Chapter Ⅵ 中編
「詠。君に叶えたい願いはある?」
「……なんですか、唐突に」
「本来の目的を忘れたの? もともと私たち、おもかる石に触れにここまで来たんでしょ」
「──ああ、そういえば」
「詠は知ってる? おもかる石の概要」
「はい、それくらいは。形は丸くて、願い事を念じて持ち上げた時、思ったより軽く感じれば願い事が叶い、逆に思ったより重く感じれば、より一層の努力が必要になるとか」
「ここまで来たら、私の言いたいこともわからない?」
「……なら、冥にはあるんですか? その、叶えたい願い」
「おっと、そう来るか。……あはは、参ったな。考えてみれば、私に願いなんてモノはもうなくなってたんだ」
「………?」
◇
おもかる石は、敷地の角っこにあった。『おもかる石』と大きく書かれた立て板。
その下には色褪せたミニチュアのような賽銭箱。
両脇に立つ石造りの灯籠の頂点の窪みに、おもかる石がそれぞれ嵌っていた。
他の人工物とは違い、その二つの丸みを帯びた石は活き活きとした異彩を放っており、触れ難い印象はなかった。むしろ、仄かな燐光を纏うように、人を惹きつけるようでさえある。
内容自体は巷にありふれた占いだ。あるいは、元は験担ぎとしての役割もあったのかもしれない。
吉兆と凶兆の秤として。
軽ければ願いが叶い、重ければその逆の結果を招くだろう──。
冥が石の両脇を両手で支える。詠は隣でその一部始終を眺める。おもかる石は詠が想像していたのよりも思いの外に大きく、片手では持ち上げられそうにないものだ。
しばらく微動だにしないまま、焦れったい無言が続いたかと思うと、冥がそっと笑みをもらした。
「思った通り。やっぱりだめみたい。私では持ち上げることもできないか」
「いや、そういう話ではなかったような……?」
「詠も持ち上げてみて。
もしかしたら、君ならいけるかもしれない」
戸惑いを飲み込めないまま、詠は冥に促されるように、目の前の石を持ち上げようと試みる。
その前にまずは願い事を捻じなければならない。
すぐに叶えたい願いはここからの脱出だったが、それでは気が重くなるのも必然に思い、詠は他に願い事はないかと記憶を巡らせるため、目を閉じた。
真っ暗闇だった。そこにぽつぽつと浮かび上がる淡い光。泡のように小さく爆ぜると、あっという間に過ぎ去っていった些細な日常の出来事が断片的な声や景色となって瞼の闇を彩る。そうして思い起こすなかで、いまだ果たされないまま、宙ぶらりんになっている──彼とのとある約束を見つけた。
約束を交わしたあの公園前の夕暮れどきの蒸し暑さが、いまでも色鮮やかにいる。
「───あれ?」
見た目相応に重くはあった──軽くもなかったことに別でショックを受けつつも──が、持ち上げることができ、詠は困惑を隠せなかった。
しかし、詠が持ち上げた石は、冥が持ち上げようとしたものとは別の石だ。もしかしたら重さが違うのかもしれないと考え、同じ要領でもう片方のおもかる石も試してみる。
「………」
──重くはある…けど、普通に持ち上げられる。
結果は変わらない。
詠の想像に反する形となった。
ここで冥が非力を演じる乙女心を持ち合わせるはずもない。
不可解な事象を目前にし、詠はつい首を傾げた。
「難しく捉える必要はないよ」冥が口を挟む。「この異空間ではそもそも、叶えられる願いを持たない者に、この石は応えてくれないんだろう」
「……それで、納得しちゃうんですか?」
「目の前で起きたことが全てだよ。詠だって一度はあの空を受け入れたでしょう? それと同じこと」
そうやって飄々と似つかわしくない理屈を並べてみせる冥だが、詠には暴論にしか聞こえなかった。
まるで悟ったふりをしているようだ。そのくせ、心の底では本人でさえも鼻で笑っている。
手に届かない景色と届く場所。
そのふたつを同列に扱う時点で無意味な比較だ。
それこそ──。
「なんだか逃げてるみたい。本当に、持ち上げられないの?」
「……まさかここまで食い下がるとは思わなかったな。でも残念なことに本当なんだ。誓って嘘は言ってない。詠が望むなら、もう一度やってみせるけど?」
こくり、と詠が頷き返すと、冥はしょうがないなと言わんばかりに鼻息をつき、掬うような所作で再び石の両脇に手を添えた。
おもかる石は依然として微動だにしなかった。
「ほらね」と、冥が両の掌をぱっと開いてみせる。
