Chapter Ⅳ

 
       ☆
 
 ある昔。
 誰も近寄らなくなった洞窟の冷たい最奥にて。
 永い微睡みの中にいた少女が、ピクリと身体を揺らしました。

 まだ、夢の中にいるみたい。

 起きて間もない少女の脳は怠く溶けているようで、産まれから今に至るまでの記憶は霞みがかっており、思考するための言語さえ覚束つかない状態でした。
 まして、自分が目を開けたという感覚さえ希薄。
 開けているのか、それともまだ閉じているのか、浮遊しているかのように不安定な感覚にありました。

 少女は、まだまだ気付けの足りていない頭を気持ち傾げます。

 そこは、闇という架空の“液体”で満たされた空間のようでした。

 辺りは尋常ではないくらいとても黒く、一寸先の自分の手も満足に把握する事も叶わず、視覚を除く残りの五感も麻痺して包まれてしまうほどに、その闇は絶対的な存在として少女を閉じ込めていました。

 けれど、少女に恐怖はありませんでした。すべてを溶かしてしまいかねないこの闇でも、決して自分を葬ることはできないと、本能的に理解していたのです。

 ……ただ。

 独りで在る寂しさばかりは、恐怖しない程度の心ではどうしようもありませんでした。
 ですから、このままじっと佇んではいられない、と奮起するまでにそう時間が掛からなかったのも、必然だったと言えましょう。

 少女もまた例に漏れず、群れを要するヒトだったのです。

 冷たいばかりの闇は嫌で嫌でしょうがなくて、誰でもいいからと縋るように、自分と同じ温もりを持つ誰かを次第に求め始めました。

 ただし、そんないじらしい決意や欲求とは裏腹に、身体はうまく動かせませんでした。
 全身の筋肉は健康そのものではありましたが、当然ながら、深い闇の中では何も見えないのです。

 完全な闇というものは、身体を奪うようでした。

 手も足も出ません。
 立つ事もままなりません。

 どこから手を付けたものか、どこへ足を伸ばすべきか、少女は戸惑ってばかりでした。

 そんな時です。

 ぽちゃん、とふらふら彷徨わせていた少女の足先──もしくは踵だったかもしれません──が、凍えてしまうくらい冷たく柔なものに触れました。
 すると少女は驚きのあまり芯の底から身を震わせ、その拍子に“台”の上から滑り落ちてしまいました。

 起きてから絶えずあった感触だったので少女は気にも留めていませんでしたが、少女の眠っていた場所は周囲を漂う冷気や湿気などが合わさり、苔が生えていてもおかしくないほどに濡れていたのです。

 ぼしゃん、と今度は濁ったような反響音を立てながら、闇よりも冷たい何かが少女を飲み込み、押し包んでしまいます。

 息ができません。
 痛い、と彼女は身を捩って叫び出しそうになりました。

 身体中に鋭い針が刺さっていくようなのです。

 混乱の最中、少女は無我夢中で手足を振るい踠きましたが、重い負荷に空を切るだけで、その何かは形を変えて避けるように指の間やらをすり抜けてしまいます。
 そしてそれらは少女の全身を包むだけに飽き足らず、体のあらゆる穴へ、我先にさあ一斉にと言わんばかりの勢いで入り込んでくるのです。

 それは地下水でした。

 空洞の中は少女のいた高さギリギリの届かないあたりまで、雨水や遠くから流れてきた湧き水によって浸水していたのです。
 しかし幸いまだ底の浅い池止まりだったので、一分もしない内に少女の背中と岩肌がぶつかりました。
 衝撃はそこまでありません。
 ただ、予想外のそれに目を見開かせ息を詰まらせたのは確かでしょう。

 その瞬間にふと、忘れていたモノを咄嗟に思い出したかの如く勢いで、彼女は水面から飛び出し、そして起き上がりました。

 波紋が大きく広がり、水面に淡い光を揺らします。

 そこでようやく、少女は気がつきました。
 確かに意識は起きつつあったのでしょうが、自分は今の今まで寝惚けていたのだと。
 現に彼女はここに至って久しぶりに、パチリと目を開けたのですから。

