海を目指して
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海沿いを風が吹き抜けた。波で洗った足元が一層ひりつくように感じて、御名は足の指先を丸めるように曲げる。足先は冷えているせいか感覚が酷く鈍かったが、指の間に張り付いて擦れる砂の細かい感触ははっきりと分かった。それが何となく不快で、振り払うように足をぶらぶらと二、三度揺らしてみる。その振動が伝わったのだろう。弓景からは「大人しくしてろ」とすぐに抗議の声が上がった。
それに素直に返事を返して、御名は首を捻るようにして後ろを振り向く。まだ海からはそこまで離れてないくせに、波の音が少しずつ遠のいていくように感じる。そんなことを思ったことにはたと気付き、御名は自分の意識を現実に引き戻すように弓景の肩に置いた手の指先に僅かに力を込めるようにして、声をかけた。
「結局見つけられなかったわね。貝殻もシーグラスも」
「そうだな。……がっかりしたか?」
「ううん、別に。意外と見つからない物なんだって思っただけ」
心のままにそう返しながら、背を向ける海から正面へと視線を戻した御名は自分を背負って浜を歩く男を見る。
有栖院御名から見た月満弓景という男は、いい人だ。……悪く言い換えれば、驚くほど愚直で世話焼きな、お人好しだ。そう形容するほかない。一応は顔見知りだが、行きずりの女の無鉄砲を咎めるくせに、言うことを聞いて家に泊めたり、それで何を要求するでもなく、翌朝普通に朝食を用意して、行きたいという言葉だけでこんなところまで連れてきてくれたり……。
(放っておけばいいのに。)
――――何度、そう思ったことか。
悪態をつく喧嘩腰の態度や時々飛び出る口の悪さとは裏腹に、気遣いが出来て面倒見がいい。この男は、そういう人だった。
御名とて衝動で家を飛び出した事自体は本当だったが、一切の考えなしで行動していたわけではない。兄の御国ほどあらゆる才覚には恵まれなかったが、御名は昔から人を見る目に優れていた。少し話して、早い段階で弓景がどういう人間であるかは見抜いて、リスクヘッジはしていたつもりである。……とはいえ、普段であれば、絶対にこんなことはしない。
今まであの家で生きてきた有栖院御名という女であれば、一人暮らしの男の家に上がり込んで泊まるなんてあり得ないし、同じ椅子に座るのだって、バイクに乗ることだって、こうして背負って歩かれる事だって……。
絶対に、しなかった。……でもまあ、それが。この人なら、別にいいかと思ったのだ。
自分の物とはまた別の、金の髪が波風に毛先を遊ばれている。窓から差し込む月の光を思い起こさせる、色。目の前で揺れるそれを見つめ、目を細めた御名は小さく息をついて、間を持たせるための適当な話題を選ぼうとした。丁度、黙々と砂浜を踏みしめて歩いていた弓景の方から声がかかる。
「さっきの、話だけどよ」
「さっき?」
「……家出の」
妙に言い出しにくそうで歯切れが悪い。また何か、弓景なりの余計な気遣いをしているのだろう。そう察して、御名は苦笑しながらわざと明るい調子で言う。
「ああ、家出のね? なあに弓景。そんなにさっきの話が気になったの?」
「気になったっつーか……。お前、昨日変なこと言ってたろ。目的のために初対面の男と結婚するとか、愛――してなくてもとか」
「……言ったわね」
言った気がする。正直あまり覚えていなかったが、そういった言葉が自分の口から出ていたとしても不思議はない。だからなんだと思いながら御名は首を傾げた。
「俺は外野だし、有栖院の事情とかもよく知らねえし、お前が話した『理由』もどこまで本心かも分かんねえよ。けどよ」
そう区切って、弓景は暫し沈黙する。その背中に背負われる御名は、弓景の頸のあたりに視線を落として静かに続きを待った。
その靴底は話す間も一歩一歩、迷う事なく砂浜を踏み締めて目指す場所へと進み続ける。言葉を丁寧に選んでいると分かる間の後で、「けど、」と無意識に空を見るように視線を上げた。
「茶化さなくてもちゃんと話すなら、お前が話したいなら聞いてやるよ。……でも、ふざけてまで話したくないなら、話さなくていい。話したくない、だけでいいんだ。だから、助けがいるなら素直にそう言え」
遠退いてなお、耳に残るような波の音。それに混じる呼び声が、不思議なほどはっきりと聞き取れた。
話したいなら、聞いてくれる。話したくないなら、話さなくていい。話したくないと、伝えるだけでいい。――あまりに簡素で飾り気のない言葉だ。そのまま受け取る以外の意味を持たないそれらを胸の内側で転がした御名は「……、うん」と静かに呟いて、春の木漏れ日を指の隙間から眺めるように目を細めた。
