海を目指して
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「狭いわね」
「やかましいわ。これがフツーだっつの。勝手に漁るな勝手に触るな、分かったな?」
「うんうん」
「話聞いてたか?」
鼻歌でも歌い出しそうなご機嫌な様子で靴を脱ぎ捨て、遠慮のない足取りで踏み入る女の背中を弓景は苦々しい顔で睨んだ。
まるで予約したホテルにチェックインして部屋を探検するかのような気軽さで、御名は手近なドアノブに手を伸ばす。そして、開ける。ああ、トイレね。と呟くのが聞こえてきて、弓景は疲れ切った表情で玄関の天井に取り付けられた照明を見上げた。
あの後、当然の成り行きで二人は道で押し問答になった。
帰れ。
帰らない。
いいから帰れ。
帰りたくない。
自ら声をかけて引き留めた手前、このまま無かったことにして放っておく選択肢だけは弓景にはなかった。
弓景にはかつて思春期と遅めの反抗期を拗らせた結果、ある日いきなり学校帰りに万札握りしめて飛び込んだ美容院でキンキラの金髪に染めて帰って、母親に暴言を吐いた挙げ句壁に向かってぶん投げられた経験はあったが、これまでの人生で流石に家出を経験した事はない。それをなぜ、と問われても特に理由は思いつかない。少し考えて、少なくとも弓景にとっては、御名のように家に帰りたくないと考えて実際に行動に移すまでの不満がなかったからだと思った。
特に有栖院家は特殊な事情を抱えている環境であり、そこから飛び出してきた家出少女になんと言葉をかけてやるのが正解なのか、考えても弓景には思いつかなかった。
「ねえ弓景」
「……あ? いや、は?」
「あれ? 違った? ユミカゲじゃなかったっけ」
「いや、あってっけど」
呼び捨てかよ。と弓景は内心微妙な気持ちになった。まるで久々に顔を合わせた元同級生が名前を確認する時のような気軽さである。
「じゃあ弓景。いい加減このやり取りにも飽きてきた私から妥協案を提示するわ。私をアンタの家に泊めなさい」
女王様然とした威厳溢れる声色で御名は弓景に言い放つ。妥協案の提示と前置きした割に、それはイエス以外の返答を却下する命令によく似てた響きだった。
当然の反応で、弓景は思わず目を剥きながら御名の顔をじろりと見る。ガサリ、と手に提げたコンビニの袋が音を立てる。
「は……? ハァ?! なんッでそうなんだよ!?」
「お分かりにならないの、弓景さん。あなた、まさかこのまま私を見捨てるわけじゃないでしょう? 可哀想だって思わない? 良心が痛むでしょう普通に。でも私は帰りたくないの。もし私が家に連れ戻される前に何かあったら――」ここで一度、御名は口を閉ざした。言葉の先を弓景に想像させるつもりだったのか、弓景の心情に訴えかけるような言葉を探そうとしたのか、僅かに間を持たせてから、続ける。「――……後味悪くない?」
「普通にサイテーだわボケ。つーか、どういう立場で脅してんだテメーは。テメーに何かある前に俺が引きずってでも有栖院に連れてくって言ったらどうすんだ?」
「やれるもんならやってみなさいよ。そんなに官憲のご厄介になりたいならね」
御名は据わった目で弓景を睨みつけた。
「じゃあ、こんな風に言い合って一晩明かすつもり?」
「…………」
「いいでしょ別に減るもんじゃないし」
そう言い切って御名は退屈そうに視線を逸らす。拗ねた子供がそっぽを向くような仕草によく似ていた。
減るとか減らないとかの問題じゃないだろ、意味分かってんのか。と弓景は一連のやり取りの疲れから気が遠くなる。ズキズキと頭が痛む気がして、額に手を当てて項垂れる。もう本気で全てを丸投げして帰りたいとさえ思っていた。しかし弓景は生来の面倒見の良さを発揮して、物分かりの悪い子どもに言い聞かせるように努めて言葉を選ぶ。
「あのな、彼女でもない女をホイホイ家にあげる男もヤバいし、ただの顔見知りの男の家に泊まろうとする女もヤバいだろ」
「……? 弓景、もしかして交際相手がいるの?」
弓景の言葉に反応を示すように御名は再び、弓景の方を見る。
