Chapter Ⅵ 中編
布団を被ると、まず嗅ぎ慣れない匂いが鼻腔を埋めた。
敷布団のシーツが張っている。
滑らかな手触りの掛け布団に包まれた足先はひんやりとしていて、いまいち肌に馴染んでいなかった。
天井の陰が滲んでいる。
開け放ったままの襖から、玄関先の灯りが微かな放射状に伸びている。
詠は仰向けのまま、顔だけを右隣に傾けた。
舞の目を瞑った白い顔が、暗がりのなかで朧げに浮かび上がっている。
次いで、今度は左隣に顔を傾ける。
当然、冥の頭があった。向こう側を向いているので、寝顔は窺えない。肩口で切り揃えられた髪の毛が、いまは枕の上で雪崩れるように寝そべっていた。
耳が無闇に周囲の音を拾おうとする中、扉を開ける音がそっと響いた。
詠は思わず狸寝入りをした。
出来る限り音を殺した、この間の取り方。
きっと消灯の確認だ。
玄関先から覗かれる気配が続き、すぐに扉は静かに閉まった。
息を吐くように、うっすらと目を開ける。
鼓動は落ち着いているのに、緊張しているのか、目が冴えっぱなしだった。
なかなか寝付けない気配がしていた。
それでも、再び目を閉じて、無心になろうと徹した。
しばらくすると、物音がした。布団を這い出る際の擦れ。畳を踏む肢体の重み。そして、その誰かは部屋を出ていった。
「………」
これでは、もはや眠れるはずもない。ちょっとした事件だ。
気になるあまり、詠が起き上がると、思った通りというべきか、左隣が空っぽになっていた。
──後を追ったほうがいい、よね。
待っていればそのうち、ふらりと戻ってくるかもしれないが、修学旅行の最中に友人の奇行をそのままにしておくのはまずいように思えた。
なにより、いつまで待てば眠れるのか。
詠はするりと布団を抜け出し、足音を殺しながら扉に向かった。玄関には、靴が三足とも揃っていた。
──あの子、裸足のまま出ていったの?
これまで冥の行動を読めた試しはとんとない詠だったが、今回はますます混乱が増すばかりだった。
信じられないと思いながらも靴を履き、冥のぶんの靴を一応手に持ちつつ、慎重に扉を開け、通路に出た。
密閉されたような通路は、耳に障るほどにしんとしている。
自由時間の、あの扉一枚一枚から漏れ出していた活気が、今ではまるでまやかしだったかのように空洞と化していた。
分厚い絨毯の反作用が、いっそう気味の悪い感触を催す。
無機質な夢だ。
時が凍えてしまった世界の影像。
人々が去ったあとの塵一つない廃墟の内部にいる。
とりあえず、部屋のすぐ前にある階段を覗き込んでみた。冥の姿は見当たらなかった。
そうしていると、かちゃり、と詠はとても小さな音を耳にした。
扉が閉まるような硬い音。
その音のした方へ、詠は誘われるように、つんのめるようにして駆け出した。
女子トイレがある角を右に曲がると、緑色の非常灯が真っ先に目に入った。
詠は非常階段の重たい鉄の扉をゆっくり、体を押し付けるようにして開く。
息の詰まるような、縦に細長い空間に出る。
階段を一つ下った踊り場に、冥の姿を見つける。
詠の微かに乱れた息遣いが反響したのを聞き取ったのか、冥が横目に振り返った。そして、呑気に首を傾げた。
「そこで何してるの、詠」
それを聞いて、詠は胸が大きく膨れ上がる思いだった。
「───それはこっちのセリフだから」
ひそひそ声ながら、そこには鋭い非難の響きが込められていた。
詠はひとまず呼吸を落ち着けて、訝しむような目線を冥へと向ける。
「……どこに行くつもりなんですか?」
単刀直入にそう問われた冥は、その場で立ち止まったまま、言葉を探すように目を泳がしている。
「せっかく、町の外に出られたから」冥がぽつりと言う。「今なら、どこへでも行けると思ったの。詠も来る?」
