少年少女の出会い
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イギリスの寄宿制教育では、子どもは七、八歳で家庭を離れ、まずは予備教育機関であるプレップスクールに入り、その後は名門パブリックスクールへと進むのが通例だった。セラフィーナやシグルスのような家柄の子どもにとって、それは代々受け継がれてきた道であり、青年になるまでの長い年月を寄宿舎で過ごすことは、ほとんど義務とも言えるものだ。
生徒が家へ戻れるのは、学期ごとに設けられた年に三度の長期休暇――イースター、サマーホリデー、そしてクリスマスのみ。中でもサマーホリデーは六週間から八週間にも及ぶ一年で最も長い休暇で、寄宿生活を送る子どもたちにとって、最も心待ちにされる期間だった。
サマーホリデー初日の午後――屋敷の玄関ホールには軽やかで弾んだ足音が、跳ねるように響いていた。出迎えに現れたシグルスの姿を見つけた途端、セラフィーナの顔はぱっと花が咲くように輝く。
「おにいさまっ! ただいま戻りました!」
「おかえり、セラフィーナ。変わらず元気そうでなによりだ」
「はい! とても元気です!」
ぱたぱたと小さな歩幅で駆け寄ってきて、大きな頷きを返したセラにシグルスは笑みを返す。
「まずは荷物を部屋に置いて、それからついておいで。君に紹介したい人がいる、と言っただろう?」
「そっ……そうでした」
その一言で、あれほど瑞々しかったセラの表情はぴたりと固まった。やや目を泳がせながらもこくこくと頷きを返して、シグルスの後ろに大人しく追従する。
案内されて向かった部屋には少年がひとり、立っていた。ノックの音に気付いて思わず立ち上がったと思わしき姿勢で、硬い面持ちを浮かべている。彼はどこか落ち着かない様子で視線を彷徨わせていた。
シグルスが少年に声をかけ、その隣に立つ。そして、今度はセラへと視線を向けた。
「セラ。紹介したい人というのは、彼のことだ」
セラは目をぱちぱちと瞬かせ、少年とシグルスを何度も見比べている。
「彼の名前は、ピスカ・ブロウニー。年は君の一つ下だ。仕事の縁で出会った少年でね。……まあ、少々複雑な事情があってひとりで暮らすのが難しい状況だった。それで、僕の方で面倒を見ることにしたんだ。今はここで一緒に暮らしている」
「それって……。……わたしと同じ?」
「――ああ、そうだな。まったく同じというわけではないが、境遇としては近いところもあるだろう」
「…………そう、ですか。紹介したい人って、そうですか」
「……? どうした?」
「あっ、ななんでもありません! なんでも!」
セラフィーナは両手をぶんぶんと振って慌てて誤魔化した。
妙に煮え切らない反応である、とシグルスはどことなく違和感を覚える。六歳の頃から見てきたシグルスにとってセラフィーナという少女は、人懐っこいという概念を具現化したような好奇心旺盛な子犬に近い生き物である。よく言えば、人見知りをしない。彼の想定ではピスカを見るなり自ら声をかけに行くのでは、とさえ思っていたのだが……と、想定した反応とは少しズレた結果に内心戸惑いを覚えていた。
一方、相対する少女は、ここ数週間の自分の思考が高速で崩れ落ちていくのを感じていた。今この瞬間、彼女の頭は混乱の渦中にある。なぜなら、彼女の想定と現実とが、あまりにもかけ離れていたからだ。
シグルスから「紹介したい人がいる」と手紙で告げられて以来、セラフィーナはその文面を何度も読み返し、勝手な結論へと突き進んでいた。
――きっと、恋人を紹介されるのだ、と。
その衝撃に備えるため、全力で覚悟を固めてきた。美しくて、背が高くて、大人で、優しそうで完璧に近い人に違いないと妄想し……ありとあらゆるイメージ像を頭の中で暴走させた。その像がシグルスの妹の姿になったこともあれば、学校の先生になったこともあり、童話の挿絵の中で微笑むお姫様の姿になったこともある。シグルスの隣に立つ完璧な淑女を想像しては、その前に自分が並ぶ光景を思い浮かべ、泣いちゃだめ! 笑顔、笑顔で祝福する……! と、机に突っ伏して現実逃避する日々を繰り返していた。
そうして決闘に挑む騎士の如く覚悟を決めて迎えたこの日。
セラフィーナが対面したのは――背丈も年齢も自分とほとんど変わらない、年下の少年である。
(……え? ……あれ?)
この時、セラフィーナの思考は理解に追いつけず、シグルスの紹介もほとんど頭に入ってこないほどの大混乱を招いていた。そして、自分が何かとんでもなく盛大な勘違いをしていたことにようやく気付いたとき、思考は真っ白に吹き飛んだ。
セラは思わず顔を覆い、胸の奥で小さく、しかし全力で叫んだ。
(――よかった! おにいさまの恋人とかじゃなくて、本当によかった……!)
――もちろん、そんな内情を知るはずもないシグルスは、明らかに挙動不審なセラフィーナの様子を訝しんでいる。しかし、今はそれを掘り下げるよりも場を滞らせぬ方が先決である、と彼は一度呼吸を整えて視線をピスカへ戻した。
「ピスカ、改めて紹介しよう。この子が僕の――」
言いかけて、不自然に言葉が止まる。
複雑な事情を抱えるピスカを、いかに当たり障りなく紹介するか。シグルスはその一点ばかりに心を割いていたため、逆にセラフィーナをどう位置付けて紹介するか――そのための表現を決めきれていなかったのである。一応、こうして二人を引き合わせるより前に、ピスカに簡易な紹介は済ませていた。寄宿学校に通っており、休暇の間だけは屋敷に戻ることや、両親を事故で亡くし、家の縁によってシグルス家が後見を引き受けていることなど。
だが、今この場で、目の前に立つ彼女を自分がどう呼ぶか。
それは、別の問題だった。厳密に『婚約者』と呼ぶには時期尚早であり、かといって『妹』とするには血縁がない。後見を引き受け、家族同然に育てている子ども――? どれもが不正確で、どれもが説明としては過剰になり得る気がした。
ほんの一瞬。言葉を選びあぐねて、シグルスの思考は空中で躓く。
その間に、セラフィーナの表情が変わった。
先ほどまでのぎこちなさは消え、代わりに状況を飲み込んだ子ども特有の切り替えの早さが表に出る。背筋を伸ばし、両手を身体の前で揃えると、わずかに踵を浮かせる仕草で一歩前へと踏み込んだ。
「はじめまして!」
声は明るいが、甲高すぎない。笑顔には少しの照れが混じっていた。
「わたしは、セラフィーナです。会えてうれしいです、ピスカ!」
子どもらしい実直さでそう述べて、右手がすっと差し出される。その動きにはためらいがなかった。
沈黙を保ち、様子を伺っていたピスカは驚くように瞬きをした。どう反応していいのか掴めず戸惑いを隠しきれない様子で、差し出された手とセラの顔を交互に見やった。彼の視線が、そっと伺いを立てるようにシグルスへと流れる。
シグルスは静かに頷きを返した。それに促されるように、ピスカは手を伸ばす。
セラフィーナはその動きを見てから、表情をまた一段とやわらげた。伸ばされた手を迎えに行くように両手で包み込む。力は強くない。落としたくない宝物を扱うような、温度のある手つきだった。
「あの……」
「びっくりさせてしまっていたら、ごめんなさい。でもわたし、帰ってくるのをずっと楽しみにしていたんです。おにいさまがきっと仲良くなれるんじゃないかって。だから、わたし……あなたと、仲良くなれたら、うれしいです」
言葉は素直で、少しだけ急くように紡がれる。そこには先ほどまでの混乱の名残があり、同時にそれを押し流すような純然たる喜びがあった。
ピスカは握られた手を見下ろし、短く息を整える。
「……こちらこそ。よろしく、お願いします。セラフィーナ、さん」
「セラでいいです!」
食い気味で返された言葉に、ピスカの表情がわずかに緩む。
「…………セラ?」
「はい!」
「……セラ」
「はいっセラです!」
また、緩む。緊張は残っているが、ピスカの警戒は薄れていた。少なくとも、拒絶は見られない。
ウェールズ訛りの残る控えめな声で、必要以上に感情を漏らすまいと努める、普段通りの慎ましい佇まい。しかし、今は。年齢よりもずっと大人びた印象を与える少年が、年相応の穏やかさを見せている。
シグルスは、その変化を見逃さなかった。
セラフィーナの行動が想定していた通りの形に戻ってきていることにも、内心安堵する。セラは時に破壊的なほど遠慮がないが、他者との距離の詰め方を誤らない子どもだ。少なくとも、意図せず相手を追い詰めることはしない。その点において、シグルスは彼女を信頼していた。
(……問題はなさそうだな)
そう判断したが、視線は外さない。二人の反応を見守りながら、必要とあらば介入できる位置に留まっておく。
それが子どもを保護する大人の役割だから。
やがて、セラフィーナがシグルスの方を振り返った。
「おにいさま。わたし、ピスカともっとお話ししたいです!」
「それは何よりだが、張り切りすぎて彼に無理はさせないように」
「はい。ちゃんと気をつけます!」
その後も、二人は驚くほど自然な距離感で会話を始めた。まるで旧知の仲だったかのように。セラはピスカの言葉を遮らず、明るい表情で耳を傾ける。ピスカは最初こそ言葉少なな様子だったが、彼女の朗らかさに釣られてか、次第に返事が増えていった。夏の午後。子どもたちの新しい関係が、子どもらしい速度で、確かに形を取り始めていた。
*
「ね、ピスカ。よかったら一緒に読みませんか? この本の挿絵がね、すごくきれいなの」
