手紙を読むたびに
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寄宿学校の生活は、鐘の音で終わり、鐘の音で始まる。
古い石造りの壁を伝って忍び込んでくる朝の冷気は、ベッドの毛布の中にまでじわりと入り込んでくる。セラフィーナは丸くなったまま、隙間からそっと手を出して外気に触れ、あまりの冷たさにすぐ毛布へと引っ込めた。しばらくそうして身体の覚悟を固めていると、遠くの塔から鐘が鳴った。一日の始まりを告げる七時の鐘の音だ。
次いで、隣のベッドから「さむい」と言うルームメイトの小さな呻き声。
それを合図にしたかのように、セラフィーナは毛布を抱えたまま、がばっと上体を起こした。
「おはようございます!」
まだ寝ぼけた「おはよ~」が隣から返ってくる。
ベッドから足を下ろした途端、床の冷たさに飛び上がり、慌ててスリッパを探す。寝癖で広がった髪に指を通しながら窓の外を見ると、ガラスにはうっすらと霜が張っていた。内側には先日、指で描いた模様のあとがまだ残っている。指先でそっと霜をなぞり、吐いた息がうっすら白くなるのを見て、セラは嬉しそうに笑った。
「リリー、ほら見てください。息が白いですよ!」
「ん~ん……寒いからね……」
「パンの匂いもしてきましたよ!」
リリーがようやく布団から顔を出し、頼りなげに手を伸ばす。
それを見て、セラは身支度を中断し、ベッド脇にぱたぱたと駆け寄るとその手を両手で包んだ。リリーが、息を吐くように笑った。
「セラの手、つめた……」
「もう、早く起きないとまた礼拝に遅れちゃいます!」
「…………毎朝ほんとに元気だね、セラは」
お寝坊さんなルームメイトを引っ張り起こして、いつもと同じように始まる朝――。
これが、十歳になったセラフィーナの新しい日常だった。
学校に戻ったばかりの頃は、思っていた以上に寂しかった。駅のホームまで見送りに立ってくれたおじさまとおばさまが手を振ってくれる姿が離れていくときも、胸がぎゅっと苦しくなったし、夜に寮のベッドで明かりを消して「おにいさま、今頃なにしてるのかな」と考えるたび、目の奥が熱くなった。
けれど、それも一週間が過ぎるまでの話だ。それからは、泣いてしまう日も少しずつ減っていった。
今では授業の時間割にも慣れて、教室の窓辺近くが自然と自分の座る定位置になりつつある。友だちもたくさんできた。勉強は決して簡単ではなく、算数の問題にはときどき見たことのない形の記号が出てきて頭がぐるぐるするが、先生もおにいさまも「努力は裏切らない」と言ってくれるので、がんばっている。分からないところは友だちに聞いたり、先生に質問したりして、ほんの少しずつできるようになっていく――その積み重ねが、楽しかった。
そんな彼女のいちばんの楽しみは、週末の手紙を書く時間だ。
毎週日曜の夕方になると全生徒が講堂に集められ、家族や後見人へ宛てた手紙を書く決まりが、寄宿学校にはある。
広い講堂に並んだ長机の上で、便せんと封筒を前にした子どもたちが一斉にペンを走らせて、一週間の出来事や授業の様子、友人との小さな喧嘩などを綴る。多くの生徒たちはこの時間を通じて一週間を振り返りながら、感謝や近況を言葉にして伝える練習をし、礼儀や文法の作法を学ぶのだ。書き終えた手紙は担任の教師に預けられて投函され、翌週半ばにはそれらの返信が、朝食のテーブルを賑わせる。
週に一度のこの時間は、寄宿生活を送る子どもたちが日々の出来事を誰かに伝えることで心を整え、家族とのつながりを確かめるための大切なひとときだ。
ただし、この時間に取り組む生徒の姿勢はそれぞれ違う。思い出し笑いをしながら書く子もいれば、書く材料が早々に尽きて天井を睨んでいる子もいる。
「――はい、ミス・エヴァンズ。今週の分のお手紙、できました!」
弾む声とともに両手で差し出された封筒を受け取った若い女教師――エヴァンズ女史は思わず無言で瞬きをした。
――重い。
講堂の前列で受け取った他の生徒たちの封筒はどれも指先でつまめるほどの軽さなのに、明らかに質量の概念からして違う。わずかに封筒が膨らんで見えるのすら、すでに見慣れた状態である。かならず「親愛なるおにいさまへ」で始め、真剣な顔つきで迷いなくペンを走らせ、誰よりも長い手紙を書く。封を閉じる前には「ちゃんと届きますように」と両手を組んで丁寧に祈る習慣まで含め――教師陣から、セラは特に「熱心な子」として知られていた。
「……これはまた、ずいぶんと手応えがあるわね」
「えへへ、これでも前よりずっと少なくしたんです!」
「少なく?」
「はい。五枚しか書いてません!」
「……ええ、そう。なるほど」
女史は思わず遠い目になりながら、軽く咳払いをした。
「なるべく大事なところをおさえて伝えられるようにがんばりました!」
「そう。工夫しているのね」
返しながら、女史は目の前の生徒・セラフィーナが初めて手紙を書いた時のことを思い出す。
あの時、便せんの束は十枚を優に超えていた。封を閉じる際にはのりでは足りず、糸で留めようとして失敗し、結果的には封筒が二重になった。手紙というより、小冊子の郵送。当時の彼女を知る職員の誰もが、封筒を手に取って同じことを思った――これは手紙ではない、と。あの厚みを初めて目にした同僚の教師が「この子は短編集でも送っているのでは?」と真顔で呟いたのも懐かしい。
「厨房の人が焼いてくれたアップルパイのことも書いたんです! すっごくおいしくて! わたしはいちばん小さいのを選んだんですけど、ちゃんとシナモンの香りがして」
「待って、セラフィーナ。今それを説明しなくてもいいのよ。ここに書いてあるんでしょう?」
「はいっ、ちゃんとぜんぶ書きました!」
女史は息をつきながらも、内心では感心していた。この年齢でここまで筆まめなのは、もはや特技と呼べるだろう。
セラフィーナの手紙は、月曜日から日曜日にかけての一週間を一日単位で丁寧に書き留め、友人や食事の様子、授業の内容に天気の移り変わりまで細やかに記した日記帳――、の域を超えた記録資料の類いであった。驚くべきことに、それらは全て自然な文体で綴られており、水増しや繰り返しもない。しかも彼女の存在は、他の生徒の手紙の中にも頻繁に登場する。「セラと一緒に」「セラフィーナが」――そんな文を見かけるたびに、教師たちは彼女の人懐っこさと明るさを思い知らされるのだった。
「じゃあ、このまま郵便に出しておきますね」
「お願いします!」
「……おにいさまも毎週お返事をくださるの?」
「はい! どんなに忙しくても、毎週かならず。いつも字がとっても綺麗で、丁寧で……いただいたお手紙を読み返すたびに、わたしもがんばらなきゃって思うんです!」
「それは、とてもいいことですね」
女史は軽く眉を上げた。律儀な方なのだろう、と内心で結論付ける。
セラフィーナの手紙も十数通を超えたあたりから構成が洗練され始め、今では最初の頃の半分ほどの枚数に収まるようになった。とはいえ、それでもまだ週刊連載並みである。書く方も大したものだが、これほどの文量に毎週目を通して必ず返事を返すのには、相当な根気が必要なはずだ。
――ご苦労様です、セラフィーナの“おにいさま”。あなたのご健闘を、陰ながら応援しています。
心の中で静かにそう呟いた。
「――セラフィーナ」
「はい?」
「あなたのおにいさま、本当にお優しい方ね」
「そうなんです……! 世界でいちばんやさしくて、かっこいいんです!」
誇らしげに即答するその笑顔に、思わず笑いそうになった。
友人たちと連れ立って講堂を出ていく小柄な背中を見送りながら、その厚い封筒を他の封筒の上にそっと重ねる。
幸運な方だ、とも思う。ここまで真っすぐな想いのこもった手紙を、毎週もらえる人などそうはいないのだから――。
夏の長期休暇が近付いてきたころ、セラは毎日ぽわぽわと浮かれていた。プレップスクールの寮は好きだし、友だちもたくさんできた。
――それでも、やっぱりいちばん好きなのは、おにいさまがいる家だ。
机の引き出しから貰った返信の束をそっと取り出しては読み返し、帰省の日まであと何日、と指折り数えるのがここ最近の楽しみになっている。
ある日の朝食の時間。
食堂のざわめきの中で「セラ、お手紙だよ!」と郵便係の子が封筒を差し出した。端正で整った筆跡、見慣れた文字。
――おにいさまだ!