「──────」
知らず息を呑む。
暁月冥の声色は、冷然といつも通りだった。
こんな状況にいながら、日常の中に取り残されていた。
眼下に佇む少女は、何も昼間の不満を打ち明けたのではない。この少女はまったくの虚飾なく、誰にも何も言わないまま、この場を去ろうとしたのだ。
───少女の飛び降りるいつぞやの幻覚が、不意に目の前を過ぎった。
気がつくと、詠も踊り場まで駆け下りていた。冥と向かい合う。
ぎゅっ、と細い腕を掴んだ。
「このまま、消えるつもりだったんですか?」
沈んだ声。それは水底から浮かぶ泡のようにふらふらとしている。
あの真夏の白昼の幻影が本当に暁月冥だったのか、その確信は月日を追うごとに薄れている。そんな核心に触れる勇気も出ないまま、詠はここに立ち尽くし、ただ返事を待った。
冥は掴まれた右腕を気にする素振りを窺わせながら、「消える……」とか細い声でオウム返しする。それから首を左右に小さく振った。
「なら、なんで───」
「夜の町をよく散歩したがる人が、私に話すの」
急に知らない人の話を引き合いに出されて、詠は当惑する。
しかし、冥は目線を踊り場のビニル床に落とし、意に介する様子もなく、滔々と話し続けた。
「肌で感じ取る夜の風景は、自分の心を孤独にする。そこが知らない場所であればあるほど、地面に映し取られる心の影は大きくなる。自分が誰なのか、わかるようになるんだってさ。眉唾な話だけど、試したくなった」
「ようするに、それって」
「そう、きっと、詠の想像通り」
いわゆる自分探しの旅、というやつだろう。
誰かさんが計画していたように、諸国漫遊とまでは行かずとも。
「………」
だんだんと、詠は自分の中で緊張が弛緩していくのを自覚した。
いっそ、今にも思い切りため息をつきたいくらいだ。
「……洒落になってないですから」
それで気まぐれを起こして行方不明にでもなれば、修学旅行も即刻中止。どころか思い思いのお土産の代わりに、学校全体を巻き込む混乱を一つの空席に乗せて持ち帰る羽目になっていたことだろう。
すぐに追いかけて正解だった、と詠はそう肩を落とさずにはいられなかった。
「詠、ひとつ聞いていい?」
「……なんですか?」
まだ爆弾を隠し持っているのかとつい警戒してしまう。
しかし、そんな詠の警戒心とは裏腹に、ずっと気になっていたのだけど、と冥が前置きする。
「どうして、私の靴なんか持ってるの?」
「───いや。あなたが裸足のまま出ていくからでしょ」
「裸足」
冥がまたオウム返しすると、自分の足元を見下ろし、納得したようにこくこくと頷いた。ここではその間の抜けた愛らしさを誘う動きすら腹立たしい。
「……私からも、ひとついいですか?」
「なんとなくわかるけど、まぁどうぞ?」
「なんで裸足なんです?」
それに、冥が片足を浮かし、何食わぬ顔で応えた。
「絨毯があるホテルの廊下を裸足で歩いてみるのが、私の夢だったの。ほら、気にならない? 絨毯の感触」
「いえ、これっぽっちも」
と、詠が即座に否定する。
似合わない微笑まで貼り付けて。
それから、すっと冥に靴を押し付けた。冥がパチリと目を丸くしているが、まさに問答無用だった。
「そのままだと、足元が冷えて、風邪引いちゃうかもしれないし。そんな事で台無しにされるの、ごめんですから」
いつの間にやら、口許は心なしか尖っていた。
◇
「私が言うのもなんだけど。部屋に戻らなくていいの?」
「眠いんですか?」
「……別にそんなことはないけど」
「なら、今夜ばかりは私に付き合ってください」
強引ね、と冥が口許に手をあてがいながら零した。
普段は何かと振り回されてばかりなのだから、今回くらいはこちらが我が儘を言っても許されていいはずだ。
