特別、ではない一日
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翌朝。
玄関ホールに差し込む光は柔らかく、この季節にしては外出に申し分のない穏やかな日和だった。とはいえ、天気の心配は初めからしていない。セラフィーナが外出を楽しみにしている日に、晴れなかった記憶は彼の知る限り一度もなかったからだ。まるで彼女の予定に合わせて、空模様まで融通を利かせているかのように。
もっとも、今日は遊びではない。外出とはいっても、あくまで保護者としての付き添いであり、それ以上でも以下でもない――はずだ。何度目かになる確認を、胸の内で繰り返す。
すでに身支度を整え、玄関先で待っていたシグルスの耳に足音が届いたのは、約束の時間より少し早かった。階段を降りてくる軽やかな気配。だが、どこか妙に慎重で、歩幅を意識しているような間延びした足音にわずかな違和感を覚える。腕時計に落としていた視線を上げた、その時だった。
「おにいさま! お待たせしました」
振り返るより先に、その声の調子で察してしまう。妙に張り切った響き。期待を隠そうとして隠しきれていない声。
振り返ったシグルスは、言葉を失った。
そこに立っていたのは、昨日までとは明らかに違う装いのセラフィーナだった。一目見ただけで、時間をかけて支度を整えてきたことがわかる。
淡い色合いのワンピースは体格に合わせて仕立てられたもので、もとはシグルスの母が、特別な日のためにとセラフィーナの誕生日に贈ったものだ。肩にかかる髪も丁寧に整えられ、普段よりもきちんとまとめられている。控えめながら装身具も添えられていた。
そして何より、目を引いたのは足元だ。
「……」
シグルスの視線は自然とそこに落ちる。
セラフィーナの背丈はこの二、三年で多少は伸びたものの、同年代と比べれば依然として小柄な部類に入る。身近な比較対象であるピスカも、男子としては小柄なほうだが、それでも彼女のほうがひと回り小さい。その小さな足を包む、やや高めのヒール。派手ではないものの、彼女の身体にはまだ明らかに馴染みきらない高さに見えた。
セラフィーナは背筋を伸ばし、シグルスを見上げる。その仕草自体が、少しでも大きく見せようとする背伸びの延長のようだった。その瞳には、はっきりと期待が込められている。
「どうでしょうか。変じゃ、ないですか?」
不安げに問いかけるその様子があまりにも懸命で、シグルスは口にしかけた小言を寸前で飲み込んだ。どう応えるべきか一瞬迷い、咳払いを一つ。
「……派手すぎないのは、いいと思うが」
そう前置いてから、あえて示すように足元へ視線を向ける。
「その靴。……歩きづらくはないか?」
「歩けます! ちゃんと練習もしましたから」
指摘されることは覚悟の上だったのだろう。大丈夫だと示すためか、セラは「ほら」と言ってその場でくるりと身を翻してみせる。
嫌な予感がした。慣れない靴は正直で、こういう時のシグルスの予感を、彼女はたいてい裏切らない。
案の定、支点にした踵がぐらつき、身体の軸が前へと流れる。
「あっ、わ――っ」
悲鳴が上がるより早く、シグルスの身体は動いていた。
慌ててバランスを取ろうともがきかけていた手を反射的に掴み、一歩を詰めて引き寄せる。結果、抱き止めるような格好でセラフィーナを腕の中へ収めることになった。
数秒の沈黙。
無意識のうちに、シグルスの視線が周囲を走る。誰もいないことを確かめてから、自分の行動に気付き、内心で舌打ちをした。
息を整え、肩を支えてゆっくりとセラを立たせる。目線を合わせるように腰を落とし、言い聞かせるように少女を見つめた。叱責よりも、心配のほうが強く滲む声音で声をかける。
「だから言っただろう」
「ま、まだ、言われてません……。大丈夫です……!」
「どこがだ。今、転びかけたばかりだ」
「それは、ちょっと油断しちゃっただけで」
「やはりこういう靴はまだ早い。歩き慣れてもいないのに、足を痛めたらどうする」
「…………子ども扱いです」
「事実として、君はまだ子どもだ。無理に大人の真似をする必要はない」
「……」
セラフィーナが視線を逸らし、唇を尖らせる。昨日も見た仕草だった。
セラは決して、分別のない子どもではない。指摘された言葉が正しいことも、きちんと分かっている。だからこそ、こうして拗ねるのだ。
しかしシグルスも、この点だけは譲れなかった。子どもの身の安全に関わることなのだから。いずれ機嫌は直るだろうが、ここは何か甘いものでも食べさせてやると約束して気を紛らわせるべきか――そんなことを考えた、その時。
黙り込んでいたセラが、ふっと表情を緩めた。まるで名案を思いついたかのように。
そして何の前触れもなく、シグルスの腕にひしと抱きつく。
「……!」
意図せぬ行動に、シグルスは硬直した。抱きつかれた腕から伝わる体温と感触に、思考が一瞬止まりかける。再び反射的に周囲を確認しかけて、寸前で自制した。
「でも、おにいさまがいます」
恋人がするような仕草で腕を絡めたまま、セラは無邪気に微笑み、シグルスを見上げてくる。
「よろけても、すぐに助けてくれましたし。こうして支えてくれるなら、転びませんよ」
安心と、甘えと、喜びが混じったような声だった。
その瞳を見つめ返し、シグルスは低く「……セラフィーナ」と諭すように名を呼ぶ。腕を引き離すことはせず、あえてそのまま姿勢を正して、もう一度言い聞かせた。
「もう子どもではない、と言うのなら。こういうことはやめなさい」
「でも――」
「でも、じゃない。世間の目というものがある。君を守るためにもだ」
守る、という言葉にセラフィーナの表情がわずかに緩む。不服そうでありつつも、それ以上言い返さず、どこか満足そうに目元を和らげた。その頬が、ほんのりと赤い。