セラはぱっと目を輝かせてフォークを置くと、「ありがとう!」と両手で手紙を受け取った。
机の上にそっと下ろして、深呼吸をひとつ。逸る気持ちをなんとか落ち着けて、慎重に封を切った。
――今週も手紙をありがとう。君が元気そうで何よりだ。学校生活にもすっかり馴染んだようだな。文面からも楽しげな様子が伝わってきて、僕も安心している。こちらは少々慌ただしい日々が続いているが、心配はいらない。 追伸・君が夏の休暇で帰ってきたら、紹介したい人がいるんだ。きっと君ならすぐに仲良くなれるだろう。
読み進めていた指が、ぴたりと止まった。
紹介、したい人?
――紹介したい、ひと?!
「ま、ま、まさかっ……!」
「……セラ? どうかしたの?」
向かいの席の子がびっくりした顔でパンを落とすほどの声量が出てしまったらしい。
セラは顔を真っ赤にして、手紙を胸にぎゅっと押し当てた。
「ご、ごめんなさい。ちょっと……すごく、大事なお手紙で……!」
隣で見ていたリリーが興味津々といった様子で身を乗り出してきた。
「おにいさまから? ねえ、なになに何が書いてあったの?」
「な、なんでもないの。ただ……休暇のときに紹介したい人がいるって……」
「紹介したい人? それってまさか、恋人とか?」
「っ……!」
セラの反応を見て、リリーは「あらあ」とわざとらしく口元を手で隠して笑った。
「どうするの、セラ。大好きなおにいさまに将来の奥さまを紹介されたら?」
「そ、そんな――おにいさまが……そんな!」
「じゃあ、どんな人だと思う?」
「わ、わからない。でも……。そうじゃないといいなって、思う」
セラは消え入りそうな声で曖昧に答え、もう一度手紙に目を落とした。
その日一日の授業は、まるで身に入らなかった。何をしていても聞いていても上の空で、紹介したい人という一文が頭の中でいつまでもぐるぐると回り続けた。
夜の就寝前に、セラは机に白紙を広げ、手紙の返事を考えてみることにした。
文面に悩んだことなど今までほとんどなかったのに、今日はぜんぜん言葉が出てこない。こんなふうに悩むのは初めてだ。
――おにいさま、紹介したい方というのは、どんな方ですか? お仕事の方とかご友人とか、それとも。
時間をかけてそこまで書いたところで、ペン先がぴたりと止まる。
――それとも、恋人の方ですか? なんて、書けるはずがない。
セラは顔を覆い、書きかけの紙をくしゃっと丸めるとくずかごに放り込んだ。深呼吸をして、新しい紙を取り出す。
――おにいさま、お忙しいなかお手紙をありがとうございます。夏にお会いできるのがとっても楽しみです。紹介したい方にも、お会いできるのが待ち遠しいです。
これでいいはず……たぶん。文面を読み返してうんうんと頷く。失礼じゃないし、変でもない。けれど胸の奥は、まだどこかそわそわしていた。どうしてそんなに気になるのか、自分でもよく分からない。ただ、考えるほどに胸のあたりがきゅっと締め付けられるような、不思議な息苦しさがあった。
セラフィーナにとって、おにいさま――シグルスは物心ついたころからずっと特別な人だった。初めて彼に会った日のことも、今でもよく覚えている。
青みを帯びた灰色の瞳がまっすぐこちらを見たとき、幼いセラにはまるで物語の中から抜け出てきた騎士様のように見えた。その印象は、年月を経た今でも薄れない。背筋を伸ばし、堂々と自信に満ちた凜々しい姿。選ぶ言葉は厳しいときもあるのに、なぜか怖いと思ったことは一度もない。叱られたことがあってもあとには必ず、少しぎこちない手つきでそっと頭を撫でてくれるからだ。
プレップスクールでの日々は楽しい。
それでも夜になって寮の明かりがひとつずつ消えていくと、急に静けさだけが勝って、どうしても縮こまるような心細さが顔を出す瞬間もある。
そんな時、セラフィーナが机の引き出しの奥から取り出すのが、白いレースのリボンで結ばれた箱だった。蓋を少し開けただけで、インクの香りがふわりと立ちのぼる。シグルスからの手紙の匂いだ。彼から貰った手紙は一通残らず、ここに大切にしまわれている。セラにとってはそのすべてが宝物だ。
どの手紙にも、丁寧に時間を割いて書かれた気配がある。整った筆跡で綴られる文字の隙間に残るわずかな滲みや、書き添えられた一文の行間の揺らぎ。それらが彼の息遣いまでも閉じ込めているように思えた。
――おにいさまは、いつもお忙しい。
――わたしよりずっと大人で、ずっと立派な、すごい人だから。
でも、それでも。
手紙を書けば、必ず返してくれる。たとえ短くても、かならず「また報告を楽しみにしている」と伝えてくれるし、いつだって「体調に気を付けるように」「冷える時期だから無理をしないように」と心配してくれる。
その言葉たちは、彼がかけてくれる魔法の呪文だった。
自分を案じてくれるその優しい言葉の数々が、どれほど嬉しいか、言葉にできない。
手紙の文面を指でなぞるたびに、胸の中で小さな灯りがともるような気がした。
遠くにいるはずの彼が、すぐそばにいるみたいに感じられるのだ。
Frederick Luke Sigluss――最後に記された署名をじっと見つめて、セラは微笑む。
「おにいさま、わたし、明日もがんばりますからね」
手紙にそっと頬を寄せると、彼の声が聞こえてきそうな気がして、セラはそのまま静かに目を閉じた。
*
イギリスという社会は、突出した個性が容易に芽を伸ばせる場所ではない。
何が正しく、何が誤りかは、個々の価値観ではなく共同体が「利益になるかどうか」で決めるのだ。そして一度その基準が定まれば、個人の良識に基づく判断などほとんど無力に等しくなる。
人々は、古くから尊いとされてきた倫理に従い、それを忠実に体現しようと努めてきた。それこそが最も確実に共同体の安寧を保つ方法だと信じられているからだ。結局のところ、この国は妥協と自制によって成り立つ社会である。全体の利益のために自分を押さえ込むという行為は、決して簡単なことではないにもかかわらず、だ。
こうした社会全体には、どの分野に関しても著しい一つの特徴が見られる。表向きの形式はどうあれ、その実質は「独裁者の善政によって成り立っている」という傾向だ。そしてこの構造では、指揮官の力量が絶大な影響力を持つ。限られた人材の中から最善の者を選び、それぞれの能力に応じて適切な役割を与え、組織全体の力が最も効率的に発揮されるよう導く――それが指揮官たるものの責務だった。
本部長に就任して以来、シグルスの一日はまるで時間そのものに追いたてられているかのようだった。
会議、報告、査問、調整、承認。呼吸をするように決断が求められ、間を置く暇もなく次の案件へと移る。まるで生きている人間ではなく、ひとつの機構として働いているような状態だった。
――この立場は、権威ではなく責務である。
彼の所属する中立機関は、人と人外の共存を目指すため、人ならざるものによって引き起こされた騒動のもみ消しや人間に危害を加えた人外の捕縛・管理等を担う組織だ。当然、危険もある。職務上の彼の決断ひとつが、常に誰かの未来を左右する。だからこそ規律に従い、自身一人の責任において、最後の判断を下すことが求められた。たとえ冷徹と評されようとも、それが自分に課せられた役割だと割り切っていた。
――少なくとも、あの事件が起きるまでは。
