Chapter Ⅳ

 
 然したる理由もなく休んでいた日課を、久しぶりに再開させることにした。

 少女は夜の街へ散歩に出掛ける。

 長らく胸いっぱいに吸い込んでいなかった夜の閑散とした空気は、昆虫っぽい土の匂いを微かに漂わせて湿っていた。

 ──そうか。季節はもう夏なんですね。

 少女は小鳥でも探すような素振りで、上映後のスクリーンめいた夜空を見上げた。
 当然、その先には物らしい物など何も見当たらない。
 時代は進み過ぎた。
 星々の波は届く以前に掻き消されてしまう。
 この昏き地歴青の大地は、瞬く小さな光輝を必要としない。

 ただ周囲を取り巻く寂然としているようで騒然とした空気感ばかりが、夏の夜を全身に染み渡らせた。

 そんな寂しさを紛らわせるように、少女は瞳を閉じてしばらく音に浸った。

 急勾配の坂を小気味よく下る。
 小さな虫たちが夜鳴きしている。

 深夜一時ごろ。
 周囲には夥しい虫の気配ばかりが元気に起きている。
 大多数の人々からすれば、とりあえず一日に区切りをつけなければならない時間帯だが、些細な彼らにとって、一日はまだまだこれからのようだ。

 暗幕のような夜に虫の鳴き声を聴いていると、どうしても意識は自分の内側に向いてしまうもののようで。

 一度だけ、夏の虫に生まれ変わりたいと“彼”に話した時の事を彼女は思い出した。

 あれは、夏もそろそろ覚め始める頃の夜だった。

 祭り騒ぎの様相を呈するようになった二十三夜の月待に一段落の翳りも見え、ぼちぼちと人が掃けたあと特有の寂然とした怠惰感に背中を押されるように、葉緑を生らした桜の樹が立ち並ぶ用水路の土手沿いを二人は並んで歩いていた。
 街灯は現在いまほど烈しくなく、心許ないガス灯が疎に平らな煉瓦の道を照らしていて、それもまた、帰り道の未練めいた雰囲気をぼんやりと沸き立たせた。

 その時もまだ、数えきれないほど多く虫の声が聴こえていた。

 りりりと小振りな鈴の音がそこかしこで流れていて、そこに蛙たちの歌声も混ざり、華々しい炎はなくとも、その合奏はさながら小さな生き物たちの催す祭りのようだった。

 少女はふと立ち止まり、雑草と煉瓦の境界まで歩み寄ると、夜の真っ暗で音だけの窮屈な河原を眺めながら言った。

「もしも生まれ変わる事ができるのなら、意気に翅を奏でるあの夏の虫になってみたいです」

「突然だね」

 少女より一回りほど歳上に見える男が、着物の内に腕を引っ込み余った袖を揺らして、彼女に立ち寄りながら優しげに笑った。

「それはまた、どうして?」

 長い髪を結い上げ簪を挿し、慎ましくも上品に仕立てられた着物を着た少女がしなやかに男へ笑いかけると、河原に視線を戻して詠う。

「ひたぶるに留むがため騒々し夜鈴の河原、私は其れをむね焚く思ひに見ては、やうやうかたくたぢろく」

 そよ風に揺れる木の葉が、少女の声を闇に溶かし込む。
 処暑という事もあり夜風には秋冷が解け始め、そのせいか、詠われた言葉も小暗く冷えていた。

「嫉妬です。最期の姿が見切れた命であるからこそ、ああも音色に全霊を傾ける事ができるんでしょう? 私には、とてもできません」
「果たしてそうか」
「そうですよ」

 しばらくの間、自然の音色がもはや静寂にも等しい密度で夜の闇を埋め尽くし、二人を取り囲む。

 そうしていつか男が痺れを切らし、大袈裟に鼻息を鳴らしては首を戯けるように竦めた。

「最近のキミは、少々悲観が過ぎるな」
「厭味な人です。理由はお判りでしょうに」

 少女がそっと下腹に手を添える。

「ああ、然ればこそ楽観を気取らなければ」

 またも暫しの無言が二人の間を流れる。
 すると今度は少女のほうが痺れを切らし、観念するよう緩やかに首を左右に振った。

「……嫉妬──浅ましい羨望も確かに私の本心であることに変わりはありませんけど、言葉足らずでした。正直に告白してしまうと、私は共感が欲しかったんです」
「共感か」
「はい。形は違えど貴方も永遠に等しい時を生きる境涯、人の身であろうとすることに、一度は飽くこともあったでしょうと思いまして」
「生憎、私にそういう感傷的な時期はなかったかな」
「そう、ですか……。すこし、残念な気持ちです」

「──だが」
「…だが?」

 男がこそばゆさの滲む手持ち無沙汰に堪え兼ね、顎を撫でながら言った。

「大空を渡り歩く鳥へ憧れた事ぐらいは、私にもあったよ」

 この時に覗き見た男の雲に掴み掛かるような眸は、忘却とは無縁である少女の記憶の中でも特に印象的に刻まれていた。
 なにしろ、“彼”が一生の個性に拠らない大元の“人間らしさ”を表に覗かせた瞬間は、彼女の知る限りこの時だけだったのだから。


 湿り気を帯びた熱風が少女の首元を撫でていく。
 木を錐で傷付けるような虫の鳴き声が、絶えず響いている。

「………」

 あれから生まれ変わりたいという思いは日に日に募るばかりであるが、それは少なくとも、“彼”と共にあってこその願いなのだろうと少女は改めて思った。

 夜空には雲がない。
 少女の見立てによると明日も──いや、彼女が過ごした一日は、いつの間にかひっそりと、終わりを告げられてしまっている。
 だからすでに今日の見立て。
 これから数時間が経ち朝になれば、昨日と同じように燦々と、晴れやかな一日が始まるだろう。