相当に力を込めていた証左か、彼女の手に触れると、指先や掌の所々の皮膚が張り、硬い熱を帯びていた。
そして、冥はそのまま詠の手を握り返し、詠が驚きにほうける間もなく、その場を離れ出した。
「これでわかったでしょ? ここでは景色だけじゃなく、物事に適用される規則 さえも階層を異にするって」
自信満々に。
さも自然の摂理を説くかのように。
詠の瞳をまっすぐ覗き込むように見つめ返し、冥が微笑む。
「───すでに君が察する通りだよ。私にとってここは初めてじゃない。けれど、一度迷い込んだことがあるというのも正確ではない。ここはね、魂を持つモノならば誰もが一度は通る、産道のような場所なんだ」
◇
「詠に見せたいモノがある」──と。
冥が詠の手を引っ張り、来た道を引き返すどころか、さらに鳥居の連なる深みへと足を踏み入れていく。
これには彼女に着いていくと言ったさしもの詠も看過できず息を詰めた。
「ちょ、ま──見せたいものってなに、いったいどこまで登る気なんですかっ」
次から次へと謎が舞い込み、思考を整理する暇もない。
彼女たちが進んでいる道は、みことが泣く泣く諦めた稲荷山の登山コースだ。散策したいとは聞いていたが、さすがにその奥まで進もうとは、詠も想像だにしていなかったのだ。
「むしろ詠はいったい何を不安に思ってるのさ?」
「だって時間は……」と、詠が背後を気にする素振りを見せる。
「あはは、真面目だなぁ。でも大丈夫。永遠ってわけにはいかないけどね、詠が思ってるよりは余裕があるんだ。それに別に山頂を目指そうって腹でもない。町が見渡せれば十分。四ツ辻までならそう長くも掛からないよ」
「……長くは掛からないって、具体的にどれくらい?」
「んー、おそらく三十分ほどかな」
十分長いな、と詠は密かに肩を落とした。
その落胆ぶりを見透かされたのか、「ふっふふ」と冥が笑みを堪えている様子が目に入った。
「詠は運動が嫌いなんだ?」
「嫌いってほどではないです」
「かといって好きでもない?」
「……そうです」
「そんな態度だと、将来は順当に太るだろうね」
「うぐっ」
──…人が気にしているところをずけずけと。
たまにデリカシーがない発言が飛び出す辺りは、良くも悪くも普段の冥と遜色がなかった。
横に閑静な池が広がり、夕映えとともに森の景色を反射している。
坂道が続く。
鳥居のトンネルがひたすら階段状に伸びる。
途中の吊り灯籠に灯る火影が、見たことない揺れ方をしている。しかし、あの満天の空に浮かぶ雲のようにいくつもの絵の具を混ぜ、早送りに姿を流しているのではない。この炎は影送りのようだ。輪郭だけが揺らぎ、炎の形はそのままなのだ。
魂を持つモノならば誰もが一度は通る、産道のような場所──。
先ほどの冥の台詞が、ふと脳裏に再生される。
詠には抽象的すぎて、その言葉の意味は掴みきれない。
そもそも魂とは何なのか。
どうして冥にそんなことがわかるのか。
──あなたは、いったい何者なのか。
聞いたところで意味がないと無意識に切り捨てていた問いが、今頃になって思い浮かんだ。
まるで夕立のように。
詠はいきなり雨粒に頬を打たれ、その場に放り出された気分になった。
「……以前から一度、聞いてみたいことがあったんです」
「なに?」
「どうしてあの日、崖から飛び降りたりしたの?」
本当はもっとオブラートに包んだ言い回しをするはずが、そんな疑問が、不意に口を衝いて飛び出していた。
あれは幻影に過ぎない。詠はかつてそのように結論づけたつもりだった。白日が気まぐれに見せた集団幻覚が、巡り巡ってありふれた夏の怪談話として町内に広まり、消費されたもの。すでに過去の遺物だ。
いまさら掘り起こすほどのことでもない。
けれど、確信があった。
目の前の“暁月冥”ならば、萎びて沈殿し原形を留めていなかった疑問に名前を与え、溶かしてくれるのではないか、と。
「………」
これではいつぞやの焼き直しだ。
木々の隙間にこぼれる光を目に浴びる。彼と出会ったその翌日、バスの窓から覗いた黄昏の木漏れ日も確か、こんな色を湛えていた。
……また、誰かに身勝手な期待を寄せているのだ。
詠はすぐそのことに思い至り、自己嫌悪に陥りながら顔を俯かせた。
「いえ、やっぱり今のは忘れて──」
「何を謝ることがあるの? 私も知らない話ではなし。人一人が目の前で亡くなる幻影なんて、それこそホラーの王道。ひとりで抱えきれず当然だ。でもまあ、ひとつそこに間違いを指摘させてもらうと──生憎、私にガードレールから飛び降りた覚えはないな」
