祈りの幕が降りるまでに
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有栖院御門という男がいた。男は優秀な両親のもと、有栖院という良い血筋の家柄に生まれ、恵まれた環境で育った。順当に成長し有栖院家当主の座を継いだ彼は商才にも恵まれており、交易や交流に時間を費やして一代でさらに財を築き上げた。加えて、美しく優秀な妻と二人の賢い息子を持つ完璧な父親だった――
ほんの、数日前までは。御門はたった一日にして、妻と息子の二人を失った。
元々仕事で多忙な身ではあったが、この数日は特に慌ただしく過ごすことになった。寝不足や疲れを訴えるような頭の痛みを抑えるように目頭に指を当て、強く押し込む。妻の葬儀を終えても、まだまだ検討・対応処理すべき事案が山ほどあった。まともな休息の時間など取れようはずもない。
今日が終わっても、明日が終わっても、きっとその先も、安息などもう二度と自分には訪れないのだろうと思った。それでも、どんな苦悩を背負ってでも全てを投げ出して逃げる事だけは絶対にできなかったのだ。
それこそがきっと、喪った彼女への懺悔であり罪滅ぼしになるはずだと有栖院御門は考えていたからだった。
応接室に座り、書類を確認していた御門は扉を控えめにノックする音に顔を上げる。手早く報告書を集めて脇に避け、簡潔に許可を告げれば、「失礼します」と淡々とした声色で断りを入れながら女が一人、部屋の中へと足を踏み入れた。有栖院家の使用人へと支給されるメイド服に身を包んだ女・美奈子である。
彼女はティーセットを載せた盆を抱えていた。そつがない所作でポットに手を添え、丁寧に茶を注がれたティーカップが音もなく御門の前に置かれる。甘やかな香りが緩やかに部屋に広がった。それに礼を言い、そのまま対面に座るように促せば、美奈子は言われるまま控えめな動作で席に着く。
――さて、何から話すべきか、と御門は迷った。尋ねるべきことがあって彼女を此処へ呼び付けたのは自分だったが、それでも直接的に本題へと入るのは憚られる。御門にとって『美奈子』とはかねてより扱いが難しい問題の一つだった。
「君とこうして顔を合わせて話すのは久しぶりだ。……もう、五年以上は前になるかな」
「はい」
淡々とよく通る声で反応を返した美奈子を見る。威圧的な印象を与えないようにと努めて柔和に取り繕って微笑んだ御門の気遣いを一切気にする必要がないと判じているように、その表情には一切の変化がなかった。同調というより、ただ単にその言葉が事実であるから同意を示した、というような印象である。
美奈子が有栖院家で働くようになってから五年以上――正確には七年ほど経つが、御門が彼女と個人的な会話を交わした事は殆どない。しかし、たったこれだけのやり取りで御門は七年前のある日を不意に思い出した。
彼女を有栖院家に連れてきたのは、姫莉子だ。妻が嫉妬の吸血鬼との契約し、自分の浮気相手であった立波歩風を殺してしまったあの日。御園を抱え、姫莉子に寄り添うようにして有栖院家の門をくぐった女が美奈子だった。姫莉子は彼女を専属の使用人として傍に置くことを望んだ。彼女もまた、それを望んだ。今この時と同じように、淡々と御門を見つめ、毅然と言葉を返しながら。
姫莉子と美奈子の両者間でどういうやり取りがあって、そうなったのか。依然として、御門は詳しい事情を知らない。
彼が知る事実は、不義の子を抱えて有栖院を一人去ることになった歩風が頼った友人が、『美奈子』という名の女であったということだけだ。――歩風の親友であったはずの彼女がなぜ、姫莉子に仕える事を望むのか。当然のように疑問を持ったが、当時は問いただせるような状況でもなかった。
御門に出来たことは残された子供である御園と彼女の親友であったという美奈子を有栖院家に受け入れ、妻である姫莉子が犯してしまった罪を覆い隠し、その全てに箝口令を敷くことだけだった。……その疑問には五年以上の年月が過ぎた今でも答えが出ないでいる。
「あっという間に、いなくなってしまった。姫莉子も、御国も――」
そんな事を考えていたからだろうか。無意識のまま言いかけて、口から溢れていた失言に気付いた御門はそこで言葉を打ち切った。この話を続けるのは憚られるとばかりに、開きかけた口を一度閉ざして、視線を逸らす。
それにも、美奈子は一切、反応を示さなかった。同調も慰めもなく、ただ静かに黙したまま、そうあるように誂えられた人形のように姿勢を正して座っていた。だから――というわけではないが、それにより御門は自身の動揺を落ち着ける時間を得ることができた。