「……はい」
短い返事。意地を張るのをやめた合図だった。
シグルスが腕を離そうとすると、彼女は素直に従った。だが代わりに、そっと彼のコートの袖を掴む。シグルスはその指先を一瞥し、何も言わなかった。言えなかった、というほうが正しい。
数秒して、セラは袖からも手を離す。先に「助けてくださってありがとうございました」と頭を下げ、それから微笑みながら、少しだけ恥ずかしそうに言った。
「靴、履き替えてきてもいいですか?」
「ああ、急がなくていい。くれぐれも気をつけて行ってきなさい」
「……はい、おにいさま」
歩幅を気にするように慎重に階段を上っていくその後ろ姿を見送りながら、シグルスは小さく息を吐いた。
ただ一つ確かなのは――まだ始まってもいないこの外出が、彼にとって想像以上に神経を使うものになる、という予感だけだった。
博物館を出た頃には、陽はすでに西へと傾き始めていた。
日頃のデスクワークが祟ったのか、展示室をいくつも巡ったあとの足には、流石に軽い疲労が残っている。そのため館内併設のカフェに立ち寄ることを提案し、温かい紅茶と菓子で短い休憩を挟んでから外に出たのが先ほどのことだ。約束していた「外出」は、シグルスの基準ではすでに十分に果たされていた。
セラフィーナは外出の初めこそ学校や勉強の話をしていたが、カフェに着いてからは疲れを訴えるどころか、展示室で目にした品々について思い出すように話し続けていた。よくもこれだけ話題が尽きないものだと、感心するほどである。彼女の好奇心は、どうやら赴くままありとあらゆる方向へ伸びていくらしい。
履き慣れた靴に履き替えてきた判断がよかったのかもしれない。あまりにも元気に「楽しかったですね!」と満ち足りた表情を浮かべ、軽やかに隣を歩く姿を目にしながら、シグルスは年齢に伴う体力の衰えを否応なく意識させられていた。
散歩がてら、遠回りにならない程度の街路を選んで帰路についた二人が、通りを抜けた先の小さな広場に差し掛かった時だった。セラフィーナが「あ」と声を上げ、足を止める。次の瞬間、その顔がぱっと明るくなった。
「おにいさま、見てください!」
視線の先、広場には色とりどりの天幕が並び、人の流れが緩やかな渦を描いていた。シグルスも足を止め、すぐに状況を把握する。どうやら週末限定のマーケットが開かれているらしい。簡素な木製の屋台が円を描くように配置され、手作りの雑貨や焼き菓子、花、アクセサリー類が所狭しと並べられている。人出は多いが、過密というほどではない。
セラフィーナのほうを見ると、こちらを見上げる瞳はわかりやすいほど輝いていた。シグルスは広場の時計へ視線を移し、時間を確かめる。セラの興味がすでに引き寄せられているのは明白で、次に来る言葉は予想するまでもなかった。
「少しだけ、見ていきましょう。ね?」
「……少しだけだぞ」
返事を聞き終えるより早く、セラフィーナはすでに広場へ向かって一歩を踏み出していた。引き留めるのも野暮だろう。シグルスは小さく息を吐き、仕方なくその後を追う。
露店の間を縫うように進むうち、彼女の足取りは次第に緩やかになり、やがて一つの店の前でぴたりと止まった。アクセサリー雑貨を扱う露店のようで、簡素な木製の棚にブローチやネックレス、指輪など細工の異なる小物が並べられている。
「……どれも、かわいい……」
セラフィーナは小さく呟き、両手を胸の前で組んだまま、身を乗り出すように品を眺めていた。明らかに「見るだけ」では終わらない表情だ。その様子を見て、シグルスは自然と隣へ並んだ。
「欲しいのか?」
「買います!」
即答だった。
シグルスは一瞬だけ眉を上げたが、止めはしなかった。セラは最初から、自分の財布から払うつもりでこの店を覗いている。値札は見当たらないが、この手のマーケットで扱われる品の相場くらいは、彼女なりにわかっているのだろう。視線の動きからも、明らかに手の届かないものは最初から除外しているのが見てとれた。
勢いよく買うと言い切ったわりに、セラは鞄を持ちかえながら迷うように視線をあちこちへ行き来させ、なかなか決めきれない。
「おにいさま、これはどう思います?」
「どれだ」
「ほら、この琥珀色の石がついている方です」
「ふむ……悪くはないが、君にはもう少し淡い色の方が映えるんじゃないか」
「じゃあ、この青いのは? でも、こっちの白鳥の形も好きなんです」
台紙を手に取っては戻し、別のものと見比べる。セラフィーナは何度もシグルスに意見を求め、そのたび彼は腕を組んだまま視線を落とし、石の色合いや大きさを一瞥して真面目に意見を述べた。あくまでも、助言役として。
店主は急かすこともなく、そのやり取りを聞きながら穏やかに微笑んでいる。
しばらく悩んだ末、セラフィーナの指先が一つのブローチで止まった。鈴蘭の花を模した意匠に、小さな淡いブルーの石を添えたものだ。
「……これにします!」
セラは棚からそのブローチの台紙を取り、銀のトレーに乗せた。店主が頷いて価格を告げる。菓子ほど気軽な値段ではないが、年頃の子どもが貯めた小遣いでも十分に手が届く範囲だった。セラフィーナは胸を撫で下ろすように息を吐き、鞄へ手を伸ばしかける。
その動きを視界に捉え、シグルスは「何をしているんだ」と短いため息まじりに半歩前へ出た。
「ここは僕が払う」
「えっ、でも、これは……」
「僕も選ぶのに付き合ったんだ。年長者の務めを果たさせてくれ」
軽く肩を竦めると、シグルスはためらいなく代金を差し出した。店主は穏やかに礼を述べ、台紙に留められたままのブローチを透明な袋に包み始める。
セラはしばらく、シグルスの横顔をぽかんと見上げていた。驚きが、やがて理解に変わっていく様子は誰の目にも分かる。わずかに開いた唇が小さく震え、白い頬がゆっくりと赤く染まっていった。
