十九歳差の許嫁
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前年に成人して暫く経ち、学生としての本分らしく学業に専念していた頃のことだ。
ある日、父の書斎に呼び出された。要件は不明。ただ「大事な話がある」とだけ告げられていた。こういった形で改まって呼び出されるのは珍しいことだ、と自然に背筋を正して父の正面に座る。
「それで、大事な話とは?」
「お前に許嫁ができた」
「は――?」
耳を疑うように眉を上げ、思わず首を斜めに捻った。聴覚はいい方だ。父から告げられた言葉は実にシンプルで、明瞭に聞こえた。だが、どうにも頭を素通りするような単語が混ざっていた気がして、もう一度聞き返す。
「……許嫁ができた?」
「そうだ」
あまりにも気軽な調子で頷きが返ってくる。
「許嫁だ。婚約者と言いかえれば分かるか」
「待ってください。僕に?」
「うむ。相手は――」
「冗談はやめてください。結婚の意思を問われたこともなければ、見合いの席に出た覚えもない。なのに顔も知らない誰かと、ですか? 勝手に?」
ほとんど息を継ぐ暇もなく、そう捲し立てた。
後々にシグルスという家を背負う立場として責任は理解していたが、流石にこの頃はまだ結婚の“け”の字すら現実味を帯びていなかった。魔術師の直系名家に生まれた長子である以上、一生独身というわけにもいかず、いずれ誰かと婚姻を結ぶ日が来ることも覚悟している。家同士の取り決めで結婚が決まることなど、うちのような高位の魔術師家系ではそう珍しくないと知っていた。
それでも――これまで父からそんな話を持ち出されたことは一度もない。父のみならず母も、どちらかといえばともに大らかな、悪くいえば少々楽観的な性格の持ち主である。少なくとも「家のためになる」という理由だけで、事前の相談もなく子の人生を左右する選択を勝手に決めてしまうような冷徹な人間ではなかった。
――それが開口一番、「お前に許嫁が出来た」とは何だ。
長年積み上げてきた親子の信頼を裏切られたように感じ、気分を害しながらも、対面する父を鋭く見据えて問いただした。
「勝手に、というよりはな……うん」
想定内の反応だと言わんばかりに、父は全く動じず、指先を組み替えて椅子の背にゆっくりともたれる。
「この婚約の発端は、先祖の約束だ。お前に話したことはないかもしれん。少なくとも四代は遡る昔の話だからな」
「そんな馬鹿な。まさか、そんなものがまだ有効だと?」
「そうだ。……というわけで、それを確かめに行く。今から顔合わせだ」
「今から!? 待ってください、僕は了承もしていないぞ!」
思わず立ち上がる。父は厳めしい顔つきのまま眉ひとつ動かさず、重々しく頷きを返して椅子から腰を上げた。
「車はすでに呼んである。少し遠いが、夜までには戻れるだろう。詳しい経緯については車の中で話そう」
そうして車と列車を乗り継ぎ、半ば強引に父に連れて来られたのは、長閑な田園風景が広がる村の一角に建つ一軒家だった。
「少し遠い」と言われていたが、確実に“少し”ではなかった。――騙された。乗り込んだ列車の車窓を流れる景色を眺めながら、何度その言葉を脳裏で繰り返したことか。
おそらく父は、あらかじめ遠いことを匂わせてしまえば、突如として降って湧いたこの馬鹿げた婚約話に不信感を抱いた息子が家を出ようとしないだろうと踏んでいたのだ。
駅の売店で買ったサンドイッチを頬張りながら、「お前も食べるか」と林檎を差し出してくる父の姿が、あまりにも憎らしかった。やり口が汚い。……だが、こういった小賢しい策略を好むのは本来、母の方である。つまり、今回の件は父の独断ではない。両親の間で話がついている。逃げ場はない――そう悟って、シグルスは腹を括り、黙って許嫁との「顔合わせ」とやらに同行することを決めた。
――話を戻そう。