御門は懐から白い封筒を取り出す。それを美奈子に確認させるように掲げれば、彼女の視線が封筒へと移り、止まり、また御門へと戻る。その封筒に収められていたのは所謂、退職願だ。彼女を呼び出したのは、これが本題だった。
「これをやまねから預かったんだが、君も此処を出ていく気なのか」
「ええ、そのつもりです」
「……君は長年、妻によく尽くしてくれた。無論、退職金は十分に渡すつもりだが……。不躾な事を聞くが、此処を出た後で行く当てがあるのかを尋ねたくてね」
「ご存知かと思いますが、元より身寄りのないですので――特に当てがあるわけではありません」
「姫莉子が――、君が彼女の生家へ移るための紹介状を書いていたと聞いたが……」
「仰るとおりです。ですがその件は既に丁重に辞退させて頂きました」
「それならば、なぜ……」
そんな問答を繰り返しても、美奈子の目は依然一切の動揺を見せない。まるで、本当に人形を相手にしているような薄寒さを御門は覚えた。
「有栖院家に留まる理由も既に無くなりましたので」
至極当然であると言わんばかりに躊躇なく言い切られた言葉を聞いて、御門は組んでいた手指を固く握り込む。
大方、予想通りの返答だった。美奈子は元々、姫莉子に連れられて有栖院家に来たのだから、姫莉子が亡くなった今の有栖院に残る理由の方がないのだ。彼女が姫莉子ではなく残された親友の子供のために、有栖院に留まっていた可能性――御門にとって都合の良い考えは呆気なく否定されたような気がした。
「大丈夫ですか。ご当主様」
「ああ、いや。すまない……。そう、だろうな」
御門は元々仕事で多忙を極め、家を空けがちだった。近頃よく体調を崩して静養しているとは聞いていたが、事が起きるまで妻の精神状態の悪化にも気付けなかったくらいだ。嫉妬との契約により起きたあの事件以降、日に日に心身を病んで衰弱していっていた姫莉子を、美奈子が日々献身的に支えていたのだと……やまねを始めとする他の使用人たちから聞き及んだ御門は、彼女の処遇に悩んでいた。
美奈子は元々有栖院とは縁も所縁もないはずの部外者だったが、有栖院家に起きた惨劇の真実も、それらが起こり得た理由も、全てを知りすぎている。彼女は一見すると人好きする人柄ではないが、その一方、真面目な仕事ぶりや口の硬さが相まって周囲からも高い評価を得ていた。
しかしそれでも、彼女を目の届かないところに置くことは危険だと思った。彼女が知りうる全てを秘匿すると誓ったとしても、この庭の安全を脅かす可能性は変わらない。彼女には目があり、口があり、足がある。いつ心変わりするとも知れない不穏分子であることに変わりはないのだ。
……できればこのまま、彼女を有栖院に引き留めておきたいという思惑が御門にはあった。目下の問題は、彼女を引き止めるための手札がないことだ。
沈黙していた美奈子が静かに口を開いた。
「一つお聞きしてもよろしいですか?」
「……ああ、もちろん。私に答えられることであれば」
「御園坊ちゃんの事はどうなさるおつもりで」
「……すまないが、質問の意図がよく分からない。御園のことはこれまで通り、変わらずこの家で守り育てていくつもりだが――」
御門は当然そのように答えた。
「……。失礼しました。聞き方を間違えてしまったようです」美奈子は静かに目を伏せ、腿の上で重ねた手の平を重ね直して続ける。
「私がお聞きしたかったのは御園坊ちゃんの状態についてです。あの夜、酷くショックを受けられたと聞いたので」
「ああ、その件か。御園はあの夜、御国が姫莉子を殺すところを見たと……」
――だが、それはあり得ない話だと御門にも分かっていた。
御門が使用人の呼びかけによって飛び起き、息を切らして現場にたどり着いた時、妻は既に絶命し、騒ぎを聞いて駆けつけた数人の使用人の他に――色欲の吸血鬼にしがみ付くようにして泣く御園の姿があった。御園と妻、そして御国に何があったかはわからない。しかし、現場と遺体の状況を見れば、見分による判断は可能だ。
自身の血溜まりに沈むように倒れ伏した姫莉子の亡骸。すぐ近くに落とされた刃物。姫莉子は胸を撃たれて即死していた、それ以外の外傷はなかった。契約下にあったサーヴァンプが主人を裏切り、手にかけた事例はこれまでもある。少なくとも姫莉子が死ぬ直前までは彼女と契約下にあったはずの嫉妬の蛇が主人である彼女を殺したのは間違いない。
苦々しい表情を浮かべ、御門は呟くように告げた。
「殺したのは、嫉妬の吸血鬼だ。いや、そうでなくとも……御国が姫莉子を殺すなんて、やはりあり得ない」
「……だから、強盗が入ったということにしたのですか?」
「…………」