ウェールズ地方で発生した一つの殺人事件――。
彼の元に報告が上がった時点で、それはすでに“人外”によって引き起こされた襲撃事件だと判明していた。とはいえ、この手の事件は珍しいものではない。
最初に報告書を読んだ時点では、シグルスはただの地方事案の一つとして処理するつもりだった。しかし偶然にも、別件で近くまで出張していたタイミングでもあったため、現地へ赴いて視察することとなったのだ。
シグルスは一歩、血痕の乾いた床を踏みしめた。鼻をかすめる鉄錆の臭いに、眉をわずかに寄せはしたが、すぐに表情を整える。
ブロウニー家の惨状は、目を覆いたくなるほど凄惨だった。壁や床のいたるところにおびただしい血飛沫の痕跡と、無残に砕けた家具の破片――素手で叩き折ったにしてもあまりに乱暴で、衝動のままに振るわれた暴力を物語っている。
「……酷いものだ」
「本部長。こちらが現段階での検分結果です」
同行していた地方支部の職員が差し出した報告書を受け取り、シグルスは淡々と目を走らせる。
「……下位吸血鬼の仕業か」
「はい。魔力反応の残滓から見ても、間違いありません。ただ……。ブロウニー家は一般家庭です。系譜を確認しましたが魔術師の血筋ではなく、標的にされる理由は通常では考えられません。傾向から見ても、ここまで徹底的に襲われた事例は……」
検分の結果は、【下位吸血鬼による傷害致死事件】と断定された。
下位吸血鬼とは、死にかけた人間に真祖の血を飲ませることによって作られる、いわば人間が転化した存在だ。公的な見解では、彼らは生きた生命というより、実体を持ちつつ現実に干渉可能な幻覚に近いものだとされている。奴らにとって、吸血とは正しく食事と同じで、長く血を飲まなければ衰弱し、最終的には動けなくなる。
ゆえに、人を襲うこと自体は、ある意味で完全に避けられるものではない。
だが――今回は、吸血のための襲撃ではなかった。遺体の損壊具合と、執拗さ。殺戮そのものが目的であったとしか思えない。
下位吸血鬼は不死ではないが不老であり、あまりに長く生きれば、生前縁のあった人々から完全に切り離され、やがて自分が「何であったか」すら忘れてしまう。そうなると理性も、人間であった頃の姿形すら失って、化け物へと変質する――そういった末期段階の事例は、過去にもいくつか記録されていた。おそらく、今回の個体もそれに該当していたのだろう。
「対象の処理はどうした」
「周囲の灰塵濃度から、犯行後にそのまま朝日に焼かれて自壊したようです。ほぼ確実かと」
「……。つまり、戦闘班の派遣は不要ということだな」
「……はい」
同意の声は、どこか重く沈んでいた。
シグルスは報告書を閉じ、職員の表情へと視線を移す。
「生き残りが一人いる、と報告書にあるが」
「ピスカ・ブロウニー。八歳の少年です。寝室のクローゼットの奥に隠れていたところを職員が発見しました」
「負傷は?」
「外傷は軽微です。ただ……精神的なショックが大きいようで。言葉を発せず、いまだに家族の名前を呼ぶことすらできない状態です」
職員は唇を噛みしめ、ゆっくりと続けた。
「……残された子どものことを考えると、やるせなくて」
シグルスは黙したまま耳を傾けた。
職員は血の痕が残る壁へと視線を彷徨わせ、息を吐く。
「下位吸血鬼が理性を失った末期段階だったことは明らかです。だからこそ、救いがありません。これほど惨たらしく家族を奪われたのに、憎むべき相手はもう存在しない。謝罪も償いも、どんな形の決着も。……あの子には残されていない」
「……復讐の機会すら奪われるのが一番残酷だ、と君は言いたいのだな」
「はい、本部長。感情の行き場を無くした子どもが、これからどう心を保っていけるのか。大人として、どう寄り添えばいいのか……考えずにはいられなくて」
「……ピスカの保護はどうなっている?」
「規定に従い地方局の保護施設に。まだ混乱が激しく、事情聴取は当分難しいかと」
「子どもから無理に聞き出す必要はない。追い打ちをかけるだけだ」
「本部長がご希望であれば、直接面会の調整も可能です」
「面会か……」
ほどなくして、シグルスは保護施設の一室で、壁の隅に小さくうずくまる子どもと対面した。
ただひとりの生き残り、ピスカ・ブロウニー。
当時九歳に満たぬその少年は、クローゼットの奥で息を殺しながら家族が引き裂かれる悲鳴を最後の一瞬まで聞いていたのだという――ほんの数日前までは、家族と笑い合いながら暮らしていた普通の子どもだ。そんなありふれた日常を、一夜のうちにすべて奪われてしまった。
どうしてこんな目に、と問われれば、答えは酷く残酷なまでに明瞭で、――運が悪かった、としか言いようがないだろう。
だが、そんな言葉を、両親を亡くしたばかりの子どもに向けられるはずがない。
ピスカは扉の閉まる音や足音にはわずかに反応を見せるものの、膝を抱えたまま俯き、動かない。
施設の担当職員が声をかけようとしたのをシグルスが制して、彼自身が静かに膝をつく。穏やかな所作で、手を差し出しながら名を呼んだ。
「――ピスカ」
その呼びかけに、少年はようやく顔を上げた。怯えた瞳がシグルスを捉える。
「……もう大丈夫だ。君はひとりじゃない」
その一言に、少年の瞳が揺れる。驚いたのは傍らの職員と、他でもないシグルス自身だ。しかし、その時にはもう心が決まっていた。
口にしてしまった以上、背を向けるという選択肢が完全になくなっただけのことだ。
「こういった事件が起こるたびに、孤児を引き取られるおつもりですか?」
「……不幸な事件の被害者ではありますが、彼は一般人です。魔術師の家系ですらない」
「規定通りの対応をすべきです。それはあなたが担うべきことではありません」
周囲の反対は当然だった。
本部長が一般人の孤児を引き取るなど前例がない。何も間違ってはいない意見ばかりだ。この世界では、幼くして親を失う子どもなど数え切れないほどいる。今回のような事件も、決して珍しくはない。全員を助けられるわけもなく、こうした行いも突き詰めれば偽善に過ぎない。
それでも。
すでに彼の目に入ってしまった以上、見なかったことにはできなかった。その理由だけで、十分だった。
こうしてピスカはシグルスの元へ引き取られた。
二人の生活は、驚くほど静かだった。
ピスカは座っている時間のほとんどを、音もなく過ごす。食事の時間になれば席には着くが、ひと口ふた口で手が止まる。シグルスが「無理に食べる必要はない」と伝えると、ピスカは小さく頷き、残したことを申し訳なさそうに謝ろうとする。
「謝らなくていい。身体が受け付けないのなら仕方がない」
「……すみません」
会話は、そこで途切れる。
幼いながらも、少年は自分が置かれた状況を理解していた。天涯孤独となった自分を引き取り、衣食住を与え、これから先の面倒まで見ると言い切った大人に対して、深い感謝を抱いていることはシグルスにも分かっていた。だからこそ、迷惑をかけまいと息を潜めるように遠慮し続けるその姿が痛ましかった。
シグルスは近くで見守りながらも、軽々しい慰めだけは決して口にしなかった。
望む支援を惜しまぬつもりでいたが、ピスカには自分の痛みと向き合うための時間が必要だ――、そう考えていた。
