祈りの幕が降りるまでに
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「美奈子――、さん?」
「お目覚めですか」
美奈子は読んでいた本を閉じると、体温計を取り出して御国に差し出した。彫刻像のように冷たい美奈子の表情と体温計に視線を向け、御国は一瞬バツの悪そうな顔を浮かべる。しかし、早く受け取れとばかりに無言の圧で差し出されたそれを何も言わずに受け取り、身体に挟んだ。ベッドの上に横たわったまま、見慣れた天井を睨んで御国は鈍くなっている頭を動かす。
前々から、体の調子が悪いという自覚はあった。しかし数日前から弟の御園が体調を崩して寝込んでいることもあって、家の中が慌ただしく、それを言い出す気になれなかったのだ。
……御園は生まれつき体が弱かった。季節の変わり目には頻繁に体調を崩したし、よく寝込んでいた。仕事で多忙な父が側に付いていられる時間は殆どなく、問題を抱えがちな母もまた似たようなもので。だから弟が一人で寂しくないようにと、暇さえできれば御国が兄として両親の代わりに御園の見舞いや看病に時間を割くことが多かった。
御国は大人よりも取り繕うことが上手い子供だった。いつも通りを心がけて過ごしているだけで、周囲は当たり前のようにその表面を信じた。
習い事から戻ってきて、挨拶をしながらすれ違うところで、美奈子に声をかけられたことを思い出す。
その言葉は「坊ちゃん。顔色が――」悪いですよ、と続いた気がする。
それはあくまで、気がするだけだ。御国には美奈子が続けた言葉の先がよく聞き取れなかった。朧気に世界が歪み、輪郭が揺らいだ。支えが欲しくて咄嗟に伸ばした手が空を掻いて、そのまま前のめりに身体が傾く。――ああ、まずいな。転ぶ。御国は酷く冷静にそんなことを思って。重力に引っ張られ、身体を床へと打ち付ける衝撃を覚悟した時、咄嗟に屈み込んだ何かに身体を支えられた。耳にほど近いところから声が、した。気がする。これもやはり、言葉はよく聞き取れない。腕に力を入れて、支えに立ち上がろうとしたがそれもどうやら上手くいかなかった。そうして、完全に意識を手放した――――、という経緯を御国は思い出した。
体温計を差し出してきたことからして体調が悪かったことは既にバレているし、目の前で倒れておいて誤魔化すのは流石に無理だな。あの時、倒れてから此処まで運んだのは誰だ――? やはり、美奈子だろうか。
考えながら手をついて上体を起こそうとすると、すかさずそれを補助するように美奈子が御国の背を支えた。彼女の横顔を見上げてみたが、いつも通りの澄まし顔をした美奈子とは、視線すら交わらない。楽に座っていられるようにという配慮だろう、背中にクッションを挟みこまれた。まるで介護だな、と御国は小さく息を吐く。
「どうぞ」
その上、喉が渇いたと掠れた声を出す前に注がれた水まで差し出される。日頃から献身的に御国の母を看ているだけあっての事だろうか、看病の手際が非常によかった。計測が終わった体温計と交換で水を受け取り、喉の奥に流し込む。脇目に体温計へと視線を落とす美奈子の顔を御国は見つめてみると、彼女が眉を顰めるのが分かった。
「やはり発熱しています。すぐに主治医を呼びますので……」
「待って、美奈子さん。ただの風邪だよ、大したことないから」
それは意外だったが、美奈子がすぐに呼ぶと言うからには、まだ呼んでいないということだ。つまり、まだ間に合うはずだ。
咄嗟に判断して御国がそう返せば、冷ややかな視線が無遠慮に突き刺さる。何を馬鹿なことを云うような視線だ。自分で言っておいてではあるが、病人相手にくらいもうちょっと手心を加えてくれてもいいんじゃないか。そう思って、御国は眉を下げながら曖昧に笑った。
「俺をここまで運んでくれたのは美奈子さん、だよね? ありがとう、もう大丈夫だから」
「だから、何でしょう。医者を呼ぶな、という意味ですか?」