通された応接間には、若い夫妻が待っていた。どちらも二十代後半から三十代半ばほどの年回りで、来客を見るなり恐縮したように立ち上がる。
「お待ちしておりました」
深々と頭を下げる二人の様子に、一見して“善良そうだ”という印象を抱いた。少なくとも、権力に執着して家のために娘の人生を軽々と差し出すような人間には見えない。勧められるまま父と並んで腰を下ろし、紅茶を受け取る。挨拶もそこそこに、父は今回の訪問の本題へと入った。
「――セラフィーナ嬢はどちらに?」
「少々お待ちください。すぐに連れてまいります」
そう言って部屋を出ていった女性は、数分と経たずに戻ってきた。
顔も知らない婚約者がついに現れる――そう思って、身を乗り出す。だが、戸口に見えたのは、先ほどの女性ただ一人。首を傾げた瞬間、その腕に抱かれていたものを見て、息を呑んだ。
脳裏によみがえるのは、ここに辿り着くまでの道すがら、父が語った此度の婚約に関する経緯だ。
『先刻、先祖の約束による婚約だと話したが、厳密にはもっと重く古い“契約”と言う方が近い。シグルス家と相手方の家が、子や孫の代で両家に男児と女児が同時期に生まれた際は、婚姻によって縁を結ぶ――そう取り決めていた。これまでは偶然重ならなかったが、今回、相手方の家に百余年ぶりに女児が生まれたのだ。すでに四代以上は昔のことで、ほとんど忘れられていた契約だが、確かに残っていたらしい。……相手方の家は魔術師の家系ではないが、代々妖精に好かれやすい体質を受け継ぎ、彼らと縁のある者が生まれる珍しい家でな。最も厄介なのは、この契約が過去、妖精の立ち会いをもって約定されている、という点だ。……お前も知ってのとおり、妖精とは埒外の存在。彼らは人間の理屈ではなく、彼ら自身の価値観によって動いている。ゆえに契約を一方的に反故にすれば、どんな報復があるか分からん。その危険性は、お前も魔術師の端くれなら理解できるだろう』
頭の奥で父の声が遠のき、口の中が渇く。顔も知らない許嫁――その母親の腕の中に眠る小さな存在を凝視し、かすれた声がこぼれた。
「……赤ん坊、じゃないか」
「そうだ」
「そうだ、じゃない! これが僕の許嫁だと?」
目を剥き、思わず声を荒げた。
道中の説明の時から少し違和感を覚えていた。もっと早くに気付くべきだったのだ。
真新しいレースの帽子を被せられ、真っ白な毛布に包まれた汚れなき存在は、母親の腕の中で小さく息をし、うとうとと静かに眠っている。
どこからどう見ても正真正銘の赤ん坊だった。“百余年ぶりに女児が生まれた”――と、父はそう言っていた。つまり、その「女児」とは、新生児のことを指していたのだ。子どもどころではない。赤子。
「……あなた方、これが冗談で済むと思っているのか。いや、冗談だ。たちの悪い冗談だと言ってくれ」
「現実を見ろ、フレデリック。今日は顔合わせだと言ったろう」
「……両家に男児と女児が同時期に生まれたなら婚姻を――という昔話は聞いた。だが、僕はすでに成人しているのに対し、この子は生まれたばかりだ。これの、どこが“同時期”なんだ?」
「まあ、十九年ばかりは誤差ということなんだろう。妖精の基準ではな」
「そんな馬鹿な話があってたまるか!」
怒声に驚いた赤ん坊がびくりと身を動かした。ちゃんと見えているかも怪しいつぶらな瞳がきょろきょろと周囲に向けられ、目を瞬かせる。それが「ふえ」と小さな声を上げた瞬間、泣き出されてはたまらないと慌てて自分の口を押さえた。そのまま父を睨むが、相手は涼しい顔でティーカップを傾けている。
どう考えてもおかしい。正気の沙汰ではない。だが、この場で明確に意を唱えているのは自分だけだ。当事者の意思など、はなから重要ではないのである。これは見合いではなく“顔合わせ”。婚約は両家の間ですでに決まっているのだ。父が終始いつも通りの調子を保っているせいで、まるで自分が理不尽に駄々をこねて喚いているかのような錯覚さえ覚える。