「……ありがとうございます。おにいさま」
囁くような、小さな声だった。
差し出されたブローチを恭しく両手で受け取り、そのまま胸元へ押し当てるように抱え込む。
「大事にしますね。ずっと、ずっと」
「そんなふうに抱えていたら落とすぞ」
「落としません! おにいさまが買ってくださった大切な宝物なんだもの」
「大げさだな」
胸を張って言い返す声には、隠しきれない喜びが滲んでいた。ブローチを覗き込み、光にかざしては満足そうに微笑む。その姿を横目に、シグルスはわずかに口元を緩める。
同伴している未成年の小さな買い物を、保護者が代わりに支払う――。
彼にとっては、ごく当たり前の判断だった。高価なものをねだられたわけでもない。衝動に任せた買い物でもない。セラは自分の手の届く範囲を理解した上で、時間をかけて迷い、選び、決めていた。その選択に静かに応えることは、無闇な甘やかしではなく、大人として自然なふるまいに過ぎない。少なくとも、シグルス自身はそう考えていた。
シグルスにとっての「当然」が、セラフィーナにとっては「特別」として胸に残る――そのことを、この時の彼はまだ理解していなかった。
露店の前を離れ、人の流れに身を任せるようにして数歩進んだところで、シグルスは向かいから歩いてきた通行人の一人と不意に目が合った。
それ自体は、別に珍しいことではない。普段なら軽い会釈か微笑みを交わして終わる。だが、その顔を認識した瞬間、シグルスの足は思わず止まった。人混みの中でもやけに目立つ見覚えのある顔に、真顔のまま目を細める。
「――あら、やっぱり」
人違いであってほしいという、わずかな期待はあっさりと打ち砕かれた。内心で小さく舌打ちをする。
すらりとした長身に、鮮やかなカーマインレッドのコート。ヒールの踵を小気味よく鳴らしながら、風を切るようにこちらに近づいてくる人影。整えられた眉の下、強い意志を宿した瞳が、シグルスと同じように細められていた。
「こんなところで偶然ね」
「……君か。この僕に、何か用かね」
「用ってほどじゃないけど」
肩をすくめて答えながら、彼女――月満都湖の視線は、真っ先にシグルスの隣に立つ少女へ向けられた。
「休日にアンタを見かけるのが珍しいから声をかけただけよ。……その子は?」
「…………親戚の子だ」
「ふぅん……親戚、ね」
「何か問題でも? 用事があって一緒に外出しているだけだ。無論、この子の保護者としての付き添いでね」
疑念を潰そうとするような、語気の強い物言いだった。あからさまに、この話題に踏み込むなと牽制している。だからこそ都湖も言葉を挟まず、訝しむような視線だけを返した。
そうして生まれた両者の沈黙の隙間に、遠慮がちに声を上げたのはセラだった。
「えっと、あの……?」
「あら、ごめんなさい。初めましてなのに驚かせちゃったわね」
都湖ははっとしたように表情を和らげ、セラの方を向く。
「月満都湖よ。アタシは――」
「仕事の同僚だ」
言葉を遮るように補足したシグルスを、都湖は鋭く睨んだ。
確かに二人の間にあるのは「職場の同僚」という関係だけだ。それ以上でも以下でもない。とはいえ、あまりにもいい加減な紹介だと思うのは自然だろう。
一方で「親戚の子」とだけ簡潔に紹介されたセラは、「そうなんですね!」と驚くほどあっさりと頷き、都湖へ向けてぱっと明るい笑顔を向けた。
「私はセラフィーナです。よろしくお願いします!」
迷いのないお辞儀ひとつで、育ちの良さは十分に伝わる。
都湖の目に映ったセラフィーナは、背丈も小柄で華奢な、ふわりとした印象の女の子だった。その隣に仏頂面のまま腕を組んで立つシグルスが並ぶのだから、なおさらである。態度も正反対だからこそ、少女の幼さと無垢さがいっそう際立って見えた。
「……元気ねえ。それに可愛い。まるで妖精のお姫さまみたい」
真正面からの賛辞に、セラはぱっと頬を染め、はにかんだ。
「お姉さんは、おに――シグルス、さんと一緒にお仕事をされているんですか?」
「ええ、そうよ。……まあ、同じ職場にいるだけ、とも言うけど」
どこか含みを持たせた言い回しに、シグルスは一瞬だけ眉を動かしたが、口を挟むことはしなかった。
同僚だと聞いただけで、初対面の都湖に対するセラの警戒心はすでに溶け切っている。想像以上に人懐っこい子どもだ、と都湖は思った。シグルスの背に半分隠れていたせいで気付きにくかったが、笑うと殊更に愛らしい。その表情につられるように、都湖の口元にも柔らかな笑みが浮かぶ。
「いいお買い物はできた?」
「はい! さっき、そこのお店でブローチを」
「あら、素敵。とても似合いそうだわ」
「えへへ。すごく迷ったんですけど、シグルスさんが一緒に選んで買ってくれたんです」
胸に抱えていた袋を少し持ち上げて見せながら、セラが誇らしげに笑う。
その言葉を聞いた途端、都湖はわずかに目を見開き、あらためてシグルスの顔を見た。
「……。アンタ、意外と面倒見がいいのね」
「……必要だからそうしているだけだ」
「必要、ねえ? 本当に意外だわ」
「君が誤解するようなことは何もない。日が落ちる前には帰る」
「別に責めてないわよ。随分と気を許されてるみたいだし」
「……その余計な詮索が迷惑だと言っているんだ」
苛立ちを隠そうともせず、シグルスは眉を寄せて視線を外す。その露骨な態度に、都湖もまた眉をひそめた。
「アンタねえ、」
口から文句が出かかった、その時だった。
どこかで聞き覚えのある旋律が流れ始め、都湖の表情が一変する。すぐに携帯を取り出し、画面を確かめた瞬間、「――桂ちゃん!」と一段高い声をあげ、そのまま二人に背を向けて通話を始めてしまった。
