祈りの幕が降りるまでに
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秘密の庭には、美奈子という女がいた。
有栖院家。悠然とした広大な庭園に囲まれた屋敷は、壮麗な外観も相まってまるで小さな国の城のように佇んでおり、その広い屋敷を管理するための使用人を多数抱えていた。有栖院家は特殊な事情を抱えており、使用人はほとんどが元孤児の過去を持っている。美奈子という女も有栖院家に住み込みで働く使用人の一人だったが、彼女は有栖院に拾われた元孤児ではなかった。
彼女を有栖院家に連れてきたのは、有栖院家の女主人・有栖院姫莉子。彼女は有栖院家の御曹司となる御園を抱え、姫莉子に寄り添うようにして有栖院家の門を通った訳ありの女だ。その経緯を彼女自身がおいそれと語ろうとはしなかったし、美奈子を受け入れた有栖院家の現当主・御門も箝口令を敷いていたため、美奈子の過去を知るものは殆どいない。そういう特殊な点で、美奈子は異質であり良くも悪くも目立つ女だった。
美奈子は愛想のある方ではなかったが、仕事ぶりは至って真面目かつ有能であり、有栖院家の環境にもすぐに適応した彼女は女主人に仕える専属使用人として朝から晩までよく働いた。嫉妬の吸血鬼と契約し、悲劇を引き起こした後の姫莉子は数年の歳月をかけて徐々に衰弱していった。精神的に不安定にもなりがちで、心身ともに痩せ衰えていく女主人を献身的に支え続けていた。
そして、有栖院家に強盗が入った夜、不運にも姫莉子が凶刃に倒れて亡くなった後も――――美奈子は有栖院家に残った。噂によると、姫莉子の葬儀の後、美奈子はもう此処にいる理由はなくなったと伝え、職を辞して屋敷を後にしようとしたとも聞く。しかし、美奈子は元は部外者だったが、有栖院家に起きた惨劇の真実も、それらが起こり得た理由も、全てを知りすぎていた。
全てを、隠さなくては。長男の御国が嫉妬の吸血鬼と共に姿を消し、有栖院に残ったのはたった一人の家族だけ。秘密を守るために。御園を守るために。美奈子を有栖院の外に出すのは、危険すぎると有栖院御門は判断した。その懇願の結果として、彼女は有栖院家に残ることを選んだのだ。
「下手な真似事も、長く続ければ板につくものです」
美奈子は淡々とした声色でそう告げて、ナイトの駒を動かす。盤上に響いた小気味いい音を聞きながら、御国は対面に座る女を見ていた。彼女はクラシカルなデザインのメイド服に身を包んだ、有栖院家の使用人の一人。
御国は未だ少年と呼ばれる年頃だったが有栖院の嫡男で、次期当主となる正当な後継者だ。その対面に使用人が座り、あまつさえゲームに興じるなど本来は望ましいことではない――――……数十分前、彼女はそう言って御国の誘いを断った。ちなみに誘いを断られるの自体はこれが初めてではない。
「坊ちゃんの番です」
しかし今、彼女はこうして御国の対戦相手として席に着いている。
背もたれに体を預けることもなく、かといって盤上のゲームに前のめりに夢中になっているというわけでもなく、姿勢を正して座る美奈子は早くしろとばかりに声をかけた。
「早指しのルールじゃないんだからもう少し悩ませてよ」
「早く終わらせてしまいたいので」
「ホント釣れないなぁ」
御国はため息を吐くように肩を落としながら改めて盤面を一瞥し、緩慢な動きで次の一手を打った。
御国としてはほんの数分でも長く、このゲームを長引かせたいと思っていた。何故なら彼女がこうして席に着いてくれるのは、本当に珍しいことだったから。彼女は御国が『無邪気な子どものかわいいわがまま』で引き留めても、5回に1回はすげなくあしらわれるようにして断るのだ。当時の御国は、彼女ほど子どもに対して冷徹な対応をとる大人は他に知らないとさえ思っていた。
この一手の後、どこか無気力さを感じさせる擦れた瞳が盤面を見る。膝の上で揃えられた指先が駒の位置を確認するように軽く持ち上がり、そして十数秒と待たずに彼女は次の一手を進めた。