詠はそんなことを考えていた。
許されるも何も、この状況を教師に見つかれば大目玉を食らうことに変わりはなかったのだけど。
靴下もなしに靴を履いているせいか、冥は居心地悪そうにして足を揺らしている。見ようによっては退屈を持て余しているようだ。
「眠れなくて困ってるんだ?」
「……有り体に言えば」
「そういうトコ、意外と繊細だよね、詠って」
そっちは見掛けに反して大雑把よね、と詠は言い返したくなったが、それよりも他の事が口を突いた。
「そっちは……舞とうまくやれてないみたいですけど」
露骨な話題逸らしなのは、詠自身も自覚の上だ。しかし、何かの機会に聞いておきたいと前々から思っていたことでもあった。
深夜の非常階段の白く無機質な静寂には、日常の鬱屈を吐き出させる何かで浸されているのかもしれない。
「……あれは、一方的に目の敵にされてるだけだよ。一応、昔からの顔見知りでもあるし、あの人とは」
「顔見知りというのは?」
「遠い親戚同士なの。でも、詳しくは…言えないかな。そもそもあんまり知らないし、知ろうとも思ってこなかった。ずっとなあなあにしておくのが楽だったから」
浮薄にも聞こえる冥の話しぶりは、ふたりきりの時間帯もあいまって、鼓膜を透かしていく。
印象に残りにくい感触とは、また違っていた。
きっと、その声のせいだ。
あまりにも感情を含まない透明な声だからこそ、不気味さ以上に心地よさが優るのだろう。それを、神秘的と評したくなるほどに。
いずれにしても。
「冥にも、複雑な事情があるんですね」
「む、なにその言い草。私だって、見ての通り生身の人間だし。悩み事の一つや二つ──ううん、それこそ抱えきれないくらいあるんだから」
「ふふっ、なにそれ」
依然と平坦な声色なのに、どこか大仰な言い分は不釣り合いで、詠は思わず吹き出した。
子供が見たことを必死に説明するようなおかしさがあった。
それに今度こそ、冥の口許付近の頬が飴玉ほどに膨らみ、そしてすぐに萎んだ。
冥がふいと顔を逸らし、それを見て詠がなだめすかして謝る。
「ごめんなさい。ちょっと、揶揄いが過ぎました」
「……知らない」
そんなふたりの喧嘩は尾を引かず、実に微笑ましいものだった。
それから他愛もない話題が転々と続いていった。
「幹くんとは、あれから連絡取れてるの?」
「……前々から聞きたいとは思ってたんですけど、なんなんです、その呼び方」
「えっと、普通に親愛の証……? みたいな。年上だからくん付け。でも、どうして?」
「───そ…れは、こっちの事情というか」
「好きならもっとアプローチ掛ければいいのに」
「それは、だって向こうが……!」
「応えてくれないから? 相変わらず不器用だね」
「相変わらずってなんですか……っ?」
いくつかのやり取りを重ねる内に夜も更け、話題も蝋燭の火が尽きるように、小さく弾んだ声は次第に息遣いへと姿を変える。
二人はどちらが切り出すでもなく、非常階段を立ち去るべく腰を上げた。
音も立てないよう扉を潜り抜ける際、詠は一度、自分たちが座っていた方向を一瞥した。
「………」
たとえ、最近見なくなった悪夢の残滓であれ。
密室じみた階段にあまりいい思い出などなかった。
生温い停滞。
雑踏からの疎外感。
青ざめた女の人形。
そこには、底なしの虚しさがこだましていた。
……それでも。
何かの弾みで胸を突く悲しみに襲われたとしても。
この夜の記憶とともにあれば、少しは前を向けるように思えた。
部屋に戻ると、そこは寝静まった薄暗闇。
数人の寝息がこそばゆいように響き合っている。
そろりと布団に入る。
手触りの熱度が肌に馴染む。
緊張はすっかり解けていた。
うつらうつらと、瞼の裏で船を漕ぎ出す。