決まって深夜を回る頃、シグルスは書斎を離れ、彼の寝室へ様子を見に行くのが習慣になった。引き取ったばかりの頃、悪夢にうなされたピスカがクローゼットに逃げ込んで、震えていた晩が忘れられなかったからだ。ピスカの眠りは浅い。睡眠薬は嫌がったため、せめてもの配慮として寝室の灯りは落とさず、暖炉の火をかすかに残している。
椅子に腰を下ろし、しばらく静かに様子を見守っていると――。
ベッドの端で身を丸めていたピスカが、声にならない悲鳴と共に跳ね起きた。震える指先は胸の前で固く絡み合い、焦点の合わない視線が虚空を彷徨う。
彼が見ているのは、ここではない。それは、ひと目で分かった。
「ピスカ」
名を呼び肩に触れた途端、小さな身体がびくりと跳ねた。
逃れようと動いた腕を、傷付けぬよう注意して押し留める。
「大丈夫だ。ここに化け物はいない。君は、もう安全な場所にいる」
同じ言葉を何度も口にした。他に言える言葉を見つけることができなかったからだ。
シグルスが確約してやれるのは、この部屋と彼の身の安全だけ。傷ついた心に手を伸ばすことはできない。
壊れてしまったものを元に戻すことなど、誰にもできないのだから。
「――あ、」
不意に袖が掴まれた。
小さな指が、縋り付くように布を握りしめる。怯えの色を宿した瞳がこちらを捉え、震えた声が洩れた。
「あ、なたは……?」
「心配はいらない。言ったろう、僕は魔術師だと」
「…………」
「君が眠れるまでここにいる」
「……ここにいて、くれるんですか……」
「ああ」
短い返事に、指先から少しずつ力が抜けていった。
彼が再び浅い眠りに戻ったのを確かめてから、シグルスは静かに椅子へと戻る。日付はとうに変わっていた。本来ならとっくに眠っているはずの時間だ。だが、今はピスカから目を離せなかった。小さく息を吐き、懐から一通の封筒を取り出す。今朝届いていたものだ。
淡いクリーム色の封筒に、丸みのある子どもらしい筆跡――差出人の名前は、セラフィーナ。
プレップスクールに復学して以降、彼女は毎週欠かさず手紙を送ってくる。当初は学業の一環とはいえ、ずいぶんとこまめに書くものだと思っていたが――。
セラの手紙は決まって「親愛なるおにいさまへ」で始まる。丁寧に書こうとしている努力のあとが滲む筆跡で、文章の構成や言葉の選び方も週ごとに少しずつ洗練されてきていた。日記のように出来事を詰め込んでいた頃より、格段に読みやすくなっている。
――ずいぶんと成長したものだ。
なにより元気に日々を過ごしていることが、文面の端々からあふれ出していて、ひどく安心を覚える。
目で追っている文章が、自然と脳内で声になる。
あの朗らかな声で、肩を弾ませながら楽しげに――まるで、目の前で話しかけてくるかのように。
『今日は同室のおともだちと庭でピクニックをしました!』
『先生が文章を書くのが上達してきたと褒めてくださいました。おにいさまがいつも手紙を読んでくださるおかげだと思っています』
『おにいさま、今週もお忙しいことと思いますが、ちゃんとご飯を食べてくださいね』
セラの手紙は、彼女の一週間分の生活をそのまま写し取ったような細やかさだった。以前より短くなったとはいえ、数枚にも及ぶことが多い。
それに対して、シグルスの返信はいつも短く簡潔におさまっていた。
――僕の方は相変わらず忙しいが、元気でいる。君も身体を冷やさないように。
これほど密度のある手紙を受け取っては、誰が返したとしても返事が短くなる。そう自分に言い聞かせつつも、苦笑を誘われる。
(まさか、学生の頃よりも頻繁に手紙を書くことになるとはな……)
少年だった頃の自分は、セラのように筆まめではなかった。両親や妹への便りも、必要最低限の報告を送りつける程度の、ごく普通の少年だった。
ところが今では、どれほど忙しくとも毎週必ず返信を書く。それが日常の一部になっている。
人生で最も手紙を書く時期が、大人になってから訪れるとは夢にも思わなかった。
文字を追うだけで、彼女が確かにそこに生きていることが伝わる。その当たり前の温かさが、ピスカの壊れかけた心を見た後では、ひときわ胸に沁みた。
(――セラフィーナ)
あの子が事故で両親を亡くし、シグルス家に引き取られたのは、今のピスカとそう変わらぬ年齢の頃だ。
つい最近まで、シグルスにとって「子ども」といえば真っ先に思い浮かぶのは彼女だった。
二人の境遇は似ている。
けれど、感情の表し方も、言動の調子も、驚くほど違う。これは、善し悪しの話ではない。ただ、子どもだからといって必ずしもひとつの枠に収まるわけではないことを実感した、というだけのことだ。セラが年齢よりも幼いのか、ピスカが年齢に似合わぬほど大人びてしまったのか。どちらと言い切ることもできない。
ただひとつ言えるのは、子どもたちはそれぞれの方法で傷と向き合い、またそれぞれの早さで前へ進んでいくということだ。
そんなことを考えながら、シグルスはセラの手紙を丁寧に封筒へ戻した。
――次の夜明けまでに、返事を書き上げよう。あの子が安心して、また次の一週間を頑張れるように。
人はどれほど耐え難い現実にあっても、時が経つにつれて、慣れ、やがて忘れ、少しずつ前へ進む習性を持っている。
永遠に続くかのような苦悩という言葉はあるが、実際にそれがどれほど存在するものか。おそらく、それほど多くはないだろう。世界の終わりかと思うような嵐でさえ、いつかは必ず雲が晴れる。そして、雲の向こう側には、いつだって陽が輝いている。
世界とは、そういうものであって欲しいとシグルスは願っていた。
だからだろうか。
セラフィーナからの手紙を読むたび、胸のどこかが救われるような気がするのだ。守るべきものは確かに存在するのだと、そう思い出させてくれる。
子どもの成長とは驚くほど早い。ならばピスカも、セラと同じように。自分の足で再び歩き出せる日が必ず来る。
そう、信じたいと思えた。
そして、夏が近付く頃、シグルスはいつもより筆を長く走らせ、セラに送る手紙の終わりに一文を書き添えた。
――君が休暇で帰ってきたら、紹介したい人がいる。きっと君ならすぐに仲良くなれるだろう。
ピスカのことを、いずれセラにも伝えねばならないと思っていた。しかし、手紙という一方通行の形で彼の事情を語って、印象を不必要に偏らせたくなかった。
二人を引き合わせることにも、そこまで心配はしていない。むしろピスカにとって大きな転機となる可能性すらある。シグルスは、そんな小さな期待を抱いていた。
もっとも、そうして添えた一文が「恋人」という事実無根の想像と結びついて、彼女に混乱を巻き起こすなど、彼は思いもしなかったのだが――。
古い石造りの壁を伝って忍び込んでくる朝の冷気は、ベッドの毛布の中にまでじわりと入り込んでくる。セラフィーナは丸くなったまま、隙間からそっと手を出して外気に触れ、あまりの冷たさにすぐ毛布へと引っ込めた。しばらくそうして身体の覚悟を固めていると、遠くの塔から鐘が鳴った。一日の始まりを告げる七時の鐘の音だ。
次いで、隣のベッドから「さむい」と言うルームメイトの小さな呻き声。
それを合図にしたかのように、セラフィーナは毛布を抱えたまま、がばっと上体を起こした。
「おはようございます!」
まだ寝ぼけた「おはよ~」が隣から返ってくる。
ベッドから足を下ろした途端、床の冷たさに飛び上がり、慌ててスリッパを探す。寝癖で広がった髪に指を通しながら窓の外を見ると、ガラスにはうっすらと霜が張っていた。内側には先日、指で描いた模様のあとがまだ残っている。指先でそっと霜をなぞり、吐いた息がうっすら白くなるのを見て、セラは嬉しそうに笑った。
