Chapter Ⅵ 中編
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放課後は図書委員の活動があり、舞たちとは教室で別れた。今頃スタバの新作とやらを楽しんでいるであろう三人を想うと、詠はつい窓の景色を気にしてしまう。
午後四時を回る空模様は、橙色の雲と青空のコントラストが鮮やかだった。
あれから結局、根掘り葉掘りと訊かれる前に昼休みが終わり、図書委員の活動を盾にさらなる追求は避けられたが、焼け石に水だろう。
今夜には、記者会見という名の悪ふざけ、もとい夜通しの尋問の宴が粛々と開催されるに違いない。
ひと様の色恋沙汰にはなにかと囃し立てるのが思春期の困った生態だ。
だから、今頃はその会議で持ちきりなのだろうと。
図書室は静謐だ。閑散としていて、席側からのページを捲る音が細々と聴こえてくるのみ。利用者は冬場を除いてごく僅かであり、本日も暇を持て余す通常運行だ。
「や、退屈極まりなしだね」
詠がそうやって物思いに耽ていると、貸し出しカウンターの整理を終え、眼鏡を掛けた背が高めの女子生徒が受付のカウンターに寄りかかった。肘を支えに右上腕を寝かし、気安く話しかけてくる様は、行きつけのバーに顔を見せにきた常連客さながらだ。
声量は控えめながら、抑揚のある響きが瞭然と耳に入りやすい。
彼女は詠の一つ上の先輩。名前を
図書委員会の副委員長であり、また演劇部の部長でもある。
どちらも十一月には三年生の活動が終わるので、現在彼女は跡継ぎの選別の最中のはずであるが、詠の目には、彼女の態度はかなり悠長に映った。
さすが最上級生の余裕という事だろうか。
詠はそう思い、軽い世間話程度に問いかけてみると、
「次の副委員長はもう当てがついてるんだ。問題は演劇部のほう。でもそっちは図書委員の活動とは関係がない。晴川くんには私が余裕綽々に見えたようだけど、単にそう見せかけているだけでね。本当はこれでも焦ってるんだよ」
それはそれで、そんな言葉とは裏腹にどことなく大人としての余裕が見え隠れし、一歩引いたような冷静さを感じさせる答えが返ってきた。ゆったりとした姿勢も、折上の落ち着いた雰囲気を助長させていた。
「でも、ちょっと憧れちゃいます。私も、折上先輩のように堂々と振る舞えたらって……きっと無理でしょうけど」
「そう断言するものじゃないよ。その辺は慣れなんだから。立場が人を変えるとよく言われるくらいにはね」
しかし、立場の違いだけで折上のようにあれたなら苦労はしないだろう。
詠はそう思い、問い返した。
「そうだね。私の場合だと、片付かない面倒事はひとまず脇に避けておくって方針もあるし。所構わず考え事が過ぎると、人なんて簡単に潰れてしまうものだよ」
これは少しカッコつけかな、と折上が照れ隠しに笑う。
つまり状況に応じて素早く思考を切り替え、無駄を避けている。
物事のバランスを取るよう常に心がけているということだろう。
聞くは易し、行うは難しの典型例だ。
そこまで器用な真似はできないと詠は率直に思った。
その基盤はどこから生じたものなのか。詠は不意に気になった。門出幹と出会う以前ならば、きっと引っかかりもせず、ぼぅと見過ごしていた好奇心。
「折上先輩って、昔からそうなんですか?」
「……うーん」
と、折上は首を沈ませるように曲げ、天井の角を見上げた後、若干考え込むように間を置いた。
「昔からそうだったのかは定かではないけど……まあ、自覚し出したのは、暁月先輩と会ってからだと思うよ」
暁月先輩とは、冥の実の兄である暁月皐の事だろう。詠も名前くらいなら知っているし、その姿もときおり廊下で見かける機会はあった。
彼の見た目から受ける印象さえ、噂と違わなかったと記憶している。
曰く、万能の秀才。
あらゆる課程をほぼ完璧に熟し、成績は常に学年トップを維持。
おおよそ万人が思い描くような理想の優等生だったという……。
後者の評判の是非はともかく、成績トップは記録として明確に残っているので、疑う余地はない。
折上の話では、彼は卒業後に上京して、今はこの街にいないのだという。
なんでそんな事まで知っているのかと詠が問うと、今でも連絡を取り合っているからと返された。
そのあまりの端的さに、ついツッコミどころを見失うほどだ。
だから、情緒に不慣れな少女は流してしまう。
今も連絡を取り合っていると聞いたとき、胸にもやっとした感触が走ったことなど。
「…………」
そういえば、詠は以前、本人の口からこんなことを聞かされたことがあった。冥もまた家を出て、親戚のもとで暮らしているとか。
もしそれが今も続いているのなら、二人の実家には両親だけが暮らしているのだろうか。
なんとも冷え切った家庭事情が垣間見えるようだが、そればかりは杞憂に過ぎないでしょうと、そこで思考を打ち切った。
「暁月先輩は私の憧れだった。今でもそうだ。一々影響を受けやすい自分に嫌気が差していた頃は、あの人の背中ばかりを追いかけていた。今思えばそれこそ矛盾じみているが、どうしても、目で追わずにはいられなかったんだ。私にはない何かを持っている気がしてね」
その気持ちはわかる、と詠は共感を覚える。門出幹に対して寄せていた期待は、折上の言う憧れと根底は共通しているように思えたから。