「いやあ、こういう反応になるのはわかっていましたが……」と赤子の父が頬を掻き、苦笑する。
「本当に……困ったことになりましたわね」と赤子の母も頬に手を当て、首を少し傾げながら微笑んだ。
「ああ。我々もまさかこんなことになるとは思っていなくてな」と父が肩をすくめて、軽い頷きを返した。
部屋に居合わせる三人の親たちは、どこか他人事のように穏やかな口調で、いずれも似たような反応を見せる。
「とはいえ、こうして長く忘れられていた約束によって、数世代を経て両家の縁が繋がったのは不思議な巡り合わせというものだな」
「まったくです。本当に奇妙な巡り合わせもあるものですね」
「……何を暢気なことを。僕は納得していないぞ。重ねて言うが、こんな婚約はあまりにも馬鹿げている。十九歳も年下の、まだ歯も生えていない赤子を許嫁にだなんて!」
父は軽く頷き静かに言った。
「そうだな。お前の気持ちは理解できる。私も最初に話を聞いたときは同じ反応をしたよ。……しかし、遥か昔の話とはいえ、約束は約束。妖精が立ち会っている以上、軽んじることもできん。――が、要するにこの婚約は、両家に縁が出来た程度の意味に過ぎないのも、また事実だ」
「……? どういう意味です。僕はもう成人だ。将来の婚姻は人生に関わる重大事だというのに、当人の意思を問われることもなく赤子を押し付けられて――」
すると、今度は相手方の父が口を開いた。
「……押し付けられて、とは穏やかではありませんね。こちらとしても、まさかこのような約束が生きていたなどとは思わなかったのです。しかし、シグルス様がおっしゃったとおり、この婚約は我々の娘を貴方に預けるというものではなく、ただ両家につながりができたというだけのことで――……両者が納得しなければ、解消すればよいのです」
「……解消、できるのか? 妖精が関わっている契約を一方的に反故にすれば、何が起きるか分からない、と……」
「過去に一度、例があったらしい。その時は当事者同士が自らの意思で婚約の解消を望んだため、妖精たちもそれを認めたとのことだ。つまり妖精の立ち会いによって履行される強制的な婚約ではあるが、一方で当事者の自由意志をある程度尊重する余地も残されている」
それを聞いて、わずかに息をつく。同時に納得もした。だから、親たちはこんなにも落ち着いていられたのだと。
「なるほど。それは朗報だ。――ところで、この子はまだ……言葉を話すどころか、自分で首も持ち上げられない様子だが?」
「それは当然だ。お前も生まれたばかりの時はそうだったし、ここまで口達者でもなかった」
「今はそういう話をしているんじゃない! こんなにも幼い子どもからどうやって婚約解消の意思確認を取るのかと聞いたんだ!」
「だから、どうにもならん。諦めなさい」
「っの……」
唇を噛みしめる。
婚約解消はできる。だが、今はできない。
なぜなら婚約の相手は、生まれて間もない赤子。食事も排泄もすべて人の手を借り、眠り、泣くことしかできない状態なのだから、意思を示すどころか言葉すら発せない。だから少なくとも、十数年。彼女が成長し、自分で歩き、言葉を覚え、自我に芽生えて判断を下せる年齢に育つまで――婚約解消は事実上、不可能。解消前提の形ばかりのものであったとしても、その頃までは存続する。なんという理不尽。
「せいぜいお前が三十歳くらいの頃だろう? その頃には、彼女も物事をわきまえる立派な少女になっている。互いに望まなければ、その時に婚約は解消して構わん」
「三十歳……?」
シグルスは頭を抱えるように額を押さえた。
「僕に、あと十年近くも赤子の婚約者でいろと? その間、僕は――」
「結婚もしないだろう? そもそもお前はこれまで誰かと交際したことがあったか? そういうこともなければ、好いている相手もいないのだし、現状誰かに交際や婚約を申し込む気もないだろう。であれば、特に困ることはあるまい」