「リリー、ほら見てください。息が白いですよ!」
「ん~ん……寒いからね……」
「パンの匂いもしてきましたよ!」
リリーがようやく布団から顔を出し、頼りなげに手を伸ばす。
それを見て、セラは身支度を中断し、ベッド脇にぱたぱたと駆け寄るとその手を両手で包んだ。リリーが、息を吐くように笑った。
「セラの手、つめた……」
「もう、早く起きないとまた礼拝に遅れちゃいます!」
「…………毎朝ほんとに元気だね、セラは」
お寝坊さんなルームメイトを引っ張り起こして、いつもと同じように始まる朝――。
これが、十歳になったセラフィーナの新しい日常だった。
学校に戻ったばかりの頃は、思っていた以上に寂しかった。駅のホームまで見送りに立ってくれたおじさまとおばさまが手を振ってくれる姿が離れていくときも、胸がぎゅっと苦しくなったし、夜に寮のベッドで明かりを消して「おにいさま、今頃なにしてるのかな」と考えるたび、目の奥が熱くなった。
けれど、それも一週間が過ぎるまでの話だ。それからは、泣いてしまう日も少しずつ減っていった。
今では授業の時間割にも慣れて、教室の窓辺近くが自然と自分の座る定位置になりつつある。友だちもたくさんできた。勉強は決して簡単ではなく、算数の問題にはときどき見たことのない形の記号が出てきて頭がぐるぐるするが、先生もおにいさまも「努力は裏切らない」と言ってくれるので、がんばっている。分からないところは友だちに聞いたり、先生に質問したりして、ほんの少しずつできるようになっていく――その積み重ねが、楽しかった。
そんな彼女のいちばんの楽しみは、週末の手紙を書く時間だ。
毎週日曜の夕方になると全生徒が講堂に集められ、家族や後見人へ宛てた手紙を書く決まりが、寄宿学校にはある。
広い講堂に並んだ長机の上で、便せんと封筒を前にした子どもたちが一斉にペンを走らせて、一週間の出来事や授業の様子、友人との小さな喧嘩などを綴る。多くの生徒たちはこの時間を通じて一週間を振り返りながら、感謝や近況を言葉にして伝える練習をし、礼儀や文法の作法を学ぶのだ。書き終えた手紙は担任の教師に預けられて投函され、翌週半ばにはそれらの返信が、朝食のテーブルを賑わせる。
週に一度のこの時間は、寄宿生活を送る子どもたちが日々の出来事を誰かに伝えることで心を整え、家族とのつながりを確かめるための大切なひとときだ。
ただし、この時間に取り組む生徒の姿勢はそれぞれ違う。思い出し笑いをしながら書く子もいれば、書く材料が早々に尽きて天井を睨んでいる子もいる。
「――はい、ミス・エヴァンズ。今週の分のお手紙、できました!」
弾む声とともに両手で差し出された封筒を受け取った若い女教師――エヴァンズ女史は思わず無言で瞬きをした。
――重い。
講堂の前列で受け取った他の生徒たちの封筒はどれも指先でつまめるほどの軽さなのに、明らかに質量の概念からして違う。わずかに封筒が膨らんで見えるのすら、すでに見慣れた状態である。かならず「親愛なるおにいさまへ」で始め、真剣な顔つきで迷いなくペンを走らせ、誰よりも長い手紙を書く。封を閉じる前には「ちゃんと届きますように」と両手を組んで丁寧に祈る習慣まで含め――教師陣から、セラは特に「熱心な子」として知られていた。
「……これはまた、ずいぶんと手応えがあるわね」
「えへへ、これでも前よりずっと少なくしたんです!」
「少なく?」
「はい。五枚しか書いてません!」
「……ええ、そう。なるほど」
女史は思わず遠い目になりながら、軽く咳払いをした。
「なるべく大事なところをおさえて伝えられるようにがんばりました!」
「そう。工夫しているのね」
返しながら、女史は目の前の生徒・セラフィーナが初めて手紙を書いた時のことを思い出す。
あの時、便せんの束は十枚を優に超えていた。封を閉じる際にはのりでは足りず、糸で留めようとして失敗し、結果的には封筒が二重になった。手紙というより、小冊子の郵送。当時の彼女を知る職員の誰もが、封筒を手に取って同じことを思った――これは手紙ではない、と。あの厚みを初めて目にした同僚の教師が「この子は短編集でも送っているのでは?」と真顔で呟いたのも懐かしい。
「厨房の人が焼いてくれたアップルパイのことも書いたんです! すっごくおいしくて! わたしはいちばん小さいのを選んだんですけど、ちゃんとシナモンの香りがして」
「待って、セラフィーナ。今それを説明しなくてもいいのよ。ここに書いてあるんでしょう?」
「はいっ、ちゃんとぜんぶ書きました!」
女史は息をつきながらも、内心では感心していた。この年齢でここまで筆まめなのは、もはや特技と呼べるだろう。
セラフィーナの手紙は、月曜日から日曜日にかけての一週間を一日単位で丁寧に書き留め、友人や食事の様子、授業の内容に天気の移り変わりまで細やかに記した日記帳――、の域を超えた記録資料の類いであった。驚くべきことに、それらは全て自然な文体で綴られており、水増しや繰り返しもない。しかも彼女の存在は、他の生徒の手紙の中にも頻繁に登場する。「セラと一緒に」「セラフィーナが」――そんな文を見かけるたびに、教師たちは彼女の人懐っこさと明るさを思い知らされるのだった。
「じゃあ、このまま郵便に出しておきますね」
「お願いします!」
「……おにいさまも毎週お返事をくださるの?」
「はい! どんなに忙しくても、毎週かならず。いつも字がとっても綺麗で、丁寧で……いただいたお手紙を読み返すたびに、わたしもがんばらなきゃって思うんです!」
「それは、とてもいいことですね」
女史は軽く眉を上げた。律儀な方なのだろう、と内心で結論付ける。
セラフィーナの手紙も十数通を超えたあたりから構成が洗練され始め、今では最初の頃の半分ほどの枚数に収まるようになった。とはいえ、それでもまだ週刊連載並みである。書く方も大したものだが、これほどの文量に毎週目を通して必ず返事を返すのには、相当な根気が必要なはずだ。
――ご苦労様です、セラフィーナの“おにいさま”。あなたのご健闘を、陰ながら応援しています。
心の中で静かにそう呟いた。
「――セラフィーナ」
「はい?」
「あなたのおにいさま、本当にお優しい方ね」
「そうなんです……! 世界でいちばんやさしくて、かっこいいんです!」
誇らしげに即答するその笑顔に、思わず笑いそうになった。
友人たちと連れ立って講堂を出ていく小柄な背中を見送りながら、その厚い封筒を他の封筒の上にそっと重ねる。
幸運な方だ、とも思う。ここまで真っすぐな想いのこもった手紙を、毎週もらえる人などそうはいないのだから――。
夏の長期休暇が近付いてきたころ、セラは毎日ぽわぽわと浮かれていた。プレップスクールの寮は好きだし、友だちもたくさんできた。
――それでも、やっぱりいちばん好きなのは、おにいさまがいる家だ。
机の引き出しから貰った返信の束をそっと取り出しては読み返し、帰省の日まであと何日、と指折り数えるのがここ最近の楽しみになっている。
ある日の朝食の時間。
食堂のざわめきの中で「セラ、お手紙だよ!」と郵便係の子が封筒を差し出した。端正で整った筆跡、見慣れた文字。
――おにいさまだ!