「でもね、弓景。嘘じゃないのよ。家出はノリと勢いだって言ったことも。なんでって聞かれたら――考えてみたけど、あれが嫌だったとかこれが嫌だったとか、そんな特別な何かがあったわけじゃないの。そういう事ってあるでしょ。原因だなんて呼ぶにはささやかな、もっと、…………なんて言えばいい……?」
「俺の顔色伺うみたいに言葉探すのやめろ」
「いや、見えないけど。顔色」
「っ、お前なぁ……!? ……じゃあ釣書は! 見合いのことはどーなんだよ」
「お見合いのことはまあ、嫌――、うーん。……嫌だったのかな」
御名は言葉の詰まりを取ろうとするように大きく息を吐きながら、「これ、誘導してない?」と笑い混じりの震えを抑える声で言って、弓景の肩に置いた手を伸ばして背を後ろに仰け反らせた。見上げた秋晴れの空が青々と視界いっぱいに広がって、それだけしか見えない。
急に偏った重心にも特に体幹が揺らいだ様子はなく、ただ「なにしてんだよ……」という呆れ声が上がる。それと共にバランスを取るよう、何事もなく御名の足を保持する腕を抱え直すように揺すったのが感覚で分かった。遠く、高く、広がる空を前に、御名は大きく深呼吸を一つ。仰け反っていた体勢を元に戻して、「ねえ弓景」と呼びかける。
「ありがとう」
「……? 何が?」
「昨日家に泊めてくれたことも、バイクに乗せてくれたことも、海に連れてきてくれたことも、こうして運んでくれることも色々よ。ちゃんと言ってなかった気がするから」
「あー……、なんだよ。ホント、今更だなあ」
肩から伝わる揺れで、小さく笑ってるのがわかった。だからだろうか。その表情を見逃していることが、少し勿体無いと感じる。
駐車場までもう少しだけど、やっぱりもう下ろしてもらおうかな。なんだか寒くなくなってきた気もするし。でも、それも少し惜しいような……?
そこまで考えて、御名はぴた、と固まった。道に迷う子どものように視線を泳がせて、眉根を寄せながら首を捻る。なぜそんなことを考えたのか、御名の中で明確な答えが固まる前に更に話は続いた。
「御名」
「ん、なに?」
「見合いの話も、嫌だったんなら帰ってまず親父さんとちゃんと話、してみろよ。家出なんて真似も、いつまでもは無理だって自分でも分かってるだろ」
「あー……。うーん……」
悩ましげに声を上げ、暫く欧州の方に出張している父の顔を思い浮かべた御名はまた黙る。……別に父との関係が険悪というわけではないが、それはなんだか気乗りしない話である。
あ。そういえば昨日、電話を貰ったな、と思い出した。誕生日のお祝いと、急な仕事で帰国が間に合わないことの謝罪に合わせた簡単な近況報告、親子であれば珍しくもないような当たり障りのないやり取りをした、はずだ。これもあまりよく覚えていない。御名にとっては、いつも通りのことでわざわざ気に留めるような出来事でもなかったから。
家出のこと自体は、まあそうだ。流石にもう不在には気付かれてると思うから、今からでも何事もなかったかのように帰宅――というのは難しいだろうが、とはいえこの先ずっと弓景に迷惑をかけ続けるわけにもいかない。ここまでずっと付き合ってもらって気分も晴れたし、家族を心配させたいわけでもなかったから、本当は今日にでも有栖院家に戻ろうとは思っていた。
御名が悶々と渋い顔をして考えているところに、「それでダメなら、俺に相談しろ」と弓景の言葉が寄り添う。家の話を出した途端に沈黙したことを気にかけてか、弓景は僅かに首を振り返るように捻って、更に言葉を続けた。ようやく辿り着いた石造りの階段を前に立ち止まって言う。……駐車場はもうすぐそこだった。
「俺がなんとか、助けになるからよ」
「それ、……弓景にとって何の得になるの?」
「バーカ、得とか損とかそういうんじゃねーんだよ。…………友だちってのは」
「――――……、……友だち?」
「……、おう」
「私と、弓景が」
「っんだよ。変かよ」
「ううん、……友だちか。ふ、あはははっそう――、そっか!」
『友だち』という言葉を繰り返して、これ以上ないほどの笑い声をあげる御名は今日一番に顔を綻ばせた。
「それもいいわね!」
誰に見せるわけでもないのに、誰が見ているわけでもないのに。誰もが見惚れるような無垢で純粋な愛らしい少女の顔で御名は笑う。言い終わるや否や、御名はぎゅうと弓景の首に抱き付いた。肩に置いていた手を前に回して、クリスマスのプレゼントを腕いっぱいで抱きしめて喜びを表現するように抱擁して、終いにはぐりぐりと頬まで弓景の首筋に擦り寄せる。
予想の斜め上をいく行動に、「は!?」と声を上げながら弓景はぎこちなく固まる。しかし、御名がどこまでも嬉しそうにしている様子から、グッと堪えて転ばないように体幹を維持するだけで、あとは好きなようにさせた。ただ恥ずかしそうに眦を下げながら肩を竦めて所在なさげに視線を横へ流して耐える。
