雑記置き場
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「Hi ニコ」
呼びかけに応じて顔を上げれば、見知った友人の姿があった。
彼女はひらひらと手を振って自身の存在を示すようにしながら、ボンジュールとやや舌足らずな発音で挨拶をする。それから続けて「コーヒーのお代わりはいかが?」なんて言って笑った。ぼくが「じゃあお願いするよ、よければきみの分も一緒に」と返せば、彼女は満足そうに頷いてオーケーサインを作って見せた後、カウンターの方へと足早に向かう。
その後ろ姿を、そのまま目で追った。カフェの主人を呼び止めて、世間話を交えながらオーダーを通す彼女の横顔を見つめる。
彼女はフランスに来てできた友人だった。彼女もぼくと同じ学校に通っているけど、実は校内で見かけたことはなくて、彼女とぼくが会うのはいつもこのカフェでのことだった。会うと言っても、特に約束をして待ち合わせていたわけでもなくて、……いつも彼女の方からぼくを見つけて気まぐれに声をかけ、日暮れ前まで。日によっては長かったり短かったりする時間を一緒に過ごす。長々と世間話をしたり、あるいは静かに座って本を読んだり……。
そんなことを思い出す内に、いつの間にかぼーっとしていたらしい。気付けば視線が手元の方に落ちていて、テーブルの上に広げていた本を見ていた。読みかけの本を閉じたタイミングで、注文を伝えて戻ってきた彼女がガタッと椅子を引いて対面の席に着く。何も言わずに見つめている事に気付いたからだろう、彼女が訝しげに眉根を寄せた。
「どうしたの。なんかぼーっとしてない?」
「いや、なんだか君に会うのが久しぶりな気がして」
「そう?」不思議そうに首を傾けた。「昨日もここで会ったのに」
「そう……、だっけ?」
思い出そうとしてみるけれど、まるで靄にかかったように昨日を思い出すことが出来ない。だが、彼女にそう言われれば『そう』だったような……、そんな特に根拠のない自信がフッと胸の内に湧いた。
そんなぼくの顔を見て、彼女が「へんなの」と笑う。それから悪戯っぽく笑みを深めて、姿勢を低くしながらぼくを見上げる。
「そんなに私に会いたかったってこと?」
細まる瞳の奥に煌々と輝く、レッドカラントと同じ色の瞳に見惚れそうになる。
「うん……。そうだね。君に、会いたかったんだと思う」
胸の奥から、滑り落ちるようにそんな言葉を呟いた。すると、彼女は驚いた表情で暫くぱちぱちと瞬きをした。元より印象的な瞳が見開かれたことで、より大きく見える。彼女は決まりが悪そうに頬を指先で掻いて、「……、やっぱりへんなの」と言った。
「そうだ。ニコ、お腹すいてない?」
「? どうして?」
「おじさんが焼きたてのクロワッサンも特別に付けてくれるって言ってたから頼んじゃったの。要らないなら一人で食べるし、そうじゃないなら一緒に食べようよ」
「そういうことか。もちろん、喜んでいただくよ」
満足そうに頷いた彼女は背もたれに重心を掛けるように背中を預けて座りながら、何気なくといった様子で通りを眺めた。心地よい風が流れて、午後の日差しが差し込む。このテラス席からは人が行き交う通りがよく見える。穏やかな横顔に店の屋根の影が落ちているのを見て、彼女に出会った日のことをふと思い出した。
あの日もここに座ってぼんやりと街を眺めては絵を描いていて、そんな自分に彼女の方から声をかけてきた。手帳に書いていた風景画を見たいといい、絵を褒めた彼女は最初自分のことを画家だと思っていたらしい。賛辞を受け取りつつも画家ではないと訂正したときの彼女の丸くなった瞳をよく覚えている。
夕日よりも赤く、美しく輝くあの瞳を覚えている。
「ねえ、私もここにいてもいい?」
「いいよ。でも他に席も空いてるのにここでいいの?」
「ここがいいの。ここがいちばん、いい感じの日陰だから」
「あはは、そうだね。確かに、いい感じの日陰かもしれない」
そうして、ぼくらは友人になった。