「……今はみんなに知られたくないんだ。御園も体調を崩して寝込んでるしさ、俺まで倒れたって聞いたら――心配かけちゃうだろ?」
「そうは言われましても私は一介の使用人ですので」
「見なかったことにしてよ」
「出来るとお思いで」
当然、美奈子には御国の頼みを聞き入れる義理はない。むしろ、使用人としての立場で職務を全うするのであれば無茶を言っているのは御国の方だ。
そんなやり取りの最中に指先でシーツを掴む御国の上体は、徐々に力が抜けるように前屈みに倒れ込んでいく。頭が鈍く痛むし、身体全体が鉛のように重く感じて――美奈子の前だと分かっているのに、体裁を整える余裕さえなかった。どうやら本当に体調が悪化しているらしい。言うことを聞かない身体を前に他人事のように御国は考えた。
肩と首回りを支えるように添えられた女の手によって、御国は仰向けにベッドへとまた戻される。冷静な手付きで寝具を整え、美奈子は状態を確認するように視線を走らせた。そうして、仕事は済んだとばかりに離れて行こうとする彼女の腕を、無理やり飛び起きるようにして御国が掴む。見栄と体裁を殴り捨てて、「……お願いだよ、美奈子さん」と御国はただ目の前の人に哀願することしか出来なかった。
「……」
暑苦しい。どのくらい寝ていたのだろう。そう思って目線だけで部屋を見回すと、壁に揺らめく影が見えた。
時々、乾いた音が小さく聞こえる。紙を捲る、本を読むときの音。誰かが部屋の隅で僅かな光源を頼りに本を読んでいる。カーテンは引かれて室内は暗く、正確な時間も確認できないが少なくともとっくに夜は更けている時間のはずだ。あれは、誰だろう。そう思って身動ぎをすれば、本を閉じるような音の後で、燭台を手に影が近付いてきた。ベッド脇に立ちこちらを覗き込む影の正体を見上げ、御国は目を瞠る。
――なんで、貴女が此処にいるんだ。
御国がそう尋ねる前に、美奈子は眼を細めて静かに言った。
「寒くはありませんか?」
「ない、けど」思いの外、弱々しい声が出た。
「失礼します。――少し下がりましたね」
美奈子は一言断り、御国の額に乗っていた冷湿布を避けた。額に指先が触れて、すぐに離れる。雪を思わせるような冷たい手の感触に狼狽えた内心を見透かしてか、彼女は目を細めて御国を見下ろした。
「今晩は私が坊ちゃんの看病を致します」
「……なんで、美奈子さんが」
「今からでも宜しければ今すぐ主治医を起こしますが」
そう聞き返されて、御国は眉根を寄せそのまま閉口することを選んだ。
冷湿布を手に、美奈子は部屋の片隅に置かれた上品な彫刻が施された木製のカートとその上に鎮座する銀の桶へと歩み寄る。桶には水が注がれているのだろう。カートには他に手拭いが数枚畳まれて並び、その脇には布を絞るための陶器のボウル。手にした布を桶の中に静かに沈めると、氷が揺れてぶつかり、桶の壁面を滑るような音がした。布をしっかりと濡らして、陶器のボウルの上でゆっくりと絞り、余分な水を切る、音。
まさか、本当に自分の頼みを聞き入れてあれからずっと看ていてくれたのか――? その背をベッドの中から見つめた御国はそう聞きたかったが、やはりやめた。美奈子の行動が、自分への配慮の結果だとは到底思えなかったからだ。自惚れで痛い目を見たくはない。
「汗をかいているので服を着替えましょう。少し体を起こせますか?」
背中に手を差し入れられて、上半身をゆっくりと起こされたかと思えば、あれよあれよと言う間に御国は美奈子に着替えさせられた。
御国が不平も言わずに大人しく協力したのは(熱で頭が回っていなかったこともあるが)汗で湿って肌に張り付く服の感触が気持ち悪かったからだ。しかし、御園ほど幼い子供の時分ならともかく、御国はまだ年齢で言えばもう幼い子供とは呼べない思春期只中の少年である。