美奈子の言葉に御門はまた沈黙する。あの夜の悲劇は今のところ、有栖院家に侵入した強盗によって起こったことになっていた。
「それで今後のことはどうなさるおつもりです。真実がどうあれ、一番重要なのは御園がその場面を見たと証言したことではありませんか」
「……その通りだ。それはおそらく――嫉妬の吸血鬼がかけた暗示によるものだろう。その暗示を解くことが、今は出来ない。だからその上に、さらに別の幻術をかけて御国が家を出た理由を曖昧にするつもりでいる」
今となってはただ一人、この家に残った美しい吸血鬼の真祖は「人の『憎い』『怖い』という感情は消しにくい……。ただ『どうして』、『何があって』そう感じたのかは忘れていくものです」と御門に言った。母親を兄が殺すところを目撃したという暗示を、上から幻術をかけて、曖昧にする事ならできる――、と。
出生の真実を知らない御園にとって、姫莉子の死とは母親の死だ。――ではなぜ、姫莉子は死んだのか。なぜ、御国が家を出たのか。そういう疑問や理由を突き詰めていくと結局のところ、不都合な原因に辿り着いてしまう。この理由を全て御国に押し付けて、姫莉子は被害者、御国を加害者であるとしてしまう方が、色々と都合がいい。
……自分に似ず聡明で、才能に溢れ、人を見透かすような目をしたあの息子はきっとそれを分かっていて、この家を出て行ったのだろう――分かっていた。分かっていてなお、御門には受け入れられなかった。
――しかし、結局のところ、御国の存在をこの家から消してしまうことこそが御園を守る最良の選択になり得てしまう。
「そんな事も可能なのですか」
美奈子は葛藤する御門の胸中など知る由もないと言うような淡白な声色で言った。しかし、ほんの僅かに首を傾けながら驚いているようでもあった。
有栖院家という場所では吸血鬼と人が共存しているという事実を既に知る彼女でも、『吸血鬼』に対してそれ以上の知識や理解がないことに御門は思い当たる。何事にも動じない姿を見せるので忘れがちだが、有栖院家で働く他の使用人たちと同様、彼女は普通の人間なのだ。
「色欲の吸血鬼の力を使えば――可能だ。御国が家を出た理由を知ってしまえば、何故、姫莉子が死んだのかを知ってしまえば、御園はいずれ事実を知ってしまう」
「あの子は、御園は何も悪くない。あの子が真実を知って、自分さえ生まれてこなければ……、そんな風に感じてしまうことだけは絶対に避けなくてはならない」
「だから私は――。せめて、御園が大人になるまではあの日の記憶を封じ、この家における御国の存在をなかったことにする、つもりだ……」
御門の口からは次々と堰を切ったように言葉が続いた。それはまるで、罪の告白をしているようでもあった。自分がとんでもないことを言っている自覚が御門にはあった。
この家にいる真祖は色欲だけ。この家の子どもは御園だけ。全ては御園のために、あの子の記憶を吸血鬼の力で捻じ曲げた上に、兄の存在さえもこの家から抹消してしまおうというのだ。――これが罪でなくて、なんだというのだろう。
この数日間ずっと悩み続けていた今後の話を、御門は今、初めて誰かに話している。御門が言葉を止めるまで、美奈子は一切口を挟まなかった。
「…………なるほど、そのようにお考えなのですね」
彼女はただ静かに目を伏せて、言った。それ以上でもそれ以下でもなかった。
「それで、この私には何をお望みなのでしょう」
「……君にはこのまま、有栖院家に留まって貰いたい」
美奈子が小さく息を吐いた。そして、彼女の視線が、ついと窓の方へと流れる。
……おそらく私は、この選択を誰かに間違っていないと肯定して欲しかったのだろう。御門がいつの日か、この日を思い直した時にはそう考えた。だがそれが、途方もなく愚かな望みであったことを、この時の御門はまだ知らなかったのだ。彼女は決して、『有栖院御門』の共犯者にはなり得ない女性だったのだから……。
彼女が黙した時間はそう長くはなかったと思う。ただ、言葉を待つ御門にとっては酷く背の冷える長い時間だったように感じた。窓の方を見つめたまま、美奈子は薄く口を開いた。
「東館は閉鎖されると聞きました」
「……ああ、そのつもりだ。御園の部屋は西館に移して、東館は封鎖する。東館には御国の部屋もあるし、何より――」
東館は姫莉子が死んだ場所だから。続かない言葉の先を察しているように、美奈子が視線を御門へと戻した。
「でしたら――僭越ながら私が東館の管理を行なってもよろしいでしょうか。封鎖して放置という形では建物も傷んでしまいますので」
「だが、東館は君が一人で管理するには広すぎるだろう」
