純白の無垢な約束
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セラフィーナの両親が亡くなったのは、彼女が八歳の夏だった。
一人娘を我が家に預け、仕事のために国外に出ていた夫妻は、帰国の途についた船で事故に遭った。知らせが届いたのは、セラが両親と別れて十日ほど経った頃のことだ。天候の急変による遭難で、乗員乗客の多くが行方不明と報じられた。不運な事故であったことは疑いようがない。
もっとも、当のセラ本人は、死というものを理解できる年齢にはなかった。
身近な誰かがもう帰らないという現実が、どういう意味を持つのか、その重さをまだ知らない。母がそれとなく説明を試みても、彼女はただ「忙しくて少し帰りが遅くなる」と受け取ったらしい。そのため、滞在の期間が例年より延びていることにも特に疑問を抱かず、いつもと変わらぬ調子で過ごしていた。
一方で、大人たちはすでに状況を正確に把握していた。両親の遺体が引き上げられ、葬儀を数日後に控えたその日、応接間にはシグルスの両親と、そして何人かの関係者が集められていた。
「――冗談じゃない!」
応接間に怒声が響いた。声の主は、セラの父方の遠縁にあたるという中年の男だ。皺の刻まれた額には汗が滲み、怒気を孕んだ目がシグルスの父を睨み据えている。手にしていた書類を卓上に叩き付け、再び声を荒げた。
「まだ八歳の子どもなんだぞ! それを親族でもない他人の家に預けるなど、正気の沙汰じゃない!」
「冗談ではありませんわ」
よく通る女の声が、空気を切り裂くように返した。シグルスの母である。背筋を伸ばしてソファに腰掛けたまま、紅茶のカップを静かに受け皿へ戻すと、わずかに顎を上げる。
「セラフィーナ嬢のご両親がご健在のうちに、我が家との婚約は正式な手続きを経て結ばれています。これは代々の誓約に基づいたもの。軽んじられるような口約束ではありませんのよ」
「だから、そんな婚約を盾に引き取るなどと主張していることを馬鹿げていると言っとるんだ! 八歳の子どもに十九歳も年上の婚約者だと? 常軌を逸している!」
「ええ、まあ。常識的ではございませんわね」
母は静かに微笑んだ。その唇の端にわずかに浮かぶ冷笑が、場の空気を一瞬で冷やす。
その常軌を逸した婚約の当事者であるシグルスは黙したまま、平行線を辿る議論の行く末を見守っていた。応接間ではテーブルを挟んで、両家の親族が互いに一歩も譲らず対峙している。
端的に言えば――これは、不幸な事故で両親を亡くしたセラフィーナを、誰が引き取るかという話だった。
あの子はまだ八歳で、誰かの保護を受けなければならない年頃だ。後見人の存在は不可欠であり、財産の管理や教育方針を決める権限もその者に委ねられる。現時点で彼女を預かっているのはシグルス家だが、常識的に考えれば血縁者が後見を務めるのが自然な流れだろう。しかし、シグルス家は例の非常識な婚約を理由に、セラの後見を申し出ている状況だった。なぜなら――。
「常識的な判断がいつも子どもの幸福に結びつくとも限りませんわ。ましてや――遺産の管理権を真っ先に口にされるような方々の常識など、聞くに値するのかしら?」
母の一言に、向かいの男の顔は見る間に赤くなり、声を裏返らせる。
「な、何を言うかね! 我々は、あの子の親族として当然の――」
「親族であることと、信頼に足るかどうかは別の話ですわ」
声色は落ち着いていたが、言葉には明確な棘がある。
セラフィーナの両親は質素な生活を好み、穏やかな人柄で知られていたが、残された資産は土地を含め相当な規模に上っていた。それらがすべて幼い娘ひとりに相続されるとあって、どこからか湧いて出てきた親族たちは、彼女の身を案じているというより、遺産の管理権を求めて押しかけてきたようなものだった。
本来であれば、我が家が後見を申し出るのは筋違いにも思える。それでも両親は一歩も譲らなかった。この婚約を期に、当事者本人が知らないところで親同士の親交も深くなっていたようで、毎年のようにセラを預かるうちに、情も移っていたのだろう。友人の娘が、遺産目当ての者達に囲まれるのを見過ごせるはずもなかったというわけだ。
シグルスは視線を落とし、黙考する。
八歳の子どもに十九歳も年上の婚約者という構図が常軌を逸しているのは、言うまでもない。指摘は真っ当であり、彼自身もその件に関しては同意を示したいところであった。というよりも、この婚約を健全だと思っている者など、この部屋には誰ひとりいないというのが実情である。
本来ならば、彼女が成長した後で改めて意思を確認し、望まなければ婚約を解消する。それが、両家の間で交わされていた取り決めだった。元々は解消を大前提としている形ばかりの婚約だ。
だが、今その話を口にすれば、我が家の主張そのものが崩れる。セラを保護する根拠となる理由を自ら放棄することになるからだ。誰もわざわざ火種を投げ込むほど愚かではない。ゆえに、この場に居合わせた我が家の面々は、素知らぬ顔で静観の姿勢を取っていた。
この手の交渉の場においては、父よりも母の方がはるかに適任だ。言葉を刃に、倫理を鎧に。感情を煽って、核心を突く。人の情と理屈を巧みに秤にかけて、どちらを傾ければ最も効果的かを本能で知っている。
「彼女のご両親が、生前どれほど我が家を信頼しておられたか――あなた方はご存じないのでしょうね。あの子を『安心して預けられる』と、直接ご夫妻からお任せいただいたのです。あの子に必要なのは財産の管理人ではなく、心を見守る後見人。……この違いがお分かりになられないのかしら?」
間を置かず、父が続けた。
「三度申し上げますが、この婚約は妖精の立ち会いによって成立している正式なものです。冗談で片付けられるものでもない。一方的な破棄は許されません」
「っ、魔法だの妖精だのと妄想を持ち出して、訳の分からないことを! 現実を見たらどうですか!」
「現実とは、都合のいいところだけを切り取って語るものではありませんよ」
父の声が鋭くなった。
「大人が寄ってたかって子どもの未来を食い潰さんとする方が、余程現実離れしている。恥を知りなさい」
合わせて母がそっと立ち上がり、微笑を保ったまま言い切る。
「彼女は我が家の庇護下に置かれます。これはすでに決定事項ですわ。ご異論があるなら、しかるべき場所でどうぞ」
結局、誰も正面から反論できなかった――要するに、遺産の扱いや後見の問題を巡って多少の揉め事がありはしたが、最終的には婚約の縁を根拠として、彼女は我が家の庇護下に置かれることが正式に決まった。
それが常識的かと問われれば、決してそうではない。だが、残されたたった一人の子どもを見知らぬ親族のもとに放り出すよりは、はるかにましだった。環境の変化を考慮して、セラが通っていたプレパラトリー・スクールは一旦休学とし、暫くは家庭での自主学習に切り替えることになった。まずは心身の安定を最優先に、それが父と母の判断だった。
当時は、正直に言えば少し心配もしていた。両親を同時に失ったのだ。暫くは泣き伏せて、何も手につかなくなるのではないかと思っていた。しかし、セラは――大人たちが考えていたよりも実にあっけないほど早く、笑顔を取り戻していった。