ただ何となく顔を見たいなと思って、同じ場所に座り、同じようにして街を眺めて過ごしていると、こうして同じように彼女に会う。
「フランスのクロワッサンおいしいよね~。私こっちに来てからよく食べてるんだ。あんなに美味しいパンがあるなんて知らなかったの」頬杖をついて、彼女が語る。
「カフェオレに浸して食べるのは、ちょっとどうかなって思ってるけど……。ぱりふわなのが美味しいんだしー……」
「ああー……」
このフランスでは飲み物にクロワッサンを浸して食べるのは定番の文化だ。朝のカフェでは当たり前に見かける光景でもある。……だが彼女にとっては少し抵抗感のある食べ方らしい。
「じゃあ、コルネットはどうかな? 食べたことある?」
「コルネット?」
「イタリアのクロワッサン――なんだけど、中にチョコレートクリームやジャムなんかが入ってて色んな種類があってね、とても甘くて美味しいんだ。ぼくも故郷にいた時は朝食によく食べたよ」
「へぇ! 絶対おいしいやつだ!」
「おいしいよ」と笑いながら返す。
「ぼくの故郷の街にはおいしいパン屋さんもあってね。コルネットも取り扱ってるし、一度じゃ選びきれないくらい種類も多くて、どれも街で評判なんだ」
そう言った後で、ふとした違和感が胸を過る。故郷の街のおいしいパン屋。そうだっけ。そうだ。そうだった。……そう、だった? 視界にちらつく赤い炎が何なのか。ぼくはやはり、思い出せないでいる。
目の前にいる彼女が「そうなんだ」と言う声に後押しされるようにぼくは頭を軽く振って、そのまま違和感と雑念を追い出した。
「……だからきっときみも気に入るよ。いつか、遊びに来てほしいな」
「イタリアかぁ。行ったことないな。じゃあ、いつか行くね。その、コルネット? を食べに」
「本当? ならその時は――――……」
言いかけて、言葉が止まる。それが守れない約束になるんじゃないかって考えがよぎって、ぼくが案内するよ。なんて気安く未来を語れなかった。そんな未来が訪れるなら、本当に素敵なことだと思ったけれど。本当は言えなかった言葉。なぜそんな風に感じたのかはわからない。
でもこの時は不思議と言える、そう思ってぼくは彼女をまっすぐに見つめた。
「その時は、ぼくがきみを案内するよ。いつかぼくの故郷を、愛する街をきみに見せたいってずっと思ってた」
「……そっか」
彼女はどこか曖昧に笑った。
「じゃあ、その時はよろしく」
言葉自体は歓迎の姿勢を示していたが、曖昧な表情からはまるでそんな時は訪れないと確信しているような雰囲気が漂う。
社交辞令だと思われたか、それとも、フラれたか。
「……ねえ」
「ん?」
「その……、きみの、きみの名前を聞いてもいいかな」
「忘れたわけじゃないんだ。前にも聞いた。でも、何故か思い出せないんだ」
変なことを言っている自覚はある。通りすがりでも顔見知り、というだけでもないはずの友人の名前を思い出せないなんて失礼な話だ。しかし、彼女は腹を立てる様子もなく、それどころか。なぜかぼくに対してどこか困ったような、申し訳なさそうな表情で言った。
「ナマエ。 私は、ナマエよ」
その名前を聞いた瞬間、「私のことは、ナマエって呼んで」と彼女の声が鮮明に蘇る。
「そう、だった。綺麗な名前だね」
「うん。綺麗な名前でしょ。私も気に入ってるんだ」
同じ会話だ。初めて彼女の名前を尋ねたときも、全く同じ事を言った。彼女の名前を確かめるように、声に出して呼ぼうと口を開いた。
……その時、不意にカチャン、と何かの音がした。気がした。「……さようなら、ニコ」と、耳の奥で彼女の声が過ぎる。目の前の彼女はそんなこと、ひと言も言っていないのに。
ただ微笑んでいる彼女の輪郭が、不意に揺らいで、視界が歪んで、安酒の酔いが回ったみたいに暗転する。彼女の声も、街の音も緩やかに遠のいて、聞こえなくなっていく。
ああそうか、これは。意識が失われる寸前にぼくは――――。
吾は、気付いたんだ。これがもう過ぎ去ってしまった、遠い日の記憶だと。
これは、手を伸ばしても掴めない、夢だったと。
「――――……」
ああ、目が覚めるといつも忘れてしまう。きみの、名前を。
