Chapter Ⅵ 中編

 
 入り口の看板には、奥社奉拝所おくしゃほうはいしょまで徒歩二分とのことだったが。
 
 ───朱塗りの回廊には、果てがないようだった。
 
 参道や本殿の前で犇めいていた喧騒は、まるで影も形もなくなっていた。

 閑散としている。
 小鳥の囀りさえも聴こえない。
 参道と樹木を隔てる結界に阻まれているかのようだ。

 幾重にも鳥居が織り重なった回廊の奥より起き上がる戦慄くような風声のみが、ただ耳朶に触れた。

「詠、いまも恐い?」

 淡々と先導する冥が、背中越しにそんなことを確認してきた。

「冥がいますから」
「そう」

 と、素っ気ないふうの返事。
 けれど、これまで何度もやり取りを積み重ねてきた今の詠ならわかる。それがこの少女にとっての自然体なのだと。

 こつこつこつ……。

 会話が途切れると、二人の石畳を踏む靴音がくっきりと回廊に刻まれていく。

 鳥居が二手に別れる地点までやってきた。
 依然として人の気配は何処にも感じられない。

 昨夜のほとんど密室のようだった非常階段とは違い、ここには彼女たちを覆い隠してしまう壁はない。
 林が生い茂り、秋の日差しを受け入れるだけの隙間を持った豊かな土壌も目に入れば、人の手で整備された横道にも逸れることだってできる。
 にも関わらず、いまこの場に限って、世界には彼女たちふたりきりしか生き残っていないかのような、そんな開放された淋しさしかない。

 詠が恐怖とは別に、若干の戸惑いや躊躇いを覚えるのも無理からぬことだった。

 そして、迷わず右の道を選び、彼女の前を歩き続ける冥はいつもと全く変わらず、調子を乱す様子も欠片さえ見当たらない。

 頼もしくあるのと同時に、生命の息吹きを感じさせないこの場の清澄な雰囲気との妙な親和性をその華奢な背中に見出し、詠はなぜか、急に居た堪れなくなった。

「……誰もいませんね。ひとりくらい、引き返してきた参拝客を見かけてもよさそうなのに」

「そうだね」と、冥がそれに同調した。

 そこで詠はつい冥の後頭部にじっと視線を注いだ。
 具体的に何がどうとまでは言えなかったが、その返答に微かな違和感があったのだ。

「しかし──」冥が朗々と言葉を続ける。「さほど不思議なことでもないでしょう。四六時中隙もなく参拝客がここに押し寄せているわけでもなし。たったの一刻であれ、私たちの他に誰もいない瞬間と出会う可能性は、何もゼロではないんだから」

 可能性の話を持ち出されてはそれまでの話。
 こちらは閉口するほかない。

 しかし、どこかいつもの冥らしくない語り口に、詠の思考は人知れず混乱する。

 ──…なにかが、おかしい。

 ひとつの異変が気になり出すと、たちまち周囲の景色さえも異質な物へと変貌を遂げるようだった。

 否──。彼女たちがこの紅い影と風を吹き通す回廊へ足を踏み入れた時には、既に常世への境界を超えていた。

 千本鳥居をようやく抜けると、立派な奥社奉拝社が構えていた。しかし、それよりも詠の目を奪ったのは、木立の切れ間に広がる、空と雲の色彩だった。

 鮮烈な夕映えの光を基調とした満点の空。
 複数のレイヤーを重ねたような彩りに、刻一刻と流動する雲。

 本来起こり得ないはずの強弱の共存。

 浮世離れした黄昏の光景が、遥か高みで繰り広げられていた。

「───どうしたの、詠?」

 そして。
 詠は僅か目を見開き、完全に言葉を失って、息を呑んだ。

 冥が、微笑んでいた。

 柔く妖艶に。
 底知れない感情を秘めた微笑。

 瞬間、白昼夢の面影めまいが、不意に重なった。

「──────…あぁ」

 これは、昨夜の続きなのだと悟る。
 そして、あの日に見た景色は、確かにこんな相貌を張り付け、悠然と死の縁に立ち会っていた。
 此処に至ってようやく、あの日の溝が埋まったのだ。
 声がひとりでに震えた。