子どもの適応力というのは、時に残酷なほどだ。朝になれば目を覚まし、食卓で笑い、遊び、そしてまた眠る。もちろん、それを悪いことだとは思わなかった。むしろ、あの無垢な笑顔をもう一度見ることができたことに、安堵していたのは自分の方だったのだから。
***
シグルスは、大学を卒業してからの数年間はロンドンで一人暮らしをしていた。勤務先である中立機関本部は市内に拠点があり、仕事の都合上、利便性を考えればそれが最も合理的だったためだ。
しかし、半年以上前――セラフィーナがシグルス家の庇護下に置かれることが正式に決まったのを機に、彼も再び郊外の本邸に生活の拠点を戻した。元々、通えない距離ではない。電車や車で往復できる距離であり、必要があればその都度出向くことにした。遠くから見守るよりは、同じ屋根の下にいたほうが良いと思ったためだ。
婚約の縁を理由に引き取った事情に加え、彼女の兄のような立場としては、両親を一度に失った八歳の子どもを放っておく気にはなれなかった。当のセラフィーナはプレパラトリー・スクールを休学扱いとなり、当面の間は屋敷内で自主学習を続けている。彼女は思っていたよりもずっと順応が早く、半年も経てばほとんど落ち着いたようにも見えた。
この屋敷に戻ってからというもの、報告書や承認印の確認といった事務が増え、仕事の大半は書面で片がつくようになった。そのため、机に向かう時間は自然と増え、ここしばらくは昼夜問わず書斎に籠もることが多い。延期となっていた妹の結婚式に関する確認事項を整理していた時、三度、控えめなノックの音が響いた。
シグルスは手を止め、乾きかけのインクを指先で確かめる。短く息を整えて顔を上げると、扉がほんのわずかに開いていた。
隙間の向こうから、小さな金色の髪が覗いている。……しかし、なかなか入ってはこない。
見慣れた光景だった。彼女はいつも返答を待たずに少しだけ扉を開けて、中の様子を窺う。仕事中は邪魔をしてはいけないと覚えているのだろう。だが、何か見せたいものがある時は、どうにもその我慢が利かないのだ。
「入っていい」
そう声をかけると、待ちかねたようにセラフィーナがぱっと笑顔を咲かせた。軽い足音が絨毯の上を駆けてきて、両手に抱えた箱をこちらへ掲げてみせる。箱には、鮮やかな金のリボンが結ばれていた。
「おにいさま! おじさまがね、出張から帰ってきて……これをわたしにって!」
箱の外装を見ただけで、どこのものかはすぐに見当がついた。深い紺色の外箱に金の箔押しで刻まれた紋章。父が出張の折に立ち寄る、ロンドン市内の老舗ショコラトリーの包装だ。
シグルスは眉を上げて、思わず口元を緩める。
「ほう……父上もずいぶん奮発されたものだな。これは英国王室御用達のブランドだぞ」
「うん。とっておきだって!」
セラはそう言って瞳を輝かせながら慎重な手つきでリボンを解いた。箱を開けると、仕切りの中に一粒ずつ整然と並んだチョコレートが顔を覗かせる。光沢を帯びたガナッシュに、薄いココアパウダーに包まれたトリュフ、リキュール入りのものまで見える。香りだけでも上質と分かる詰め合わせで、明らかに子ども向けではなく大人向けの嗜好品だった。
まるで宝石箱のような中を見て、シグルスは呆れ混じりに苦笑する。
「僕にはもうこんなものを買ってくることはないというのに。相変わらず君には甘いな」
「おじさま優しいもん」
「……そうだな」
確かに父は昔から子どもには甘い。どんな出張先でも、帰りには必ず土産をひとつは携えて帰ってくる。それが幼い相手への贈り物であるほどその傾向は顕著で、しかも選ぶのはほとんどが甘味だ。セラが屋敷に引き取られてからというもの、父はすっかり孫娘でも持った気分になっているらしく、彼女が貰う『とっておき』の頻度は目に見えて増していた。
母も母で似たようなものだ。礼儀作法については厳しく言い聞かせることもあるが、実際は滅多に叱らない。叱るよりも諭すことを選び、小言の後には必ず菓子がついてくるあたり、結局は甘やかしているに等しい。
子どもの教育としてそれが良いとは思わない、とシグルスは日頃から言っている――ただ、言うだけで止めに入ったことは一度もない。
「ねえ、おにいさま。いっしょに食べよう?」
「ひとりで食べていいんだぞ。これは君が貰ったものだろう」
「でも、いっしょに食べたほうがおいしいと思うの」
まっすぐに見上げてくる瞳に、言葉が詰まる。お願いというにはあまりに可愛らしく、素直だ。それゆえに拒む理由すら思い付かない。机上の書類を軽くまとめて、椅子を引く。
「……分かったよ。じゃあ紅茶を淹れてこよう」
「あっ、わたしのも!」
「勿論、君のも用意する」
「ううん。わたしのも、おにいさまと同じのがいい!」
そう言って、期待に満ちた顔が向けられる。シグルスは一瞬だけ逡巡し、それから苦笑を洩らした。
「同じの、ね……紅茶か? 流石にまだ早いだろう」
「どうして?」
「どうしても、だ」
子どもにカフェインを多く含む飲み物を与えるのは好ましくない、母も昔からそう言っていた。身体が小さいうちは刺激が強すぎるし、睡眠にも影響を及ぼす場合がある。だから、セラに出す紅茶はいつもミルクと砂糖を多めに入れて調整したものだった。
ただ、今、彼女が求めているのはそういった子ども向けのミルクティーではない。彼が日頃から愛飲しているような、香り高く苦みのある紅茶をストレートで――そういう意味で、同じものがいいと言っているのだろう。
セラがむっと拗ねたように唇を尖らせて、ワンピースの裾をつまんだ。
「……でも、おにいさまといっしょのがいいの!」
「……わかった」
ダメ押しとばかりの主張を前に、シグルスは早々に折れた。
――まぁ、これくらいなら構わないだろう。
単に味の問題ではないのだというのも理解できた。どうやらセラは、苦い紅茶を飲みたいのではなく、“大人と同じものを飲みたい”らしい。
大人と同じものを口にすることで、自分もその世界の一員に加われたように感じるのだろう。その幼い心情はよく理解できた。誰もが一度は通る道だ。子どもが大人を真似て背伸びをしたがるのは成長の一環であり、その意思を可能な限り尊重して応えてやるのも、年長者の務めというものだろう。
これを甘やかしと呼ぶのは、少々短絡的だ。
「なら、君のは特別製にしてあげよう。少し待っていなさい」
――数分後、ティートレイを手に書斎へ戻ると、セラは椅子にちょこんと座り、チョコレートの箱の蓋を開けたり閉じたりしていた。香りに鼻をくすぐられたのか、パッと顔を上げる。
「いいにおい!」
「君の分もちゃんと紅茶にしたぞ」
「ほんと? おにいさまのといっしょ?」
「味は似ているかも知れないが、これは君のためだけの特別な一杯だ。……まあ、飲んでみなさい。まだ熱いから気を付けて」
特別、という言葉の響きがいたくお気に召したようだ。
カップを受け取ったセラは、期待に満ちた目でふうっと息を吹きかけて、恐る恐ると一口含む。
「……おいしい!」
「当然だ。母上の茶葉を拝借して淹れたんだからな」
そう言って、シグルスはわずかに目を細めた。
「母上には内緒だぞ」
「うん、ないしょ!」
嬉しそうに頷いたセラの顔を見て、作戦の成功を確信する。肩の力を抜いて、自分の一杯に口をつけた。
