Chapter Ⅳ
☆
それは、連日連夜しんしんと大粒の雪が降り頻り、深雪に川面や小枝が軋んでいた、ある朝のことでした。
もはや日課を通り越して機械になりつつ、少女が寝る間も惜しんで小魚たちを観察していた時、いつもと異なる音が微かな違和感を携えて聞こえてきました。
思わず身を震わせて、小魚たちを大層驚かせてしまったのも仕方のない事と言えましょう。
音とは別に感じ取った気配は、今までに少女が見知った自然や獣とは比較にならないくらい、異質なモノだったのですから。
少女は意識を小魚から落盤の先へ向けて、一音も聞き逃さないよう耳を澄ましました。
それはどうも、雪原を駆ける獣の軽快な足音とは違うようです。
一歩ずつ着実に、足を取られないために新しい雪を踏み慣らすような、重くのしかかる音でした。
その音が確かにこちらへと近づいてくるものですから、少女の心臓の跳ねようといったら、強風にくるりと揺らぎ縮む焚き火もかくやという乱れぶりでした。
どうしよう、どうしよう、と。
瞳は奥へ逃げ込むようにまんまるくなり、右往左往と行ったり来たり。
声を出すべきか、もう少し様子を探るべきか、腰を捻ったり岩肌に手をつけたりの大忙し。
あまりの水面下の荒れように小魚たちも慌て戸惑い、蜘蛛の子を散らすように氷の下へ逃げ込んでしまいました。
落盤の隙間を覗き込みましたが、未だ姿は見えてきません。
次は声を出せるか、喉の調子を確かめてみました。
喉に指の先端を添わせて、ゆっくりと籾をほぐすように発声します。
長年使っていなかった機能ではありましたが、問題なくはきはきと淀みない声音を通すことができました。
懸念は冬空の塞ぎようとは裏腹に清々しく晴れ、急拵えではありますが、これで準備は完了です。現状よりどうする事もできない以上、さあ来ませいと少女は腹を括ります。
時間が、まるで細く細く糸を紡ぐようでした。
少女はすでに、音の主の正体を悟っていました。
ヒトです。
たったひとりの人間が、危険極まりない季節にて、こんな山奥を彷徨い歩いているのです。
何故、とは思いません。
そのような疑問、彼女の現状を鑑みてみれば、とても些細な棘に過ぎませんから。
然れども、相手の善悪の区別までは付くはずもないので、心細さばかりは拭い切れません。足音から解る事など、精々が身体のおおまかな調子くらいのものでしょう。機嫌なども頑張れば窺い知れるかもしれませんが、実際に見て会って言葉を交わしてみない事には、その者の本性など水の一滴ほども汲めません。
ですから、少女に為し得ることは、心して待つことだけでした。
二足の足音が、隣家の距離ほどまでに近づきました。
今度こそ孔を覗き込むと、色白い相貌が窺えます。
漆を塗った藁の笠を被り、枯れ枝を編んだような刺々しい熊の毛皮を羽織り、綿衣を厚く身に纏ったひょろりと背の高い男の姿。
背中に何某かを背負っているようで、少々屈み気味でした。
少女はその身形にあまり見に覚えがなく、少々首を傾げたりもしましたが、すぐにそれも些細な事だと切り捨ててしまいます。
不気味で神秘的な気配を漂わせている謎めいた男ではありましたが、表情や所作を見る分には、嫌悪や忌避感を覚えるほどの何かを内に孕んでいる様子はありません。
少女は意を決して、助けの呼び声を上げようと口を開きかけたところ。
「──ふしぎなるいのちかをり此処まで来れど、よもやむろがふさがると思はざりけり」
知らない、言葉でした。
少女の知識から大きくかけ離れた発音ではありませんでしたが、聞き慣れないそれに思わず動揺してしまい、束の間、声を失ってしまいました。
その間にも、少女がよく知りもしない言葉を用いて、男は淡々と話を進めます。