すると、折上は悪戯を仕掛けるようにわざとらしく口角を上げた。
「それでね、一度、彼に告白したんだ」
「……わぁ」
なんだい、その反応は、と折上がくすりと笑みをこぼす。
詠はそんな取りこぼしを拾い上げるようにして、心持ち前のめりになった。
「こ、告白…したんですか?」
その躊躇い気味な問いかけは細く、対する折上はうんと屈託なく頷いた。
「でも、きっぱり振られてしまった」
そして、ことさら何でもない事のようにその結末を口にするのだった。
「告白するのに、二年もかかったんだけどね──」
去年、いや下手したら、今年の話のようだった。
そう嘯く折上の目尻を緩ませた表情は、茫洋寂々と夕空に漂う茜雲を探しているようにも、ただ目の前の校舎の窓枠を捉えているようにも、どちらとも取れた。
詠もそれに倣うよう、整列する書棚に目を馳せる。
もう夏と秋の境目にあたる時節。
残照の曖昧な影が風景だけでなく内奥さえも暈しているのかもしれなかった。
本日の図書委員の活動も、期せずして親しい先輩の失恋話を聞く機会に出会しながら、滞りなく終えられた。図書室の戸締まりと鍵を職員室に返却し、途中まで、詠は折上と行動を共にした。
校舎内、特に詠たちが歩く一階のひと気は少ない。
別棟に続く渡り廊下のほうから、楽器の演奏が響いている。修学旅行が直近に控えている二年生とは違い、一年や三年の生徒は二ヶ月後の文化祭の話題で今ごろ持ち切りだろう。
夕暮れ時の深い橙色が、靴箱前をくっきりと照らしている。
一日の終わりは何事も寂しさを仄めかすもの。
それは一過のパレードにも通ずるように。
靴箱前の廊下に着くと、折上がそこで足を止めた。
「今日もお疲れさま。私は演劇部に顔を出すから、ここでお別れだ」
「はい。折上先輩も、お疲れさまでした」
うん、と満足そうに頷く折上。
「ところで晴川くん、演劇に興味はある?」
「……その、勧誘なら、この時期だと流石に」
「ああいや、そういうんじゃないんだ。私だってそこまで節操なしではないよ。ほら、十一月に文化祭があるでしょう?」
知らず首を傾げる詠。
折上が指さした先には、多くの掲示物がざっくばらんに貼られていて、その中には文化祭に関わる貼り紙もあった。色彩豊かで、クラッカーが弾けるような、アニメ調のイラスト。
「その日が私の最後の晴れ舞台になる。……まぁ、これも何かの縁ということでね。今日は君に私の弱みを晒してしまったし、見届け人の一役を担ってもらいたいと、ふと思いついたんだ。大仰に聞こえてしまうかもしれないが、ようは私の劇の観客になってほしいわけだね」
「それは、構いませんけど……」
そんな改まってお願いするほどの事なのだろうかと、失礼は承知の上で、詠は首を傾げっぱなしでいる。
「でも劇って、何をやるんですか?」
続けざまに詠が無粋とも取れる問いを重ねるが、折上は来たかと言わんばかりにより一層笑みを深くした。
「───それは、当日までのお楽しみ」
バスの車内は普段と変わらず、腰を曲げるほどの老齢の方ばかりを乗せ、がらりと寂しげだった。
クリーンな再開発を謳う白亜の街並みは、夕暮れによる鼠色の影をその身に下ろしている。真っ平らな土地が目立つのは、区画整理の途中のためだろう。
変わりつつある地方都市の一角を横目に、市バスは次第に昔ながらの凸凹とした住宅地へと足を踏み入れる。
曲がりくねった坂道を登ったり降ったり。
狭い道では、都度譲り合いの精神が車間を行き交う。二階建ての暗い色合いをした下駄履きマンション一階のパン屋前のバス停付近や、その先の垂直な曲がり角のある坂道ではよく出会しがちな光景だった。
詠は鞄の中からスマホを取り出し、電源を入れた。
途端、昼休みからここまでに放置された通知の数々がロック画面を埋め尽くした。
大体が使えずじまいに過ぎるクーポンとサブスクなどのドラマの宣伝だ。
その中に、雲雀や飾璃からの通知を見つける。
詠の伯母にあたる雲雀は、普段は家にこもりきりなのだが、ここ数日は忙しそうにしており、今日も帰りが遅くなるから自分で作って食べておいて、という旨の内容。
「明日のお弁当も楽しみにしてる、って……」
詠は思わず苦笑する。
基本は余り物と冷凍食品の合わせ技。
あっちもそれくらいはわかっているだろうに。
皮肉を言われているのかと邪推したくもなるが、了解と敬礼するピンクのうさぎのスタンプを送ることで、ひとまず不問とした。
飾璃からの通知は、どうも新しいグループの誘いのようだった。
グループ名は、“修学旅行”という四文字がまず目につく。
詠はまたなんでと疑問に思いつつ、内容を確認した。
現在の参加人数は四人。
飾璃、みこと、舞はいつもの面々として、最後の参加者にぴたりと目が釘付けになる。
「……どういう流れですか」
暁月冥。アイコンが初期設定のままほったらかしにされた名前欄には、そんな文字列が無味に並んでいた。
心配事はおおよそ白紙となり、どうも自分の与り知らないところで事が進んでいくらしい。ちょっと面白くないという思いと肩の荷が降りた安堵感が、詠の胸中でせめぎ合った。
「これもやっぱり、今まで意識してこなかっただけ…だったりするのかな」
坂道にバスが傾く。
迷える少女のか弱な声は、唸りをあげるバスの振動にあえなく掻き消された。
◇