実のところ、セラに特別製と称して淹れた紅茶は、日頃彼女に出されているミルクティーとほとんど変わらないものだった。湯の温度をやや低めにしてカフェインの抽出を抑え、ミルクを注ぎ、砂糖の代わりに蜂蜜を少し垂らした程度だ。
“特別な一杯”という言葉だけで淡い期待を満足させる方法を、シグルスは幼い頃に祖母から学んだ。
祖母は、子どもの扱いに長けた人だった。朝食の席で祖父の飲む紅茶を見て「僕にも同じものを」と強請ったときも、祖母は静かに笑いながらポットを手に取った。子どもの目線では、大人と同じものを口にできることが格好良く見え、何かを一歩手前まで手に入れたような誇らしい気分になる。祖母は、そういう未成熟で見栄を張りたがる幼心の機微をよく分かっていた。彼女が僕のために淹れてくれた特別な一杯は、実際には祖父と同じものではなかったが、それでも得意げにカップを傾けたのをよく覚えている。
子どもというのは不思議なもので、言葉一つでも味の感じ方が変わるのだ。本人が満足しているのならば、それで十分。
子どもが欲しがっているのは、砂糖もミルクも入っていない紅茶そのものではなく、“大人と同じ体験”なのだから。
セラはカップをテーブルに戻し、そっと箱の中を覗き込んだ。
少し迷って、そこから小さな指で慎重に一粒を選び取り、摘まみ上げる。ココアパウダーをまぶした、やや大粒のトリュフチョコレートだ。
「おにいさまはどれが好き?」
「僕は――そうだな、これを」
「じゃあ、これもおそろいね」
二人は顔を見合わせ、同時にチョコレートを口に運ぶ。
噛むと、中からなめらかなガナッシュがとろけた。紅茶の香りと混ざり合い、ほのかにナッツの香ばしさが舌に残る。
「……。美味いな」
英国王室御用達の名に恥じぬ一品だと、シグルスは深く頷き、口の中でほろりと溶けるチョコレートの風味を味わう。
その隣から「ん、む……」とくぐもった声がした。そちらに目を向けると――セラが頬を膨らましながらもごもごと奮闘していた。どうやら一口で頬張ったことで、咀嚼もままならない様子である。その様子があまりに滑稽で、思わず笑いがこみ上げた。
――まるで昔の自分だ。
シグルスの脳裏に、またも祖母の姿が浮かぶ。祖母は優しく穏やかな人だったが、何事にも一枚も二枚も上手で。うるさく喋ってティータイムの邪魔をしようものなら「口を開けてごらん」と言って大粒のトリュフを放り込み、強制的に静寂を取り戻す――そんな人だった。
セラにティーカップを手渡しながら、彼は穏やかに言う。
「ゆっくりと溶かすように飲んでみなさい」
「ん。…………おいしい!」
セラの唇にうっすらとココアパウダーがついているのを見て、シグルスは小さく笑った。
「ほら、ついてる」
そっとハンカチで口元を拭ってやると、セラはくすぐったそうに身を引いた。
「ありがとう、おにいさま」
「どういたしまして。あまり急いで食べるな。貴重なお菓子なんだからな」
「はあい。でも、おにいさまと食べるとすぐになくなっちゃうね」
「ふむ。……それは僕のせいか?」
シグルスが肩を竦めると、セラはくすくすと笑って首を振る。
窓の外では午後の陽光が傾き始めていた。ティーカップの縁から立ち上る湯気が緩やかに揺れ、チョコレートの甘い香りが部屋に広がる。
セラが、あの悲しみから立ち直りつつあることを、この何気ないティータイムがそっと教えてくれた気がした。
*
陽光がやわらかく射し込むマナーハウスの庭は、白と桃色の花々で彩られていた。遠くからは教会の鐘が響き、この輝かしい日を祝福するように空は晴れ渡っていた。
シグルスは列席者の笑い声や拍手をどこか遠くに感じながら、ひとり静かに妹の晴れ姿を見守っていた。花嫁姿の彼女は、ヴェールの向こうに幸福そのものといった満ち足りた笑みを浮かべ、純白のドレスの裾を軽やかに揺らしながら、ゆっくりとバージンロードを進んでいく。
「――おねえさま、とってもきれい!」
その前をフラワーガールとして歩いていたセラフィーナが、振り返って弾む声を上げた。両手で花かごを抱え、陽に透ける金の髪を揺らす彼女の頬は赤く色付いている。その無邪気な声に、花嫁を見守る親族たちが目を細め、笑みをこぼした。
――時が経つのは、早いものだ。
共に育ってきた妹は花嫁となり、小さかったあの赤子は花嫁の前で花を撒く大役を立派に務め上げるまでに成長している。その姿を見ると、兄としての誇りと安堵が胸の内に広がるような思いだった。
だが、同時に――どうにも晴れきらない感情が一つ、思考の隅に引っかかっていた。
(……妹が、もう結婚か)
決して早いわけではない。二十五歳での結婚など、世間的に見ても適齢だろう。しかし、自分と妹の年齢差はわずか三歳――つまり兄である自分も順当に言えば、もうとっくに家庭を持っていてもおかしくない年齢だ。この場に伴侶と並んで座っていても、何ら不自然ではない。
(……僕は一体、いつになったら)
ふと胸をよぎった思いに、口の端に苦笑を浮かべて息を吐く。
十年もすれば、婚約解消の話もつけられる。それでも気の長い話だと思っていたが、気付けばあれからすでに九年だ。依然として、先祖の誓約に基づく婚約関係は続いている。現実には、自分の隣に座っているのは、伴侶でも恋人でもない。両腕に花かごを抱えた九歳の少女だった。
役目を終えて列の間を抜け、軽やかな足取りで戻ってきたセラの頬は緊張と高揚の名残で薔薇のように紅潮していた。ドレスの裾をそっと撫でて整えながら、彼女はシグルスの袖口を引く。
「……わたし、じょうずにできたかな?」
そうだと言って欲しいと願うような囁きを、シグルスは顔を傾けた肩越しに拾う。横目に見れば、花冠をのせた金の髪に、花びらが一枚ひっそりと留まっていた。無言のまま、それを指先で摘まみとり、セラが抱える花かごに戻す。そして耳元に顔を寄せるようにして、小声で返した。
「完璧にやり遂げたな。誰が見ても、練習以上の出来だった」
「ほんとに? わたし、転ばなかった!」
セラの顔がぱっと明るくなり、座席の端で小さく弾むように身体を揺らす。喜びを隠しきれず、少しだけ声が大きく響いた。
最前列に座っていた花嫁の父母――つまり、シグルスの父母が、驚いたように振り向きかける。セラははっとして両手で口を押さえ、まん丸な瞳でおそるおそるとシグルスを見上げた。
シグルスは唇の端をわずかに上げる。息だけで作られた音のない笑いだった。肩をわずかに竦めて「静かにな」とでも言うように、視線で合図を送る。セラは照れたように頷いて、そっと背筋を伸ばして座り直した。
彼はもう一度、前を向く。
白いリネンに覆われた祭壇の上では、燭台の火が穏やかに揺らいでいる。牧師が祈祷書を開き、厳かな声で言葉を朗読していた。新郎への問いかけに、はっきりとした声で「誓います」との返答が響く。その静寂をひと息挟んで、牧師は次に白いヴェールを纏う花嫁へと問いかけた。
「――あなたはこの男性を、正しく結ばれた夫として迎え、喜びの日も悲しみの日も、富める時も貧しき時も、健やかなる時も病める時も、彼を愛し、慰め、敬い、支え、生涯を通じて真実を尽くすことを誓いますか?」
ヴェールの下から、凜とした声が答えた。
「……誓います」
その一言には、揺るぎない意志が宿っていた。
