Chapter Ⅳ


「…………」

 今は、そうでもない。

 少女は赦すように金網から手を離す。
 目と鼻の先に立ちはだかる新築らしきマンションからも目を逸らして、角を曲がった先を見据えた。

「あの時は、ほかに道もありませんでした。だから──」

 大丈夫、と少女は自分に言い聞かせる。
 ちゃんと自分の脚で前へ踏み出せる、と。
 この場にいない相手へ向けて、強がってみせる。

 懲りもせず虚空を見上げながら、少女はホシを探す。
 自分よりも長生きな集合に、少しでも元気づけて貰おうと目を凝らした。

「……見えなくなったのではなく、なくなっちゃったんでしょうか」

 そのつぶやきは夜の熱に篭り、微かな木霊さえなく吸収されるように消えていった。

 寄せていた思いは最初から無駄で、自分の感知し得ない何億年も遥か昔に──、なんて意志のないモノにまでそうやって負の感情を募らせてしまう。

「………」

 零れ落ちた溜め息は、何もかもを振り切って逆らうように、黒一色の夜空へ昇っていく。

 少女には、死が欠けていた。

 表裏の裏が欠けた彼女にとって、表はあるだけで苦しい枷となってしまった。
 枷とはすなわち、解く鍵あっての不自由であり、朧げに透けた不自由ではこの世に在るのも虚しくなるのみ。

 ───彼女は、安らかな“還元”を欲しているのだ。

 それは、渇望や悲願とでも蔑まれて仕方がないほどに。

 絶対不滅の少女は病んでいた──。

「でも、せめて今だけは……」

 無理に気を取り直して、さっきまでのペースを寸分違う事なく取り戻しながら歩み続ける。
 悲しくない辛くないと無人の街並みに見栄を張って、微笑みを取り繕い続ける。

 地獄にふさわしい現状の維持。
 不死身ゆえの副作用だろうか。
 続けることは他の何よりも得意だった。
 あるいは、それだけが彼女の取り柄とも言えた。

 遠目に数多くの光点が行き交っているのが見える。
 昼も夜も関係ない国道大通りには、未だ何台かの車が意気揚々と排気に急いでいた。
 途絶える間隔は夜が更けてなおも短い。
 信号機も残業忙しく点灯していて、ちょうど手際良く青に切り替わった。

 T字路のようで、どの車も直進はしなかった。

 大規模な集合住宅を通り過ぎると、閉塞感がなくなる代わりに随分と殺風景になる。
 この辺りは区画整理地で、マンションもその事業の一環だった。
 広い土地の一部には建設予定地を示す白の仮囲い銅板も窺えて、端から端の方まで乱れず並んでいる。
 しかし他の保留地は未だ多く売れ残っているようで、ごつごつとした剥き出しの地面が長方形に広がっていた。

 少女は、ここに一体どういった物が建ち並ぶようになるのか、楽しみでもありまた同時に憂鬱でもあった。

 区画が完全に整理し終わるまでおそらくは十数年。
 下手するとそれ以上はかかる。
 つまるところ、完成した姿を見届けるという事は、その間自分は死ねなかったという証にもなり得るのだ。

 次世代の門出が、負の積み重ねに映ってしまう──。

「いけない」と少女は目蓋を閉じて呟いた。

 部屋を出た当初は楽観を気取る事ができていたというのに、今ではすっかり、絶望と悲観を胸に抱えて死に場所を探してしまっている。
 これでは夜な夜な無差別に怨嗟を問う亡霊だ。