お気に入りらしい児童文学の一冊を両腕で胸に抱え、セラフィーナはそう言って歩み寄ってきた。断られる、という可能性を考えていないような瞳を見返して、ピスカは一瞬、言葉を探した。断るほどの理由も見つからず、気がつけば差し出された手を取っていた。
彼女に出会ったのは、ほんの三日前のことだ。
夏季休暇に入ったセラがシグルスの屋敷に戻ってきたその日、シグルスの計らいによって引き合わされた。少女の大きな瞳にまっすぐに捉えられた瞬間、目が合って、自然と息を呑んだ。人を見て「明るい」と感じたのは初めてだった。光を放っているわけではないのに。ただ、そこに在るだけで周囲の空気が違って見えた。
――自分とは、違う。
そう思った。
「はじめまして!」
思考を途中で跳ね飛ばすほどの声で、彼女は駆け寄ってきた。迷いなく差し出された手に、ピスカは反射的に恩人の方を見る。シグルスは何も言わず、けれど大丈夫だと伝えるように頷いたのを見て、行っていいのだ、と理解した。
それでも、手はすぐには動かなかった。改まって誰かと握手をした経験など、ほとんどなかったからだ。ましてや、同じ年頃の子に。迷った手すら両手で包み込んで、その子は笑った。
どうして、そんなふうに――。
初対面だというのに、彼女は期待を向けている。シグルスから聞かされた言葉だけを信じて、疑いのない好意を向けてくる。他でもなく、今、目の前の自分に向かって。最初から「仲良くなれるはずだ」と信じられること。それは、ピスカの知っている世界には、あまり存在しなくなっていた類の好意だった。
仲良く、といわれても慣れていないピスカにはどう接すべきか分からない。だが、悩む必要もなかった。なぜなら、セラの方からこうして「散歩に行こう」「本を読もう」と次々に声をかけてきたからだ。どれも「一緒に」という前提で語られていたものの、拒否を責めることも、急かすことも決してなかった。
「ピスカも気に入ってくれるといいな」
「……おもしろい、ですか」
「すっごく! わたし、もう何回も読んでるの。でもね、だれかと一緒に読むのははじめて」
子どもが腰掛けるには十分すぎる広さのソファーに並んで座る。最初は、二人の間にクッションが一つ分ほどの距離があった。
セラが本を膝に乗せ、朗らかな声で読み進める。挿絵を見せるたびに、ピスカは覗き込むように、ほんの少し身を寄せた。
セラの声が紡ぐ物語を、ピスカは黙って聞いていた。たまに顔を向ける彼女と目が合って、どうしていいかが分からず視線をぎこちなく揺らしながらも、ページがめくられるたびにまたわずかに距離が縮まる。
逃げ場がないわけではないのに、隣に座る存在から離れたいとも思わなかった。
いつしかピスカの意識は本の中へと引き込まれるように挿絵と文字に向かい、物語が中腹へと差し掛かる頃には、セラと肩先がかすかに触れるほど近くなっていた。
「……そして王子様は、森の奥で――あっ」
挿絵に見入るあまり、次の一文を読み飛ばしてしまったセラが声を上げた。なんとなく、お互いに集中が切れて顔を見合わせる。舌がもつれたことを恥ずかしがるようにセラは笑った。その様子があまりに無防備で、ピスカも思わず小さく息を漏らす。無意識に、笑っていた。
「えへへ、間違っちゃった」
「……セラは、読み聞かせがとても上手ですね」
「えっ……わたしが?」
取り繕うようにページをめくろうとしていた手が止まり、セラはぽかんと目をまん丸にする。褒められるとは思っていなかったという顔だった。ピスカは肯定を示すように頷きを返す。
彼女の読み上げは、きっと完璧ではない。しかし、ウェールズ訛りの残る自分の発音に比べれば、拙くとも標準的な発音だ。聞く側を置き去りにせず、言葉をちゃんと誰かに渡そうとしている気遣いの滲む間の取り方が、ピスカには心地よかった。
「……なんというか、気付くと物語の中にいるみたいです」
「そ、そうかな……?」
「僕も、セラみたいに読めるようになりたいです」
考えるより先に、言葉が溢れていた。口にした瞬間、胸の奥が揺れる。
何かをやってみたい――そんな考えが浮かんだこと自体が、久しぶりだった。
「なれるよ! はじめは上手くできなくても練習すればいいって、おにいさまも学校の先生もよく言うの」
そう言って、セラは本を差し出す。
「じゃあ、ここからはピスカが読んでみる?」
「……僕が? いいんですか……?」
「もちろん。わたし、だれかがお話を読んでくれる時間も好きなんです」
くすぐったい言葉だ。誰かからこんな提案をされたのは、初めてかもしれない。断ろうと思えばできたはずなのに、ピスカは逡巡の末、本を受け取っていた。手の中の重みを、思ったよりも確かに感じる。
朗読など、やったことがない。家では本は黙って読むものだったし、読み方を教えられた覚えもない。セラフィーナのようにできるはずがない、そう思うのはごく自然なことだった。それでも、最初の一文に視線を落とし、息を吸う。
「……も、森の奥で……」
語尾が不安定に揺れる。声に出した途端、文字は思うように繋がらなかった。訛りを意識した瞬間、舌が強張り、次の単語が詰まった。胸の内側が、ひやりと冷える。
やはり、自分には――。
そう思いかけたところで、すぐ隣から柔らかな声がした。
「うん」
短い相槌。
思わず顔を上げると、セラフィーナは本のページを覗き込みながら、楽しそうに肩を揺らしていた。ピスカが上手く読めているかどうかなど、考えてもいない顔だ。止まってしまった朗読に少し遅れて視線をあげ、彼女は首を傾けて「ゆっくりでいいよ」と屈託なく笑う。
「続き、どうなるんだろうね」
読み方が拙いことを指摘されると思っていた。
あるいは、やり直しを勧められるかもしれない、とも。
だが、セラの関心は最初から物語の先にしか向いていなかった。その感覚を、ピスカにはすぐに理解できない。それでも再び視線を落とし、続きの文字を辿る。相変わらずところどころでつっかえて、言い直しも多い。読み間違えはないか、訛りが強く出ていないか。……そんなことばかりが気になった。
一文を読み終えたところで、セラが身を乗り出す。
「あ、ここから」
「……?」
「私が好きなシーンです」
挿絵を指差しながら向けられる笑顔――。
その時はじめて、ピスカは開いたページの全体を見た。背後に描かれた木々の影。薄く差し込む光と湖。先ほどまで、視界に入っていなかったものがそこにはあった。
自分は、何を読んでいたのだろう――。
上手く読むことばかりに気を取られて、物語そのものを見ていなかった。
隣に座るセラフィーナは、そんなことなど気にしてもいないのに。
この時間そのものを、彼女は楽しんでいる。今ここで、一緒に本を開いていることを。その事実が、少し遅れてピスカの胸に落ちた。
「……続けます」
「はい、聞いてます」
その一言に背を押されるように、ピスカは視線を本へと戻した。
やめようとは思わなかった。諦めてしまえば、この時間が終わってしまう気がしたから。
声を出すことへの緊張は、いつの間にか薄れている。上手く読めているかを気にする必要はない。ただ文字を追い、次の文へ進む。それだけでいい。それだけで十分だったのだから。ただ、続きを待たれている。その事実が、思いのほか胸を軽くする。
隣にいるセラフィーナは、身を寄せたまま静かに耳を傾けていた。
その気配が、今ここに自分がいていいのだと肯定されているようにも感じる。
――大丈夫だ。
ふと、そんな考えが浮かぶ。穏やかな午後の光に満ちた、静かな屋敷。危険なものなどなにもない。その安心が、胸の奥にゆっくりと広がる。しかし、その時――ふいに、
暗い影が視界を掠めた。
物語を追っていたはずの視線が、急速に脳裏をよぎる別の光景へと引き込まれる。ページに落ちる陽光が、記憶の奥に焼きついた床の色と重なった。
赤く濡れた木目。
倒れる影に。
耳の奥で反響する、あの割れるような声と鈍い物音。
途端に、息がうまく吸えなくなる。冷え切る背筋の感覚に、指先の力が抜けた。
(また……だめだ)
違う、と頭では分かっている。
ここは安全で、誰も傷つけられることはない。シグルスの屋敷で、セラフィーナと並んで、本を読んでいる、だけ。それでも勝手に蘇る記憶の断片は、容赦無くピスカを襲った。
分かっているのに。それでも、止められない。あの日からずっと。
床に何かが落ちる物音がした。本が、手から滑り落ちたのだと理解したのは、少し遅れてからだった。
「ピスカ……だいじょうぶ?」
異変を察して、そっと覗き込んでくるセラの顔を見る。かけられた声には、心に寄り添おうとする柔らかさがあった。慌てる様子も、問い詰める調子もない。
――シグルスさんと、同じ。
ただ、相手に合わせ、気遣おうとしてくれる優しさ。それが理解できた。でも、だからこそ、
だから、怖いのだ――。
ピスカの脳裏に浮かぶのは、自分の姿ではなかった。血に濡れた床に倒れる両親でもない。代わりに、あり得ないはずの光景が、勝手に形を取る。
穏やかな声で名前を呼んでくれる人が、笑いながら隣に座っていた存在が、引き裂かれていなくなる想像。
届く距離にいたのに、間に入ることすらできず、ただ立ち尽くす自分だけが残される想像。
また、一人になる。
なにも守れず、なにもできなかった自分だけが。
また、奪われてしまうのではないか。この人たちも、自分の目の前で、理不尽に壊れてしまうのではないかと想像する。
何かを言わなくては、と答えようとしたが喉が動かなかった。ピスカがせめてもと視線を逸らそうとした瞬間――小さな手が、ためらいなく重ねられる。次いで、細い腕が回され、身体ごと抱き寄せられた。温もりが手を包んだまま、背中を一定のリズムでぽん、ぽん、と撫でられる。十歳の子どもの仕草とは思えないほど、迷いがない。