牧師が一歩下がり、二人に互いの手を取るように促す。誓いの言葉が交わされ、指輪が互いの薬指にぴたりと収められた時、二人は顔を見合わせた。息を合わせるように少し照れくさそうに微笑み合う。
その光景を見届けて、牧師が朗々と声を響かせた。
「――今ここに、あなたがたは我らの前で誓いを交わしました。この結びつきを神が結びたまうものであるならば、人がこれを引き離すことはできません。ゆえに私は聖職者として宣言いたします。あなたがたは、今より正式に夫婦です」
柔らかな笑みを浮かべ、牧師が続ける。
「――では、夫として、妻に口づけを」
新郎が花嫁のヴェールを上げ、その頬に手を添える。光に包まれながら、二人は静けさの中でそっと唇を重ねた。まるで祈りの延長であるような、静謐な口付けだった。
セラフィーナはまるで息を止めるようにして、その光景を見つめていた。小さな手を胸の前でぎゅっと握りしめ、やがて、隣のシグルスを仰ぎ見る。
「わたしも……おねえさまみたいな、すてきなおよめさんになれるかな?」
「……ああ。もっと大きくなったら、きっといい人と結婚できるさ」
「えへへ」
その笑みを包むように、オルガンの明るい旋律が鳴り響いた。続いて、参列者たちの拍手が一斉に重なる。セラも身を乗り出すようにして、小さな手を一生懸命に叩いていた。その様子を横目に、シグルスも静かな拍手を贈る。
――この子もいつか誰かの隣に立ち、花嫁と呼ばれて祝福を受ける日が来るのだろうか。
そんなことを考える視線の先で、拍手の音に包まれた新郎新郎が祭壇を背にゆっくりと振り返る。微笑む妹の姿を見つめながら、シグルスは胸の奥で密やかに息を吐いた。
挙式を終えると、庭ではすでに写真家がカメラを構えていた。呼びかけに従って、芝生へと移動する。新郎新婦を中心に、両家の親族や友人たちが次々と並び、写真撮影が始まった。順番を待ちながら参列者たちは談笑し、シャンパンのグラスを受け取って乾杯を交わす――軽いドリンクレセプションを兼ねた時間である。
セラフィーナも人々の輪に混じってレモネードを両手で抱え、こくりと喉に流し込んでいた。まだ昼も早い時間帯で、ドレス姿の客人たちは笑顔のままカメラの方へと顔を向ける。
シグルスも求められるままに一歩進み出て、妹夫妻の隣で控えめに姿勢を整えた。フラッシュがひとつ光り、庭にまた笑い声が広がる。ベストマンとブライズメイド、友人代表、職場の同僚に親戚の子ども達――順番に記念撮影が進んでいった。
やがて披露宴会場への案内が始まる頃、賓客たちは順に会場へと移動していったが、シグルスは一足先にセラの手を取って控え室へと向かった。人混みの中に置いていくのが心配だったのと、彼女の小さな靴が芝生に取られて歩きづらそうだったからだ。
控え室に戻ると、シグルスはゆっくりと椅子に腰を下ろし、手袋を外して胸ポケットに収める。ほとんど無意識な動作だった。深い息を吐いて、窓の外に目を向ける。先ほどまで写真撮影が行われていた庭が小さく見えた。
「少し休もう。披露宴が始まる前に、水でも飲んでおくといい」
隣に腰掛けたセラが、彼の顔を覗き込みながら首を傾げた。
「おにいさま、さびしいの?」
「ん? ……どうしてそう思ったんだ」
「おねえさまがね、『結婚したら毎日は会えなくなっちゃうけど、いつでも遊びにおいで』って言ってたの。だから、おにいさまもさびしいのかなって」
なるほど、とシグルスは一瞬だけ目を伏せる。
確かに、妹が嫁ぐことに寂しさがないわけではない。だが、彼の胸に重く沈んでいるのは、そんな単純な寂しさだけではなかった。
「違うよ。彼女の晴れの日を喜ばないわけがないだろう? ただ、少しだけ……自分はいつ結婚できるんだろうなと考えていただけだ」
「……? おにいさまは、結婚できないの?」
「……今のところは、そうだ」
セラはぱちぱちと瞬きをして、それから難しい顔で首を捻った。まるで難問を前にした探偵のように黙り込み、しばらくしてまた逆の方向へと首を傾ける。
「…………相手がいないから?」
「ウッ――いや、まあ……そうとも言えるが、そういうわけでは……」
あまりに直球すぎる質問に、シグルスは言葉を詰まらせた。
事実としては、相手がいないとは言えない。どれほど理不尽で馬鹿げていようとも、九年前に形式的に結ばれた婚約がまだ残っている。彼には「婚約者」がいる。しかも、目の前でドレスの裾を弄っているこの少女こそが、その相手であった。
とはいえ、当人はまだその事実を知らない。今ここで九歳の子どもにそんな事情を説明をするなど、どう考えても場違いで、どの角度から考えても不毛だ。
従って――「相手がいないから結婚できない」などという不名誉な誤解を受けても、反論のしようがなかった。なんという理不尽――!
実に数年ぶりにこの婚約の不条理を実感し、シグルスは眉を寄せて黙り込んだ。その時、セラがぱっと顔を上げて言った。
「――じゃあ、わたしがおにいさまと結婚する! おにいさまのおよめさんになる!」
まるで、春風のような声だった。
緑の丘を覆い、咲き乱れる金鳳花が一面に揺れる景色を思わせるような屈託のない響き。打算など欠片もなく、短絡的でまっすぐで――眩しいほどに純粋な笑顔に、シグルスは一瞬、言葉を失った。
いいでしょう! と胸を張るような誇らしげな表情に、思わず背を折って笑い声が漏れる。
「……はははっ。そう言ってもらえるのは嬉しいが、君はまだ九歳だろう?」
突拍子もない宣言が、彼女の純粋な感情から出た言葉である事は疑いようがない。皮肉な話だ。
自分たちはすでに婚約者同士でありながら、セラフィーナはそれを知らない。そして、この婚約が最初から解消前提のものとして結ばれていることも。
なのに、こうして自分を精一杯元気づけようしてくれるのだから、笑わずにはいられなかった。
「じゃあ、大きくなったら! それまでいーっぱいお勉強がんばるから!」
「そうか。それは楽しみだな」
言葉の裏に軽い諦観と苦笑を滲ませながら、シグルスはセラの頭を優しく撫でた。その柔らかな金髪の感触と、先ほどの花嫁の白いヴェールが一瞬重なって見えた。満足げに「まかせて!」と笑う少女の横顔を見つめながら、彼は小さく息を吐く。
(まったく、僕の方は一歩も進んでいない。妹は嫁ぎ、友人たちも次々と家庭を持ち始めたというのに、僕はまだ九年前の婚約を片付けられずにいる。……なんなんだ、これは)
そんな自嘲混じりの哀愁を胸の奥に沈めたまま、控え室の窓越しに空を仰いだ。
季節は次第に、秋へと傾きつつある。
時は確実に流れている。それに伴って、周囲の環境も少しずつ変わりつつあった。
妹は新しい家庭を築き、父はまもなく中立機関本部長の座を退く。そして、自分はその後任として家督を継ぎ、本部長に就くことが正式に決まりつつある。責務は増え、時間は更に足りなくなるだろう。恋人もいない現状は、むしろ都合がいいのかもしれない。そう思うしかない。
一年前、両親の事故を経てシグルス家に引き取られたセラフィーナも、休学していたプレパラトリー・スクールにこの秋から復学し、寄宿学校での生活を始めることになっている。
それぞれの人生が、新しい段階へ踏み出そうとしていた。
――この子の小さな世界が少しでも広がるといい。