自分から声をかけてきておきながら、なんという無礼さだ。シグルスの視線はいっそう鋭くなる。口元にはもはや笑みの欠片もなく、眉間に刻まれた皺が不快感の深さを雄弁に物語っていた。日頃なら、皮肉の一つも投げている場面だ。だが、今は隣にセラフィーナがいる。その存在が、彼の言葉を押し留めていた。
相手の意識は完全に電話の向こうだ。長引くようなら、このままなかったことにして立ち去るのが最善だろう、とシグルスは考え始める。彼には、これ以上ここへ留まる理由が一つもなかった。
一方で、マイペースなセラフィーナは、先ほど都湖の携帯から流れ出した着信音――オルゴール調に編曲された『四羽の小さな白鳥たちの踊り』――の曲名を、のんびり思い出そうとしていた。
「わかったわ――やーだぁもう、気にしないで! アタシも早く会いたいわ。じゃ、また後でね。愛してる」
残念ながら、シグルスの期待に反して通話は思いのほか短く終わった。
最後に軽いリップ音を鳴らして携帯をしまうと、都湖は改めてセラに向き直る。つい先ほどまでの険しさが嘘のように、喜色を滲ませた笑顔だった。
「ごめんなさいね、急に。アタシ、人と待ち合わせてたとこなの。迷ってるって言うし迎えに行くわ」
「まあ、それは大変です。早く迎えに行ってあげてください!」
「ありがと、優しいのね」
そう言ってから、ふと思い出したように付け足す。
「……ねえ、セラフィーナ。お兄さんとのお出かけは楽しかった?」
「はい、とっても!」
「それはよかった。人混みは危ないから、ちゃんとお兄さんのそばにいなさいね」
その言葉に、セラは迷うことなく「はい!」と返事をし、シグルスのコートをきゅっと掴んだ。
不意の感触に、シグルスは思わず視線を落とす。細い指先がためらいなく布地を掴んでいるのを確かめてから、すぐに顔を上げ、都湖へ鋭い視線を向けた。怒気は抑え込まれているが、不愉快であることだけは隠す気もないらしい。
「邪魔したわね。別に水を差すつもりはなかったんだけど」
「……余計なお世話だ」
「でしょうね。保護者だって言うなら、しっかり見ててあげなさいよ」
「フン、当然だ。君に言われるまでもない」
「あらそう。じゃアタシはこれで失礼するわ」
都湖は「またお話ししましょうね」と軽く手を振り、雑踏の向こうへと去っていった。
シグルスはその後ろ姿を目で追ったが、すぐに切り離すように前を向く。要らぬ誤解を招いたのではないかという懸念と、余計な詮索を受けたことへの不快感が、まだ胸のうちに燻っていた。だが今は子どもの前だ。その感情をいつまでも表に出し続けるわけにはいけない。
そう自分に言い聞かせて、再び歩き出す。
セラもまた、小さな驚きを胸に抱えていた。偶然巡り合った月満都湖という人物そのものよりも、彼女へ向けられていたシグルスの、少し棘のある言葉遣いと隠しきれない苛立ちのほうに、である。それらはこれまで一度も自分に向けられたことのないものだったし、彼があれほど感情を露わにする姿を見るのも初めてだった。
歩きながら、セラはそっとシグルスの横顔を盗み見る。そして、ひとつの結論に至った。――よほど親しい間柄なのだろう、と。
しばらくして信号で足を止めた時、セラは遠慮がちに口を開いた。
「……きれいな人でしたね……」
「……そうか?」
「はい! すらっとしていて、背も高くて、あんなに踵の高い靴でも堂々と歩いていて……!」
ヒールの踵を鳴らし、颯爽と街を歩く大人の女性。その理想像が、先ほど出会ったばかりの都湖の姿と重なって、セラの胸に鮮やかに浮かぶ。思い出すうちに声が弾み、ふと視線を横へやると、通り沿いのショーウィンドウに映り込んだ自分とシグルスの姿が目に入った。
理想とは程遠い現実の鏡像を前に、セラは無意識に踵を浮かせ、つま先立ちになる。……虚しさが、ほんの一瞬、胸を掠めた。
信号が青に変わり、二人は再び歩き出す。
セラは何事もなかったように歩調を整え、空を仰ぐようにしてシグルスへ笑いかけた。
「おにいさまと並んでも、お似合いに見えました」
その瞬間、シグルスの歩調が見事に乱れた。自分でもわかるほど、不自然に。
ほんの一拍遅れて、眉が寄る。
「何の話だ」
本気で意味がわからない、というより理解を拒むような声だった。
「え? だって、大人でかっこよくて、都湖さんみたいな女性だったらきっと――」
女性。
その単語を内心で反芻し、シグルスはようやくセラフィーナの誤解に気付いた。
確かに外見だけを見れば、月満都湖は女性的にも映る。だが彼女――いや彼は、月満家の次男として生まれ育った、紛れもない大和男児だ。あの服装も口調も、すべては本人の趣味に過ぎない。
最近結婚したと噂では聞いていたが――ましてや、その隣に自分を並べて「お似合い」などと評されるとは、心外にも程がある。おそらく本人が聞いたとしても「論外だわ」と眉を吊り上げるだろう。その光景が容易に想像できてしまうことが、なおさら腹立たしかった。
とはいえ、ここで一から丁寧に説明する気力はもうない。都湖がこうした誤解を受けるのは今に始まったことではないし、ああいった格好をしているなら当然だとも思う。以前、「場を考えた装いというものがあるだろう」と意見した際も、「古臭い価値観ね」と一蹴された。それ以来、この手の話題には触れないと決めている。
――月満の人間とは、本当に気が合わない。
結論として、シグルスは短く、きっぱりとした声で言い切った。
「余計な想像はしなくていい」
「そ、そうですか……?」
セラは少し残念そうにしながらも、素直に頷いた。胸に抱えた小さな袋を、無意識のうちにぎゅっと強く引き寄せる。
大人同士の、少しぶっきらぼうで遠慮のないやり取り。それが羨ましくて、胸の奥がちくりと痛んだ。
シグルスはその変化に気付かぬまま、今日一日をそうしていたように、セラの歩幅に合わせて歩いていた。その当たり前の配慮が、距離と取り違えられているとも知らずに。