表情から心裏を伺うような視線を向けながら、言われた言葉を噛み砕いた御名は一つの可能性を考慮した。……もし、目の前の男に恋人がいたなら、ろくでもない提案をしてしまったかもしれない……。そういう可能性を頭に思い浮かべて、苦虫を噛み潰したような苦々しさを覚えた。
だが一方で、恋人の有無を真っ向から確認された弓景もまた、悪戯に足を蹴り付けられ暴言を吐かれた直後のような苦々しい表情で顔を引き攣らせているのを見て、御名は説明されるまでもなく答えを確信し、思わずハ、と鼻で笑うように息を吐く。
「あ。やっぱりいないのね」
「やっぱりってなんだよ!!」弓景は叫ぶ。「いねーけど。そっちじゃなくて……冷静に考えて危機管理能力どうなってんだってことを言ってんだよ」
「ふーん……? 彼女じゃない女を家に上げるのが問題ってこと?」
弓景の反撃に理解を示すような口ぶりではあった。あくまで、アンタの価値観ではそういう基準が必要なのね、というような他人事感が漂っていたが。
じゃあこうしましょう。と御名が言った。
「私が彼女になってあげるわ。これで家に上げても問題ないでしょ、解決~~はいパチパチ……あ。でも一晩だけね」
問題しかねえだろ。と弓景は思った。代わりに長い長いため息が出て、背をベンチの背もたれに押し付けるようにして伸ばす。
弓景が言わんとすることを本当は理解しているのか、していないのか。
恐らく前者だ、と弓景は思った。御名は未婚かつ恋人関係でもない女がただの顔見知りの男の家に上がり込む危険性を理解しているが、そういった事には意図的に言及せず、拒否される理由を無理矢理潰して自分の要求だけを押し通そうとしているのだ。
「ハ――――…… お前、好きでもない男に彼女になるとか、そういうのはダメだろ」
これは決して信頼ではない。
断言できるが、有栖院御名は月満弓景という男に信用をおいている訳ではない。そもそもお互いの事をよく知らないし、強いて言えばこれは……やはり脅迫に近いだろう。
「別に普通でしょう?」
そんなことは何でもないというような平坦な声が返ってきた。
「目的のためにほとんど初対面の男と結婚することだってあるし、愛していなくても子どもはできるんだから。関係の名前にこだわったって仕方ないんじゃないかしら」
「…………」
幕を下ろすように会話が途切れた。弓景はなんと言い返すべきか、言うべきか、迷った。どういう教育してんだよ、有栖院家は。
御名から飛び出たあまりにも歪んだ価値観に面を食らって言葉が見つからなかった。それが今までと同様の慇懃無礼な軽口であれば弓景もすかさず言い返していたことだろうが、隣に座る御名は当たり前の事実を語るように平然とした口ぶりだったため、コイツは嘘偽りなくそう思っていると弓景に直感的に分からせた。
しかし、一方で御名は急に会話が止まった事に戸惑いすらしているような様子だった。なんとか言いなさいよ、と文句を言いたげな表情で弓景の方を向いた御名は数秒待って反応がないことで言葉を待つことを諦めたのか、ベンチから立ち上がる。弓景の顔を覗き込むようにして立った彼女はにこりと見惚れるような笑顔を作ってみせた。
「私、自分の顔には自信があるの」胸に手を当て得意げに言う。「こんな美人が彼女になってあげるって言ってるんだから光栄以外の何物でもないでしょ?」
「ハァー……」長いため息。「……顔だけ可愛けりゃいいってわけじゃねーよ……」
「は? どこ見てんのよスケベ。弓景サイテー」
「どこも見てねーよ!!」
サッ、と身体を守るように両腕を組んで睨み付ける御名に対し、弓景は目を剥きながら叫んだ。
結局、そんなこんなで弓景は負けた。
弓景には端から有栖院御名をそのまま放逐する気は微塵もなかった。
彼女は有栖院で、特に吸血鬼を誘いやすい血筋の魔術師だ。……魔術師としての能力は未知数でもその細腕からして吸血鬼に襲われても一人で対応できるほど戦闘力が高いようには見えなかった(サーヴァンプの主人というわけでもない)。しかし、この特殊な事情を差し引いても弓景は目の前の女を放っておくことはできなかっただろう。実際言葉を交わしてみると有栖院御名がほぼ初対面の年上を尻に敷くタイプの気の強い女であることは明白だったが、同時にその姿に弓景は強烈な違和感を抱いた。
それまで弓景の中にあった有栖院御名のイメージは、品良く着飾り父親の横に立ちながら嫋やかに微笑んで聡明な受け答えをするような『お淑やかなご令嬢』そのものだった。