汗ばんだ背中をゆっくりと拭うタオルの感触に思わず肩を揺らしたことで、美奈子が「冷たかったですね、少しだけ我慢してくださいませ」と言った。それに御国は「……、大丈夫だよ」と弱々しい声で返し、彼女の方から顔を背けた。表情にこそ出さなかったが、こんな風に美奈子から手厚い看病を受ける事に対して内心では酷い羞恥心を感じていた。もう主治医を呼んでもらっていた方が良かったかもしれない、とさえ思いつつあった。
当たり前だが、美奈子に他意は一切ない。辱めてやろうなどという意図など一切ないことは無駄のない冷静な手付きを見ていれば分かる。相手が母であっても、あるいは御園であっても。美奈子が使用人として看病という仕事を行うのであれば、今の御国が受けているのと同じように冷湿布を取り換え、丁寧に汗をかいた体を拭いて、服を着替えさせるのだろう。
もし、違いがあるとすれば――。そんな事を考えたことを自覚し、御国は忌々しげに唇の端を噛んだ。優しい微笑みや気遣うような言葉が嫌でこうしていたはずだ。それなのに、よりにもよって彼女にそんなものを求めるなんて、どうかしている。
坊ちゃん、という呼び声に息を吐いて振り向けば、体を拭き終えタオルを片付けた美奈子が代えの寝間着を手に持って立っていた。手慣れた様子で袖を通しやすいようにと態々服を広げて示すようにしている。
「坊ちゃん、腕を」
「美奈子さん。そこまでしてくれなくてもいいよ、自分で着替えられるから」
「そうですか」
突き放すような素気ない言葉が出たにも関わらず、美奈子の返答は淡白だった。そうして、すぐに持っていた寝間着を簡単に畳んで御国に手渡す。やはり微塵も気に留めていないような顔色に、御国は何だかいっそ腹立たしささえ覚えながらすぐに上着へと腕を通してボタンを止める。
その間に簡易的な片付けを手早く終わらせた美奈子が再びベッド脇に立った。ごく自然な仕草で襟元を整えられて、そのまま横になるように勧められる。御国が渋い顔をすれば、漸く美奈子はほんの少しだけ口角を上げるような微笑みを見せた。
「美奈子さんは、母さんの専属でしょ。俺を看るのは仕事じゃないのに」
「ええ。そうですね」
やはりそれは、平坦な声色だった。迷惑そうに、だから早く治してくださいね、とでも言われると思っていたのに美奈子はただ「おやすみください」とだけ穏やかな声色で伝え、御国の目元を手で遮るだけだ。
視界を遮られて、これでは何も見えやしない。御国は諦めるようにため息をひとつついた後、そのまま目を瞑った。大丈夫、すぐに楽になりますよ――と優しい囁きが聞こえた、気がしてうっすらと目を開けかけたが、再び疲れたように瞼を閉じる。そのまま、美奈子の冷たい手の感触に意識を向けているうち、すぐに微睡みがやってきて御国はそれに身を委ねるように、再び眠りに落ちた。
――翌日、母が主治医と共に不安げな顔をしながら部屋を訪れた。ああ、美奈子が母に伝えたのだな、と御国は思った。身体の怠さに加えて微熱もあったが、昨晩はよく眠ったせいか昨日ほど体調が悪くはない――とはいえ、心配した母や見舞いに来た父、使用人たちに囲まれて案の定御国は部屋から出して貰えず、少なくともその日一日は重病人のように扱われながらベッドの中で過ごすことになった。
こうなるのがわかってたからみんなに言うなって言ったのに。美奈子に対する落胆に似た感情を胸中で燻らせながら、御国は「大丈夫だよ、本当にただの風邪だから。……美奈子さんが大袈裟なだけだよ」と母に眦を下げて笑いかけた。反面、美奈子と顔を合わせたら、昨晩の礼に合わせて文句の一つでも言ってやろうと思っていた。
しかしその日は、いくら待てども彼女と顔を合わせることがなかった。姫莉子はずっと御国の側にいて、スープまで手ずから作って持って来てくれたというのに、彼女の姿だけが世界の中に欠けている。
「……母さん。そういえば今日は、美奈子さんは一緒じゃないの?」
「美奈子は、今日は……。……私の代わりに御園を看ていてくれているわ。私がお願いしたの、側にいてあげてって」
「――そっか、御園を」
御国はそう呟いて、笑った。
「じゃあ、安心だね。御園もきっとすぐ良くなるよ」
「ええ、そうね。だから御国も安心して、今日はゆっくり休んでね」