玄関ホールに差し込む光は柔らかく、この季節にしては外出に申し分のない穏やかな日和だった。とはいえ、天気の心配は初めからしていない。セラフィーナが外出を楽しみにしている日に、晴れなかった記憶は彼の知る限り一度もなかったからだ。まるで彼女の予定に合わせて、空模様まで融通を利かせているかのように。
もっとも、今日は遊びではない。外出とはいっても、あくまで保護者としての付き添いであり、それ以上でも以下でもない――はずだ。何度目かになる確認を、胸の内で繰り返す。
すでに身支度を整え、玄関先で待っていたシグルスの耳に足音が届いたのは、約束の時間より少し早かった。階段を降りてくる軽やかな気配。だが、どこか妙に慎重で、歩幅を意識しているような間延びした足音にわずかな違和感を覚える。腕時計に落としていた視線を上げた、その時だった。
「おにいさま! お待たせしました」
振り返るより先に、その声の調子で察してしまう。妙に張り切った響き。期待を隠そうとして隠しきれていない声。
振り返ったシグルスは、言葉を失った。
そこに立っていたのは、昨日までとは明らかに違う装いのセラフィーナだった。一目見ただけで、時間をかけて支度を整えてきたことがわかる。
淡い色合いのワンピースは体格に合わせて仕立てられたもので、もとはシグルスの母が、特別な日のためにとセラフィーナの誕生日に贈ったものだ。肩にかかる髪も丁寧に整えられ、普段よりもきちんとまとめられている。控えめながら装身具も添えられていた。
そして何より、目を引いたのは足元だ。
「……」
シグルスの視線は自然とそこに落ちる。
セラフィーナの背丈はこの二、三年で多少は伸びたものの、同年代と比べれば依然として小柄な部類に入る。身近な比較対象であるピスカも、男子としては小柄なほうだが、それでも彼女のほうがひと回り小さい。その小さな足を包む、やや高めのヒール。派手ではないものの、彼女の身体にはまだ明らかに馴染みきらない高さに見えた。
セラフィーナは背筋を伸ばし、シグルスを見上げる。その仕草自体が、少しでも大きく見せようとする背伸びの延長のようだった。その瞳には、はっきりと期待が込められている。
「どうでしょうか。変じゃ、ないですか?」
不安げに問いかけるその様子があまりにも懸命で、シグルスは口にしかけた小言を寸前で飲み込んだ。どう応えるべきか一瞬迷い、咳払いを一つ。
「……派手すぎないのは、いいと思うが」
そう前置いてから、あえて示すように足元へ視線を向ける。
「その靴。……歩きづらくはないか?」
「歩けます! ちゃんと練習もしましたから」
指摘されることは覚悟の上だったのだろう。大丈夫だと示すためか、セラは「ほら」と言ってその場でくるりと身を翻してみせる。
嫌な予感がした。慣れない靴は正直で、こういう時のシグルスの予感を、彼女はたいてい裏切らない。
案の定、支点にした踵がぐらつき、身体の軸が前へと流れる。
「あっ、わ――っ」
悲鳴が上がるより早く、シグルスの身体は動いていた。
慌ててバランスを取ろうともがきかけていた手を反射的に掴み、一歩を詰めて引き寄せる。結果、抱き止めるような格好でセラフィーナを腕の中へ収めることになった。
数秒の沈黙。
無意識のうちに、シグルスの視線が周囲を走る。誰もいないことを確かめてから、自分の行動に気付き、内心で舌打ちをした。
息を整え、肩を支えてゆっくりとセラを立たせる。目線を合わせるように腰を落とし、言い聞かせるように少女を見つめた。叱責よりも、心配のほうが強く滲む声音で声をかける。
「だから言っただろう」
「ま、まだ、言われてません……。大丈夫です……!」
「どこがだ。今、転びかけたばかりだ」
「それは、ちょっと油断しちゃっただけで」
「やはりこういう靴はまだ早い。歩き慣れてもいないのに、足を痛めたらどうする」
「…………子ども扱いです」
「事実として、君はまだ子どもだ。無理に大人の真似をする必要はない」
「……」
セラフィーナが視線を逸らし、唇を尖らせる。昨日も見た仕草だった。
セラは決して、分別のない子どもではない。指摘された言葉が正しいことも、きちんと分かっている。だからこそ、こうして拗ねるのだ。
しかしシグルスも、この点だけは譲れなかった。子どもの身の安全に関わることなのだから。いずれ機嫌は直るだろうが、ここは何か甘いものでも食べさせてやると約束して気を紛らわせるべきか――そんなことを考えた、その時。
黙り込んでいたセラが、ふっと表情を緩めた。まるで名案を思いついたかのように。
そして何の前触れもなく、シグルスの腕にひしと抱きつく。
「……!」
意図せぬ行動に、シグルスは硬直した。抱きつかれた腕から伝わる体温と感触に、思考が一瞬止まりかける。再び反射的に周囲を確認しかけて、寸前で自制した。
「でも、おにいさまがいます」
恋人がするような仕草で腕を絡めたまま、セラは無邪気に微笑み、シグルスを見上げてくる。
「よろけても、すぐに助けてくれましたし。こうして支えてくれるなら、転びませんよ」
安心と、甘えと、喜びが混じったような声だった。
その瞳を見つめ返し、シグルスは低く「……セラフィーナ」と諭すように名を呼ぶ。腕を引き離すことはせず、あえてそのまま姿勢を正して、もう一度言い聞かせた。
「もう子どもではない、と言うのなら。こういうことはやめなさい」
「でも――」
「でも、じゃない。世間の目というものがある。君を守るためにもだ」
守る、という言葉にセラフィーナの表情がわずかに緩む。不服そうでありつつも、それ以上言い返さず、どこか満足そうに目元を和らげた。その頬が、ほんのりと赤い。
「……はい」
短い返事。意地を張るのをやめた合図だった。
