ブリキの男に花を添え
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月満夫妻といえば東京支部一のおしどり夫婦として知られている。
あるいは誰が言ったか、万年バカップル新婚夫婦なんていう呼び名もあった。
支部長である月満伊檻自体が外面もよく物腰の柔らかな男であるが、その妻である月満綾目もまた幼き頃から清廉潔白と名高く、正しく善性の煮凝りが服を着て歩いているような女であったため、許婚となり交際期間を経て結婚に至るまで二人が互いに意見の衝突――――所謂口喧嘩を起こしたことなどほとんどなかった。
しかし、ただの一度だけ、綾目が伊檻に怒って家を飛び出した事がある。原因に心当たりはあったが、それが発露したキッカケは本当に些細なことだったと思う。少なくとも伊檻にとってはあまり思い出せないくらいささやかなことだ。
「伊檻さんの――――…… ばか! わ、わからずや!」
その当時、二人は月満の本家で暮らしていた。仕事に赴く伊檻の見送りのため、戸口に立った綾目がなんやかんやで吐き出した精一杯の悪態が今の言葉である。
罵倒と呼ぶにはあまりにかわいらしい子どもの癇癪のような言葉だったので、伊檻は物珍しさの方が勝ってしまい、全く真剣に受け止めなかった。なぜなら何事かに怒っている綾目に対して伊檻が呆然と呟いた開口一番の一言が「……かわいい」だったのだから。
それが伝わったのだろう。綾目はくしゃりと顔を顰めてふい、と首を横に背けて言う。
「もう知りません。もう、か、勝手になさってください……!」
そう言ってスパンと音を立てて閉められた戸を呆然と見上げた伊檻は思った。怒る姿までかわいいなんてどうかしてると思いませんか、と。
この時、完全にどうかしてたのは伊檻の頭の方であった。暫くそのまま綾目の怒った顔を思い返して放心していたが、結局フォローもなしで仕事に向かった。
「…………。怒る姿までかわいいなんてどうかしてると思いませんか?」
「うるせえな。俺に話しかけるんじゃねえよ……」
「怒る姿までかわいいなんてどうかしてると思いませんか?」
「お前の頭がか?」
換気扇の回る音以外に静寂に満ちたオフィスで脈絡もなくそう呟いた伊檻の言葉に、持ち込んだ本を黙々と読んでいた塔間は眉間に深い皺を寄せた。罵倒のボキャブラリーが豊富な塔間は一を尋ねれば十を超えて余りある非常にかわいくない悪口を返してくる。しかしこの日ばかりはその火力も控えめだった。
何故なら明らかに関わらない方がいいと思うくらい、伊檻の頭がどうかしているのを理解していたからだ。
そうしてその日、綾目は家を飛び出した。……ちなみに飛び出したと言っても綾目は度を超えて律儀な女だったため、すぐに人伝で伊檻が心配しないようにと居場所を伝えたし、「頭を冷やしてきます。明日には戻るつもりです。」と早い段階で伊檻にメールを送ってきたため。実体で言えば遊びに出かけるのと殆ど変わらなかったのだが。
「もう綾目ったら、そんなに一気に煽ったら身体壊すわよ。あんまりお酒飲んだ事ないんでしょ?」
「うっ」
「ああ、ほらお水。ゆっくり飲んで」
思い切るようにぐいっと一気にアルコールを体の奥へと流し込む綾目を見て、月満都湖は大層驚いた。そして案の定と言うべきか、慣れない飲酒と一気飲みに口元を押さえてグラスを置く綾目の姿に、慌てて対面の席から立ち上がって側に座る。都湖が困ったような顔でお冷を差し出せば、綾目は恭しい手つきでそれを受け取った。
月満綾目は月満家の長男である月満伊檻の妻で、都湖にとっては義姉にあたる。しかし、都湖と綾目は同い年かつ、婚約者時代から綾目が十八歳になってすぐに月満に籍を入れる以前より仲が良かったため、義姉というよりは親しい友人、あるいは妹という関係に近かった。
座卓の上にあるお冷入りのグラスを両手で包むようにして持ち、その液面へと視線を落とす彼女は誰がどう見ても一目で凹んでいることがわかる。綾目が……はぁ、と物憂げにため息を溢して肩を落とした。それを見て、また都湖は内心もの凄く驚いた。
「うう、どうしましょう伊檻さんにあんなひどい事を言ってしまって……。もし怒ったり、もし悲しんだりしてたら……」
普段殆ど飲む事のないアルコールが強靭な自制心を崩しているのか、ぺそぺそと忍び泣くように綾目が呟いた。誰に伝えるでもなく、心の中から不意に落ちてきたような後悔と懺悔を聞きながら都湖は酒の肴を口に放り込む。
「んー、そうねぇ……」
言葉をぼやかす都湖の内心は「そこまで伊檻のメンタルは繊細な作りをしてないわよ。マ。伊檻なら綾目が心配すると分かった上で気にしてるフリくらいするでしょうけど」である。
しかし、今時珍しいほど純粋培養の人間で、こんなことに赤くなったり青くなったりしながらちびちびと酒を舐める可愛い義姉もとい大切な友人にわざわざそんな事は言わないけれど。この世の終わりを見たかのような悲壮感を漂わせて項垂れている女の子に、そんなこと気にしなくて全く無問題よ〜! 大丈夫だから安心して〜! などとは本心であっても軽率には言えない。
家で会った綾目があまりに暗い顔をしていたので食事に誘い、「もう、本当にどうしたのよ、綾目。らしくないわ。なにかやなことでもあった?」とすでにひととおり話は聞き出している。都湖は最初どう反応するべきかわからなかった。一言で言うと、痴話喧嘩もいいところである。最終的には都湖は実兄に腹を立てそうになったが、綾目の関心は伊檻に(本人基準で)ひどい悪態をついてしまった事に対する自己嫌悪が主であったため、あえて余計なことは言わず、こうして聞き役に徹していた。
……それにしても、ばかだの、わからずやだの、なんてかわいい言葉だろうか。そんな言葉を言われて真剣に怒ったり悲しんだりする大人はいない。現在進行形でめちゃくちゃに後悔している綾目でさえ、他人に同じことを言われたとしても朗らかに笑って流す程度の言葉だろう。冷静に考えればこんなものは問題にすらならない。
「こんな時どうやって仲直りしたらいいんでしょう……」
しかし、少なくとも綾目は至って真剣に悩んでいるのだ。
都湖が悩んでいた時は、綾目も同じだけ寄り添って辛抱強く話を聞いてくれたのだから。都湖が彼女の気持ちにはなるべく寄り添ってあげたいと思うのは当然であった。
……なので、都湖は即答した。
「そんなもの綾目が伊檻に抱きついてほっぺにチューするだけで終わるわよ」
「えっ!?」
驚きの声をあげ、綾目の肩がビクッと飛び上がる。本当に予想もしない言葉だったのだろう。目を見張って都湖の顔を凝視したのち、瞳がうろうろと戸惑うように行き来する姿からは動揺がありありと伝わってきた。アルコールのせいか、都湖の助言のせいか。ほんのり赤くなった頬で「ええ〜……」と声を絞り出す綾目を見ながら都湖は力強く頷いた。