「ねえ弓景! 家出のことは、バカみたいなことしたって自分でもそう思ってる。けどね、今は不思議と後悔はしてないの。今は、よかったなって思ってるわ」
「…………。そうか、ならよかったな」
「だから、今日はちゃんと帰る」
「もう、いいのか?」
「まあね、しょうがないから帰ってやるわよ。だから、最後の面倒ついでに友だちを家まで送ってくれる?」
「は、わーったよ。しょうがねーから、付き合ってやる」
石造りの階段を上がるゆりかごのような振動に身を預けて、地に足つけて立ってるわけでもないのに胸を満たす安心感。一人で立たなくてもいいと言われているようなこの不安定さが不思議なほど心地よかった。ずっと続けばいいのに、なんて旅の終わりを目前に惜しく思うくらいには。
だから最後にもう一度だけ、海を振り返った。確かに現実だった。秋空の青さも、指の間の砂の感触も、足を浸した水の冷たさも。
きっとこれから何度も思い返し、懐かしむのだろう。あの日見た、遠い絵画のような海の景色と共に。
「水道あっからそこで足洗えよ」「寒いじゃない」「じゃあそのまま靴履け」「嫌に決まってるでしょ」と言い合いながら長くもない階段を上がって浜から駐車場に戻ってきた二人はそこに止まる車を見て、足を止めた。弓景はまだ御名を背負ったままだったので、正確に言えば足を止めたのは弓景だけだったが、御名もまた同じように駐車場に停車する車を見て途中まで紡いだ言葉を止めた。
傷や汚れ一つなく磨き抜かれた黒塗りの高級車を前に、いや目立つなぁ、アレ……。という感想が二人の胸に浮かぶ。
そのタイミングでガチャリと音を立てて、少し慌てたように運転席から降りてきた人物を見て御名は「あ」と声を上げた。当然、それが見覚えのある顔だったからである。すぐに駆け寄ってきたスーツ姿の下まつ毛が特徴的な男・洞堂永介は動揺の方が優っているような引き攣った表情で一瞬、弓景を見、それからすぐにその背に背負われている御名を見る。聞き辛そうに――いや聞き辛いどころか正直あんまり聞きたくもないんだけど、というような様子で尋ねた。
「……、……なにやってんすか?」
「そういう貴方こそこんなところでなにやってるの? サボり?」
「いや、そんなわけないでしょ……」
「まあ、丁度いいわ。何か拭くもの持ってない? そこの水道で足を洗いたいんだけど」
「いやホントアンタ何やってたんすか」
そう言いながらもすぐに車の方へ引き返していく洞堂の背を見送り、御名は弓景の肩を軽く叩いて水道の方を指差した。弓景は要求されるままに駐車場の脇に設置された水道の方へと歩き出しながら聞く。「有栖院の人か?」「そう。使用人よ」というような簡素なやり取りの後、水道に背を向ける形で屈んだ弓景の背から御名はゆっくりと降りた。弓景が自分の靴を手で叩いて砂を落とそうとする横で、御名は水道を捻って指先で水温を確かめて不服げな顔で砂が張り付いた足を手早く洗い流す。タオルを持って戻ってきた洞堂に礼を言って、足を拭いていると洞堂がやっぱり聞き辛そうに言った。
「……あー、ところでこちらさまは」
「ああ、この人は――」御名は足先をブーツの中に滑り込ませながら何ともなしに言った。
「一夜を共に過ごした人よ」
「は……!?」
返答に思わず目を剥いた洞堂だったが、弓景もまた同様に目を剥きながら「はあ!?」と大声をあげる。
なんでそっちも叫んでるんだ、と言いたげに弓景を見た洞堂の脳内は混沌としていた。今朝方、御名が屋敷から姿を消していると発覚した時点で大騒ぎ、有栖院家の情報網を総動員し、何故かこんな辺鄙な海辺まで来ているということが分かって、周囲からせき立てられるまま車を爆走させて迎えに来て現在。だというのに、そんな報告を上げた日には――――。
爆弾発言をした当人はあくまでしれーっとした顔をしていること、日頃の御名自身は滅多に冗談を言う人間ではなかった事から概ね事実であると勘定した洞堂は、はあー本当にどうしよう、という表情でグッと顔を顰めた。
「えっ、ちょ……まじ……、いや……。マジか……」
「マジじゃねえよそこ納得すんな」
「え?」
「まじなんだけど」
「お前はちょっと黙ってろ!」
「なに言ってるの、一言一句間違いなくまじでしょ。私たち一晩中お酒飲みながら恋愛映画まで見た仲じゃない、忘れたわけ?」
「その言い方じゃ紛らわしいんだよボケッ」
「はあ〜?」
まるで痴話喧嘩である。弓景に詰め寄られて文句を言われることさえも楽しんでいるように見える御名の姿に洞堂は思わず目を丸くする。