「お目覚めですか」
美奈子は読んでいた本を閉じると、体温計を取り出して御国に差し出した。彫刻像のように冷たい美奈子の表情と体温計に視線を向け、御国は一瞬バツの悪そうな顔を浮かべる。しかし、早く受け取れとばかりに無言の圧で差し出されたそれを何も言わずに受け取り、身体に挟んだ。ベッドの上に横たわったまま、見慣れた天井を睨んで御国は鈍くなっている頭を動かす。
前々から、体の調子が悪いという自覚はあった。しかし数日前から弟の御園が体調を崩して寝込んでいることもあって、家の中が慌ただしく、それを言い出す気になれなかったのだ。
……御園は生まれつき体が弱かった。季節の変わり目には頻繁に体調を崩したし、よく寝込んでいた。仕事で多忙な父が側に付いていられる時間は殆どなく、問題を抱えがちな母もまた似たようなもので。だから弟が一人で寂しくないようにと、暇さえできれば御国が兄として両親の代わりに御園の見舞いや看病に時間を割くことが多かった。
御国は大人よりも取り繕うことが上手い子供だった。いつも通りを心がけて過ごしているだけで、周囲は当たり前のようにその表面を信じた。
習い事から戻ってきて、挨拶をしながらすれ違うところで、美奈子に声をかけられたことを思い出す。
その言葉は「坊ちゃん。顔色が――」悪いですよ、と続いた気がする。
それはあくまで、気がするだけだ。御国には美奈子が続けた言葉の先がよく聞き取れなかった。朧気に世界が歪み、輪郭が揺らいだ。支えが欲しくて咄嗟に伸ばした手が空を掻いて、そのまま前のめりに身体が傾く。――ああ、まずいな。転ぶ。御国は酷く冷静にそんなことを思って。重力に引っ張られ、身体を床へと打ち付ける衝撃を覚悟した時、咄嗟に屈み込んだ何かに身体を支えられた。耳にほど近いところから声が、した。気がする。これもやはり、言葉はよく聞き取れない。腕に力を入れて、支えに立ち上がろうとしたがそれもどうやら上手くいかなかった。そうして、完全に意識を手放した――――、という経緯を御国は思い出した。
体温計を差し出してきたことからして体調が悪かったことは既にバレているし、目の前で倒れておいて誤魔化すのは流石に無理だな。あの時、倒れてから此処まで運んだのは誰だ――? やはり、美奈子だろうか。
考えながら手をついて上体を起こそうとすると、すかさずそれを補助するように美奈子が御国の背を支えた。彼女の横顔を見上げてみたが、いつも通りの澄まし顔をした美奈子とは、視線すら交わらない。楽に座っていられるようにという配慮だろう、背中にクッションを挟みこまれた。まるで介護だな、と御国は小さく息を吐く。
「どうぞ」
その上、喉が渇いたと掠れた声を出す前に注がれた水まで差し出される。日頃から献身的に御国の母を看ているだけあっての事だろうか、看病の手際が非常によかった。計測が終わった体温計と交換で水を受け取り、喉の奥に流し込む。脇目に体温計へと視線を落とす美奈子の顔を御国は見つめてみると、彼女が眉を顰めるのが分かった。
「やはり発熱しています。すぐに主治医を呼びますので……」
「待って、美奈子さん。ただの風邪だよ、大したことないから」
それは意外だったが、美奈子がすぐに呼ぶと言うからには、まだ呼んでいないということだ。つまり、まだ間に合うはずだ。
咄嗟に判断して御国がそう返せば、冷ややかな視線が無遠慮に突き刺さる。何を馬鹿なことを云うような視線だ。自分で言っておいてではあるが、病人相手にくらいもうちょっと手心を加えてくれてもいいんじゃないか。そう思って、御国は眉を下げながら曖昧に笑った。
「俺をここまで運んでくれたのは美奈子さん、だよね? ありがとう、もう大丈夫だから」
「だから、何でしょう。医者を呼ぶな、という意味ですか?」
「……今はみんなに知られたくないんだ。御園も体調を崩して寝込んでるしさ、俺まで倒れたって聞いたら――心配かけちゃうだろ?」
「そうは言われましても私は一介の使用人ですので」