「ほ、本当ですか……」
「どんな事でも丸く収まるわ」都湖は寸分の疑いもないと断言して、優しく微笑んでみせた。
「アタシの言うことが信じられない?」
「そ、そういうわけじゃないけど……余りに突拍子がなくて。ええ……、それで本当にどんな事でも丸く収まっちゃうんですか……?」
「収まっちゃうわ」
……ていうか収めるわ、伊檻は。そう考えながら、混乱してる綾目を脇目に、都湖は一瞬複雑そうに眉根をほんの僅かに寄せた。
綾目が心から伊檻を好いているのは疑いようがなかったが、伊檻もまたもう取り返しがつかないくらい綾目に溺れているのを都湖は知っている。此度のかわいらしい痴話喧嘩の発端も元を辿れば結局、伊檻が悪いのだ。家の事情だったり配慮だったり、そういったものが積み重なった結果であることはわかるが、もう結婚して二年以上は経つのに訳もわからず距離を置かれて不安を感じる綾目の気持ちもよくわかる。都湖は手にした杯を男らしく、ぐいと呷った。
「じゃ、今度騙されたと思って実践してみなさいな。効果テキメンよ」
「……分かりました。やってみます」
綾目は重々しく頷いた。真面目な彼女は必ずこのアドバイスを実践する事だろう。感謝してよね、お兄サマ。
「話を聞いてもらえて、スッキリしました。ありがとうございます、都湖ちゃん。今日は付き合ってもらって……」
「いいのよ。アタシもお休みだし、こうして綾目と飲むのも初めてだしね」そう言って杯を軽く持ち上げれば、綾目も倣うように自分のグラスを持ち上げ、こつんとぶつけた。
「確かにはじめてです。あはは」
そう言いながら、ふにゃりと綾目が首を傾けて笑った。普段はあまり見ない笑い方に都湖は目を瞬かせる。
あ。これもうだいぶ出来あがっちゃってるわ。都湖は綾目が酒を飲む姿などほとんど見たことがなかったので彼女がどの程度飲めるのか分からなかったのだが、どうやら……そこまで強くはないらしい。というか今さっきまでは不安ごとのほうが多すぎて、理性が優位だったのかもしれない。悩みに解決法が見つかって安心したことで緊張の糸が切れたというか。
座卓に並べられた食事へ手を伸ばし、落花生の和物を食べている綾目の頭を撫でれば「んー?」と更に緩み切った子供のような笑顔が都湖に向けられた。淑やかで穏やかな微笑みを浮かべる綾目は分別をしっかりとわきまえている分、普段の年齢以上に大人びて見えて綺麗だったが、アルコールが入って無垢な素直さが全面に出ている綾目はなんというかこう、年相応にかわいらしい。こういう顔もできたのね、と都湖は思った。いや、昔の綾目はもっと、こんな風に笑っていたかもしれない、と思った。
唐突に都湖は思いついて、携帯を取り出す。
「ハァーイ、綾目ちゃんこっち向いて〜」
「ん……」
「ほら、ピース」
「あはは、ピース?」
都湖が人差し指と中指を立てて見せれば、まねるように同じ形で立てられた指先。それを頬の近くに寄せた、満面の笑顔。その姿がカシャリ、と携帯のフレームに収まった。
画面の中の綾目を満足そうに眺めた後、都湖はカチカチと携帯のボタンを操作すると「オッケー」と笑い、綾目を見る。
「それじゃ、今日はとことん女子会しましょ!」
「女子会、ってなにをするんですか?」
「決まってるでしょ〜! 恋バナよ。気になる人の話とか恋愛経験とか〜」
「ええと、都湖ちゃん……? わたし、これでも既婚者なのですが」
「んもう綾目。野暮な事は言いっこなしよ」
「でもわたし、お付き合いした人も好きになった人も伊檻さんが初めてで」
「あら、だったらこの際伊檻お兄サマの話でもいいわ。ね? アタシも後で話すから」
「それなら、伊檻さんと文通をしていた話を――――」
「綾目。大丈夫ですか……?」
「……ん。伊檻、さん……?」
部屋を見回し、真っ先に畳の上に横たわっていた綾目を見つけて、驚いて駆け寄った。しかし、覗き込んで見た表情は穏やかで、伊檻はホッと胸を撫で下ろす。顔が少し赤いが、本当にただ眠っていただけらしい。少し迷いながらも肩に手を添えて体を揺すって呼べば、綾目はうっすらと目を開けて、閉じた。伊檻は微睡みの中にいる彼女の上体を抱き起こして、顔にかかった前髪を払ってやろうとした。指先が僅かに額に触れ、思いのほか熱かった体温にまた驚いて発熱を心配する。
思わず、上気した頬へと手を添えれば「ん……」と綾目がまたくぐもった声を上げた。しなだれかかるように伊檻に体を預けている彼女が、また伊檻を朧げに見上げる。
「…………手、つめたくてきもちいい……」
「っ……」
伊檻は思わず固まる。上気した頬と濡れた瞳、唇からは甘えるような声色でたどたどしく扇状的な言葉が紡がれた。
「もっと、さわってください」
綾目が頬に添えられた手へと擦り寄る。思わず離しそうになった伊檻の手を閉じ込めるように、その手の上へ、滑らかな手のひらが重ねられた。
もっと、と求められて。重ねたまま、導かれるように、頬をすべって、細くあたたかな首まで手のひらが降りる。とくん、とくん、と規則的な脈拍が伝わる。純粋に酒に酔って火照った身体に触れた、冷たい体温が心地よいだけだと分かっていても、頭部に助走をつけて金槌を振り下ろされたかのような衝撃に伊檻は襲われていた。
手のひらの規則正しい脈拍とは、裏腹に早鐘のようにうるさい自分の心臓。素肌に広がる彼女の体温。薄らと微笑み、潤んだ瞳で自分を見つめる綾目の顔を、伊檻は見ていられなかった。
……助けてください、都湖。
スゥー……と息を吸い込み、伊檻は途方に暮れるように天井を見上げた。刺激が、強すぎる。以前一緒にお酒を飲んだ時も、酔ってはいたがここまでではなかった。これはまずい。非常に、まずい。焦る伊檻の内心を知らぬまま、綾目は熱に浮かされた頭で目を逸らされたことを不満に思ったらしい。私を見て、と請い願うように弱い力で胸元を引っ張った。思わず視線を戻した伊檻を見つめ、パッと服を手を放した綾目が嬉しそうに蕩けた笑顔を向けた。
「もー……。どこ見てるんですかー、伊檻さんのえっちー……」
ガァン、と脳天に振り下ろされていた金槌が今度は横にフルスイングされる。
「て、天井しか見てないです……」
どこでえっちなんて言葉を覚えてきたんですか……。そんな言葉を無理やり飲み込んで、伊檻は歯を食い縛るように耐えた。
結婚して2年半経つがこんな姿の綾目は許嫁だった期間と子供の頃に知り合ってからの期間、全てを総括したって見た事がない。理性を煮込んで葛藤する伊檻の内心など、やはり綾目はつゆ知らず。首元に添えられたままの伊檻の手は彼女の両手に包まれて、胸元へと抱え込まれる。大事なものを隠すような仕草で抱え込まれた手が、触れている。これは本当に、まずい状況だった。非常にまずい事態だった……。