そんなことを考えながら、シグルスはもう一度、彼女の頭にそっと手を置いた。
一人娘を我が家に預け、仕事のために国外に出ていた夫妻は、帰国の途についた船で事故に遭った。知らせが届いたのは、セラが両親と別れて十日ほど経った頃のことだ。天候の急変による遭難で、乗員乗客の多くが行方不明と報じられた。不運な事故であったことは疑いようがない。
もっとも、当のセラ本人は、死というものを理解できる年齢にはなかった。
身近な誰かがもう帰らないという現実が、どういう意味を持つのか、その重さをまだ知らない。母がそれとなく説明を試みても、彼女はただ「忙しくて少し帰りが遅くなる」と受け取ったらしい。そのため、滞在の期間が例年より延びていることにも特に疑問を抱かず、いつもと変わらぬ調子で過ごしていた。
一方で、大人たちはすでに状況を正確に把握していた。両親の遺体が引き上げられ、葬儀を数日後に控えたその日、応接間にはシグルスの両親と、そして何人かの関係者が集められていた。
「――冗談じゃない!」
応接間に怒声が響いた。声の主は、セラの父方の遠縁にあたるという中年の男だ。皺の刻まれた額には汗が滲み、怒気を孕んだ目がシグルスの父を睨み据えている。手にしていた書類を卓上に叩き付け、再び声を荒げた。
「まだ八歳の子どもなんだぞ! それを親族でもない他人の家に預けるなど、正気の沙汰じゃない!」
「冗談ではありませんわ」
よく通る女の声が、空気を切り裂くように返した。シグルスの母である。背筋を伸ばしてソファに腰掛けたまま、紅茶のカップを静かに受け皿へ戻すと、わずかに顎を上げる。
「セラフィーナ嬢のご両親がご健在のうちに、我が家との婚約は正式な手続きを経て結ばれています。これは代々の誓約に基づいたもの。軽んじられるような口約束ではありませんのよ」
「だから、そんな婚約を盾に引き取るなどと主張していることを馬鹿げていると言っとるんだ! 八歳の子どもに十九歳も年上の婚約者だと? 常軌を逸している!」
「ええ、まあ。常識的ではございませんわね」
母は静かに微笑んだ。その唇の端にわずかに浮かぶ冷笑が、場の空気を一瞬で冷やす。
その常軌を逸した婚約の当事者であるシグルスは黙したまま、平行線を辿る議論の行く末を見守っていた。応接間ではテーブルを挟んで、両家の親族が互いに一歩も譲らず対峙している。
端的に言えば――これは、不幸な事故で両親を亡くしたセラフィーナを、誰が引き取るかという話だった。
あの子はまだ八歳で、誰かの保護を受けなければならない年頃だ。後見人の存在は不可欠であり、財産の管理や教育方針を決める権限もその者に委ねられる。現時点で彼女を預かっているのはシグルス家だが、常識的に考えれば血縁者が後見を務めるのが自然な流れだろう。しかし、シグルス家は例の非常識な婚約を理由に、セラの後見を申し出ている状況だった。なぜなら――。
「常識的な判断がいつも子どもの幸福に結びつくとも限りませんわ。ましてや――遺産の管理権を真っ先に口にされるような方々の常識など、聞くに値するのかしら?」
母の一言に、向かいの男の顔は見る間に赤くなり、声を裏返らせる。
「な、何を言うかね! 我々は、あの子の親族として当然の――」
「親族であることと、信頼に足るかどうかは別の話ですわ」
声色は落ち着いていたが、言葉には明確な棘がある。
セラフィーナの両親は質素な生活を好み、穏やかな人柄で知られていたが、残された資産は土地を含め相当な規模に上っていた。それらがすべて幼い娘ひとりに相続されるとあって、どこからか湧いて出てきた親族たちは、彼女の身を案じているというより、遺産の管理権を求めて押しかけてきたようなものだった。
本来であれば、我が家が後見を申し出るのは筋違いにも思える。それでも両親は一歩も譲らなかった。この婚約を期に、当事者本人が知らないところで親同士の親交も深くなっていたようで、毎年のようにセラを預かるうちに、情も移っていたのだろう。友人の娘が、遺産目当ての者達に囲まれるのを見過ごせるはずもなかったというわけだ。
シグルスは視線を落とし、黙考する。
八歳の子どもに十九歳も年上の婚約者という構図が常軌を逸しているのは、言うまでもない。指摘は真っ当であり、彼自身もその件に関しては同意を示したいところであった。というよりも、この婚約を健全だと思っている者など、この部屋には誰ひとりいないというのが実情である。
本来ならば、彼女が成長した後で改めて意思を確認し、望まなければ婚約を解消する。それが、両家の間で交わされていた取り決めだった。元々は解消を大前提としている形ばかりの婚約だ。
だが、今その話を口にすれば、我が家の主張そのものが崩れる。セラを保護する根拠となる理由を自ら放棄することになるからだ。誰もわざわざ火種を投げ込むほど愚かではない。ゆえに、この場に居合わせた我が家の面々は、素知らぬ顔で静観の姿勢を取っていた。
この手の交渉の場においては、父よりも母の方がはるかに適任だ。言葉を刃に、倫理を鎧に。感情を煽って、核心を突く。人の情と理屈を巧みに秤にかけて、どちらを傾ければ最も効果的かを本能で知っている。
「彼女のご両親が、生前どれほど我が家を信頼しておられたか――あなた方はご存じないのでしょうね。あの子を『安心して預けられる』と、直接ご夫妻からお任せいただいたのです。あの子に必要なのは財産の管理人ではなく、心を見守る後見人。……この違いがお分かりになられないのかしら?」
間を置かず、父が続けた。
「三度申し上げますが、この婚約は妖精の立ち会いによって成立している正式なものです。冗談で片付けられるものでもない。一方的な破棄は許されません」
「っ、魔法だの妖精だのと妄想を持ち出して、訳の分からないことを! 現実を見たらどうですか!」
「現実とは、都合のいいところだけを切り取って語るものではありませんよ」
父の声が鋭くなった。
「大人が寄ってたかって子どもの未来を食い潰さんとする方が、余程現実離れしている。恥を知りなさい」
合わせて母がそっと立ち上がり、微笑を保ったまま言い切る。
「彼女は我が家の庇護下に置かれます。これはすでに決定事項ですわ。ご異論があるなら、しかるべき場所でどうぞ」
結局、誰も正面から反論できなかった――要するに、遺産の扱いや後見の問題を巡って多少の揉め事がありはしたが、最終的には婚約の縁を根拠として、彼女は我が家の庇護下に置かれることが正式に決まった。
それが常識的かと問われれば、決してそうではない。だが、残されたたった一人の子どもを見知らぬ親族のもとに放り出すよりは、はるかにましだった。環境の変化を考慮して、セラが通っていたプレパラトリー・スクールは一旦休学とし、暫くは家庭での自主学習に切り替えることになった。まずは心身の安定を最優先に、それが父と母の判断だった。
当時は、正直に言えば少し心配もしていた。両親を同時に失ったのだ。暫くは泣き伏せて、何も手につかなくなるのではないかと思っていた。しかし、セラは――大人たちが考えていたよりも実にあっけないほど早く、笑顔を取り戻していった。
子どもの適応力というのは、時に残酷なほどだ。朝になれば目を覚まし、食卓で笑い、遊び、そしてまた眠る。もちろん、それを悪いことだとは思わなかった。むしろ、あの無垢な笑顔をもう一度見ることができたことに、安堵していたのは自分の方だったのだから。