再び絶句。
なぜそんな決めつけを。随分勝手な物言いだ。父親だからといって、ここまで言われる筋合いがあってたまるか。僕にも好いている女性の一人くらい――と、咄嗟に反論できればよかったのだが、あまりにも図星を指されていたので言葉が出なかった。その反応を見て、父が小さく鼻で笑うのが見える。
「困ることしかないでしょう……。他人に許嫁がいると知られたらどう思われるか考えたことはありますか……? その相手が、十九歳も年下の子どもだと知れたら――」
父はくつくつと笑った。
「いや、誰も真に受けはせんよ。そんな話を外に吹聴する者もいない。安心なさい。……あの子が成長するまで、ただ少し待てばいいだけのことだ。お前の人生はまだまだ長い。焦る必要はない」
「……分かりました。この子が大きくなったら、必ず婚約を破棄するように言います。それまでは、どうしようもないんだろう」
理不尽極まりない婚約の現実を前に、深く息を吐く。
眠る赤子を見下ろすと、その両親も「ですよね」と言わんばかりに何度も頷いていた。
この場にいる誰もが、当然そうなるだろうと思っている。そんな空気だった。
――応接間での顔合わせが済んだ少し後。
まだ乳飲み子である許嫁は揺り籠に戻され、薄布に包まれて寝かされていた。両親たちは紅茶を片手に、別室で淡々と話し合いを続けている。シグルスは部屋の隅に立ち、居心地の悪さを覚えながらその小さな揺り籠を横目に見ていた。
「……僕が、この子の婚約者」
呟いて、額に手を当てる。相手はまだ、乳を飲んで、泣くか眠るかしかできない赤子だ。自分とはすでに十余年もの隔たりがあり、到底釣り合うと言えるものではない。荒唐無稽にも程があると思うが、両家の大人たちは妙にあっさりと順応しているからなお始末に追えない。
その時、揺り籠の中で赤子がもぞりと身動ぎをした。
布の隙間から、小さな手が伸ばされる。無意識のうちに、視線が引き寄せられていた。
「……」
気付けば、足が自然と前へ出ていた。
揺り籠を覗き込むと、柔らかな産毛の間から規則正しい寝息が聞こえる。赤子の顔に、自分の影が落ちた。なんとなく、そっと人差し指を伸ばしてみれば――きゅ、と。驚くほど力強く、小さな指が自分の指を握った。
わずかにしぱしぱと目を開いた赤子が、きゃらきゃらと笑う。
息を呑んだ。
その笑い声が妙に懐かしい響きを帯びて胸に迫ったのは、自分の妹が生まれた日の記憶が呼び覚まされたからだろう。産声を聞いたときの母の涙、初めて抱いた時の小さな体温。あのときも、同じように小さな手が自分の指を握った。赤子はただ屈託なく笑い、指を離そうとしない。
シグルスは眉を僅かに顰めた。婚約者と呼ばれることに、納得など到底できそうもない。だが、目の前で笑っている小さな命を、どうして拒めようか――そう思う自分がいた。
この子は何も知らない。ただ生まれてきただけで、奇妙な巡り合わせによって巻き込まれ、自分の前に置かれた。それだけのことだ。この子に、何か罪があるわけではない。
この婚約は最初から、断る余地のない強制的な形で結ばれた。だが、十数年後に解消することが前提の、あくまで形式上のものに過ぎない。それまで人生を縛られるのは自分も、そしてまだ幼いこの子も同じだ。
「……仕方ないな」
小さく息を吐いて、指を握り返した。
婚約者としてどう振る舞うかはさておき、少なくとも、この子に背を向けるようなことはできない。ならばせめて、兄のように接しよう――そう静かに決心する。
赤子は自分を見下ろす青年の胸中など知る由もなく、しばらく嬉しそうに笑ったあと、また眠たげに目を閉じた。小さな手は、指を掴んだままだった。シグルスはその手をそっと布の中に戻し、薄布の皺を直して寝顔を見つめる。
到底受け入れられない婚約だ。だが、あの瞬間、この手を握り返したときから――自分はもうこの子を見捨てることはできないのだと、不思議な確信が胸の奥に刻まれていた。