 ──私はそんな醜き怪物になりたくなくて、あなたに死を願ったというのに……。

 かりかりと隅から闇が迫り寄る。

「──────っ」

 身体の節々から、赤黒い劫火の棘が生えてくるようだ。

 硬直した軀から、ふっと力を抜いた。
 息を吐く。息を吐く。深く、息を吐く。
 荒涼な夜道に独り少女は立ち尽くす。
 今一度虚ろな夜空を見上げて顧みる。

 一体、いつからだろう。
 一日一時間一分──一秒が、途方途轍もない尺度であると苦痛に感じるようになったのは。

 そして。

「──“彼”の傍に居ることが、何時かしら、とても憎らしくて………」

 取り繕おうとしたが、無意味だった。
 まるで出血していくよう。
 負の膨張は堰を切ったように止まらない。

 狂おしいほどに愛おしく思うけれど、だからこそ、“彼”が憎らしくてしょうがなかった。

 純真なまでの正気と理性を保つ存在。

 “彼”はどこまでも純粋にあり続けて、対して少女は、終わりの見えない日々に心を擦り減らしていく。

 そう。
 だから、あの部屋を飛び出した。
 死に至る為の研究に日夜勤しんでくれる“彼”の姿を見ていられなくなって部屋を飛び出し、あてもないままに、自らを放棄しようとした。

 夜の散歩だ夜更かしだと楽観な動機で気分を盛り上げて、忘れ去るように浮かれようとしたが、結局はこの憂鬱に直面してしまった。

「私は、もしかしたら……」

 ───家に帰りたくないのかもしれません。

 いいえ、と少女は自嘲する。
 事新しく口にしてみて、つい笑ってしまった。

「かもしれないだなんて。我ながら白々しいですね」

 そうやって可能性を測るまでもなく、事実に違いないのだから笑い種だ。
 家に帰りたくないのは、もはや拭いきれない本心。
 けれど、“彼”への愛が尽きていないのもまた真実。

 単純に、さっさと死にたくなっただけ。

 これ以上の人生は受け入れられないと、待ちきれなくなって、自らの手で幕を閉じたくなっただけなのだ。
 そんな想いがついに溢れ返って、考えなしに無自覚に、知らず知らず、こんな無機質に滝めく凍えた街灯しかないような土地までやってきてしまった。

 なら、後はもう決まっている。

 自覚まで漕ぎ着けたのなら、早速行動に移さなければ。
 でないと、畏まるだけの岩になってしまう。

「きちんと、死に場所を探しましょう。今の私が求める物なんて、それくらいしかありませんから」

 ああ、でも……と少女は不快そうに出鼻を挫く。
 
「───どうしてこんなにも、息が詰まるんでしょう……」
 
       ☆
 
 ───また、深い眠りの底に落ちてしまっていたようです。

 どれほどの時を、少女はそうしていたでしょうか。
 一日二日、あるいは一週間、ひょっとしたら一ヶ月も。

 いいえ、それこそ人の一生を振り切ってしまうくらいずっと程遠い時を、少女は自覚もなく塞ぎ込んでいたのです。

 だからでしょう。

 空洞は絶え間ない水脈の滲出によりそのほとんどが埋め尽くされ、少女の細い足首までがすっぽりと沈んでしまうくらいの水溜まりが、忽然と出来上がっていました。

 落盤からの隙間風に雪の気が激しく混ざり、季節はとんと冬に移り変わっており、他にも周辺の様相に多少の変遷が見て取れます。

 少女を逃すまいと取り囲むように、水面には白く薄らと氷が張られていました。

 しかし、何も一辺倒にそのような悲観だけがにじり寄っていたわけでもありません。
 少女を軸に据えた末広がりの水面は、まるで春のほとりに守られているようでもあります。
 そして事実、少女の周りの水温は、冬でありながら暖かに“保持”されているのでした。
 その事を裏付けるように、少女の足元には、冬眠もせずに数匹の小魚がゆらゆらと漂っています。

 小魚のとても小さな口が触れるちょっとしたくすぐったさに、少女は久方振りに笑みを溢しました。
 またこれほどに命を身近に感じる瞬間は今までの彼女にはとんとなかったので、もう大袈裟なくらい、大粒の涙も溢れさせたのです。

