Chapter Ⅵ 中編

 
 二人が下山する途中、黒い影が横を通り過ぎる。

 少女に手を引かれながらも詠が慌てて背後を振り返ると、その黒い影はぼんやりと人の形をしており、炭の粉が寄り集まったような見ていて不安になる揺らぎ方をしていた。どうも参道を登っていっているようだ。

「───気にする必要はないよ。単に時間が迫っていることの表れなんだ、あれは」

 時間が迫っている。それはつまり。

「ここから出られるってことですか?」
「そう。でも触れてはだめ。お互いによくないから」
「お互いによくない……?」
「記憶や感情、価値観までもが一度に混線してしまうんだよ。喩えるなら高電圧における感電だね。あれに耐えられる人間がいたとしたら、それこそ人を人として見做さない怪物くらいだ」
「じゃあ、つまりさっきの影は──」
「現実にいる人々の写し。今の私たちにとっては致死性の毒になる」

 冥の姿をした少女は、さも平然と背筋の凍る事を口走る。

 麓へ近づく次第に、詠は自然と彼女の背中に追い縋るように身を寄せていった。そして、この異界に彷徨うキッカケとなった千本鳥居の前まで帰り着いたときには、すっかり彼女の腕に寄り縋っていた。

 それは何も段々と数を増す黒い影に怯えてのことだけではない。
 頭に靄がかかり始め、足が鈍くなっていた所為でもあった。
 呼吸をするだけでも苦しく、まるで肺に錘を付けられたかのようだった。

「もうすぐだから」

 息遣いが耳元に掛かるほどの距離にありながら、その声は旧トンネルの奥から響くこだまめいていた。
 
 千本鳥居を抜けてもなお、空の色彩は依然として現実とはかけ離れている……。
 
 祭りの喧騒が聴こえる。
 それは太鼓の音。赤い提灯の熱。

 乳白色の石畳には仄かな緋色が差し、
 沢山の人影が、表参道を往来している。

 詠はそんな幻想的に彩られた暖かで手触りのない通りを、霞み眼に収めていく。
 せっかくの賑やかな景色の只中にいるのに。
 感覚は一歩ごとに断絶され、末端から熱を失う。

「現実に戻ったら、ここの記憶はきっと失くしてしまうだろう」

 隣を歩む少女が、滔々と知らせを告げるかのように、何事かを囁き出した。

「でも、それはすべての意味が君の中から消失することを指すわけではない。ただ、自発的に思い出すことができなくなるだけだ」

 いまの詠には、その内容を聞き取る余裕すらない。
 耳朶を素通りするノイズと変わりなかった。

「現実でまた会いましょう。
 そして、これからも仲良くしてくれると嬉しいな」

 それでも、大事なことがまだ聞けていないと思い、必死に声を紡いだ。

「……な、まえは。あなたの名前、まだ聞けて、ない」

 淡い橙色の灯火に照らされた少女が、ゆるりと微笑みながら、空いた手の人差し指を唇に添えた。
 
「私に名前はない。忘れることにしたんだ、どこかの御伽噺のように、迎えに来てくれる使者ヒトも泣いてくれるヒトもいないからね」
 
 そこで彼女の意識はとうとう限界を迎え、視界は一筋の光も差さない暗闇に閉ざされていった───。
 
     ◇
 
 詠が意識を覚ますと、そこはホテルの布団の中ではなく、稲荷大社の裏参道だった。

『氷』と達筆かつ豪快な字で書かれた赤色の旗や、『たばこ』と昔ながらの看板に、招き猫やミニチュアサイズの鳥居などを置いた店屋が密着して並んでいる。

 決して少なくない人通りではあるが、今は一段と、それらの微々たる活気が身近に聴こえた。

「…………」

 秋の清涼な風が首元を掬い、仄かに白檀を彷彿とさせる田舎特有の芳ばしい匂いが鼻腔をくすぐる。
 肌に照りつける暖かな日差しが眩しい。
 ここが現実であることを、明瞭に告げていた。

「……なんでだろう、なんだかとても懐かしく感じる」

 木製の小さなベンチの表面を無意識に撫でる。若干の凹凸を感じさせる年季の入った手触りが、日向と相まって心地よかった。

 しばらく夢現から覚め切らずに詠がぼうとしていると、石造りの鳥居がある方角から、舞たちがこちらに駆け寄る姿が見えた。
 その少し離れた背後には、冥も小走りで着いてきている。
 詠はなんとなく、冥があの三人を呼びに行ってくれていたのだろうと思った。

 根拠も何もないのに、それが不思議とおかしかった。

 立ちあがろうとすると、病み上がりのように足元が覚束なかった。力がうまく入らず、ついに膝が崩れ、『ああ、このままだと倒れちゃうな』と詠は他人事のような気持ちで石畳を眺める。

 そして、また誰かに支えてもらうのだ。

「───ちょっと、大丈夫?」

 寸前で舞が詠の肩を掴んで受け止めた。

「……うん、大丈夫。立ちくらみしただけ」

 向こうはあまり納得のいく様子ではなかったが、詠がかつてないほど柔な笑みを晒すものだから、それ以上に面食らったようだった。

「本当に心配したんですよ! 二人とも急にいなくなっちゃうし、誰かに攫われてしまったのかと」

 その隣で、みことが頬を膨らませていた。

 みことたちの話によれば、千本鳥居の前で話し込んでいる詠と冥の姿は遠目に確認できていたらしいのだが、少し目を離した隙に姿が消えてなくなっていたという。
 それから奥社奉拝所までとりあえず進み、しかしそこでも姿を見つけられなかったので早々に来た道を引き返し、また連絡しようにもなぜか繋がらないので、十分以上も敷地内を駆け回っていたとのことだ。

「………」

 しかし、十分以上も消息を絶っていたと言われても、詠にはそんな実感はなかった。
 むしろ、それでは利かないように思えた。
 一時間以上にも及ぶ感覚の欠落が、そこにあるように思えてならなかった。

「なにも覚えてないの?」と、不安げな表情を浮かべる舞にそう問われ、詠はこくりと頷いた。そして冥にも目配せすると、向こうもふるふると首を横に振るだけだった。

「でも、無事見つかってよかったよ。そろそろ先生に連絡しないとまずいよなぁってところで後ろから冥に肩叩かれてさ」

 あの時は思わず悲鳴あげたわ、と飾璃が場を和ますように苦笑を浮かべた。なんでも楼門付近でスマホをいじっているときに、気配もなく後ろに立たれていたらしい。

「声かけても全然気がついてくれなかったから」と、冥がぼそりと言い訳っぽいことを呟いていたが、論点は別にそこにはなかった。しかし、それがまた飾璃の笑いを誘ったようだった。

 
 とりあえず無事に合流は果たせたという事で、それからも二日目の日程は進んだ。
 途中、舞が詠の体調を気にかける場面はあったものの、むしろ今朝方よりも回復しているくらいで、一日を妨げてしまうようなことは何も起きず、夕暮れごろには京都タワーの展望デッキに上り、日が沈んでいく町の景色を写真に収めた。

 そうして、楽しく、慌ただしく、駆け巡るような一日は惜しむ間もなく水平線を越えていった。
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