ある日、父の書斎に呼び出された。要件は不明。ただ「大事な話がある」とだけ告げられていた。こういった形で改まって呼び出されるのは珍しいことだ、と自然に背筋を正して父の正面に座る。
「それで、大事な話とは?」
「お前に許嫁ができた」
「は――?」
耳を疑うように眉を上げ、思わず首を斜めに捻った。聴覚はいい方だ。父から告げられた言葉は実にシンプルで、明瞭に聞こえた。だが、どうにも頭を素通りするような単語が混ざっていた気がして、もう一度聞き返す。
「……許嫁ができた?」
「そうだ」
あまりにも気軽な調子で頷きが返ってくる。
「許嫁だ。婚約者と言いかえれば分かるか」
「待ってください。僕に?」
「うむ。相手は――」
「冗談はやめてください。結婚の意思を問われたこともなければ、見合いの席に出た覚えもない。なのに顔も知らない誰かと、ですか? 勝手に?」
ほとんど息を継ぐ暇もなく、そう捲し立てた。
後々にシグルスという家を背負う立場として責任は理解していたが、流石にこの頃はまだ結婚の“け”の字すら現実味を帯びていなかった。魔術師の直系名家に生まれた長子である以上、一生独身というわけにもいかず、いずれ誰かと婚姻を結ぶ日が来ることも覚悟している。家同士の取り決めで結婚が決まることなど、うちのような高位の魔術師家系ではそう珍しくないと知っていた。
それでも――これまで父からそんな話を持ち出されたことは一度もない。父のみならず母も、どちらかといえばともに大らかな、悪くいえば少々楽観的な性格の持ち主である。少なくとも「家のためになる」という理由だけで、事前の相談もなく子の人生を左右する選択を勝手に決めてしまうような冷徹な人間ではなかった。
――それが開口一番、「お前に許嫁が出来た」とは何だ。
長年積み上げてきた親子の信頼を裏切られたように感じ、気分を害しながらも、対面する父を鋭く見据えて問いただした。
「勝手に、というよりはな……うん」
想定内の反応だと言わんばかりに、父は全く動じず、指先を組み替えて椅子の背にゆっくりともたれる。
「この婚約の発端は、先祖の約束だ。お前に話したことはないかもしれん。少なくとも四代は遡る昔の話だからな」
「そんな馬鹿な。まさか、そんなものがまだ有効だと?」
「そうだ。……というわけで、それを確かめに行く。今から顔合わせだ」
「今から!? 待ってください、僕は了承もしていないぞ!」
思わず立ち上がる。父は厳めしい顔つきのまま眉ひとつ動かさず、重々しく頷きを返して椅子から腰を上げた。
「車はすでに呼んである。少し遠いが、夜までには戻れるだろう。詳しい経緯については車の中で話そう」
そうして車と列車を乗り継ぎ、半ば強引に父に連れて来られたのは、長閑な田園風景が広がる村の一角に建つ一軒家だった。
「少し遠い」と言われていたが、確実に“少し”ではなかった。――騙された。乗り込んだ列車の車窓を流れる景色を眺めながら、何度その言葉を脳裏で繰り返したことか。
おそらく父は、あらかじめ遠いことを匂わせてしまえば、突如として降って湧いたこの馬鹿げた婚約話に不信感を抱いた息子が家を出ようとしないだろうと踏んでいたのだ。
駅の売店で買ったサンドイッチを頬張りながら、「お前も食べるか」と林檎を差し出してくる父の姿が、あまりにも憎らしかった。やり口が汚い。……だが、こういった小賢しい策略を好むのは本来、母の方である。つまり、今回の件は父の独断ではない。両親の間で話がついている。逃げ場はない――そう悟って、シグルスは腹を括り、黙って許嫁との「顔合わせ」とやらに同行することを決めた。
――話を戻そう。
通された応接間には、若い夫妻が待っていた。どちらも二十代後半から三十代半ばほどの年回りで、来客を見るなり恐縮したように立ち上がる。
「お待ちしておりました」