暫く当惑するように二人の言葉の応酬を見ていた洞堂だったが、彼は早々に「……あー、そういう……」と順応することを選んだ。込み入った事情は分からずとも、少なくとも箱入り娘のお嬢様が柄の悪い男に騙されて丸め込まれたとかではなく、確実に御名の方が弓景を振り回している、というパワーバランスが薄らと透けて見えたためだ。ここまで他者に気を許している御名を見るのは、初めてだった。珍しいこともあるものだ、洞堂は思った。
笑いながら、思い出したように洞堂の方へと視線を向けた御名が穏やかに笑みを深めて「――洞堂」と呼びかける。その一声で主人の意図を悟れと言うような、人を扱うことに慣れているその声を聞き、洞堂はすぐに佇まいを正した。
「貴方は先に車で待っててくれる?」
「……はい。その……」
「私のこと迎えに行ってこいって言われたんでしょ」
「まあ、……そうすね。……言われました。それと、実は御門様が本邸にお戻りで」
「え。」それは予想外、とばかりに御名の目が丸くなる。
「それっていつ」
「予定を調整されて昼頃に帰国されたみたい、すわ」
僅かに目を見開いた後、御名はハ、と息を吐くように笑う。しかしすぐに、ほら行きなさいと示すように手を振った。それを見た洞堂は静かに目を伏せ、弓景に対して軽い会釈をした後、車の方へと戻っていく。
それを見送った御名は、やがて予定が狂ったな、とばかりに残念そうな表情で弓景を見た。洞堂とのやり取りを様子見をしていた弓景は、その表情だけでその先の意図を理解する。
「弓景。悪いけど、帰りはやっぱり家の車で帰るわ」
「いいのかよ」
「うん、ま。洞堂を一人で帰すのも可哀想だし、お父さんともちゃんと話さなきゃだから」
「そうか、……頑張れよ」
言葉を選んでありがちな言葉に留まった励ましに対して、御名は肩を竦めるような仕草だけで応えた。
「本当にありがとう。私、貴方のおかげで本当に楽しかったわ。やりたかったことがいくつも出来たしね。そのうち改めてお礼に伺うから」
「いんだよ。礼なんて、別に」
「……殊勝なのね。あんなに振り回したのに?」
「っは、自覚あったのかよ」
「じゃあ、――さよなら。気をつけて帰ってね」
軽い調子でそう言って、車の方へと踵を返した御名の背を見送りながら、弓景は嵐のように過ぎ去った一日を軽く振り返る。別れの挨拶自体は、酷くあっさりしたものである。当たり障りなく、散歩中に偶然会った知人と世間話でもして、別れる時のような呆気なさ。
……、とりあえず飯でも食ってのんびり帰るかな……。と頭の片隅で考え始める弓景の視界で、一直線に車へと向かっていた御名の足が、不意に止まる。立ち止まって何かを迷うように首を右へ左へと捻っていると思えば、そのままバッと振り返り、早足に弓景の方へと戻ってきた。
なんだ――? と訝しむ弓景の目の前で止まり、その胸ぐらを掴んで引き寄せる。予想外の行動に「はあ!?」と目を剥きながら大声を上げた弓景の頬に御名は、無遠慮に唇を押し付けた。それからすぐにパッ――と、体を離した。
いきなり平手で殴打されたかのような仕草で頬に手を当て、思わず後ずさる弓景。それを見る御名の冷ややかな視線に尚更行動の意図がわからず狼狽する。
「ッ、な――なに、おま、何しやが……っ!?」
「……。……まあ、お礼?」
「は、ぁ……!? なんッでそうなったんだよ、このバカ!」
弓景は動揺のまま、叫んで、自分を見上げるその額に向かってデコピンを食らわせた。
煩い心臓の音を無視してできる最大限の抵抗の発露だった。
「いった、何すんのよこのバカ……!」
額を手で押さえて、しっかり睨むように「暴行罪で訴えられたいの!?」と吠えたのは御名である。なぜ今の状況で自分が不当な暴行を受けたかのような台詞がすらすら出せるのか。
諸々が衝撃的すぎて弓景は完全に言葉を失った。それに対し、御名は何故か勝ち誇ったような顔で「じゃあね!」と言い捨て、忙しなく走り去っていく。その背をまた、呆然と見送って――――、
弓景は頭を抱えてその場に蹲った。本当に最後の最後までやりたい放題に振り回してくる、自分勝手な女だった。
うるさい心臓を押さえつけて、絞り出すように呟かれた「……なんだよ、……意味わかんねえだろ」という言葉が海風に攫われてかき消えた。
一方、家出の帰りとは思えないほど、やたらと上機嫌で車に乗り込んだ御名は走り出した車内から窓の外を眺めていた。
昨日までは知らなかった。秋の海の冷たさも、エンジンの唸りを感じながら風を切って走る感覚も。それらを一つ一つ、確かめるように思い返していた御名は、小さく笑い声を上げた。肘を付いた手の先で口元を隠しながら、鳩が豆鉄砲を食ったような弓景の間抜け顔を思い出す。
――なんでってそんなの決まってるでしょ、仕返しよ。
――あれで、散々私のことを考えてくれたらいいのに。
Fin.