「仰るとおりです。……しかし、私が有栖院に留まるとしても本館で働いていては御園との距離が近すぎるのではないかと懸念しております。先ほどのお話、吸血鬼の暗示や幻術――というものは私には理解しかねますが、あの事件の記憶から御園を遠ざけたいのであれば、なおのこと。『私』は隔離されるべきです」
淡々と、彼女は言った。
「そうでなければ、あえて私をここに留める意味がありません」
「……?」
「知りすぎている私を有栖院の外に出した後で、貴方は内々に処理すべきでした。それが全てを隠し、より確実にあの子を守れる。最もシンプルな方法であったはず」
「何を、言って――っ」
言葉を詰まらせた御門に対し、美奈子は微笑みを向けた。残酷な事を口にする時、彼女はより一層美しく微笑むのだと御門はこの時、初めて知った。
彼女は自分を殺せばよかったのに、と言ったのだ。御門が彼女に対して懸念する問題を全て理解した上で、それを解消する最も合理的な方法を念頭に沿う意思を初めから見せていたのだと、御門はこの時ようやく思い至った。
いくら、美奈子が有栖院家に起きた惨劇の真実も、それらが起こり得た理由も、全てを知りすぎているとはいえそんな事――考えたこともなかった。だが、言われてみるとそれが一番確実な方法だと気付く。まさか『そのつもり』で職を退き、有栖院を出ていくと言っていたなんて――。
御門は動揺し、思わず立ち上がった。顔には恐れと驚愕の表情を浮かべ、対面に座る一人の女を見下ろす。
「まさか……。そんなこと、できるはずがないだろう……!」
「何故? 吸血鬼を使えば、証拠も残らないのでしょう。――――……歩風が死んだ時もそうでした」
天涯孤独の女がひとり、消えたところで誰も困りはしない。消えたことにすら気付く人間は一握りで、その人たちの記憶から消える日も遠くはない。残されたひとりの子供が心穏やかに生きていくためのこの先の時間に比べれば――安い代価だろう。
美奈子は姿勢を崩さないまま、顎だけを持ち上げるように対面の御門を見上げて言った。
「――貴方には、できませんよね」
その目は、軽蔑に似ていた。いつか息子に罪を告白した時に向けられた瞳とよく、似ていた。取り乱すでもなく、怒るでもなく、淡々と。あるいは諦めにも似た目があまりに純粋な色をもって御門を見つめる。
自分の生死すら結果へと織り込む様な正論に言葉を失う御門は、力を失うように椅子へと深く腰を落とした。目の前に座る彼女の顔はもう見ることが出来ない。項垂れる御門をまるで慰めるような穏やかな声色でかけられた言葉の意味すら、御門にはもう理解できなかった。
「私は奥様の――姫莉子さんのそういうところを愛していたんです」
「……君の考えていることが、私には分からない」
「そうでしょうね、……貴方はただの人間ですから」
人が人を理解できるだなんて傲慢だ、と言うような重厚な響きで齎された言葉の後、話は終わったとばかりに美奈子は静かに立ち上がった。
「その退職願は破棄してください。ご希望通り、私はこのまま有栖院家に留まります」
目の前から彼女が去っていく気配だけを感じながら、御門は頭痛を抑えこむように頭を抱える。しかし、退室を示す扉の音が聞こえる前に思い出したとばかりに「ああ」という呟きが御門にかけられた。
「――月に何度かの外出はお許しいただけますか?」
「…………どこへ?」
「教会です。習慣ですからこれまで通り、礼拝や慈善活動に参加したいのです。必要であれば見張りでも何でもお好きにつけていただいて構いません」
「そうか、……好きにしなさい。東館の事も、希望通り君に任せる」
「ありがとうございます。もし、この後心変わりされることがあれば、それもいいでしょう。貴方はどうか、残されたご子息の事だけをお考えください」
「…………そのつもりだ。君に、言われるまでもなく」
「安心しました。……なるべく目に触れないように尽力致します。貴方にも、御園坊ちゃんにも」
今度こそ、扉が開き、閉まる音がして――御門は仰向けに倒れ込むようにぐったりと背もたれに身体を預けた。
何が、いけなかったのだろう。いいや、原因ははっきりしていた。吸血鬼など関係ない。自分だ。全て、自分のせいだった。
自らの愚かな行いが全ての惨劇を起こしてしまったのだと、そんなことはとうに、分かっていたのだ。御園を愛し慈しむことで……もう、許された気になっていた。それは全て、大きな勘違いだったのだ。本当に許しを請うべき相手すら、もう誰ひとりこの世に残らず、自分を置いていってしまった。
御国は嫉妬の吸血鬼と共に姿を消し、もう帰ってはこないだろう。ならば、もう迷ってはいけない。全てを、隠さなくてはいけない。有栖院に残ったのはたった一人の家族だけ。秘密を守るために。御園を、守るために。
