祈りの幕が降りるまでに
夢小説設定
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
「おはようございます。奥様」
「……もう、朝なの?」
「はい。朝でございます。モーニングティーをお持ちいたしました」
「……。……ありがとう、いただくわ」
掠れた声でそう返し、姫莉子は無気力に横たえていた手を持ち上げた。その手を掴んで支え、背にもう一方の手を添えるように、慣れた動きで身体を起こす補助をする女の横顔を見つめる。女は姫莉子専属の使用人で、名を美奈子という。
数年前にとあるきっかけから姫莉子自身が有栖院家に連れてきた彼女は驚くほど早く環境に適応し、朝から晩まで日々献身的に姫莉子の世話を焼いた。姫莉子の予定の調整から手配まで、姫莉子がよろめけばすぐに支えて歩いて、姫莉子が望めば疲れるまで他愛無い話をする。
「美奈子」
「はい。奥様」
「……少し、痩せたんじゃない?」
「気にかけてくださってありがとうございます。ですが、少々寝不足なだけで――――痩せたなんて、そんなことはございません」
「そう? だって、ほら…… あ、」
「どうかなさいましたか?」
「貴女、怪我をしてるわ……! 頬に、傷が」
姫莉子は目を見開く。美奈子の頬に赤い線のような跡が出来ていた。昨日はなかった傷なのに、どこで怪我をしてきたのだろう。姫莉子が美奈子の両頬を掴み、その傷をよく確認するように顔を近づけた。
「……ああ」美奈子は頬に視線を向けるように首を傾げる。「昨晩、倉庫の掃除を手伝ったのでその時にぶつけてしまったのかもしれません。お見苦しいものをお見せしました」
何でもないように微笑んで、彼女は姫莉子の手を優しく包むように下ろさせると謝罪するように頭を下げた。彼女がそのまま紅茶を取りに向かおうとするので、姫莉子が咄嗟にその手を掴む。不意を突かれて、美奈子は僅かに体勢を崩しそうになったものの、倒れることはなく手を引かれるまま再度姫莉子の方を振り向いた。ほんの少しだけ、眉根を寄せた表情からは困惑が見られた。
「ここに座ってちょうだい」
「いえ、このくらいは」
「美奈子」
咎めるというよりは、子どもを叱るような口調だった。
美奈子は決まりの悪い顔をして、大人しく姫莉子の隣に腰掛けた。それが拗ねた子どものようにも見えて、姫莉子は少し笑う。……確か、以前にもこんなことがあった気がすると、姫莉子は思う。今から何年も前、初めて彼女と教会の礼拝で出会って間もない頃にも同じことがあった。何だか懐かしいと思いながら、姫莉子は美奈子の頬に手を添える。
「小さな傷でも、放っておいてはダメよ。炎症を起こして酷くなってしまうかもしれないし、跡が残ってしまうかもしれないでしょう」
「……。気が付かなかったんです」
「もう、……少しじっとしていてね」
指先に意識を集中し、治療魔術を使えば美奈子の頬から傷が消えた。ああ、上手く出来てよかったと久しぶりに使う魔術に内心胸を撫で下ろす心地で美奈子を見れば、彼女もまた、今さっきまで傷があった頬に触れて目を細めていた。「治してくれて、ありがとう。貴女のそれは本当に魔法みたいね」と目尻を下げて笑う。
魔術師ではない彼女には魔法と魔術の違いはわからない。真面目な姫莉子は、本当は魔法じゃないのよ、と言おうか迷って……そんなことはどうでもいいわ、と姫莉子も微笑んだ。なんだか今日は何でも出来そうだと、理由のない高揚が姫莉子の胸を満たす。
「食事はどうなさいますか。お部屋にお持ちしますか?」
「大丈夫よ。今日は、体調がとてもいいの」
「かしこまりました」
「ねえ美奈子。最近、御国はどうしているのかしら」
「坊ちゃんなら午後は部屋でヴァイオリンの練習をなさっていますよ。発表会が近いそうですから」
「そう、頑張っているのね」
美奈子が淹れてくれたモーニングティーの香りを楽しみながら、姫莉子はそう返す。美奈子が部屋のカーテンを開けると外の光が部屋に差し込み、薄暗かった寝室が柔らかに明るくなる。こんな穏やかな気分で迎える朝は、何だか久しぶりな気がして、今日は少し外に出かけてもいいかもしれないとさえ思う。
「急に会いに行ったら、……練習の邪魔になるかしら?」
「いいえ、きっとお喜びになられると思いますよ」
「そう……。なら、食事をしてから教会に出かけて、午後からは御国の様子を見に行くわ。貴女も一緒に付き添ってくれる?」
「よろこんでお供いたします」
率直な美奈子の言葉に、姫莉子は嬉しそうに笑った。
穏やかな朝の光景を少し離れた部屋の隅、家具の下で地を這う蛇が見ていた。秘密の園の片隅で交わされる、酷く不安定で歪んだ二人の女の美しい友愛を。ああ、どうか。どうか。この時が、このしあわせが少しでも長く続くようにと祈りながら。