それに素直に返事を返して、御名は首を捻るようにして後ろを振り向く。まだ海からはそこまで離れてないくせに、波の音が少しずつ遠のいていくように感じる。そんなことを思ったことにはたと気付き、御名は自分の意識を現実に引き戻すように弓景の肩に置いた手の指先に僅かに力を込めるようにして、声をかけた。
「結局見つけられなかったわね。貝殻もシーグラスも」
「そうだな。……がっかりしたか?」
「ううん、別に。意外と見つからない物なんだって思っただけ」
心のままにそう返しながら、背を向ける海から正面へと視線を戻した御名は自分を背負って浜を歩く男を見る。
有栖院御名から見た月満弓景という男は、いい人だ。……悪く言い換えれば、驚くほど愚直で世話焼きな、お人好しだ。そう形容するほかない。一応は顔見知りだが、行きずりの女の無鉄砲を咎めるくせに、言うことを聞いて家に泊めたり、それで何を要求するでもなく、翌朝普通に朝食を用意して、行きたいという言葉だけでこんなところまで連れてきてくれたり……。
(放っておけばいいのに。)
――――何度、そう思ったことか。
悪態をつく喧嘩腰の態度や時々飛び出る口の悪さとは裏腹に、気遣いが出来て面倒見がいい。この男は、そういう人だった。
御名とて衝動で家を飛び出した事自体は本当だったが、一切の考えなしで行動していたわけではない。兄の御国ほどあらゆる才覚には恵まれなかったが、御名は昔から人を見る目に優れていた。少し話して、早い段階で弓景がどういう人間であるかは見抜いて、リスクヘッジはしていたつもりである。……とはいえ、普段であれば、絶対にこんなことはしない。
今まであの家で生きてきた有栖院御名という女であれば、一人暮らしの男の家に上がり込んで泊まるなんてあり得ないし、同じ椅子に座るのだって、バイクに乗ることだって、こうして背負って歩かれる事だって……。
絶対に、しなかった。……でもまあ、それが。この人なら、別にいいかと思ったのだ。
自分の物とはまた別の、金の髪が波風に毛先を遊ばれている。窓から差し込む月の光を思い起こさせる、色。目の前で揺れるそれを見つめ、目を細めた御名は小さく息をついて、間を持たせるための適当な話題を選ぼうとした。丁度、黙々と砂浜を踏みしめて歩いていた弓景の方から声がかかる。
「さっきの、話だけどよ」
「さっき?」
「……家出の」
妙に言い出しにくそうで歯切れが悪い。また何か、弓景なりの余計な気遣いをしているのだろう。そう察して、御名は苦笑しながらわざと明るい調子で言う。
「ああ、家出のね? なあに弓景。そんなにさっきの話が気になったの?」
「気になったっつーか……。お前、昨日変なこと言ってたろ。目的のために初対面の男と結婚するとか、愛――してなくてもとか」
「……言ったわね」
言った気がする。正直あまり覚えていなかったが、そういった言葉が自分の口から出ていたとしても不思議はない。だからなんだと思いながら御名は首を傾げた。
「俺は外野だし、有栖院の事情とかもよく知らねえし、お前が話した『理由』もどこまで本心かも分かんねえよ。けどよ」
そう区切って、弓景は暫し沈黙する。その背中に背負われる御名は、弓景の頸のあたりに視線を落として静かに続きを待った。
その靴底は話す間も一歩一歩、迷う事なく砂浜を踏み締めて目指す場所へと進み続ける。言葉を丁寧に選んでいると分かる間の後で、「けど、」と無意識に空を見るように視線を上げた。
「茶化さなくてもちゃんと話すなら、お前が話したいなら聞いてやるよ。……でも、ふざけてまで話したくないなら、話さなくていい。話したくない、だけでいいんだ。だから、助けがいるなら素直にそう言え」
遠退いてなお、耳に残るような波の音。それに混じる呼び声が、不思議なほどはっきりと聞き取れた。
話したいなら、聞いてくれる。話したくないなら、話さなくていい。話したくないと、伝えるだけでいい。――あまりに簡素で飾り気のない言葉だ。そのまま受け取る以外の意味を持たないそれらを胸の内側で転がした御名は「……、うん」と静かに呟いて、春の木漏れ日を指の隙間から眺めるように目を細めた。
「でもね、弓景。嘘じゃないのよ。家出はノリと勢いだって言ったことも。なんでって聞かれたら――考えてみたけど、あれが嫌だったとかこれが嫌だったとか、そんな特別な何かがあったわけじゃないの。そういう事ってあるでしょ。原因だなんて呼ぶにはささやかな、もっと、…………なんて言えばいい……?」
「俺の顔色伺うみたいに言葉探すのやめろ」
「いや、見えないけど。顔色」
「っ、お前なぁ……!? ……じゃあ釣書は! 見合いのことはどーなんだよ」
