Chapter Ⅵ 中編

 
     …
 
 修学旅行は無事、二日目を迎える。

 刷毛雲が天高く濃淡に映える秋空のもと、涼風が紅葉を生らした木々の間に艶を張り巡らせ、京都の町を一段と鮮やかに彩っていた。

 歴史ある町並みを巡るにはもってこいの日和だ。

 だが早朝の駅前やホームの雑踏に足を踏み入れれば、季節情緒もへったくれもない。
 通行人の凝り固まったような横顔を一瞥し、僅かにその背中を追う。

 詠は思う。
 彼はこれからどこに向かうのだろう。何をしに行き、どんな思いを抱えているのだろう。

 見知らぬ他人がすぐ横を通り過ぎるたびに、そこに別の誰かの面影を重ねる。
 そんな風情を黙殺するような空気感に背を押されながら、詠たちのグループは電車に乗り込んだ。

 運良く座席を確保し、詠は昨夜の調子を引きずったまま、無心になりきり、窓外を流れる味気ない景色に寄りかかっていた。

「昨日は、眠れなかったの?」

 と、隣からの声に意識を浮上させる。

 詠は舞と目を見合わせ、こてんと小首を傾げた。

「なんだか眠そうに見えるもの」

 そう言われ、詠は得心したように頷き返す。
 向かいの席では、他の乗客越しに飾璃と冥とみことの三人がなにやら談笑している姿が窺える。

「まあ、眠るのにすこし時間は掛かったかも」

 舞の印象に言葉を濁して応える詠。
 実際、昨夜は部屋を抜け出した冥の後を追い、それから戻るまでにかなりの時間差があった。

 額には、若干の熱っぽい感覚。まだ秋の暮れではなくとも、薄手の部屋着のまま、非常階段でしばらく話し込んでしまったのがまずかったのかもしれない。

 睡眠時間は十分に足りている。
 とはいえ、不慣れな外泊先。
 疲労が抜けきらなかったのだろう。

 今回に限っては、早起きを常とする詠が初めて友人に揺り起こされるという経験まで得たほどなのだから。

 そして彼女を起こした張本人はというと、現在隣に座り、不満げに眉を曲げている。

「心配しなくても大丈夫よ」詠が舞の目を見つめ返して言う。「全然寝不足でもないし、それに体もそこまで怠くないから。今日はちょっと、余所見したくなる気分ってだけで」

 自分で言っておいて、なんだそれ、とは思うものの、確かにそういう気分としか形容できなかった。

 舞が顎を引きつつ、疑わしそうに目を細める。

「詠の自己診断は、いつも当てにならないのよね。根本的に自覚が足りてないっていうのかな。ま、今日のところは、いきなり倒れるってこともなさそうだけど」
「私、舞の前で意識なくしたことってないと思うんだけど」
伯母おばさんに聞いたの」舞がさらりと言う。「なんでも夏休み中、路上で倒れて、大学生の彼に介抱されたらしいわね。それで頼まれたのよ。もしもの時はお願いねって」

 途中、舞が横目に向こうの席を一瞥したように見えたが、詠のほうはそれどころではなくなった。

 ひた隠しにしてきた最後の砦に、もしかすると、気が付かぬうちに亀裂が走ってしまっていたかもしれないのだ。

「え、舞、それ、どこまで聞いて」

 そんな動揺惜しまない詠の様子に、舞は嗜虐的な輝きを瞳に湛え、口角は弧を描くように曲がった。

「ああ、安心して。全部聞かされたわけじゃないから。でも、想像を巡らせるだけなら、それは個人の自由だと思うのよ。でしょ、詠?」

 わざとらしげに一呼吸の間が空く。
 それこそ、断頭台の前で最後の猶予を持たせる処刑人のように。

「───けっこう惚れっぽいのね。年上の異性に優しくされたのが、そんなに嬉しかったんだ?」

 そう舞に耳元で囁かれ、周囲の音が途端に消失する。

 はひゅ、と。
 滑稽な鳴き声を細かに立て、詠は息を詰まらせた。

 どくん、どくん、どくん……。

 心臓が電車の振動と錯誤させるほど焦燥に駆られている。腹の底にむず痒い感触が渦巻いている。これまで何度もこういう事で揶揄われてきたけれど、今回はいつも以上に耳が熱かった。