思考が記憶の海に溶け込むまで、そう時間は要さなかった。
敷布団のシーツが張っている。
滑らかな手触りの掛け布団に包まれた足先はひんやりとしていて、いまいち肌に馴染んでいなかった。
天井の陰が滲んでいる。
開け放ったままの襖から、玄関先の灯りが微かな放射状に伸びている。
詠は仰向けのまま、顔だけを右隣に傾けた。
舞の目を瞑った白い顔が、暗がりのなかで朧げに浮かび上がっている。
次いで、今度は左隣に顔を傾ける。
当然、冥の頭があった。向こう側を向いているので、寝顔は窺えない。肩口で切り揃えられた髪の毛が、いまは枕の上で雪崩れるように寝そべっていた。
耳が無闇に周囲の音を拾おうとする中、扉を開ける音がそっと響いた。
詠は思わず狸寝入りをした。
出来る限り音を殺した、この間の取り方。
きっと消灯の確認だ。
玄関先から覗かれる気配が続き、すぐに扉は静かに閉まった。
息を吐くように、うっすらと目を開ける。
鼓動は落ち着いているのに、緊張しているのか、目が冴えっぱなしだった。
なかなか寝付けない気配がしていた。
それでも、再び目を閉じて、無心になろうと徹した。
しばらくすると、物音がした。布団を這い出る際の擦れ。畳を踏む肢体の重み。そして、その誰かは部屋を出ていった。
「………」
これでは、もはや眠れるはずもない。ちょっとした事件だ。
気になるあまり、詠が起き上がると、思った通りというべきか、左隣が空っぽになっていた。
──後を追ったほうがいい、よね。
待っていればそのうち、ふらりと戻ってくるかもしれないが、修学旅行の最中に友人の奇行をそのままにしておくのはまずいように思えた。
なにより、いつまで待てば眠れるのか。
詠はするりと布団を抜け出し、足音を殺しながら扉に向かった。玄関には、靴が三足とも揃っていた。
──あの子、裸足のまま出ていったの?
これまで冥の行動を読めた試しはとんとない詠だったが、今回はますます混乱が増すばかりだった。
信じられないと思いながらも靴を履き、冥のぶんの靴を一応手に持ちつつ、慎重に扉を開け、通路に出た。
密閉されたような通路は、耳に障るほどにしんとしている。
自由時間の、あの扉一枚一枚から漏れ出していた活気が、今ではまるでまやかしだったかのように空洞と化していた。
分厚い絨毯の反作用が、いっそう気味の悪い感触を催す。
無機質な夢だ。
時が凍えてしまった世界の影像。
人々が去ったあとの塵一つない廃墟の内部にいる。
とりあえず、部屋のすぐ前にある階段を覗き込んでみた。冥の姿は見当たらなかった。
そうしていると、かちゃり、と詠はとても小さな音を耳にした。
扉が閉まるような硬い音。
その音のした方へ、詠は誘われるように、つんのめるようにして駆け出した。
女子トイレがある角を右に曲がると、緑色の非常灯が真っ先に目に入った。
詠は非常階段の重たい鉄の扉をゆっくり、体を押し付けるようにして開く。
息の詰まるような、縦に細長い空間に出る。
階段を一つ下った踊り場に、冥の姿を見つける。
詠の微かに乱れた息遣いが反響したのを聞き取ったのか、冥が横目に振り返った。そして、呑気に首を傾げた。
「そこで何してるの、詠」
それを聞いて、詠は胸が大きく膨れ上がる思いだった。
「───それはこっちのセリフだから」
ひそひそ声ながら、そこには鋭い非難の響きが込められていた。
詠はひとまず呼吸を落ち着けて、訝しむような目線を冥へと向ける。
「……どこに行くつもりなんですか?」
単刀直入にそう問われた冥は、その場で立ち止まったまま、言葉を探すように目を泳がしている。
「せっかく、町の外に出られたから」冥がぽつりと言う。「今なら、どこへでも行けると思ったの。詠も来る?」
「──────」
知らず息を呑む。