一方で、今の御名はそのイメージを粉々に粉砕するほど完ぺきなお転婆で、じゃじゃ馬で、わがままな、家出娘だ。その振る舞いが強烈な違和感を生んで、弓景にとって御名をとても危うく見せた。目の前の女には、ここで目を離したらそのまま自暴自棄にでも走っていきそうな危なっかしさがあった。何を置いてもまず、手を掴んでみていてやらねばいけないような気がした。
だから、これは負け試合だったのだ。そもそもの話。
「あ、テレビ」
「ンな驚くようなことかよ。見たことあるだろテレビくらい」
「もちろん見たことくらいあるわよ。うちにテレビがないから珍しいだけ」
「……マジか」
「マジよ」
一足先にリビングに踏み入った御名が変なことをしでかさないかを見張りつつ、今し方買ってきた物を移すために冷蔵庫を開けていた弓景は軽妙な語りで返される言葉に笑った。吐息のような笑い声が零れる。
小姑のように部屋の各所に目配りをしながらも、まあこんなもんでしょうとでも言いたげな、……文句とまではいかない感想を呟く御名に、弓景は何故かほんの少しだけ安堵していた。日頃からそれなりに部屋の掃除をしておくタイプで良かったとさえ思う。
そうして、一通り部屋を確認し終えた御名が弓景の近くに寄ってくる。対面キッチンのカウンター越しにまじまじと見つめられているのに気付き、弓景は手を止めた。
「……? なんだよ」
「お客さんが来たって言うのにお茶の一つも出さないの?」
きょとんと首を傾げるような仕草で注文を付けてくる姿に、弓景は再び無言で天井を仰いだ。この女……。ちゃっかり自分が客の立場だと思ってるらしい。ほぼ脅迫同然の手段で家に無理矢理転がり込んできたくせに本当にいい度胸してやがんな。そんな言葉を飲み込んで、弓景は無意識に戸棚の方へ視線を投げる。友達と家で酒盛りをすることはあっても、お茶会なんてガラではない。
「水か、コーヒーくらいしかねえよ」
「ふうん。なら、お酒でもいいわよ」
そう返した御名は態々示すように弓景が掴んでいる缶チューハイに一度視線を向け、それから微笑んだ。また俺を揶揄ってるな、と弓景は思った。
「……あ? バカ言え」
本当に、何考えてるんだか。イタズラに火遊びにでも巻き込みたいのだろうか。
見る間に眉間に皺を寄せた弓景が訝しげな表情で御名を冷ややかに見返す。
「……そいや、お前何歳だよ」
「ハッ。このおバカ」
「オイ誰がバカだ」
「女性に年齢を尋ねるようなデリカシーのない失礼男は総じてバカよ。さては弓景、貴方モテないでしょ?」
「叩き出すぞ」
思わず口から飛び出た乱暴な言葉にも御名は気を害した様子はなく、僅かに声を上げて笑うだけだった。
何がそんなにと思うほど御名は楽しげであることが分かる。箸が転がるだけでも喜びそうな喜色満面といった表情を浮かべて、カウンターにしな垂れるように身体を預けている。頬杖をついて、目尻を下げてはこちらを見つめる姿に弓景は本日何度目かのため息を吐いた。人を小馬鹿にするような言動も不思議と不愉快ではない。
「未成年に酒出す大人がどこにいんだよ」
そう諭してみれば、あら、とわざとらしく声を上げた。
「見かけよりマジメなのね。言っておきますけどね、私こう見えてちゃんと成人してるのよ」女の目線が僅かに横へと逸れる。「丁度、今日が誕生日だったんだから」
「はあ? ……はー、お前ほんとなんでこんなとこにいるんだよ」
「だから家出だってば」
「……かえれよ……」
「その話はもう終わったでしょ。グラスはどこ?」
項垂れた弓景は催促する御名に言われるまま、グラスと缶チューハイを渡す。何となく土産か何かで貰ったきり、全く使っていなかった綺麗な海色のグラスを貸してやった。プルタブを開けて傾けられた缶からグラスへアルコール飲料が移そうとしている御名を見て、仕方ないからツマミも出してやるか、と弓景は態々皿を取り出した。
コンビニの袋から買ってきたツマミやら買わされたチョコレートやらをカウンターに並べていく間に「ねえ弓景」と声がかかった。「んだよ」と素っ気なく返しながらも耳を澄ませば、あーだの、えーとだの言葉にならない戸惑いがちな声が零される。