「わたしはここにいるよ。おにいさまもいる。だから、だいじょうぶだよ、ピスカ」
「……、……はい」
ピスカは頷きを返した。涙は出なかった。ただ胸の奥に張り付いていた何かが、ほんの少しだけ緩んだ気がする。セラは、何も聞かない。何があったのかも、どうしてこうなっているのかも。ただ背を撫で、呼吸が落ち着くまで、ここで待っていてくれた。
しばらくして、肩の力が抜けたのを察したのだろう。セラがそっと身を離した。
「すみません、少し……取り乱してしまって」
「ううん、謝らなくていいよ。ねえ、つらいときや、さみしいときは言ってね。わたし、ちゃんとぎゅってするから。ぎゅってして、何度でもだいじょうぶだよって言うから。あなたが、もうだいじょうぶって思えるまで」
そう言いながら胸の前で手を握る仕草は、年相応に幼い。
それがかえっておかしくて、ピスカはかすかに口元を緩めた。
「ピスカは、もうわたしのおともだちでしょ」
ピスカは、そっとその手を握り返すことで応えた。
視界の端に、床に落ちたままの本を見つけて、ピスカは眉を下げる。身を屈めて、慎重にそれを拾い上げた。表紙を優しく払って、謝罪とも報告ともつかない声色で「……落としてしまいました」と告げる。すると、彼女はやはり気にする様子もなく「いいんですよ」と笑った。
「どうします? 続きを読みますか? それとも、おにいさまも呼んでお茶にしますか?」
一拍。
選択肢を与えられていることに、ピスカは気付く。そして、自分でも驚くほど、迷いのない言葉が出た。
「……続けたいです」
「うん」
「つづき……次は、セラが読んでくれますか」
「もちろん! じゃあ、今度は私の番ですね」
ぱっと顔を輝かせ、セラフィーナは本を受け取る。続きから読み始めた声は先ほどと同じように明るく、柔らかい。ピスカは背もたれに身を預け、視線を挿絵に落とした。
さっきまで胸を締め付けていた記憶や不安は、完全に消えたわけではない。それでも、こうして誰かと並び、物語を共有する。そんな穏やかな時間は、ピスカに確かな安堵を抱かせた。
*
セラフィーナの夏の休暇はあっという間に過ぎ去ってしまった。
荷造りを終えたセラの鞄が門前に停まった車に積み込まれる。その光景を目にしながら、ピスカはこれがいつも通りに戻る準備なのだと理解した。見送りに立ったシグルスのそばで、一歩下がって佇む彼はふと空を見上げる。
よく晴れていた。夏の名残を含んだ風が木々を揺らしている。そこに落ち着きのない足音が聞こえてきた。二人がゆっくりと振り返ると、階段を降り切ったセラの姿がある。
「忘れ物は見つかったか?」
「ないです! 今回はかんぺき、です。ピスカにも手伝ってもらいましたから!」
「それなら安心だな」
軽く笑ったシグルスに対し、セラは力強く頷いた。
「――ピスカ!」
ふいに、手が強く握られる。驚く間もなく、指先を絡められ、ピスカは息を呑む。別れの言葉を探す準備をしていた。寂しさを悟られないように身構えていた彼の覚悟を軽々と飛び越えて、セラは明るい声で宣言する。
「学校に戻ってもわたし、毎週お手紙を書きますから」
「……僕に?」
「もちろんです。おにいさまにも、ピスカにも」
隣でそれを聞いていたシグルスが苦笑を浮かべる。
「それは熱心だな。ちなみに僕のところには今でも毎週五枚ほど届いている。ずいぶんとマメじゃないか」
「それは書きたいことがいっぱいあるからです!」
「……学校生活を謳歌しているようで何よりだ」
「はい!」
力強い返答を聞き、シグルスはわずかに肩を竦めながらもどこか満足そうに目を細めた。
「ちゃんと、二人に書きますからね」
「……。楽しみにしています」
ピスカは胸の奥に生じた小さな痛みを悟られぬよう、息を整えてそう返した。
セラはまた一段、笑みを深めてようやくピスカの手を離し、名残惜しさを残しながらも車へと乗り込んだ。窓越しに見えるその表情は最後まで明るく、見えなくなるまで彼女は手を振っていた。
車がゆっくりと動き出し、門を抜け、視界から見えなくなるまでピスカはその場を動かない。つい先ほどまで触れていた手のひらの温度を確かめるように、無意識のうちに指先を擦り合わせる。
自身の胸の奥に、小さな空白が生まれたのを自覚していた。ほんの数週間前までは、存在しなかった全く別物の感覚。喪失と呼ぶほど重くはないが、確かな空白を感じた。
屋敷の中へ戻ると、先ほどまでの賑やかさが嘘のように引いている。変わった景色は何一つないはずなのに、朝の挨拶や廊下を駆ける足音、本を読みながら笑う声も、昨日まで当然のようにそこにあったものが一瞬の夢のように思えた。
玄関ホールを抜ける途中、隣を歩くシグルスがほんのわずか、歩調を合わせる程度に足を緩める。
「……静かになったな」
独り言のような一言は、ピスカの胸にある感覚を正確に表していた。
「騒がしいのも考えものだが、いなくなると、いなくなったで落ち着かない」
返答に迷ったピスカは視線を前に向けたまま、否定にも肯定にもならない曖昧な頷きを返した。この人でも、そう思うのだと思いながら――。
それからの日々は、滞りなく過ぎていった。一方で、静けさを取り戻した屋敷で送るピスカの生活には、無意識の変化が訪れていた。あの事件の後、シグルスに拾われてからもただ座って茫然と過ごす時間が多かった彼が、食事やシグルスの手伝いの合間に本を開くようになったのだ。
そして翌週。夕食の時間を終えた後で、ピスカはシグルスの書斎に呼ばれた。
「シグルスさん、呼ばれましたか?」
「ああ、ピスカ。セラフィーナから手紙が届いている」
これが君宛だ、とシグルスから差し出された封筒には、丸く柔らかい筆致でピスカの名前が記されていた。目を瞬かせて、両手で恭しく受け取ったピスカの視線は封筒へと釘付けになる。
「……本当に送ってくださったんですね」
「彼女は約束を重んじるタイプだ。宣言通り、これから毎週届くことになるだろう。僕への手紙の量がどうやら君に分割されたらしい」
シグルスは机の上に置かれたもう一通――すでに開封された彼宛の手紙――を指先で叩いた。
「以前は毎週五枚前後だったんだがね。今や二、三枚にすっきりとまとまってしまった」
揶揄する口ぶりながら、ピスカの目にはシグルスの表情はどこか、満足を得ているようにも見えた。まぎれもなく、子どもの成長を見守る大人の顔だった。
「……読んでもいいですか?」
「もちろん。部屋でゆっくりと読むといい」
ピスカは深く礼をして自室へと戻った。廊下を足早に抜け、部屋の扉を閉めた途端、ピスカは封筒を胸元で握りしめ、しばらくの間動けなくなる。胸に湧き上がるのは、きっと喜びだった。
――セラフィーナからの、手紙。
ピスカは机の上にそっと置いて、何度も封筒を裏返して見た。毎週手紙を書いてくれると言った彼女の言葉を疑っていたわけではない。しかし、本当に送ってくれるとも思っていなかったのが、率直な気持ちだった。
封を切れば、中には丁寧に折られた便せんが三枚。慎重にそれを開いて、ピスカはゆっくりと文字を追う。
セラのくすぐったい気遣いが、どの一文にも込められているのが分かる。
挨拶に始まり、休暇中の振り返りと学校に戻ってからの出来事が続く。遠くにいるはずのあの子が、すぐそばにいるみたいに感じられる。喜んでくれるだろうと思ったのか、余白には小さな花の挿絵まで描かれていた。
《元気にしてますか? また会うとき、たくさんお話ができるようにわたしもがんばります。きっとすぐです。だからピスカも、むりをしないで、がんばってね。大好きなおともだちへ セラフィーナより》
最後の一文で、ピスカはそっと目を伏せる。それから、もう三度ほど読み直した。
引き出しを一つ二つ確かめても自室の机から便箋らしいものは出てこなかった。そうして一日経って、ピスカはシグルスのところまでレターセットを貰いに行った。手紙の返事を書きたくて、と告げると、彼は迷いなく書棚の一角から便箋と封筒を取り出してくれた。
「これでいいか。派手なものではないが」
「……はい。十分です」
「……無理に上手く書こうとしなくていい。あの子は届くこと自体を喜ぶから」
ピスカの身の内にあった不安を見透かすように、彼はそう言い添えた。渡された便箋は飾り気こそないものの、質の良い紙だということはピスカにも分かる。日頃、彼が返信を送る時に使っているのと同じ代物なのだろう、と。
部屋に戻り、その便箋と向き合ってピスカはペンを手に取った。……しかし、ペン先は白い紙の上を彷徨い、何度も止まる。
「……何を書けば」
そう、呟きが洩れた。返事を書きたいという気持ちだけはあるのに、いざこうして必要なものを揃えてみても、最初の一文字すら書き出せない。考えてみれば当然だった。これまで手紙を書く必要のある生活を、彼は送ってこなかったのだ。
誰かに宛てて、想い出や自分の言葉を選び、紙に残すという行為をピスカは知らない。
何かの形で外へ出す前に、胸の奥へと押し込む方が彼にとっては、ずっと易しかったからだ。それ以外のやり方を、してこなかった。
悩んだあと、ピスカはひとまずセラフィーナの手紙を手本とすることを思いつく。学校での出来事。授業の合間に見た景色や、些細な失敗を拾い上げて、特別ではない日々を丁寧に綴るあの手紙。
自分のことを書けばいいのか、と思い至ると、意識は自然と内側を向く。
――すると必然、避けようとしていた記憶まで静かに浮かび上がってきた。
「……っ」
両親を奪われた、あの日の記憶。終わったはずのあの夜が、今もずっと、すぐそこに張り付いている。
たぶん、一生忘れることはできないのだろう。