「……そう、ですか」
人の心というのはままならないもので、きっぱり本人の口から否定されてしまうと、一度は散々悩んだ自分の立場が崩れ落ちていくようだった。
「肩を落とすにはまだ早いかもしれないよ。私から見るに詠は、飛び降りた事実そのものへの疑いよりも、飛び降りた理由のほうを気にしてるんでしょう?」
それは、彼女の言う通りだった。
あの飛び降り自殺がまぼろしなのは構わない。
しかし、なぜその幻影が暁月冥という少女の姿を取っていたのか。
何の躊躇いもなく、崖下に堕ちていったのか。
詠には、その事のほうが何倍も理不尽に思えていたのだから。
「私なら、その理由を君に教えられる」
「ぇ、でも、飛び降りた覚えがないって……」
「身に覚えはなくても、心当たりはあるの。まあそこには込み入った事情もあるんだけどね」
冥は煮え切らない態度で「あはは」と笑みをもらす。
「………」
人が変わってしまってからというもの、この少女はずっと笑みを絶やさない。
詠はなぜか、その後ろ姿に目を引かれ続けながら、木立の影と夕映えの対照が彩りを添える石段をこつこつと進んでいくと、鳥居が織りなす朱色のトンネルにも切れ目が覗いた。
「四ツ辻までもうすぐだ」と、冥は息を切らす影もない。
背の順に三つ並ぶ鳥居をくぐり、緩やかな石段を登ると、その先にはささやかな光景が広がっていた。
一本の古びた時計塔の針が、六時頃を指してぴたりと止まっている。灯籠や細長い電柱、向かい合う二軒のあずま屋など、昭和頃の小さな町の一角をそのまま山の上まで持ってきたかのようだ。
空は相も変わらず手が届かないまま。
振り返れば、見知らぬ町をも遠く離れてしまった。
「──────」
京都の町のど真ん中に、巨大な蛇の頭があった。
息を喘ぐように大きく口を開けて、極地の洞穴に映え渡る氷柱のように尖った牙が突き出している。丸石じみた目玉は何処を睨むようでもなく、何処にいても目が合う騙し絵のようだ。
……なによりもそれは、ひとつの死骸が山岳を成しているのだった。
とても信じがたかった。
そこにある事実が、ではない。
今までその圧倒的な存在感に気がつきもしなかった、己の愚鈍さに眩暈を起こしたのだ。
規模が違う。常識が異なる。息が詰まる。
生命の法則の埒外に、其れは彼処に残っている。
「───ふふ、圧倒された?」
背後、一段上からの微笑む声に意識を目前まで取り戻し、詠は呼吸を再開させた。
蛇に睨まれた蛙の気持ちが、初めてここに実感できた。本当に足が竦んで、その場に立ち尽くしていることも忘れてしまうのだ。
「───……冥。あなたが、私に見せたいものって」
「そう。まさしくあの死骸の山だ。せっかくの機会だからね。共にここへ迷い込んでしまった仲、私たちの日常の裏には、ああいった忘れ去られたモノが潜んでいることを、君に教えたくなったんだ」
「……それは、私を驚かせたくて?」
「悪戯心は否定できないな。詠を揶揄うのは楽しいもの」
「………」
「でも、それだけじゃない。うじうじと思い悩むのも悪くはないと思うけど、その霧を一度ぜんぶ取っ払ってしまうのも愉快かなって」
まあ老婆心というヤツだね、とあどけなさをいまだ残した美貌にそぐわない台詞を吐く冥。
二人は階段を途中で折れると、ごつごつとした岩肌を超え、公園にあるような青いベンチに腰を下ろした。
ここに至るまで何度も現実ではありえないような事象を目の当たりにしてきたが、心が麻痺してしまったのか、長い石畳の階段を登り続け、ようやく腰を落ち着けても、どっと疲れが押し寄せるようなことはなかった。
不思議な気分だった。
まるで雲の上にいるみたいだった。
目が覚めたら、そこはホテルの布団なのかもしれない。
舞の掛け声で揺り起こされ、ぼんやりとした頭で見る機会の少ない寝起きの同学年たちに囲まれながら朝食を取り、そしてまた、稲荷駅を降りて、みことたちと一緒に千本鳥居の入り口まで足を運ぶ。
そんな厭に現実味を帯びた回想に対し、この現実離れした見晴らしはどう受け取ればいいのだろう。
夢として処理してしまえば、果たして丸く収まるのだろうか。
「詠。君はこの世界を美しいと思うかい?」
「───え?」
「時に矛盾だらけで、悲しみが絶えず紙面を濡らし続ける──理想が空虚の別名に過ぎないこの世界を」
穿ち過ぎにも程がある問いが、耳に飛び込んでくる。