シグルスが腕を離そうとすると、彼女は素直に従った。だが代わりに、そっと彼のコートの袖を掴む。シグルスはその指先を一瞥し、何も言わなかった。言えなかった、というほうが正しい。
数秒して、セラは袖からも手を離す。先に「助けてくださってありがとうございました」と頭を下げ、それから微笑みながら、少しだけ恥ずかしそうに言った。
「靴、履き替えてきてもいいですか?」
「ああ、急がなくていい。くれぐれも気をつけて行ってきなさい」
「……はい、おにいさま」
歩幅を気にするように慎重に階段を上っていくその後ろ姿を見送りながら、シグルスは小さく息を吐いた。
ただ一つ確かなのは――まだ始まってもいないこの外出が、彼にとって想像以上に神経を使うものになる、という予感だけだった。
博物館を出た頃には、陽はすでに西へと傾き始めていた。
日頃のデスクワークが祟ったのか、展示室をいくつも巡ったあとの足には、流石に軽い疲労が残っている。そのため館内併設のカフェに立ち寄ることを提案し、温かい紅茶と菓子で短い休憩を挟んでから外に出たのが先ほどのことだ。約束していた「外出」は、シグルスの基準ではすでに十分に果たされていた。
セラフィーナは外出の初めこそ学校や勉強の話をしていたが、カフェに着いてからは疲れを訴えるどころか、展示室で目にした品々について思い出すように話し続けていた。よくもこれだけ話題が尽きないものだと、感心するほどである。彼女の好奇心は、どうやら赴くままありとあらゆる方向へ伸びていくらしい。
履き慣れた靴に履き替えてきた判断がよかったのかもしれない。あまりにも元気に「楽しかったですね!」と満ち足りた表情を浮かべ、軽やかに隣を歩く姿を目にしながら、シグルスは年齢に伴う体力の衰えを否応なく意識させられていた。
散歩がてら、遠回りにならない程度の街路を選んで帰路についた二人が、通りを抜けた先の小さな広場に差し掛かった時だった。セラフィーナが「あ」と声を上げ、足を止める。次の瞬間、その顔がぱっと明るくなった。
「おにいさま、見てください!」
視線の先、広場には色とりどりの天幕が並び、人の流れが緩やかな渦を描いていた。シグルスも足を止め、すぐに状況を把握する。どうやら週末限定のマーケットが開かれているらしい。簡素な木製の屋台が円を描くように配置され、手作りの雑貨や焼き菓子、花、アクセサリー類が所狭しと並べられている。人出は多いが、過密というほどではない。
セラフィーナのほうを見ると、こちらを見上げる瞳はわかりやすいほど輝いていた。シグルスは広場の時計へ視線を移し、時間を確かめる。セラの興味がすでに引き寄せられているのは明白で、次に来る言葉は予想するまでもなかった。
「少しだけ、見ていきましょう。ね?」
「……少しだけだぞ」
返事を聞き終えるより早く、セラフィーナはすでに広場へ向かって一歩を踏み出していた。引き留めるのも野暮だろう。シグルスは小さく息を吐き、仕方なくその後を追う。
露店の間を縫うように進むうち、彼女の足取りは次第に緩やかになり、やがて一つの店の前でぴたりと止まった。アクセサリー雑貨を扱う露店のようで、簡素な木製の棚にブローチやネックレス、指輪など細工の異なる小物が並べられている。
「……どれも、かわいい……」
セラフィーナは小さく呟き、両手を胸の前で組んだまま、身を乗り出すように品を眺めていた。明らかに「見るだけ」では終わらない表情だ。その様子を見て、シグルスは自然と隣へ並んだ。
「欲しいのか?」
「買います!」
即答だった。
シグルスは一瞬だけ眉を上げたが、止めはしなかった。セラは最初から、自分の財布から払うつもりでこの店を覗いている。値札は見当たらないが、この手のマーケットで扱われる品の相場くらいは、彼女なりにわかっているのだろう。視線の動きからも、明らかに手の届かないものは最初から除外しているのが見てとれた。
勢いよく買うと言い切ったわりに、セラは鞄を持ちかえながら迷うように視線をあちこちへ行き来させ、なかなか決めきれない。
「おにいさま、これはどう思います?」
「どれだ」
「ほら、この琥珀色の石がついている方です」
「ふむ……悪くはないが、君にはもう少し淡い色の方が映えるんじゃないか」
「じゃあ、この青いのは? でも、こっちの白鳥の形も好きなんです」
台紙を手に取っては戻し、別のものと見比べる。セラフィーナは何度もシグルスに意見を求め、そのたび彼は腕を組んだまま視線を落とし、石の色合いや大きさを一瞥して真面目に意見を述べた。あくまでも、助言役として。
店主は急かすこともなく、そのやり取りを聞きながら穏やかに微笑んでいる。
しばらく悩んだ末、セラフィーナの指先が一つのブローチで止まった。鈴蘭の花を模した意匠に、小さな淡いブルーの石を添えたものだ。
「……これにします!」
セラは棚からそのブローチの台紙を取り、銀のトレーに乗せた。店主が頷いて価格を告げる。菓子ほど気軽な値段ではないが、年頃の子どもが貯めた小遣いでも十分に手が届く範囲だった。セラフィーナは胸を撫で下ろすように息を吐き、鞄へ手を伸ばしかける。
その動きを視界に捉え、シグルスは「何をしているんだ」と短いため息まじりに半歩前へ出た。
「ここは僕が払う」
「えっ、でも、これは……」
「僕も選ぶのに付き合ったんだ。年長者の務めを果たさせてくれ」
軽く肩を竦めると、シグルスはためらいなく代金を差し出した。店主は穏やかに礼を述べ、台紙に留められたままのブローチを透明な袋に包み始める。
セラはしばらく、シグルスの横顔をぽかんと見上げていた。驚きが、やがて理解に変わっていく様子は誰の目にも分かる。わずかに開いた唇が小さく震え、白い頬がゆっくりと赤く染まっていった。
「……ありがとうございます。おにいさま」