「……なんだよ」
「一応聞くんだけど……その、アイツって、今、C3にいる?」
「誰だよ」
「…………御国」
「御国?」
聞き返した弓景はそこで漸く御名の顔を見る。目は合わなかった。御名はグラスに注いでたゆたう液面を見て視線を伏せていたし、今し方前置きまでして問いかけられた言葉もまるでひとり言のような響きを持っていた。
有栖院御国、有栖院御名の双子の兄。嫉妬のサーヴァンプと契約する主人だが、有栖院家で起きた事件をきっかけに有栖院家を出奔し、その後暫くは中立機関C3に所属していたということくらいは弓景も知っている。
弓景は(大抵の魔術師生まれがそうであるように)C3東京支部に籍を置く魔術師だが、実を言うと御国との繋がりは殆どない。友達である吊戯が一時期面倒を見ていたらしい……? 時期はまだC3で本格的に働いていなかった。
だから今の弓景に断言できることは、有栖院御国は既にC3東京支部には在籍していない、ということくらいだ。
「あー、俺はそこまで詳しくねえから……アイツが何してるかまでは……けど、少なくとも東京支部にはいねーよ。それは確かだな」
「……ふーん、そう……」
カン、とカラになった缶の底がテーブルに置かれて小気味よい音を立てた。
その音に被さるようにザラザラとカラの皿にツマミが移される音が立った。
「お前、御国を探してたのか? 連絡先くらいなら調べられるかもしれねぇけど」
「ううん、いらない。そういうわけじゃないのよ。ただ聞いてみただけ。別に、用なんてないから」
どこか、はね除けるような口ぶりに弓景は内心で戸惑った。
御国の所在は分からないが、東京支部にはいない。その回答が不服だったというよりは、御国に関する話題自体が彼女にとっては取り扱うのがとても難しいものだったように感じた。
誰にでもあるが、人によって違う。そういう類いの。御国の事は御名にとっては人に訊ねるのさえ気を遣うような事案だったのだろう。
どこか物憂げなここではないどこかを見るような目でグラスに口づける御名の雰囲気に気圧されて、居心地の悪さを覚えた弓景は指先でテーブルの天面を軽く叩きながら言った。
「それで、どうする?」
「どうするって?」
「いや……。あー、ヒマだろ。なんか見るか?」
「なんかって?」
「……テキトーに映画、とか」
弓景の提案に御名は数回瞬きをしたのち、「いいわね」と笑った。
「映画は好きよ。うちでもよく見てた」
「テレビ、ないんじゃなかったか?」
「テレビはないけどシアタールームはあるの」
「ハハ、家ん中にシアタールームとかやっぱスケールがちげーわ」
「月満の家にはないの?」
「フツーにない」
「ま、そうかもね」
そんな風に調子を戻して軽口を交わした。御名はグラスを。弓景は缶ビールとツマミを移した皿を。それぞれ手に持って、テレビの前のソファーへと場所を移す。適切な距離感で隣り合って座った上で、弓景はサブスクで映画を探している御名を静かに眺めた。
冷静に考えて、この状況は普通にヤバい。結果的とはいえ御国の妹を家に連れ込んで一晩明かしたと知られれば吊戯には指を指されて爆笑されるだろうし、盾一郎は常識人然とした真剣な顔で説教をしてくるだろう。絶対おふくろにはぶん投げられて、兄貴には小言を言われるはずだ。俺は何も悪いことはしていないのに。誓って、何一つ悪いことはしていないのに……。
(一晩泊めろと要求してきたあたりで察していたが)やはり大人しく寝て帰る気はなさそうだったのでこの時点で弓景はもう諦めの境地に達しており、こうして関わってしまった以上とことん王女様の要求に付き合ってやろうという覚悟を決めていた。
「ねえ、これは観たことある?」
「観たことはない」画面に表示されているのはモノクロ映画だった。「流石にタイトル聞いたことくらいはあるけどよ」
1950年代の古い作品だが、非常に知名度の高い名作でイタリア・ローマを舞台にした王女と記者のロマンス映画である。
「私ね、この映画の終わり方が好きなの」
60年代頃までの映画は大体そうだけどね、と付け足しながら御名は弓景に笑いかけた。どうやら観る物は決まったらしい。御名はグラスを片手に持ち上げる。意図を察した弓景が開栓したビール缶を持ち上げた。