突然のそれに詠がまごついていると、冥は肺一杯の空気を吐き出すようにして、その続きを謳い上げた。
「かつてこの世界を綺麗だと言ってくれた子がいた。私はその誇らしさを一生涯忘れることはないんだ」
二人の目が合うことはない。
詠はすぐ隣の少女の横顔を、冥は遥か彼方に──否、目の前の葉を枯らした繊維のような枝を張り巡らした木立に目を留めている。そして、余りの息を勿体つけて中空にふっと溢した。
「だからね、私が死を選んでしまうようなことがあったとしたら、おそらくそれは、その誇りすら忘れ去ってしまったときなんだよ」
それが、暁月冥の姿をした幻影が命を落とした理由だという。
生きる理由の喪失が、同時に死を選ぶ理由と化した。
「………」
同じだ、と。
詠は目を離せなかった。
真夏の白昼に崖下へ飛び降りていった少女のあの冷ややかな微笑みと。
まるで瓜二つだった。
相貌が似ているといった散々繰り返してきた話ではなく、身に纏う雰囲気があの時とまったく同質だった。
手を繋いだままなのに、霞を掴むかのように心許ない。
二人の間で交わされる熱は、もはや完全に区別もつけられない。
「これで納得できた?」と、冥が覗き込んでくる。
詠は一度答えに窮しながらも、ゆるゆると首を横に振った。
残念そうに頬を緩める表情が視界に否応なく映り込み、彼女らしくないその笑みに、思わず胸を締め付けられた。
「でも、はっきりしたこともあります」
冥が無言で続きを促す。
「けっきょく、何を教えられても、私が誰かの死に納得できる日は来ないんだって。……やっと腑に落ちた。誰かの死に囚われてしまうのが恐くて、いつか私もそうなるかもしれないことに怯えて、そうなってしまう理由をずっと探していたんです」
はじめて言葉にできた恐怖の根源。
理由もなく死に彷徨う人はいない。詠はその彼らが発する強烈な死の香りに誘われ、道を踏み外してしまうことを何よりも恐れたのだ。暗闇を恐れるのもまた必然。未来とは、そういう可能性に満ち溢れている。
繋がれた手に自然と力が籠った。
「あなたはたぶん、本当は冥じゃないんですね」
それに冥の姿をした少女は、わずかに目を見開いた。
そして、すぐさま元の妖艶な微笑みを湛え、挑発的に首を傾げてみせた。
「無口で、無表情で、いつも何を考えて生きているのかわからない。それが君の知る暁月冥ならその通り。まだ暁月冥としての人生は途中なんだ。心の底から、私は暁月冥だと頷くことはできない」
もしかして二重人格なのか、とそこで詠が問えば、厳密には違う、と相手は困ったような笑みを浮かべた。
「普段の私たちはひとつの体に溶け合っている。ここだけだろうね、私という意思がこうもハッキリと顕在化するのは。でも、どうして?」
「私、ずっと心のどこかで思ってたんです。あの子が、あんな風に自殺するはずがないって。根拠は、何もないんですけど」
詠がそう答えると、向こうは言葉を失ったように寂しげな表情を陰に覗かせ、ぽつりと声を絞り出した。
「……それは君が忘れているだけで、信頼するに値する確信だよ」
「……? それはどういう?」
「いや、今更過ぎた話だった。忘れてちょうだい」
強引に話を切り上げられ、釈然としないものの、当初の疑問にはきちんと答えてもらえたので、詠はその横顔から目線を外し、再び活気のない町を一望した。
すると、巨大な蛇の死骸とまたしても目が合い、思わず肩に力が入る。あれには慣れそうもない。
「そういえば、あの大蛇はなんなんです?」
くくっ、とくぐもった笑い声が隣から聞こえだす。
「そういえば、そういえば、か。くっ、くくく、あはっ、あはは。ほんと傑作。町一つを丸呑みできるあの巨体を前になんて呑気な質問。君は意外に豪胆なんだね」
最初は笑みを堪えていたが、程なくして惜しみもしなくなった。
「……さすがに心外です。色々なことがありすぎて、こっちはまだ頭の処理が追いついてないくらいなのに」
「それであの素朴な反応か。うん、詠のそういうところには飽きないと常々思ってたんだ」
「なんか馬鹿にされてるみたいで不愉快かも」
「そう拗ねない拗ねない。別に馬鹿にはしてないよ。むしろ可愛らしいとこだと褒めてるくらいなんだぜ?」
「……ぜ?」
こほん、と饒舌な少女が咳払いをする。
「しかし期待に添えず申し訳ないけど、私もあの蛇のことは詳しく知らないんだ」
謎は謎のまま──。