引き裂かれるような悲鳴と、鈍く響く嫌な音――母の声は泣き叫ぶ途中でぷつりと途切れ、父の声も同じようにして消えた。何か、湿ったものを裂いて食むような、聞いたこともなかった悍ましい音。クローゼットの扉の隙間から見えた影の揺らめき。その中で、自分はただ膝を抱えて震え、見ていただけだった。
息をひそめ、声を殺し、泣くことすらできなかった。声を出したら、次は自分だと思っていたからだ。あの時、どうすればよかったのか、今も何度だって夢を見る。
「もう、いないのに……」
真っ白な便箋を前に、ピスカはそっとペンを下ろした。
両親だけではない。あの化け物も、もういない。化け物――吸血鬼、という存在をピスカが知ったのは事件の後のことだ。シグルスに引き取られるにあたって、彼はピスカに一通りの説明を済ませていた。子どもにも分かるよう、可能な限り丁寧に、言葉を噛み砕いて。
それから、対処済みだ、と言った。
……つまり、すべてはもう終わったことなのだ。頭では分かっている。
決して、逃げたいわけではない。ただ、進み方が分からなかった。
その時、ふと脳裏に浮かんだのはセラの顔だった。朗読が拙くても、途中で止まっても、ただ「聞いてます」と微笑んで、背を押してくれた姿。
――セラ、だったら。
そう思いながら、指先で便箋をなぞる。
もしここに彼女がいたら。こんな自分を責めるだろうか。言葉に詰まって、何もかけないでいる自分を見放すだろうか。違う。彼女はきっと、
――無理に上手く書こうとしなくていい。あの子は届くこと自体を喜ぶから。
そう言い添えてくれた恩人の姿も、重なる。
優しい人たち。あの温かさが、また誰かに奪われてしまうのではないかと想像するだけで背筋が冷える。もう、あんな思いはしたくなかった。家族を奪われたまま、何もできず、ただ暗闇で縮こまっているだけの卑怯者にはなりたくない。
だから、諦めたく、ない――。
不安を振り払い、ピスカは再びペンを手に取った。最初の一文字は、決して綺麗ではなかった。震えて不恰好にも思える字で、Helloと綴る。
《お手紙をありがとうございました。とても、嬉しかったです》
そんなありふれた言葉の数行にさえ、時間が掛かる。それでも言葉を探して、選んでを繰り返すうちに、胸の奥が少し軽くなっていくのが分かった。
《僕も、あなたみたいに手紙が書けるようになりたいです。だから、もっと勉強がしたいと思いました。少しずつ、がんばりたい》
これは前に進むための自分自身の言葉で、自分の意思で踏み出した確かな一歩だと思えたから。
*
「シグルスさん、あの……。……セラへのお返事です」
「ああ、もう書いたのか。早いな」
「とても短くなってしまいましたが……」
シグルスのもとを訪れ、そう言ってピスカが差し出した封筒は、確かに軽かった。触れてみると便せんが一枚だけ入っているような気配がある。同時に、ピスカが不安げに見上げていることにも気付いた。
それでも、今の自分が書けるだけのものを精一杯込めたのだろう。そう察して、封筒を机の上にそっと置くと、椅子の背にもたれるようにしてピスカの方へと身体を向けた。
「手紙は文量が全てではない。セラフィーナはきっと喜ぶだろう。君が彼女のために時間を掛けて言葉を選んだということは、必ず伝わるはずだ」
そう伝えると、ピスカはわずかに肩を揺らして息を吐いた。それが安堵なのか、それともまだ消えない不安なのかは、判断が難しい。この大人びた子どもの感情は、目に見える形で表に出にくいからだ。
それよりも、シグルスが気に掛かったのはその後のピスカの様子だった。普段であれば用件が終わればすぐに頭を下げ、部屋を出て行くはずなのに、彼はまだこの場に留まっている。
「……シグルスさん。僕、その……」
「どうした。何か他に困ったことでも?」
「……」
小さな靴先が不安げに揺れているのが見える。言うべきか、言わざるべきか。そんな迷いが沈黙から透けていた。だからこそ、シグルスは自然と姿勢を正し、続きを待つ。しばしの逡巡の後、ピスカはやがて決心を固めるように胸元で両手を握り締めて、まっすぐにシグルスを見た。
「勉強がしたいんです」
シグルスはわずかに目を見開いた。
「……理由を聞いてもいいか?」
「セラに、もっとちゃんと、手紙を書けるようになりたくて。がんばってるあの子と一緒に、僕も、がんばってみたい。そして、いつか――」
そこで言葉は途切れ、ピスカは小さく頭を左右に振った。それ以上は、まだ言葉にならないのだろう。だが、言いたいことのすべては、十分に伝わっていた。
シグルスはしばし沈黙して、ピスカを見つめる。
努力を惜しまない者は尊い。意欲のある者には、機会を与えられるべきだ。それはシグルス自身が幼い頃から叩き込まれ、実際に体現してきた生き方でもある。
ピスカ・ブロウニー。
この少年が背負った喪失と凄絶な苦しみが、完全に癒えることはないだろう。その傷は、彼が生涯抱えて生きていくほかない、終生の影だ。だが、その影の中からこんなにも早く、こんな言葉が生まれるとは。胸に込み上げるものを押さえ込むように、シグルスは一度、息を吐いた。
「よく言ったな。……自分の望みを自分の口で言えるようになるのは、大人になっても難しい。ピスカ、君は立派だ」
「は……、はい」
「勉強がしたいという気持ちは尊重する。君が望むなら、最良の環境を整えよう。ひとまずは、家庭教師をつける。必要なものや学びたい分野があれば好きに言いなさい」
ピスカの目が、わずかに大きく開いた。驚きとも戸惑いともつかない光が、そこに宿っている。
シグルスは構わず言葉を続けた。
「努力を惜しまない者を、僕は歓迎する。君が前に進みたいと願うなら、そのための支援は惜しまない」
「……ありがとうございます。がんばります」
ピスカが下がった後、シグルスは机の上に置かれた封筒へと視線を落とした。ピスカがセラフィーナに宛てて書いた、初めての手紙。
あの子は本当にいいきっかけを作ってくれた――。
セラフィーナが、ピスカにいい影響を与えたことは疑いようがない。
便箋一枚に収まる、たった数行の言葉。
その短い文章を書き上げるまでに、ピスカがどれほどの時間を要したのかは、容易に想像がついた。そして、引き取られてから初めて、彼は自らの意思で、はっきりと望みを口にしたのだ。
――勉強がしたい、と。
幼いながらも意欲を持ち、何より誰かのために努力しようとする子ども。その力になってやりたいと、思わないはずがなかった。
*
手紙を書くという時間は、ピスカにとっていまだ慣れたものとは言い難かった。机に向かい、白い便箋を前にすると、いつもほんの少しだけ肩に力が入る。
セラは、今日も元気にしているだろうか――。
手紙を開く少女の顔を想像するだけで、ピスカの変化に乏しい表情は自然と緩む。
彼女から届く手紙はどれも、読み終えたあとに胸の奥を明るくしてくれるものばかりだった。それに比べて、自分が彼女に返しているものはどうだろうか。そう考えると、口元を引き締めずにはいられない。
自分のことを語るのは、得意ではなかった。思っていることを正しく言葉にするのも、やはり苦手だ。誰かに読まれることを意識してペンを取ると、途端に戸惑いが生まれ、考えが慎重になりすぎてしまう。
それでも、書く。
毎週欠かさず。
これは、セラフィーナとの大切な約束だからだ。
《親愛なるセラへ お手紙、確かに拝見しました。……》
日付と宛名、書き出し。本文へと続き、そして締めの言葉を添えて、署名。最初に送った一通目の手紙から比べれば、形式に則って書き出すこと自体は迷わずできるようになっていた。
《……こちらは特に変わりありません。シグルスさんは昨日は少しお疲れのようでしたが、紅茶をお出ししたら……》
《シグルスさんはあなたからの手紙を読むとき、とてもいい表情をされます。お仕事でどれほどお忙しくされていても、……》
セラはこうした何気ない日常の話を聞くのが一番喜ぶ。彼女からの手紙によれば、シグルスは私的な苦労を決して手紙には書かないらしい。大人の事情で子どもを余計に心配させないための配慮なのだろう。
それは、セラも分かっている。分かっていても、知りたいのだ。その気持ちはピスカにもよく理解できた。だから、彼もほんの少しだけ、事実を簡潔に余計な憶測を交えず、当たり障りのない範囲で様子を伝えるようにしている。
「――ピスカ。少しいいか?」
不意に声をかけられ、顔を上げる。集中していたせいか、シグルスが部屋に入ってきていたことにも気付いていなかった。
勉強するための環境を整えてもらったことで判明したことだが、ピスカは一度やるべきことが定まると、周囲への意識が極端に薄れる癖があるらしい。家庭教師からの報告でそれを知っているため、シグルスは用がある時には自ら足を運び、声をかけるようにしていた。
「はい」
シグルスは一瞬だけ机の上に目をやり、そこにあるのがノートや本ではなく便箋であることに気づくとすぐに視線を外した。許可も得ず、他人宛の手紙を覗くような真似をしない、そういう配慮であることをピスカはすでに知っている。
「手紙を書いていたのか。セラフィーナは、君からの便りをとても喜んでいるようだ。知らない表現があって、辞書まで引いたと書いてあった。……上達したな」
「……いえ、まだまだです。あ、もう少しで書き終わります」
「急がなくていい。僕も、まだ手をつけていないからな」
その言葉に小さく頷き、ピスカは再び便箋に向き直った。
最後の一行を、慎重に書き添える。
《あなたの手紙を読むのが毎週の楽しみです。学校でどのように過ごしているか、また教えてください》