「あなたは──ううん、それよりもここは……」

 さっきまで晴れやかな朝に照らされた景色は見る影もなく、黄昏の仄暗い色合いに飲まれていた。

 朱に濡れた瓦屋根と高い樹々。
 一昔前の駄菓子屋を思わせる茶亭は薄暗く空っぽだ。
 玄関先に吊るされた赤い提灯に薄汚れた白いイベントテントなどには、石化した生き物に対するような触れ難い印象さえ受ける。

 スマホを取り出してみるが、案の定、電波は繋がっていない。

「あの世、幽世、常夜、冥界。古代ギリシャではステュクス川を渡った先にあるとされ、古代エジプトでは死者の魂が連れていかれる地下の世界。日本神話では、イザナギが子を産んで亡くなったイザナミに会うため、洞穴の奥に下る黄泉国よもつくにまで向かった話もあったな。まあ種々の呼ばれ方があるけれど、おおよそ、そういう類いの異界と言って差し支えないでしょうね」

 向こうは隠す気もさらさらないのか。
 普段の暁月冥の性格にそぐわない明晰な口振りで、学者然とした解釈を披露してみせる。

「えっと、つまりここは、死後の世界?」
「いや、死後に限らない。現に私たちは生きてこの場に立っているでしょ」

 そう言われ、詠はさっと自分の姿を見下ろし、古典的な幽霊のように足先が透けていない事を確認した。石畳を踏む硬い感触もある。単なる夢のように、感覚を記憶の片隅に置き去りにしてしまう事もない。

「ただ、死後の魂が闊歩すると信じてしまうだけの異状な空間が存在した事実をここに認められるだけだ。あくまで経験的に、という注釈付きでね」

 と、別人のようになった冥が言葉を結ぶ。

「………」

 そう、まるで別人のように。
 荒唐無稽な世界に迷い込んでしまったかと思えば、一緒に迷い込んだ友人の様子も変わってしまった。
 しかし、完全に別の誰かに成り代わってしまったようでもない。
 性格も口調も確かに変わってしまったようだけれど、不思議とその佇まいには、どことなく冥らしさが残っていた。
 いずれにしても。

 思えば、この“少女”に対してだけは最初から、微塵も恐怖を抱いたことがなかった。

「───」

 奥社奉拝所と茶亭の間の鬱蒼とした茂みに目線を這わせる。
 手触りの儚い風に彼女の髪が幽かにさらわれ、その奥でかさかさと草木がさざめく。
 生物の気配はない。
 あとはセカイが終焉を迎えたかのような空虚な静寂がそこに残るのみ。

「ねえ、詠」と、冥の呼ぶ声に振り向く。
「これからどうしたい? 私は出口を探すついでに、辺りを軽く散策してみたいと思ってるんだけど」

 呑気に提案してくる声が、やけに遠く聞こえる。けっきょく、この異様な世界も、数歩先に立つ風変わりな少女も、すべてが影を降ろしているようで不明瞭だった。

 ──…私に、選択肢なんてないんでしょうね。

 なすがまま、流されるままに、この不条理な現実がどこへ行き着くのか、見守るしかないのだろう。

「冥がそうしたいなら、私もついていきます。でも──」

 詠はつんと目をすぼめ、冥のほうへ掌を差し出した。

「せめてこれ以上、迷子になんてなりたくないですから」

 幼子のするような仕草に冥がきょとんとした顔を浮かべると、すぐに堪えきれなくなったか、顔を伏せながら手の甲を口許にあてがい、くつくつと肩を震わせた。

「……なによ」と、詠が口を僅かに尖らす。

「他意はないんだ、本当に。迷子にならないためね。それならまあ、しょうがないか」

 含みのある言葉をわざわざ声に出しながら、冥は割れ物に触れるように優しく、か弱げな手を取った。

 その時の冥の手は冷たく、詠は思わずといったふうに繋がれた手に目線を下ろす。
 すべらかな陶器のように冷たいけれど、確かに柔らかな感触が指先に返る。
 自らの手に宿る微かな熱が、じわじわと現実を縁取るようだった。
 
9/12ページ
スキ