晴川詠が今後関わることのない形で、その場に取り残されることとなった。
「……なんですか、唐突に」
「本来の目的を忘れたの? もともと私たち、おもかる石に触れにここまで来たんでしょ」
「──ああ、そういえば」
「詠は知ってる? おもかる石の概要」
「はい、それくらいは。形は丸くて、願い事を念じて持ち上げた時、思ったより軽く感じれば願い事が叶い、逆に思ったより重く感じれば、より一層の努力が必要になるとか」
「ここまで来たら、私の言いたいこともわからない?」
「……なら、冥にはあるんですか? その、叶えたい願い」
「おっと、そう来るか。……あはは、参ったな。考えてみれば、私に願いなんてモノはもうなくなってたんだ」
「………?」
◇
おもかる石は、敷地の角っこにあった。『おもかる石』と大きく書かれた立て板。
その下には色褪せたミニチュアのような賽銭箱。
両脇に立つ石造りの灯籠の頂点の窪みに、おもかる石がそれぞれ嵌っていた。
他の人工物とは違い、その二つの丸みを帯びた石は活き活きとした異彩を放っており、触れ難い印象はなかった。むしろ、仄かな燐光を纏うように、人を惹きつけるようでさえある。
内容自体は巷にありふれた占いだ。あるいは、元は験担ぎとしての役割もあったのかもしれない。
吉兆と凶兆の秤として。
軽ければ願いが叶い、重ければその逆の結果を招くだろう──。
冥が石の両脇を両手で支える。詠は隣でその一部始終を眺める。おもかる石は詠が想像していたのよりも思いの外に大きく、片手では持ち上げられそうにないものだ。
しばらく微動だにしないまま、焦れったい無言が続いたかと思うと、冥がそっと笑みをもらした。
「思った通り。やっぱりだめみたい。私では持ち上げることもできないか」
「いや、そういう話ではなかったような……?」
「詠も持ち上げてみて。
もしかしたら、君ならいけるかもしれない」
戸惑いを飲み込めないまま、詠は冥に促されるように、目の前の石を持ち上げようと試みる。
その前にまずは願い事を捻じなければならない。
すぐに叶えたい願いはここからの脱出だったが、それでは気が重くなるのも必然に思い、詠は他に願い事はないかと記憶を巡らせるため、目を閉じた。
真っ暗闇だった。そこにぽつぽつと浮かび上がる淡い光。泡のように小さく爆ぜると、あっという間に過ぎ去っていった些細な日常の出来事が断片的な声や景色となって瞼の闇を彩る。そうして思い起こすなかで、いまだ果たされないまま、宙ぶらりんになっている──彼とのとある約束を見つけた。
約束を交わしたあの公園前の夕暮れどきの蒸し暑さが、いまでも色鮮やかにいる。
「───あれ?」
見た目相応に重くはあった──軽くもなかったことに別でショックを受けつつも──が、持ち上げることができ、詠は困惑を隠せなかった。
しかし、詠が持ち上げた石は、冥が持ち上げようとしたものとは別の石だ。もしかしたら重さが違うのかもしれないと考え、同じ要領でもう片方のおもかる石も試してみる。
「………」
──重くはある…けど、普通に持ち上げられる。
結果は変わらない。
詠の想像に反する形となった。
ここで冥が非力を演じる乙女心を持ち合わせるはずもない。
不可解な事象を目前にし、詠はつい首を傾げた。
「難しく捉える必要はないよ」冥が口を挟む。「この異空間ではそもそも、叶えられる願いを持たない者に、この石は応えてくれないんだろう」
「……それで、納得しちゃうんですか?」
「目の前で起きたことが全てだよ。詠だって一度はあの空を受け入れたでしょう? それと同じこと」
そうやって飄々と似つかわしくない理屈を並べてみせる冥だが、詠には暴論にしか聞こえなかった。
まるで悟ったふりをしているようだ。そのくせ、心の底では本人でさえも鼻で笑っている。
手に届かない景色と届く場所。
そのふたつを同列に扱う時点で無意味な比較だ。
それこそ──。
「なんだか逃げてるみたい。本当に、持ち上げられないの?」
「……まさかここまで食い下がるとは思わなかったな。でも残念なことに本当なんだ。誓って嘘は言ってない。詠が望むなら、もう一度やってみせるけど?」
こくり、と詠が頷き返すと、冥はしょうがないなと言わんばかりに鼻息をつき、掬うような所作で再び石の両脇に手を添えた。
おもかる石は依然として微動だにしなかった。
「ほらね」と、冥が両の掌をぱっと開いてみせる。