囁くような、小さな声だった。
差し出されたブローチを恭しく両手で受け取り、そのまま胸元へ押し当てるように抱え込む。
「大事にしますね。ずっと、ずっと」
「そんなふうに抱えていたら落とすぞ」
「落としません! おにいさまが買ってくださった大切な宝物なんだもの」
「大げさだな」
胸を張って言い返す声には、隠しきれない喜びが滲んでいた。ブローチを覗き込み、光にかざしては満足そうに微笑む。その姿を横目に、シグルスはわずかに口元を緩める。
同伴している未成年の小さな買い物を、保護者が代わりに支払う――。
彼にとっては、ごく当たり前の判断だった。高価なものをねだられたわけでもない。衝動に任せた買い物でもない。セラは自分の手の届く範囲を理解した上で、時間をかけて迷い、選び、決めていた。その選択に静かに応えることは、無闇な甘やかしではなく、大人として自然なふるまいに過ぎない。少なくとも、シグルス自身はそう考えていた。
シグルスにとっての「当然」が、セラフィーナにとっては「特別」として胸に残る――そのことを、この時の彼はまだ理解していなかった。
露店の前を離れ、人の流れに身を任せるようにして数歩進んだところで、シグルスは向かいから歩いてきた通行人の一人と不意に目が合った。
それ自体は、別に珍しいことではない。普段なら軽い会釈か微笑みを交わして終わる。だが、その顔を認識した瞬間、シグルスの足は思わず止まった。人混みの中でもやけに目立つ見覚えのある顔に、真顔のまま目を細める。
「――あら、やっぱり」
人違いであってほしいという、わずかな期待はあっさりと打ち砕かれた。内心で小さく舌打ちをする。
すらりとした長身に、鮮やかなカーマインレッドのコート。ヒールの踵を小気味よく鳴らしながら、風を切るようにこちらに近づいてくる人影。整えられた眉の下、強い意志を宿した瞳が、シグルスと同じように細められていた。
「こんなところで偶然ね」
「……君か。この僕に、何か用かね」
「用ってほどじゃないけど」
肩をすくめて答えながら、彼女――月満都湖の視線は、真っ先にシグルスの隣に立つ少女へ向けられた。
「休日にアンタを見かけるのが珍しいから声をかけただけよ。……その子は?」
「…………親戚の子だ」
「ふぅん……親戚、ね」
「何か問題でも? 用事があって一緒に外出しているだけだ。無論、この子の保護者としての付き添いでね」
疑念を潰そうとするような、語気の強い物言いだった。あからさまに、この話題に踏み込むなと牽制している。だからこそ都湖も言葉を挟まず、訝しむような視線だけを返した。
そうして生まれた両者の沈黙の隙間に、遠慮がちに声を上げたのはセラだった。
「えっと、あの……?」
「あら、ごめんなさい。初めましてなのに驚かせちゃったわね」
都湖ははっとしたように表情を和らげ、セラの方を向く。
「月満都湖よ。アタシは――」
「仕事の同僚だ」
言葉を遮るように補足したシグルスを、都湖は鋭く睨んだ。
確かに二人の間にあるのは「職場の同僚」という関係だけだ。それ以上でも以下でもない。とはいえ、あまりにもいい加減な紹介だと思うのは自然だろう。
一方で「親戚の子」とだけ簡潔に紹介されたセラは、「そうなんですね!」と驚くほどあっさりと頷き、都湖へ向けてぱっと明るい笑顔を向けた。
「私はセラフィーナです。よろしくお願いします!」
迷いのないお辞儀ひとつで、育ちの良さは十分に伝わる。
都湖の目に映ったセラフィーナは、背丈も小柄で華奢な、ふわりとした印象の女の子だった。その隣に仏頂面のまま腕を組んで立つシグルスが並ぶのだから、なおさらである。態度も正反対だからこそ、少女の幼さと無垢さがいっそう際立って見えた。
「……元気ねえ。それに可愛い。まるで妖精のお姫さまみたい」
真正面からの賛辞に、セラはぱっと頬を染め、はにかんだ。
「お姉さんは、おに――シグルス、さんと一緒にお仕事をされているんですか?」
「ええ、そうよ。……まあ、同じ職場にいるだけ、とも言うけど」
どこか含みを持たせた言い回しに、シグルスは一瞬だけ眉を動かしたが、口を挟むことはしなかった。
同僚だと聞いただけで、初対面の都湖に対するセラの警戒心はすでに溶け切っている。想像以上に人懐っこい子どもだ、と都湖は思った。シグルスの背に半分隠れていたせいで気付きにくかったが、笑うと殊更に愛らしい。その表情につられるように、都湖の口元にも柔らかな笑みが浮かぶ。
「いいお買い物はできた?」
「はい! さっき、そこのお店でブローチを」
「あら、素敵。とても似合いそうだわ」
「えへへ。すごく迷ったんですけど、シグルスさんが一緒に選んで買ってくれたんです」
胸に抱えていた袋を少し持ち上げて見せながら、セラが誇らしげに笑う。
その言葉を聞いた途端、都湖はわずかに目を見開き、あらためてシグルスの顔を見た。
「……。アンタ、意外と面倒見がいいのね」
「……必要だからそうしているだけだ」
「必要、ねえ? 本当に意外だわ」
「君が誤解するようなことは何もない。日が落ちる前には帰る」
「別に責めてないわよ。随分と気を許されてるみたいだし」
「……その余計な詮索が迷惑だと言っているんだ」
苛立ちを隠そうともせず、シグルスは眉を寄せて視線を外す。その露骨な態度に、都湖もまた眉をひそめた。
「アンタねえ、」
口から文句が出かかった、その時だった。
どこかで聞き覚えのある旋律が流れ始め、都湖の表情が一変する。すぐに携帯を取り出し、画面を確かめた瞬間、「――桂ちゃん!」と一段高い声をあげ、そのまま二人に背を向けて通話を始めてしまった。