「お見合いのことはまあ、嫌――、うーん。……嫌だったのかな」
御名は言葉の詰まりを取ろうとするように大きく息を吐きながら、「これ、誘導してない?」と笑い混じりの震えを抑える声で言って、弓景の肩に置いた手を伸ばして背を後ろに仰け反らせた。見上げた秋晴れの空が青々と視界いっぱいに広がって、それだけしか見えない。
急に偏った重心にも特に体幹が揺らいだ様子はなく、ただ「なにしてんだよ……」という呆れ声が上がる。それと共にバランスを取るよう、何事もなく御名の足を保持する腕を抱え直すように揺すったのが感覚で分かった。遠く、高く、広がる空を前に、御名は大きく深呼吸を一つ。仰け反っていた体勢を元に戻して、「ねえ弓景」と呼びかける。
「ありがとう」
「……? 何が?」
「昨日家に泊めてくれたことも、バイクに乗せてくれたことも、海に連れてきてくれたことも、こうして運んでくれることも色々よ。ちゃんと言ってなかった気がするから」
「あー……、なんだよ。ホント、今更だなあ」
肩から伝わる揺れで、小さく笑ってるのがわかった。だからだろうか。その表情を見逃していることが、少し勿体無いと感じる。
駐車場までもう少しだけど、やっぱりもう下ろしてもらおうかな。なんだか寒くなくなってきた気もするし。でも、それも少し惜しいような……?
そこまで考えて、御名はぴた、と固まった。道に迷う子どものように視線を泳がせて、眉根を寄せながら首を捻る。なぜそんなことを考えたのか、御名の中で明確な答えが固まる前に更に話は続いた。
「御名」
「ん、なに?」
「見合いの話も、嫌だったんなら帰ってまず親父さんとちゃんと話、してみろよ。家出なんて真似も、いつまでもは無理だって自分でも分かってるだろ」
「あー……。うーん……」
悩ましげに声を上げ、暫く欧州の方に出張している父の顔を思い浮かべた御名はまた黙る。……別に父との関係が険悪というわけではないが、それはなんだか気乗りしない話である。
あ。そういえば昨日、電話を貰ったな、と思い出した。誕生日のお祝いと、急な仕事で帰国が間に合わないことの謝罪に合わせた簡単な近況報告、親子であれば珍しくもないような当たり障りのないやり取りをした、はずだ。これもあまりよく覚えていない。御名にとっては、いつも通りのことでわざわざ気に留めるような出来事でもなかったから。
家出のこと自体は、まあそうだ。流石にもう不在には気付かれてると思うから、今からでも何事もなかったかのように帰宅――というのは難しいだろうが、とはいえこの先ずっと弓景に迷惑をかけ続けるわけにもいかない。ここまでずっと付き合ってもらって気分も晴れたし、家族を心配させたいわけでもなかったから、本当は今日にでも有栖院家に戻ろうとは思っていた。
御名が悶々と渋い顔をして考えているところに、「それでダメなら、俺に相談しろ」と弓景の言葉が寄り添う。家の話を出した途端に沈黙したことを気にかけてか、弓景は僅かに首を振り返るように捻って、更に言葉を続けた。ようやく辿り着いた石造りの階段を前に立ち止まって言う。……駐車場はもうすぐそこだった。
「俺がなんとか、助けになるからよ」
「それ、……弓景にとって何の得になるの?」
「バーカ、得とか損とかそういうんじゃねーんだよ。…………友だちってのは」
「――――……、……友だち?」
「……、おう」
「私と、弓景が」
「っんだよ。変かよ」
「ううん、……友だちか。ふ、あはははっそう――、そっか!」
『友だち』という言葉を繰り返して、これ以上ないほどの笑い声をあげる御名は今日一番に顔を綻ばせた。
「それもいいわね!」
誰に見せるわけでもないのに、誰が見ているわけでもないのに。誰もが見惚れるような無垢で純粋な愛らしい少女の顔で御名は笑う。言い終わるや否や、御名はぎゅうと弓景の首に抱き付いた。肩に置いていた手を前に回して、クリスマスのプレゼントを腕いっぱいで抱きしめて喜びを表現するように抱擁して、終いにはぐりぐりと頬まで弓景の首筋に擦り寄せる。
予想の斜め上をいく行動に、「は!?」と声を上げながら弓景はぎこちなく固まる。しかし、御名がどこまでも嬉しそうにしている様子から、グッと堪えて転ばないように体幹を維持するだけで、あとは好きなようにさせた。ただ恥ずかしそうに眦を下げながら肩を竦めて所在なさげに視線を横へ流して耐える。
「ねえ弓景! 家出のことは、バカみたいなことしたって自分でもそう思ってる。けどね、今は不思議と後悔はしてないの。今は、よかったなって思ってるわ」
「…………。そうか、ならよかったな」
「だから、今日はちゃんと帰る」