「……もう、朝なの?」
「はい。朝でございます。モーニングティーをお持ちいたしました」
「……。……ありがとう、いただくわ」
掠れた声でそう返し、姫莉子は無気力に横たえていた手を持ち上げた。その手を掴んで支え、背にもう一方の手を添えるように、慣れた動きで身体を起こす補助をする女の横顔を見つめる。女は姫莉子専属の使用人で、名を美奈子という。
数年前にとあるきっかけから姫莉子自身が有栖院家に連れてきた彼女は驚くほど早く環境に適応し、朝から晩まで日々献身的に姫莉子の世話を焼いた。姫莉子の予定の調整から手配まで、姫莉子がよろめけばすぐに支えて歩いて、姫莉子が望めば疲れるまで他愛無い話をする。
「美奈子」
「はい。奥様」
「……少し、痩せたんじゃない?」
「気にかけてくださってありがとうございます。ですが、少々寝不足なだけで――――痩せたなんて、そんなことはございません」
「そう? だって、ほら…… あ、」
「どうかなさいましたか?」
「貴女、怪我をしてるわ……! 頬に、傷が」
姫莉子は目を見開く。美奈子の頬に赤い線のような跡が出来ていた。昨日はなかった傷なのに、どこで怪我をしてきたのだろう。姫莉子が美奈子の両頬を掴み、その傷をよく確認するように顔を近づけた。
「……ああ」美奈子は頬に視線を向けるように首を傾げる。「昨晩、倉庫の掃除を手伝ったのでその時にぶつけてしまったのかもしれません。お見苦しいものをお見せしました」
何でもないように微笑んで、彼女は姫莉子の手を優しく包むように下ろさせると謝罪するように頭を下げた。彼女がそのまま紅茶を取りに向かおうとするので、姫莉子が咄嗟にその手を掴む。不意を突かれて、美奈子は僅かに体勢を崩しそうになったものの、倒れることはなく手を引かれるまま再度姫莉子の方を振り向いた。ほんの少しだけ、眉根を寄せた表情からは困惑が見られた。
「ここに座ってちょうだい」
「いえ、このくらいは」
「美奈子」
咎めるというよりは、子どもを叱るような口調だった。
美奈子は決まりの悪い顔をして、大人しく姫莉子の隣に腰掛けた。それが拗ねた子どものようにも見えて、姫莉子は少し笑う。……確か、以前にもこんなことがあった気がすると、姫莉子は思う。今から何年も前、初めて彼女と教会の礼拝で出会って間もない頃にも同じことがあった。何だか懐かしいと思いながら、姫莉子は美奈子の頬に手を添える。
「小さな傷でも、放っておいてはダメよ。炎症を起こして酷くなってしまうかもしれないし、跡が残ってしまうかもしれないでしょう」
「……。気が付かなかったんです」
「もう、……少しじっとしていてね」
指先に意識を集中し、治療魔術を使えば美奈子の頬から傷が消えた。ああ、上手く出来てよかったと久しぶりに使う魔術に内心胸を撫で下ろす心地で美奈子を見れば、彼女もまた、今さっきまで傷があった頬に触れて目を細めていた。「治してくれて、ありがとう。貴女のそれは本当に魔法みたいね」と目尻を下げて笑う。
魔術師ではない彼女には魔法と魔術の違いはわからない。真面目な姫莉子は、本当は魔法じゃないのよ、と言おうか迷って……そんなことはどうでもいいわ、と姫莉子も微笑んだ。なんだか今日は何でも出来そうだと、理由のない高揚が姫莉子の胸を満たす。
「食事はどうなさいますか。お部屋にお持ちしますか?」
「大丈夫よ。今日は、体調がとてもいいの」
「かしこまりました」
「ねえ美奈子。最近、御国はどうしているのかしら」
「坊ちゃんなら午後は部屋でヴァイオリンの練習をなさっていますよ。発表会が近いそうですから」
「そう、頑張っているのね」
美奈子が淹れてくれたモーニングティーの香りを楽しみながら、姫莉子はそう返す。美奈子が部屋のカーテンを開けると外の光が部屋に差し込み、薄暗かった寝室が柔らかに明るくなる。こんな穏やかな気分で迎える朝は、何だか久しぶりな気がして、今日は少し外に出かけてもいいかもしれないとさえ思う。
「急に会いに行ったら、……練習の邪魔になるかしら?」
「いいえ、きっとお喜びになられると思いますよ」
「そう……。なら、食事をしてから教会に出かけて、午後からは御国の様子を見に行くわ。貴女も一緒に付き添ってくれる?」
「よろこんでお供いたします」
率直な美奈子の言葉に、姫莉子は嬉しそうに笑った。
穏やかな朝の光景を少し離れた部屋の隅、家具の下で地を這う蛇が見ていた。秘密の園の片隅で交わされる、酷く不安定で歪んだ二人の女の美しい友愛を。ああ、どうか。どうか。この時が、このしあわせが少しでも長く続くようにと祈りながら。