暁月冥の声色は、冷然といつも通りだった。
こんな状況にいながら、日常の中に取り残されていた。
眼下に佇む少女は、何も昼間の不満を打ち明けたのではない。この少女はまったくの虚飾なく、誰にも何も言わないまま、この場を去ろうとしたのだ。
───少女の飛び降りるいつぞやの幻覚が、不意に目の前を過ぎった。
気がつくと、詠も踊り場まで駆け下りていた。冥と向かい合う。
ぎゅっ、と細い腕を掴んだ。
「このまま、消えるつもりだったんですか?」
沈んだ声。それは水底から浮かぶ泡のようにふらふらとしている。
あの真夏の白昼の幻影が本当に暁月冥だったのか、その確信は月日を追うごとに薄れている。そんな核心に触れる勇気も出ないまま、詠はここに立ち尽くし、ただ返事を待った。
冥は掴まれた右腕を気にする素振りを窺わせながら、「消える……」とか細い声でオウム返しする。それから首を左右に小さく振った。
「なら、なんで───」
「夜の町をよく散歩したがる人が、私に話すの」
急に知らない人の話を引き合いに出されて、詠は当惑する。
しかし、冥は目線を踊り場のビニル床に落とし、意に介する様子もなく、滔々と話し続けた。
「肌で感じ取る夜の風景は、自分の心を孤独にする。そこが知らない場所であればあるほど、地面に映し取られる心の影は大きくなる。自分が誰なのか、わかるようになるんだってさ。眉唾な話だけど、試したくなった」
「ようするに、それって」
「そう、きっと、詠の想像通り」
いわゆる自分探しの旅、というやつだろう。
誰かさんが計画していたように、諸国漫遊とまでは行かずとも。
「………」
だんだんと、詠は自分の中で緊張が弛緩していくのを自覚した。
いっそ、今にも思い切りため息をつきたいくらいだ。
「……洒落になってないですから」
それで気まぐれを起こして行方不明にでもなれば、修学旅行も即刻中止。どころか思い思いのお土産の代わりに、学校全体を巻き込む混乱を一つの空席に乗せて持ち帰る羽目になっていたことだろう。
すぐに追いかけて正解だった、と詠はそう肩を落とさずにはいられなかった。
「詠、ひとつ聞いていい?」
「……なんですか?」
まだ爆弾を隠し持っているのかとつい警戒してしまう。
しかし、そんな詠の警戒心とは裏腹に、ずっと気になっていたのだけど、と冥が前置きする。
「どうして、私の靴なんか持ってるの?」
「───いや。あなたが裸足のまま出ていくからでしょ」
「裸足」
冥がまたオウム返しすると、自分の足元を見下ろし、納得したようにこくこくと頷いた。ここではその間の抜けた愛らしさを誘う動きすら腹立たしい。
「……私からも、ひとついいですか?」
「なんとなくわかるけど、まぁどうぞ?」
「なんで裸足なんです?」
それに、冥が片足を浮かし、何食わぬ顔で応えた。
「絨毯があるホテルの廊下を裸足で歩いてみるのが、私の夢だったの。ほら、気にならない? 絨毯の感触」
「いえ、これっぽっちも」
と、詠が即座に否定する。
似合わない微笑まで貼り付けて。
それから、すっと冥に靴を押し付けた。冥がパチリと目を丸くしているが、まさに問答無用だった。
「そのままだと、足元が冷えて、風邪引いちゃうかもしれないし。そんな事で台無しにされるの、ごめんですから」
いつの間にやら、口許は心なしか尖っていた。
◇
「私が言うのもなんだけど。部屋に戻らなくていいの?」
「眠いんですか?」
「……別にそんなことはないけど」
「なら、今夜ばかりは私に付き合ってください」
強引ね、と冥が口許に手をあてがいながら零した。
普段は何かと振り回されてばかりなのだから、今回くらいはこちらが我が儘を言っても許されていいはずだ。
詠はそんなことを考えていた。