「ふふ」

 そんな予想図を暢気に思い馳せながら、少女は陽気に今流行りの鼻歌を口遊む。

 多く見積もれど外見十五歳の少女が閑散とした深夜の住宅街を出歩いているシチュエーションは、客観的に見過ごし難い異状さがあった。
 楽観に洒落込んで悠々と進んでいくのがいけないのだろうか、夜の危険性を微塵も意に解さない無垢さが、少女を中心に太陽光の如く放たれている。

 足取りはとても軽やか。
 重さをまるで感じさせない。

 少々広めの十字路に出た。
 路上に浮かぶ信号機が赤色に点滅している。
 眠りたいのを我慢している子供のようで可愛らしい、と少女は微笑む。
 車の通る気配はなく、ぼうと知らず知らず目線をむけてしまうような寂しさのみが、十字路の中心を陣取っていた。

 少女はこれといった訳もなく、真ん中を通る事に気が引けた。

 そこに物然とした障害があるわけでもないのに、車が来そうだという予感さえもないのに、漠然とした忌避感だけが胸中にある。
 それは道徳や倫理、規範といった観念とはまた形の違う畏れのように思えた。
 だから、律儀にも黒白の縞模様を二度ほど横断し、解放感有り余る十字路を左へと曲がった。

 最低でも、二十分ほどは歩いただろうか。
 いつの間にか薄暗く不気味で静かな住宅街を抜けていて、灯りが過剰なくらいに華やいだ広い歩道を歩いていた。
 道路脇の植樹帯には定番とも言えるツツジと景観の邪魔にならない程度の低木が植えられており、そのため夜空は視界の限りに開けている。

 二車線の道路には、時折一台か二台の車が大きな音を立てて走り去っていく。

 境界線は何処にあっただろうと、少女は来た道を思い返してみたが、あまり周囲に気を向けて散歩していたわけでもなかったので、よく思い出せなかった。
 慌てて背後を振り返り、うちに帰れるかどうか不安になったのも、少女の心の中だけの話である。

 ぴょん、と元の形に戻ろうとするプラスチックのように跳ねながら前を向く。

 あてもない散歩は気にせず続行。
 そのまま楽観に洒落込むことにした。

 いざとなれば迎えに来てくれるでしょう、と少女はくすくすと微笑った。

 このあたりは白を基調としたマンションが並び立つ新開発区域で、そんな無機質さを取り払う為か、街灯の色はぼんやりと暖かい。
 対して純白のそれは滅多に見ないので、コンビニやその駐車場の照明がひときわ目立つ。
 現在はほとんど客が掃けていて虚々しいが、くっきりと白光に照らされている様は、バレエの舞台のようである。
 気の向くままに踊れたらどれほど気持ちいいのだろうかと夢想する少女であったが、退屈そうに欠伸をしているバイト店員や立ち読みに耽るお爺さんの姿を認めて、すぐにそんな考えも取り止めた。

 見られでもしたら恥ずかしい思いをするに決まっている。

 レンタル屋や喫茶店等を併合した大きめの書店、それにだだっ広いスーパーマーケットなんかは、営業時間をとっくに過ぎて、駐車場もろとも闇に沈んでいた。

 すっからかんの真夜中。
 平坦退屈に整備された舗装路。
 夏虫の抜け殻じみた乏しい反響。
 点々と夜更かし真っ只中の家庭の灯り。

 あまり見覚えのない光景の中を歩きながら、不思議と、心躍る豊かな気配は湧いてこなかった。
 いつもの散歩だったら、あれこれと妄想を巡らすモノなのだが、頭の中も夜空と同様真っ暗なまま停滞している。

 新鮮味がちっとも足りない。
 ちょっと期待はずれだった。

 ──どうしてでしょう? と少女は小首を傾げ、あちらこちらと辺りを見回した。

 あまりにも遠回しな行為だ。
 それでは探しているというより、嫌だ嫌だと駄々を捏ねている子供のようだった。
 現実逃避と言い換えてもいい。

 必死に探そうとするまでもなく、その程度の答え、少女は初めから持っているのだから。

 ふと、曲がり角で立ち止まった。

 彼女の目前には黒に偏った茶色の金網。
 子供であれば足を引っ掛けて楽々と登れる程度の障害。
 すぐ先には飾り程度の雑木となだらかな芝生が広がっていて、そこからさらに先には、灯りを所々に散らす城壁じみたマンションが堂々と立ちはだかっている。

 雑多諸々の巨影が、彼女の行く先を塞いでいる。

 なんて硬く冷たい。風化するほどの時を経ようとその全てが失われる事のないような、そういう揺るぎなさを膜に張った人工物たち。
 それは、彼女の小さな手ではどうする事もできない現実と大いに被った。

 知識と技術が足りない。
 そんな身も蓋もない話ではあるが。

 しかし、それは踏み切りの如く現代の誰もが一度は立ち止まらざるを得ない無力感だろう。

 ゆっくりと、大きく無骨な建造物を見上げて、少女は思い至る。

 自分はいま、どうしようもないものに囲まれている。
 そう思い至ってしまえば、もう後戻りはできなかった。

 ──………ああ。

 金網に手を伸ばし、力一杯に掴む。

 ガシャン、という軋み合う現実の音と、ぱしゃんと波打つ記憶の音が重なり合うように入れ替わった。
 
 ───崩落した洞窟だ。
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