もちろん知らない仲どころか綾目と自分は歴とした婚姻関係にある夫婦だが、とはいえ酔い潰れて理性を失っている彼女に流されてしまうのは何というか……、後ろめたさも酷い。今までずっと我慢してきたというのに……。こういうのはもっと、段階を踏んで……。キスくらいなら許されるだろうかと、唇へと惹き付けられる意識を慌てて追い払う。そんなことをしてしまえば、決してこのまま踏み止まれないと理性が言う。
努めて理性的に自分を立て直し、伊檻は抱き起こした身体を支える腕に力を込める。もうこのまま抱き上げて、早々に家に連れ帰ったほうがいいと思った。抱えるためには手を、離してもらわないと。
「早く、帰りましょうか。綾目」
「かえり、…………」
伊檻の言葉を繰り返す言葉が止まり、目が伏せられる。なんだか部が悪い、気がした。案の定、綾目はますます伊檻の手を閉じ込めるように胸へと抱き込む。
一心に向けられていたとろんと蕩けた瞳が揺れて、そのまま、ふいっ、と顔を背けられた。
「……や、です」
「えっ。えぇ〜……」
「わたしまだ、おこってるんですから」
綾目から怒っていると言われた伊檻は一瞬、何のことか本気でわからなかった。まず拒否された事に戸惑って数秒。それから固まったまま頭脳をフル回転させて、あ、今朝の……? とようやく思い出したくらいである。
そして、綾目は酒に酔っていても聡いところは鋭く聡かった。伊檻に伝わっていなかったことをすぐに見抜き、一瞬悲しそうな目で見上げる。「……まだ、わからないんですか……?」と呟いて、伊檻の方へと身体ごと擦り寄って胸に閉じ込めていた伊檻の手を取る。綾目はその手のひらに、口付けた。
ゆっくりと押し当てられる唇の柔らかな感触に、伊檻は固く目を瞑る。無意識に、綾目の肩を抱く手に力が籠った。
「……。綾目、待ってください。それ以上、俺を煽らないで」
そして伊檻はすぐさま、「――――都湖!」と声を張り上げた。
心の底から完全な黒星を喫し、全力で白旗を振った。急な大声に驚いて目を丸くしている綾目には申し訳ない気持ちもあったが、これ以上は本当に無理だった。
縁側を歩いてくる足音の後、スパンと小気味いい音を立てて開いた障子。
「……んもう、そんな大声出さなくても聞こえてるわよ。なに? どうしたの?」
仁王立ちで構える頼もしい都湖の姿を目にして、伊檻は本当に、心から安堵した。持つべきものはやはり頼れる弟。いやでも今後は出来れば二度と綾目と飲み会なんてしないで欲しいという気持ちはうっすら浮かぶが、現状では些事である。小さく息をついて、綾目を抱き起こす姿勢のまま都湖を見上げた伊檻は情けなく笑った。
「たすけてください。俺はもうダメです」
「ちょっとなぁに? この面白い状況……」
「綾目がその、怒って……? しまって、帰りたくないって言うんですよ」
「はぁ?」
早めにちゃんと話し合って解決させておいた方がいいな、と思った都湖の計らいで伊檻を呼び付け、部屋で待たせた綾目と二人きりにしたはずが……。長兄の情けない表情と言葉から見ても全く上手くいかなかったらしい。
普段はスマートに物事を解決できるくせに。ホント、この人、綾目を前にすると色々ダメね。ため息を噛み殺して、室内に入った都湖は伊檻が抱えている綾目を見る。都湖から見た限り、怒っているというよりは拗ねていじけているように映った。これも滅多にないことである。
「綾目がこんなに怒るなんて相当よ。いったい何したの? 伊檻お兄サマ」
「何をって何もー……」
本当に何もしてない。むしろ何かされているのは自分の方だ、と伊檻は思った。
あ。絶対コイツ何かしたわね、と都湖は思った。
月満伊檻は若くして月満家の当主となり、東京支部長も兼任している才覚ある有能な男だった。都湖は伊檻の職業人としての合理的かつ理性的に決断ができる点は高く評価していたし、幼い頃から共に育ってきた経験から……伊檻の、人の心の機微に対する感覚だけは全く当てにしていなかった。伊檻自身、その不得手に関しては自覚済みだからこそ兄が昔から何に対しても残酷すぎたり、不親切だったりしないように気をつけていることも知っているが、その結果が裏目に出ることは今までも時たまにあることだった。
困ったように腕の中の綾目に視線を向けている伊檻の後頭部を、腕組みしながら冷ややかに見下ろす都湖の頭に妙案が降りてくる。
「じゃあもうこのまま泊まったら?」
「えっ」
「ここ、アタシの友達の温泉宿なの。閑散期で部屋も空いてるって話だったし、丁度いいじゃない?」
呆然と口を半開きに、いやそれは、と声を上げかけた伊檻だったが、綾目が身じろぎをしたので言葉が止まる。酔いが少しずつ醒めてきたのかもしれない。
むくり、と綾目は伊檻の支えから抜け出すように自力で体を起こした。まだ表情も寝ぼけているようにはっきりとしない様子だったがぼーっとしたまま、都湖の方を見上げる。それを見て、都湖もまた座り込んだままの綾目に目線を合わせるようにその場に屈んだ。
「ん……。都湖ちゃん、帰っちゃうんですか……?」
「そ。女子会はまた今度仕切り直してやりましょ。今日はちゃんと言いたかったことも全部話してあげて、勘違いですれ違ったままなんてそんなのいやでしょ。ね、仲直りの方法も教えてあげたじゃない」
「……はい」こくりと素直に頷く。
「いい子ね」都湖はにっこりと笑った。そして一変、伊檻に対してはスッと冷えた視線を向ける。
「アタシの大事な友だち、泣かしたらいくら兄貴でも承知しないから」
しっかり釘を刺した上で都湖は「あ、布団はそこの襖。周りにはアタシがちゃんと言っとくからとっとと仲直りしなさいよね」とだけ言い捨てて颯爽と去っていく。伊檻が引き止める間もなく、ピシャリと障子が締め切られる。そうして、部屋には先ほどと同じように、二人きり――――……。
伊檻は少し迷った末に、その場に正座をして綾目の言葉を待つことにした。
彼女の言葉であれば何でも聞くし、願いがあれば何でも叶えるという心構えだけをして、ただ待った。距離で言えば、一歩ほど。手を伸ばせば届く距離。体を起こしたまま、俯いて畳の目へと視線を落としている彼女の表情は、分からなかった。都湖を呼んだことで身の内の不埒な劣情だけが収まったことだけを良かったと思いながら、依然漠然とした不安だけはある。
不意に綾目が「よしっ」と景気付けのように声を上げ、姿勢を正して伊檻に向き合った。伊檻は僅かに目を見開く。対面した彼女の目は先ほどとは違い、いつも通り聡明な色を取り戻している。そして、もっと近くに来てと伊檻を手招いた。呼ばれるまま、膝を擦るようにして距離を詰める。
