Chapter Ⅵ 中編

 次の日の早朝。
 昨夜は案の定散々な目に遭い、すっきりとしない眠気が目蓋を押すなか、詠は家を出た。

 朝の澄んだ空気が肺に満ちる。まだ青に染まりきっていない淡い空は、立秋とあいまって、いっそう高く感じられた。

 停留所に着くと、程なくしてバスがやってきた。

 車内には僅かな乗客と、閑散とした朝の影。空いている適当な二人掛けの席に向かい、詠が着席して間も無く、バスは再びけたたましい音を立てて発進した。

 窮屈な軒並みが続き、次の停留所に何事もなく停車すると、今度は冥が乗車してきた。

 乗客たちの目線がわずか一瞬だけ、あえかな少女に集中する。
 詠のときとは大違い。
 とうの冥はその事に関心がないのか、それとも気がつきもしていないのか、詠の姿を見つけるなり、隣の席に腰を下ろした。

「おはよ、詠」
「ええ、おはよう」

 二人の挨拶は実に簡素なものだった。
 しかし、詠の返事にはあからさまに覇気がなく、冥はいつもより重たそうにしている瞳を覗き込んだ。

「やっぱり眠そう?」
「……まあ」
「昨日、すごかったものね」冥がこてんと首を傾げる。「……あれ、でも零時を過ぎてもあんな調子だったから、今日なのかな?」
「そこは昨日でいいです」
「飾璃たちって、いつもああなの?」

 と、冥に聞かれ、詠は苦笑気味に首を左右に振った。

 そんなわけないでしょ、と。

 昨夜はみことを主導に舞が乗っかる形でリモート尋問が敢行された。
 最終的には深夜とあいまった着地先不明の遊覧飛行じみたテンションのまま、恋愛占いに心理テストと食べ散らかし、夢を見る暇もなく目が覚めてみると朝を迎えていた。
 一年に数回あるかないかの、タイムスリップのような見事な寝落ちぶり。
 こんな調子が毎日のように続いていたら、それこそ人として真っ当な道は歩めまい。

 ただ、誰しも熱に浮かされたように夜話に溺れたい時があって、たまたま昨夜がその時だっただけ。

 詠がそんな風に釈明するも、

「ふーん、そういうものなんだ」

 当事者の一人であったはずの冥は、あくまで他人事のように呟くのだった。

 普段、人を寄せ付けない雰囲気を纏いながら、昨夜のグループ通話中では当たり障りなく溶け込んだ様子を窺わせたりと、冥の性格は改めて謎きわまる部分が多い。

 顔は一つしかないはずなのに、いま何処を向いているのか、時折見失ってしまう。
 そんな感覚に陥る。

 気まぐれと言われたらそれまでだが、詠は知らず知らず探るように、冥の横顔をじっと見つめていた。

 少なくとも今この瞬間に限るなら、目がぴたりと合った。

「────」
「…………」

 早朝のバス車内、無言で見つめ合う二人の絵は、さぞ時と場所を弁えていないように見えることだろう。

「そんなに私の顔見つめて、どうしたの?」

 冥に詰め寄られ、数拍遅れて、詠はどきりとした。

「ぁ───えっと……」

 咄嗟に冥から顔を離すと、微かに勢い余って、こつんとバスの内壁に肘をぶつけた。さらに羞恥心を煽る結果となったが、そんな詠の密かに荒れ狂う内心とは反面、冥の表情筋は至って平常運転。顔色一つ変えていない。

 ひとまず心を落ち着けようと、静かにゆっくり、呼吸を整えた。

「もしかして、私の顔になにかついてた?」

 唇の周りにちょこちょこと指をあてがう冥の仕草は、どこか喜劇めいて、微笑ましさを誘う。慌てた風でありながら、肝心の表情は眠たげなのだから、なおさらだ。

「ううん、そうじゃなくて」

 詠はとりあえず否定してみるが、そこで次の言葉に詰まった。

「ほら、昨日聞きそびれていたことがあって。舞たちとは、どういう流れで仲良くなったのかなとか。そんなこと考えてたの」
「ふーん?」

 先程の軽い相槌とは違い、冥はどうも納得し切れていない様子。
 今度は詠が探るような目を向けられるが、「まあいいや」と冥はあっさり引き下がった。

「仲良くなったとは、たぶん違うと思うけど──昨日の放課後にね、飾璃たちに校門前で捕まったんだよ。幹くんと詠との関係について聞きたいことがあるって。私、ほぼ部外者なのに」
「……それでついていったの?」
「最初は断ろうとしたの。でもスタバ奢ってくれるって言うから。私も答えられる範囲でいいならっていう条件付き」

