Chapter Ⅲ
「貴方も僕を内包しない、とても貴重な
青年は感銘に甘く溶けた声で囁く。
「あの日に堕ちた天使──この最上階に棲まう“彼女”と同じくね」
「訳のわからねぇ事を…。あの日に落ちた天使? 誰の事だよ」
「惚けないでほしい。彼女は二週間前の昼ごろ──ちょうど今くらいですね、本来あそこで自殺するはずだった
「……天使って、そういうことか」
少年が目を伏せて大きく溜息を吐いた。
それにはふんだんに呆れやら困惑やらが混ざっていた。
なんなら少年だけにとどまらず、現存している全ての人格が困惑していた。
コイツはとんでもない勘違いをしている、と。
馬鹿にしているつもりはない。本当にないのだが、それでも薄ら笑いのままなのだから、傍目からでは人を見下し嘲笑っているようにしか見えなかった。
天使だなんだの認識は、ひとまず放置しておくことにする。結局のところ、青年側が一方的に感銘を受けてそう呼んでいるに過ぎず、これ以上の害はないという判断によるものだった。
のろのろと少年は青年を見上げる。
青年はこの部屋に押し入ってきてから依然として、少年に理解と従属を求めるような輝きを瞳に湛えていた。
「そこまで理解してるんなら、この期に及んでオレに訊くことなんてないだろう。お求めの
「………」
底意地の悪い人だ、と青年は内心で目を眇める。
降りかかる火の粉でも払うかのように、少年は淡々と青年を排除する方向へと誘導する。
あからさまが過ぎるくらいだ。
隠す気もない。
接する態度もそうだ。
少年にとって彼は、視界にチラつくコバエと同等の価値しか持たないのだろう。
少年はお調子者を演ずるかのように、彼の心情など目もくれず口上を続けた。
「このオレも所詮は百以上ある人格の内の一人。四〇三号室──まあようするにここなんだが、その担当を預かってる下っ端に過ぎなくてさ。何が言いたいのかってぇと、役目の邪魔なんで、さっさと出ていってほしいんだけど?」
「そうはいかない。僕はその無為な自殺を止めにここまで漕ぎ着けたのだから」
「はっ、笑えるな。二重の意味で笑えてくる。四〇二の“私”を喰っといてよくほざくよ。じゃあなに、アンタはずっとオレのことを見張るわけ?」
青年はシラを切るよう、とびきりに微笑んだ。
「ああ、そこは否定もしないのか。…ったく無駄な努力で」
「いやいや、無駄ではない。僕にとっては重要なステップだ」
「───アホらしい。それで歓迎ムード全開で拝謁叶うとでも思ってるんならおめでたい。アイツにそういうアピールは効かないよ。死を求めるだけの亡霊なんだから。マイルドになってるだけで、根本はこのマンションの中に居ても変わりはしない」
「……本当に、僕と貴方は平行線のようだ。わかってますよ、そんな事は。彼女へのアプローチは徒労に終わる。だったら、狙うべき相手は運命的に定まっている」
ほぼ同じ瞬間に、二人は瞳を交わした。
「───貴方だ。僕は貴方を最上階から引き摺り下ろす。そもそも貴方の提案通りにしたところで意味がない。むしろ最悪の一途を辿るだけだ。最上階に向かおうとエレベーターに乗った次の瞬間に、貴方は僕を殺すでしょう」
「───ああ、見抜かれてたんだ」
今度は意識的ににやりと笑いながら、少年は愉快げに頷いた。
「アンタは多くの命を救ったが、それなりの数も殺したからな。挙句に今は自分一人だけ楽になろうとしてる。そんなヤツは計画の邪魔になるだけだ。そら殺すよ、必ず殺す。生を請い、神に祈る暇すら与えてやんない」
ここで青年の予想を訂正しておくと、エレベーターに乗った途端に殺されるのではなく、その後に最上階のボタンを押したら命を奪われる仕組みとなっている。蒐集した死の因果──その余分となっているストックが侵入者を襲うのである。
「手厳しいな。邪魔に思われるのは構いませんが……。ちょっと心外だ。僕は楽になろうとなんて考えてはいません。貴方にはそう見えないのかもしれないが、今もずっと、僕は思い悩み続けているんですよ」
「戯言を。無自覚は罪だと知るべきだな、アンタは」
「僕ほど自己を見つめ、自覚している者はいない」
ふん、と少年が鼻を鳴らした。