深々と頭を下げる二人の様子に、一見して“善良そうだ”という印象を抱いた。少なくとも、権力に執着して家のために娘の人生を軽々と差し出すような人間には見えない。勧められるまま父と並んで腰を下ろし、紅茶を受け取る。挨拶もそこそこに、父は今回の訪問の本題へと入った。
「――セラフィーナ嬢はどちらに?」
「少々お待ちください。すぐに連れてまいります」
そう言って部屋を出ていった女性は、数分と経たずに戻ってきた。
顔も知らない婚約者がついに現れる――そう思って、身を乗り出す。だが、戸口に見えたのは、先ほどの女性ただ一人。首を傾げた瞬間、その腕に抱かれていたものを見て、息を呑んだ。
脳裏によみがえるのは、ここに辿り着くまでの道すがら、父が語った此度の婚約に関する経緯だ。
『先刻、先祖の約束による婚約だと話したが、厳密にはもっと重く古い“契約”と言う方が近い。シグルス家と相手方の家が、子や孫の代で両家に男児と女児が同時期に生まれた際は、婚姻によって縁を結ぶ――そう取り決めていた。これまでは偶然重ならなかったが、今回、相手方の家に百余年ぶりに女児が生まれたのだ。すでに四代以上は昔のことで、ほとんど忘れられていた契約だが、確かに残っていたらしい。……相手方の家は魔術師の家系ではないが、代々妖精に好かれやすい体質を受け継ぎ、彼らと縁のある者が生まれる珍しい家でな。最も厄介なのは、この契約が過去、妖精の立ち会いをもって約定されている、という点だ。……お前も知ってのとおり、妖精とは埒外の存在。彼らは人間の理屈ではなく、彼ら自身の価値観によって動いている。ゆえに契約を一方的に反故にすれば、どんな報復があるか分からん。その危険性は、お前も魔術師の端くれなら理解できるだろう』
頭の奥で父の声が遠のき、口の中が渇く。顔も知らない許嫁――その母親の腕の中に眠る小さな存在を凝視し、かすれた声がこぼれた。
「……赤ん坊、じゃないか」
「そうだ」
「そうだ、じゃない! これが僕の許嫁だと?」
目を剥き、思わず声を荒げた。
道中の説明の時から少し違和感を覚えていた。もっと早くに気付くべきだったのだ。
真新しいレースの帽子を被せられ、真っ白な毛布に包まれた汚れなき存在は、母親の腕の中で小さく息をし、うとうとと静かに眠っている。
どこからどう見ても正真正銘の赤ん坊だった。“百余年ぶりに女児が生まれた”――と、父はそう言っていた。つまり、その「女児」とは、新生児のことを指していたのだ。子どもどころではない。赤子。
「……あなた方、これが冗談で済むと思っているのか。いや、冗談だ。たちの悪い冗談だと言ってくれ」
「現実を見ろ、フレデリック。今日は顔合わせだと言ったろう」
「……両家に男児と女児が同時期に生まれたなら婚姻を――という昔話は聞いた。だが、僕はすでに成人しているのに対し、この子は生まれたばかりだ。これの、どこが“同時期”なんだ?」
「まあ、十九年ばかりは誤差ということなんだろう。妖精の基準ではな」
「そんな馬鹿な話があってたまるか!」
怒声に驚いた赤ん坊がびくりと身を動かした。ちゃんと見えているかも怪しいつぶらな瞳がきょろきょろと周囲に向けられ、目を瞬かせる。それが「ふえ」と小さな声を上げた瞬間、泣き出されてはたまらないと慌てて自分の口を押さえた。そのまま父を睨むが、相手は涼しい顔でティーカップを傾けている。
どう考えてもおかしい。正気の沙汰ではない。だが、この場で明確に意を唱えているのは自分だけだ。当事者の意思など、はなから重要ではないのである。これは見合いではなく“顔合わせ”。婚約は両家の間ですでに決まっているのだ。父が終始いつも通りの調子を保っているせいで、まるで自分が理不尽に駄々をこねて喚いているかのような錯覚さえ覚える。
「いやあ、こういう反応になるのはわかっていましたが……」と赤子の父が頬を掻き、苦笑する。