そうしてお互いに乾杯、と言い合って珍妙な深夜の映画鑑賞会が幕を開けたのだ。
「やかましいわ。これがフツーだっつの。勝手に漁るな勝手に触るな、分かったな?」
「うんうん」
「話聞いてたか?」
鼻歌でも歌い出しそうなご機嫌な様子で靴を脱ぎ捨て、遠慮のない足取りで踏み入る女の背中を弓景は苦々しい顔で睨んだ。
まるで予約したホテルにチェックインして部屋を探検するかのような気軽さで、御名は手近なドアノブに手を伸ばす。そして、開ける。ああ、トイレね。と呟くのが聞こえてきて、弓景は疲れ切った表情で玄関の天井に取り付けられた照明を見上げた。
あの後、当然の成り行きで二人は道で押し問答になった。
帰れ。
帰らない。
いいから帰れ。
帰りたくない。
自ら声をかけて引き留めた手前、このまま無かったことにして放っておく選択肢だけは弓景にはなかった。
弓景にはかつて思春期と遅めの反抗期を拗らせた結果、ある日いきなり学校帰りに万札握りしめて飛び込んだ美容院でキンキラの金髪に染めて帰って、母親に暴言を吐いた挙げ句壁に向かってぶん投げられた経験はあったが、これまでの人生で流石に家出を経験した事はない。それをなぜ、と問われても特に理由は思いつかない。少し考えて、少なくとも弓景にとっては、御名のように家に帰りたくないと考えて実際に行動に移すまでの不満がなかったからだと思った。
特に有栖院家は特殊な事情を抱えている環境であり、そこから飛び出してきた家出少女になんと言葉をかけてやるのが正解なのか、考えても弓景には思いつかなかった。
「ねえ弓景」
「……あ? いや、は?」
「あれ? 違った? ユミカゲじゃなかったっけ」
「いや、あってっけど」
呼び捨てかよ。と弓景は内心微妙な気持ちになった。まるで久々に顔を合わせた元同級生が名前を確認する時のような気軽さである。
「じゃあ弓景。いい加減このやり取りにも飽きてきた私から妥協案を提示するわ。私をアンタの家に泊めなさい」
女王様然とした威厳溢れる声色で御名は弓景に言い放つ。妥協案の提示と前置きした割に、それはイエス以外の返答を却下する命令によく似てた響きだった。
当然の反応で、弓景は思わず目を剥きながら御名の顔をじろりと見る。ガサリ、と手に提げたコンビニの袋が音を立てる。
「は……? ハァ?! なんッでそうなんだよ!?」
「お分かりにならないの、弓景さん。あなた、まさかこのまま私を見捨てるわけじゃないでしょう? 可哀想だって思わない? 良心が痛むでしょう普通に。でも私は帰りたくないの。もし私が家に連れ戻される前に何かあったら――」ここで一度、御名は口を閉ざした。言葉の先を弓景に想像させるつもりだったのか、弓景の心情に訴えかけるような言葉を探そうとしたのか、僅かに間を持たせてから、続ける。「――……後味悪くない?」
「普通にサイテーだわボケ。つーか、どういう立場で脅してんだテメーは。テメーに何かある前に俺が引きずってでも有栖院に連れてくって言ったらどうすんだ?」
「やれるもんならやってみなさいよ。そんなに官憲のご厄介になりたいならね」
御名は据わった目で弓景を睨みつけた。
「じゃあ、こんな風に言い合って一晩明かすつもり?」
「…………」
「いいでしょ別に減るもんじゃないし」
そう言い切って御名は退屈そうに視線を逸らす。拗ねた子供がそっぽを向くような仕草によく似ていた。
減るとか減らないとかの問題じゃないだろ、意味分かってんのか。と弓景は一連のやり取りの疲れから気が遠くなる。ズキズキと頭が痛む気がして、額に手を当てて項垂れる。もう本気で全てを丸投げして帰りたいとさえ思っていた。しかし弓景は生来の面倒見の良さを発揮して、物分かりの悪い子どもに言い聞かせるように努めて言葉を選ぶ。
「あのな、彼女でもない女をホイホイ家にあげる男もヤバいし、ただの顔見知りの男の家に泊まろうとする女もヤバいだろ」
「……? 弓景、もしかして交際相手がいるの?」
弓景の言葉に反応を示すように御名は再び、弓景の方を見る。
表情から心裏を伺うような視線を向けながら、言われた言葉を噛み砕いた御名は一つの可能性を考慮した。……もし、目の前の男に恋人がいたなら、ろくでもない提案をしてしまったかもしれない……。そういう可能性を頭に思い浮かべて、苦虫を噛み潰したような苦々しさを覚えた。