「これじゃ水掛け論だ。いや、初めからそうだったな。どちらかが音を上げて心折れるまで、状況は何一つ変わらない」
「そうだ。現状僕に決め手はないが、貴方にも返す手はない。だから僕はこうやって、貴方から聞き出そうとしている。有利に駒を進めるために。貴方の可不可を区分している最中なんですよ」
「───可不可の区分、ね…。
それは一体誰の入れ知恵で、誰の真似事なんだろうな」
「誰のモノでもない。強いて言うのなら、これは僕の特徴です。この開進は正真正銘、僕の内側からのみ生じたものだ」
「まあいいさ。自覚がないんならそれでいい。オレだって闇雲に藪を突きたい訳でもなし。物事には順序がある。お互い、何らかの解体分解細断をしたいのであれば、気長にやっていく他にあるまいネ」
「………」
少し前に少年は青年に向かって『訳のわからない事を』などと口走っていたが、青年からしてみれば少年の云うことの方が理不尽に聞こえた。自分を棚に上げている。そのくせ、ちゃんと詳細に話してくれる気もないのだ。
軽薄な見かけによらず、この少年は頑なだ。
さりげなく情報を吐き漏らしたと思いきや、それは青年にとっては既に知り得てる事ばかり。
態度は一貫して、青年に一片の情報さえ渡そうとはしない。
「アンタも肝心な部分を打ち明けちゃいないんだ、責められる謂れはないんだかんな」
「素直に驚いた。貴方は心も読めるんですか」
「異能と勘違いするなよ。こんなもんは些細な特技の集積に過ぎないし、お察しの通り、すべてを見透かすなんて神業はオレたちには相応しくないんでね、そこまでの芸当は為せない。当然、アンタとも多少事情は異なるだろうさ」
少年がくつくつと笑う。
「お困りだな」
「……いずれ貴方もそうなる」
「かもしれない。けど、どうだっていい。些事だな、強がりだ。所詮独りよがりの希望論だよ、そんなのは。この狭い狭い
青年は閉口せざるを得ない。わかりきっていた事である以上、ここで闇雲に反論したところで惨めな情動に内部を食い荒らされるだけなのだから。
余裕をもって構えていられるのも今の内だけ。
そして何の迷いもなく実行に移せる決め手とやらに欠けている現状、このままの状態が続いてしまえば、天秤はそう遠くない内に少年の方へ傾いてしまう。
矢鱈と足踏みをしている場合でない事は重々承知、頭では理解しているが、その一歩がなかなか踏み出せない。
確証がなかった。
実行可能な手だけならあるが、有効であるかどうかは未知数という微妙な塩梅。
───物は試しと、正面の単彩に集中する。
常人とは違うセカイを直視しながら、彼は今日この日まで生まれ育ってきた。
普段、青年は己以外の数多の人間を極彩色のモザイクとして捉えている。
それは感情、記憶、観念の色彩だった。
カラフルの怪物。
青年にとって人間とは、つまるところそういう不気味と不細工の混在だ。
感情はどろどろとした濁流が多く、記憶は淡い蛍光の瞬きで、観念は皮膚を水面と見立て其処を泳ぐサカナのよう。
時には濁流に呑まれてしまうご愛嬌なところも、どことない吻合である。
人の肌は基本的に白やら黄色やら黒やら──それらの一色だと多くの人々は当たり前のように口にするが、なぜそんなに鈍感でいられるのか、青年は不思議でしょうがなかった。
世界はこんなにも鮮烈でどろどろとしているのに。
だからこそ、その戸惑いは必定だった。
現実の誰でもない夢の住人と戯れている時とこの思いは被る。
人の表面から一色しか捉えられない者達の気持ちが、なおさらに理解できないと青年は強く感じていた。
──だってほら、あまりに取り付く島もない。
青年の脳には、少年の姿がのっぺりとした白いシルエットとして処理されている。輪郭は闇夜に見る朧げな影のようであった。
おかげで少年の浮かべる
またこれから知る事もないだろう。
わからない、という苛立ちが降り頻る。
しかし、と少年が訝しげに言う。
「ほんっと、わかんねえな。アンタは易々と侵入してきた割には、どうにも無策だ。引き摺り降ろすなんてカッコよく宣言されても拍子抜け。ただお行儀よく律儀な会話ばかりが続いてる。焦れったい。素人の見切り発車、バカの行動力に身を任せて突貫してきたとしか思えない」
「その疑問、抱くには今更ですね」