自分から声をかけてきておきながら、なんという無礼さだ。シグルスの視線はいっそう鋭くなる。口元にはもはや笑みの欠片もなく、眉間に刻まれた皺が不快感の深さを雄弁に物語っていた。日頃なら、皮肉の一つも投げている場面だ。だが、今は隣にセラフィーナがいる。その存在が、彼の言葉を押し留めていた。
相手の意識は完全に電話の向こうだ。長引くようなら、このままなかったことにして立ち去るのが最善だろう、とシグルスは考え始める。彼には、これ以上ここへ留まる理由が一つもなかった。
一方で、マイペースなセラフィーナは、先ほど都湖の携帯から流れ出した着信音――オルゴール調に編曲された『四羽の小さな白鳥たちの踊り』――の曲名を、のんびり思い出そうとしていた。
「わかったわ――やーだぁもう、気にしないで! アタシも早く会いたいわ。じゃ、また後でね。愛してる」
残念ながら、シグルスの期待に反して通話は思いのほか短く終わった。
最後に軽いリップ音を鳴らして携帯をしまうと、都湖は改めてセラに向き直る。つい先ほどまでの険しさが嘘のように、喜色を滲ませた笑顔だった。
「ごめんなさいね、急に。アタシ、人と待ち合わせてたとこなの。迷ってるって言うし迎えに行くわ」
「まあ、それは大変です。早く迎えに行ってあげてください!」
「ありがと、優しいのね」
そう言ってから、ふと思い出したように付け足す。
「……ねえ、セラフィーナ。お兄さんとのお出かけは楽しかった?」
「はい、とっても!」
「それはよかった。人混みは危ないから、ちゃんとお兄さんのそばにいなさいね」
その言葉に、セラは迷うことなく「はい!」と返事をし、シグルスのコートをきゅっと掴んだ。
不意の感触に、シグルスは思わず視線を落とす。細い指先がためらいなく布地を掴んでいるのを確かめてから、すぐに顔を上げ、都湖へ鋭い視線を向けた。怒気は抑え込まれているが、不愉快であることだけは隠す気もないらしい。
「邪魔したわね。別に水を差すつもりはなかったんだけど」
「……余計なお世話だ」
「でしょうね。保護者だって言うなら、しっかり見ててあげなさいよ」
「フン、当然だ。君に言われるまでもない」
「あらそう。じゃアタシはこれで失礼するわ」
都湖は「またお話ししましょうね」と軽く手を振り、雑踏の向こうへと去っていった。
シグルスはその後ろ姿を目で追ったが、すぐに切り離すように前を向く。要らぬ誤解を招いたのではないかという懸念と、余計な詮索を受けたことへの不快感が、まだ胸のうちに燻っていた。だが今は子どもの前だ。その感情をいつまでも表に出し続けるわけにはいけない。
そう自分に言い聞かせて、再び歩き出す。
セラもまた、小さな驚きを胸に抱えていた。偶然巡り合った月満都湖という人物そのものよりも、彼女へ向けられていたシグルスの、少し棘のある言葉遣いと隠しきれない苛立ちのほうに、である。それらはこれまで一度も自分に向けられたことのないものだったし、彼があれほど感情を露わにする姿を見るのも初めてだった。
歩きながら、セラはそっとシグルスの横顔を盗み見る。そして、ひとつの結論に至った。――よほど親しい間柄なのだろう、と。
しばらくして信号で足を止めた時、セラは遠慮がちに口を開いた。
「……きれいな人でしたね……」
「……そうか?」
「はい! すらっとしていて、背も高くて、あんなに踵の高い靴でも堂々と歩いていて……!」
ヒールの踵を鳴らし、颯爽と街を歩く大人の女性。その理想像が、先ほど出会ったばかりの都湖の姿と重なって、セラの胸に鮮やかに浮かぶ。思い出すうちに声が弾み、ふと視線を横へやると、通り沿いのショーウィンドウに映り込んだ自分とシグルスの姿が目に入った。
理想とは程遠い現実の鏡像を前に、セラは無意識に踵を浮かせ、つま先立ちになる。……虚しさが、ほんの一瞬、胸を掠めた。
信号が青に変わり、二人は再び歩き出す。
セラは何事もなかったように歩調を整え、空を仰ぐようにしてシグルスへ笑いかけた。
「おにいさまと並んでも、お似合いに見えました」
その瞬間、シグルスの歩調が見事に乱れた。自分でもわかるほど、不自然に。
ほんの一拍遅れて、眉が寄る。
「何の話だ」
本気で意味がわからない、というより理解を拒むような声だった。
「え? だって、大人でかっこよくて、都湖さんみたいな女性だったらきっと――」
女性。
その単語を内心で反芻し、シグルスはようやくセラフィーナの誤解に気付いた。
確かに外見だけを見れば、月満都湖は女性的にも映る。だが彼女――いや彼は、月満家の次男として生まれ育った、紛れもない大和男児だ。あの服装も口調も、すべては本人の趣味に過ぎない。
最近結婚したと噂では聞いていたが――ましてや、その隣に自分を並べて「お似合い」などと評されるとは、心外にも程がある。おそらく本人が聞いたとしても「論外だわ」と眉を吊り上げるだろう。その光景が容易に想像できてしまうことが、なおさら腹立たしかった。
とはいえ、ここで一から丁寧に説明する気力はもうない。都湖がこうした誤解を受けるのは今に始まったことではないし、ああいった格好をしているなら当然だとも思う。以前、「場を考えた装いというものがあるだろう」と意見した際も、「古臭い価値観ね」と一蹴された。それ以来、この手の話題には触れないと決めている。
――月満の人間とは、本当に気が合わない。
結論として、シグルスは短く、きっぱりとした声で言い切った。
「余計な想像はしなくていい」
「そ、そうですか……?」
セラは少し残念そうにしながらも、素直に頷いた。胸に抱えた小さな袋を、無意識のうちにぎゅっと強く引き寄せる。
大人同士の、少しぶっきらぼうで遠慮のないやり取り。それが羨ましくて、胸の奥がちくりと痛んだ。
シグルスはその変化に気付かぬまま、今日一日をそうしていたように、セラの歩幅に合わせて歩いていた。その当たり前の配慮が、距離と取り違えられているとも知らずに。