……御門の前に淹れられていた紅茶は既に香りも立ち消え、冷え切って、その後、一度も口を付けられることがなかった。
ほんの、数日前までは。御門はたった一日にして、妻と息子の二人を失った。
元々仕事で多忙な身ではあったが、この数日は特に慌ただしく過ごすことになった。寝不足や疲れを訴えるような頭の痛みを抑えるように目頭に指を当て、強く押し込む。妻の葬儀を終えても、まだまだ検討・対応処理すべき事案が山ほどあった。まともな休息の時間など取れようはずもない。
今日が終わっても、明日が終わっても、きっとその先も、安息などもう二度と自分には訪れないのだろうと思った。それでも、どんな苦悩を背負ってでも全てを投げ出して逃げる事だけは絶対にできなかったのだ。
それこそがきっと、喪った彼女への懺悔であり罪滅ぼしになるはずだと有栖院御門は考えていたからだった。
応接室に座り、書類を確認していた御門は扉を控えめにノックする音に顔を上げる。手早く報告書を集めて脇に避け、簡潔に許可を告げれば、「失礼します」と淡々とした声色で断りを入れながら女が一人、部屋の中へと足を踏み入れた。有栖院家の使用人へと支給されるメイド服に身を包んだ女・美奈子である。
彼女はティーセットを載せた盆を抱えていた。そつがない所作でポットに手を添え、丁寧に茶を注がれたティーカップが音もなく御門の前に置かれる。甘やかな香りが緩やかに部屋に広がった。それに礼を言い、そのまま対面に座るように促せば、美奈子は言われるまま控えめな動作で席に着く。
――さて、何から話すべきか、と御門は迷った。尋ねるべきことがあって彼女を此処へ呼び付けたのは自分だったが、それでも直接的に本題へと入るのは憚られる。御門にとって『美奈子』とはかねてより扱いが難しい問題の一つだった。
「君とこうして顔を合わせて話すのは久しぶりだ。……もう、五年以上は前になるかな」
「はい」
淡々とよく通る声で反応を返した美奈子を見る。威圧的な印象を与えないようにと努めて柔和に取り繕って微笑んだ御門の気遣いを一切気にする必要がないと判じているように、その表情には一切の変化がなかった。同調というより、ただ単にその言葉が事実であるから同意を示した、というような印象である。
美奈子が有栖院家で働くようになってから五年以上――正確には七年ほど経つが、御門が彼女と個人的な会話を交わした事は殆どない。しかし、たったこれだけのやり取りで御門は七年前のある日を不意に思い出した。
彼女を有栖院家に連れてきたのは、姫莉子だ。妻が嫉妬の吸血鬼との契約し、自分の浮気相手であった立波歩風を殺してしまったあの日。御園を抱え、姫莉子に寄り添うようにして有栖院家の門をくぐった女が美奈子だった。姫莉子は彼女を専属の使用人として傍に置くことを望んだ。彼女もまた、それを望んだ。今この時と同じように、淡々と御門を見つめ、毅然と言葉を返しながら。
姫莉子と美奈子の両者間でどういうやり取りがあって、そうなったのか。依然として、御門は詳しい事情を知らない。
彼が知る事実は、不義の子を抱えて有栖院を一人去ることになった歩風が頼った友人が、『美奈子』という名の女であったということだけだ。――歩風の親友であったはずの彼女がなぜ、姫莉子に仕える事を望むのか。当然のように疑問を持ったが、当時は問いただせるような状況でもなかった。
御門に出来たことは残された子供である御園と彼女の親友であったという美奈子を有栖院家に受け入れ、妻である姫莉子が犯してしまった罪を覆い隠し、その全てに箝口令を敷くことだけだった。……その疑問には五年以上の年月が過ぎた今でも答えが出ないでいる。
「あっという間に、いなくなってしまった。姫莉子も、御国も――」
そんな事を考えていたからだろうか。無意識のまま言いかけて、口から溢れていた失言に気付いた御門はそこで言葉を打ち切った。この話を続けるのは憚られるとばかりに、開きかけた口を一度閉ざして、視線を逸らす。
それにも、美奈子は一切、反応を示さなかった。同調も慰めもなく、ただ静かに黙したまま、そうあるように誂えられた人形のように姿勢を正して座っていた。だから――というわけではないが、それにより御門は自身の動揺を落ち着ける時間を得ることができた。
御門は懐から白い封筒を取り出す。それを美奈子に確認させるように掲げれば、彼女の視線が封筒へと移り、止まり、また御門へと戻る。その封筒に収められていたのは所謂、退職願だ。彼女を呼び出したのは、これが本題だった。
「これをやまねから預かったんだが、君も此処を出ていく気なのか」