「もう、いいのか?」
「まあね、しょうがないから帰ってやるわよ。だから、最後の面倒ついでに友だちを家まで送ってくれる?」
「は、わーったよ。しょうがねーから、付き合ってやる」
石造りの階段を上がるゆりかごのような振動に身を預けて、地に足つけて立ってるわけでもないのに胸を満たす安心感。一人で立たなくてもいいと言われているようなこの不安定さが不思議なほど心地よかった。ずっと続けばいいのに、なんて旅の終わりを目前に惜しく思うくらいには。
だから最後にもう一度だけ、海を振り返った。確かに現実だった。秋空の青さも、指の間の砂の感触も、足を浸した水の冷たさも。
きっとこれから何度も思い返し、懐かしむのだろう。あの日見た、遠い絵画のような海の景色と共に。
「水道あっからそこで足洗えよ」「寒いじゃない」「じゃあそのまま靴履け」「嫌に決まってるでしょ」と言い合いながら長くもない階段を上がって浜から駐車場に戻ってきた二人はそこに止まる車を見て、足を止めた。弓景はまだ御名を背負ったままだったので、正確に言えば足を止めたのは弓景だけだったが、御名もまた同じように駐車場に停車する車を見て途中まで紡いだ言葉を止めた。
傷や汚れ一つなく磨き抜かれた黒塗りの高級車を前に、いや目立つなぁ、アレ……。という感想が二人の胸に浮かぶ。
そのタイミングでガチャリと音を立てて、少し慌てたように運転席から降りてきた人物を見て御名は「あ」と声を上げた。当然、それが見覚えのある顔だったからである。すぐに駆け寄ってきたスーツ姿の下まつ毛が特徴的な男・洞堂永介は動揺の方が優っているような引き攣った表情で一瞬、弓景を見、それからすぐにその背に背負われている御名を見る。聞き辛そうに――いや聞き辛いどころか正直あんまり聞きたくもないんだけど、というような様子で尋ねた。
「……、……なにやってんすか?」
「そういう貴方こそこんなところでなにやってるの? サボり?」
「いや、そんなわけないでしょ……」
「まあ、丁度いいわ。何か拭くもの持ってない? そこの水道で足を洗いたいんだけど」
「いやホントアンタ何やってたんすか」
そう言いながらもすぐに車の方へ引き返していく洞堂の背を見送り、御名は弓景の肩を軽く叩いて水道の方を指差した。弓景は要求されるままに駐車場の脇に設置された水道の方へと歩き出しながら聞く。「有栖院の人か?」「そう。使用人よ」というような簡素なやり取りの後、水道に背を向ける形で屈んだ弓景の背から御名はゆっくりと降りた。弓景が自分の靴を手で叩いて砂を落とそうとする横で、御名は水道を捻って指先で水温を確かめて不服げな顔で砂が張り付いた足を手早く洗い流す。タオルを持って戻ってきた洞堂に礼を言って、足を拭いていると洞堂がやっぱり聞き辛そうに言った。
「……あー、ところでこちらさまは」
「ああ、この人は――」御名は足先をブーツの中に滑り込ませながら何ともなしに言った。
「一夜を共に過ごした人よ」
「は……!?」
返答に思わず目を剥いた洞堂だったが、弓景もまた同様に目を剥きながら「はあ!?」と大声をあげる。
なんでそっちも叫んでるんだ、と言いたげに弓景を見た洞堂の脳内は混沌としていた。今朝方、御名が屋敷から姿を消していると発覚した時点で大騒ぎ、有栖院家の情報網を総動員し、何故かこんな辺鄙な海辺まで来ているということが分かって、周囲からせき立てられるまま車を爆走させて迎えに来て現在。だというのに、そんな報告を上げた日には――――。
爆弾発言をした当人はあくまでしれーっとした顔をしていること、日頃の御名自身は滅多に冗談を言う人間ではなかった事から概ね事実であると勘定した洞堂は、はあー本当にどうしよう、という表情でグッと顔を顰めた。
「えっ、ちょ……まじ……、いや……。マジか……」
「マジじゃねえよそこ納得すんな」
「え?」
「まじなんだけど」
「お前はちょっと黙ってろ!」
「なに言ってるの、一言一句間違いなくまじでしょ。私たち一晩中お酒飲みながら恋愛映画まで見た仲じゃない、忘れたわけ?」
「その言い方じゃ紛らわしいんだよボケッ」
「はあ〜?」
まるで痴話喧嘩である。弓景に詰め寄られて文句を言われることさえも楽しんでいるように見える御名の姿に洞堂は思わず目を丸くする。
暫く当惑するように二人の言葉の応酬を見ていた洞堂だったが、彼は早々に「……あー、そういう……」と順応することを選んだ。込み入った事情は分からずとも、少なくとも箱入り娘のお嬢様が柄の悪い男に騙されて丸め込まれたとかではなく、確実に御名の方が弓景を振り回している、というパワーバランスが薄らと透けて見えたためだ。ここまで他者に気を許している御名を見るのは、初めてだった。珍しいこともあるものだ、洞堂は思った。