「言われなくとも。───だからこそ問わないとならねえ。白々しいよな。決め手はないとアンタは言ったが、ほんとうは何もないわけじゃあないんだろ?」
白いシルエットの少年が、ぎしぎしと音を立てて迫ってくる。
空気を入れて暴れ回る風船みたく肥大化する。
おそらくは無理矢理にでも身を乗り出して、自分の事を挑発しているのだろう。
「あぁ──」
これが、恐い…。
相手の考え、あるいは感情を大まかに読めるという手の内を明けながら、その直後に特に何の気負いもなく問い掛けてくる。
中身を小細工なしに探ってくる。
余裕とも捨て身とも取れる極論の態度は、青年を不安にさせた。
相手にも己と同じように、この状況を終わらせてしまう隠し玉のような何かがあるのかもしれないと勘繰ってしまう。いや、そんな事は初めから想定していた。想定していたからこそ不意を狙って、一時的な措置であれ、“何もできなくさせた”のだから。
だが。
今頃になって、それでは足りないと脳細胞が色めきだつ。
何かを、見落としている──。
それでも、その可能性の正体には至れない。
理解の及ばない相手。
無色の代替である白を完璧に模したヒトガタ。
矛盾したような感慨だが、白とは、紛れもなく曖昧模糊の象徴なのだと悟った。
白いシルエットが平坦な声音を畳み掛けて発する。
「眸が言ってる。うざったいくらいに伸縮を
「しかし、貴方でもその先に進めない。僕の世界を完全に見て取ることはできない」
「───大概その通り。困りもんだな」
少年が肩を竦める。予想通りの答えが返ってきた。
青年は形のない物に期待を寄せるように、自分の手を見つめた。
「………」
白い、幽霊の手。
白骨を何重にも重ね着したようなこの手が、何度も人を殺めてきた。
単純な腕力で、ごく普通の殺意に引かれて。
時には故意に相手の色彩を洗い流して、従順な操り人形に調教する事もあった。相手に触れて、話を聞いて、個々それぞれに必ず存在する欠落部を満たしてやればいい。色を必要としなくなって、青年の意のままに相手を染められるようになる。
果たしてそれは、元よりどうするでもなく色の無いあの少年にも有効に働くのだろうか。
不意に少年が笑い声を上げた。
「その手でオレを殺すか?」
今までの犠牲者のように、四○二の“私”を喰い殺した時みたく───。
青年は自分の手を振り払うように遠ざけた。
必要ない、と自分に言い聞かせて。
「ようやく僕を敵だと認めてくれますか?」
「それに関しちゃつい前にも言ったな。アンタの解釈に任せると」
「………」
青年は、一抹の虚しさを覚えて一息ついた。
「なら話はここで終わりですね。…また、振り出しだ」
またしても探り合いの沈黙が始まる。
そんな諦めに近い予感を胸に抱きながら、青年は少年から目を逸らした。それは慣れない色を見続けた事による疲れからか、あるいは触れるだけで溶けてしまいそうな雪像のようで、その実、石膏を思わせる堅い色から逃避したくてか。青年自身にもいまいちこの行動の意を汲み取れなかった。
どう少年から色彩を引き摺り出すか、上の空に思考を巡らそうとする。
しかし。
そこから少年はゆるりと首を横に振った。
「振り出しにはならない。勝手に終わらせてくれるな」
「なに?」
思わぬ延長の呼び止めが入り、青年はつい疑問の声を上げた。
眼前に座る白いシルエットの少年に再度目線を遣る。
「───?」
青年はさらに疑問に思う。
以前よりも、なんだか輪郭が明瞭になりつつあるような……。
いや、と青年は的外れな期待を奥へ仕舞うように、心の中でかぶりを振った。
──これは“さっき”もそうだった。
変わらない。
何も変わらなかった。
「やけに敵かどうかにこだわるな。なぜだ?」
「……興醒めな問いですね。僕は今、誰の色と被らず僕自身として生き、貴方と対峙している。そのつもりでいた。貴方はそれを一向に汲み取ってくれなかったようですが」
「ああ、なるほど。認識してもらいたいんだな。だったら安心しろ、お前は一生そのままだ」
「どうして」
「お前は鏡を欲している。結局はそこに行き着く。鏡を嫌いながら、自分の姿を反射してくれる相手を求めている。反射ってのはつまり対話だ。聞き飽きてるんだろう、他人の人生。だからついつい、このオレにも身の上を溢してしまう。おそらくは、今までもそうしてきたように」