だが一方で、恋人の有無を真っ向から確認された弓景もまた、悪戯に足を蹴り付けられ暴言を吐かれた直後のような苦々しい表情で顔を引き攣らせているのを見て、御名は説明されるまでもなく答えを確信し、思わずハ、と鼻で笑うように息を吐く。
「あ。やっぱりいないのね」
「やっぱりってなんだよ!!」弓景は叫ぶ。「いねーけど。そっちじゃなくて……冷静に考えて危機管理能力どうなってんだってことを言ってんだよ」
「ふーん……? 彼女じゃない女を家に上げるのが問題ってこと?」
弓景の反撃に理解を示すような口ぶりではあった。あくまで、アンタの価値観ではそういう基準が必要なのね、というような他人事感が漂っていたが。
じゃあこうしましょう。と御名が言った。
「私が彼女になってあげるわ。これで家に上げても問題ないでしょ、解決~~はいパチパチ……あ。でも一晩だけね」
問題しかねえだろ。と弓景は思った。代わりに長い長いため息が出て、背をベンチの背もたれに押し付けるようにして伸ばす。
弓景が言わんとすることを本当は理解しているのか、していないのか。
恐らく前者だ、と弓景は思った。御名は未婚かつ恋人関係でもない女がただの顔見知りの男の家に上がり込む危険性を理解しているが、そういった事には意図的に言及せず、拒否される理由を無理矢理潰して自分の要求だけを押し通そうとしているのだ。
「ハ――――…… お前、好きでもない男に彼女になるとか、そういうのはダメだろ」
これは決して信頼ではない。
断言できるが、有栖院御名は月満弓景という男に信用をおいている訳ではない。そもそもお互いの事をよく知らないし、強いて言えばこれは……やはり脅迫に近いだろう。
「別に普通でしょう?」
そんなことは何でもないというような平坦な声が返ってきた。
「目的のためにほとんど初対面の男と結婚することだってあるし、愛していなくても子どもはできるんだから。関係の名前にこだわったって仕方ないんじゃないかしら」
「…………」
幕を下ろすように会話が途切れた。弓景はなんと言い返すべきか、言うべきか、迷った。どういう教育してんだよ、有栖院家は。
御名から飛び出たあまりにも歪んだ価値観に面を食らって言葉が見つからなかった。それが今までと同様の慇懃無礼な軽口であれば弓景もすかさず言い返していたことだろうが、隣に座る御名は当たり前の事実を語るように平然とした口ぶりだったため、コイツは嘘偽りなくそう思っていると弓景に直感的に分からせた。
しかし、一方で御名は急に会話が止まった事に戸惑いすらしているような様子だった。なんとか言いなさいよ、と文句を言いたげな表情で弓景の方を向いた御名は数秒待って反応がないことで言葉を待つことを諦めたのか、ベンチから立ち上がる。弓景の顔を覗き込むようにして立った彼女はにこりと見惚れるような笑顔を作ってみせた。
「私、自分の顔には自信があるの」胸に手を当て得意げに言う。「こんな美人が彼女になってあげるって言ってるんだから光栄以外の何物でもないでしょ?」
「ハァー……」長いため息。「……顔だけ可愛けりゃいいってわけじゃねーよ……」
「は? どこ見てんのよスケベ。弓景サイテー」
「どこも見てねーよ!!」
サッ、と身体を守るように両腕を組んで睨み付ける御名に対し、弓景は目を剥きながら叫んだ。
結局、そんなこんなで弓景は負けた。
弓景には端から有栖院御名をそのまま放逐する気は微塵もなかった。
彼女は有栖院で、特に吸血鬼を誘いやすい血筋の魔術師だ。……魔術師としての能力は未知数でもその細腕からして吸血鬼に襲われても一人で対応できるほど戦闘力が高いようには見えなかった(サーヴァンプの主人というわけでもない)。しかし、この特殊な事情を差し引いても弓景は目の前の女を放っておくことはできなかっただろう。実際言葉を交わしてみると有栖院御名がほぼ初対面の年上を尻に敷くタイプの気の強い女であることは明白だったが、同時にその姿に弓景は強烈な違和感を抱いた。
それまで弓景の中にあった有栖院御名のイメージは、品良く着飾り父親の横に立ちながら嫋やかに微笑んで聡明な受け答えをするような『お淑やかなご令嬢』そのものだった。