笑いながら、思い出したように洞堂の方へと視線を向けた御名が穏やかに笑みを深めて「――洞堂」と呼びかける。その一声で主人の意図を悟れと言うような、人を扱うことに慣れているその声を聞き、洞堂はすぐに佇まいを正した。
「貴方は先に車で待っててくれる?」
「……はい。その……」
「私のこと迎えに行ってこいって言われたんでしょ」
「まあ、……そうすね。……言われました。それと、実は御門様が本邸にお戻りで」
「え。」それは予想外、とばかりに御名の目が丸くなる。
「それっていつ」
「予定を調整されて昼頃に帰国されたみたい、すわ」
僅かに目を見開いた後、御名はハ、と息を吐くように笑う。しかしすぐに、ほら行きなさいと示すように手を振った。それを見た洞堂は静かに目を伏せ、弓景に対して軽い会釈をした後、車の方へと戻っていく。
それを見送った御名は、やがて予定が狂ったな、とばかりに残念そうな表情で弓景を見た。洞堂とのやり取りを様子見をしていた弓景は、その表情だけでその先の意図を理解する。
「弓景。悪いけど、帰りはやっぱり家の車で帰るわ」
「いいのかよ」
「うん、ま。洞堂を一人で帰すのも可哀想だし、お父さんともちゃんと話さなきゃだから」
「そうか、……頑張れよ」
言葉を選んでありがちな言葉に留まった励ましに対して、御名は肩を竦めるような仕草だけで応えた。
「本当にありがとう。私、貴方のおかげで本当に楽しかったわ。やりたかったことがいくつも出来たしね。そのうち改めてお礼に伺うから」
「いんだよ。礼なんて、別に」
「……殊勝なのね。あんなに振り回したのに?」
「っは、自覚あったのかよ」
「じゃあ、――さよなら。気をつけて帰ってね」
軽い調子でそう言って、車の方へと踵を返した御名の背を見送りながら、弓景は嵐のように過ぎ去った一日を軽く振り返る。別れの挨拶自体は、酷くあっさりしたものである。当たり障りなく、散歩中に偶然会った知人と世間話でもして、別れる時のような呆気なさ。
……、とりあえず飯でも食ってのんびり帰るかな……。と頭の片隅で考え始める弓景の視界で、一直線に車へと向かっていた御名の足が、不意に止まる。立ち止まって何かを迷うように首を右へ左へと捻っていると思えば、そのままバッと振り返り、早足に弓景の方へと戻ってきた。
なんだ――? と訝しむ弓景の目の前で止まり、その胸ぐらを掴んで引き寄せる。予想外の行動に「はあ!?」と目を剥きながら大声を上げた弓景の頬に御名は、無遠慮に唇を押し付けた。それからすぐにパッ――と、体を離した。
いきなり平手で殴打されたかのような仕草で頬に手を当て、思わず後ずさる弓景。それを見る御名の冷ややかな視線に尚更行動の意図がわからず狼狽する。
「ッ、な――なに、おま、何しやが……っ!?」
「……。……まあ、お礼?」
「は、ぁ……!? なんッでそうなったんだよ、このバカ!」
弓景は動揺のまま、叫んで、自分を見上げるその額に向かってデコピンを食らわせた。
煩い心臓の音を無視してできる最大限の抵抗の発露だった。
「いった、何すんのよこのバカ……!」
額を手で押さえて、しっかり睨むように「暴行罪で訴えられたいの!?」と吠えたのは御名である。なぜ今の状況で自分が不当な暴行を受けたかのような台詞がすらすら出せるのか。
諸々が衝撃的すぎて弓景は完全に言葉を失った。それに対し、御名は何故か勝ち誇ったような顔で「じゃあね!」と言い捨て、忙しなく走り去っていく。その背をまた、呆然と見送って――――、
弓景は頭を抱えてその場に蹲った。本当に最後の最後までやりたい放題に振り回してくる、自分勝手な女だった。
うるさい心臓を押さえつけて、絞り出すように呟かれた「……なんだよ、……意味わかんねえだろ」という言葉が海風に攫われてかき消えた。
一方、家出の帰りとは思えないほど、やたらと上機嫌で車に乗り込んだ御名は走り出した車内から窓の外を眺めていた。
昨日までは知らなかった。秋の海の冷たさも、エンジンの唸りを感じながら風を切って走る感覚も。それらを一つ一つ、確かめるように思い返していた御名は、小さく笑い声を上げた。肘を付いた手の先で口元を隠しながら、鳩が豆鉄砲を食ったような弓景の間抜け顔を思い出す。
――なんでってそんなの決まってるでしょ、仕返しよ。
――あれで、散々私のことを考えてくれたらいいのに。
Fin.
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