許されるも何も、この状況を教師に見つかれば大目玉を食らうことに変わりはなかったのだけど。
靴下もなしに靴を履いているせいか、冥は居心地悪そうにして足を揺らしている。見ようによっては退屈を持て余しているようだ。
「眠れなくて困ってるんだ?」
「……有り体に言えば」
「そういうトコ、意外と繊細だよね、詠って」
そっちは見掛けに反して大雑把よね、と詠は言い返したくなったが、それよりも他の事が口を突いた。
「そっちは……舞とうまくやれてないみたいですけど」
露骨な話題逸らしなのは、詠自身も自覚の上だ。しかし、何かの機会に聞いておきたいと前々から思っていたことでもあった。
深夜の非常階段の白く無機質な静寂には、日常の鬱屈を吐き出させる何かで浸されているのかもしれない。
「……あれは、一方的に目の敵にされてるだけだよ。一応、昔からの顔見知りでもあるし、あの人とは」
「顔見知りというのは?」
「遠い親戚同士なの。でも、詳しくは…言えないかな。そもそもあんまり知らないし、知ろうとも思ってこなかった。ずっとなあなあにしておくのが楽だったから」
浮薄にも聞こえる冥の話しぶりは、ふたりきりの時間帯もあいまって、鼓膜を透かしていく。
印象に残りにくい感触とは、また違っていた。
きっと、その声のせいだ。
あまりにも感情を含まない透明な声だからこそ、不気味さ以上に心地よさが優るのだろう。それを、神秘的と評したくなるほどに。
いずれにしても。
「冥にも、複雑な事情があるんですね」
「む、なにその言い草。私だって、見ての通り生身の人間だし。悩み事の一つや二つ──ううん、それこそ抱えきれないくらいあるんだから」
「ふふっ、なにそれ」
依然と平坦な声色なのに、どこか大仰な言い分は不釣り合いで、詠は思わず吹き出した。
子供が見たことを必死に説明するようなおかしさがあった。
それに今度こそ、冥の口許付近の頬が飴玉ほどに膨らみ、そしてすぐに萎んだ。
冥がふいと顔を逸らし、それを見て詠がなだめすかして謝る。
「ごめんなさい。ちょっと、揶揄いが過ぎました」
「……知らない」
そんなふたりの喧嘩は尾を引かず、実に微笑ましいものだった。
それから他愛もない話題が転々と続いていった。
「幹くんとは、あれから連絡取れてるの?」
「……前々から聞きたいとは思ってたんですけど、なんなんです、その呼び方」
「えっと、普通に親愛の証……? みたいな。年上だからくん付け。でも、どうして?」
「───そ…れは、こっちの事情というか」
「好きならもっとアプローチ掛ければいいのに」
「それは、だって向こうが……!」
「応えてくれないから? 相変わらず不器用だね」
「相変わらずってなんですか……っ?」
いくつかのやり取りを重ねる内に夜も更け、話題も蝋燭の火が尽きるように、小さく弾んだ声は次第に息遣いへと姿を変える。
二人はどちらが切り出すでもなく、非常階段を立ち去るべく腰を上げた。
音も立てないよう扉を潜り抜ける際、詠は一度、自分たちが座っていた方向を一瞥した。
「………」
たとえ、最近見なくなった悪夢の残滓であれ。
密室じみた階段にあまりいい思い出などなかった。
生温い停滞。
雑踏からの疎外感。
青ざめた女の人形。
そこには、底なしの虚しさがこだましていた。
……それでも。
何かの弾みで胸を突く悲しみに襲われたとしても。
この夜の記憶とともにあれば、少しは前を向けるように思えた。
部屋に戻ると、そこは寝静まった薄暗闇。
数人の寝息がこそばゆいように響き合っている。
そろりと布団に入る。
手触りの熱度が肌に馴染む。
緊張はすっかり解けていた。
うつらうつらと、瞼の裏で船を漕ぎ出す。
思考が記憶の海に溶け込むまで、そう時間は要さなかった。