***
シグルスは、大学を卒業してからの数年間はロンドンで一人暮らしをしていた。勤務先である中立機関本部は市内に拠点があり、仕事の都合上、利便性を考えればそれが最も合理的だったためだ。
しかし、半年以上前――セラフィーナがシグルス家の庇護下に置かれることが正式に決まったのを機に、彼も再び郊外の本邸に生活の拠点を戻した。元々、通えない距離ではない。電車や車で往復できる距離であり、必要があればその都度出向くことにした。遠くから見守るよりは、同じ屋根の下にいたほうが良いと思ったためだ。
婚約の縁を理由に引き取った事情に加え、彼女の兄のような立場としては、両親を一度に失った八歳の子どもを放っておく気にはなれなかった。当のセラフィーナはプレパラトリー・スクールを休学扱いとなり、当面の間は屋敷内で自主学習を続けている。彼女は思っていたよりもずっと順応が早く、半年も経てばほとんど落ち着いたようにも見えた。
この屋敷に戻ってからというもの、報告書や承認印の確認といった事務が増え、仕事の大半は書面で片がつくようになった。そのため、机に向かう時間は自然と増え、ここしばらくは昼夜問わず書斎に籠もることが多い。延期となっていた妹の結婚式に関する確認事項を整理していた時、三度、控えめなノックの音が響いた。
シグルスは手を止め、乾きかけのインクを指先で確かめる。短く息を整えて顔を上げると、扉がほんのわずかに開いていた。
隙間の向こうから、小さな金色の髪が覗いている。……しかし、なかなか入ってはこない。
見慣れた光景だった。彼女はいつも返答を待たずに少しだけ扉を開けて、中の様子を窺う。仕事中は邪魔をしてはいけないと覚えているのだろう。だが、何か見せたいものがある時は、どうにもその我慢が利かないのだ。
「入っていい」
そう声をかけると、待ちかねたようにセラフィーナがぱっと笑顔を咲かせた。軽い足音が絨毯の上を駆けてきて、両手に抱えた箱をこちらへ掲げてみせる。箱には、鮮やかな金のリボンが結ばれていた。
「おにいさま! おじさまがね、出張から帰ってきて……これをわたしにって!」
箱の外装を見ただけで、どこのものかはすぐに見当がついた。深い紺色の外箱に金の箔押しで刻まれた紋章。父が出張の折に立ち寄る、ロンドン市内の老舗ショコラトリーの包装だ。
シグルスは眉を上げて、思わず口元を緩める。
「ほう……父上もずいぶん奮発されたものだな。これは英国王室御用達のブランドだぞ」
「うん。とっておきだって!」
セラはそう言って瞳を輝かせながら慎重な手つきでリボンを解いた。箱を開けると、仕切りの中に一粒ずつ整然と並んだチョコレートが顔を覗かせる。光沢を帯びたガナッシュに、薄いココアパウダーに包まれたトリュフ、リキュール入りのものまで見える。香りだけでも上質と分かる詰め合わせで、明らかに子ども向けではなく大人向けの嗜好品だった。
まるで宝石箱のような中を見て、シグルスは呆れ混じりに苦笑する。
「僕にはもうこんなものを買ってくることはないというのに。相変わらず君には甘いな」
「おじさま優しいもん」
「……そうだな」
確かに父は昔から子どもには甘い。どんな出張先でも、帰りには必ず土産をひとつは携えて帰ってくる。それが幼い相手への贈り物であるほどその傾向は顕著で、しかも選ぶのはほとんどが甘味だ。セラが屋敷に引き取られてからというもの、父はすっかり孫娘でも持った気分になっているらしく、彼女が貰う『とっておき』の頻度は目に見えて増していた。
母も母で似たようなものだ。礼儀作法については厳しく言い聞かせることもあるが、実際は滅多に叱らない。叱るよりも諭すことを選び、小言の後には必ず菓子がついてくるあたり、結局は甘やかしているに等しい。
子どもの教育としてそれが良いとは思わない、とシグルスは日頃から言っている――ただ、言うだけで止めに入ったことは一度もない。
「ねえ、おにいさま。いっしょに食べよう?」
「ひとりで食べていいんだぞ。これは君が貰ったものだろう」
「でも、いっしょに食べたほうがおいしいと思うの」
まっすぐに見上げてくる瞳に、言葉が詰まる。お願いというにはあまりに可愛らしく、素直だ。それゆえに拒む理由すら思い付かない。机上の書類を軽くまとめて、椅子を引く。
「……分かったよ。じゃあ紅茶を淹れてこよう」
「あっ、わたしのも!」
「勿論、君のも用意する」
「ううん。わたしのも、おにいさまと同じのがいい!」
そう言って、期待に満ちた顔が向けられる。シグルスは一瞬だけ逡巡し、それから苦笑を洩らした。
「同じの、ね……紅茶か? 流石にまだ早いだろう」
「どうして?」
「どうしても、だ」
子どもにカフェインを多く含む飲み物を与えるのは好ましくない、母も昔からそう言っていた。身体が小さいうちは刺激が強すぎるし、睡眠にも影響を及ぼす場合がある。だから、セラに出す紅茶はいつもミルクと砂糖を多めに入れて調整したものだった。
ただ、今、彼女が求めているのはそういった子ども向けのミルクティーではない。彼が日頃から愛飲しているような、香り高く苦みのある紅茶をストレートで――そういう意味で、同じものがいいと言っているのだろう。
セラがむっと拗ねたように唇を尖らせて、ワンピースの裾をつまんだ。
「……でも、おにいさまといっしょのがいいの!」
「……わかった」
ダメ押しとばかりの主張を前に、シグルスは早々に折れた。
――まぁ、これくらいなら構わないだろう。
単に味の問題ではないのだというのも理解できた。どうやらセラは、苦い紅茶を飲みたいのではなく、“大人と同じものを飲みたい”らしい。
大人と同じものを口にすることで、自分もその世界の一員に加われたように感じるのだろう。その幼い心情はよく理解できた。誰もが一度は通る道だ。子どもが大人を真似て背伸びをしたがるのは成長の一環であり、その意思を可能な限り尊重して応えてやるのも、年長者の務めというものだろう。
これを甘やかしと呼ぶのは、少々短絡的だ。
「なら、君のは特別製にしてあげよう。少し待っていなさい」
――数分後、ティートレイを手に書斎へ戻ると、セラは椅子にちょこんと座り、チョコレートの箱の蓋を開けたり閉じたりしていた。香りに鼻をくすぐられたのか、パッと顔を上げる。
「いいにおい!」
「君の分もちゃんと紅茶にしたぞ」
「ほんと? おにいさまのといっしょ?」
「味は似ているかも知れないが、これは君のためだけの特別な一杯だ。……まあ、飲んでみなさい。まだ熱いから気を付けて」
特別、という言葉の響きがいたくお気に召したようだ。
カップを受け取ったセラは、期待に満ちた目でふうっと息を吹きかけて、恐る恐ると一口含む。
「……おいしい!」
「当然だ。母上の茶葉を拝借して淹れたんだからな」
そう言って、シグルスはわずかに目を細めた。
「母上には内緒だぞ」
「うん、ないしょ!」
嬉しそうに頷いたセラの顔を見て、作戦の成功を確信する。肩の力を抜いて、自分の一杯に口をつけた。
実のところ、セラに特別製と称して淹れた紅茶は、日頃彼女に出されているミルクティーとほとんど変わらないものだった。湯の温度をやや低めにしてカフェインの抽出を抑え、ミルクを注ぎ、砂糖の代わりに蜂蜜を少し垂らした程度だ。