「…貴方のは統合の応用だろう。集合知の
「───そこだな」
ようやく心象を捉えてきた、と少年は微笑う。
青年は迫り上がる衝動を抑えて少年を苦しげに睨む。
その先をほざいてみろ、と灰色に濁った瞳が告げている。
受けて少年はお望み通りとせせらった。
「オレたちは
どんな世界のカタチを視てるかまでは皆目見当もつかないが、ようは他人の内部を明け透けに見て取れるんだろう。
───ここでひとつ訊こう。
鏡。鏡面。光彩を反射するならなんでもいい。
比喩的な錯覚ではなく、歴とした現実にある物体として。
一度くらいは覗いたろう。
興味本位や好奇心に持ち上げられて。
気になった。
他人の深部に触れられるお前は、まず己の像を知らなかったから。
知りたいと思った心は自然だ。
だが──」
そうではない。
そうではなかった。
知りたいと願ったのは認めよう。
恐いもの見たさで覗き込んだ事も確かにあった。
一縷の望みに懸けて見つめ続けたことだって幾度も。
だが、そんな自発的に、翌る日も織り重なる日常のさりげない場面で、取り返しのつかない痛みを知ったわけではなかった。
「──────」
身体中そこかしこが張り裂けてしまいそうな重みを伴いながら、青年は苦し紛れに息を吐く。
幼い頃の心傷を思い出していた──。
「───自分の事は、何も見えなかったんだろう?」
その貫かんとする問いは一陣の風となり、青年を一寸だけ過去へ飛ばした。
あれは命芽吹く春の季節。
水色の朝。
自分の真っ白な手。
大きく見上げて。
幼い彼は、その無駄のない色彩が好きだった。
パチパチと黄色くほのかな火花を鳴らし、ざあざあと水色の波を何度も慌ただしく揺らして、ばくばくとたくさんの赤いサカナを泳がしていた母。
その母親に手を引かれて、大きな、それこそたくさんの色で汚れてしまった大人たちが目一杯仕立てに使うような鏡の前に、幼い彼は背筋を伸ばして生まれて初めて立たされた。
硝子は曇っていた。
幼い彼をすっぽりと覆い隠してしまうくらいに。
ただ奇妙にも、真っ新な幼稚園の制服だけが綺麗に切り取られていて。
ああ、鏡は意地悪なんだと、彼は幼心に思った。
いないんだ。いない。そこにぼくがいない──。
──大丈夫、怖くないよ、となぜか母が抱き締めてきた。
よく見ると、鏡には母親がきちんと写っていた。
……いいや、よく見ようとしなくともそんな事はわかっていたことで──わかっていたことだからこそ、決して打ちのめされようにと、その時の彼は改めて鏡を認識し直したのだ。
当たり前のように、鏡には母親が写っている。
時を経て身についていく常識よりも確かな現実だったろう。
いつも通りの鮮やかに彩色された母が膝立ちをして、幼い自分を慰めるよう心強く抱き締めている。
ただし、さっきと様子が違った。
肌の波は蒼く碧く凪いでいて、周囲に瞬く煌めきは地面に弾かれる小雨のようで、泳ぐサカナは群れとなって腕全体を覆うように寄り集まっている。黄緑色のそれらは、生き物を優しく包み込む草原のようだった。
背中は暖かい。
けれど、目の周りはどことなく冷たかった。
アイスが溶けているみたくひんやりとしていた。
ふと頬に指をあてがって、幼い彼はそこでようやく、自分が泣いている事に気が付いた。
……仲間ハズレな事に、気が付いてしまった。
自分のこの真っ白な手も、水色に濡れていればよかったのに……。
忘れたい傷。
忘れ去りたい過去。
それを、この少年は───。
「貴方はッ……──────!」
彼らを取り巻く空気が、僅かながらに震えた。
それは電流が導線を伝って、何処かへと向かっていく様を彷彿とさせた。
色づいていく──。
艶やかに伸びた黒髪を一本に纏めた少女。
その可憐に造形された人型が、白いシルエットに被る。
知っている。
青年はその姿形をとうの昔に知っていた。
待ち望んでいた者。
血眼になって探し求めた相手。
憧れの君。八年前からまったく衰えない完成形……。
「───気が変わった」
声色が可憐な少女のモノへと様変わりした。
しかし、口調は男装の麗人めいて堅い。