 舞がそっと顔を離すと、その表情は愉快げで、しかしそこには微かな陰りが見え隠れしていた。

 かと思えば、笑みを緩め、詠の額に手を当てがう。

 最初こそ突拍子のないその行為に詠は肩を跳ねさせたが、程よく冷えた掌の滑らかな感触が次第に熱暴走を起こした節々を静めていった。

「えっと、その、舞……?」

 これは、どういう──。

 詠がいまさら周囲の目線を気にするようにして、幼馴染の少女に問いかける。

 額が若干冷めても、頭は混乱しっぱなし。
 何が何やら。

「ね、やっぱり、すこし熱があるんじゃない?」

 しかし、舞はそれにほとんど取り合おうとはせず、平然とそんなことを指摘するのだった。

 
 JR奈良線・稲荷駅で電車を降りると、建物全体の意匠に鳥居や神社を模したような朱色の柱が目立った。改札口に至っては如何にも鳥居そのもので、瓦屋根も合わさり、レトロな雰囲気を醸している。

 頬が外気に触れた途端、線香のような甘く香ばしい煙の匂いが鼻腔を擽った。詠にとっては馴染み深い香りだったので、自然と多めに息を吸い込んでしまう。そのぶん、胸が落ち着くようだった。

 駅の目の前は表参道になり、ビル二階建てほどの大きさの一番鳥居のどっしりと構える威容がすぐさま目を引いた。

 みことが見るからにはしゃぎ出し、あそこの前で写真を撮りましょうと急ぎ立てる。

「でも正中は神様の通り道になるので、鳥居の脇に佇む感じでいきましょう!」

 注文も実に細やかなものだった。一挙手一投足に好きという感情が滲み出ており、そんなみことの生き生きとした姿が秋晴れの日差しとよく似合っていた。

 一方で修学旅行前はその家柄から京都観光を渋っていた飾璃も、一番鳥居の威容の前にはただ感心するように息を零していた。

 外拝殿げはいでんまでの参道は開けている。
 毎日の丹念に行われる掃き掃除の賜物か。
 灰白色の床タイルは明瞭な輝度を放ち、空間により奥行きを齎していた。

 荘厳と神聖。
 鳥居は俗世と神域の境界という。
 そこを跨いだ先は、人々の声だけでは到底拭い去れない静寂そのものが空間の裏側に控えているようだ。

 一対の稲荷狐の像が両脇に控える楼門を抜ける。
 木造建築固有の重厚さを感じさせるヒノキの香り。
 観光客とすれ違いざま、柔軟剤やシャンプーの匂いがそこに割って入る。
 誰かのちょっとした呟きが時折耳に触れ、まだ早朝の八時過ぎにも関わらず、ここは賑やかだった。
 祭りの喧騒が、じきに空を覆うかのよう。
 外拝殿の前に着く。
 そこを迂回すると、すぐ背後に本殿が構えているらしく、舞台のような造りの奥に、ちらとその姿が覗いていた。

「稲荷大社まで来たからには、とりあえず千本鳥居はくぐっておきたいよね! あと、おもかる石も一度持ち上げてみたいんだよね。定番も定番だし」

 と、本殿を一通り見終えたあたりで、敷地のさらに左奥に視線を彷徨わせながら、みことが言った。

「稲荷山登頂まで行けないのは、少々口惜しいですけど」
「それは卒業旅行とか別の機会にね」

 みことの不平不満に、舞が苦笑しながら返す。

 往復に二時間以上は掛かるコース。
 一見、時間的に余裕がありそうだが、そこで消費される体力を考慮に入れると、それだけで二日目が潰れてしまいかねない。
 あとは近場のカフェでゆっくり過ごす、なんて消極的な予定が容易に浮かぶ。
 ちょっと魅力的に思えてしまった詠は、ひとりふるふると頭を振った。

 せっかく一度きりの機会をそんなふうに終えてしまうのは、同時に背徳的でもあるが、やはり勿体無く感じる。
 出来る限り沢山の場所を見て回りたいのが、班の総意でもあるのだから。