「あのね、伊檻さん」
「はい?」
「もう少しだけ屈んでもらっても良いですか」
「……? はい」
言われるがまま正座のまま、上体をやや傾けた伊檻の首にぎゅっと綾目の両腕がまわった。抱きしめられていると……驚く暇もなく、柔らかな感触が気のせいのように一瞬、頬に押しつけられる。伊檻は思わず、「え……」と声を上げた。その感触は先ほど伊檻の手のひらに触れたものと、同じで。つまり今、綾目は、俺に。なぜ……? まだ、酔っているのだろうか……? 嬉しさと困惑が7:3という塩梅で伊檻はひたすら混乱していた。
その上、ぎゅーとダメ押しのように抱きしめられて、よく分からないけど自分も抱きしめておこうかなと伊檻が行き場のなかった腕を持ち上げかけたところで、綾目は伊檻の肩に手を置き、後腐れなく身体を離した。綾目の顔は赤かった。それは酒に酔ってのぼせたというより、もっと精神的なもので。端的にいうと恥ずかしそうにしていた。伊檻は戸惑いながらも不自然に持ち上げかけていた腕を再びその場にゆっくりと下ろす。
「伊檻さん。これじゃダメ……ですか?」
「え? 全然、ダメじゃないです」
反射的に伊檻は答えていた。
「なにがですか?」と、聞くべきだったと言ってから気付いた。行動の意図が全く分からない。しかし、悪意が一切ないことだけは分かる。綾目なりに勇気を出して、……何かをしたかったことだけは分かる。そして、彼女がもう怒っていないことも。
ともあれ、綾目は伊檻の言葉に心の底から安堵したらしい。良かった、というように息を吐いて嬉しそうに目尻を下げる彼女を伊檻は見つめていた。
「あの綾目さん、ところで今のは何の――――…… おはなしでしたっけ?」
「あ、ええと……。都湖ちゃんから。これで、仲直りできるって聞いたので。私、伊檻さんと仲直りがしたかったんです」
「……」
「……。……?」
「綾目」
「はい」
「俺も、綾目と仲直りがしたいです」
「あっ、はい……!」
「仲直りしましょう」
「はい。仲直りしましょう。これで仲直りできました、ね?」
「……。よければ今の、もう一回してもらえませんか?」
「えっ。それは……。 ちょっと、恥ずかしいです」
普通に断られた。
しかし伊檻は「そうですかー」と努めて自然に笑いながら我慢した。伊檻は生来、人一倍辛抱強かった。綾目に関することであれば、殊更に。
それから二人は気を取り直して、ちゃんと話をすることに決めた。結局都湖の勧めるまま、今日はここに泊まりましょうということになったので、諸々の身支度を整えて布団を敷いた。伊檻はすぐ傍で寄り添うように寝転がる綾目の話を寝物語のように聞きながら、日頃の行いを猛省することになった。綾目が何を感じて、思っていたのか。伊檻にとっては言われてみれば……という気付きが大半だったが、弁明するなら本当に、純粋に気を遣っただけのつもりだったのだ。
決して、子ども扱いしていたわけではなく。もうずっと、ずっと前から。綾目の事を、子どもとしてなんて見ていなかった。だからこう、言い訳をするならば……。
「俺はね、綾目。実は本当は、あなたが思っているよりずっと、欲深い男なんですよ」
「俺の欲を押し付けて、あなたに無理をさせたくなかったので。少しずつ、段階を踏んでいきたいとは思ってたんです」
「だから、それが結果的にあなたを傷付けてしまったのなら、……謝ります」
「……」
「あの、綾目……?」
あまりに返答がなかったので、もう眠ってしまったのだろうかと思った。もぞ、と体を動かして横向きに体を起こし、綾目を見る。彼女も仰向けに横たわったまま、伊檻を見返した。腹部の辺りで組み合わせていた両手を解いて、綾目は自身の顔を覆う。
「よかっ、たぁ……」
鼻と口を手で覆うようにして押さえた手の隙間から、そんな風にこもった声が溢れた。そのまま長い息を吐いて、眦は張り詰めていた緊張が解ける安堵を滲ませるように下がり切っている。伊檻は目を丸くする。
「私、伊檻さんに、避けられてるのかと思ってました……」
「いわゆる倦怠期、というやつなのかと」
「夫婦ですからそういうことも当然、いつかは自然に為るものだと思ってたけど伊檻さんが最近あまりに触れてくれないから。……というか、意図的に、避けていましたよね?」
「それは……、はい。その通りです。お恥ずかしながら俺も、自制に自信が持てなかったので」
「ああ、よかった。ほんとうに、そういうことだったんですね」
綾目はよかったと安堵の言葉を繰り返して微笑みながら、おもむろに伊檻の頬へ手を伸ばした。柔らかくあたたかな指先に労り、慰められているような気がした。その目が、何があってもどんな貴方でも受け入れますよ、と言っている。それが伊檻は時々、とても怖かった。目の前のひとが、あまりに澄んでみえるから。日頃の努力が災いして無意識に身を引こうとした伊檻を、引き留めるように「こわがらないで、大丈夫ですから」と綾目が声をかけた。
人が人のためにできることは、言葉を尽くして、心を尽くして、伝えることだけだ。
そうしなければ、何かを始めることすらできはしない。
「私だってもう大人なんですよ。お酒だって飲める年ですし、伊檻さんの妻で、ひとりの女です。だから、その……」
綾目はほんの一瞬、なんと言おうか迷った。もう勘違いですれ違わないように、ちゃんと相手に伝わる言葉を考えて。
自分の胸を片手でとん、と叩いて笑ってみせた。
「どんとこい、です」
伊檻はそれを、酷く眩しそうに眺めた。あまりに男前すぎて何も言えない。彼女の前では、自分はいつだって臆病になってしまう。やがて伊檻は脱力するように綾目に覆い被さって、ぎゅーっと全身で彼女を抱きしめた。ちゃんと彼女に伝わるだろうか、この、心臓の音が。もちろん潰してしまわないように配慮はしたが、それでももう、二人の間に寸分の隙間すらできないほど遠慮なく抱きしめた。遠慮しなくていいと、なによりの最愛がそう許してくれたので。
「ねえ綾目、月満の家を出て二人で一緒に暮らしませんか」
「……ん」眠そうな声で綾目が言う。
「……急、ですね……?」
「ずっと考えていたんです。本家は人の目も多いですし、気疲れも多いでしょう? 問題があっても俺がなんとかしますし、なにより俺がそうしてみたいんです。ダメですか?」
もう眠かったのだろう。綾目は答えなかったが、ただ伊檻の肩口に埋まった額を擦り付けるように力なく左右に動かした。それを同意と受け取って、伊檻は静かに笑みを溢す。母は特に残念がるだろうけど、事情を説明すれば反対はしないだろう。それ以外、大抵のことはどうとでもなる。
だから、今日はもうこのまま眠ってしまおうと思った。この人を抱きしめたまま、二つの体温を馴染ませて、一つのいきものみたいに眠りたい。
