一巡の彼方
秋の章
うっすらと、木々を覆い隠すように霧が漂う。
雨が続いていた。
しとしとと地肌を濡らす曇り空。
葉っぱを伝って露が滴る。
ぽたぽた。指を叩き鳴らすように。
秋霖のなだらかな演奏よりも、大粒の露のほうが草花を踊らせるみたい。
秋の奥まった森は一段と肌寒く、歩きにくかった。
雨のおかげで水嵩を増した川は氾濫し、その川沿いは一面水浸し。
泥濘に足を取られて真っ直ぐ立つこともままならず。
ひとときも腰を落ち着かせることさえ許されなかった。
常緑樹が多いのは助かるといえば助かったけど。
その助力も量に対して気持ち程度。
初めの方は、という注釈は欠かせない。
いくら梢の葉が雨宿りの天井代わりになるとはいえ、当然ながら隙間だらけのそれに過信は禁物で、長く晒されれば服や髪がびしょ濡れだった。
どこか、しばらくの間、雨宿りできる場所があるといいんだけど。
そんな怯む思いを抱えながら、私は川沿いを下った。
歩く次第に霧が濃くなり、雨足は弱まっていった。
霧雨よりかは若干重いくらい。
そして、白い闇に目を慣らす内に、気がついたら、枝葉の束縛から解放されていた。
対岸の少女の助言通り。
川を下った先には、ちゃんと海があった。
そう、海には違いなかった。
霧を目一杯に溜め込んだ湖畔。
雨に濡れた鮮やかな紅葉が霧の端々に覗いていた。
秋が深まる。
種々が実を結ぶ季節。
収穫の喜びを分かち合おう。
雨降るや不貞腐れる大地にその息吹は霞むだろう。
私は遣る瀬無く、湖畔の際を徘徊した。
川が一度途切れたからといって。
霧で見渡せないほど広い湖と合流したからといって。
あの少女ともう一度会えると、一目まみえると期待なんかしていなかった。
きちんと最後まで付き添って、姿を見る事は結局叶わなかったけれど、見送れたはずなのだから。
そこにやり残しはない。
けれど。
欲を言うのなら、もっと話がしたかった。
彼女の声に、もう一度でも触れていたかった。
そうやって今更になって彼女の手を掴みたがるのは、いくつもの時が離れてしまったから。
もう会えない。
その事をよく、心の底では理解していて、今も消化を待ち侘びているからだと思う。
湖畔の小さな砂浜に出ると、小舟が止まっていた。
船首に人影が息を殺すように佇んでいる。
たぶん、背丈や雰囲気から男の人だった。
船尾から三歩ほど離れた所に立つと。
「乗るかい?」と、低く響く声で男の人が訊ねてきた。
「場所による」と、私は抑え気味の無愛想な声で答える。
「向こう岸だ。あんた分の運賃ならとっくに貰ってるが、どうする?」
「私、払ってないと思うんだけど……」
「なら、その腕に抱えてるブツはなんだい?」
男の人は私を一瞥もせずに言った。
私は、え、と息を零しながら自分の胸元を見下ろした。
いつの間にか、私の腕には花束が収まっていて。
それは、母が好きだと言っていた色と花言葉で。
アングレカム。星型の白い花だった。
「乗りな。流すのは向こう岸に着いてからだ。いいか、ここで手放すなよ」
こっちは乗るなんて一言も言ってないのに。
男の人はすっかり一仕事の気になっていて。
でも、後を振り返っても他に道はないからと。
私は花束をぎゅっと抱き抱えたまま。
そっと小舟に乗り込んだ。
船頭の彼は、凪いだ霧の間を波も淑やかに、ゆっくりと舟を漕ぎ出した。
小舟が水面を掻き分ける。
霧の空にはふわりふわりと裸の燈が、小舟の進行方向とは真逆に流れていく。
霞んでいるのは無数の火玉か、それとも誰かの目。
私はただ焦がれるように、その果てしない光景を見送った。