「ええ、そのつもりです」
「……君は長年、妻によく尽くしてくれた。無論、退職金は十分に渡すつもりだが……。不躾な事を聞くが、此処を出た後で行く当てがあるのかを尋ねたくてね」
「ご存知かと思いますが、元より身寄りのないですので――特に当てがあるわけではありません」
「姫莉子が――、君が彼女の生家へ移るための紹介状を書いていたと聞いたが……」
「仰るとおりです。ですがその件は既に丁重に辞退させて頂きました」
「それならば、なぜ……」
そんな問答を繰り返しても、美奈子の目は依然一切の動揺を見せない。まるで、本当に人形を相手にしているような薄寒さを御門は覚えた。
「有栖院家に留まる理由も既に無くなりましたので」
至極当然であると言わんばかりに躊躇なく言い切られた言葉を聞いて、御門は組んでいた手指を固く握り込む。
大方、予想通りの返答だった。美奈子は元々、姫莉子に連れられて有栖院家に来たのだから、姫莉子が亡くなった今の有栖院に残る理由の方がないのだ。彼女が姫莉子ではなく残された親友の子供のために、有栖院に留まっていた可能性――御門にとって都合の良い考えは呆気なく否定されたような気がした。
「大丈夫ですか。ご当主様」
「ああ、いや。すまない……。そう、だろうな」
御門は元々仕事で多忙を極め、家を空けがちだった。近頃よく体調を崩して静養しているとは聞いていたが、事が起きるまで妻の精神状態の悪化にも気付けなかったくらいだ。嫉妬との契約により起きたあの事件以降、日に日に心身を病んで衰弱していっていた姫莉子を、美奈子が日々献身的に支えていたのだと……やまねを始めとする他の使用人たちから聞き及んだ御門は、彼女の処遇に悩んでいた。
美奈子は元々有栖院とは縁も所縁もないはずの部外者だったが、有栖院家に起きた惨劇の真実も、それらが起こり得た理由も、全てを知りすぎている。彼女は一見すると人好きする人柄ではないが、その一方、真面目な仕事ぶりや口の硬さが相まって周囲からも高い評価を得ていた。
しかしそれでも、彼女を目の届かないところに置くことは危険だと思った。彼女が知りうる全てを秘匿すると誓ったとしても、この庭の安全を脅かす可能性は変わらない。彼女には目があり、口があり、足がある。いつ心変わりするとも知れない不穏分子であることに変わりはないのだ。
……できればこのまま、彼女を有栖院に引き留めておきたいという思惑が御門にはあった。目下の問題は、彼女を引き止めるための手札がないことだ。
沈黙していた美奈子が静かに口を開いた。
「一つお聞きしてもよろしいですか?」
「……ああ、もちろん。私に答えられることであれば」
「御園坊ちゃんの事はどうなさるおつもりで」
「……すまないが、質問の意図がよく分からない。御園のことはこれまで通り、変わらずこの家で守り育てていくつもりだが――」
御門は当然そのように答えた。
「……。失礼しました。聞き方を間違えてしまったようです」美奈子は静かに目を伏せ、腿の上で重ねた手の平を重ね直して続ける。
「私がお聞きしたかったのは御園坊ちゃんの状態についてです。あの夜、酷くショックを受けられたと聞いたので」
「ああ、その件か。御園はあの夜、御国が姫莉子を殺すところを見たと……」
――だが、それはあり得ない話だと御門にも分かっていた。
御門が使用人の呼びかけによって飛び起き、息を切らして現場にたどり着いた時、妻は既に絶命し、騒ぎを聞いて駆けつけた数人の使用人の他に――色欲の吸血鬼にしがみ付くようにして泣く御園の姿があった。御園と妻、そして御国に何があったかはわからない。しかし、現場と遺体の状況を見れば、見分による判断は可能だ。
自身の血溜まりに沈むように倒れ伏した姫莉子の亡骸。すぐ近くに落とされた刃物。姫莉子は胸を撃たれて即死していた、それ以外の外傷はなかった。契約下にあったサーヴァンプが主人を裏切り、手にかけた事例はこれまでもある。少なくとも姫莉子が死ぬ直前までは彼女と契約下にあったはずの嫉妬の蛇が主人である彼女を殺したのは間違いない。
苦々しい表情を浮かべ、御門は呟くように告げた。
「殺したのは、嫉妬の吸血鬼だ。いや、そうでなくとも……御国が姫莉子を殺すなんて、やはりあり得ない」
「……だから、強盗が入ったということにしたのですか?」
「…………」
美奈子の言葉に御門はまた沈黙する。あの夜の悲劇は今のところ、有栖院家に侵入した強盗によって起こったことになっていた。
「それで今後のことはどうなさるおつもりです。真実がどうあれ、一番重要なのは御園がその場面を見たと証言したことではありませんか」