あるいは誰が言ったか、万年バカップル新婚夫婦なんていう呼び名もあった。
支部長である月満伊檻自体が外面もよく物腰の柔らかな男であるが、その妻である月満綾目もまた幼き頃から清廉潔白と名高く、正しく善性の煮凝りが服を着て歩いているような女であったため、許婚となり交際期間を経て結婚に至るまで二人が互いに意見の衝突――――所謂口喧嘩を起こしたことなどほとんどなかった。
しかし、ただの一度だけ、綾目が伊檻に怒って家を飛び出した事がある。原因に心当たりはあったが、それが発露したキッカケは本当に些細なことだったと思う。少なくとも伊檻にとってはあまり思い出せないくらいささやかなことだ。
「伊檻さんの――――…… ばか! わ、わからずや!」
その当時、二人は月満の本家で暮らしていた。仕事に赴く伊檻の見送りのため、戸口に立った綾目がなんやかんやで吐き出した精一杯の悪態が今の言葉である。
罵倒と呼ぶにはあまりにかわいらしい子どもの癇癪のような言葉だったので、伊檻は物珍しさの方が勝ってしまい、全く真剣に受け止めなかった。なぜなら何事かに怒っている綾目に対して伊檻が呆然と呟いた開口一番の一言が「……かわいい」だったのだから。
それが伝わったのだろう。綾目はくしゃりと顔を顰めてふい、と首を横に背けて言う。
「もう知りません。もう、か、勝手になさってください……!」
そう言ってスパンと音を立てて閉められた戸を呆然と見上げた伊檻は思った。怒る姿までかわいいなんてどうかしてると思いませんか、と。
この時、完全にどうかしてたのは伊檻の頭の方であった。暫くそのまま綾目の怒った顔を思い返して放心していたが、結局フォローもなしで仕事に向かった。
「…………。怒る姿までかわいいなんてどうかしてると思いませんか?」
「うるせえな。俺に話しかけるんじゃねえよ……」
「怒る姿までかわいいなんてどうかしてると思いませんか?」
「お前の頭がか?」
換気扇の回る音以外に静寂に満ちたオフィスで脈絡もなくそう呟いた伊檻の言葉に、持ち込んだ本を黙々と読んでいた塔間は眉間に深い皺を寄せた。罵倒のボキャブラリーが豊富な塔間は一を尋ねれば十を超えて余りある非常にかわいくない悪口を返してくる。しかしこの日ばかりはその火力も控えめだった。
何故なら明らかに関わらない方がいいと思うくらい、伊檻の頭がどうかしているのを理解していたからだ。
そうしてその日、綾目は家を飛び出した。……ちなみに飛び出したと言っても綾目は度を超えて律儀な女だったため、すぐに人伝で伊檻が心配しないようにと居場所を伝えたし、「頭を冷やしてきます。明日には戻るつもりです。」と早い段階で伊檻にメールを送ってきたため。実体で言えば遊びに出かけるのと殆ど変わらなかったのだが。
「もう綾目ったら、そんなに一気に煽ったら身体壊すわよ。あんまりお酒飲んだ事ないんでしょ?」
「うっ」
「ああ、ほらお水。ゆっくり飲んで」
思い切るようにぐいっと一気にアルコールを体の奥へと流し込む綾目を見て、月満都湖は大層驚いた。そして案の定と言うべきか、慣れない飲酒と一気飲みに口元を押さえてグラスを置く綾目の姿に、慌てて対面の席から立ち上がって側に座る。都湖が困ったような顔でお冷を差し出せば、綾目は恭しい手つきでそれを受け取った。
月満綾目は月満家の長男である月満伊檻の妻で、都湖にとっては義姉にあたる。しかし、都湖と綾目は同い年かつ、婚約者時代から綾目が十八歳になってすぐに月満に籍を入れる以前より仲が良かったため、義姉というよりは親しい友人、あるいは妹という関係に近かった。
座卓の上にあるお冷入りのグラスを両手で包むようにして持ち、その液面へと視線を落とす彼女は誰がどう見ても一目で凹んでいることがわかる。綾目が……はぁ、と物憂げにため息を溢して肩を落とした。それを見て、また都湖は内心もの凄く驚いた。
「うう、どうしましょう伊檻さんにあんなひどい事を言ってしまって……。もし怒ったり、もし悲しんだりしてたら……」
普段殆ど飲む事のないアルコールが強靭な自制心を崩しているのか、ぺそぺそと忍び泣くように綾目が呟いた。誰に伝えるでもなく、心の中から不意に落ちてきたような後悔と懺悔を聞きながら都湖は酒の肴を口に放り込む。
「んー、そうねぇ……」
言葉をぼやかす都湖の内心は「そこまで伊檻のメンタルは繊細な作りをしてないわよ。マ。伊檻なら綾目が心配すると分かった上で気にしてるフリくらいするでしょうけど」である。
しかし、今時珍しいほど純粋培養の人間で、こんなことに赤くなったり青くなったりしながらちびちびと酒を舐める可愛い義姉もとい大切な友人にわざわざそんな事は言わないけれど。この世の終わりを見たかのような悲壮感を漂わせて項垂れている女の子に、そんなこと気にしなくて全く無問題よ〜! 大丈夫だから安心して〜! などとは本心であっても軽率には言えない。
家で会った綾目があまりに暗い顔をしていたので食事に誘い、「もう、本当にどうしたのよ、綾目。らしくないわ。なにかやなことでもあった?」とすでにひととおり話は聞き出している。都湖は最初どう反応するべきかわからなかった。一言で言うと、痴話喧嘩もいいところである。最終的には都湖は実兄に腹を立てそうになったが、綾目の関心は伊檻に(本人基準で)ひどい悪態をついてしまった事に対する自己嫌悪が主であったため、あえて余計なことは言わず、こうして聞き役に徹していた。
……それにしても、ばかだの、わからずやだの、なんてかわいい言葉だろうか。そんな言葉を言われて真剣に怒ったり悲しんだりする大人はいない。現在進行形でめちゃくちゃに後悔している綾目でさえ、他人に同じことを言われたとしても朗らかに笑って流す程度の言葉だろう。冷静に考えればこんなものは問題にすらならない。
「こんな時どうやって仲直りしたらいいんでしょう……」
しかし、少なくとも綾目は至って真剣に悩んでいるのだ。
都湖が悩んでいた時は、綾目も同じだけ寄り添って辛抱強く話を聞いてくれたのだから。都湖が彼女の気持ちにはなるべく寄り添ってあげたいと思うのは当然であった。
……なので、都湖は即答した。
「そんなもの綾目が伊檻に抱きついてほっぺにチューするだけで終わるわよ」
「えっ!?」
驚きの声をあげ、綾目の肩がビクッと飛び上がる。本当に予想もしない言葉だったのだろう。目を見張って都湖の顔を凝視したのち、瞳がうろうろと戸惑うように行き来する姿からは動揺がありありと伝わってきた。アルコールのせいか、都湖の助言のせいか。ほんのり赤くなった頬で「ええ〜……」と声を絞り出す綾目を見ながら都湖は力強く頷いた。
「ほ、本当ですか……」