退屈そうに「早く終わらせたい」とあんまりな言い分の美奈子だったが……その差し手は考えなしの適当な一手とは程遠く的確で、鋭く、鮮やかだ。
美奈子との初めてのチェスは、たったの2手で終わった。開始1分と経たず終わったゲームに御国が落胆したのは言うまでもない。いわゆる、フールズメイトというやつで実際に御国が経験したのはあれ一回きりだ。チェスはプレイヤーの実力差が顕著に現れるゲームで、フールズメイトは大抵、一方のプレイヤーの不注意や知識不足によって起こるものだ。最初は本当に初心者なのかと思った時もあったけれど、この実力を見る限り、アレが偶然の一手だったとは考えられない。
極め付けに「一回は一回だとお約束しましたでしょう」と微笑んで席を立った彼女の背を唖然と見送った御国は美奈子という女の、大人気ないやり口を思い知った。あの出来事があって以来、二度目のゲームでも同じ手を使ってきた彼女に釘を刺した上でチェックメイトの機会を見逃した結果、続いたその日のゲームで勝敗はつかなかった。
またも急かされる前に御国はうーん、とわざとらしく声を上げながら顎に手を添えて、盤面を見下ろした。わざと自滅的な悪手を選んでもゲームを引き延ばされると理解した彼女は、本気でキングを取りに来る。最小手でチェックメイトを目指すような、驚くほど攻撃的なゲームを展開するのだ。御国の周りには、こんなプレイヤーはいなかった。御国にとってチェスの相手は、もっぱら父か、服部、最近では弟で……。その誰とも指し方が違う。だから、美奈子とのゲームはいつも新鮮で楽しい。
次の手を考える素振りを見せながら、御国は呟くように言った。
「美奈子さんの頭の中を覗いてみたいな」
「私の頭の中なんて覗いてみても、面白いものは何も詰まっていませんよ」
「そうかな」
盗み見るようにして視線を上げれば、彼女は窓の外へと視線を向けていた。煌々と陽光を受けては風に揺れる庭木を見る美奈子の横顔は美しかった。美奈子はどんな時も落ち着いていて、まるで生きながら彼岸に足を踏み入れているような、影のある女だった。
しかし、そんな女が不思議なことに……この家で誰よりも御国の母である姫莉子の身を案じ、誰よりも姫莉子のことを考えて尽くしている。その事実は有栖院に属する誰もが理解していた。日を追うごとに、彼岸へと誘われるように心身ともに不安定になっていく姫莉子を繋ぎ止めているのは、美奈子の献身があってこそだと言えるだろう。
しかしそれも、そう長く続かないことが御国にはよく分かっていた。姫莉子はもう長くは保たないだろう、と。姫莉子に深く接する機会の多い人間ならば、誰もが薄々気付いている。皮肉なことにそれに気付いていないのは、忙しく家を空けがちな父親と、幼い弟くらいだろう。
「この前、御園ともチェスをしてたって聞いたよ」
「……。ええまあ、週末に向けての特訓だそうで。僭越ながら一戦だけ、お相手をさせていただきました」
「俺とは頼んでも勝負してくれないくせに」
御国がクイーンを動かす。駒の動いた音に盤上へと意識を戻した美奈子に恨み節を揶揄うように言えば、彼女は一瞬御国の表情を見るように視線を上げて、すぐに下ろした。
「何度も申しておりますが、私の仕事に坊ちゃんとのチェス勝負は含まれておりませんので」
「あ。やっぱりそっちが本音なんだ。次期当主と使用人が同じテーブルでゲームなんて望ましくない〜とかなんとか言ってたのに」
「あら、失言でした。どうかお許しください」
「全然悪いと思ってなさそうな顔してるけど?」
「そのように見えたのなら、あえて弁明は致しません――――チェック」
たおやかに微笑んでチェックの宣言を行い、美奈子は駒を動かした。
キングを逃すか、攻撃を仕掛けている駒を取り除くか、間に駒を置いて攻撃を遮るか。御国は少し盤面の状況を見直した後、間に駒を置いて攻撃を遮ることを選んだ。今の盤面の状況ではキングの逃げ道も選べる手数も多いので、チェックメイトにはまだ繋がらないことはお互いに承知の上だ。
御国の一手を見て、美奈子は落胆の滲む息を小さく吐く。言わずもがな、このゲームがまだ続くことに対するため息だ。