呼びかけに応じて顔を上げれば、見知った友人の姿があった。
彼女はひらひらと手を振って自身の存在を示すようにしながら、ボンジュールとやや舌足らずな発音で挨拶をする。それから続けて「コーヒーのお代わりはいかが?」なんて言って笑った。ぼくが「じゃあお願いするよ、よければきみの分も一緒に」と返せば、彼女は満足そうに頷いてオーケーサインを作って見せた後、カウンターの方へと足早に向かう。
その後ろ姿を、そのまま目で追った。カフェの主人を呼び止めて、世間話を交えながらオーダーを通す彼女の横顔を見つめる。
彼女はフランスに来てできた友人だった。彼女もぼくと同じ学校に通っているけど、実は校内で見かけたことはなくて、彼女とぼくが会うのはいつもこのカフェでのことだった。会うと言っても、特に約束をして待ち合わせていたわけでもなくて、……いつも彼女の方からぼくを見つけて気まぐれに声をかけ、日暮れ前まで。日によっては長かったり短かったりする時間を一緒に過ごす。長々と世間話をしたり、あるいは静かに座って本を読んだり……。
そんなことを思い出す内に、いつの間にかぼーっとしていたらしい。気付けば視線が手元の方に落ちていて、テーブルの上に広げていた本を見ていた。読みかけの本を閉じたタイミングで、注文を伝えて戻ってきた彼女がガタッと椅子を引いて対面の席に着く。何も言わずに見つめている事に気付いたからだろう、彼女が訝しげに眉根を寄せた。
「どうしたの。なんかぼーっとしてない?」
「いや、なんだか君に会うのが久しぶりな気がして」
「そう?」不思議そうに首を傾けた。「昨日もここで会ったのに」
「そう……、だっけ?」
思い出そうとしてみるけれど、まるで靄にかかったように昨日を思い出すことが出来ない。だが、彼女にそう言われれば『そう』だったような……、そんな特に根拠のない自信がフッと胸の内に湧いた。
そんなぼくの顔を見て、彼女が「へんなの」と笑う。それから悪戯っぽく笑みを深めて、姿勢を低くしながらぼくを見上げる。
「そんなに私に会いたかったってこと?」
細まる瞳の奥に煌々と輝く、レッドカラントと同じ色の瞳に見惚れそうになる。
「うん……。そうだね。君に、会いたかったんだと思う」
胸の奥から、滑り落ちるようにそんな言葉を呟いた。すると、彼女は驚いた表情で暫くぱちぱちと瞬きをした。元より印象的な瞳が見開かれたことで、より大きく見える。彼女は決まりが悪そうに頬を指先で掻いて、「……、やっぱりへんなの」と言った。
「そうだ。ニコ、お腹すいてない?」
「? どうして?」
「おじさんが焼きたてのクロワッサンも特別に付けてくれるって言ってたから頼んじゃったの。要らないなら一人で食べるし、そうじゃないなら一緒に食べようよ」
「そういうことか。もちろん、喜んでいただくよ」
満足そうに頷いた彼女は背もたれに重心を掛けるように背中を預けて座りながら、何気なくといった様子で通りを眺めた。心地よい風が流れて、午後の日差しが差し込む。このテラス席からは人が行き交う通りがよく見える。穏やかな横顔に店の屋根の影が落ちているのを見て、彼女に出会った日のことをふと思い出した。
あの日もここに座ってぼんやりと街を眺めては絵を描いていて、そんな自分に彼女の方から声をかけてきた。手帳に書いていた風景画を見たいといい、絵を褒めた彼女は最初自分のことを画家だと思っていたらしい。賛辞を受け取りつつも画家ではないと訂正したときの彼女の丸くなった瞳をよく覚えている。
夕日よりも赤く、美しく輝くあの瞳を覚えている。
「ねえ、私もここにいてもいい?」
「いいよ。でも他に席も空いてるのにここでいいの?」
「ここがいいの。ここがいちばん、いい感じの日陰だから」
「あはは、そうだね。確かに、いい感じの日陰かもしれない」
そうして、ぼくらは友人になった。
ただ何となく顔を見たいなと思って、同じ場所に座り、同じようにして街を眺めて過ごしていると、こうして同じように彼女に会う。