「どんな事でも丸く収まるわ」都湖は寸分の疑いもないと断言して、優しく微笑んでみせた。
「アタシの言うことが信じられない?」
「そ、そういうわけじゃないけど……余りに突拍子がなくて。ええ……、それで本当にどんな事でも丸く収まっちゃうんですか……?」
「収まっちゃうわ」
……ていうか収めるわ、伊檻は。そう考えながら、混乱してる綾目を脇目に、都湖は一瞬複雑そうに眉根をほんの僅かに寄せた。
綾目が心から伊檻を好いているのは疑いようがなかったが、伊檻もまたもう取り返しがつかないくらい綾目に溺れているのを都湖は知っている。此度のかわいらしい痴話喧嘩の発端も元を辿れば結局、伊檻が悪いのだ。家の事情だったり配慮だったり、そういったものが積み重なった結果であることはわかるが、もう結婚して二年以上は経つのに訳もわからず距離を置かれて不安を感じる綾目の気持ちもよくわかる。都湖は手にした杯を男らしく、ぐいと呷った。
「じゃ、今度騙されたと思って実践してみなさいな。効果テキメンよ」
「……分かりました。やってみます」
綾目は重々しく頷いた。真面目な彼女は必ずこのアドバイスを実践する事だろう。感謝してよね、お兄サマ。
「話を聞いてもらえて、スッキリしました。ありがとうございます、都湖ちゃん。今日は付き合ってもらって……」
「いいのよ。アタシもお休みだし、こうして綾目と飲むのも初めてだしね」そう言って杯を軽く持ち上げれば、綾目も倣うように自分のグラスを持ち上げ、こつんとぶつけた。
「確かにはじめてです。あはは」
そう言いながら、ふにゃりと綾目が首を傾けて笑った。普段はあまり見ない笑い方に都湖は目を瞬かせる。
あ。これもうだいぶ出来あがっちゃってるわ。都湖は綾目が酒を飲む姿などほとんど見たことがなかったので彼女がどの程度飲めるのか分からなかったのだが、どうやら……そこまで強くはないらしい。というか今さっきまでは不安ごとのほうが多すぎて、理性が優位だったのかもしれない。悩みに解決法が見つかって安心したことで緊張の糸が切れたというか。
座卓に並べられた食事へ手を伸ばし、落花生の和物を食べている綾目の頭を撫でれば「んー?」と更に緩み切った子供のような笑顔が都湖に向けられた。淑やかで穏やかな微笑みを浮かべる綾目は分別をしっかりとわきまえている分、普段の年齢以上に大人びて見えて綺麗だったが、アルコールが入って無垢な素直さが全面に出ている綾目はなんというかこう、年相応にかわいらしい。こういう顔もできたのね、と都湖は思った。いや、昔の綾目はもっと、こんな風に笑っていたかもしれない、と思った。
唐突に都湖は思いついて、携帯を取り出す。
「ハァーイ、綾目ちゃんこっち向いて〜」
「ん……」
「ほら、ピース」
「あはは、ピース?」
都湖が人差し指と中指を立てて見せれば、まねるように同じ形で立てられた指先。それを頬の近くに寄せた、満面の笑顔。その姿がカシャリ、と携帯のフレームに収まった。
画面の中の綾目を満足そうに眺めた後、都湖はカチカチと携帯のボタンを操作すると「オッケー」と笑い、綾目を見る。
「それじゃ、今日はとことん女子会しましょ!」
「女子会、ってなにをするんですか?」
「決まってるでしょ〜! 恋バナよ。気になる人の話とか恋愛経験とか〜」
「ええと、都湖ちゃん……? わたし、これでも既婚者なのですが」
「んもう綾目。野暮な事は言いっこなしよ」
「でもわたし、お付き合いした人も好きになった人も伊檻さんが初めてで」
「あら、だったらこの際伊檻お兄サマの話でもいいわ。ね? アタシも後で話すから」
「それなら、伊檻さんと文通をしていた話を――――」
「綾目。大丈夫ですか……?」
「……ん。伊檻、さん……?」
部屋を見回し、真っ先に畳の上に横たわっていた綾目を見つけて、驚いて駆け寄った。しかし、覗き込んで見た表情は穏やかで、伊檻はホッと胸を撫で下ろす。顔が少し赤いが、本当にただ眠っていただけらしい。少し迷いながらも肩に手を添えて体を揺すって呼べば、綾目はうっすらと目を開けて、閉じた。伊檻は微睡みの中にいる彼女の上体を抱き起こして、顔にかかった前髪を払ってやろうとした。指先が僅かに額に触れ、思いのほか熱かった体温にまた驚いて発熱を心配する。
思わず、上気した頬へと手を添えれば「ん……」と綾目がまたくぐもった声を上げた。しなだれかかるように伊檻に体を預けている彼女が、また伊檻を朧げに見上げる。
「…………手、つめたくてきもちいい……」
「っ……」
伊檻は思わず固まる。上気した頬と濡れた瞳、唇からは甘えるような声色でたどたどしく扇状的な言葉が紡がれた。
「もっと、さわってください」
綾目が頬に添えられた手へと擦り寄る。思わず離しそうになった伊檻の手を閉じ込めるように、その手の上へ、滑らかな手のひらが重ねられた。
もっと、と求められて。重ねたまま、導かれるように、頬をすべって、細くあたたかな首まで手のひらが降りる。とくん、とくん、と規則的な脈拍が伝わる。純粋に酒に酔って火照った身体に触れた、冷たい体温が心地よいだけだと分かっていても、頭部に助走をつけて金槌を振り下ろされたかのような衝撃に伊檻は襲われていた。
手のひらの規則正しい脈拍とは、裏腹に早鐘のようにうるさい自分の心臓。素肌に広がる彼女の体温。薄らと微笑み、潤んだ瞳で自分を見つめる綾目の顔を、伊檻は見ていられなかった。
……助けてください、都湖。
スゥー……と息を吸い込み、伊檻は途方に暮れるように天井を見上げた。刺激が、強すぎる。以前一緒にお酒を飲んだ時も、酔ってはいたがここまでではなかった。これはまずい。非常に、まずい。焦る伊檻の内心を知らぬまま、綾目は熱に浮かされた頭で目を逸らされたことを不満に思ったらしい。私を見て、と請い願うように弱い力で胸元を引っ張った。思わず視線を戻した伊檻を見つめ、パッと服を手を放した綾目が嬉しそうに蕩けた笑顔を向けた。
「もー……。どこ見てるんですかー、伊檻さんのえっちー……」
ガァン、と脳天に振り下ろされていた金槌が今度は横にフルスイングされる。
「て、天井しか見てないです……」
どこでえっちなんて言葉を覚えてきたんですか……。そんな言葉を無理やり飲み込んで、伊檻は歯を食い縛るように耐えた。
結婚して2年半経つがこんな姿の綾目は許嫁だった期間と子供の頃に知り合ってからの期間、全てを総括したって見た事がない。理性を煮込んで葛藤する伊檻の内心など、やはり綾目はつゆ知らず。首元に添えられたままの伊檻の手は彼女の両手に包まれて、胸元へと抱え込まれる。大事なものを隠すような仕草で抱え込まれた手が、触れている。これは本当に、まずい状況だった。非常にまずい事態だった……。
