一巡の彼方

 冬の章
 
 母が亡くなったのは、去年の今頃だった。
 ある雪の日。向こうでは、晴れだと聞いたけれど。
 転落してしまえば関係ない。
 登山家だった母は、山登りの最中に遭難して亡くなったという。
 その訃報を義理の父から聞かされた私は、冗談じゃないと思った。
 
 小屋は電気が通ってなくて薄暗く、おまけに埃臭くて暖炉の付け方も全然わかんないけど、冬の厳しさが吹き付ける中で、屹立するように静まり返っていた。
 窓が汚れるほどの吹雪から目を背ける。
 これはもう、今日明日は外に出られそうにない。
 まんまと閉じ込められてしまった。
 私の他に誰もいない小屋の隅で縮こまりながら、そうやって自嘲してみるけれど、やっぱり虚しいだけ。
 寒々しさが余計積もるばかりで退屈する。
 そして、殺風景な部屋の寒さに堪え兼ねた私は、控えめにくしゃみを漏らした。
 
 義理の父とは、一緒に暮らすようになり一年足らずの浅い関係性だ。
 だから、唯一の共通項を失った私たちの歯車は、当然のように回転を止めた。
 母が亡くなったと信じられなくて。
 淀んでいて。
 義理の父に未だに心を開けなくて。
 家の壁が段々と迫り、狭く、身動きが取れなくなっていった。
 食事は別々。会話は一日に一言あるかないか。顔なんて一度も合わせない。それでも、耳が痛いくらい押し黙った家中には、お互いのぎこちない息遣いが残響し合い、沈殿物として漂い続けていた。
 
 一年ほど崖っぷちのまま見過ごしてきた生活は、堰を切ったように私の中でぎちぎちと音を立てて破綻した。
 
『厭なら出ていけばいい。』
 
 そんな声が、ふと蘇った。
 血の繋がった父親の声だった。
 私と母を捨てていった男の声だった。
 義理の父にもそんな事を言われ出すのが恐くて。
 ああ、だから。
 私にはもう、家を放り投げる他に選択肢なんてなかったんだ。
 
 夜の暗闇には、白い点々だけが忙しなく蠢いている。
 まるで羽虫の大群みたい。
 その大群が寒冷を伴い、小屋を着々と覆い侵していく。
 体の震えが、止まらなかった。
 そういえば、前にもこんな事があった。
 それは幼い頃。小学校二年への進級を控えた春。
 父のいる家が本当に厭になり、家から逃げ出した日。
 小さくて非力な足では、遠くまでなんてとても無理だったから。
 顔見知りである近所のおばあさんの家の敷地に忍び込んで、背の高い雑草だらけだった裏庭の物置小屋に閉じ籠った。
 その時は寒くはなかったけれど、肩だけは今みたいに、震えてて。
 どれくらいの時を、その頃の私は塞ぎ込んでいたんだろう。
 呼吸が浅くなり始めて、意識も朦朧としかけたとき、私、このまま死んじゃうんだと思った。

 真っ暗闇に、光が差した。
 目を開けてと、誰かが叫んだ。
 お願いだからと、誰かが縋った。
 瞼を開けると、母が息を切らした様子で迎えに来てくれていた。

 その時の母の崩れた顔と温かさと息が詰まるくらいの抱き締めは、逆光の中でもくっきりと記憶に残っていて、当時の感覚が湿った服の下で疼いていた。
 
 花咲きめく温かな笑みを浮かべた母は、もういない。
 いなくなってしまった。
 外にも中にも私独りだ。
 重く這いずる隙間風が身体の芯を凍えさせる。
 潰れてしまうくらい膝を抱き寄せて、より一層、私は体躯を丸める。
 身体中が、張り裂ける寸前の木組みのように悲鳴を上げていた。
 
 小屋は相変わらず静まり返っていた。
 吹雪の激しさも、この場では暗幕に映し出された染みでしかなく。
 何もかもが無音だった。まるでこれから世界が終わりを迎えるかのように。
 私にとっては、全くの大袈裟ではなかったけれど。
 その目蕩む直前だった静けさは、何者かの侵入によって唐突に破られた。
 
 ガタン、ドタドタ。壁越しに物音が響いた。
 私が顔を上げる間も無く。
 次の瞬間には扉が力一杯に開け放たれ、鎌鼬が鳴いた。
 
 骨が軋む寒夜。
 吹雪が隈なく小屋を荒らしながら、一斉に私に吹きつける。
 でも、どれもこれもほんの一瞬の出来事で。
 誰かが慌ただしく私のそばに駆け寄って来ることも、例外ではなくて。
 頭が追いつかなかった。
「どう、して……?」
 喉を突き上げるように溢れた言葉は、自分でももどかしいほどにか細く、侵入者にそう問いかけていた。
 その人はひどく息を切らしていた。
 呼吸もままならないほどに。
 返事もすぐに出来ないくらい、必死さも惜しまず。
 闇に没して表情もろくに見えないのに、なぜか、私はあの時の母の顔を重ねていた。
「あぁ、よかった」
 それから相手は力なくそう呟くと、倒れ込むようにして膝を折った。
「生きてた。よかった。よかった──」
 ぽろぽろと、譫言のように、震えた安堵の声。
「…………」
 私は、口を噤んだ。
 強ばった体から次第に力が緩んでいき、そこで、私の意識は途切れた。
 
 火の粉が小さな噴火のように踊り、薪が弾ける音で目を覚ますと、木造の天井がほんのりと焼けていた。
 使い古された毛布がかかっている。
 隣には、大人の安らかな気配。
 握られた右手が、ざらざらと乾いた熱を保っていた。
 
「怒ってる?」
「もちろん。心配したのだから」
「……どうして?」
「君は、俺の娘だからね。血の繋がりはなくても、あの人の残していった、大切な娘なんだ。だから、よかった……ほんとうに。君を見つけられて、よかった」
「…………」
「夜が明け、吹雪が止んだら、家に帰ろう」
「────……一緒に、いてくれるの?」
 火影に揺らぐ暗がりの中でも。
 この人は、しっかりと力強く頷き返してくれた。
「……ごめんなさい」
 いいんだ、とその人は、父はあの時の母と被るように笑みを滲ませた。
 
 それから、私たちは昔話をした。
 二人の出会いの場所や、父が母のことを好きになった瞬間とか。
 一年間の溝を浮き橋で渡るように。
 
 ようやく、冬に至った。
 種々が眠りつく季節。
 今宵もまた、次の一巡に備えよう。
 冬籠る声は舞い降りる新雪の下に花を咲かせる。
 
 私も父と一緒に暖炉の傍で、たった夜明けを待ち望んだ。

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