「……その通りだ。それはおそらく――嫉妬の吸血鬼がかけた暗示によるものだろう。その暗示を解くことが、今は出来ない。だからその上に、さらに別の幻術をかけて御国が家を出た理由を曖昧にするつもりでいる」
今となってはただ一人、この家に残った美しい吸血鬼の真祖は「人の『憎い』『怖い』という感情は消しにくい……。ただ『どうして』、『何があって』そう感じたのかは忘れていくものです」と御門に言った。母親を兄が殺すところを目撃したという暗示を、上から幻術をかけて、曖昧にする事ならできる――、と。
出生の真実を知らない御園にとって、姫莉子の死とは母親の死だ。――ではなぜ、姫莉子は死んだのか。なぜ、御国が家を出たのか。そういう疑問や理由を突き詰めていくと結局のところ、不都合な原因に辿り着いてしまう。この理由を全て御国に押し付けて、姫莉子は被害者、御国を加害者であるとしてしまう方が、色々と都合がいい。
……自分に似ず聡明で、才能に溢れ、人を見透かすような目をしたあの息子はきっとそれを分かっていて、この家を出て行ったのだろう――分かっていた。分かっていてなお、御門には受け入れられなかった。
――しかし、結局のところ、御国の存在をこの家から消してしまうことこそが御園を守る最良の選択になり得てしまう。
「そんな事も可能なのですか」
美奈子は葛藤する御門の胸中など知る由もないと言うような淡白な声色で言った。しかし、ほんの僅かに首を傾けながら驚いているようでもあった。
有栖院家という場所では吸血鬼と人が共存しているという事実を既に知る彼女でも、『吸血鬼』に対してそれ以上の知識や理解がないことに御門は思い当たる。何事にも動じない姿を見せるので忘れがちだが、有栖院家で働く他の使用人たちと同様、彼女は普通の人間なのだ。
「色欲の吸血鬼の力を使えば――可能だ。御国が家を出た理由を知ってしまえば、何故、姫莉子が死んだのかを知ってしまえば、御園はいずれ事実を知ってしまう」
「あの子は、御園は何も悪くない。あの子が真実を知って、自分さえ生まれてこなければ……、そんな風に感じてしまうことだけは絶対に避けなくてはならない」
「だから私は――。せめて、御園が大人になるまではあの日の記憶を封じ、この家における御国の存在をなかったことにする、つもりだ……」
御門の口からは次々と堰を切ったように言葉が続いた。それはまるで、罪の告白をしているようでもあった。自分がとんでもないことを言っている自覚が御門にはあった。
この家にいる真祖は色欲だけ。この家の子どもは御園だけ。全ては御園のために、あの子の記憶を吸血鬼の力で捻じ曲げた上に、兄の存在さえもこの家から抹消してしまおうというのだ。――これが罪でなくて、なんだというのだろう。
この数日間ずっと悩み続けていた今後の話を、御門は今、初めて誰かに話している。御門が言葉を止めるまで、美奈子は一切口を挟まなかった。
「…………なるほど、そのようにお考えなのですね」
彼女はただ静かに目を伏せて、言った。それ以上でもそれ以下でもなかった。
「それで、この私には何をお望みなのでしょう」
「……君にはこのまま、有栖院家に留まって貰いたい」
美奈子が小さく息を吐いた。そして、彼女の視線が、ついと窓の方へと流れる。
……おそらく私は、この選択を誰かに間違っていないと肯定して欲しかったのだろう。御門がいつの日か、この日を思い直した時にはそう考えた。だがそれが、途方もなく愚かな望みであったことを、この時の御門はまだ知らなかったのだ。彼女は決して、『有栖院御門』の共犯者にはなり得ない女性だったのだから……。
彼女が黙した時間はそう長くはなかったと思う。ただ、言葉を待つ御門にとっては酷く背の冷える長い時間だったように感じた。窓の方を見つめたまま、美奈子は薄く口を開いた。
「東館は閉鎖されると聞きました」
「……ああ、そのつもりだ。御園の部屋は西館に移して、東館は封鎖する。東館には御国の部屋もあるし、何より――」
東館は姫莉子が死んだ場所だから。続かない言葉の先を察しているように、美奈子が視線を御門へと戻した。
「でしたら――僭越ながら私が東館の管理を行なってもよろしいでしょうか。封鎖して放置という形では建物も傷んでしまいますので」
「だが、東館は君が一人で管理するには広すぎるだろう」
「仰るとおりです。……しかし、私が有栖院に留まるとしても本館で働いていては御園との距離が近すぎるのではないかと懸念しております。先ほどのお話、吸血鬼の暗示や幻術――というものは私には理解しかねますが、あの事件の記憶から御園を遠ざけたいのであれば、なおのこと。『私』は隔離されるべきです」
淡々と、彼女は言った。