一方で、今の御名はそのイメージを粉々に粉砕するほど完ぺきなお転婆で、じゃじゃ馬で、わがままな、家出娘だ。その振る舞いが強烈な違和感を生んで、弓景にとって御名をとても危うく見せた。目の前の女には、ここで目を離したらそのまま自暴自棄にでも走っていきそうな危なっかしさがあった。何を置いてもまず、手を掴んでみていてやらねばいけないような気がした。
だから、これは負け試合だったのだ。そもそもの話。
「あ、テレビ」
「ンな驚くようなことかよ。見たことあるだろテレビくらい」
「もちろん見たことくらいあるわよ。うちにテレビがないから珍しいだけ」
「……マジか」
「マジよ」
一足先にリビングに踏み入った御名が変なことをしでかさないかを見張りつつ、今し方買ってきた物を移すために冷蔵庫を開けていた弓景は軽妙な語りで返される言葉に笑った。吐息のような笑い声が零れる。
小姑のように部屋の各所に目配りをしながらも、まあこんなもんでしょうとでも言いたげな、……文句とまではいかない感想を呟く御名に、弓景は何故かほんの少しだけ安堵していた。日頃からそれなりに部屋の掃除をしておくタイプで良かったとさえ思う。
そうして、一通り部屋を確認し終えた御名が弓景の近くに寄ってくる。対面キッチンのカウンター越しにまじまじと見つめられているのに気付き、弓景は手を止めた。
「……? なんだよ」
「お客さんが来たって言うのにお茶の一つも出さないの?」
きょとんと首を傾げるような仕草で注文を付けてくる姿に、弓景は再び無言で天井を仰いだ。この女……。ちゃっかり自分が客の立場だと思ってるらしい。ほぼ脅迫同然の手段で家に無理矢理転がり込んできたくせに本当にいい度胸してやがんな。そんな言葉を飲み込んで、弓景は無意識に戸棚の方へ視線を投げる。友達と家で酒盛りをすることはあっても、お茶会なんてガラではない。
「水か、コーヒーくらいしかねえよ」
「ふうん。なら、お酒でもいいわよ」
そう返した御名は態々示すように弓景が掴んでいる缶チューハイに一度視線を向け、それから微笑んだ。また俺を揶揄ってるな、と弓景は思った。
「……あ? バカ言え」
本当に、何考えてるんだか。イタズラに火遊びにでも巻き込みたいのだろうか。
見る間に眉間に皺を寄せた弓景が訝しげな表情で御名を冷ややかに見返す。
「……そいや、お前何歳だよ」
「ハッ。このおバカ」
「オイ誰がバカだ」
「女性に年齢を尋ねるようなデリカシーのない失礼男は総じてバカよ。さては弓景、貴方モテないでしょ?」
「叩き出すぞ」
思わず口から飛び出た乱暴な言葉にも御名は気を害した様子はなく、僅かに声を上げて笑うだけだった。
何がそんなにと思うほど御名は楽しげであることが分かる。箸が転がるだけでも喜びそうな喜色満面といった表情を浮かべて、カウンターにしな垂れるように身体を預けている。頬杖をついて、目尻を下げてはこちらを見つめる姿に弓景は本日何度目かのため息を吐いた。人を小馬鹿にするような言動も不思議と不愉快ではない。
「未成年に酒出す大人がどこにいんだよ」
そう諭してみれば、あら、とわざとらしく声を上げた。
「見かけよりマジメなのね。言っておきますけどね、私こう見えてちゃんと成人してるのよ」女の目線が僅かに横へと逸れる。「丁度、今日が誕生日だったんだから」
「はあ? ……はー、お前ほんとなんでこんなとこにいるんだよ」
「だから家出だってば」
「……かえれよ……」
「その話はもう終わったでしょ。グラスはどこ?」
項垂れた弓景は催促する御名に言われるまま、グラスと缶チューハイを渡す。何となく土産か何かで貰ったきり、全く使っていなかった綺麗な海色のグラスを貸してやった。プルタブを開けて傾けられた缶からグラスへアルコール飲料が移そうとしている御名を見て、仕方ないからツマミも出してやるか、と弓景は態々皿を取り出した。
コンビニの袋から買ってきたツマミやら買わされたチョコレートやらをカウンターに並べていく間に「ねえ弓景」と声がかかった。「んだよ」と素っ気なく返しながらも耳を澄ませば、あーだの、えーとだの言葉にならない戸惑いがちな声が零される。
「……なんだよ」
「一応聞くんだけど……その、アイツって、今、C3にいる?」