「見なかったことにしてよ」
「出来るとお思いで」
当然、美奈子には御国の頼みを聞き入れる義理はない。むしろ、使用人としての立場で職務を全うするのであれば無茶を言っているのは御国の方だ。
そんなやり取りの最中に指先でシーツを掴む御国の上体は、徐々に力が抜けるように前屈みに倒れ込んでいく。頭が鈍く痛むし、身体全体が鉛のように重く感じて――美奈子の前だと分かっているのに、体裁を整える余裕さえなかった。どうやら本当に体調が悪化しているらしい。言うことを聞かない身体を前に他人事のように御国は考えた。
肩と首回りを支えるように添えられた女の手によって、御国は仰向けにベッドへとまた戻される。冷静な手付きで寝具を整え、美奈子は状態を確認するように視線を走らせた。そうして、仕事は済んだとばかりに離れて行こうとする彼女の腕を、無理やり飛び起きるようにして御国が掴む。見栄と体裁を殴り捨てて、「……お願いだよ、美奈子さん」と御国はただ目の前の人に哀願することしか出来なかった。
「……」
暑苦しい。どのくらい寝ていたのだろう。そう思って目線だけで部屋を見回すと、壁に揺らめく影が見えた。
時々、乾いた音が小さく聞こえる。紙を捲る、本を読むときの音。誰かが部屋の隅で僅かな光源を頼りに本を読んでいる。カーテンは引かれて室内は暗く、正確な時間も確認できないが少なくともとっくに夜は更けている時間のはずだ。あれは、誰だろう。そう思って身動ぎをすれば、本を閉じるような音の後で、燭台を手に影が近付いてきた。ベッド脇に立ちこちらを覗き込む影の正体を見上げ、御国は目を瞠る。
――なんで、貴女が此処にいるんだ。
御国がそう尋ねる前に、美奈子は眼を細めて静かに言った。
「寒くはありませんか?」
「ない、けど」思いの外、弱々しい声が出た。
「失礼します。――少し下がりましたね」
美奈子は一言断り、御国の額に乗っていた冷湿布を避けた。額に指先が触れて、すぐに離れる。雪を思わせるような冷たい手の感触に狼狽えた内心を見透かしてか、彼女は目を細めて御国を見下ろした。
「今晩は私が坊ちゃんの看病を致します」
「……なんで、美奈子さんが」
「今からでも宜しければ今すぐ主治医を起こしますが」
そう聞き返されて、御国は眉根を寄せそのまま閉口することを選んだ。
冷湿布を手に、美奈子は部屋の片隅に置かれた上品な彫刻が施された木製のカートとその上に鎮座する銀の桶へと歩み寄る。桶には水が注がれているのだろう。カートには他に手拭いが数枚畳まれて並び、その脇には布を絞るための陶器のボウル。手にした布を桶の中に静かに沈めると、氷が揺れてぶつかり、桶の壁面を滑るような音がした。布をしっかりと濡らして、陶器のボウルの上でゆっくりと絞り、余分な水を切る、音。
まさか、本当に自分の頼みを聞き入れてあれからずっと看ていてくれたのか――? その背をベッドの中から見つめた御国はそう聞きたかったが、やはりやめた。美奈子の行動が、自分への配慮の結果だとは到底思えなかったからだ。自惚れで痛い目を見たくはない。
「汗をかいているので服を着替えましょう。少し体を起こせますか?」
背中に手を差し入れられて、上半身をゆっくりと起こされたかと思えば、あれよあれよと言う間に御国は美奈子に着替えさせられた。
御国が不平も言わずに大人しく協力したのは(熱で頭が回っていなかったこともあるが)汗で湿って肌に張り付く服の感触が気持ち悪かったからだ。しかし、御園ほど幼い子供の時分ならともかく、御国はまだ年齢で言えばもう幼い子供とは呼べない思春期只中の少年である。
汗ばんだ背中をゆっくりと拭うタオルの感触に思わず肩を揺らしたことで、美奈子が「冷たかったですね、少しだけ我慢してくださいませ」と言った。それに御国は「……、大丈夫だよ」と弱々しい声で返し、彼女の方から顔を背けた。表情にこそ出さなかったが、こんな風に美奈子から手厚い看病を受ける事に対して内心では酷い羞恥心を感じていた。もう主治医を呼んでもらっていた方が良かったかもしれない、とさえ思いつつあった。