 詠は先へ進むみんなの背中を追い、朝の賑わいに耳を傾けた。一様に、この場の威風な雰囲気に人知れず呑まれ、単なる街中を散策している時とは、足運びの慎重さがおそらく違っていた。

 敷地の奥の石段を上がると、左手には上末社かみまっしゃと呼ばれる四つの祠が並び、正面には玉山稲荷社が祀られている。
 古めかしい看板の内容を読んだり、しげしげと網目の格子の向こうを覗きながら、右手の鳥居がある石段を登っていく。
 奥宮おくみや、白狐社と並んで、目的の千本鳥居の入り口が奥側に見えてきた。

 背の高い木陰の内に粛然と、しかし確かな存在感を放って連綿と立ち並ぶ姿が、そこにはあった。

 鳥居一つ一つが彼女の想像を超えて見上げるほどで、柱も大人より太く、まるで鬼の通り道を彷彿とさせた。
 ここに来るまでに大きな鳥居には十分見慣れたつもりだったが、それだけの大きさのものが影に隠れるまで伸び、その全容を見通すことができないことに、詠はただただ圧倒されるほかなかった。

 あるいは、怖気づいてしまった、とも言えるかもしれない。

「………」

 入り口に佇み、息も呑まず、無意識のうちに腰が引けていた。

「───恐いの?」

 冥がいつの間にか、詠のそばに立っていた。

「大蛇の口みたいよね。うねうねと続いてたりして」
「……独特の喩えですね」
「そう? 割と誰でも思いつきそうだけど」

 前々から薄々察してはいたが、この少女、自分の性格が周りと比べて変わっていることに少しも自覚がないらしい。

 詠はそれに対して微妙に苦笑いを浮かべ、冥は無表情のまま、互いに顔を見合わせ、首を傾げ合う。

「まあ、見解の相違は置いておくとしても。無理することはないと思う。あの人たちだって、詠が恐い思いするくらいなら、快く引き返してくれるだろうし」
「別に、そこまで深刻じゃないです。たまにありません? なんとなく、先に進むのが怖くなること」
「ごめん、私にはわからないかも」

 そこで珍しく、冥が眉を落とした。

「それって、霊感的なこと?」
「そういうんじゃなくて。幽霊を直接見たことなんてないのに、それでも暗闇が怖くなるのと、多分同じです」

 頼りない蛍光で闇を縁取り、鏡のように佇む正体不明の存在。
 きちんと言葉にできてしまえたら、それだけで霧散するであろう不安の形象。
 詠がふと暗闇の前で足を止めたくなるときは、決まって、漠然とした鳥肌に身を取り囲まれたときだ。

「なら、誰かと一緒なら大丈夫なのかな?」

 何気ない響きを持った言葉だった。
 しかし、詠はその一言に心臓を掴まれたような気持ちになった。
 表情を固まらせた詠の様子を気にする素振りもなく、冥はやはり平然と言葉を継ぐ。

「つまり、そういうことでしょ? だって、いまの詠、なんだかここにひとりきりでいるみたいに話すから」
「───ああ」

 吐息がひとつ漏れる。
 連なる鳥居の影が次第に晴れ、そこに一条の光を見つける。
 暗に孤独を心細く思い、足先が萎んでいたのだ。
 いつかに彼の前で吐露した弱音も、期待した答えも、おそらく、そういうことだったのだろう、と。

 言われてみれば、なんて単純な心だったのかと笑いかける。

「冥のおかげで、ちょっとだけ気が晴れました」
「……どういたしまして?」

 どことなく大袈裟と言いたげな友達の姿に、詠は今度こそ、笑みをこぼす。

 会話にも一区切りがついたところで、詠は周囲に目を向けた。

「そういえば、舞たちはどこに……?」

 辺りは異様な静寂に包まれている。
 人の姿はおろか、人気もぱたりと途絶えてしまっていた。
 それに冥が「さあ?」と小首を傾げる。

「置いてかれたのかも。飾璃あたりの悪戯とか」

 やりそうかやらないかで言えば、微妙なラインではあったが、それはそれとして、他の三人とはぐれてしまったことは確かのようだ。

 ひとまず目的であったおもかる石のある奥まで向かってみようと、二人は歩みを進めることにした。
 
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