「フランスのクロワッサンおいしいよね~。私こっちに来てからよく食べてるんだ。あんなに美味しいパンがあるなんて知らなかったの」頬杖をついて、彼女が語る。
「カフェオレに浸して食べるのは、ちょっとどうかなって思ってるけど……。ぱりふわなのが美味しいんだしー……」
「ああー……」
このフランスでは飲み物にクロワッサンを浸して食べるのは定番の文化だ。朝のカフェでは当たり前に見かける光景でもある。……だが彼女にとっては少し抵抗感のある食べ方らしい。
「じゃあ、コルネットはどうかな? 食べたことある?」
「コルネット?」
「イタリアのクロワッサン――なんだけど、中にチョコレートクリームやジャムなんかが入ってて色んな種類があってね、とても甘くて美味しいんだ。ぼくも故郷にいた時は朝食によく食べたよ」
「へぇ! 絶対おいしいやつだ!」
「おいしいよ」と笑いながら返す。
「ぼくの故郷の街にはおいしいパン屋さんもあってね。コルネットも取り扱ってるし、一度じゃ選びきれないくらい種類も多くて、どれも街で評判なんだ」
そう言った後で、ふとした違和感が胸を過る。故郷の街のおいしいパン屋。そうだっけ。そうだ。そうだった。……そう、だった? 視界にちらつく赤い炎が何なのか。ぼくはやはり、思い出せないでいる。
目の前にいる彼女が「そうなんだ」と言う声に後押しされるようにぼくは頭を軽く振って、そのまま違和感と雑念を追い出した。
「……だからきっときみも気に入るよ。いつか、遊びに来てほしいな」
「イタリアかぁ。行ったことないな。じゃあ、いつか行くね。その、コルネット? を食べに」
「本当? ならその時は――――……」
言いかけて、言葉が止まる。それが守れない約束になるんじゃないかって考えがよぎって、ぼくが案内するよ。なんて気安く未来を語れなかった。そんな未来が訪れるなら、本当に素敵なことだと思ったけれど。本当は言えなかった言葉。なぜそんな風に感じたのかはわからない。
でもこの時は不思議と言える、そう思ってぼくは彼女をまっすぐに見つめた。
「その時は、ぼくがきみを案内するよ。いつかぼくの故郷を、愛する街をきみに見せたいってずっと思ってた」
「……そっか」
彼女はどこか曖昧に笑った。
「じゃあ、その時はよろしく」
言葉自体は歓迎の姿勢を示していたが、曖昧な表情からはまるでそんな時は訪れないと確信しているような雰囲気が漂う。
社交辞令だと思われたか、それとも、フラれたか。
「……ねえ」
「ん?」
「その……、きみの、きみの名前を聞いてもいいかな」
「忘れたわけじゃないんだ。前にも聞いた。でも、何故か思い出せないんだ」
変なことを言っている自覚はある。通りすがりでも顔見知り、というだけでもないはずの友人の名前を思い出せないなんて失礼な話だ。しかし、彼女は腹を立てる様子もなく、それどころか。なぜかぼくに対してどこか困ったような、申し訳なさそうな表情で言った。
「ナマエ。 私は、ナマエよ」
その名前を聞いた瞬間、「私のことは、ナマエって呼んで」と彼女の声が鮮明に蘇る。
「そう、だった。綺麗な名前だね」
「うん。綺麗な名前でしょ。私も気に入ってるんだ」
同じ会話だ。初めて彼女の名前を尋ねたときも、全く同じ事を言った。彼女の名前を確かめるように、声に出して呼ぼうと口を開いた。
……その時、不意にカチャン、と何かの音がした。気がした。「……さようなら、ニコ」と、耳の奥で彼女の声が過ぎる。目の前の彼女はそんなこと、ひと言も言っていないのに。
ただ微笑んでいる彼女の輪郭が、不意に揺らいで、視界が歪んで、安酒の酔いが回ったみたいに暗転する。彼女の声も、街の音も緩やかに遠のいて、聞こえなくなっていく。
ああそうか、これは。意識が失われる寸前にぼくは――――。
吾は、気付いたんだ。これがもう過ぎ去ってしまった、遠い日の記憶だと。
これは、手を伸ばしても掴めない、夢だったと。
「――――……」
ああ、目が覚めるといつも忘れてしまう。きみの、名前を。
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