相当に力を込めていた証左か、彼女の手に触れると、指先や掌の所々の皮膚が張り、硬い熱を帯びていた。
そして、冥はそのまま詠の手を握り返し、詠が驚きにほうける間もなく、その場を離れ出した。
「これでわかったでしょ? ここでは景色だけじゃなく、物事に適用される
自信満々に。
さも自然の摂理を説くかのように。
詠の瞳をまっすぐ覗き込むように見つめ返し、冥が微笑む。
「───すでに君が察する通りだよ。私にとってここは初めてじゃない。けれど、一度迷い込んだことがあるというのも正確ではない。ここはね、魂を持つモノならば誰もが一度は通る、産道のような場所なんだ」
◇
「詠に見せたいモノがある」──と。
冥が詠の手を引っ張り、来た道を引き返すどころか、さらに鳥居の連なる深みへと足を踏み入れていく。
これには彼女に着いていくと言ったさしもの詠も看過できず息を詰めた。
「ちょ、ま──見せたいものってなに、いったいどこまで登る気なんですかっ」
次から次へと謎が舞い込み、思考を整理する暇もない。
彼女たちが進んでいる道は、みことが泣く泣く諦めた稲荷山の登山コースだ。散策したいとは聞いていたが、さすがにその奥まで進もうとは、詠も想像だにしていなかったのだ。
「むしろ詠はいったい何を不安に思ってるのさ?」
「だって時間は……」と、詠が背後を気にする素振りを見せる。
「あはは、真面目だなぁ。でも大丈夫。永遠ってわけにはいかないけどね、詠が思ってるよりは余裕があるんだ。それに別に山頂を目指そうって腹でもない。町が見渡せれば十分。四ツ辻までならそう長くも掛からないよ」
「……長くは掛からないって、具体的にどれくらい?」
「んー、おそらく三十分ほどかな」
十分長いな、と詠は密かに肩を落とした。
その落胆ぶりを見透かされたのか、「ふっふふ」と冥が笑みを堪えている様子が目に入った。
「詠は運動が嫌いなんだ?」
「嫌いってほどではないです」
「かといって好きでもない?」
「……そうです」
「そんな態度だと、将来は順当に太るだろうね」
「うぐっ」
──…人が気にしているところをずけずけと。
たまにデリカシーがない発言が飛び出す辺りは、良くも悪くも普段の冥と遜色がなかった。
横に閑静な池が広がり、夕映えとともに森の景色を反射している。
坂道が続く。
鳥居のトンネルがひたすら階段状に伸びる。
途中の吊り灯籠に灯る火影が、見たことない揺れ方をしている。しかし、あの満天の空に浮かぶ雲のようにいくつもの絵の具を混ぜ、早送りに姿を流しているのではない。この炎は影送りのようだ。輪郭だけが揺らぎ、炎の形はそのままなのだ。
魂を持つモノならば誰もが一度は通る、産道のような場所──。
先ほどの冥の台詞が、ふと脳裏に再生される。
詠には抽象的すぎて、その言葉の意味は掴みきれない。
そもそも魂とは何なのか。
どうして冥にそんなことがわかるのか。
──あなたは、いったい何者なのか。
聞いたところで意味がないと無意識に切り捨てていた問いが、今頃になって思い浮かんだ。
まるで夕立のように。
詠はいきなり雨粒に頬を打たれ、その場に放り出された気分になった。
「……以前から一度、聞いてみたいことがあったんです」
「なに?」
「どうしてあの日、崖から飛び降りたりしたの?」
本当はもっとオブラートに包んだ言い回しをするはずが、そんな疑問が、不意に口を衝いて飛び出していた。
あれは幻影に過ぎない。詠はかつてそのように結論づけたつもりだった。白日が気まぐれに見せた集団幻覚が、巡り巡ってありふれた夏の怪談話として町内に広まり、消費されたもの。すでに過去の遺物だ。
いまさら掘り起こすほどのことでもない。
けれど、確信があった。
目の前の“暁月冥”ならば、萎びて沈殿し原形を留めていなかった疑問に名前を与え、溶かしてくれるのではないか、と。
「………」
これではいつぞやの焼き直しだ。
木々の隙間にこぼれる光を目に浴びる。彼と出会ったその翌日、バスの窓から覗いた黄昏の木漏れ日も確か、こんな色を湛えていた。
……また、誰かに身勝手な期待を寄せているのだ。
詠はすぐそのことに思い至り、自己嫌悪に陥りながら顔を俯かせた。
「いえ、やっぱり今のは忘れて──」
「何を謝ることがあるの? 私も知らない話ではなし。人一人が目の前で亡くなる幻影なんて、それこそホラーの王道。ひとりで抱えきれず当然だ。でもまあ、ひとつそこに間違いを指摘させてもらうと──生憎、私にガードレールから飛び降りた覚えはないな」