「このまま続けるのは構いませんが、時間が来れば途中でも退席させていただきますよ」
「……、いいよ。だから母さんたちが帰ってくるまでは俺に付き合ってよ。こういう時間が取れるのなんてめったにないんだからさ」
「……ただのゲームで終わるなら構いませんが、そんなつもりもないのでしょう」
「何言ってるの? チェスはゲームだよ。ただ俺は世間話でもしながら美奈子さんともっと仲良くなりたいだけ」
スッと目を細めて美奈子は御国を見つめた。視線は鋭く冷ややかでそこに純粋な好意だとか、思いやりだとかの感情は一切感じられない。こういった視線を真っ直ぐに向けられることは御国にとってはあまり馴染みのないことだった。有栖院の使用人達はそれぞれ、事情はあれど孤児の過去を持つ者が多い。有栖院で援助を受けることで生きて大人になれた彼らは、有栖院の後継者である御国に非常に好意的に接してくれる。そんな優しい人たちに囲まれた環境、だからこそ、だろうか。
御国は美奈子の、そういう飾り気のないところが嫌いではなかった。
「情報を引き出したいの間違いでは?」
……それが全く彼女に伝わっていないことも、よく分かっていたが。
御国は曖昧な笑顔を返して、手のひらで盤を示した。暫くお互いに無言で見つめあったが、御国が言及を避けている事を理解した美奈子はナイトの駒を手に取って、手番を消化する。
この人は自分のこういうところが嫌いなんだろうな、と御国は思った。彼女の指摘は、正しい。御国は美奈子から情報を引き出したかった。弟の母親である、立波歩風の事を聞きたかった。あの人が有栖院を去った後、どこで過ごし、何を語り、どう生きたのか……。だが、それを聞いてはいけないことも御国にはよく分かっていた。そして、美奈子は聞いたところで決して答えてくれはしないだろう。皮肉なことにそんな美奈子の性質にこそ御国は慰められたし、だからこそ彼女が嫌いではないのだ。彼女は情に流される事もなく、秘密を秘密のままにしてくれる人だから。
美奈子の指摘は聞き流すが、「世間話でもしながら」の言葉通り御国は一手を打って、椅子に深く腰掛け直しながら言った。
「美奈子さんから見て、最近の母さんはどう?」
「……。奥様に関して私から状態を申し上げる事はできません」
嘘を言わず、本当の事も言わないが、御国は静かに目を伏せた彼女の表情が僅かに曇ったのを見逃さない。御国が母親の心身の状態を把握している事を美奈子は知っている。取り繕ったところで、知ろうとすれば誰でも分かってしまう事だから。美奈子は盤面を見つめたまま、ですが、と静かに続けた。
「ご当主様が家にいらっしゃる時は、比較的安定していらっしゃいます」
「知ってる。だから父さんは母さんの状態に気付かないんだ」
有栖院家現当主である有栖院御門は元々仕事の関係で海外出張も多く、多忙で家を空けがちだった。姫莉子が日に日に心身共に不安定になっている現実に御門が気付かない一因にはそういう事情もある。そして、彼が有栖院家に帰って来て家族と顔を会わせる時に限って、姫莉子の体調は好転し、安定する。だからこそ、御門は気付けないのだろう。姫莉子は誰を置いても愛する夫の前でだけは、良き妻でありたがったから。
美奈子の手が駒に伸びる。その最中、御国は不意に呟くように言った。
「美奈子さんがどう思ってるかは知らないけど、俺は貴女に感謝してるんだよ。美奈子さんがいなかったら……」
「そんな言葉を使うのはおやめください」
美奈子から叱責に似た強さを含む言葉が飛び、同時に伸ばしかけていた手が駒に触れた。御国は僅かに驚くように目を大きくして、彼女を見た。だが、目線は交わらない。美奈子は盤上を見ていた。その指先が触れた駒は、彼女が選ぼうとしていたものではなかったのだろう。それを察した御国がほんの少し眉を下げる。
「……。やり直していいよ」
「いいえ、駒に少しでも触ったらそれで一手です」
キッパリと断って、明確な意思を持ったポーンが一歩前へ進む。