“特別な一杯”という言葉だけで淡い期待を満足させる方法を、シグルスは幼い頃に祖母から学んだ。
祖母は、子どもの扱いに長けた人だった。朝食の席で祖父の飲む紅茶を見て「僕にも同じものを」と強請ったときも、祖母は静かに笑いながらポットを手に取った。子どもの目線では、大人と同じものを口にできることが格好良く見え、何かを一歩手前まで手に入れたような誇らしい気分になる。祖母は、そういう未成熟で見栄を張りたがる幼心の機微をよく分かっていた。彼女が僕のために淹れてくれた特別な一杯は、実際には祖父と同じものではなかったが、それでも得意げにカップを傾けたのをよく覚えている。
子どもというのは不思議なもので、言葉一つでも味の感じ方が変わるのだ。本人が満足しているのならば、それで十分。
子どもが欲しがっているのは、砂糖もミルクも入っていない紅茶そのものではなく、“大人と同じ体験”なのだから。
セラはカップをテーブルに戻し、そっと箱の中を覗き込んだ。
少し迷って、そこから小さな指で慎重に一粒を選び取り、摘まみ上げる。ココアパウダーをまぶした、やや大粒のトリュフチョコレートだ。
「おにいさまはどれが好き?」
「僕は――そうだな、これを」
「じゃあ、これもおそろいね」
二人は顔を見合わせ、同時にチョコレートを口に運ぶ。
噛むと、中からなめらかなガナッシュがとろけた。紅茶の香りと混ざり合い、ほのかにナッツの香ばしさが舌に残る。
「……。美味いな」
英国王室御用達の名に恥じぬ一品だと、シグルスは深く頷き、口の中でほろりと溶けるチョコレートの風味を味わう。
その隣から「ん、む……」とくぐもった声がした。そちらに目を向けると――セラが頬を膨らましながらもごもごと奮闘していた。どうやら一口で頬張ったことで、咀嚼もままならない様子である。その様子があまりに滑稽で、思わず笑いがこみ上げた。
――まるで昔の自分だ。
シグルスの脳裏に、またも祖母の姿が浮かぶ。祖母は優しく穏やかな人だったが、何事にも一枚も二枚も上手で。うるさく喋ってティータイムの邪魔をしようものなら「口を開けてごらん」と言って大粒のトリュフを放り込み、強制的に静寂を取り戻す――そんな人だった。
セラにティーカップを手渡しながら、彼は穏やかに言う。
「ゆっくりと溶かすように飲んでみなさい」
「ん。…………おいしい!」
セラの唇にうっすらとココアパウダーがついているのを見て、シグルスは小さく笑った。
「ほら、ついてる」
そっとハンカチで口元を拭ってやると、セラはくすぐったそうに身を引いた。
「ありがとう、おにいさま」
「どういたしまして。あまり急いで食べるな。貴重なお菓子なんだからな」
「はあい。でも、おにいさまと食べるとすぐになくなっちゃうね」
「ふむ。……それは僕のせいか?」
シグルスが肩を竦めると、セラはくすくすと笑って首を振る。
窓の外では午後の陽光が傾き始めていた。ティーカップの縁から立ち上る湯気が緩やかに揺れ、チョコレートの甘い香りが部屋に広がる。
セラが、あの悲しみから立ち直りつつあることを、この何気ないティータイムがそっと教えてくれた気がした。
*
陽光がやわらかく射し込むマナーハウスの庭は、白と桃色の花々で彩られていた。遠くからは教会の鐘が響き、この輝かしい日を祝福するように空は晴れ渡っていた。
シグルスは列席者の笑い声や拍手をどこか遠くに感じながら、ひとり静かに妹の晴れ姿を見守っていた。花嫁姿の彼女は、ヴェールの向こうに幸福そのものといった満ち足りた笑みを浮かべ、純白のドレスの裾を軽やかに揺らしながら、ゆっくりとバージンロードを進んでいく。
「――おねえさま、とってもきれい!」
その前をフラワーガールとして歩いていたセラフィーナが、振り返って弾む声を上げた。両手で花かごを抱え、陽に透ける金の髪を揺らす彼女の頬は赤く色付いている。その無邪気な声に、花嫁を見守る親族たちが目を細め、笑みをこぼした。
――時が経つのは、早いものだ。
共に育ってきた妹は花嫁となり、小さかったあの赤子は花嫁の前で花を撒く大役を立派に務め上げるまでに成長している。その姿を見ると、兄としての誇りと安堵が胸の内に広がるような思いだった。
だが、同時に――どうにも晴れきらない感情が一つ、思考の隅に引っかかっていた。
(……妹が、もう結婚か)
決して早いわけではない。二十五歳での結婚など、世間的に見ても適齢だろう。しかし、自分と妹の年齢差はわずか三歳――つまり兄である自分も順当に言えば、もうとっくに家庭を持っていてもおかしくない年齢だ。この場に伴侶と並んで座っていても、何ら不自然ではない。
(……僕は一体、いつになったら)
ふと胸をよぎった思いに、口の端に苦笑を浮かべて息を吐く。
十年もすれば、婚約解消の話もつけられる。それでも気の長い話だと思っていたが、気付けばあれからすでに九年だ。依然として、先祖の誓約に基づく婚約関係は続いている。現実には、自分の隣に座っているのは、伴侶でも恋人でもない。両腕に花かごを抱えた九歳の少女だった。
役目を終えて列の間を抜け、軽やかな足取りで戻ってきたセラの頬は緊張と高揚の名残で薔薇のように紅潮していた。ドレスの裾をそっと撫でて整えながら、彼女はシグルスの袖口を引く。
「……わたし、じょうずにできたかな?」
そうだと言って欲しいと願うような囁きを、シグルスは顔を傾けた肩越しに拾う。横目に見れば、花冠をのせた金の髪に、花びらが一枚ひっそりと留まっていた。無言のまま、それを指先で摘まみとり、セラが抱える花かごに戻す。そして耳元に顔を寄せるようにして、小声で返した。
「完璧にやり遂げたな。誰が見ても、練習以上の出来だった」
「ほんとに? わたし、転ばなかった!」
セラの顔がぱっと明るくなり、座席の端で小さく弾むように身体を揺らす。喜びを隠しきれず、少しだけ声が大きく響いた。
最前列に座っていた花嫁の父母――つまり、シグルスの父母が、驚いたように振り向きかける。セラははっとして両手で口を押さえ、まん丸な瞳でおそるおそるとシグルスを見上げた。
シグルスは唇の端をわずかに上げる。息だけで作られた音のない笑いだった。肩をわずかに竦めて「静かにな」とでも言うように、視線で合図を送る。セラは照れたように頷いて、そっと背筋を伸ばして座り直した。
彼はもう一度、前を向く。
白いリネンに覆われた祭壇の上では、燭台の火が穏やかに揺らいでいる。牧師が祈祷書を開き、厳かな声で言葉を朗読していた。新郎への問いかけに、はっきりとした声で「誓います」との返答が響く。その静寂をひと息挟んで、牧師は次に白いヴェールを纏う花嫁へと問いかけた。
「――あなたはこの男性を、正しく結ばれた夫として迎え、喜びの日も悲しみの日も、富める時も貧しき時も、健やかなる時も病める時も、彼を愛し、慰め、敬い、支え、生涯を通じて真実を尽くすことを誓いますか?」
ヴェールの下から、凜とした声が答えた。
「……誓います」
その一言には、揺るぎない意志が宿っていた。
牧師が一歩下がり、二人に互いの手を取るように促す。誓いの言葉が交わされ、指輪が互いの薬指にぴたりと収められた時、二人は顔を見合わせた。息を合わせるように少し照れくさそうに微笑み合う。