「誰だよ」
「…………御国」
「御国?」
聞き返した弓景はそこで漸く御名の顔を見る。目は合わなかった。御名はグラスに注いでたゆたう液面を見て視線を伏せていたし、今し方前置きまでして問いかけられた言葉もまるでひとり言のような響きを持っていた。
有栖院御国、有栖院御名の双子の兄。嫉妬のサーヴァンプと契約する主人だが、有栖院家で起きた事件をきっかけに有栖院家を出奔し、その後暫くは中立機関C3に所属していたということくらいは弓景も知っている。
弓景は(大抵の魔術師生まれがそうであるように)C3東京支部に籍を置く魔術師だが、実を言うと御国との繋がりは殆どない。友達である吊戯が一時期面倒を見ていたらしい……? 時期はまだC3で本格的に働いていなかった。
だから今の弓景に断言できることは、有栖院御国は既にC3東京支部には在籍していない、ということくらいだ。
「あー、俺はそこまで詳しくねえから……アイツが何してるかまでは……けど、少なくとも東京支部にはいねーよ。それは確かだな」
「……ふーん、そう……」
カン、とカラになった缶の底がテーブルに置かれて小気味よい音を立てた。
その音に被さるようにザラザラとカラの皿にツマミが移される音が立った。
「お前、御国を探してたのか? 連絡先くらいなら調べられるかもしれねぇけど」
「ううん、いらない。そういうわけじゃないのよ。ただ聞いてみただけ。別に、用なんてないから」
どこか、はね除けるような口ぶりに弓景は内心で戸惑った。
御国の所在は分からないが、東京支部にはいない。その回答が不服だったというよりは、御国に関する話題自体が彼女にとっては取り扱うのがとても難しいものだったように感じた。
誰にでもあるが、人によって違う。そういう類いの。御国の事は御名にとっては人に訊ねるのさえ気を遣うような事案だったのだろう。
どこか物憂げなここではないどこかを見るような目でグラスに口づける御名の雰囲気に気圧されて、居心地の悪さを覚えた弓景は指先でテーブルの天面を軽く叩きながら言った。
「それで、どうする?」
「どうするって?」
「いや……。あー、ヒマだろ。なんか見るか?」
「なんかって?」
「……テキトーに映画、とか」
弓景の提案に御名は数回瞬きをしたのち、「いいわね」と笑った。
「映画は好きよ。うちでもよく見てた」
「テレビ、ないんじゃなかったか?」
「テレビはないけどシアタールームはあるの」
「ハハ、家ん中にシアタールームとかやっぱスケールがちげーわ」
「月満の家にはないの?」
「フツーにない」
「ま、そうかもね」
そんな風に調子を戻して軽口を交わした。御名はグラスを。弓景は缶ビールとツマミを移した皿を。それぞれ手に持って、テレビの前のソファーへと場所を移す。適切な距離感で隣り合って座った上で、弓景はサブスクで映画を探している御名を静かに眺めた。
冷静に考えて、この状況は普通にヤバい。結果的とはいえ御国の妹を家に連れ込んで一晩明かしたと知られれば吊戯には指を指されて爆笑されるだろうし、盾一郎は常識人然とした真剣な顔で説教をしてくるだろう。絶対おふくろにはぶん投げられて、兄貴には小言を言われるはずだ。俺は何も悪いことはしていないのに。誓って、何一つ悪いことはしていないのに……。
(一晩泊めろと要求してきたあたりで察していたが)やはり大人しく寝て帰る気はなさそうだったのでこの時点で弓景はもう諦めの境地に達しており、こうして関わってしまった以上とことん王女様の要求に付き合ってやろうという覚悟を決めていた。
「ねえ、これは観たことある?」
「観たことはない」画面に表示されているのはモノクロ映画だった。「流石にタイトル聞いたことくらいはあるけどよ」
1950年代の古い作品だが、非常に知名度の高い名作でイタリア・ローマを舞台にした王女と記者のロマンス映画である。
「私ね、この映画の終わり方が好きなの」
60年代頃までの映画は大体そうだけどね、と付け足しながら御名は弓景に笑いかけた。どうやら観る物は決まったらしい。御名はグラスを片手に持ち上げる。意図を察した弓景が開栓したビール缶を持ち上げた。
そうしてお互いに乾杯、と言い合って珍妙な深夜の映画鑑賞会が幕を開けたのだ。