一巡の彼方

 夏の章
 
 体が怠い。
 感覚が剥離しかけている。
 それは眠気が誘因した浮遊感。
 退廃的な安らかさに私は身を委ねた。
 ただいま思考停止につき。
 息を吹き返すまでには、時間がかかりそうだった。
 
 葉を揺らす蝉時雨に晒され、私を取り囲む世界は、とっくに夏の最中らしい。
 スカートがふわりと靡いた。長い木陰の放浪の間、涼やかな湿り気を帯びた通り風が吹き抜ける。巻き取られた土の匂いには昆虫たちの濃縮された生気が溶け込み、飽和していた。
 木漏れ日がちらちらと瞬いている。
 そろそろ起きなさいと、私を諭すかのように。
 揺籠の天蓋に吊るされた、賑やかな玩具。
 オルゴールメリーを彷彿とさせた。
 それだと二度寝しちゃうんじゃないかと思ったけど、案外そうでもなく。
 ちょうど背中の違和感が隆起し出した頃でもあったので、ずっと寝転んでばかりでは居心地が悪くなり。
 しょうがないからとブレザーの上に散らばる葉っぱを手で払って、吐息混じりに体をほぐす。
 巨大な樹木の膝元。太い根の上で、私は目を覚ました。
 
 夏の到来だった。
 種々が犇めく季節。
 さあ、お祭り騒ぎに興じよう。
 盛大に催す人々の喧騒もここでは異国のひそひそ話。
 
 私は人恋しく、今日も森を彷徨っていた。
 
 水の音が聴こえた。その掴めば消えてしまいそうな幽かな流れは、気の向くままだった私の足を一瞬でも引き留め、そして、ふっと引き寄せた。
 耳を澄まして、ひたすら川のある向こうへ。
 仄かな期待を胸に、迅る足は小枝を踏み鳴らした。
 視界が開ける。
 梢の間から差し込む一筋の光が幾つも並んで、そこはカーテンになっていた。
 まるで、二人の出会いを拒み、遮るように。
 その先に、あどけない笑い声がある。
 私を呼ぶ声。私を引き留めた声。
 ───私の手を取った、懐かしい日差し。
 姿は見えない。
 影も形も、その正体は光の壁に隔てられている。
 それでも、私は意を決して、岩を叩く川の流れにも負けないよう声を掛けた。
「君も、迷子なの?」
 ふるふると相手が首を左右に振ったように思えた。
「……そう、なんだ。君には、帰れる場所があるんだ」
「あなたにもあるでしょ? 帰るべきお家」
 向こう岸から、そんな優しく振った鈴のような声が返ってきた。
「ううん。前まではあったんだけど、捨てちゃった」
 微笑みながらそう誤魔化してみたけれど。
 たぶん、相手には伝わっちゃってるかも。
 だって、抑えようにも声が、震えてしまっていたから。
 捨てた、なんて醜い強がりだ。捨てられたくないと行き場もなく思ってしまったから、こっちから願い下げるように逃げ出しただけ。
 根っからの嘘まみれ。
「ねぇ、道を教えてくれない? この森を出たいんだ」
「そう。森を出たいのなら、この川を下っていけば、そのうち海に出れるわ」
 ああ、と私は下を向いて嘆息した。
 盲点だった。
「ごめんね。本当は道案内できたらよかったんだけど、わたし、足を挫いちゃってるから。ここから動けないの」
「え。なら、君も家に帰れないんじゃ?」
「大丈夫よ。きっと、すぐ治るから」
「…………」
 気丈に微笑みかけてきたと思われる声は、聞けば弱々しい響き。
 放っておくなんて、私にはできそうになかった。
「一度、そっちに渡るね」
 
「───来ないで!」
 
 はっきりとした拒絶に、私は否応なしに足を押し留められた。
 靴のつま先が川面に浸る。
 胸が締め付けられたように、苦しかった。
「あなたは、川を渡らなくていいの。危ないから」
 対岸の少女は、今度は柔らかな声音で、私を突き放した。
 私よりも弱っているはずの少女の愁う表情は、私が生んだ幻覚に違いなくて。
「……もう、遅いのに」
 そんな呟きが、唇から零れ落ちた。
 結局、どうすることもできず。その場に座り込み、残照が溶けてなくなる黄昏時まで、私は彼女に声を掛け続けた。それこそ他愛ない、誰かとの思い出を確かめるように。光に遮られ、影に飲まれた彼女の笑みに、ずっと。
 
 月光が川面に反照し揺れる静寂。
 疲れ切った私は、石粒だらけの川のほとりに寝転んでいた。
 頬に跡が付くことも厭わず向こう岸を見つめ、つぅと瞼を擽る涙もそのまま、眠りについた。
 
 
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