文通というものは、不思議なものだった。顔を合わせて話すよりも、ずっとゆっくりと、けれど確かに心と心が重なるような感覚がある。離れていても、すぐそばにいると感じられる時間。ピスカはこのひと時をひそかに、とても気に入っていた。
生徒が家へ戻れるのは、学期ごとに設けられた年に三度の長期休暇――イースター、サマーホリデー、そしてクリスマスのみ。中でもサマーホリデーは六週間から八週間にも及ぶ一年で最も長い休暇で、寄宿生活を送る子どもたちにとって、最も心待ちにされる期間だった。
サマーホリデー初日の午後――屋敷の玄関ホールには軽やかで弾んだ足音が、跳ねるように響いていた。出迎えに現れたシグルスの姿を見つけた途端、セラフィーナの顔はぱっと花が咲くように輝く。
「おにいさまっ! ただいま戻りました!」
「おかえり、セラフィーナ。変わらず元気そうでなによりだ」
「はい! とても元気です!」
ぱたぱたと小さな歩幅で駆け寄ってきて、大きな頷きを返したセラにシグルスは笑みを返す。
「まずは荷物を部屋に置いて、それからついておいで。君に紹介したい人がいる、と言っただろう?」
「そっ……そうでした」
その一言で、あれほど瑞々しかったセラの表情はぴたりと固まった。やや目を泳がせながらもこくこくと頷きを返して、シグルスの後ろに大人しく追従する。
案内されて向かった部屋には少年がひとり、立っていた。ノックの音に気付いて思わず立ち上がったと思わしき姿勢で、硬い面持ちを浮かべている。彼はどこか落ち着かない様子で視線を彷徨わせていた。
シグルスが少年に声をかけ、その隣に立つ。そして、今度はセラへと視線を向けた。
「セラ。紹介したい人というのは、彼のことだ」
セラは目をぱちぱちと瞬かせ、少年とシグルスを何度も見比べている。
「彼の名前は、ピスカ・ブロウニー。年は君の一つ下だ。仕事の縁で出会った少年でね。……まあ、少々複雑な事情があってひとりで暮らすのが難しい状況だった。それで、僕の方で面倒を見ることにしたんだ。今はここで一緒に暮らしている」
「それって……。……わたしと同じ?」
「――ああ、そうだな。まったく同じというわけではないが、境遇としては近いところもあるだろう」
「…………そう、ですか。紹介したい人って、そうですか」
「……? どうした?」
「あっ、ななんでもありません! なんでも!」
セラフィーナは両手をぶんぶんと振って慌てて誤魔化した。
妙に煮え切らない反応である、とシグルスはどことなく違和感を覚える。六歳の頃から見てきたシグルスにとってセラフィーナという少女は、人懐っこいという概念を具現化したような好奇心旺盛な子犬に近い生き物である。よく言えば、人見知りをしない。彼の想定ではピスカを見るなり自ら声をかけに行くのでは、とさえ思っていたのだが……と、想定した反応とは少しズレた結果に内心戸惑いを覚えていた。
一方、相対する少女は、ここ数週間の自分の思考が高速で崩れ落ちていくのを感じていた。今この瞬間、彼女の頭は混乱の渦中にある。なぜなら、彼女の想定と現実とが、あまりにもかけ離れていたからだ。
シグルスから「紹介したい人がいる」と手紙で告げられて以来、セラフィーナはその文面を何度も読み返し、勝手な結論へと突き進んでいた。
――きっと、恋人を紹介されるのだ、と。
その衝撃に備えるため、全力で覚悟を固めてきた。美しくて、背が高くて、大人で、優しそうで完璧に近い人に違いないと妄想し……ありとあらゆるイメージ像を頭の中で暴走させた。その像がシグルスの妹の姿になったこともあれば、学校の先生になったこともあり、童話の挿絵の中で微笑むお姫様の姿になったこともある。シグルスの隣に立つ完璧な淑女を想像しては、その前に自分が並ぶ光景を思い浮かべ、泣いちゃだめ! 笑顔、笑顔で祝福する……! と、机に突っ伏して現実逃避する日々を繰り返していた。
そうして決闘に挑む騎士の如く覚悟を決めて迎えたこの日。
セラフィーナが対面したのは――背丈も年齢も自分とほとんど変わらない、年下の少年である。
(……え? ……あれ?)
この時、セラフィーナの思考は理解に追いつけず、シグルスの紹介もほとんど頭に入ってこないほどの大混乱を招いていた。そして、自分が何かとんでもなく盛大な勘違いをしていたことにようやく気付いたとき、思考は真っ白に吹き飛んだ。
セラは思わず顔を覆い、胸の奥で小さく、しかし全力で叫んだ。
(――よかった! おにいさまの恋人とかじゃなくて、本当によかった……!)
――もちろん、そんな内情を知るはずもないシグルスは、明らかに挙動不審なセラフィーナの様子を訝しんでいる。しかし、今はそれを掘り下げるよりも場を滞らせぬ方が先決である、と彼は一度呼吸を整えて視線をピスカへ戻した。
「ピスカ、改めて紹介しよう。この子が僕の――」
言いかけて、不自然に言葉が止まる。
複雑な事情を抱えるピスカを、いかに当たり障りなく紹介するか。シグルスはその一点ばかりに心を割いていたため、逆にセラフィーナをどう位置付けて紹介するか――そのための表現を決めきれていなかったのである。一応、こうして二人を引き合わせるより前に、ピスカに簡易な紹介は済ませていた。寄宿学校に通っており、休暇の間だけは屋敷に戻ることや、両親を事故で亡くし、家の縁によってシグルス家が後見を引き受けていることなど。
だが、今この場で、目の前に立つ彼女を自分がどう呼ぶか。
それは、別の問題だった。厳密に『婚約者』と呼ぶには時期尚早であり、かといって『妹』とするには血縁がない。後見を引き受け、家族同然に育てている子ども――? どれもが不正確で、どれもが説明としては過剰になり得る気がした。
ほんの一瞬。言葉を選びあぐねて、シグルスの思考は空中で躓く。
その間に、セラフィーナの表情が変わった。
先ほどまでのぎこちなさは消え、代わりに状況を飲み込んだ子ども特有の切り替えの早さが表に出る。背筋を伸ばし、両手を身体の前で揃えると、わずかに踵を浮かせる仕草で一歩前へと踏み込んだ。
「はじめまして!」
声は明るいが、甲高すぎない。笑顔には少しの照れが混じっていた。
「わたしは、セラフィーナです。会えてうれしいです、ピスカ!」
子どもらしい実直さでそう述べて、右手がすっと差し出される。その動きにはためらいがなかった。
沈黙を保ち、様子を伺っていたピスカは驚くように瞬きをした。どう反応していいのか掴めず戸惑いを隠しきれない様子で、差し出された手とセラの顔を交互に見やった。彼の視線が、そっと伺いを立てるようにシグルスへと流れる。
シグルスは静かに頷きを返した。それに促されるように、ピスカは手を伸ばす。
セラフィーナはその動きを見てから、表情をまた一段とやわらげた。伸ばされた手を迎えに行くように両手で包み込む。力は強くない。落としたくない宝物を扱うような、温度のある手つきだった。
「あの……」
「びっくりさせてしまっていたら、ごめんなさい。でもわたし、帰ってくるのをずっと楽しみにしていたんです。おにいさまがきっと仲良くなれるんじゃないかって。だから、わたし……あなたと、仲良くなれたら、うれしいです」
言葉は素直で、少しだけ急くように紡がれる。そこには先ほどまでの混乱の名残があり、同時にそれを押し流すような純然たる喜びがあった。
ピスカは握られた手を見下ろし、短く息を整える。
「……こちらこそ。よろしく、お願いします。セラフィーナ、さん」
「セラでいいです!」
食い気味で返された言葉に、ピスカの表情がわずかに緩む。
「…………セラ?」
「はい!」
「……セラ」
「はいっセラです!」
また、緩む。緊張は残っているが、ピスカの警戒は薄れていた。少なくとも、拒絶は見られない。
ウェールズ訛りの残る控えめな声で、必要以上に感情を漏らすまいと努める、普段通りの慎ましい佇まい。しかし、今は。年齢よりもずっと大人びた印象を与える少年が、年相応の穏やかさを見せている。
シグルスは、その変化を見逃さなかった。
セラフィーナの行動が想定していた通りの形に戻ってきていることにも、内心安堵する。セラは時に破壊的なほど遠慮がないが、他者との距離の詰め方を誤らない子どもだ。少なくとも、意図せず相手を追い詰めることはしない。その点において、シグルスは彼女を信頼していた。
(……問題はなさそうだな)
そう判断したが、視線は外さない。二人の反応を見守りながら、必要とあらば介入できる位置に留まっておく。
それが子どもを保護する大人の役割だから。
やがて、セラフィーナがシグルスの方を振り返った。
「おにいさま。わたし、ピスカともっとお話ししたいです!」
「それは何よりだが、張り切りすぎて彼に無理はさせないように」
「はい。ちゃんと気をつけます!」
その後も、二人は驚くほど自然な距離感で会話を始めた。まるで旧知の仲だったかのように。セラはピスカの言葉を遮らず、明るい表情で耳を傾ける。ピスカは最初こそ言葉少なな様子だったが、彼女の朗らかさに釣られてか、次第に返事が増えていった。夏の午後。子どもたちの新しい関係が、子どもらしい速度で、確かに形を取り始めていた。
*
「ね、ピスカ。よかったら一緒に読みませんか? この本の挿絵がね、すごくきれいなの」
お気に入りらしい児童文学の一冊を両腕で胸に抱え、セラフィーナはそう言って歩み寄ってきた。断られる、という可能性を考えていないような瞳を見返して、ピスカは一瞬、言葉を探した。断るほどの理由も見つからず、気がつけば差し出された手を取っていた。
彼女に出会ったのは、ほんの三日前のことだ。