その光景を見届けて、牧師が朗々と声を響かせた。
「――今ここに、あなたがたは我らの前で誓いを交わしました。この結びつきを神が結びたまうものであるならば、人がこれを引き離すことはできません。ゆえに私は聖職者として宣言いたします。あなたがたは、今より正式に夫婦です」
柔らかな笑みを浮かべ、牧師が続ける。
「――では、夫として、妻に口づけを」
新郎が花嫁のヴェールを上げ、その頬に手を添える。光に包まれながら、二人は静けさの中でそっと唇を重ねた。まるで祈りの延長であるような、静謐な口付けだった。
セラフィーナはまるで息を止めるようにして、その光景を見つめていた。小さな手を胸の前でぎゅっと握りしめ、やがて、隣のシグルスを仰ぎ見る。
「わたしも……おねえさまみたいな、すてきなおよめさんになれるかな?」
「……ああ。もっと大きくなったら、きっといい人と結婚できるさ」
「えへへ」
その笑みを包むように、オルガンの明るい旋律が鳴り響いた。続いて、参列者たちの拍手が一斉に重なる。セラも身を乗り出すようにして、小さな手を一生懸命に叩いていた。その様子を横目に、シグルスも静かな拍手を贈る。
――この子もいつか誰かの隣に立ち、花嫁と呼ばれて祝福を受ける日が来るのだろうか。
そんなことを考える視線の先で、拍手の音に包まれた新郎新郎が祭壇を背にゆっくりと振り返る。微笑む妹の姿を見つめながら、シグルスは胸の奥で密やかに息を吐いた。
挙式を終えると、庭ではすでに写真家がカメラを構えていた。呼びかけに従って、芝生へと移動する。新郎新婦を中心に、両家の親族や友人たちが次々と並び、写真撮影が始まった。順番を待ちながら参列者たちは談笑し、シャンパンのグラスを受け取って乾杯を交わす――軽いドリンクレセプションを兼ねた時間である。
セラフィーナも人々の輪に混じってレモネードを両手で抱え、こくりと喉に流し込んでいた。まだ昼も早い時間帯で、ドレス姿の客人たちは笑顔のままカメラの方へと顔を向ける。
シグルスも求められるままに一歩進み出て、妹夫妻の隣で控えめに姿勢を整えた。フラッシュがひとつ光り、庭にまた笑い声が広がる。ベストマンとブライズメイド、友人代表、職場の同僚に親戚の子ども達――順番に記念撮影が進んでいった。
やがて披露宴会場への案内が始まる頃、賓客たちは順に会場へと移動していったが、シグルスは一足先にセラの手を取って控え室へと向かった。人混みの中に置いていくのが心配だったのと、彼女の小さな靴が芝生に取られて歩きづらそうだったからだ。
控え室に戻ると、シグルスはゆっくりと椅子に腰を下ろし、手袋を外して胸ポケットに収める。ほとんど無意識な動作だった。深い息を吐いて、窓の外に目を向ける。先ほどまで写真撮影が行われていた庭が小さく見えた。
「少し休もう。披露宴が始まる前に、水でも飲んでおくといい」
隣に腰掛けたセラが、彼の顔を覗き込みながら首を傾げた。
「おにいさま、さびしいの?」
「ん? ……どうしてそう思ったんだ」
「おねえさまがね、『結婚したら毎日は会えなくなっちゃうけど、いつでも遊びにおいで』って言ってたの。だから、おにいさまもさびしいのかなって」
なるほど、とシグルスは一瞬だけ目を伏せる。
確かに、妹が嫁ぐことに寂しさがないわけではない。だが、彼の胸に重く沈んでいるのは、そんな単純な寂しさだけではなかった。
「違うよ。彼女の晴れの日を喜ばないわけがないだろう? ただ、少しだけ……自分はいつ結婚できるんだろうなと考えていただけだ」
「……? おにいさまは、結婚できないの?」
「……今のところは、そうだ」
セラはぱちぱちと瞬きをして、それから難しい顔で首を捻った。まるで難問を前にした探偵のように黙り込み、しばらくしてまた逆の方向へと首を傾ける。
「…………相手がいないから?」
「ウッ――いや、まあ……そうとも言えるが、そういうわけでは……」
あまりに直球すぎる質問に、シグルスは言葉を詰まらせた。
事実としては、相手がいないとは言えない。どれほど理不尽で馬鹿げていようとも、九年前に形式的に結ばれた婚約がまだ残っている。彼には「婚約者」がいる。しかも、目の前でドレスの裾を弄っているこの少女こそが、その相手であった。
とはいえ、当人はまだその事実を知らない。今ここで九歳の子どもにそんな事情を説明をするなど、どう考えても場違いで、どの角度から考えても不毛だ。
従って――「相手がいないから結婚できない」などという不名誉な誤解を受けても、反論のしようがなかった。なんという理不尽――!
実に数年ぶりにこの婚約の不条理を実感し、シグルスは眉を寄せて黙り込んだ。その時、セラがぱっと顔を上げて言った。
「――じゃあ、わたしがおにいさまと結婚する! おにいさまのおよめさんになる!」
まるで、春風のような声だった。
緑の丘を覆い、咲き乱れる金鳳花が一面に揺れる景色を思わせるような屈託のない響き。打算など欠片もなく、短絡的でまっすぐで――眩しいほどに純粋な笑顔に、シグルスは一瞬、言葉を失った。
いいでしょう! と胸を張るような誇らしげな表情に、思わず背を折って笑い声が漏れる。
「……はははっ。そう言ってもらえるのは嬉しいが、君はまだ九歳だろう?」
突拍子もない宣言が、彼女の純粋な感情から出た言葉である事は疑いようがない。皮肉な話だ。
自分たちはすでに婚約者同士でありながら、セラフィーナはそれを知らない。そして、この婚約が最初から解消前提のものとして結ばれていることも。
なのに、こうして自分を精一杯元気づけようしてくれるのだから、笑わずにはいられなかった。
「じゃあ、大きくなったら! それまでいーっぱいお勉強がんばるから!」
「そうか。それは楽しみだな」
言葉の裏に軽い諦観と苦笑を滲ませながら、シグルスはセラの頭を優しく撫でた。その柔らかな金髪の感触と、先ほどの花嫁の白いヴェールが一瞬重なって見えた。満足げに「まかせて!」と笑う少女の横顔を見つめながら、彼は小さく息を吐く。
(まったく、僕の方は一歩も進んでいない。妹は嫁ぎ、友人たちも次々と家庭を持ち始めたというのに、僕はまだ九年前の婚約を片付けられずにいる。……なんなんだ、これは)
そんな自嘲混じりの哀愁を胸の奥に沈めたまま、控え室の窓越しに空を仰いだ。
季節は次第に、秋へと傾きつつある。
時は確実に流れている。それに伴って、周囲の環境も少しずつ変わりつつあった。
妹は新しい家庭を築き、父はまもなく中立機関本部長の座を退く。そして、自分はその後任として家督を継ぎ、本部長に就くことが正式に決まりつつある。責務は増え、時間は更に足りなくなるだろう。恋人もいない現状は、むしろ都合がいいのかもしれない。そう思うしかない。
一年前、両親の事故を経てシグルス家に引き取られたセラフィーナも、休学していたプレパラトリー・スクールにこの秋から復学し、寄宿学校での生活を始めることになっている。
それぞれの人生が、新しい段階へ踏み出そうとしていた。
――この子の小さな世界が少しでも広がるといい。
そんなことを考えながら、シグルスはもう一度、彼女の頭にそっと手を置いた。
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