 自分が何者なのかを少しずつ思い出しながら、繋がりの途絶えた“祭壇”の上に戻りつつ、改めて少女は周囲を見回しました。

 幽かな水流の音色がどこからともなく奏でられ、ささやかな木霊を遊ばせています。

 そこは、完全な闇で閉じられてはいませんでした。

 淡い光源が、まるで銀河を写し取ったかのように壁や天井に生っています。
 おおまかに緑であったり紫であったり、青色を系統とした鉱石のようでした。
 中には純白に輝くモノまで突然変異のように混じっています。
 そして、それらは地下水の底にも群生しており──。

 少女は知らず、そのあまりの美しさに溜息を吐きました。

 少女のいる位置からちょうど正面には巨大な倒木を思わせる暗闇が奥の方へと伸びており、その暗闇を挟み込むように、冷色の星々が夜空の闇を交えて敷かれていました。

 宇宙を仕舞い込んだ地底湖。
 地球ほしの胎内に現された天象儀。

 広大無辺な天の川を髣髴とさせる水面は、ある種の包容力さえ少女に感じさせました。
 そこまで一泳ぎしてまた沈んでしまいたくなるほどに、優しげな光を浮かばせているのです。

 然れどその煌びやかで幻想的な光景はまた、もどかしい物足りなささえ少女に覚えさせました。

 巡り合わせの奇跡に生じた景色。
 自ずと生まれて、自然の流れに潰えていく光。

 ──此処にいてはいけない。きっと満たされない。

 いくら流るる永久に身を任せ待てど待てども、天涯孤独と不老不死の巡り合わせに見舞われたこの美しき少女には、そのような緩やかで穏やかな死滅は約束されていないのですから。

 そうして、少女はただただ無情に美しいだけの空洞から逃げ出すことにしました。

 世界を知る為に。
 偶発の不条理によって自分は生かされているのか、その天命を見極めたいが為に。
 総てに諦めの情を押しやり自暴自棄に閉じこもるのは、その後からでもきっと遅くはないでしょう。

 けれども、少女の運命はどこまでも順風満帆にはいきません。

 洞窟の出入り口側まで這い出たはいいものの、暗闇はいまだ少女の視界で踏ん反り返り、ああ──どうしてと心中に嘆きながら、少女は力尽きるように剥き出しの岩肌へ膝をつきました。
 己が体力に際限などないというのに、それでも虚脱感は役目を失う事なく内側から食い破ってくるものなのだと、少女はそう悟らざるを得ませんでした。

 外界へ抜け出る事を、許されなかったのです。

 長い年月は土壌を腐らせ、岩盤を溶かし、地下の闇へと誘う入り口を無情にも塞いでしまっていました。

 それはもう、少女が眠りより覚める悠遠から。

 十年二十年──さらにそれより以前、例え五十年前に目を覚ましたとて、この硬く閉ざす絶望は今と同じく少女の前に現れたでしょう。

 少女は縋る思いで、ぎゅうぎゅうに詰められた落盤を見上げます。

 子供が障子に悪戯で穿ったような極小の隙間から、より隔絶を確かなものとする外の光が、とても心細く差し込んでいました。
 灰色に濁り気味のそれから、今の天気は曇りなのだと窺えます。

 その小さな身体ではびくともしない苔むした落盤に少女は身を寄り添わせて、でこぼことした通風口を覗き込み、瞳の中に仄かな陽光を取り込みました。
 しばらく視界が真っ白に染まり、やがて、黒っぽい緑葉と白い空に灰色の小雨という、ビードロほどの大きさの絵が浮かび上がりました。

 すぐ目の前には、手の届かない景色。

 ───後数歩の距離を、彼女は進むことができませんでした。
 

 さめざめとした小雨。
 それは一向に止む気配もなく、此処ではない何処かに──望む望まないに関わらず腕を広げ手を伸ばして、多くのモノに恵みを齎し続けています。

 洞窟に塞がれた、この哀れでか細い少女を除いて。

 ほんの気持ちほどでも外を感じていようと落盤に背を預けて、地下牢に閉じ込められた咎人そのものの有様で膝に顔をうずめて、声を上げず音も出さず、雨脚だけが少女の心情を吐露するように段々と速く強くなれば、空洞内はひたすら静かに、夜と地下の闇に没したのでした。
 
       ☆
 
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