夏季休暇に入ったセラがシグルスの屋敷に戻ってきたその日、シグルスの計らいによって引き合わされた。少女の大きな瞳にまっすぐに捉えられた瞬間、目が合って、自然と息を呑んだ。人を見て「明るい」と感じたのは初めてだった。光を放っているわけではないのに。ただ、そこに在るだけで周囲の空気が違って見えた。
――自分とは、違う。
そう思った。
「はじめまして!」
思考を途中で跳ね飛ばすほどの声で、彼女は駆け寄ってきた。迷いなく差し出された手に、ピスカは反射的に恩人の方を見る。シグルスは何も言わず、けれど大丈夫だと伝えるように頷いたのを見て、行っていいのだ、と理解した。
それでも、手はすぐには動かなかった。改まって誰かと握手をした経験など、ほとんどなかったからだ。ましてや、同じ年頃の子に。迷った手すら両手で包み込んで、その子は笑った。
どうして、そんなふうに――。
初対面だというのに、彼女は期待を向けている。シグルスから聞かされた言葉だけを信じて、疑いのない好意を向けてくる。他でもなく、今、目の前の自分に向かって。最初から「仲良くなれるはずだ」と信じられること。それは、ピスカの知っている世界には、あまり存在しなくなっていた類の好意だった。
仲良く、といわれても慣れていないピスカにはどう接すべきか分からない。だが、悩む必要もなかった。なぜなら、セラの方からこうして「散歩に行こう」「本を読もう」と次々に声をかけてきたからだ。どれも「一緒に」という前提で語られていたものの、拒否を責めることも、急かすことも決してなかった。
「ピスカも気に入ってくれるといいな」
「……おもしろい、ですか」
「すっごく! わたし、もう何回も読んでるの。でもね、だれかと一緒に読むのははじめて」
子どもが腰掛けるには十分すぎる広さのソファーに並んで座る。最初は、二人の間にクッションが一つ分ほどの距離があった。
セラが本を膝に乗せ、朗らかな声で読み進める。挿絵を見せるたびに、ピスカは覗き込むように、ほんの少し身を寄せた。
セラの声が紡ぐ物語を、ピスカは黙って聞いていた。たまに顔を向ける彼女と目が合って、どうしていいかが分からず視線をぎこちなく揺らしながらも、ページがめくられるたびにまたわずかに距離が縮まる。
逃げ場がないわけではないのに、隣に座る存在から離れたいとも思わなかった。
いつしかピスカの意識は本の中へと引き込まれるように挿絵と文字に向かい、物語が中腹へと差し掛かる頃には、セラと肩先がかすかに触れるほど近くなっていた。
「……そして王子様は、森の奥で――あっ」
挿絵に見入るあまり、次の一文を読み飛ばしてしまったセラが声を上げた。なんとなく、お互いに集中が切れて顔を見合わせる。舌がもつれたことを恥ずかしがるようにセラは笑った。その様子があまりに無防備で、ピスカも思わず小さく息を漏らす。無意識に、笑っていた。
「えへへ、間違っちゃった」
「……セラは、読み聞かせがとても上手ですね」
「えっ……わたしが?」
取り繕うようにページをめくろうとしていた手が止まり、セラはぽかんと目をまん丸にする。褒められるとは思っていなかったという顔だった。ピスカは肯定を示すように頷きを返す。
彼女の読み上げは、きっと完璧ではない。しかし、ウェールズ訛りの残る自分の発音に比べれば、拙くとも標準的な発音だ。聞く側を置き去りにせず、言葉をちゃんと誰かに渡そうとしている気遣いの滲む間の取り方が、ピスカには心地よかった。
「……なんというか、気付くと物語の中にいるみたいです」
「そ、そうかな……?」
「僕も、セラみたいに読めるようになりたいです」
考えるより先に、言葉が溢れていた。口にした瞬間、胸の奥が揺れる。
何かをやってみたい――そんな考えが浮かんだこと自体が、久しぶりだった。
「なれるよ! はじめは上手くできなくても練習すればいいって、おにいさまも学校の先生もよく言うの」
そう言って、セラは本を差し出す。
「じゃあ、ここからはピスカが読んでみる?」
「……僕が? いいんですか……?」
「もちろん。わたし、だれかがお話を読んでくれる時間も好きなんです」
くすぐったい言葉だ。誰かからこんな提案をされたのは、初めてかもしれない。断ろうと思えばできたはずなのに、ピスカは逡巡の末、本を受け取っていた。手の中の重みを、思ったよりも確かに感じる。
朗読など、やったことがない。家では本は黙って読むものだったし、読み方を教えられた覚えもない。セラフィーナのようにできるはずがない、そう思うのはごく自然なことだった。それでも、最初の一文に視線を落とし、息を吸う。
「……も、森の奥で……」
語尾が不安定に揺れる。声に出した途端、文字は思うように繋がらなかった。訛りを意識した瞬間、舌が強張り、次の単語が詰まった。胸の内側が、ひやりと冷える。
やはり、自分には――。
そう思いかけたところで、すぐ隣から柔らかな声がした。
「うん」
短い相槌。
思わず顔を上げると、セラフィーナは本のページを覗き込みながら、楽しそうに肩を揺らしていた。ピスカが上手く読めているかどうかなど、考えてもいない顔だ。止まってしまった朗読に少し遅れて視線をあげ、彼女は首を傾けて「ゆっくりでいいよ」と屈託なく笑う。
「続き、どうなるんだろうね」
読み方が拙いことを指摘されると思っていた。
あるいは、やり直しを勧められるかもしれない、とも。
だが、セラの関心は最初から物語の先にしか向いていなかった。その感覚を、ピスカにはすぐに理解できない。それでも再び視線を落とし、続きの文字を辿る。相変わらずところどころでつっかえて、言い直しも多い。読み間違えはないか、訛りが強く出ていないか。……そんなことばかりが気になった。
一文を読み終えたところで、セラが身を乗り出す。
「あ、ここから」
「……?」
「私が好きなシーンです」
挿絵を指差しながら向けられる笑顔――。
その時はじめて、ピスカは開いたページの全体を見た。背後に描かれた木々の影。薄く差し込む光と湖。先ほどまで、視界に入っていなかったものがそこにはあった。
自分は、何を読んでいたのだろう――。
上手く読むことばかりに気を取られて、物語そのものを見ていなかった。
隣に座るセラフィーナは、そんなことなど気にしてもいないのに。
この時間そのものを、彼女は楽しんでいる。今ここで、一緒に本を開いていることを。その事実が、少し遅れてピスカの胸に落ちた。
「……続けます」
「はい、聞いてます」
その一言に背を押されるように、ピスカは視線を本へと戻した。
やめようとは思わなかった。諦めてしまえば、この時間が終わってしまう気がしたから。
声を出すことへの緊張は、いつの間にか薄れている。上手く読めているかを気にする必要はない。ただ文字を追い、次の文へ進む。それだけでいい。それだけで十分だったのだから。ただ、続きを待たれている。その事実が、思いのほか胸を軽くする。
隣にいるセラフィーナは、身を寄せたまま静かに耳を傾けていた。
その気配が、今ここに自分がいていいのだと肯定されているようにも感じる。
――大丈夫だ。
ふと、そんな考えが浮かぶ。穏やかな午後の光に満ちた、静かな屋敷。危険なものなどなにもない。その安心が、胸の奥にゆっくりと広がる。しかし、その時――ふいに、
暗い影が視界を掠めた。
物語を追っていたはずの視線が、急速に脳裏をよぎる別の光景へと引き込まれる。ページに落ちる陽光が、記憶の奥に焼きついた床の色と重なった。
赤く濡れた木目。
倒れる影に。
耳の奥で反響する、あの割れるような声と鈍い物音。
途端に、息がうまく吸えなくなる。冷え切る背筋の感覚に、指先の力が抜けた。
(また……だめだ)
違う、と頭では分かっている。
ここは安全で、誰も傷つけられることはない。シグルスの屋敷で、セラフィーナと並んで、本を読んでいる、だけ。それでも勝手に蘇る記憶の断片は、容赦無くピスカを襲った。
分かっているのに。それでも、止められない。あの日からずっと。
床に何かが落ちる物音がした。本が、手から滑り落ちたのだと理解したのは、少し遅れてからだった。
「ピスカ……だいじょうぶ?」
異変を察して、そっと覗き込んでくるセラの顔を見る。かけられた声には、心に寄り添おうとする柔らかさがあった。慌てる様子も、問い詰める調子もない。
――シグルスさんと、同じ。
ただ、相手に合わせ、気遣おうとしてくれる優しさ。それが理解できた。でも、だからこそ、
だから、怖いのだ――。
ピスカの脳裏に浮かぶのは、自分の姿ではなかった。血に濡れた床に倒れる両親でもない。代わりに、あり得ないはずの光景が、勝手に形を取る。
穏やかな声で名前を呼んでくれる人が、笑いながら隣に座っていた存在が、引き裂かれていなくなる想像。
届く距離にいたのに、間に入ることすらできず、ただ立ち尽くす自分だけが残される想像。
また、一人になる。
なにも守れず、なにもできなかった自分だけが。
また、奪われてしまうのではないか。この人たちも、自分の目の前で、理不尽に壊れてしまうのではないかと想像する。
何かを言わなくては、と答えようとしたが喉が動かなかった。ピスカがせめてもと視線を逸らそうとした瞬間――小さな手が、ためらいなく重ねられる。次いで、細い腕が回され、身体ごと抱き寄せられた。温もりが手を包んだまま、背中を一定のリズムでぽん、ぽん、と撫でられる。十歳の子どもの仕草とは思えないほど、迷いがない。
「わたしはここにいるよ。おにいさまもいる。だから、だいじょうぶだよ、ピスカ」
「……、……はい」