「本当に……困ったことになりましたわね」と赤子の母も頬に手を当て、首を少し傾げながら微笑んだ。
「ああ。我々もまさかこんなことになるとは思っていなくてな」と父が肩をすくめて、軽い頷きを返した。
部屋に居合わせる三人の親たちは、どこか他人事のように穏やかな口調で、いずれも似たような反応を見せる。
「とはいえ、こうして長く忘れられていた約束によって、数世代を経て両家の縁が繋がったのは不思議な巡り合わせというものだな」
「まったくです。本当に奇妙な巡り合わせもあるものですね」
「……何を暢気なことを。僕は納得していないぞ。重ねて言うが、こんな婚約はあまりにも馬鹿げている。十九歳も年下の、まだ歯も生えていない赤子を許嫁にだなんて!」
父は軽く頷き静かに言った。
「そうだな。お前の気持ちは理解できる。私も最初に話を聞いたときは同じ反応をしたよ。……しかし、遥か昔の話とはいえ、約束は約束。妖精が立ち会っている以上、軽んじることもできん。――が、要するにこの婚約は、両家に縁が出来た程度の意味に過ぎないのも、また事実だ」
「……? どういう意味です。僕はもう成人だ。将来の婚姻は人生に関わる重大事だというのに、当人の意思を問われることもなく赤子を押し付けられて――」
すると、今度は相手方の父が口を開いた。
「……押し付けられて、とは穏やかではありませんね。こちらとしても、まさかこのような約束が生きていたなどとは思わなかったのです。しかし、シグルス様がおっしゃったとおり、この婚約は我々の娘を貴方に預けるというものではなく、ただ両家につながりができたというだけのことで――……両者が納得しなければ、解消すればよいのです」
「……解消、できるのか? 妖精が関わっている契約を一方的に反故にすれば、何が起きるか分からない、と……」
「過去に一度、例があったらしい。その時は当事者同士が自らの意思で婚約の解消を望んだため、妖精たちもそれを認めたとのことだ。つまり妖精の立ち会いによって履行される強制的な婚約ではあるが、一方で当事者の自由意志をある程度尊重する余地も残されている」
それを聞いて、わずかに息をつく。同時に納得もした。だから、親たちはこんなにも落ち着いていられたのだと。
「なるほど。それは朗報だ。――ところで、この子はまだ……言葉を話すどころか、自分で首も持ち上げられない様子だが?」
「それは当然だ。お前も生まれたばかりの時はそうだったし、ここまで口達者でもなかった」
「今はそういう話をしているんじゃない! こんなにも幼い子どもからどうやって婚約解消の意思確認を取るのかと聞いたんだ!」
「だから、どうにもならん。諦めなさい」
「っの……」
唇を噛みしめる。
婚約解消はできる。だが、今はできない。
なぜなら婚約の相手は、生まれて間もない赤子。食事も排泄もすべて人の手を借り、眠り、泣くことしかできない状態なのだから、意思を示すどころか言葉すら発せない。だから少なくとも、十数年。彼女が成長し、自分で歩き、言葉を覚え、自我に芽生えて判断を下せる年齢に育つまで――婚約解消は事実上、不可能。解消前提の形ばかりのものであったとしても、その頃までは存続する。なんという理不尽。
「せいぜいお前が三十歳くらいの頃だろう? その頃には、彼女も物事をわきまえる立派な少女になっている。互いに望まなければ、その時に婚約は解消して構わん」
「三十歳……?」
シグルスは頭を抱えるように額を押さえた。
「僕に、あと十年近くも赤子の婚約者でいろと? その間、僕は――」
「結婚もしないだろう? そもそもお前はこれまで誰かと交際したことがあったか? そういうこともなければ、好いている相手もいないのだし、現状誰かに交際や婚約を申し込む気もないだろう。であれば、特に困ることはあるまい」
再び絶句。