 溢れてやまない雫が、頬を伝って脚の上を流れていき、水面に触れると拡散して溶け合います。
 小魚たちは、その温かさに釣られてピクリピクリと尾を機敏に振って付かず離れずの移動を繰り返し、時に零れ落ちる波紋の一つ一つがリズミカルに打ち鳴らし広がっては、まるで踊っているかのようでした。

 寒冬の隙間風が吹き荒ぶ空洞の泉は、たった僅かな少女の心境の変化で、暖かく和やかな聖域へと雰囲気を一変させたのです。

 少女は夢中になって、小さな命の群れを見つめました。

 小魚に慣れはあれど懐く事はありませんので、一方的に少女が彼らの生活をじっと観察するだけではありましたが、それでも心の平穏を保つには十分の癒しと言えて。
 彼女と小魚たちの意図なき交流は、数日に亘って続きました。
 
 ───そう。
 その空洞で過ごす日々は、二度目の寝覚めから思いの外はやく、終わりを迎えたのです。
 
       ☆
 
「──────ぁ…」

 ぽつりと、頬に粒が当たる。

 雨が、降ってきた。

 何もなかったはずの空を見上げると、暗雲がもくもくと蠢いている。
 虫の鳴き声の次は、雨の降る音らしい。

 あっという間に雨脚は激しくなり、痛いほどの重みで少女の身体をぶっていく。

 驟雨のようだ。
 じきに止むだろう。

 雨に打たれながら、死んだように静まり返ったビル街を徘徊する。

 所詮はよろずの通り道。
 高い所から飛び降りたところで死ぬ事はできないので、この見栄と過敏の密集区に目的などなかった。
 ゆえに、この場に限り、家出少女の徘徊というのは相応しい表現と言えた。

 うつろに双眸を彷徨わせる。
 街灯が雨のヴェールに霞む。

 何も見えない。
 何もない。

 窒息には全然足りない雨粒が、生意気にも視界を深海並みに埋め尽くす。
 洪水のような雨の音に外耳道も埋もれて、もはや無音のせかいに等しい。
 多くの雨水を吸って、衣服が柔肌に沈み込み、身動きが取り辛くなる。

 夜目も利かず、耳も埋もれて、肌も雨水に蓋されて。

「意地の悪い雨。死ねない私への、当てつけでしょうか」

 屍骸の身に感覚はない。
 より正確に言うのなら、感覚する事象を思う心が亡い者を死人と呼ぶ。

 誇大な被害妄想だが、少女はこう受け取ったのだ。

『此処で心さえ捨てれば、お前は死人になれる』

 けれども、少女は首を縦に振らなかった。
 少なくとも、この世で一番嫌いな物に囲まれていながら死にたいと思えるほどの自暴自棄には、まだ至っていなかった。

 噎せ返るようなペトリコールが、他の全てを差し置いて嫌いだったのだ。

 鬱陶しく中途半端な暴力は、およそ五分間ほど降り続け、何事もなかったかのように終わりを告げた。

 すると急速に視界が開け、辺りが一際眩しく輝いた。

 点々と散らばる水溜り。
 街灯に照らされる黒い路。

 真夜中に照りを出すアスファルトはどことなく、酸化して薄茶けた記憶に残る、星の瞬きと似ていた。

 空を塞いだ後に、偽りの星空を見せる──。

「……これも当てつけ、なんでしょうか」

 ふと、もう一度だけ、今度はちょっとした思いつきに空を仰いだ。

 瞳に滞留した残像が、星一つない夜空を彩った。

 朧げで不鮮明で不細工なそれは、しかし──。

「隣にいない誰かを今更想うのは、やっぱり、反則になりますよね」
 
 未練たらしいその呟きを、夜空も巻き込ながら振り払う。

 暗雲が掃け、ビルに挟まれた路という事も相まって、住宅街で見上げた時よりも一段と空が遠く離れてしまったように思えたのは、きっと錯覚に違いない。
 然るにそれを寂しいだなんて、烏滸がましい。

 それではまるで、後悔しているみたいだ。

 少女はふらふらとおぼつかない足取りで、深夜の都会を進んだ。
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