セラはぱっと目を輝かせてフォークを置くと、「ありがとう!」と両手で手紙を受け取った。
机の上にそっと下ろして、深呼吸をひとつ。逸る気持ちをなんとか落ち着けて、慎重に封を切った。
――今週も手紙をありがとう。君が元気そうで何よりだ。学校生活にもすっかり馴染んだようだな。文面からも楽しげな様子が伝わってきて、僕も安心している。こちらは少々慌ただしい日々が続いているが、心配はいらない。 追伸・君が夏の休暇で帰ってきたら、紹介したい人がいるんだ。きっと君ならすぐに仲良くなれるだろう。
読み進めていた指が、ぴたりと止まった。
紹介、したい人?
――紹介したい、ひと?!
「ま、ま、まさかっ……!」
「……セラ? どうかしたの?」
向かいの席の子がびっくりした顔でパンを落とすほどの声量が出てしまったらしい。
セラは顔を真っ赤にして、手紙を胸にぎゅっと押し当てた。
「ご、ごめんなさい。ちょっと……すごく、大事なお手紙で……!」
隣で見ていたリリーが興味津々といった様子で身を乗り出してきた。
「おにいさまから? ねえ、なになに何が書いてあったの?」
「な、なんでもないの。ただ……休暇のときに紹介したい人がいるって……」
「紹介したい人? それってまさか、恋人とか?」
「っ……!」
セラの反応を見て、リリーは「あらあ」とわざとらしく口元を手で隠して笑った。
「どうするの、セラ。大好きなおにいさまに将来の奥さまを紹介されたら?」
「そ、そんな――おにいさまが……そんな!」
「じゃあ、どんな人だと思う?」
「わ、わからない。でも……。そうじゃないといいなって、思う」
セラは消え入りそうな声で曖昧に答え、もう一度手紙に目を落とした。
その日一日の授業は、まるで身に入らなかった。何をしていても聞いていても上の空で、紹介したい人という一文が頭の中でいつまでもぐるぐると回り続けた。
夜の就寝前に、セラは机に白紙を広げ、手紙の返事を考えてみることにした。
文面に悩んだことなど今までほとんどなかったのに、今日はぜんぜん言葉が出てこない。こんなふうに悩むのは初めてだ。
――おにいさま、紹介したい方というのは、どんな方ですか? お仕事の方とかご友人とか、それとも。
時間をかけてそこまで書いたところで、ペン先がぴたりと止まる。
――それとも、恋人の方ですか? なんて、書けるはずがない。
セラは顔を覆い、書きかけの紙をくしゃっと丸めるとくずかごに放り込んだ。深呼吸をして、新しい紙を取り出す。
――おにいさま、お忙しいなかお手紙をありがとうございます。夏にお会いできるのがとっても楽しみです。紹介したい方にも、お会いできるのが待ち遠しいです。
これでいいはず……たぶん。文面を読み返してうんうんと頷く。失礼じゃないし、変でもない。けれど胸の奥は、まだどこかそわそわしていた。どうしてそんなに気になるのか、自分でもよく分からない。ただ、考えるほどに胸のあたりがきゅっと締め付けられるような、不思議な息苦しさがあった。
セラフィーナにとって、おにいさま――シグルスは物心ついたころからずっと特別な人だった。初めて彼に会った日のことも、今でもよく覚えている。
青みを帯びた灰色の瞳がまっすぐこちらを見たとき、幼いセラにはまるで物語の中から抜け出てきた騎士様のように見えた。その印象は、年月を経た今でも薄れない。背筋を伸ばし、堂々と自信に満ちた凜々しい姿。選ぶ言葉は厳しいときもあるのに、なぜか怖いと思ったことは一度もない。叱られたことがあってもあとには必ず、少しぎこちない手つきでそっと頭を撫でてくれるからだ。
プレップスクールでの日々は楽しい。
それでも夜になって寮の明かりがひとつずつ消えていくと、急に静けさだけが勝って、どうしても縮こまるような心細さが顔を出す瞬間もある。
そんな時、セラフィーナが机の引き出しの奥から取り出すのが、白いレースのリボンで結ばれた箱だった。蓋を少し開けただけで、インクの香りがふわりと立ちのぼる。シグルスからの手紙の匂いだ。彼から貰った手紙は一通残らず、ここに大切にしまわれている。セラにとってはそのすべてが宝物だ。
どの手紙にも、丁寧に時間を割いて書かれた気配がある。整った筆跡で綴られる文字の隙間に残るわずかな滲みや、書き添えられた一文の行間の揺らぎ。それらが彼の息遣いまでも閉じ込めているように思えた。
――おにいさまは、いつもお忙しい。
――わたしよりずっと大人で、ずっと立派な、すごい人だから。
でも、それでも。
手紙を書けば、必ず返してくれる。たとえ短くても、かならず「また報告を楽しみにしている」と伝えてくれるし、いつだって「体調に気を付けるように」「冷える時期だから無理をしないように」と心配してくれる。
その言葉たちは、彼がかけてくれる魔法の呪文だった。
自分を案じてくれるその優しい言葉の数々が、どれほど嬉しいか、言葉にできない。
手紙の文面を指でなぞるたびに、胸の中で小さな灯りがともるような気がした。
遠くにいるはずの彼が、すぐそばにいるみたいに感じられるのだ。
Frederick Luke Sigluss――最後に記された署名をじっと見つめて、セラは微笑む。
「おにいさま、わたし、明日もがんばりますからね」
手紙にそっと頬を寄せると、彼の声が聞こえてきそうな気がして、セラはそのまま静かに目を閉じた。
*
イギリスという社会は、突出した個性が容易に芽を伸ばせる場所ではない。
何が正しく、何が誤りかは、個々の価値観ではなく共同体が「利益になるかどうか」で決めるのだ。そして一度その基準が定まれば、個人の良識に基づく判断などほとんど無力に等しくなる。
人々は、古くから尊いとされてきた倫理に従い、それを忠実に体現しようと努めてきた。それこそが最も確実に共同体の安寧を保つ方法だと信じられているからだ。結局のところ、この国は妥協と自制によって成り立つ社会である。全体の利益のために自分を押さえ込むという行為は、決して簡単なことではないにもかかわらず、だ。
こうした社会全体には、どの分野に関しても著しい一つの特徴が見られる。表向きの形式はどうあれ、その実質は「独裁者の善政によって成り立っている」という傾向だ。そしてこの構造では、指揮官の力量が絶大な影響力を持つ。限られた人材の中から最善の者を選び、それぞれの能力に応じて適切な役割を与え、組織全体の力が最も効率的に発揮されるよう導く――それが指揮官たるものの責務だった。
本部長に就任して以来、シグルスの一日はまるで時間そのものに追いたてられているかのようだった。
会議、報告、査問、調整、承認。呼吸をするように決断が求められ、間を置く暇もなく次の案件へと移る。まるで生きている人間ではなく、ひとつの機構として働いているような状態だった。
――この立場は、権威ではなく責務である。
彼の所属する中立機関は、人と人外の共存を目指すため、人ならざるものによって引き起こされた騒動のもみ消しや人間に危害を加えた人外の捕縛・管理等を担う組織だ。当然、危険もある。職務上の彼の決断ひとつが、常に誰かの未来を左右する。だからこそ規律に従い、自身一人の責任において、最後の判断を下すことが求められた。たとえ冷徹と評されようとも、それが自分に課せられた役割だと割り切っていた。