「落つる磐に汝はゆきはばかれ、いかに出ず其処にゐる」
覗き穴越しに、男と目が合いました。
まったく迷いのない動作で、男は真っ直ぐ少女のいる場所を見据えたのです。
それには少女へ問うような響きが含まれておりましたが、やはり、男の言う事はうまく聞き取れません。ただ真冬の大気を従えるような荘厳で透き通った響きと一途に逸れない碧空色の虹彩が、彼女の胸へと新たな薪を継ぎ足すように鼓動を齎しました。
それゆえ、胸に盛る炎をどうにか抑えつけるのに精一杯で、少女には声を出す余裕もありませんでした。
「有るべき限り、其処を離れ伏せ」
然れど言葉の意味に理解は及ばずとも、声がまったく聞こえていない訳でもありませんでしたから、少女は戸惑いつつも声の色合いからなんとなく意図を汲み取り、踝で水面を掻き分けながら慌てて後退ります。
薄い氷幕を踏み破って転びそうになっても構まず下がり、しかしある所でピタリと止まりました。
小魚のゆらめきが踵をくすぐったのです。
そして、少女は見ました。
白雪降り頻る落盤の先で、焔焔と燃え盛る緋い光を。
流浪の狼よりも気高き、大きな大きな獣の唸り声を、その耳で聴きました。
それからの出来事は一瞬で、雷鳴が轟き光の棘が大地を突き刺すくらい一瞬で、気が遠くなるほどに少女を閉じ込めていた閉塞の象徴たる落盤が本当に呆気なく、灰になり消し飛んでしまったのです。
須臾にしてとてつもない風圧が少女を襲いましたが、不思議にも灰や塵は飛んで来ず、代わりに今も降り続く雪だけが仄かな光の中でふんわりと舞っていました。
それから、そこには新たに雪の侵入を阻む影の姿も。
出来上がったばかりの風穴に佇んでいたのは、一匹と形容としていいのか迷うほどに圧倒的な存在感を放つ、黄金の陽炎を纏った強大な獅子でした。
重厚で屈強な音の威圧が遠慮なく這入り込んできます。
立派な立髪を通風に揺らしながら、獅子が少女の目と鼻の先ほどまで歩み寄ってきます。
少女は急激な状況の変わりようにもはやついていけず、呆然と獅子の厳つい貌を眺めました。
敵意はないようですが、気がつくと、男の姿が何処にも見当たりません。
周囲に感じられる気配は、眼前の膨大な生命の熱ばかりです。
そのとき、厭な想像が脳裏を掠めました。
もし先までの男の姿が少女の願望から生じた幻なのだとしたら、全てに説明が付きます。
それも夢なのですから、そこに小難しい理屈はいりません。
突然このような辺境に都合良く人が現れた事も、そして人の手ではどうしようもなかった落盤が一瞬にして灰に果てた事も。
だとしたら確固悠然たるこの獅子も、少女の見る夢に過ぎないのでしょうか。
いいえ。
それは夢幻の類では決してなく。
すると獅子の姿形が雪解けのように透明となり、その中からなんと、虚空を渡り歩いてきたかのように男が姿を現しました。
───うつつの奇蹟でした。
何百年と待ち望んだ温もりが、図らずも目の前にあります。
手の届く先にあります。
少女は積年の淋しさにとうとう堪え切れなくなり、疑いもせず溢れんばかりの勢いで男に抱き着きました。
少女の精神はとっくに疲弊して、崩落寸前の薄氷同然だったのでしょう。
それはもう、己が一糸纏わぬ姿であることも見落としたままに。
胸の中で、少女がいつまでも泣き噦る。
男はそのあまりにか弱い身を受け止めながら、かけがえのない意を得たように呟いた。
「───いや。此の世は冬の盛り。まじろぐ亡き骸もとこにしみこほる時分でありながら、あはれ、其方はかはうすに暖けし」
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