねー」
そう言って照れくさそうに笑って見せれば、「十分です」とナマエは答えた。
遮られてはいたけれど、薄々中身が自分宛の贈り物であると分かってはいたのだろう。なので驚きはない。だが分かってはいても、なお溢れる喜びがナマエの表情を綻ばせる。屈んでいたことで、椅子に座ったナマエよりも低い位置からその顔を見上げていた伊檻にはその顔がよく見えた。
「……ありがとうございます。凄く、嬉しいです」
彼女はそう言いながら、受け取った花束に顔を寄せた。まるで貴重な宝物を大切に扱うかのような恭しい手つきで触れていることは見れば分かる。
「伊檻さんは記念日にはいつもお花をくれますね」
「……。ナマエは花が好きなので。それに家に飾ってあると視界に入るたびに俺を想ってくれるでしょう? そういう下心があるんですよ」
「下心だなんて、そういうものは真心というのではありませんか」
愛おしそうに贈られた花束を見つめながらナマエは微笑んだ。……伊檻にとって、花はただの花だ。花を綺麗だと思う気持ちも人並みに愛でる気持ちも理解できなくはなかったが、きっと彼女ほど花を慈しむ心を持つことはできないだろう。それでも伊檻が不足を感じることは一度もなかったし、ナマエの言う通り、伊檻は今まで何度も何度も彼女に花を贈ってきた。自分が贈った花を抱いて嬉しそうに笑う彼女を見ることが好きだったし、自分が贈った花束を解いて分けられた花で彩られた家を見ることも好きだったからだ。それを下心だと表現した伊檻の心を、ナマエは穏やかな声色で真心だと直す。
ナマエは大事そうに花束を抱えたまま僅かに上半身を傾けて、伊檻を愛しげに見つめていた。
「贈り物でも行動でも、私はこうして伊檻さんが気持ちを込めてくれるのが、嬉しいです」
「……ナマエ。俺は」
「ああ……どうしましょう。もう、いつまで経っても嬉しくてほっぺが緩んでしまいます」
そう言って恥ずかしそうに笑う姿がとても愛しくて、気付けば立ち上がってその横顔を掬うように伊檻はほのかに色付いた頬に唇を寄せていた。生花の香りと甘やかな彼女の香りが混ざって、不意に鼻先を過ぎる。
「えっと……これは、何のキスですか?」
ナマエが瞳を縁取る睫毛からぱちぱちと音が聞こえそうなほどゆったりとした動きで瞬きをした。嫌がってはいない。喜びと戸惑いが混ざったような表情で見上げてくる妻が小動物のようにかわいらしくて今度は唇を重ねたくなった。それを伊檻は笑って、誤魔化した。
昔は顔が近付くだけで赤くなっていた妻が、今ではキスくらいでは動じなくなるまでに成長したことをほんの少し残念に思った。自分ばかりが年甲斐もなく鼓動を早めてがっついているようで、照れ臭い。だからそんな照れ臭さも含めて取り繕うことに決めた伊檻が、何のキスかと問われて答える。
「うーんそうですねー、じゃあ俺のかわいい奥さんにおしごとおつかれさまのキスって事にしましょうか」
「それなら私も」そう言ってはにかんだナマエが手を伸ばす。
「私の素敵な旦那さまにおつかれさまのキスがしたいです」
――――ああ本当に、俺の妻はいつまで経ってもかわいい人だ。そう後押しされて、伊檻は負けた。嬉しさで堪えきれずに笑みながら再び腰を屈めた。取り落とさないように花束を変わって支える伊檻の頬にナマエの手が触れた。頬を包むように添えられた手の、反対側にゆっくりと触れる柔らかな唇の感触。伊檻を愛しげに見つめるナマエの眼差しが何よりも、愛していると純粋に語る。種を蒔いて、水をやって、心を分けて慈しむ事ができる。そんな自分とはまるで正反対の人を伊檻もまた愛していた。
「伊檻さん?」
「……ありがとうございます。本当に疲れがふっとんじゃいましたー」
「ふふ、ですねー」
「ねえ、ナマエ。家に着いたらおかえりなさいのキスもしてくれませんか?」
「もちろん喜んで。……というかそれは、いつもしてるじゃありませんか?」
「あはは。それもそうでしたねー」
気を取り直して朗らかに笑った伊檻は「よっこいしょー」と声をあげて、花束を代わりに抱えてナマエに手を伸べる。ナマエは傍らに立て掛けていた杖を持ち、伊檻の手を取ると立ち上がった。長く座っていたからだろう。不意に足の力が抜けて姿勢を崩しかけるのを伊檻は予想していたようにすぐに支える。体を寄り掛からせるように腕に掴まらせれば、ナマエは伊檻を見上げて気恥ずかしそうに笑った。
「そろそろ行きましょうか」
「はい。よろしくお願いしますね」