――少なくとも、あの事件が起きるまでは。
ウェールズ地方で発生した一つの殺人事件――。
彼の元に報告が上がった時点で、それはすでに“人外”によって引き起こされた襲撃事件だと判明していた。とはいえ、この手の事件は珍しいものではない。
最初に報告書を読んだ時点では、シグルスはただの地方事案の一つとして処理するつもりだった。しかし偶然にも、別件で近くまで出張していたタイミングでもあったため、現地へ赴いて視察することとなったのだ。
シグルスは一歩、血痕の乾いた床を踏みしめた。鼻をかすめる鉄錆の臭いに、眉をわずかに寄せはしたが、すぐに表情を整える。
ブロウニー家の惨状は、目を覆いたくなるほど凄惨だった。壁や床のいたるところにおびただしい血飛沫の痕跡と、無残に砕けた家具の破片――素手で叩き折ったにしてもあまりに乱暴で、衝動のままに振るわれた暴力を物語っている。
「……酷いものだ」
「本部長。こちらが現段階での検分結果です」
同行していた地方支部の職員が差し出した報告書を受け取り、シグルスは淡々と目を走らせる。
「……下位吸血鬼の仕業か」
「はい。魔力反応の残滓から見ても、間違いありません。ただ……。ブロウニー家は一般家庭です。系譜を確認しましたが魔術師の血筋ではなく、標的にされる理由は通常では考えられません。傾向から見ても、ここまで徹底的に襲われた事例は……」
検分の結果は、【下位吸血鬼による傷害致死事件】と断定された。
下位吸血鬼とは、死にかけた人間に真祖の血を飲ませることによって作られる、いわば人間が転化した存在だ。公的な見解では、彼らは生きた生命というより、実体を持ちつつ現実に干渉可能な幻覚に近いものだとされている。奴らにとって、吸血とは正しく食事と同じで、長く血を飲まなければ衰弱し、最終的には動けなくなる。
ゆえに、人を襲うこと自体は、ある意味で完全に避けられるものではない。
だが――今回は、吸血のための襲撃ではなかった。遺体の損壊具合と、執拗さ。殺戮そのものが目的であったとしか思えない。
下位吸血鬼は不死ではないが不老であり、あまりに長く生きれば、生前縁のあった人々から完全に切り離され、やがて自分が「何であったか」すら忘れてしまう。そうなると理性も、人間であった頃の姿形すら失って、化け物へと変質する――そういった末期段階の事例は、過去にもいくつか記録されていた。おそらく、今回の個体もそれに該当していたのだろう。
「対象の処理はどうした」
「周囲の灰塵濃度から、犯行後にそのまま朝日に焼かれて自壊したようです。ほぼ確実かと」
「……。つまり、戦闘班の派遣は不要ということだな」
「……はい」
同意の声は、どこか重く沈んでいた。
シグルスは報告書を閉じ、職員の表情へと視線を移す。
「生き残りが一人いる、と報告書にあるが」
「ピスカ・ブロウニー。八歳の少年です。寝室のクローゼットの奥に隠れていたところを職員が発見しました」
「負傷は?」
「外傷は軽微です。ただ……精神的なショックが大きいようで。言葉を発せず、いまだに家族の名前を呼ぶことすらできない状態です」
職員は唇を噛みしめ、ゆっくりと続けた。
「……残された子どものことを考えると、やるせなくて」
シグルスは黙したまま耳を傾けた。
職員は血の痕が残る壁へと視線を彷徨わせ、息を吐く。
「下位吸血鬼が理性を失った末期段階だったことは明らかです。だからこそ、救いがありません。これほど惨たらしく家族を奪われたのに、憎むべき相手はもう存在しない。謝罪も償いも、どんな形の決着も。……あの子には残されていない」
「……復讐の機会すら奪われるのが一番残酷だ、と君は言いたいのだな」
「はい、本部長。感情の行き場を無くした子どもが、これからどう心を保っていけるのか。大人として、どう寄り添えばいいのか……考えずにはいられなくて」
「……ピスカの保護はどうなっている?」
「規定に従い地方局の保護施設に。まだ混乱が激しく、事情聴取は当分難しいかと」
「子どもから無理に聞き出す必要はない。追い打ちをかけるだけだ」
「本部長がご希望であれば、直接面会の調整も可能です」
「面会か……」
ほどなくして、シグルスは保護施設の一室で、壁の隅に小さくうずくまる子どもと対面した。
ただひとりの生き残り、ピスカ・ブロウニー。
当時九歳に満たぬその少年は、クローゼットの奥で息を殺しながら家族が引き裂かれる悲鳴を最後の一瞬まで聞いていたのだという――ほんの数日前までは、家族と笑い合いながら暮らしていた普通の子どもだ。そんなありふれた日常を、一夜のうちにすべて奪われてしまった。
どうしてこんな目に、と問われれば、答えは酷く残酷なまでに明瞭で、――運が悪かった、としか言いようがないだろう。
だが、そんな言葉を、両親を亡くしたばかりの子どもに向けられるはずがない。
ピスカは扉の閉まる音や足音にはわずかに反応を見せるものの、膝を抱えたまま俯き、動かない。
施設の担当職員が声をかけようとしたのをシグルスが制して、彼自身が静かに膝をつく。穏やかな所作で、手を差し出しながら名を呼んだ。
「――ピスカ」
その呼びかけに、少年はようやく顔を上げた。怯えた瞳がシグルスを捉える。
「……もう大丈夫だ。君はひとりじゃない」
その一言に、少年の瞳が揺れる。驚いたのは傍らの職員と、他でもないシグルス自身だ。しかし、その時にはもう心が決まっていた。
口にしてしまった以上、背を向けるという選択肢が完全になくなっただけのことだ。
「こういった事件が起こるたびに、孤児を引き取られるおつもりですか?」
「……不幸な事件の被害者ではありますが、彼は一般人です。魔術師の家系ですらない」
「規定通りの対応をすべきです。それはあなたが担うべきことではありません」
周囲の反対は当然だった。
本部長が一般人の孤児を引き取るなど前例がない。何も間違ってはいない意見ばかりだ。この世界では、幼くして親を失う子どもなど数え切れないほどいる。今回のような事件も、決して珍しくはない。全員を助けられるわけもなく、こうした行いも突き詰めれば偽善に過ぎない。
それでも。
すでに彼の目に入ってしまった以上、見なかったことにはできなかった。その理由だけで、十分だった。
こうしてピスカはシグルスの元へ引き取られた。
二人の生活は、驚くほど静かだった。
ピスカは座っている時間のほとんどを、音もなく過ごす。食事の時間になれば席には着くが、ひと口ふた口で手が止まる。シグルスが「無理に食べる必要はない」と伝えると、ピスカは小さく頷き、残したことを申し訳なさそうに謝ろうとする。
「謝らなくていい。身体が受け付けないのなら仕方がない」
「……すみません」
会話は、そこで途切れる。