ピスカは頷きを返した。涙は出なかった。ただ胸の奥に張り付いていた何かが、ほんの少しだけ緩んだ気がする。セラは、何も聞かない。何があったのかも、どうしてこうなっているのかも。ただ背を撫で、呼吸が落ち着くまで、ここで待っていてくれた。
しばらくして、肩の力が抜けたのを察したのだろう。セラがそっと身を離した。
「すみません、少し……取り乱してしまって」
「ううん、謝らなくていいよ。ねえ、つらいときや、さみしいときは言ってね。わたし、ちゃんとぎゅってするから。ぎゅってして、何度でもだいじょうぶだよって言うから。あなたが、もうだいじょうぶって思えるまで」
そう言いながら胸の前で手を握る仕草は、年相応に幼い。
それがかえっておかしくて、ピスカはかすかに口元を緩めた。
「ピスカは、もうわたしのおともだちでしょ」
ピスカは、そっとその手を握り返すことで応えた。
視界の端に、床に落ちたままの本を見つけて、ピスカは眉を下げる。身を屈めて、慎重にそれを拾い上げた。表紙を優しく払って、謝罪とも報告ともつかない声色で「……落としてしまいました」と告げる。すると、彼女はやはり気にする様子もなく「いいんですよ」と笑った。
「どうします? 続きを読みますか? それとも、おにいさまも呼んでお茶にしますか?」
一拍。
選択肢を与えられていることに、ピスカは気付く。そして、自分でも驚くほど、迷いのない言葉が出た。
「……続けたいです」
「うん」
「つづき……次は、セラが読んでくれますか」
「もちろん! じゃあ、今度は私の番ですね」
ぱっと顔を輝かせ、セラフィーナは本を受け取る。続きから読み始めた声は先ほどと同じように明るく、柔らかい。ピスカは背もたれに身を預け、視線を挿絵に落とした。
さっきまで胸を締め付けていた記憶や不安は、完全に消えたわけではない。それでも、こうして誰かと並び、物語を共有する。そんな穏やかな時間は、ピスカに確かな安堵を抱かせた。
*
セラフィーナの夏の休暇はあっという間に過ぎ去ってしまった。
荷造りを終えたセラの鞄が門前に停まった車に積み込まれる。その光景を目にしながら、ピスカはこれがいつも通りに戻る準備なのだと理解した。見送りに立ったシグルスのそばで、一歩下がって佇む彼はふと空を見上げる。
よく晴れていた。夏の名残を含んだ風が木々を揺らしている。そこに落ち着きのない足音が聞こえてきた。二人がゆっくりと振り返ると、階段を降り切ったセラの姿がある。
「忘れ物は見つかったか?」
「ないです! 今回はかんぺき、です。ピスカにも手伝ってもらいましたから!」
「それなら安心だな」
軽く笑ったシグルスに対し、セラは力強く頷いた。
「――ピスカ!」
ふいに、手が強く握られる。驚く間もなく、指先を絡められ、ピスカは息を呑む。別れの言葉を探す準備をしていた。寂しさを悟られないように身構えていた彼の覚悟を軽々と飛び越えて、セラは明るい声で宣言する。
「学校に戻ってもわたし、毎週お手紙を書きますから」
「……僕に?」
「もちろんです。おにいさまにも、ピスカにも」
隣でそれを聞いていたシグルスが苦笑を浮かべる。
「それは熱心だな。ちなみに僕のところには今でも毎週五枚ほど届いている。ずいぶんとマメじゃないか」
「それは書きたいことがいっぱいあるからです!」
「……学校生活を謳歌しているようで何よりだ」
「はい!」
力強い返答を聞き、シグルスはわずかに肩を竦めながらもどこか満足そうに目を細めた。
「ちゃんと、二人に書きますからね」
「……。楽しみにしています」
ピスカは胸の奥に生じた小さな痛みを悟られぬよう、息を整えてそう返した。
セラはまた一段、笑みを深めてようやくピスカの手を離し、名残惜しさを残しながらも車へと乗り込んだ。窓越しに見えるその表情は最後まで明るく、見えなくなるまで彼女は手を振っていた。
車がゆっくりと動き出し、門を抜け、視界から見えなくなるまでピスカはその場を動かない。つい先ほどまで触れていた手のひらの温度を確かめるように、無意識のうちに指先を擦り合わせる。
自身の胸の奥に、小さな空白が生まれたのを自覚していた。ほんの数週間前までは、存在しなかった全く別物の感覚。喪失と呼ぶほど重くはないが、確かな空白を感じた。
屋敷の中へ戻ると、先ほどまでの賑やかさが嘘のように引いている。変わった景色は何一つないはずなのに、朝の挨拶や廊下を駆ける足音、本を読みながら笑う声も、昨日まで当然のようにそこにあったものが一瞬の夢のように思えた。
玄関ホールを抜ける途中、隣を歩くシグルスがほんのわずか、歩調を合わせる程度に足を緩める。
「……静かになったな」
独り言のような一言は、ピスカの胸にある感覚を正確に表していた。
「騒がしいのも考えものだが、いなくなると、いなくなったで落ち着かない」
返答に迷ったピスカは視線を前に向けたまま、否定にも肯定にもならない曖昧な頷きを返した。この人でも、そう思うのだと思いながら――。
それからの日々は、滞りなく過ぎていった。一方で、静けさを取り戻した屋敷で送るピスカの生活には、無意識の変化が訪れていた。あの事件の後、シグルスに拾われてからもただ座って茫然と過ごす時間が多かった彼が、食事やシグルスの手伝いの合間に本を開くようになったのだ。
そして翌週。夕食の時間を終えた後で、ピスカはシグルスの書斎に呼ばれた。
「シグルスさん、呼ばれましたか?」
「ああ、ピスカ。セラフィーナから手紙が届いている」
これが君宛だ、とシグルスから差し出された封筒には、丸く柔らかい筆致でピスカの名前が記されていた。目を瞬かせて、両手で恭しく受け取ったピスカの視線は封筒へと釘付けになる。
「……本当に送ってくださったんですね」
「彼女は約束を重んじるタイプだ。宣言通り、これから毎週届くことになるだろう。僕への手紙の量がどうやら君に分割されたらしい」
シグルスは机の上に置かれたもう一通――すでに開封された彼宛の手紙――を指先で叩いた。
「以前は毎週五枚前後だったんだがね。今や二、三枚にすっきりとまとまってしまった」
揶揄する口ぶりながら、ピスカの目にはシグルスの表情はどこか、満足を得ているようにも見えた。まぎれもなく、子どもの成長を見守る大人の顔だった。
「……読んでもいいですか?」
「もちろん。部屋でゆっくりと読むといい」
ピスカは深く礼をして自室へと戻った。廊下を足早に抜け、部屋の扉を閉めた途端、ピスカは封筒を胸元で握りしめ、しばらくの間動けなくなる。胸に湧き上がるのは、きっと喜びだった。
――セラフィーナからの、手紙。
ピスカは机の上にそっと置いて、何度も封筒を裏返して見た。毎週手紙を書いてくれると言った彼女の言葉を疑っていたわけではない。しかし、本当に送ってくれるとも思っていなかったのが、率直な気持ちだった。
封を切れば、中には丁寧に折られた便せんが三枚。慎重にそれを開いて、ピスカはゆっくりと文字を追う。
セラのくすぐったい気遣いが、どの一文にも込められているのが分かる。
挨拶に始まり、休暇中の振り返りと学校に戻ってからの出来事が続く。遠くにいるはずのあの子が、すぐそばにいるみたいに感じられる。喜んでくれるだろうと思ったのか、余白には小さな花の挿絵まで描かれていた。
《元気にしてますか? また会うとき、たくさんお話ができるようにわたしもがんばります。きっとすぐです。だからピスカも、むりをしないで、がんばってね。大好きなおともだちへ セラフィーナより》
最後の一文で、ピスカはそっと目を伏せる。それから、もう三度ほど読み直した。
引き出しを一つ二つ確かめても自室の机から便箋らしいものは出てこなかった。そうして一日経って、ピスカはシグルスのところまでレターセットを貰いに行った。手紙の返事を書きたくて、と告げると、彼は迷いなく書棚の一角から便箋と封筒を取り出してくれた。
「これでいいか。派手なものではないが」
「……はい。十分です」
「……無理に上手く書こうとしなくていい。あの子は届くこと自体を喜ぶから」
ピスカの身の内にあった不安を見透かすように、彼はそう言い添えた。渡された便箋は飾り気こそないものの、質の良い紙だということはピスカにも分かる。日頃、彼が返信を送る時に使っているのと同じ代物なのだろう、と。
部屋に戻り、その便箋と向き合ってピスカはペンを手に取った。……しかし、ペン先は白い紙の上を彷徨い、何度も止まる。
「……何を書けば」
そう、呟きが洩れた。返事を書きたいという気持ちだけはあるのに、いざこうして必要なものを揃えてみても、最初の一文字すら書き出せない。考えてみれば当然だった。これまで手紙を書く必要のある生活を、彼は送ってこなかったのだ。
誰かに宛てて、想い出や自分の言葉を選び、紙に残すという行為をピスカは知らない。
何かの形で外へ出す前に、胸の奥へと押し込む方が彼にとっては、ずっと易しかったからだ。それ以外のやり方を、してこなかった。
悩んだあと、ピスカはひとまずセラフィーナの手紙を手本とすることを思いつく。学校での出来事。授業の合間に見た景色や、些細な失敗を拾い上げて、特別ではない日々を丁寧に綴るあの手紙。
自分のことを書けばいいのか、と思い至ると、意識は自然と内側を向く。
――すると必然、避けようとしていた記憶まで静かに浮かび上がってきた。
「……っ」
両親を奪われた、あの日の記憶。終わったはずのあの夜が、今もずっと、すぐそこに張り付いている。
たぶん、一生忘れることはできないのだろう。
引き裂かれるような悲鳴と、鈍く響く嫌な音――母の声は泣き叫ぶ途中でぷつりと途切れ、父の声も同じようにして消えた。何か、湿ったものを裂いて食むような、聞いたこともなかった悍ましい音。クローゼットの扉の隙間から見えた影の揺らめき。その中で、自分はただ膝を抱えて震え、見ていただけだった。