なぜそんな決めつけを。随分勝手な物言いだ。父親だからといって、ここまで言われる筋合いがあってたまるか。僕にも好いている女性の一人くらい――と、咄嗟に反論できればよかったのだが、あまりにも図星を指されていたので言葉が出なかった。その反応を見て、父が小さく鼻で笑うのが見える。
「困ることしかないでしょう……。他人に許嫁がいると知られたらどう思われるか考えたことはありますか……? その相手が、十九歳も年下の子どもだと知れたら――」
父はくつくつと笑った。
「いや、誰も真に受けはせんよ。そんな話を外に吹聴する者もいない。安心なさい。……あの子が成長するまで、ただ少し待てばいいだけのことだ。お前の人生はまだまだ長い。焦る必要はない」
「……分かりました。この子が大きくなったら、必ず婚約を破棄するように言います。それまでは、どうしようもないんだろう」
理不尽極まりない婚約の現実を前に、深く息を吐く。
眠る赤子を見下ろすと、その両親も「ですよね」と言わんばかりに何度も頷いていた。
この場にいる誰もが、当然そうなるだろうと思っている。そんな空気だった。
――応接間での顔合わせが済んだ少し後。
まだ乳飲み子である許嫁は揺り籠に戻され、薄布に包まれて寝かされていた。両親たちは紅茶を片手に、別室で淡々と話し合いを続けている。シグルスは部屋の隅に立ち、居心地の悪さを覚えながらその小さな揺り籠を横目に見ていた。
「……僕が、この子の婚約者」
呟いて、額に手を当てる。相手はまだ、乳を飲んで、泣くか眠るかしかできない赤子だ。自分とはすでに十余年もの隔たりがあり、到底釣り合うと言えるものではない。荒唐無稽にも程があると思うが、両家の大人たちは妙にあっさりと順応しているからなお始末に追えない。
その時、揺り籠の中で赤子がもぞりと身動ぎをした。
布の隙間から、小さな手が伸ばされる。無意識のうちに、視線が引き寄せられていた。
「……」
気付けば、足が自然と前へ出ていた。
揺り籠を覗き込むと、柔らかな産毛の間から規則正しい寝息が聞こえる。赤子の顔に、自分の影が落ちた。なんとなく、そっと人差し指を伸ばしてみれば――きゅ、と。驚くほど力強く、小さな指が自分の指を握った。
わずかにしぱしぱと目を開いた赤子が、きゃらきゃらと笑う。
息を呑んだ。
その笑い声が妙に懐かしい響きを帯びて胸に迫ったのは、自分の妹が生まれた日の記憶が呼び覚まされたからだろう。産声を聞いたときの母の涙、初めて抱いた時の小さな体温。あのときも、同じように小さな手が自分の指を握った。赤子はただ屈託なく笑い、指を離そうとしない。
シグルスは眉を僅かに顰めた。婚約者と呼ばれることに、納得など到底できそうもない。だが、目の前で笑っている小さな命を、どうして拒めようか――そう思う自分がいた。
この子は何も知らない。ただ生まれてきただけで、奇妙な巡り合わせによって巻き込まれ、自分の前に置かれた。それだけのことだ。この子に、何か罪があるわけではない。
この婚約は最初から、断る余地のない強制的な形で結ばれた。だが、十数年後に解消することが前提の、あくまで形式上のものに過ぎない。それまで人生を縛られるのは自分も、そしてまだ幼いこの子も同じだ。
「……仕方ないな」
小さく息を吐いて、指を握り返した。
婚約者としてどう振る舞うかはさておき、少なくとも、この子に背を向けるようなことはできない。ならばせめて、兄のように接しよう――そう静かに決心する。
赤子は自分を見下ろす青年の胸中など知る由もなく、しばらく嬉しそうに笑ったあと、また眠たげに目を閉じた。小さな手は、指を掴んだままだった。シグルスはその手をそっと布の中に戻し、薄布の皺を直して寝顔を見つめる。
到底受け入れられない婚約だ。だが、あの瞬間、この手を握り返したときから――自分はもうこの子を見捨てることはできないのだと、不思議な確信が胸の奥に刻まれていた。
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