チェスにはタッチアンドムーブというルールがある。触れた駒は必ず動かさなければならない、というものだ。チェスでは差し手のやり直しはきかない。……公式戦以外の対局では使われない事も多いし、御国も指し直しを許可したが、厳格な彼女はそれを許容しなかった。
御国は指先を組み合わせて盤上を眺め、ため息をついた。ポーンは後ろには動けない、そしてあのポーンは最後の防御線だった。この盤面の状況ではキングの逃げ場がもうない。どの駒を動かしても次の手でキングが追い詰められる形になる。
「これじゃダメだよ。あと三手先で、チェックメイトだ」
「指したら、『結果に責任を』取りなさいと言いますから」
それが致命的な一手であることに、美奈子は既に気付いているのに。彼女は理解した上で、タッチアンドムーブを遵守することを選んだのだ。
肩を竦めて本当に微かに微笑んだ美奈子に御国は決まりの悪い顔をした。元々ゲームを早く切り上げたがっていたが、彼女にとっても今のタッチアンドムーブが本意でないことは分かっていた。
「美奈子さんはさ、悩む時ってないの」
「ありますよ」
「今の貴女は選択できたんだ。俺は許した。あのまま、やり直してくれたってよかったのに」
「選択によって必ずしも状況が改善するとは限りません。差し手を選ぶ時、最善を選んだようでいて最初から詰んでいたということも世の中にはあるものです。あるいは意図的に、すでに限られた選択肢の中で選ばなければいけない状況というものもあります。あのまま続けても、坊ちゃんは勝っていましたよ」
とても穏やかな声色だった。「楽しいゲームでした」と社交辞令のように付け足す美奈子に対し、御国は年相応に悔しそうな顔をした。彼女はゲームが終わればそのまま席を立ち、消えてしまう。しかし、ここでチェックをかけずにゲームを無理やり引き伸ばせば、彼女はもう二度と自分の相手にはなってくれないだろう。御国はまた、深くため息をついた。
「――――……チェック」
そうして、盤上に響く御国の一言が、美奈子の敗北を確定させたのだった。
有栖院家。悠然とした広大な庭園に囲まれた屋敷は、壮麗な外観も相まってまるで小さな国の城のように佇んでおり、その広い屋敷を管理するための使用人を多数抱えていた。有栖院家は特殊な事情を抱えており、使用人はほとんどが元孤児の過去を持っている。美奈子という女も有栖院家に住み込みで働く使用人の一人だったが、彼女は有栖院に拾われた元孤児ではなかった。
彼女を有栖院家に連れてきたのは、有栖院家の女主人・有栖院姫莉子。彼女は有栖院家の御曹司となる御園を抱え、姫莉子に寄り添うようにして有栖院家の門を通った訳ありの女だ。その経緯を彼女自身がおいそれと語ろうとはしなかったし、美奈子を受け入れた有栖院家の現当主・御門も箝口令を敷いていたため、美奈子の過去を知るものは殆どいない。そういう特殊な点で、美奈子は異質であり良くも悪くも目立つ女だった。
美奈子は愛想のある方ではなかったが、仕事ぶりは至って真面目かつ有能であり、有栖院家の環境にもすぐに適応した彼女は女主人に仕える専属使用人として朝から晩までよく働いた。嫉妬の吸血鬼と契約し、悲劇を引き起こした後の姫莉子は数年の歳月をかけて徐々に衰弱していった。精神的に不安定にもなりがちで、心身ともに痩せ衰えていく女主人を献身的に支え続けていた。
そして、有栖院家に強盗が入った夜、不運にも姫莉子が凶刃に倒れて亡くなった後も――――美奈子は有栖院家に残った。噂によると、姫莉子の葬儀の後、美奈子はもう此処にいる理由はなくなったと伝え、職を辞して屋敷を後にしようとしたとも聞く。しかし、美奈子は元は部外者だったが、有栖院家に起きた惨劇の真実も、それらが起こり得た理由も、全てを知りすぎていた。
全てを、隠さなくては。長男の御国が嫉妬の吸血鬼と共に姿を消し、有栖院に残ったのはたった一人の家族だけ。秘密を守るために。御園を守るために。美奈子を有栖院の外に出すのは、危険すぎると有栖院御門は判断した。その懇願の結果として、彼女は有栖院家に残ることを選んだのだ。