幼いながらも、少年は自分が置かれた状況を理解していた。天涯孤独となった自分を引き取り、衣食住を与え、これから先の面倒まで見ると言い切った大人に対して、深い感謝を抱いていることはシグルスにも分かっていた。だからこそ、迷惑をかけまいと息を潜めるように遠慮し続けるその姿が痛ましかった。
シグルスは近くで見守りながらも、軽々しい慰めだけは決して口にしなかった。
望む支援を惜しまぬつもりでいたが、ピスカには自分の痛みと向き合うための時間が必要だ――、そう考えていた。
決まって深夜を回る頃、シグルスは書斎を離れ、彼の寝室へ様子を見に行くのが習慣になった。引き取ったばかりの頃、悪夢にうなされたピスカがクローゼットに逃げ込んで、震えていた晩が忘れられなかったからだ。ピスカの眠りは浅い。睡眠薬は嫌がったため、せめてもの配慮として寝室の灯りは落とさず、暖炉の火をかすかに残している。
椅子に腰を下ろし、しばらく静かに様子を見守っていると――。
ベッドの端で身を丸めていたピスカが、声にならない悲鳴と共に跳ね起きた。震える指先は胸の前で固く絡み合い、焦点の合わない視線が虚空を彷徨う。
彼が見ているのは、ここではない。それは、ひと目で分かった。
「ピスカ」
名を呼び肩に触れた途端、小さな身体がびくりと跳ねた。
逃れようと動いた腕を、傷付けぬよう注意して押し留める。
「大丈夫だ。ここに化け物はいない。君は、もう安全な場所にいる」
同じ言葉を何度も口にした。他に言える言葉を見つけることができなかったからだ。
シグルスが確約してやれるのは、この部屋と彼の身の安全だけ。傷ついた心に手を伸ばすことはできない。
壊れてしまったものを元に戻すことなど、誰にもできないのだから。
「――あ、」
不意に袖が掴まれた。
小さな指が、縋り付くように布を握りしめる。怯えの色を宿した瞳がこちらを捉え、震えた声が洩れた。
「あ、なたは……?」
「心配はいらない。言ったろう、僕は魔術師だと」
「…………」
「君が眠れるまでここにいる」
「……ここにいて、くれるんですか……」
「ああ」
短い返事に、指先から少しずつ力が抜けていった。
彼が再び浅い眠りに戻ったのを確かめてから、シグルスは静かに椅子へと戻る。日付はとうに変わっていた。本来ならとっくに眠っているはずの時間だ。だが、今はピスカから目を離せなかった。小さく息を吐き、懐から一通の封筒を取り出す。今朝届いていたものだ。
淡いクリーム色の封筒に、丸みのある子どもらしい筆跡――差出人の名前は、セラフィーナ。
プレップスクールに復学して以降、彼女は毎週欠かさず手紙を送ってくる。当初は学業の一環とはいえ、ずいぶんとこまめに書くものだと思っていたが――。
セラの手紙は決まって「親愛なるおにいさまへ」で始まる。丁寧に書こうとしている努力のあとが滲む筆跡で、文章の構成や言葉の選び方も週ごとに少しずつ洗練されてきていた。日記のように出来事を詰め込んでいた頃より、格段に読みやすくなっている。
――ずいぶんと成長したものだ。
なにより元気に日々を過ごしていることが、文面の端々からあふれ出していて、ひどく安心を覚える。
目で追っている文章が、自然と脳内で声になる。
あの朗らかな声で、肩を弾ませながら楽しげに――まるで、目の前で話しかけてくるかのように。
『今日は同室のおともだちと庭でピクニックをしました!』
『先生が文章を書くのが上達してきたと褒めてくださいました。おにいさまがいつも手紙を読んでくださるおかげだと思っています』
『おにいさま、今週もお忙しいことと思いますが、ちゃんとご飯を食べてくださいね』
セラの手紙は、彼女の一週間分の生活をそのまま写し取ったような細やかさだった。以前より短くなったとはいえ、数枚にも及ぶことが多い。
それに対して、シグルスの返信はいつも短く簡潔におさまっていた。
――僕の方は相変わらず忙しいが、元気でいる。君も身体を冷やさないように。
これほど密度のある手紙を受け取っては、誰が返したとしても返事が短くなる。そう自分に言い聞かせつつも、苦笑を誘われる。
(まさか、学生の頃よりも頻繁に手紙を書くことになるとはな……)
少年だった頃の自分は、セラのように筆まめではなかった。両親や妹への便りも、必要最低限の報告を送りつける程度の、ごく普通の少年だった。
ところが今では、どれほど忙しくとも毎週必ず返信を書く。それが日常の一部になっている。
人生で最も手紙を書く時期が、大人になってから訪れるとは夢にも思わなかった。
文字を追うだけで、彼女が確かにそこに生きていることが伝わる。その当たり前の温かさが、ピスカの壊れかけた心を見た後では、ひときわ胸に沁みた。
(――セラフィーナ)
あの子が事故で両親を亡くし、シグルス家に引き取られたのは、今のピスカとそう変わらぬ年齢の頃だ。
つい最近まで、シグルスにとって「子ども」といえば真っ先に思い浮かぶのは彼女だった。
二人の境遇は似ている。
けれど、感情の表し方も、言動の調子も、驚くほど違う。これは、善し悪しの話ではない。ただ、子どもだからといって必ずしもひとつの枠に収まるわけではないことを実感した、というだけのことだ。セラが年齢よりも幼いのか、ピスカが年齢に似合わぬほど大人びてしまったのか。どちらと言い切ることもできない。
ただひとつ言えるのは、子どもたちはそれぞれの方法で傷と向き合い、またそれぞれの早さで前へ進んでいくということだ。
そんなことを考えながら、シグルスはセラの手紙を丁寧に封筒へ戻した。
――次の夜明けまでに、返事を書き上げよう。あの子が安心して、また次の一週間を頑張れるように。
人はどれほど耐え難い現実にあっても、時が経つにつれて、慣れ、やがて忘れ、少しずつ前へ進む習性を持っている。
永遠に続くかのような苦悩という言葉はあるが、実際にそれがどれほど存在するものか。おそらく、それほど多くはないだろう。世界の終わりかと思うような嵐でさえ、いつかは必ず雲が晴れる。そして、雲の向こう側には、いつだって陽が輝いている。
世界とは、そういうものであって欲しいとシグルスは願っていた。
だからだろうか。
セラフィーナからの手紙を読むたび、胸のどこかが救われるような気がするのだ。守るべきものは確かに存在するのだと、そう思い出させてくれる。
子どもの成長とは驚くほど早い。ならばピスカも、セラと同じように。自分の足で再び歩き出せる日が必ず来る。
そう、信じたいと思えた。
そして、夏が近付く頃、シグルスはいつもより筆を長く走らせ、セラに送る手紙の終わりに一文を書き添えた。
――君が休暇で帰ってきたら、紹介したい人がいる。きっと君ならすぐに仲良くなれるだろう。
ピスカのことを、いずれセラにも伝えねばならないと思っていた。しかし、手紙という一方通行の形で彼の事情を語って、印象を不必要に偏らせたくなかった。
二人を引き合わせることにも、そこまで心配はしていない。むしろピスカにとって大きな転機となる可能性すらある。シグルスは、そんな小さな期待を抱いていた。
もっとも、そうして添えた一文が「恋人」という事実無根の想像と結びついて、彼女に混乱を巻き起こすなど、彼は思いもしなかったのだが――。