もちろん知らない仲どころか綾目と自分は歴とした婚姻関係にある夫婦だが、とはいえ酔い潰れて理性を失っている彼女に流されてしまうのは何というか……、後ろめたさも酷い。今までずっと我慢してきたというのに……。こういうのはもっと、段階を踏んで……。キスくらいなら許されるだろうかと、唇へと惹き付けられる意識を慌てて追い払う。そんなことをしてしまえば、決してこのまま踏み止まれないと理性が言う。
努めて理性的に自分を立て直し、伊檻は抱き起こした身体を支える腕に力を込める。もうこのまま抱き上げて、早々に家に連れ帰ったほうがいいと思った。抱えるためには手を、離してもらわないと。
「早く、帰りましょうか。綾目」
「かえり、…………」
伊檻の言葉を繰り返す言葉が止まり、目が伏せられる。なんだか部が悪い、気がした。案の定、綾目はますます伊檻の手を閉じ込めるように胸へと抱き込む。
一心に向けられていたとろんと蕩けた瞳が揺れて、そのまま、ふいっ、と顔を背けられた。
「……や、です」
「えっ。えぇ〜……」
「わたしまだ、おこってるんですから」
綾目から怒っていると言われた伊檻は一瞬、何のことか本気でわからなかった。まず拒否された事に戸惑って数秒。それから固まったまま頭脳をフル回転させて、あ、今朝の……? とようやく思い出したくらいである。
そして、綾目は酒に酔っていても聡いところは鋭く聡かった。伊檻に伝わっていなかったことをすぐに見抜き、一瞬悲しそうな目で見上げる。「……まだ、わからないんですか……?」と呟いて、伊檻の方へと身体ごと擦り寄って胸に閉じ込めていた伊檻の手を取る。綾目はその手のひらに、口付けた。
ゆっくりと押し当てられる唇の柔らかな感触に、伊檻は固く目を瞑る。無意識に、綾目の肩を抱く手に力が籠った。
「……。綾目、待ってください。それ以上、俺を煽らないで」
そして伊檻はすぐさま、「――――都湖!」と声を張り上げた。
心の底から完全な黒星を喫し、全力で白旗を振った。急な大声に驚いて目を丸くしている綾目には申し訳ない気持ちもあったが、これ以上は本当に無理だった。
縁側を歩いてくる足音の後、スパンと小気味いい音を立てて開いた障子。
「……んもう、そんな大声出さなくても聞こえてるわよ。なに? どうしたの?」
仁王立ちで構える頼もしい都湖の姿を目にして、伊檻は本当に、心から安堵した。持つべきものはやはり頼れる弟。いやでも今後は出来れば二度と綾目と飲み会なんてしないで欲しいという気持ちはうっすら浮かぶが、現状では些事である。小さく息をついて、綾目を抱き起こす姿勢のまま都湖を見上げた伊檻は情けなく笑った。
「たすけてください。俺はもうダメです」
「ちょっとなぁに? この面白い状況……」
「綾目がその、怒って……? しまって、帰りたくないって言うんですよ」
「はぁ?」
早めにちゃんと話し合って解決させておいた方がいいな、と思った都湖の計らいで伊檻を呼び付け、部屋で待たせた綾目と二人きりにしたはずが……。長兄の情けない表情と言葉から見ても全く上手くいかなかったらしい。
普段はスマートに物事を解決できるくせに。ホント、この人、綾目を前にすると色々ダメね。ため息を噛み殺して、室内に入った都湖は伊檻が抱えている綾目を見る。都湖から見た限り、怒っているというよりは拗ねていじけているように映った。これも滅多にないことである。
「綾目がこんなに怒るなんて相当よ。いったい何したの? 伊檻お兄サマ」
「何をって何もー……」
本当に何もしてない。むしろ何かされているのは自分の方だ、と伊檻は思った。
あ。絶対コイツ何かしたわね、と都湖は思った。
月満伊檻は若くして月満家の当主となり、東京支部長も兼任している才覚ある有能な男だった。都湖は伊檻の職業人としての合理的かつ理性的に決断ができる点は高く評価していたし、幼い頃から共に育ってきた経験から……伊檻の、人の心の機微に対する感覚だけは全く当てにしていなかった。伊檻自身、その不得手に関しては自覚済みだからこそ兄が昔から何に対しても残酷すぎたり、不親切だったりしないように気をつけていることも知っているが、その結果が裏目に出ることは今までも時たまにあることだった。
困ったように腕の中の綾目に視線を向けている伊檻の後頭部を、腕組みしながら冷ややかに見下ろす都湖の頭に妙案が降りてくる。
「じゃあもうこのまま泊まったら?」
「えっ」
「ここ、アタシの友達の温泉宿なの。閑散期で部屋も空いてるって話だったし、丁度いいじゃない?」
呆然と口を半開きに、いやそれは、と声を上げかけた伊檻だったが、綾目が身じろぎをしたので言葉が止まる。酔いが少しずつ醒めてきたのかもしれない。
むくり、と綾目は伊檻の支えから抜け出すように自力で体を起こした。まだ表情も寝ぼけているようにはっきりとしない様子だったがぼーっとしたまま、都湖の方を見上げる。それを見て、都湖もまた座り込んだままの綾目に目線を合わせるようにその場に屈んだ。
「ん……。都湖ちゃん、帰っちゃうんですか……?」
「そ。女子会はまた今度仕切り直してやりましょ。今日はちゃんと言いたかったことも全部話してあげて、勘違いですれ違ったままなんてそんなのいやでしょ。ね、仲直りの方法も教えてあげたじゃない」
「……はい」こくりと素直に頷く。
「いい子ね」都湖はにっこりと笑った。そして一変、伊檻に対してはスッと冷えた視線を向ける。
「アタシの大事な友だち、泣かしたらいくら兄貴でも承知しないから」
しっかり釘を刺した上で都湖は「あ、布団はそこの襖。周りにはアタシがちゃんと言っとくからとっとと仲直りしなさいよね」とだけ言い捨てて颯爽と去っていく。伊檻が引き止める間もなく、ピシャリと障子が締め切られる。そうして、部屋には先ほどと同じように、二人きり――――……。
伊檻は少し迷った末に、その場に正座をして綾目の言葉を待つことにした。
彼女の言葉であれば何でも聞くし、願いがあれば何でも叶えるという心構えだけをして、ただ待った。距離で言えば、一歩ほど。手を伸ばせば届く距離。体を起こしたまま、俯いて畳の目へと視線を落としている彼女の表情は、分からなかった。都湖を呼んだことで身の内の不埒な劣情だけが収まったことだけを良かったと思いながら、依然漠然とした不安だけはある。
不意に綾目が「よしっ」と景気付けのように声を上げ、姿勢を正して伊檻に向き合った。伊檻は僅かに目を見開く。対面した彼女の目は先ほどとは違い、いつも通り聡明な色を取り戻している。そして、もっと近くに来てと伊檻を手招いた。呼ばれるまま、膝を擦るようにして距離を詰める。
「あのね、伊檻さん」
「はい?」
「もう少しだけ屈んでもらっても良いですか」
「……? はい」