「下手な真似事も、長く続ければ板につくものです」
美奈子は淡々とした声色でそう告げて、ナイトの駒を動かす。盤上に響いた小気味いい音を聞きながら、御国は対面に座る女を見ていた。彼女はクラシカルなデザインのメイド服に身を包んだ、有栖院家の使用人の一人。
御国は未だ少年と呼ばれる年頃だったが有栖院の嫡男で、次期当主となる正当な後継者だ。その対面に使用人が座り、あまつさえゲームに興じるなど本来は望ましいことではない――――……数十分前、彼女はそう言って御国の誘いを断った。ちなみに誘いを断られるの自体はこれが初めてではない。
「坊ちゃんの番です」
しかし今、彼女はこうして御国の対戦相手として席に着いている。
背もたれに体を預けることもなく、かといって盤上のゲームに前のめりに夢中になっているというわけでもなく、姿勢を正して座る美奈子は早くしろとばかりに声をかけた。
「早指しのルールじゃないんだからもう少し悩ませてよ」
「早く終わらせてしまいたいので」
「ホント釣れないなぁ」
御国はため息を吐くように肩を落としながら改めて盤面を一瞥し、緩慢な動きで次の一手を打った。
御国としてはほんの数分でも長く、このゲームを長引かせたいと思っていた。何故なら彼女がこうして席に着いてくれるのは、本当に珍しいことだったから。彼女は御国が『無邪気な子どものかわいいわがまま』で引き留めても、5回に1回はすげなくあしらわれるようにして断るのだ。当時の御国は、彼女ほど子どもに対して冷徹な対応をとる大人は他に知らないとさえ思っていた。
この一手の後、どこか無気力さを感じさせる擦れた瞳が盤面を見る。膝の上で揃えられた指先が駒の位置を確認するように軽く持ち上がり、そして十数秒と待たずに彼女は次の一手を進めた。
退屈そうに「早く終わらせたい」とあんまりな言い分の美奈子だったが……その差し手は考えなしの適当な一手とは程遠く的確で、鋭く、鮮やかだ。
美奈子との初めてのチェスは、たったの2手で終わった。開始1分と経たず終わったゲームに御国が落胆したのは言うまでもない。いわゆる、フールズメイトというやつで実際に御国が経験したのはあれ一回きりだ。チェスはプレイヤーの実力差が顕著に現れるゲームで、フールズメイトは大抵、一方のプレイヤーの不注意や知識不足によって起こるものだ。最初は本当に初心者なのかと思った時もあったけれど、この実力を見る限り、アレが偶然の一手だったとは考えられない。
極め付けに「一回は一回だとお約束しましたでしょう」と微笑んで席を立った彼女の背を唖然と見送った御国は美奈子という女の、大人気ないやり口を思い知った。あの出来事があって以来、二度目のゲームでも同じ手を使ってきた彼女に釘を刺した上でチェックメイトの機会を見逃した結果、続いたその日のゲームで勝敗はつかなかった。
またも急かされる前に御国はうーん、とわざとらしく声を上げながら顎に手を添えて、盤面を見下ろした。わざと自滅的な悪手を選んでもゲームを引き延ばされると理解した彼女は、本気でキングを取りに来る。最小手でチェックメイトを目指すような、驚くほど攻撃的なゲームを展開するのだ。御国の周りには、こんなプレイヤーはいなかった。御国にとってチェスの相手は、もっぱら父か、服部、最近では弟で……。その誰とも指し方が違う。だから、美奈子とのゲームはいつも新鮮で楽しい。
次の手を考える素振りを見せながら、御国は呟くように言った。
「美奈子さんの頭の中を覗いてみたいな」
「私の頭の中なんて覗いてみても、面白いものは何も詰まっていませんよ」
「そうかな」
盗み見るようにして視線を上げれば、彼女は窓の外へと視線を向けていた。煌々と陽光を受けては風に揺れる庭木を見る美奈子の横顔は美しかった。美奈子はどんな時も落ち着いていて、まるで生きながら彼岸に足を踏み入れているような、影のある女だった。