「……そう、ですか」
人の心というのはままならないもので、きっぱり本人の口から否定されてしまうと、一度は散々悩んだ自分の立場が崩れ落ちていくようだった。
「肩を落とすにはまだ早いかもしれないよ。私から見るに詠は、飛び降りた事実そのものへの疑いよりも、飛び降りた理由のほうを気にしてるんでしょう?」
それは、彼女の言う通りだった。
あの飛び降り自殺がまぼろしなのは構わない。
しかし、なぜその幻影が暁月冥という少女の姿を取っていたのか。
何の躊躇いもなく、崖下に堕ちていったのか。
詠には、その事のほうが何倍も理不尽に思えていたのだから。
「私なら、その理由を君に教えられる」
「ぇ、でも、飛び降りた覚えがないって……」
「身に覚えはなくても、心当たりはあるの。まあそこには込み入った事情もあるんだけどね」
冥は煮え切らない態度で「あはは」と笑みをもらす。
「………」
人が変わってしまってからというもの、この少女はずっと笑みを絶やさない。
詠はなぜか、その後ろ姿に目を引かれ続けながら、木立の影と夕映えの対照が彩りを添える石段をこつこつと進んでいくと、鳥居が織りなす朱色のトンネルにも切れ目が覗いた。
「四ツ辻までもうすぐだ」と、冥は息を切らす影もない。
背の順に三つ並ぶ鳥居をくぐり、緩やかな石段を登ると、その先にはささやかな光景が広がっていた。
一本の古びた時計塔の針が、六時頃を指してぴたりと止まっている。灯籠や細長い電柱、向かい合う二軒のあずま屋など、昭和頃の小さな町の一角をそのまま山の上まで持ってきたかのようだ。
空は相も変わらず手が届かないまま。
振り返れば、見知らぬ町をも遠く離れてしまった。
「──────」
京都の町のど真ん中に、巨大な蛇の頭があった。
息を喘ぐように大きく口を開けて、極地の洞穴に映え渡る氷柱のように尖った牙が突き出している。丸石じみた目玉は何処を睨むようでもなく、何処にいても目が合う騙し絵のようだ。
……なによりもそれは、ひとつの死骸が山岳を成しているのだった。
とても信じがたかった。
そこにある事実が、ではない。
今までその圧倒的な存在感に気がつきもしなかった、己の愚鈍さに眩暈を起こしたのだ。
規模が違う。常識が異なる。息が詰まる。
生命の法則の埒外に、其れは彼処に残っている。
「───ふふ、圧倒された?」
背後、一段上からの微笑む声に意識を目前まで取り戻し、詠は呼吸を再開させた。
蛇に睨まれた蛙の気持ちが、初めてここに実感できた。本当に足が竦んで、その場に立ち尽くしていることも忘れてしまうのだ。
「───……冥。あなたが、私に見せたいものって」
「そう。まさしくあの死骸の山だ。せっかくの機会だからね。共にここへ迷い込んでしまった仲、私たちの日常の裏には、ああいった忘れ去られたモノが潜んでいることを、君に教えたくなったんだ」
「……それは、私を驚かせたくて?」
「悪戯心は否定できないな。詠を揶揄うのは楽しいもの」
「………」
「でも、それだけじゃない。うじうじと思い悩むのも悪くはないと思うけど、その霧を一度ぜんぶ取っ払ってしまうのも愉快かなって」
まあ老婆心というヤツだね、とあどけなさをいまだ残した美貌にそぐわない台詞を吐く冥。
二人は階段を途中で折れると、ごつごつとした岩肌を超え、公園にあるような青いベンチに腰を下ろした。
ここに至るまで何度も現実ではありえないような事象を目の当たりにしてきたが、心が麻痺してしまったのか、長い石畳の階段を登り続け、ようやく腰を落ち着けても、どっと疲れが押し寄せるようなことはなかった。
不思議な気分だった。
まるで雲の上にいるみたいだった。
目が覚めたら、そこはホテルの布団なのかもしれない。
舞の掛け声で揺り起こされ、ぼんやりとした頭で見る機会の少ない寝起きの同学年たちに囲まれながら朝食を取り、そしてまた、稲荷駅を降りて、みことたちと一緒に千本鳥居の入り口まで足を運ぶ。
そんな厭に現実味を帯びた回想に対し、この現実離れした見晴らしはどう受け取ればいいのだろう。
夢として処理してしまえば、果たして丸く収まるのだろうか。
「詠。君はこの世界を美しいと思うかい?」
「───え?」
「時に矛盾だらけで、悲しみが絶えず紙面を濡らし続ける──理想が空虚の別名に過ぎないこの世界を」
穿ち過ぎにも程がある問いが、耳に飛び込んでくる。