 いい取引だった、と冥はしれっと付け足す。

 普通、そういう話を当人がいない場所でするものかな、と詠はやきもきしたが、ぐっと飲み込んだ。

「で、三人には何を言いふらしたんですか?」
「……詠、少し怒ってる?」
「いいから答えてください」
「……私が知ってることなんてそんなにないし。幹くんが詠のことをどう思ってそうか、当たり障りなくね」
「───はい?」

 詠の思考はそこで完全にフリーズした。
 あくまで私目線の印象だよ、と冥は言い訳するように小さく零したが、詠の耳には届いていなかった。

 門出幹が晴川詠のことをどう思っているか。

 改めて言葉にされると、ふいと胸を締め付けるものがあった。

「…………」

 改めて聞くまでもないことだ。答えならあの喫茶店の時にすでに出ているのだから。

 自分が友人関係を迫ったように、人のいい彼のことだから、その通りの関係性でいるよう努めてくれていたのだろう、と。今に振り返ってみれば、詠には彼のその不器用な優しさが次第に染み渡っていくようだった。

 きっとそれ以上でもそれ以下でもなく。
 友人関係以外の何者でもない。

 門出幹なら、また平静にそう断言してくれるに違いない。
 穏やかに柔和に、人の気をそっと傍で眺めるようにして。

「……どうせ」詠は俯きながら言う。

 冥がきょとんとした目で詠の顔色を窺う。

「幹さんのことだから。あくまで私のことは友人の一人だって、そう話してたんでしょう?」

 不思議でもない。だから取り乱す余地もないはずである。
 けれど。

「───私と詠って、友達?」
「……き、急に、何の話ですか?」
「いいから答えて」

 と、冥の今までに見たことのない真剣な眼差しで詰められ、詠はなぜか緊張を覚えた。

「……冥とは、友達です。そうありたいなとは思ってますから」
「私には、詠がそう思ってくれてるなんて知らなかった。ね、聞いてみないとわからないよ」
「えーっと……?」

 つまりどういう事だろう、と詠は戸惑いを覚える。

 繋がっているようで繋がっていない、あるいは繋がっていないようで繋がっている。どちらとも取れそうな奇妙な感覚。

 ──直接本人に聞け、とやんわり逸らされたのはなんとなくわかる。

 しかし、冥はそれ以上の事を何も口にはしない。会話に区切りがついたと勝手に思っているようだ。あまりに掴みどころがなく、詠は思わず頬を引き攣らせた。

「…………」

 詠が一息つくように窓の景色へと目を向けると、バスはすでに住宅地を抜け、空には高く遠く、千切れた綿のような絹雲が徐ろに並走していた。

 幹とはいまいち距離が離れている現状、それと同じくらい時を置くしかないのだろう。だから、いまは当面の問題と向き合うほかない。

「修学旅行、楽しみだね」

 冥はやはり感情の読み切れない平坦な声音でそう零すのだった。
 

 教室に着くと、ちょうど舞が席に着くところだった。向こうも詠たちの到着に気がつき、ひらひらと上品な所作で手を振っていた。

 ふたり揃って舞のもとへと足を向ける。詠が先頭を行き、少し後ろを冥が着いていく。

 昨日までとは違い、冥が詠のそばを唐突に離れることはなくなった。
 この少女の中で一体どういう心境の変化が起きたのか。
 その辺は依然として詠には窺い知れない。
 それでも、物事が着実に良い方向へと傾き出していることを、詠は洞窟の陰で祈るように想うのだった。
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