しかし、そんな女が不思議なことに……この家で誰よりも御国の母である姫莉子の身を案じ、誰よりも姫莉子のことを考えて尽くしている。その事実は有栖院に属する誰もが理解していた。日を追うごとに、彼岸へと誘われるように心身ともに不安定になっていく姫莉子を繋ぎ止めているのは、美奈子の献身があってこそだと言えるだろう。
しかしそれも、そう長く続かないことが御国にはよく分かっていた。姫莉子はもう長くは保たないだろう、と。姫莉子に深く接する機会の多い人間ならば、誰もが薄々気付いている。皮肉なことにそれに気付いていないのは、忙しく家を空けがちな父親と、幼い弟くらいだろう。
「この前、御園ともチェスをしてたって聞いたよ」
「……。ええまあ、週末に向けての特訓だそうで。僭越ながら一戦だけ、お相手をさせていただきました」
「俺とは頼んでも勝負してくれないくせに」
御国がクイーンを動かす。駒の動いた音に盤上へと意識を戻した美奈子に恨み節を揶揄うように言えば、彼女は一瞬御国の表情を見るように視線を上げて、すぐに下ろした。
「何度も申しておりますが、私の仕事に坊ちゃんとのチェス勝負は含まれておりませんので」
「あ。やっぱりそっちが本音なんだ。次期当主と使用人が同じテーブルでゲームなんて望ましくない〜とかなんとか言ってたのに」
「あら、失言でした。どうかお許しください」
「全然悪いと思ってなさそうな顔してるけど?」
「そのように見えたのなら、あえて弁明は致しません――――チェック」
たおやかに微笑んでチェックの宣言を行い、美奈子は駒を動かした。
キングを逃すか、攻撃を仕掛けている駒を取り除くか、間に駒を置いて攻撃を遮るか。御国は少し盤面の状況を見直した後、間に駒を置いて攻撃を遮ることを選んだ。今の盤面の状況ではキングの逃げ道も選べる手数も多いので、チェックメイトにはまだ繋がらないことはお互いに承知の上だ。
御国の一手を見て、美奈子は落胆の滲む息を小さく吐く。言わずもがな、このゲームがまだ続くことに対するため息だ。
「このまま続けるのは構いませんが、時間が来れば途中でも退席させていただきますよ」
「……、いいよ。だから母さんたちが帰ってくるまでは俺に付き合ってよ。こういう時間が取れるのなんてめったにないんだからさ」
「……ただのゲームで終わるなら構いませんが、そんなつもりもないのでしょう」
「何言ってるの? チェスはゲームだよ。ただ俺は世間話でもしながら美奈子さんともっと仲良くなりたいだけ」
スッと目を細めて美奈子は御国を見つめた。視線は鋭く冷ややかでそこに純粋な好意だとか、思いやりだとかの感情は一切感じられない。こういった視線を真っ直ぐに向けられることは御国にとってはあまり馴染みのないことだった。有栖院の使用人達はそれぞれ、事情はあれど孤児の過去を持つ者が多い。有栖院で援助を受けることで生きて大人になれた彼らは、有栖院の後継者である御国に非常に好意的に接してくれる。そんな優しい人たちに囲まれた環境、だからこそ、だろうか。
御国は美奈子の、そういう飾り気のないところが嫌いではなかった。
「情報を引き出したいの間違いでは?」
……それが全く彼女に伝わっていないことも、よく分かっていたが。
御国は曖昧な笑顔を返して、手のひらで盤を示した。暫くお互いに無言で見つめあったが、御国が言及を避けている事を理解した美奈子はナイトの駒を手に取って、手番を消化する。
この人は自分のこういうところが嫌いなんだろうな、と御国は思った。彼女の指摘は、正しい。御国は美奈子から情報を引き出したかった。弟の母親である、立波歩風の事を聞きたかった。あの人が有栖院を去った後、どこで過ごし、何を語り、どう生きたのか……。だが、それを聞いてはいけないことも御国にはよく分かっていた。そして、美奈子は聞いたところで決して答えてくれはしないだろう。皮肉なことにそんな美奈子の性質にこそ御国は慰められたし、だからこそ彼女が嫌いではないのだ。彼女は情に流される事もなく、秘密を秘密のままにしてくれる人だから。
美奈子の指摘は聞き流すが、「世間話でもしながら」の言葉通り御国は一手を打って、椅子に深く腰掛け直しながら言った。