突然のそれに詠がまごついていると、冥は肺一杯の空気を吐き出すようにして、その続きを謳い上げた。
「かつてこの世界を綺麗だと言ってくれた子がいた。私はその誇らしさを一生涯忘れることはないんだ」
二人の目が合うことはない。
詠はすぐ隣の少女の横顔を、冥は遥か彼方に──否、目の前の葉を枯らした繊維のような枝を張り巡らした木立に目を留めている。そして、余りの息を勿体つけて中空にふっと溢した。
「だからね、私が死を選んでしまうようなことがあったとしたら、おそらくそれは、その誇りすら忘れ去ってしまったときなんだよ」
それが、暁月冥の姿をした幻影が命を落とした理由だという。
生きる理由の喪失が、同時に死を選ぶ理由と化した。
「………」
同じだ、と。
詠は目を離せなかった。
真夏の白昼に崖下へ飛び降りていった少女のあの冷ややかな微笑みと。
まるで瓜二つだった。
相貌が似ているといった散々繰り返してきた話ではなく、身に纏う雰囲気があの時とまったく同質だった。
手を繋いだままなのに、霞を掴むかのように心許ない。
二人の間で交わされる熱は、もはや完全に区別もつけられない。
「これで納得できた?」と、冥が覗き込んでくる。
詠は一度答えに窮しながらも、ゆるゆると首を横に振った。
残念そうに頬を緩める表情が視界に否応なく映り込み、彼女らしくないその笑みに、思わず胸を締め付けられた。
「でも、はっきりしたこともあります」
冥が無言で続きを促す。
「けっきょく、何を教えられても、私が誰かの死に納得できる日は来ないんだって。……やっと腑に落ちた。誰かの死に囚われてしまうのが恐くて、いつか私もそうなるかもしれないことに怯えて、そうなってしまう理由をずっと探していたんです」
はじめて言葉にできた恐怖の根源。
理由もなく死に彷徨う人はいない。詠はその彼らが発する強烈な死の香りに誘われ、道を踏み外してしまうことを何よりも恐れたのだ。暗闇を恐れるのもまた必然。未来とは、そういう可能性に満ち溢れている。
繋がれた手に自然と力が籠った。
「あなたはたぶん、本当は冥じゃないんですね」
それに冥の姿をした少女は、わずかに目を見開いた。
そして、すぐさま元の妖艶な微笑みを湛え、挑発的に首を傾げてみせた。
「無口で、無表情で、いつも何を考えて生きているのかわからない。それが君の知る暁月冥ならその通り。まだ暁月冥としての人生は途中なんだ。心の底から、私は暁月冥だと頷くことはできない」
もしかして二重人格なのか、とそこで詠が問えば、厳密には違う、と相手は困ったような笑みを浮かべた。
「普段の私たちはひとつの体に溶け合っている。ここだけだろうね、私という意思がこうもハッキリと顕在化するのは。でも、どうして?」
「私、ずっと心のどこかで思ってたんです。あの子が、あんな風に自殺するはずがないって。根拠は、何もないんですけど」
詠がそう答えると、向こうは言葉を失ったように寂しげな表情を陰に覗かせ、ぽつりと声を絞り出した。
「……それは君が忘れているだけで、信頼するに値する確信だよ」
「……? それはどういう?」
「いや、今更過ぎた話だった。忘れてちょうだい」
強引に話を切り上げられ、釈然としないものの、当初の疑問にはきちんと答えてもらえたので、詠はその横顔から目線を外し、再び活気のない町を一望した。
すると、巨大な蛇の死骸とまたしても目が合い、思わず肩に力が入る。あれには慣れそうもない。
「そういえば、あの大蛇はなんなんです?」
くくっ、とくぐもった笑い声が隣から聞こえだす。
「そういえば、そういえば、か。くっ、くくく、あはっ、あはは。ほんと傑作。町一つを丸呑みできるあの巨体を前になんて呑気な質問。君は意外に豪胆なんだね」
最初は笑みを堪えていたが、程なくして惜しみもしなくなった。
「……さすがに心外です。色々なことがありすぎて、こっちはまだ頭の処理が追いついてないくらいなのに」
「それであの素朴な反応か。うん、詠のそういうところには飽きないと常々思ってたんだ」
「なんか馬鹿にされてるみたいで不愉快かも」
「そう拗ねない拗ねない。別に馬鹿にはしてないよ。むしろ可愛らしいとこだと褒めてるくらいなんだぜ?」
「……ぜ?」
こほん、と饒舌な少女が咳払いをする。
「しかし期待に添えず申し訳ないけど、私もあの蛇のことは詳しく知らないんだ」
謎は謎のまま──。
晴川詠が今後関わることのない形で、その場に取り残されることとなった。