「いいよ、お前の望む通り堕ちてやる。ここで待っていろ」
……それっきりだった。
それっきりで少女の気配が霧散し、変貌はほんの一瞬にして終わった。
だらり、と少年が首を落とす。
凍りついていた空気が沈むよう次第に弛緩していく。
僅かに首をもたげながら、元の白いシルエットの少年が毒づく。
「……ったく、人使いが荒い」
「今のは──」
青年が茫然とした眼差しで囁いた。
それを上目に見遣りながら、少年は口を開きかける。
「ああ、今のはな」
「あぁあぁあぁあぁぁ、彼女だ!」
声が歓喜に弾け飛ぶ。壁や床やら天井やら、あらゆる方向へ反響し、ドップラー効果じみた音の波が少年の鼓膜に叩きつけられる。
まるで気持ちよく弾いたドラムみたい。
それほどのエネルギーが青年の喉から解放されたのだ。
「………」
もし少年の表情筋が正常であったのなら、きっと苦笑いを浮かべていたことだろう。
先程までの不機嫌は綺麗さっぱり消し去って──まるでそんなことも忘れて、再会に舞い上がっているのだから。
──これでは茶番だ、と少年は溜息を吐く。
もてなしの茶の用意こそできなかったが、予期せぬ客人を待たせるだけ待たせて、その相手をするのが自分にあてがわれていた役割のようだった。
青年は両の掌で眼球を覆い、思い出にでも浸るように頭を小刻みに震わせている。
再会を願って止まなかった彼女の影像を、眼球のみならず脳裏にも必死になって焼き付けようとしていた。
「やっと機会が訪れた。訪れてくれた! 待っていた。待っていたんだこの時を。ああ、名前はなんというのだろう。ずっと聞きそびれていたんだ。
───待って、貴方が答える必要はありません。彼女の綺麗な音から知る事にこそ価値があるのだから」
「……そうかい」
エレベーターの稼働する音が幽かに聴こえる。
いつもの音だ、と少年は思う。
それは外部から漏れ聞こえてくるのではなく、脳髄の何処かで響いている細胞の振動。
───魂に刻み付けられた傷の音。
三分と経たずこの部屋にやってくるのだろう。
今までに一度としてなかった不可解な遮断を骨身に感じながら、少年は誰にともなく小さく、とても小さく囁いた。
「いったい、何を見出したんだか……」
人生の中で類を見ないほどの興奮で神経を焼いている青年に、当然ながらその声は届かなかった。
青年が笑っている。
狂ったように口を開けている。
胸の底から溢れ出て止まない高揚に押し流されて笑い続けている。
──彼女にまた出逢えた。
それだけが、唯一彼に認識できている現実だった。
青年の気が収まった頃合いにて。
最後に、と青年は少年を見据えてこう問うた。
「今が良い機会でしょう。貴方のお名前は?」
「旧い自我に名は要らない」
「……そうですか」
ひどく淋しいというように、青年は少年に背を向けた。
「貴方個人の事は、結局何一つわからなかった」
くっくっ、と少年が可笑しげに喉を鳴らした。
「我に盲目、汝に多情。やっぱ皮肉で滑稽だ」
「それは、どういう──」
───ガチャリ。
木製の扉越しに、鍵の回る幽かな音がした。
ガタン、と鉄製の扉が無造作に閉まる。
「来た」
少年がわざわざ声に出して微笑う。
足音はしない。
果敢無い気配だけが速やかに近づいてくる。
その気配が一瞬だけ、扉の前で止まる。
そうして、至って一般的な木の扉が、相手を脅かすような小細工やおどろおどろしい演出、ましてや金具など並大抵の音一つもなく開かれた。
あまりにも普通すぎるくらいに、自分の部屋に上がり込む気軽さで、件の少女は現れた。
「───あぁ」
心臓の鼓動が痛い事を、青年はこの時初めて知った。
初恋を自覚する。
青年は八年前、間違いなくこの少女とすれ違った。
ヒトの形。
流動しない肌色。
無駄な装飾がない立ち姿。
作り物でありながら、本物より本物らしい生きた人間。
衝動的に手を伸ばして、思わず触れたくなる。
地に足をつけてこの身が現実にある事を、なによりも確認したくなる。
その雑多な感情を理性を以て飲み込んで、青年は大仰な優雅さに頭を垂らした。
「ご機嫌麗しく、如何なる幸よりも喜ばしい」
ふん、とつまらなげに可憐な少女は一蹴する。
「───行くぞ。ついてこい、