当たり前だが、美奈子に他意は一切ない。辱めてやろうなどという意図など一切ないことは無駄のない冷静な手付きを見ていれば分かる。相手が母であっても、あるいは御園であっても。美奈子が使用人として看病という仕事を行うのであれば、今の御国が受けているのと同じように冷湿布を取り換え、丁寧に汗をかいた体を拭いて、服を着替えさせるのだろう。
もし、違いがあるとすれば――。そんな事を考えたことを自覚し、御国は忌々しげに唇の端を噛んだ。優しい微笑みや気遣うような言葉が嫌でこうしていたはずだ。それなのに、よりにもよって彼女にそんなものを求めるなんて、どうかしている。
坊ちゃん、という呼び声に息を吐いて振り向けば、体を拭き終えタオルを片付けた美奈子が代えの寝間着を手に持って立っていた。手慣れた様子で袖を通しやすいようにと態々服を広げて示すようにしている。
「坊ちゃん、腕を」
「美奈子さん。そこまでしてくれなくてもいいよ、自分で着替えられるから」
「そうですか」
突き放すような素気ない言葉が出たにも関わらず、美奈子の返答は淡白だった。そうして、すぐに持っていた寝間着を簡単に畳んで御国に手渡す。やはり微塵も気に留めていないような顔色に、御国は何だかいっそ腹立たしささえ覚えながらすぐに上着へと腕を通してボタンを止める。
その間に簡易的な片付けを手早く終わらせた美奈子が再びベッド脇に立った。ごく自然な仕草で襟元を整えられて、そのまま横になるように勧められる。御国が渋い顔をすれば、漸く美奈子はほんの少しだけ口角を上げるような微笑みを見せた。
「美奈子さんは、母さんの専属でしょ。俺を看るのは仕事じゃないのに」
「ええ。そうですね」
やはりそれは、平坦な声色だった。迷惑そうに、だから早く治してくださいね、とでも言われると思っていたのに美奈子はただ「おやすみください」とだけ穏やかな声色で伝え、御国の目元を手で遮るだけだ。
視界を遮られて、これでは何も見えやしない。御国は諦めるようにため息をひとつついた後、そのまま目を瞑った。大丈夫、すぐに楽になりますよ――と優しい囁きが聞こえた、気がしてうっすらと目を開けかけたが、再び疲れたように瞼を閉じる。そのまま、美奈子の冷たい手の感触に意識を向けているうち、すぐに微睡みがやってきて御国はそれに身を委ねるように、再び眠りに落ちた。
――翌日、母が主治医と共に不安げな顔をしながら部屋を訪れた。ああ、美奈子が母に伝えたのだな、と御国は思った。身体の怠さに加えて微熱もあったが、昨晩はよく眠ったせいか昨日ほど体調が悪くはない――とはいえ、心配した母や見舞いに来た父、使用人たちに囲まれて案の定御国は部屋から出して貰えず、少なくともその日一日は重病人のように扱われながらベッドの中で過ごすことになった。
こうなるのがわかってたからみんなに言うなって言ったのに。美奈子に対する落胆に似た感情を胸中で燻らせながら、御国は「大丈夫だよ、本当にただの風邪だから。……美奈子さんが大袈裟なだけだよ」と母に眦を下げて笑いかけた。反面、美奈子と顔を合わせたら、昨晩の礼に合わせて文句の一つでも言ってやろうと思っていた。
しかしその日は、いくら待てども彼女と顔を合わせることがなかった。姫莉子はずっと御国の側にいて、スープまで手ずから作って持って来てくれたというのに、彼女の姿だけが世界の中に欠けている。
「……母さん。そういえば今日は、美奈子さんは一緒じゃないの?」
「美奈子は、今日は……。……私の代わりに御園を看ていてくれているわ。私がお願いしたの、側にいてあげてって」
「――そっか、御園を」
御国はそう呟いて、笑った。
「じゃあ、安心だね。御園もきっとすぐ良くなるよ」
「ええ、そうね。だから御国も安心して、今日はゆっくり休んでね」
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