息をひそめ、声を殺し、泣くことすらできなかった。声を出したら、次は自分だと思っていたからだ。あの時、どうすればよかったのか、今も何度だって夢を見る。
「もう、いないのに……」
真っ白な便箋を前に、ピスカはそっとペンを下ろした。
両親だけではない。あの化け物も、もういない。化け物――吸血鬼、という存在をピスカが知ったのは事件の後のことだ。シグルスに引き取られるにあたって、彼はピスカに一通りの説明を済ませていた。子どもにも分かるよう、可能な限り丁寧に、言葉を噛み砕いて。
それから、対処済みだ、と言った。
……つまり、すべてはもう終わったことなのだ。頭では分かっている。
決して、逃げたいわけではない。ただ、進み方が分からなかった。
その時、ふと脳裏に浮かんだのはセラの顔だった。朗読が拙くても、途中で止まっても、ただ「聞いてます」と微笑んで、背を押してくれた姿。
――セラ、だったら。
そう思いながら、指先で便箋をなぞる。
もしここに彼女がいたら。こんな自分を責めるだろうか。言葉に詰まって、何もかけないでいる自分を見放すだろうか。違う。彼女はきっと、
――無理に上手く書こうとしなくていい。あの子は届くこと自体を喜ぶから。
そう言い添えてくれた恩人の姿も、重なる。
優しい人たち。あの温かさが、また誰かに奪われてしまうのではないかと想像するだけで背筋が冷える。もう、あんな思いはしたくなかった。家族を奪われたまま、何もできず、ただ暗闇で縮こまっているだけの卑怯者にはなりたくない。
だから、諦めたく、ない――。
不安を振り払い、ピスカは再びペンを手に取った。最初の一文字は、決して綺麗ではなかった。震えて不恰好にも思える字で、Helloと綴る。
《お手紙をありがとうございました。とても、嬉しかったです》
そんなありふれた言葉の数行にさえ、時間が掛かる。それでも言葉を探して、選んでを繰り返すうちに、胸の奥が少し軽くなっていくのが分かった。
《僕も、あなたみたいに手紙が書けるようになりたいです。だから、もっと勉強がしたいと思いました。少しずつ、がんばりたい》
これは前に進むための自分自身の言葉で、自分の意思で踏み出した確かな一歩だと思えたから。
*
「シグルスさん、あの……。……セラへのお返事です」
「ああ、もう書いたのか。早いな」
「とても短くなってしまいましたが……」
シグルスのもとを訪れ、そう言ってピスカが差し出した封筒は、確かに軽かった。触れてみると便せんが一枚だけ入っているような気配がある。同時に、ピスカが不安げに見上げていることにも気付いた。
それでも、今の自分が書けるだけのものを精一杯込めたのだろう。そう察して、封筒を机の上にそっと置くと、椅子の背にもたれるようにしてピスカの方へと身体を向けた。
「手紙は文量が全てではない。セラフィーナはきっと喜ぶだろう。君が彼女のために時間を掛けて言葉を選んだということは、必ず伝わるはずだ」
そう伝えると、ピスカはわずかに肩を揺らして息を吐いた。それが安堵なのか、それともまだ消えない不安なのかは、判断が難しい。この大人びた子どもの感情は、目に見える形で表に出にくいからだ。
それよりも、シグルスが気に掛かったのはその後のピスカの様子だった。普段であれば用件が終わればすぐに頭を下げ、部屋を出て行くはずなのに、彼はまだこの場に留まっている。
「……シグルスさん。僕、その……」
「どうした。何か他に困ったことでも?」
「……」
小さな靴先が不安げに揺れているのが見える。言うべきか、言わざるべきか。そんな迷いが沈黙から透けていた。だからこそ、シグルスは自然と姿勢を正し、続きを待つ。しばしの逡巡の後、ピスカはやがて決心を固めるように胸元で両手を握り締めて、まっすぐにシグルスを見た。
「勉強がしたいんです」
シグルスはわずかに目を見開いた。
「……理由を聞いてもいいか?」
「セラに、もっとちゃんと、手紙を書けるようになりたくて。がんばってるあの子と一緒に、僕も、がんばってみたい。そして、いつか――」
そこで言葉は途切れ、ピスカは小さく頭を左右に振った。それ以上は、まだ言葉にならないのだろう。だが、言いたいことのすべては、十分に伝わっていた。
シグルスはしばし沈黙して、ピスカを見つめる。
努力を惜しまない者は尊い。意欲のある者には、機会を与えられるべきだ。それはシグルス自身が幼い頃から叩き込まれ、実際に体現してきた生き方でもある。
ピスカ・ブロウニー。
この少年が背負った喪失と凄絶な苦しみが、完全に癒えることはないだろう。その傷は、彼が生涯抱えて生きていくほかない、終生の影だ。だが、その影の中からこんなにも早く、こんな言葉が生まれるとは。胸に込み上げるものを押さえ込むように、シグルスは一度、息を吐いた。
「よく言ったな。……自分の望みを自分の口で言えるようになるのは、大人になっても難しい。ピスカ、君は立派だ」
「は……、はい」
「勉強がしたいという気持ちは尊重する。君が望むなら、最良の環境を整えよう。ひとまずは、家庭教師をつける。必要なものや学びたい分野があれば好きに言いなさい」
ピスカの目が、わずかに大きく開いた。驚きとも戸惑いともつかない光が、そこに宿っている。
シグルスは構わず言葉を続けた。
「努力を惜しまない者を、僕は歓迎する。君が前に進みたいと願うなら、そのための支援は惜しまない」
「……ありがとうございます。がんばります」
ピスカが下がった後、シグルスは机の上に置かれた封筒へと視線を落とした。ピスカがセラフィーナに宛てて書いた、初めての手紙。
あの子は本当にいいきっかけを作ってくれた――。
セラフィーナが、ピスカにいい影響を与えたことは疑いようがない。
便箋一枚に収まる、たった数行の言葉。
その短い文章を書き上げるまでに、ピスカがどれほどの時間を要したのかは、容易に想像がついた。そして、引き取られてから初めて、彼は自らの意思で、はっきりと望みを口にしたのだ。
――勉強がしたい、と。
幼いながらも意欲を持ち、何より誰かのために努力しようとする子ども。その力になってやりたいと、思わないはずがなかった。
*
手紙を書くという時間は、ピスカにとっていまだ慣れたものとは言い難かった。机に向かい、白い便箋を前にすると、いつもほんの少しだけ肩に力が入る。
セラは、今日も元気にしているだろうか――。
手紙を開く少女の顔を想像するだけで、ピスカの変化に乏しい表情は自然と緩む。
彼女から届く手紙はどれも、読み終えたあとに胸の奥を明るくしてくれるものばかりだった。それに比べて、自分が彼女に返しているものはどうだろうか。そう考えると、口元を引き締めずにはいられない。
自分のことを語るのは、得意ではなかった。思っていることを正しく言葉にするのも、やはり苦手だ。誰かに読まれることを意識してペンを取ると、途端に戸惑いが生まれ、考えが慎重になりすぎてしまう。
それでも、書く。
毎週欠かさず。
これは、セラフィーナとの大切な約束だからだ。
《親愛なるセラへ お手紙、確かに拝見しました。……》
日付と宛名、書き出し。本文へと続き、そして締めの言葉を添えて、署名。最初に送った一通目の手紙から比べれば、形式に則って書き出すこと自体は迷わずできるようになっていた。
《……こちらは特に変わりありません。シグルスさんは昨日は少しお疲れのようでしたが、紅茶をお出ししたら……》
《シグルスさんはあなたからの手紙を読むとき、とてもいい表情をされます。お仕事でどれほどお忙しくされていても、……》
セラはこうした何気ない日常の話を聞くのが一番喜ぶ。彼女からの手紙によれば、シグルスは私的な苦労を決して手紙には書かないらしい。大人の事情で子どもを余計に心配させないための配慮なのだろう。
それは、セラも分かっている。分かっていても、知りたいのだ。その気持ちはピスカにもよく理解できた。だから、彼もほんの少しだけ、事実を簡潔に余計な憶測を交えず、当たり障りのない範囲で様子を伝えるようにしている。
「――ピスカ。少しいいか?」
不意に声をかけられ、顔を上げる。集中していたせいか、シグルスが部屋に入ってきていたことにも気付いていなかった。
勉強するための環境を整えてもらったことで判明したことだが、ピスカは一度やるべきことが定まると、周囲への意識が極端に薄れる癖があるらしい。家庭教師からの報告でそれを知っているため、シグルスは用がある時には自ら足を運び、声をかけるようにしていた。
「はい」
シグルスは一瞬だけ机の上に目をやり、そこにあるのがノートや本ではなく便箋であることに気づくとすぐに視線を外した。許可も得ず、他人宛の手紙を覗くような真似をしない、そういう配慮であることをピスカはすでに知っている。
「手紙を書いていたのか。セラフィーナは、君からの便りをとても喜んでいるようだ。知らない表現があって、辞書まで引いたと書いてあった。……上達したな」
「……いえ、まだまだです。あ、もう少しで書き終わります」
「急がなくていい。僕も、まだ手をつけていないからな」
その言葉に小さく頷き、ピスカは再び便箋に向き直った。
最後の一行を、慎重に書き添える。
《あなたの手紙を読むのが毎週の楽しみです。学校でどのように過ごしているか、また教えてください》
文通というものは、不思議なものだった。顔を合わせて話すよりも、ずっとゆっくりと、けれど確かに心と心が重なるような感覚がある。離れていても、すぐそばにいると感じられる時間。ピスカはこのひと時をひそかに、とても気に入っていた。