「美奈子さんから見て、最近の母さんはどう?」
「……。奥様に関して私から状態を申し上げる事はできません」
嘘を言わず、本当の事も言わないが、御国は静かに目を伏せた彼女の表情が僅かに曇ったのを見逃さない。御国が母親の心身の状態を把握している事を美奈子は知っている。取り繕ったところで、知ろうとすれば誰でも分かってしまう事だから。美奈子は盤面を見つめたまま、ですが、と静かに続けた。
「ご当主様が家にいらっしゃる時は、比較的安定していらっしゃいます」
「知ってる。だから父さんは母さんの状態に気付かないんだ」
有栖院家現当主である有栖院御門は元々仕事の関係で海外出張も多く、多忙で家を空けがちだった。姫莉子が日に日に心身共に不安定になっている現実に御門が気付かない一因にはそういう事情もある。そして、彼が有栖院家に帰って来て家族と顔を会わせる時に限って、姫莉子の体調は好転し、安定する。だからこそ、御門は気付けないのだろう。姫莉子は誰を置いても愛する夫の前でだけは、良き妻でありたがったから。
美奈子の手が駒に伸びる。その最中、御国は不意に呟くように言った。
「美奈子さんがどう思ってるかは知らないけど、俺は貴女に感謝してるんだよ。美奈子さんがいなかったら……」
「そんな言葉を使うのはおやめください」
美奈子から叱責に似た強さを含む言葉が飛び、同時に伸ばしかけていた手が駒に触れた。御国は僅かに驚くように目を大きくして、彼女を見た。だが、目線は交わらない。美奈子は盤上を見ていた。その指先が触れた駒は、彼女が選ぼうとしていたものではなかったのだろう。それを察した御国がほんの少し眉を下げる。
「……。やり直していいよ」
「いいえ、駒に少しでも触ったらそれで一手です」
キッパリと断って、明確な意思を持ったポーンが一歩前へ進む。
チェスにはタッチアンドムーブというルールがある。触れた駒は必ず動かさなければならない、というものだ。チェスでは差し手のやり直しはきかない。……公式戦以外の対局では使われない事も多いし、御国も指し直しを許可したが、厳格な彼女はそれを許容しなかった。
御国は指先を組み合わせて盤上を眺め、ため息をついた。ポーンは後ろには動けない、そしてあのポーンは最後の防御線だった。この盤面の状況ではキングの逃げ場がもうない。どの駒を動かしても次の手でキングが追い詰められる形になる。
「これじゃダメだよ。あと三手先で、チェックメイトだ」
「指したら、『結果に責任を』取りなさいと言いますから」
それが致命的な一手であることに、美奈子は既に気付いているのに。彼女は理解した上で、タッチアンドムーブを遵守することを選んだのだ。
肩を竦めて本当に微かに微笑んだ美奈子に御国は決まりの悪い顔をした。元々ゲームを早く切り上げたがっていたが、彼女にとっても今のタッチアンドムーブが本意でないことは分かっていた。
「美奈子さんはさ、悩む時ってないの」
「ありますよ」
「今の貴女は選択できたんだ。俺は許した。あのまま、やり直してくれたってよかったのに」
「選択によって必ずしも状況が改善するとは限りません。差し手を選ぶ時、最善を選んだようでいて最初から詰んでいたということも世の中にはあるものです。あるいは意図的に、すでに限られた選択肢の中で選ばなければいけない状況というものもあります。あのまま続けても、坊ちゃんは勝っていましたよ」
とても穏やかな声色だった。「楽しいゲームでした」と社交辞令のように付け足す美奈子に対し、御国は年相応に悔しそうな顔をした。彼女はゲームが終わればそのまま席を立ち、消えてしまう。しかし、ここでチェックをかけずにゲームを無理やり引き伸ばせば、彼女はもう二度と自分の相手にはなってくれないだろう。御国はまた、深くため息をついた。
「――――……チェック」
そうして、盤上に響く御国の一言が、美奈子の敗北を確定させたのだった。
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