「そうでなければ、あえて私をここに留める意味がありません」
「……?」
「知りすぎている私を有栖院の外に出した後で、貴方は内々に処理すべきでした。それが全てを隠し、より確実にあの子を守れる。最もシンプルな方法であったはず」
「何を、言って――っ」
言葉を詰まらせた御門に対し、美奈子は微笑みを向けた。残酷な事を口にする時、彼女はより一層美しく微笑むのだと御門はこの時、初めて知った。
彼女は自分を殺せばよかったのに、と言ったのだ。御門が彼女に対して懸念する問題を全て理解した上で、それを解消する最も合理的な方法を念頭に沿う意思を初めから見せていたのだと、御門はこの時ようやく思い至った。
いくら、美奈子が有栖院家に起きた惨劇の真実も、それらが起こり得た理由も、全てを知りすぎているとはいえそんな事――考えたこともなかった。だが、言われてみるとそれが一番確実な方法だと気付く。まさか『そのつもり』で職を退き、有栖院を出ていくと言っていたなんて――。
御門は動揺し、思わず立ち上がった。顔には恐れと驚愕の表情を浮かべ、対面に座る一人の女を見下ろす。
「まさか……。そんなこと、できるはずがないだろう……!」
「何故? 吸血鬼を使えば、証拠も残らないのでしょう。――――……歩風が死んだ時もそうでした」
天涯孤独の女がひとり、消えたところで誰も困りはしない。消えたことにすら気付く人間は一握りで、その人たちの記憶から消える日も遠くはない。残されたひとりの子供が心穏やかに生きていくためのこの先の時間に比べれば――安い代価だろう。
美奈子は姿勢を崩さないまま、顎だけを持ち上げるように対面の御門を見上げて言った。
「――貴方には、できませんよね」
その目は、軽蔑に似ていた。いつか息子に罪を告白した時に向けられた瞳とよく、似ていた。取り乱すでもなく、怒るでもなく、淡々と。あるいは諦めにも似た目があまりに純粋な色をもって御門を見つめる。
自分の生死すら結果へと織り込む様な正論に言葉を失う御門は、力を失うように椅子へと深く腰を落とした。目の前に座る彼女の顔はもう見ることが出来ない。項垂れる御門をまるで慰めるような穏やかな声色でかけられた言葉の意味すら、御門にはもう理解できなかった。
「私は奥様の――姫莉子さんのそういうところを愛していたんです」
「……君の考えていることが、私には分からない」
「そうでしょうね、……貴方はただの人間ですから」
人が人を理解できるだなんて傲慢だ、と言うような重厚な響きで齎された言葉の後、話は終わったとばかりに美奈子は静かに立ち上がった。
「その退職願は破棄してください。ご希望通り、私はこのまま有栖院家に留まります」
目の前から彼女が去っていく気配だけを感じながら、御門は頭痛を抑えこむように頭を抱える。しかし、退室を示す扉の音が聞こえる前に思い出したとばかりに「ああ」という呟きが御門にかけられた。
「――月に何度かの外出はお許しいただけますか?」
「…………どこへ?」
「教会です。習慣ですからこれまで通り、礼拝や慈善活動に参加したいのです。必要であれば見張りでも何でもお好きにつけていただいて構いません」
「そうか、……好きにしなさい。東館の事も、希望通り君に任せる」
「ありがとうございます。もし、この後心変わりされることがあれば、それもいいでしょう。貴方はどうか、残されたご子息の事だけをお考えください」
「…………そのつもりだ。君に、言われるまでもなく」
「安心しました。……なるべく目に触れないように尽力致します。貴方にも、御園坊ちゃんにも」
今度こそ、扉が開き、閉まる音がして――御門は仰向けに倒れ込むようにぐったりと背もたれに身体を預けた。
何が、いけなかったのだろう。いいや、原因ははっきりしていた。吸血鬼など関係ない。自分だ。全て、自分のせいだった。
自らの愚かな行いが全ての惨劇を起こしてしまったのだと、そんなことはとうに、分かっていたのだ。御園を愛し慈しむことで……もう、許された気になっていた。それは全て、大きな勘違いだったのだ。本当に許しを請うべき相手すら、もう誰ひとりこの世に残らず、自分を置いていってしまった。
御国は嫉妬の吸血鬼と共に姿を消し、もう帰ってはこないだろう。ならば、もう迷ってはいけない。全てを、隠さなくてはいけない。有栖院に残ったのはたった一人の家族だけ。秘密を守るために。御園を、守るために。
……御門の前に淹れられていた紅茶は既に香りも立ち消え、冷え切って、その後、一度も口を付けられることがなかった。
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