言われるがまま正座のまま、上体をやや傾けた伊檻の首にぎゅっと綾目の両腕がまわった。抱きしめられていると……驚く暇もなく、柔らかな感触が気のせいのように一瞬、頬に押しつけられる。伊檻は思わず、「え……」と声を上げた。その感触は先ほど伊檻の手のひらに触れたものと、同じで。つまり今、綾目は、俺に。なぜ……? まだ、酔っているのだろうか……? 嬉しさと困惑が7:3という塩梅で伊檻はひたすら混乱していた。
その上、ぎゅーとダメ押しのように抱きしめられて、よく分からないけど自分も抱きしめておこうかなと伊檻が行き場のなかった腕を持ち上げかけたところで、綾目は伊檻の肩に手を置き、後腐れなく身体を離した。綾目の顔は赤かった。それは酒に酔ってのぼせたというより、もっと精神的なもので。端的にいうと恥ずかしそうにしていた。伊檻は戸惑いながらも不自然に持ち上げかけていた腕を再びその場にゆっくりと下ろす。
「伊檻さん。これじゃダメ……ですか?」
「え? 全然、ダメじゃないです」
反射的に伊檻は答えていた。
「なにがですか?」と、聞くべきだったと言ってから気付いた。行動の意図が全く分からない。しかし、悪意が一切ないことだけは分かる。綾目なりに勇気を出して、……何かをしたかったことだけは分かる。そして、彼女がもう怒っていないことも。
ともあれ、綾目は伊檻の言葉に心の底から安堵したらしい。良かった、というように息を吐いて嬉しそうに目尻を下げる彼女を伊檻は見つめていた。
「あの綾目さん、ところで今のは何の――――…… おはなしでしたっけ?」
「あ、ええと……。都湖ちゃんから。これで、仲直りできるって聞いたので。私、伊檻さんと仲直りがしたかったんです」
「……」
「……。……?」
「綾目」
「はい」
「俺も、綾目と仲直りがしたいです」
「あっ、はい……!」
「仲直りしましょう」
「はい。仲直りしましょう。これで仲直りできました、ね?」
「……。よければ今の、もう一回してもらえませんか?」
「えっ。それは……。 ちょっと、恥ずかしいです」
普通に断られた。
しかし伊檻は「そうですかー」と努めて自然に笑いながら我慢した。伊檻は生来、人一倍辛抱強かった。綾目に関することであれば、殊更に。
それから二人は気を取り直して、ちゃんと話をすることに決めた。結局都湖の勧めるまま、今日はここに泊まりましょうということになったので、諸々の身支度を整えて布団を敷いた。伊檻はすぐ傍で寄り添うように寝転がる綾目の話を寝物語のように聞きながら、日頃の行いを猛省することになった。綾目が何を感じて、思っていたのか。伊檻にとっては言われてみれば……という気付きが大半だったが、弁明するなら本当に、純粋に気を遣っただけのつもりだったのだ。
決して、子ども扱いしていたわけではなく。もうずっと、ずっと前から。綾目の事を、子どもとしてなんて見ていなかった。だからこう、言い訳をするならば……。
「俺はね、綾目。実は本当は、あなたが思っているよりずっと、欲深い男なんですよ」
「俺の欲を押し付けて、あなたに無理をさせたくなかったので。少しずつ、段階を踏んでいきたいとは思ってたんです」
「だから、それが結果的にあなたを傷付けてしまったのなら、……謝ります」
「……」
「あの、綾目……?」
あまりに返答がなかったので、もう眠ってしまったのだろうかと思った。もぞ、と体を動かして横向きに体を起こし、綾目を見る。彼女も仰向けに横たわったまま、伊檻を見返した。腹部の辺りで組み合わせていた両手を解いて、綾目は自身の顔を覆う。
「よかっ、たぁ……」
鼻と口を手で覆うようにして押さえた手の隙間から、そんな風にこもった声が溢れた。そのまま長い息を吐いて、眦は張り詰めていた緊張が解ける安堵を滲ませるように下がり切っている。伊檻は目を丸くする。
「私、伊檻さんに、避けられてるのかと思ってました……」
「いわゆる倦怠期、というやつなのかと」
「夫婦ですからそういうことも当然、いつかは自然に為るものだと思ってたけど伊檻さんが最近あまりに触れてくれないから。……というか、意図的に、避けていましたよね?」
「それは……、はい。その通りです。お恥ずかしながら俺も、自制に自信が持てなかったので」
「ああ、よかった。ほんとうに、そういうことだったんですね」
綾目はよかったと安堵の言葉を繰り返して微笑みながら、おもむろに伊檻の頬へ手を伸ばした。柔らかくあたたかな指先に労り、慰められているような気がした。その目が、何があってもどんな貴方でも受け入れますよ、と言っている。それが伊檻は時々、とても怖かった。目の前のひとが、あまりに澄んでみえるから。日頃の努力が災いして無意識に身を引こうとした伊檻を、引き留めるように「こわがらないで、大丈夫ですから」と綾目が声をかけた。
人が人のためにできることは、言葉を尽くして、心を尽くして、伝えることだけだ。
そうしなければ、何かを始めることすらできはしない。
「私だってもう大人なんですよ。お酒だって飲める年ですし、伊檻さんの妻で、ひとりの女です。だから、その……」
綾目はほんの一瞬、なんと言おうか迷った。もう勘違いですれ違わないように、ちゃんと相手に伝わる言葉を考えて。
自分の胸を片手でとん、と叩いて笑ってみせた。
「どんとこい、です」
伊檻はそれを、酷く眩しそうに眺めた。あまりに男前すぎて何も言えない。彼女の前では、自分はいつだって臆病になってしまう。やがて伊檻は脱力するように綾目に覆い被さって、ぎゅーっと全身で彼女を抱きしめた。ちゃんと彼女に伝わるだろうか、この、心臓の音が。もちろん潰してしまわないように配慮はしたが、それでももう、二人の間に寸分の隙間すらできないほど遠慮なく抱きしめた。遠慮しなくていいと、なによりの最愛がそう許してくれたので。
「ねえ綾目、月満の家を出て二人で一緒に暮らしませんか」
「……ん」眠そうな声で綾目が言う。
「……急、ですね……?」
「ずっと考えていたんです。本家は人の目も多いですし、気疲れも多いでしょう? 問題があっても俺がなんとかしますし、なにより俺がそうしてみたいんです。ダメですか?」
もう眠かったのだろう。綾目は答えなかったが、ただ伊檻の肩口に埋まった額を擦り付けるように力なく左右に動かした。それを同意と受け取って、伊檻は静かに笑みを溢す。母は特に残念がるだろうけど、事情を説明すれば反対はしないだろう。それ以外、大抵のことはどうとでもなる。
だから、今日はもうこのまま眠ってしまおうと思った。この人を抱きしめたまま、二つの体温を馴染ませて、一つのいきものみたいに眠りたい。
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