うっすらと、木々を覆い隠すように霧が漂う。
雨が続いていた。
しとしとと地肌を濡らす曇り空。
葉っぱを伝って露が滴る。
ぽたぽた。指を叩き鳴らすように。
秋霖のなだらかな演奏よりも、大粒の露のほうが草花を踊らせるみたい。
秋の奥まった森は一段と肌寒く、歩きにくかった。
雨のおかげで水嵩を増した川は氾濫し、その川沿いは一面水浸し。
泥濘に足を取られて真っ直ぐ立つこともままならず。
ひとときも腰を落ち着かせることさえ許されなかった。
常緑樹が多いのは助かるといえば助かったけど。
その助力も量に対して気持ち程度。
初めの方は、という注釈は欠かせない。
いくら梢の葉が雨宿りの天井代わりになるとはいえ、当然ながら隙間だらけのそれに過信は禁物で、長く晒されれば服や髪がびしょ濡れだった。
どこか、しばらくの間、雨宿りできる場所があるといいんだけど。
そんな怯む思いを抱えながら、私は川沿いを下った。
歩く次第に霧が濃くなり、雨足は弱まっていった。
霧雨よりかは若干重いくらい。
そして、白い闇に目を慣らす内に、気がついたら、枝葉の束縛から解放されていた。
対岸の少女の助言通り。
川を下った先には、ちゃんと海があった。
そう、海には違いなかった。
霧を目一杯に溜め込んだ湖畔。
雨に濡れた鮮やかな紅葉が霧の端々に覗いていた。
秋が深まる。
種々が実を結ぶ季節。
収穫の喜びを分かち合おう。
雨降るや不貞腐れる大地にその息吹は霞むだろう。
私は遣る瀬無く、湖畔の際を徘徊した。
川が一度途切れたからといって。
霧で見渡せないほど広い湖と合流したからといって。
あの少女ともう一度会えると、一目まみえると期待なんかしていなかった。
きちんと最後まで付き添って、姿を見る事は結局叶わなかったけれど、見送れたはずなのだから。
そこにやり残しはない。
けれど。
欲を言うのなら、もっと話がしたかった。
彼女の声に、もう一度でも触れていたかった。
そうやって今更になって彼女の手を掴みたがるのは、いくつもの時が離れてしまったから。
もう会えない。
その事をよく、心の底では理解していて、今も消化を待ち侘びているからだと思う。
湖畔の小さな砂浜に出ると、小舟が止まっていた。
船首に人影が息を殺すように佇んでいる。
たぶん、背丈や雰囲気から男の人だった。
船尾から三歩ほど離れた所に立つと。
「乗るかい?」と、低く響く声で男の人が訊ねてきた。
「場所による」と、私は抑え気味の無愛想な声で答える。
「向こう岸だ。あんた分の運賃ならとっくに貰ってるが、どうする?」
「私、払ってないと思うんだけど……」
「なら、その腕に抱えてるブツはなんだい?」
男の人は私を一瞥もせずに言った。
私は、え、と息を零しながら自分の胸元を見下ろした。
いつの間にか、私の腕には花束が収まっていて。
それは、母が好きだと言っていた色と花言葉で。
アングレカム。星型の白い花だった。
「乗りな。流すのは向こう岸に着いてからだ。いいか、ここで手放すなよ」
こっちは乗るなんて一言も言ってないのに。
男の人はすっかり一仕事の気になっていて。
でも、後を振り返っても他に道はないからと。
私は花束をぎゅっと抱き抱えたまま。
そっと小舟に乗り込んだ。
船頭の彼は、凪いだ霧の間を波も淑やかに、ゆっくりと舟を漕ぎ出した。
小舟が水面を掻き分ける。
霧の空にはふわりふわりと裸の燈が、小舟の進行方向とは真逆に流れていく。
霞んでいるのは無数の火玉か、それとも誰かの目。
私はただ焦がれるように、その果てしない光景を見送った。
